恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

「格差」の拡大と「国政」の使命

2006年02月06日 | 社会保障・税制
昨日の朝、テレビでNHKの日曜討論を見ていました。
後段の各党若手議員による討論のテーマは、最近ようやく目が向けられてきた「格差社会」の問題についてでした。
「就学支援を受けているお子さん達が7割という地域もある」と、社民党の辻元清美氏が語っていました。驚くべき数字です。
「就学支援」は「修学支援」とも書きますが、子どもを学校に通わせるのに必要な、給食費や教材費、修学旅行などへの補助のことです。
こうした支援を受けなければ、学校にさえ通えない児童・生徒が、ここまで増えているというのです。
しばらく前に、あるラジオで支援を受けている小中学校の全国平均として、13%という数字が上がっていました。およそ8人に1人です。
40人学級で言えば、1クラスに5名、そういう児童・生徒がいることになります。
私は数年前から、小学生が「勝ち組」「負け組」という言葉を使いはじめ、親のリストラ・失業が「いじめ」の原因になっていると聞きました。
本当につらい思いをしている子どもたちが多くいるのではないか、と心が痛んでなりません。


何の罪も無い子ども達までもが「格差」という問題に苦しめられている現状に対して、自民党の石原伸晃氏は「競争は正しい。これで経済が良くなった。」と小泉改革を持ち上げた上で、いわゆる「セーフティネット」に関して次のように言い放ちました。

「『施し』の政治、『施し』の時代に戻すべきではない。」

私はその言葉に驚きました。国民から集めた税金を、予算を組んで事業を行なうことを「施し」だと言うのですから、驚くなと言う方が無理です。

これと似た話を、私は別の自民党議員からも聞いたことがあります。
医療・年金・介護を改悪した後、彼はこう言っていました。

「いろいろ批判はあるが、やはり国民の皆さんも、何でも国に頼ろうとするのは間違いだと気付かなくてはダメだ。」

そのときも私は驚きました。
医療・年金・介護に使われる金というのは、国民が納めた税金であり、国民が負担してきた保険料です。
それを集めるだけ集め、支払う段になって、「国に頼るな」というのですから、これほどいい加減な話はないと思いました。
国民から集めた税や保険料、そして「国政」を、自分達のものだと思い込んでいるとしか思えません。

日本国憲法前文には「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」とあります。
つまり、「国政」は国民のためにあるということです。憲法ではさらにこれを「人類普遍の原理」としているのです。
しかし自民党の改憲案では、この条項がばっさりと削られています。
国民側の発想ではなく、明らかに「国家主義的発想」に基づくものと言わざるを得ません。


話を「格差」に戻します。
よく言われるものとして、完全失業者約300万人、パート・アルバイトなど非正規雇用1650万人という数字があります。
日本の労働力人口は約6000万人ですから、約3分の1が、こうした低所得・不安定な身分に置かれていることになります。
とりわけ正規雇用が減り、非正規雇用が増えたことで、1世帯あたりの収入は8年連続で落ち込み、生活保護基準以下と言われる年収200万円以下の世帯が18%にものぼっています。
与党の人々は、「そうしたことは政治の責任ではない」と逃げますが、私は違うと思います。
輸出産業の「競争力」のためとして、政府が、人員と人件費の削減を推奨してきたからに他なりません。
小泉政権下で行なわれてきた中には、解雇要件の緩和、有期雇用延長、派遣業種の拡大など、失業・非正規雇用化を積極的に促進させる施策もありましたし、数々の改悪で国民に負担増を強いてきました。
不良債権処理の過程にあっては、求められていた「セーフティネット」の整備などを全く行なわず、多くの国民を路頭に迷わせました。
与党の人々が言うのとは全く逆で、政治の責任は極めて重大だと言わねばなりません。

さらに今後、定率減税の全廃・消費税率引上げなどの増税策が進められれば、本当に国民生活はズタズタにされてしまいます。
自民党がさんざん税や保険料を私物化し、政治献金をくれる企業にばらまいて、積み重ねてきた借金を「『施し』の政治に戻らない」「国に頼るな」と言って国民に押し付けようとするのですから、国民を馬鹿にするにも程があります。


かと言って借金を増やし続けさせる訳にはいきません。5年近くの小泉政権下で、借金は新たに200兆円も増やされています。
私は発想の転換が必要だと思います。
税収を上げる方法には、自民党のように国民からさらに税金を毟り取るというものだけではなく、もう一つあります。
それは国民の所得を上げることです。
例えば、最低賃金法を改定し、現在6百数十円の最低時給基準を2倍にしたとしましょう。
労働力人口の3割まで拡大した非正規雇用の方々の、所得の底上げができます。
仮に時給1300円とし、1ヵ月150時間パートで働いたとして、月収19万5千円、年収234万円で、何とか一人でであれば生活できる額になります。
それでも、この年収では生活するのがやっとですから、この増加分のほとんどは消費に使われます。
冷え切っていた個人消費が上がれば、国内経済に与える影響はご想像がつくでしょう。
所得税も若干ですが、税収増を見込めますし、消費が増えるのですから消費税率を上げなくても税収は増えます。
政府が求める「自助努力」で生活できるようになりますから、長い間増えつづけ、100万件を突破したという生活保護も、その増加を食い止めることができるでしょうし、その分、歳出を抑えることができます。
つまり、国民生活を向上させ、国内経済を活性化させながら、税収を増やすことができるようになります。そして何より、子どもたちが学校に通えるようになります。

親の経済的理由から、学校を辞めなければならない子どもたちが増えています。時給が上がれば、アルバイトをして家計を支える高校生・大学生も勉強できる時間が増えます。
日本国憲法第26条は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と定めています。
「能力」ではなく、「親の財産の多寡」によって「教育を受ける権利」を奪われるなど、あってはならないことです。
小泉首相は先日の国会答弁で、「格差」が開いていることについて「頑張れば報われる」「悪いとは思わない」と開き直りましたが、「金を得た側」しか見ていないからこそ、そのようなことが言えるのだと思います。
「頑張れば報われる」と言いながら、子どもたちから「頑張る機会」「頑張る時間」さえ奪っているのは、彼らではありませんか。
「何とか生活できるように」「子どもを学校に通わせることができるように」こうした願いは決して「贅沢な悩み」ではないはずです。
このような当然の願いを実現することこそ、本来の「国政」の使命ではないでしょうか。