まぬ家ごめ助

姓はまぬけ、名はごめすけ、合わせて、「まぬ家ごめ助」と申します。どうぞお見知りおきを。

Uさんの涙

2016-07-01 11:39:15 | 日記
この作文は、「ことり」(著者=小川洋子)の読書感想文で、かつ、伯父さんと伯母さんへのラブレターでもあります。

(1)あらゆる生き物が「哲学」をしているのではないか
(2)「言語」の可能性と限界はどこにあるのか
(3)自由であることと、捕らわれていることの境界線は、どこにあるのだろうか

私が「あひる哲学」に夢中になっていた頃、これらの問いを、ぼんやりと、しかしながら、よく考えていた、ような気がしています。というのは、当時は、ウィトゲンシュタインに関する著作に夢中になっていたのです。そうして今も昔も、ウィトゲンシュタインの「論理」については、さっぱりわからないままなのですが、彼がどのような経緯を辿って、独自の思考と続けたのか、という点についてだけは、なんとなくわかったようなつもりになっています。そうして、今もなお、この問題意識こそが真っ当な筋道ではなかろうか、とも思っています。

例えば、広辞苑の中に含まれている「哲学」という単語の意味は、正解のひとつであることには違いないのでしょうけれども、おそらくその概念は、個々によって微妙に異なるはずです。そうして、「わかる」ことと、「わからない」ことの境界線もまた、非常に曖昧で、つまり、個人差があるにも関わらず、会話や、音楽や、様々なコミュニケーションの中で、時に確信を抱くことだってあるわけですから、なんとも不思議だと思うのです。お互いが共通の言語を有していない場合は、なおさらです。

(1)の問いについてのヒント?を、小川さんは、例えばこんな風に書き記しています。

「うん。小鳥は僕たちが忘れてしまった言葉を喋っているだけだ」
お兄さんは孤児院のフェンスにもたれ掛かり、驚きもせずに鳥小屋を見つめていた。
「だから僕たちより、ずっと賢い」


(2)

「さあご飯だ」
ご飯、このポーポー語をメジロは一番に覚えた。ラジオからどんなに賑やかな音楽が流れていようと、庭でどれほどたくさんの野鳥たちがさえずっていようと、そのひと言に秘められた魅力的な響きを、メジロは決して聞き逃さなかった。


(3)

そこに腰かけ、小父さんは『ミチル商会 八十年史』を読んだ。思いがけずそれは面白い読み物だった。表紙をめくった一ページめ、次のような巻頭言が掲げられていた。〝鳥籠は小鳥を閉じ込めるための籠ではありません。小鳥に相応しい小さな自由を与えるための籠です〟

さて。

Uさんは、おそらく伯母さんよりも一回りくらい年下のご婦人なのですが、先日本当に思いがけず、彼女がほろほろと涙を流しているのを見て、そしてその涙の理由を聞くにつけ、なんとも言えない罪悪感を感じました。直接の原因が私だけにあったわけではなかったとしても、その一端が私にもあったのことには違いありません。というのも、私は彼女に対して、偉そうにお説教じみたことを口にすることが何度かあったのです。ただ私は、それらの振る舞いについて、大いに反省はしているものの、もしかしたら別の方法で、今後も少しは何か彼女の役に立てるように、と、余計な口出しをすることがあるかもしれません・・・。

例えば、変化を求めるのを好む人、安定を求めるのを好む人。もしかしたら人だけでなく、あらゆる生き物たちが、それぞれの性癖を持ち合わせているのでしょう。何が幸せで何が不幸せなのかは、個々の価値観によって異なるのでしょう。そうしてまた、何らかの出会いで変化することもあるでしょう。ときめきと失望はセットになっているのだから、流れに身を委ねる、という生き方もあることでしょう。

時には、外圧で否が応でも変化せざるを得ないこともありますが、そんな時でさえ、明るく楽しそうに生きているような人が、私は好きだなぁ。

次の水曜日、食卓の上にポーポーはなかった。
「小鳥のブローチは愛の歌をうたえなかった」
と、お兄さんは言った。誰に向かってというのでもなく、ただ言葉を宙に浮かべるようにして、小声で言った。
「そういう小鳥もいる。小屋の片隅で、いつまでも歌えないままでいる小鳥」



「Songbird」Fleetwood Mac

♪ I wish you all the love in the world, But most of all, I wish it from myself ♪

ありとあらゆる音楽の中で、この曲がいちばん好きなのだと、そう断言してから、もう随分と長い年月が経ちますが、どうやらその想いは不変のようです。
コメント    この記事についてブログを書く
« 「幸村」 | トップ | 予告編 »

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事