まぬ家ごめ助

姓はまぬけ、名はごめすけ、合わせて、「まぬ家ごめ助」と申します。どうぞお見知りおきを。

「さぶ」

2013-04-12 14:23:27 | 日記
「さぶ」を再読しました。

山本周五郎の小説です。

やるべきことが山積みになっているのに、読み続けていました。


同僚にからかわれました。

「ごめ助さん、そっち系なの?」

「勘弁して下さいよ(笑)」

でも、別に傷つきもしないし、むしろ、そんな風にはっきりと言ってくれた方が気が楽です。

影でこそこそと言われていたら、たまりませんし。

それに彼は、私がそっち系ではないことを知っています。

ともあれ、今の私には、昔のような偏見があまりありません。

オバマ大統領が同性婚を支持したそうですが、私はそれに喝采をおくっています。

な~んて、特に若い人たちは、何を言っているのかさっぱりわからないことでしょう。

そういう方は、試しに「さぶ」検索をしてみて下さい。


さて、どうして今頃「さぶ」を再読しているのかというと、<女衒の六>の存在が気になっていたからです。

ちなみに、前に読んだのは学生時代なので、それこそ20年以上ぶりに読んでいるわけですが、やはり、<女衒の六>もような存在こそが、山本周五郎の世界に深みを与え、その世界の礎となっているのだと思いました。

<女衒の六はなぜそんなことをした、と栄二は思っていた。六は避難する船には乗ったが、船からおりるとき、縄細工をする老人が海へ落ち、それを救おうとしてとび込んだ。そして老人といっしょに溺れ死んだ、というのである。・・・「人間ってやつはおかしなもんだ」栄二は独り言のように呟いた、「まったくおかしなもんだ、わけがわからねえ」「それはどういうこと」「お前には関係のねえ話さ」と云って、栄二は感情のない眼つきでおすえを見た>

勧善懲悪なんて、クソ食らえ!なのです。

むろん、そういう世界に浸ることが悪いとは言っていません。

現実は醜く、汚れている、だからこそ、そういう世界を求め、夢見ることを、誰も否定出来ないじゃないですか。

でも、少なくとも今の私は、例えば「クラッシュ」という映画がそうであったように、善人もいなければ悪人もいない、そういう世界の方が、しっくりくるのです。

それはまるで、栄二がその挟間で揺れていたように。


この世は、不可解だからこそ、生きるに値するのだと思います。

悟ることのできない凡人は、そのように生きるしかないのだと思います。

再読して思いました。

「さぶ」のこの物語は、やっぱり、脇役こそが素晴らしい。

例えば、<こぶの清七>の存在。

<だが、それが人間というものかもしれない、と栄二は自分に云った。よせと云っても、やってみろと云っても、清七の気持ちを変えることはできないだろう。おれがなんと云っても、清七は自分のしたいようにするに違いない。この世で生きてゆくということは、損得勘定じゃあない。短い一生なんだ、自分の生きたいように生きるほうがいい、しっかりやってくれ清さん。

山本周五郎ほどの人であれば、<女衒の六>や<こぶの清七>が主人公の物語をつくることもまた、造作ないことでしょう。

「さぶ」における語り部は栄二ですが、主人公はさぶであり、おすえであり、そしてまた、私であり、あなたなのです。


離婚してよかったと思います。

それはまるで、石川島の人足寄場<もっこ部屋>に送られた栄二のように、そう思います。

私は何も変わりませんし、変わりようもありませんが、少しは、ほんの少しは、前よりもマシな人間になったのかな。

ま、相変わらず心は荒んだままですが(笑)
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