極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

秋の夜長に乾杯

2013年09月29日 | 日々草々

 

 

 

loc: 34.644667,135.868444

【日本酒で乾杯の日】



 

 

       味酒(うまさけ)の三輪の斎(いは)ひの山照す秋の紅葉散らまく惜しも     長屋王

       価なき宝といふとも一杯の濁れる酒にあにまさめやも               大友旅人


 


長屋王(ながやのおおきみ:684年~729年)は、奈良時代の皇族で、皇親勢力の巨頭として政界の重鎮とな
ったが対立する藤原氏の陰謀といわれる長屋王の変で自害している。その彼が、万葉集で「三輪山の大神神
社の山を照らしている秋の紅葉の散ってしまうのは惜しいことだ」と詠んだ一首。なお、味酒は三輪の枕詞
であり、斎は神を祭る所。味酒とは、神に供える美酒や、それを醸造する瓶(かめ)を「みわ」というところ
から酒蔵の所在を意味する。彼が生きた奈良初期は、周の時代の中国で開発された麹による酒造りを百済か
ら帰化した“須須許里”(すすこり)が伝承したと古事記に記されており、この麹が、“加無太知”(かむ

たち)と呼ばれ、これにより米麹による醸造法が普及するようになる。律令制度が確立され、造酒司(さけ
のつかさ)という役所が設けられ、朝廷のための酒の醸造体制が整えられ、酒造技術が一段と進んでいった
ところだから、この歌はいまふうに解釈すれば、時代の先端を表現した“ハイカラ”な一首だとも解せる。

大伴旅人(おおとものたびと:665年~731年)は、奈良時代初期の貴族、歌人。大納言・大伴安麻呂の子。
官位は従二位・大納言。『万葉集』に和歌作品が78首選出されているが、和歌の多くは大宰帥任官以後のも
のである。酒を讃むるの歌十三首を詠んでおり、酒をこよなく愛した人物として知られる。『新古今和歌集
』(1首)以下の勅撰和歌集に13首が入集。漢詩集『懐風藻』に漢詩作品が採録されている。この歌の意は
「値がつけられないほど高価な無価宝珠も一杯の濁り酒に勝ることなどあろうか」。

 

 

「清酒発祥の地」を称する兵庫県伊丹市と奈良市が、日本酒での乾杯を奨励する条例の制定を目指している
という。伊丹市は六百年頃、地元の商家が最初に清酒を生み出したとして26日に条例を可決。この1世紀以
上前に造ったとする奈良市は25日、市議会に乾杯奨励の条例案が提案され、11月に審議入り。条例案はいず
れも発祥地とうたい論争が過熱しそうだと。伊丹市によると、豪商・鴻池家の始祖にあたる山中幸元が、誤
って濁り酒のたるに灰の入ったざるを落とすと酒が澄んだという。これが清酒の誕生といい、江戸で評判を
集め、鴻池家繁栄の基礎になったという。 同市鴻池の公園には、由来を刻んだ1784年建立の石碑が残り、
この15年後に発行された「日本山海名産図会」で「伊丹は日本上酒の始(はじめ)とも言うべし」と紹介。市
は二千年、同所に「清酒発祥の地」の石碑を建てた。一方、奈良県酒造組合によると、15世紀半ばには、正
暦寺(奈良市)で、こうじと蒸し米の両方に精白米を使い、透明度の高い酒が完成。県内の蔵元なども二千
年、同寺に「日本清酒発祥之地」の石碑を建立した。日本酒での乾杯条例は、日本酒で乾杯する習慣を定着
させ、低迷する消費の拡大を目指す。日本酒造組合中央会によると、25日現在、佐賀県や京都市、兵庫県西
宮市、福島県南会津町など計12自治体が可決しているとか。



伊丹市観光物産協会の公式ホームページをみると「清酒発祥の地は、伊丹であるといわれています。戦国時
代、尼子十勇士の一人山中鹿乃助の長男新衛門が天正7年(1579年)豊臣秀吉の大軍の攻撃を逃れて伊丹の鴻
池に落ちのびここに住みついて酒造りをはじめました。のちに、鴻池姓を名乗り大富豪の祖となりましたが、
ある日のこと、灰を入れたざるを誤って酒の中に落としたのが澄みきった酒となり、味もよくなったことか
ら清酒が誕生したと言い伝えられています。それ以降、清酒伊丹の名が全国津々浦々にとどろくようになり
ました」と由来を説明している。これに対し、菩提山真言宗 大本山 正暦寺の公式ホームページでは「本来、
寺院での酒造りは禁止されていましたが、神仏習合の形態をとる中で、鎮守や天部の仏へ献上するお酒とし
て、荘園からあがる米を用いて寺院で自家製造されていました。このように荘園で造られた米から僧侶が醸
造するお酒を「僧坊酒」と呼んでいます。正暦寺は創建当初は86坊、多い時には120坊を抱え、大量の「僧坊
酒」を作る筆頭格の大寺院でありました。当時の正暦寺では、仕込みを3回に分けて行う「三段仕込み」や

麹と掛米の両方に白米を使用する「諸白もろはく造り」、酒母の原型である「菩提酛ぼだいもと造り」、さ
らには腐敗を防ぐための火入れ作業行うなど、近代醸造法の基礎となる酒造技術が確立されていました。こ
れらの酒造技術は室町時代を代表する革新的酒造法として、室町時代の古文書『御酒之日記』や江戸時代初
期の『童蒙酒造記』にも記されています。このように正暦寺での酒造技術は非常に高く、天下第一と評され
る「南都諸白なんともろはく」に受け継がれました。そしてこの「諸白」こそが、現代において行われてい
る清酒製法の祖とされています。このことから、現在の清酒造りの原点を正暦寺に求めることができます」
と紹介されている。

 

ところで、日本酒のルーツをたどると、三世紀に書かれた『魏志東夷伝』(ぎしとういでん)の中に<喪主泣シ、
他人就ヒテ歌舞飲酒ス><父子男女別無シ、人性酒ヲ嗜ム>といった酒に関係する記述を見つけることがで
きるとか、ただしそれが米の酒なのか、また、液体かかゆ状のものか、他の穀類、果実から造られた酒なの
かは不明という。酒が米を主体として造られるようになったのは、縄文時代以降、弥生時代にかけて水稲農
耕が渡来定着後で、西日本の九州、近畿での酒造りがその起源と考えられている。この頃は、加熱した穀物
を口でよく噛み、唾液の酵素(ジアスターゼ)で糖化、野生酵母によって発酵させる「口噛み」という、最
も原始的な方法を用いていた。酒を造ることを「醸す」と言い、この語源は「噛む」によるといわれている

この「口噛み」の酒は『大隅国風土記』等に明記され、「口噛み」の作業を行うのは巫女に限られており、
酒造りの仕事の原点は女性にあるという。大和時代には、徐々に国内に広まっていった酒造りは、『古事記』
『日本書紀』『万葉集』『風土記』などの文献に見られるようになる。「サケ」という呼称はなく、「キ」
「ミキ」「ミワ」「クシ」などとさまざまな呼ばれ方をされていた。島根県の出雲地方に「八塩折の酒」(
やしおりのさけ)の逸話が残っている。ヤマタノイロチを退治する際にスサノオノミコトが、オロチを酔わ
せて退治したという酒で「何度も何度もくりかえし醸造した良い(濃)酒」という。「神々の酒」「天皇の
酒」の時代であり、また古代の酒は食物的な要素が強く、固体に近い液体を箸で食べていという。

 

        飲むなと叱り叱りながら母がつぐ うす暗き部屋の夜の酒のいろ         若山牧水



若山牧水(わかやま ぼくすい:1885年8月24日~ 1928年9月17日)は、戦前日本の歌人。旅を愛し、旅に
って各所で歌を詠み、日本各地に歌碑がある。大の酒好きで、一日一升程度の酒を呑んでいたといい、死

大きな要因となったのは肝硬変。また、夏の暑い盛りに死亡したのにもかかわらず、死後しばらく経って

死体から腐臭がしなかったため、「生きたままアルコール漬けになったのでは」と、医師を驚嘆させた、

の逸話がある。自然を愛し、特に終焉の地となった沼津では千本松原や富士山を愛し、千本松原保存運動

起こしたり富士の歌を多く残すなど、自然主義文学としての短歌を推進したといわれる。その中から選んだ
上の一首。これは実際の日常の光景を歌ったのか、日常の光景を再構成して歌ったのかわからないが、この
歌を詠んで、さだなみ苑にいる母を思い出し、しばらく遠ざかった距離を縮めなければと明日の予定に入れ
させるとになる。さて、漢詩にも日本酒ではないが、味酒(うまさけ)を詠む歌も多いがその中から曹操の
「短歌行」を選ぶ。


     
              對酒當歌  酒に對して当に歌ふべし
              人生幾何  人生幾何ぞ
              譬如朝露  讐(たと)ゆるに朝露の如し
              去日苦多  去る日は苦だ多し
              慨當以慷  慨して当に以て慷すべし
              幽思難忘  幽思 忘れ難し
              何以解憂  何を以てか憂ひを解かん
              惟有杜康  惟た杜康有るのみ

     

曹操(そうそう:155年~220年)は、中国後漢末の武将、政治家。詩人、兵法家としても業績を残した。字
は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞また吉利。沛国譙県(現在の安徽省亳州市。また河南省永城市という説も
ある)の人。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏
の武帝、魏武とも呼ばれる。彼は「槊を横たえて詩を賦す」と後世に言われたように、政治・軍事に多忙な
中、多くの文人たちを配下に集めて文学を奨励すると同時に、自身もすぐれた詩人であったという。建安文
学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。曹操は軍隊を率いること30数年
間、昼は軍略を考え、夜は経書の勉強に励み、高所に登れば詩を作り、詩ができると管弦にのせ音楽の歌詞
にしたという。その記述の通り、現存する曹操の詩は、いずれも楽府という音楽の伴奏を伴った歌詞であり、
代表的な作品として『文選』27巻 樂府上 樂府二首に収録されたこの「短歌行」が有名であり、その意味は
「酒を前にしたらとことん歌うべきだ。人生がどれほどのものだというのか。まるで朝露のように儚いもの
だ。毎日はどんどん過ぎ去っていく。思いが高ぶり、いやが上にも憤り嘆く声は大きくなっていく。だが沈
んだ思いは忘れることができない。どうやって憂いを消(はら)そうか。ただ酒を呑むしかないではないか」
この詩の思想(おもい)は、2013年-220年=1793年、四捨五入すれば二千年経ても変わることがない。今夜
は日本酒の話題に引き込まれたが、この国の政府から近未来の適正人口に対する議論を聞かされたことがな
い。日本酒を飲む若者は社会現象とし減っていく危機感はこの分野に限ったことがないが、伊丹と奈良の清
酒の発送地を巡る喧噪は、売上げ減少下の"拡販出来レース”へとかき立て、活路をマッピングさせている。


このブログを打ち込んでいる途中、NHK特集の『氾濫するマネー』が映し出されていた。この解決方法に
ついてはすでにポール・デヴィットソンが処方箋を書いているし、このブログでも書いているので屋上屋を
重ねない。そんなことを考えている矢先で家庭内でもめ事が起こり中座したり、マイピーヒーで低温火傷状
態になり手を冷やしたり、キーボード打ち込み作業の手に婦人用の日焼け防止手袋(指先露出)を着用し、
やっとここまできたが、今夜はこの辺で(何だったっけ?残件は?)。すでに10月で北京の大気汚染は最悪
状態にあるというが・・・。
 

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