徳丸無明のブログ

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東京拉麺 焼そばしんちゃん

2024-05-10 23:43:42 | 
今日はしんちゃんが焼きそばです。




東京拉麺は、以前ペペロンチーノを紹介しましたけど、今回は焼きそばです。駄菓子屋で売ってる、ミニサイズのカップ麺。しかし駄菓子とは思えない高品質。いつだって小腹が空いていたあのころ。
虫の話をします。身近な昆虫の話。
ある日、ほっともっとでお弁当を買いました。帰り道の途中でコンビニにより、買い物をしました。
帰宅後、しばらくしてからお弁当を食べることにしました。少し冷めていたので、軽く電子レンジで温めました。
温めたお弁当を、レジ袋ごとテーブルに置き、飲み物などの準備をしていると、ガサガサと音が聴こえてきました。なんの音かとあたりを見渡しました。位置的に、音はお弁当のあたりからしています。
するとまたガサガサ音がしました。お弁当のレジ袋がかすかに動いています。
中を覗き込むと、そこには緑色のカナブンがいました。
僕は驚愕しました。まずあり得ない光景ですから。
当然どこから来たのか、という疑問が浮かびます。家の中でカナブンを飼っていたわけではないので、帰宅中にカナブンがレジ袋の中に入り込んだはずです。これは普通に考えて、コンビニでの買い物中でしょう。買い物中は、自転車のカゴにお弁当を置いていました。
それより信じられないのが、電子レンジで温めたことです。僕は1分温めました。カナブンはそのとき、レジ袋の中にいたはずです。
電子レンジは、水の分子を振動させることで熱を生み出します(ですよね?違ってたらすみません)。生物は体内に血液などの水分を大量に含んでいますので、電子レンジにかけられると、体内の水分が熱されます。それは大きなダメージになりますし、最悪死んでしまいます。昆虫は体が小さいので、短い温め時間でも死に至るはずです。
なのにこのカナブンは、1分も温められたのに、元気に動いていたのです。なぜ?と思いました。
そいつをつかんで家の外に放り投げたら、羽を広げて飛んでいきました。元気そのものでした。いや、ひょっとしたら最後の力を振り絞っていただけで、着地した先でこと切れたのかもしれませんが。
ひとくちぐらい弁当をわけてあげるべきでしたかね。

虫ってのはうじゃうじゃいますから、意外なところで急にご対面、みたいなことよくありますよね。ペットボトルのラベルの隙間に羽虫が挟まっていたこともあります。ペットボトルは冷蔵庫に入れていたのですが、凍えなかったのでしょうか。
冷蔵庫の中には、クモが入り込んでいたこともあります。たぶん冷蔵庫の上にいて、扉を開けた拍子に中に落下してしまったのでしょう。
普通に活動していましたので、冷蔵庫くらいの温度なら生きていけるのかもしれません。外に逃がしてやりましたが、そのまま冷蔵庫に入れていたらどうなったか、実験してみたかった気もします。
子供のころはダンゴムシが友達で、よく捕まえて遊んでいたものですが、そーゆー触れ合いもめっきりなくなりましたね。アリをガチャガチャのカプセルに閉じ込めて窒息死させたりもしていました。子供ならではの残酷さでしょ?
子供の残酷さと言えば、小説家の平山夢明さんが、精神科医の春日武彦さんとの対談本『無力感は狂いのはじまり――「狂い」の構造2』(扶桑社新書)の中で、食育に類する教育の分野として、「殺育」なるものを提案しています。引用します。


平山 そういう小さいときに遊びの中で、必ず虫を殺したりするじゃん。ところが、今は虫でやるべきことをやってないから、大人になってから人間相手に妙なことをしちゃう。いい大人が、子供を投げ落としたとか、叩いたらどうなるのか見てみたかった、なんてね。本来なら小学校ぐらいまでに経験することだよね。
春日 人間じゃなくて、虫かカエルでね。
平山 そういう事件が起きると、それは虫かカエルでやったら?と思うわけ。先にやっておいてよって。そのために虫もカエルも数が沢山いるんだからさ。
春日 ステップを踏まないのがいけない。
平山 人間なら攻撃性や暴力衝動はある意味、誰でも持っているものだしね。それが正の方向に向かえばガッツだったり、気合になる。でも、こじれちゃうと変なことになっちゃう。だから、小さいうちに虫かカエルで経験した方がいいと思うの。今さ、みんなゲームとかをやるじゃん。確かにゲームでも人間を切ったりはしているけど、リアルに生物を殺すのはやめているでしょう。もっとちゃんと殺させる。それが大事。
春日 ゲームで見せるなら、むしろ実際以上にグロくなったり、苦しんだりとか。後味の悪くなるように。
平山 そうそう。描写をもっとリアルにしてほしい。例えば根本敬さんなんて、小さいときにカメがいつも甲羅を背負っていて重そうだからって、無理に開けちゃったりして。そうすると、びっくりするわけよ。え、お前、中はこんなのだったんだ!みたいに。甲羅ってパンツみたいに脱いだり出来ないのか!みたいな。それで蓋をして絆創膏を貼ったらしいんだけど、やっぱり死んじゃった。そんなことぐらいじゃ元に戻らなかったらしくて。
春日 それはそうでしょう。
平山 でも、そこに色々な教えがあるわけよ。未知なる、神様からの贈り物のようなさ。そんなことをした俺って、なんてひどい人間なんだろうとか、罪悪感というの?そういうものがブレーキになるわけじゃん。ブレーキを育てる意味があるの。小動物を殺すことには。だから俺は殺しをした方がいいと思うね。
(中略)
平山 まあ、だからちゃんと殺しをさせようと。やっぱり今、大事なこと、こういうのを考えるときに一番大事なことは、殺育ということなんだよ。
春日 サツイクね。


さらに平山さんは、あとがきでもこうおっしゃっています。


昔は遊びの流れの中で所謂〈生き物殺し〉の時期というのが子供の中には大なり小なりあったと思うんですよね。(中略)とにかく昆虫や小型の爬虫類を見つけては散々に殺しまくったりしたんです。ところが、そのうちに飽きてくる。でも、飽きてもまだまだ止めない。まるでこれが俺の使命なんだと言わんばかりに次の日も次の日も捕まえては殺し、捕まえては殺しを続ける。するとだんだん嫌気が差してくる。もともと既にどうなるのかわかってるし、あらかたの殺しは実験のように試してしまっているんだからアイデアもない。最後のほうは実に雑な殺し方になるんですよね。それでも続ける・・・・・・。
で、ある日、トンッと底を着くんです。
なんかくだらないな・・・・・・と、こんなことしても面白くない、面白くもないのに命を奪っている、それは全く意味のないことだなと奴らの残骸を見て感じるんです。そしてそのばらけて動かない、みっともない姿を見て〈もの悲しさ〉を感じるんです。(中略)そんなある種、滑稽な姿にゾッとして、これがもし自分だったらどうだろう、なんて思ってゾッとして、好きなあいつだったら、いつも親切にしてくれる先生だったら、おふくろだったら・・・・・・なんて思うと強烈な罪悪感が押し寄せてくるんです。こうなるともう、そんな無残な遊びはピタッとやらなくなります。逆に可哀想だなと思うようになったりもする。つまり大人に近づいたんです。
散々、殺しておいてなにを言いやがるんだと思うかもしれませんが、所詮、人間だって獣ですから、慈悲心や良心なんてのは、よっぽど気合いを入れて叩き込まなくちゃ、種もわかない。一人前になるための通過儀礼として必要だったんじゃないかと思うんです。
で、これが最近の子には足りないんじゃないかというんで言い出したんですけれどね。


どうでしょうか。僕は真理だと思います。


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