徳丸無明のブログ

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オーバーシーズ サラトガスプリング ケトルクックチップス ソルト・ブラックペッパー・ディルピクルス

2024-06-07 23:39:32 | 
今日はケトルのクッキングです。








アメリカ産の、堅あげポテトチップス。噛みしめるのです、厚みと旨みを。
なんだかなぁ、と思うことを話します。いちいち言挙げするほどではないけど、どうしても引っかかってしまう話。
最近よく、「勇気を与えたい」って言い回し聞きますよね。ダンスとか歌とか披露する人が、観客に対して言うじゃないですか。観客は被災者とか、困窮している立場の人だったりします。
そーゆー弱っている人相手なら、パフォーマンスや娯楽でもって勇気を与えるというのは、スジが通っています。当然のことです。
でも、この言い回しが社会に定着しすぎたために、手軽に使われてしまっているのです。今や小学生ですら「勇気を与えたい」と言うのですから。
小学生ですよ、小学生。
オメーまだほとんど人生経験積んでないだろってコドモが言うんですよ、「勇気を与えたい」って。
そりゃま、小学生であっても勇気を与えることはできますよ。パフォーマンスがそれなりに素晴らしければね。あるいは、パフォーマンスがイマイチでも、一生懸命さが伝わることで感じるものもあるかもしれません。
でもね、自分から言うかって思うんですよ。「勇気を与えたい」なんて。
それを言っちゃうってことは、自分はそれなりの人間だって言ってるのと同じことですからね。小学生でありながら、ひとかどの人物だと自称しているのと同じことですよ。
本人は定型文を使っているだけで、そのような自覚はないんでしょうけど。

あとは「励ますつもりが励まされた」っていうのもありますよね。やはり被災者のところに慰問に行った人が、インタビューにそう答えているのを聞いたことがあるはずです。プロ野球選手あたりが言いがちですよね。
これも「なんだかなぁ」ですよね。
別におかしなことは言ってないんですよ。傲慢ではないし、誰かを侮辱しているわけでもない。謙虚な言葉です。
被災者の気持ちの強さを称賛したいのでしょう。自分が励ますほどではなかった。励ますまでもなく、強さを持っていた。むしろ自分より強かった。だから逆に励まされた。そう言っているのでしょう。
でも、なんか引っかかる。うまく言えないけど、「それってどうなの?」と思ってしまう。
これもまた、定型文のひとつであって、あまり深く考えずに口にしているのでしょうから、いちいちツッコむべきではないのかもしれません。
でも、なんだかなぁですよね。なんだかなぁと思わずにはいられない。

それとあと、「丁寧な暮らし」ね。インスタグラムで、「丁寧な暮らし」ってハッシュタグ付けて投稿している人いるじゃないですか。料理とか、部屋とか、観葉植物なんかの写真を撮って、「#丁寧な暮らし」で投稿する人。家事とか、日常の雑事に時間をかけてます。毎日の家事を手を抜かず、実直に取り組んでいます、という投稿です。
あれ、「自分で言うか?」って思いますよね。
いや、丁寧な暮らしを否定するわけではないですよ。家事を丁寧にこなすこと、それ自体は素晴らしいと思います。
でも、自分で言うことじゃねえと思うんですよね。そーゆーのは、人に言ってもらうことであって、自分で言うことじゃねえだろうって。
自分で「丁寧な暮らし」ってハッシュタグ付けちゃうっていうのは、「私は丁寧な暮らしをしてます」って自称するってことでしょ。すごくいばってるように見えるんですよね。「どうだ、私は丁寧だろう」って。
だから、「よう自分でそんなハッシュタグ付けるなぁ」って思っちゃうんですよ。あきれるというかね。
そりゃ人の勝手ではありますよ。僕が口を差しはさむ筋合いのことではない。自由にやったらいい。
それはわかってるんですけど、それでも「なんだかなぁ」と思わずにはいられないのです。よく自分から「丁寧な暮らししてまっせ」なんて言えるなと。
ほんと、どうでもいいことですよ。みんな好きにやればいいんです。
でも引っかかる。どうしても「なんだかなぁ」と思ってしまうのです。
まあ、アナタが「丁寧な暮らし」というハッシュタグを付けるのが個人の自由であるように、僕がそれに対して「なんだかなぁ」と思っちゃうのも個人の自由ということで、ひとつよろしく。
なんだかなぁ~!(by.阿藤快)