徳丸無明のブログ

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日本人の髪の毛は何色ですか?・後編

2017-06-13 21:14:14 | 雑文
(前編からの続き)

そして、軍隊の模倣は、体罰のみにとどまらなかっただろう。軍服には、一体感の創出と、同士討ちを避けるという狙いがあり、かつ、紋章などの細かい差異によって、帰属や階級を明示することができる。また、髪型を丸刈りで統一したのは、「交戦時に頭髪を掴まれないため」という戦術的意味合いがあった。
それらの外見を統一する手法も、体罰と一緒に公教育に持ち込まれたのだと思う。そして、体罰を振るう者と振るわれる者が何も考えなくなるように、外見の統一もまた、無条件に教育に不可欠な規則と思い込まれていく。
さて、ここで「姿形の逸脱=不良」について。「不良は姿形を逸脱する」という見立ては確かに正しいが、だからといって「姿形を逸脱している者は全員不良(もしくは不良予備軍)」というのは筋違いである。この順接を捉え違えてはいけない。
日本人女性の頭髪が茶色になったのは1996年である。この年、安室奈美恵が大ブレイクを果たし、彼女のスタイルを模倣するのがトレンドになった。模倣者はアムラーという総称で呼ばれ、大きな社会現象になった。当然のことながら安室の茶髪も模倣されたわけだが、特に彼女のファンでない人々も、流行りのスタイルとして髪を茶色く染めだした。
この時期、日本の成人女性の頭髪は、ほぼすべて茶色であった。小生は個人的に黒髪が好きなので、安室をおおいに恨んだものである。最近は少しずつ黒髪の女性が増えてきているので嬉しい・・・ってまあそんな私的な話はどうでもよろしい。
要するに何が言いたいのかというと、染髪にせよピアスにせよタトゥーにせよ、外見の加工はごくカジュアルなおしゃれに過ぎなくなっている、ということである。そこには不良性など微塵も存在しない。
小生は、中学生であれ高校生であれ、茶髪にしたいなら好きにすればいいと思っている。むしろ、生徒の外見を極端に規格化しようとすることの異様さこそ問題視すべきではないだろうか。
登校拒否の原因の何割かが学校組織の息苦しさに起因しているとするならば、校則をもっと緩くすることでいくらか問題を解消することができるはずだ。また、厳しい校則には、生徒同士の相互監視を生み出す働きもある。生徒たちが、お互い何かしらの逸脱がないかを監視し合うその眼差しは、過度に発展すればいじめに行き着く。いじめというのは基本的に、集団の中で何らかの差異を孕む者に対して執行される行為である。だとすれば、できるだけ差異を認めようとしない組織(つまり、厳しい校則がある学校)のほうが、差異を認める組織よりも、いじめの発生率が高くなるのではないか。いじめを抑制しなければならない組織(学校)自体がいじめを生み出す基盤を率先して整備しているという事実。この事実に、教育現場に携わる者の何割が気付いているのだろう。
確かに、不良、及び不良行為は取り締まらねばならない。だがそれは、夜中に校舎のガラスを割ったり、盗んだバイクで走り出したりなどの、具体的な反社会的行為を対象とするべきである。
学校は軍隊ではない。日教組は反戦平和を掲げていて、自衛隊にも否定的であるにも関わらず、軍隊式の教育指導法を無批判的に継承・存続させている、という指摘を聞いたことがあるが、学校が軍隊の手法をどれだけ取り込んでいるのかを、もっとよく知る必要があるだろう。軍隊式を全否定しようというのではない。軍隊式のやり方の中には、公教育にとっても有意義なものもあるかもしれない。残すべきは残しておいた方がいいだろう。
問題は、何も考えず、無批判的に軍隊の手法を存続させている点にある。何も考えていないから、必要どころか、むしろ有害無益な校則を頑なに守ろうとするのだ。外見の画一化は、有害無益である。

また、黒髪以外を禁じる校則は、「日本人なら黒髪であって当然」という安易な思い込みの産物でもある。
ご存知のように、日本列島には、その誕生の頃から人が住んでいたわけではない。日本列島に生息するサルが進化して日本人になったわけでもない。多くは朝鮮半島を通じて大陸から、それ以外には北方や南方の島々から移り住んできた人々が、現在の日本人の先祖である。
雑多な人種の混成が現在の日本人なのだとすると、「日本人は黒髪率が高い」というのは正しいが、「日本人なら黒髪であって当然」というのは明確に誤っている(先祖が誰かに関わらず、遺伝子の変性によって茶髪になる者もいる)。
これは、最近社会問題になっている排外主義とも繋がってくる話なので、特に強調しておきたい。
「日本列島」は大昔からあったが、国としての「日本」、及びそれに帰属する集団としての「日本人」は、近年になるまで存在しなかった。現在の、国民国家としての日本が成立したのが1868年。国籍法が施行されたのが1899年である。おそらくは、日本国が誕生した時点で、既に列島に住んでいた人々を日本人と見做す、という判断が下されたはずである。当時異人と呼ばれていた、明らかに姿形の異なる人々など、一部例外はあっただろうが、基本的には「1868年の時点での列島在住者は日本人」という決定が成されたはずだ。
そして、そこから遡行して、「もともと列島には民族としての日本人が住んでいた」という話になった。つまり、物語が捏造されたのである。ごく大雑把に言えば、1868年の時点で既に列島に住んでいた人々を日本人とし、それ以降に渡来した人々を外国人、もしくは在日と呼ぶことにした、ということだ。そこには、ただ単に日本国の成立という時制的な区切りがあるだけで、両者の間には、何ら本質的な違いなどないのである。
事実としては、日本列島に最初から住んでいた者など一人もいない。皆、歴史のいずれかの段階で、よそから移り住んできたのだ。
だから極言すれば、日本列島に住まう者は、国籍・人種・民族の如何に関わらず、皆等しく“在日”なのである。
今在日と呼ばれている朝鮮半島由来の人々は、明確に日本人とは異なる扱いを受けているが、彼らは日本国の成立後に列島に来たから日本人と認定されなかった、というだけのことである。日本列島在住者には、いつ列島に移り住んできたか、列島に来てどれくらいになるか、先に来たか後に来たか、の違いがあるだけで、皆列島外から移り住んできたという点において変わりはないのだ。
このことは、いくら強調しても強調しすぎるということはない。我々は皆在日である。純粋な日本人など、ただの一人も存在しない。
この点を踏まえて考えるならば、日本人であるか在日朝鮮人であるかにこだわるのが、いかに馬鹿げたことであるかがよくわかるはずである。こんな単純な理屈もわからない者が朝鮮人に対して不当な差別を繰り返しているのだ。
インターネット上には、芸能人などの著名人をつかまえて、「こいつは日本人のフリをしているが実は在日」と指摘する言説が溢れかえっている。その手の輩は、その指摘によって、あたかも決定的な欠点を暴露してやったかのような、後ろ暗い秘密を暴いてやったかのような気になって得々としているのである。愚かなことだ。元を辿れば自分自身もまた、列島外から移り住んできた人々の末裔であるにも関わらず、その事実を忘却、もしくは見て見ぬふりをし、たまたま「先に日本列島に来ていた」から日本国籍を取得できただけなのに、天与の権利の継承者であるかのような顔をして、「あいつは在日」などと宣っているのである。(ただし厳密に言えば、在日朝鮮人には何の後ろ暗さもない、というわけではない。在日であることを隠蔽していたり、意図的に公表していない人達がいるという事実が指し示しているように、在日にはなにがしかの後ろ暗さが付きまとっている。しかし、その後ろ暗さは、在日自身に由来するのではなく、日本社会、及び日本人の不寛容さが醸成したものなのである。在日であることそれ自体が後ろ暗いのではない。日本社会、及び日本人の抱えるある種の歪みこそが、在日を後ろ暗い存在へと仕立て上げているのだ。そこの筋目を間違えてはいけない)
「ちょっと先に来た」だけの人間が、後から来た者に対して、過度に威張り散らしていいという道理などあるだろうか。「日本人」も「在日朝鮮人」も、国籍法に基づく分類の一種でしかない。
そして、「黒髪を旨とする」校則を採用しているということは、「そもそも日本人とは何か」を突き詰めて考えたことがないということであり、その点で排外主義者と選ぶところがないのである。こんな人達が公教育の中枢を担っているのだ。

今福岡市内では、スーパーやコンビニなどの商店に行くと、店員の半数を外国人が占めるようになっている(と言っても、小生のごく狭い行動範囲内の話であるが)。一番二番は当然中国と韓国。次いで東南アジア系である。
現在の日本の労働力不足に応じる形で流入してきているのだろう。小生が福岡に来たのが2000年の事だが、当時は接客業で外国籍者を見ることはほとんどなかった。接客業以外でも外国人労働者は増加しており、街中の至る所で、何語だかよくわからない言葉で賑やかに談笑している一群をよく見かける。これはここ最近の傾向である。
小生は、彼等に期待したい。彼等のうちの何割かは日本で結婚し、子を生すだろう。そして、少しずつ日本社会に溶け込んでいくだろう。彼等の子弟が、黒髪以外を禁じる校則に揺さぶりをかけてくれるはずである。同時に、いくらかは「日本人とは何か」を根本から考え直すきっかけにもなるはずだ。
日本人の髪の色は、黒ではない。黒は、あくまで多数派の色でしかない。
日本列島は日本人だけのものではないし、日本人だからといって、外国籍の者に「日本から出ていけ」などと言う権利があるわけでもない。
だいぶ話が膨らんでしまったが、一条の校則という些細なものの中に大きな問題が潜んでいるということもあるのだ。差別やいじめを批判せねばならない現場において、むしろ差別やいじめを生み出す要因が内包されているということ。この点に、もっと教育関係者は自覚的になるべきである。


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