徳丸無明のブログ

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恩義を感じるということ・主従関係を築くということ

2024-04-16 23:43:58 | 雑考
大澤真幸の『経済の起源』(岩波書店)を読んだ。
これは社会学者の大澤が、経済とは何か、贈与交換から商品交換(貨幣経済)への転換はどのようにして起こったのか、貨幣はどのようにして生まれたかなど、経済の謎を解くために、幾つもの文献にあたりながら、東西の文化に触れ、歴史を辿った探究の書である。この中の第5章「ヒエラルキーの形成――再分配へ」で、贈与に関して、興味深い事例が紹介されている。


十九世紀から二十世紀の初頭にかけて、アマゾンやアフリカの狩猟採集民の社会に入った宣教師や探検家をたいへん驚かせたことがある。定型的な筋をもっているのだが、その代表として、イギリス人宣教師たちがコンゴで体験したことを紹介しよう。現地人の一人が重い肺炎にかかったので、宣教師たちは、彼を治療し、濃いチキンスープなどを与えた。おかげで、この病人は命をつなぎとめた。宣教師たちが、次の目的地へと向けて旅立つ頃には、彼はすっかり回復していた。宣教師たちが旅支度をしていると、この男がやってきて、なんと宣教師たちに贈り物を要求してきたのだ。宣教師たちはびっくりして、これを拒否すると、男の方も同じくらい驚き、大いに気分を害した。宣教師が、贈り物によって感謝を示すべきはあなたの方ではないかと言うと、彼の方は、「あなた方白人は、恥知らずだ!」と怒って言い返してきた。
このエピソードは、二十世紀前半の哲学者リュシアン・レヴィ゠ブリュールの著書から引いたものである。レヴィ゠ブリュールは、「未開社会」の人々が、「われわれ」とは異なる論理で思考し、行動していることを示す証拠として、似たような報告事例をたくさん蒐集している(Lévy‐Bruhl 1923)。溺れていた男を救ってやったところ、その男から高価な服を要求されたとか、トラに襲われて大けがを負った人を治療してやったところ、さらにナイフを欲しいと言われたとか、である。これらはすべて、西洋人側が現地の人に対して、贈与に相当することを行い、西洋人の観点からは現地の人の方からお返しの贈与があってしかるべき、と思われていたところが、逆に、現地の人の方からさらなる贈与を要求されている。これをどう説明したらよいのだろうか。
とてつもない忘恩のようにも思えるのだが、そうではない。忘恩であれば、わざわざ追加的な贈与を要求したりはしない(単純に無視し、関係を断とうとするはずだ)。次のように解釈すればよい。宣教師によって肺炎を治してもらった男は、当然、宣教師に感謝している。彼は、宣教師との親密な関係を維持したい。とりわけ、彼は、宣教師を自分にとっての「主人」のようなものとして尊敬したいと思っている――そして、そのことは宣教師側にとっても喜ばしいことだと想定している――のではないか。
ここで、主人とは何か、がポイントになる。主人とは、従者に対して、(価値あるものを)与え続ける者である。言い換えれば、従者は、主人に対して、いつまでも消えない負債の感覚をもちたいのだ。彼の方から何かをお返しして、負債を無化してしまえば、宣教師を主人として仰ぎ続けることが不可能になる。彼は、宣教師になおいっそう負債を負い、負債感を維持したいがために、さらなる贈り物を要求したのだ。当然主人たる宣教師が喜んで、何かを贈ってくるだろう、と予期して。


うーん、面白い。
このような贈与のありかたは、現代の日本にも馴染まない。贈り物をすべきは助けられたほう、というのがゆるぎない常識としてある。
だが、上の事例の狩猟採集民の感覚から眺めてみれば、助けてもらった相手に贈り物をすることは、相手との関係を断つ方向に働いていると言える。贈り物をして、感謝を伝える。そうすればそこで貸し借りは清算され、負い目を感じる必要はなくなる。そうなれば、それ以上相手との関係を維持する必要はなくなるのだ。
もちろんその後も関係を保ち続けることはできる。だが、贈り物をしてしまえば、そこで関係を絶ったとしても非礼とは見做されない。助けてもらった相手への贈り物は、基本的には関係を維持するのではなく、清算する方向に働くのだ。助けてもらった相手に贈り物をしたいと思う、その背後には、「貸し借りをなくしたい」「関係を清算したい」という願望も貼りついているのではないか。
その点を合わせて考えると、助けてもらった相手に贈り物を求める文化圏は、そうでない文化圏よりも、人間関係が密になるのは間違いない。だとすれば、「助けてもらった相手に贈り物を求める習慣」を日本に定着させれば、日本人の人間関係は今よりも密になるだろう。引用文にあるように、それは主従関係を基調としているので、「平等」を原理主義的に追求している日本社会からは反発されるかもしれないが。それに、恐らくは「助けてもらった相手に贈り物をする」のが日本社会の長年の常識だったはずで、それに反する習慣を易々と受け入れられるのか、という問題もある。(平等という点をさらに突っ込んで考えてみると、平等という観念があまり発達していない原始社会ほど、上下関係・主従関係に抵抗がないから、「助けてもらった相手に贈り物を求める」文化的傾向があり、平等の観念が浸透するほど上下関係・主従関係に抵抗が生まれ、「助けてもらった相手に贈り物をする」ほうに逆転していくのかもしれない)
なので、日本社会にこのような贈与の感覚を根付かせるのは難しいかもしれない。それでも、このような贈与のありかたもあるということ、現代日本の贈与のありかただけが唯一の形ではないことを知るのは、ひとつの希望のように感じられるのではないか。
少なくとも、僕はそう感じた。異なる視点を導入することで、自分の属する文化を相対化し、今とは違うありかただってあるのだと知る。こことは違う文化、違う時代には異なる常識があって、それはけっして非現実的なものではなく、自分たちの文化に移植することも可能かもしれないと気づく。それは思考の風通しをよくして、ほんのわずかでも社会の息苦しさを解消してくれる効果があるだろう。
ところで、助けてもらった相手に贈り物をする動因、恩返ししたいという願望は、「負債感」によって基礎づけられるものだ。この負債に関してもまた、大澤は鋭い考察を加えている。


人は長い間、そしてときには今日でも、「金を貸す人間」は邪悪な人物の典型であるかのように考えてきたのだ。もし負債こそが罪の中の罪であるとすれば、貸す者には何の問題もないはずだ。逆に借りながら、まだ返していない者こそが悪い。それなのに、金貸しは、いつも悪人である。
世界文学や民間説話を振り返ってみるとよい。金を貸す善人が描かれていたためしがない。『ヴェニスの商人』のシャイロックのように、金を貸す者は常に邪悪な側にいる。考えてみれば、この戯曲で、負債を清算していないのは、ヴェニスの貿易商人のアントーニオの方なのに、彼は善人として描かれている。『罪と罰』では、金貸しは被害者であって、罪を犯すのは苦学生のラスコーリニコフだが、読者は、ラスコーリニコフによって殺されたのが金貸しであることで、少しだけ安心しているはずだ。あんなババアは殺されても仕方がなかったんだ、と。(中略)
一般には、贈与交換における互酬こそが、正義の原型と見なされている。この通念に従えば、「互酬が未だに実現していない状態に対して責任があること」こそが、要するにお返しをせずに、負債を残していることこそが、罪の原型である。実際、ニーチェをはじめとする多くの思想家・哲学者が罪を、「負債の一般化」として理解してきた。
(中略)
贈与は、他者にとってポジティヴな価値のあるモノを、その他者にもたらすことである。それゆえ、一般に、贈与は、倫理的には善きこととして評価される。しかし、同時に、贈与には否定的な意味も宿る。なぜなら、贈与は、与え手が受け手を支配する力を生み出してしまうからだ。受け手側の負債の意識を媒介にして、贈与は、与え手が受け手を支配することを可能にする。
受け手の方に負債の意識が生ずる原因は、贈与が、一般に、互酬化されることへの強い社会的圧力を伴うことにある。与えた側は、ほとんどの場合、お返しがあって当然だと思っている。そして受け手の側は、お返しすることを義務だと感じている。お返しが実現するまでは――つまり互酬的な交換が未了のうちは――、受け手側は、与え手に対して負い目がある。このとき、受け手はどうしても、与え手が喜ぶように行為しなくてはならない、あるいは少なくとも、与え手に不快なことはできない、と思うことになる。与え手を喜ばすことだけが返済に近づくことであり、逆に、与え手を不快にすることは負債を大きくするからである。
このように、贈与は、他者に価値あるモノをもたらしながら、そのことを通じて、その他者を拘束する力を発生させる。「金を貸す人間」が邪悪な人物として描かれるのはこのためである。


この負債感は、助けてもらった相手を主人として仰ぎ見たい、という負債感とは異なり、ネガティヴなものである。助けてもらった相手に贈り物を求める、狩猟採集民のそれを「ポジティヴな負債感」と定義するなら、金を貸す人間を邪悪な者と感得するのは、「ネガティヴな負債感」と言えるだろう。
このネガティヴな負債感は、金貸しという職業が確立していないと生じない。金融経済がある程度発展し、金貸しが職業として確立していることを前提としている。なのでこの感覚は、金融経済が成り立っていない狩猟採集民などの原始社会には存在しないだろう。
また、この「負債感=金を貸すほうが悪」という感覚は、「助けてもらった相手には贈り物をしないと落ち着かない」という感覚とパラレルだと思われる。「負債を清算する=借金を返す」ということと、「恩返しをする=贈り物をする」という行為は、ともに上下関係・主従関係を均して平等にしたい、という願望によって駆動されているのだ。
だとすると、金を貸すほうを悪と見做すのと同様に、助けてもらった相手に対しても、少なからず嫌悪感を抱いてしまう、ということがあり得るのではないか。「借金=負債感」によって受け手が拘束されるように、「恩義」もまた負債感として感得され、それが返済されないうちは心理的な拘束として働く(世の中には、借りを作ることを極度に嫌う人がいるが、それはこの心理的拘束に対する抵抗感が人一倍強い、ということなのだろう)。だから早く恩を返したい、と思う。恩返しをしないうちは、助けた側は、助けてもらった側を拘束する。そうなると、恩義だけでなく、同時にわずかながら憎しみの感情も抱いてしまうのではないか。
恩人に対する、アンビバレントな感情。恩を返したいと思うそのとき、関係を平等にしたいとも、憎しみを抹消したいとも願っている。恩返しをして、恩義に報いることができたと喜ぶとともに、主従関係を解消できた、もう相手を憎まなくていいと安心してもいるのだ。
人の感情というのは複雑だ。だからこそ面白い。