徳丸無明のブログ

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明治 エッセルスーパーカップ 超バニラ・抹茶

2024-04-05 23:48:44 | 
今日はすごい器です。






王道バニラ(と抹茶)アイス。なんかスーパーカップのレシピってのもたくさん出回ってますね。僕は溶けかけを食べるのみ。
2023年3月、JR博多駅の駅ビル、JR博多シティに、専用エレベーターができました。車椅子利用者などの障害者、ベビーカー利用者、松葉杖使用者などのケガ人、妊婦、高齢者専用のエレベーターです。と言っても、新設されたのではなく、もともとあったエレベーターの一部を専用基に改修したのです。
特に車椅子の人やベビーカー利用者は、エレベーターになかなか乗れないという問題があります。その不都合を解消すべく専用エレベーターを作ったのです。
この対策は、おおむね好意的に受け止められたようです。でも僕は、なんかモヤモヤしました。
そもそも、なぜ専用エレベーターが必要とされたのでしょうか。
車椅子とベビーカーは、なぜなかなかエレベーターに乗ることができないのか。それは、車椅子とベビーカーより先に、健常者がエレベーターに乗り込んでしまい、場所を取る車椅子とベビーカーのスペースがなくなりがちだからです。乗り込むスペースがなければ、次のエレベーターを待つしかない。でも、次のエレベーターもいっぱいで、乗れなかったりする。
そうして、車椅子とベビーカーは、長々と待たされることになるのです。
これは仕方のないことなのでしょうか。そうではありません。
なぜこんなことになるのかというと、健常者が、車椅子とベビーカーにエレベーターをゆずらないからです。車椅子とベビーカーの不都合を考えず、我先にエレベーターに乗り込むから問題が起きているのです。
健常者も車椅子もベビーカーも、みんな対等なのでしょうか。エレベーターは早い者勝ちで、先に並んでいた人優先で乗るべきなのでしょうか。
そんなことはありません。車椅子とベビーカーは、エレベーターしか乗れないからです。階段とエスカレーターも利用できる健常者とは、ワケが違うのです。
だから車椅子とベビーカーを優先的にエレベーターに乗せるべきなのです。エレベーターに乗り込もうとする人々の中に、車椅子とベビーカーがいたら、そのぶんのスペースは確保し、それ以上健常者は乗せない。満員のエレベーターが開いて、車椅子かベビーカーがいたら、健常者は降りてゆずる。それをマナーとすべきなのです。
なんなら健常者は、階段かエスカレーターでもいいのですから。
そのようなマナーが日本社会の常識になっていないから、わざわざ専用エレベーターを作らざるを得なかったのです。僕は、これは恥ずかしいことだと思います。
ひょっとしたら、この手のエレベーターは、増えていくのかもしれません。それはいいことなのでしょうか。
単純に利便性だけを考えたら、いいことなのかもしれません。でもそうすると、健常者にはマナーが身につかない。車椅子とベビーカーを優先したり、見かけたときには、何か困っていることはないかと気にかける。そんなマナーを身につけることができなくなってしまいます。「専用エレベーターがある。だから気にしなくていい」と考えるようになってしまいかねないのです。
本来なら、専用エレベーターなど必要ないのです。健常者が、車椅子とベビーカーを優先するという、最低限のマナーをわきまえていれば、それで事足りるのですから。
その程度のマナーすらわきまえていない人たちが大多数だから、わざわざ専用エレベーターを設置せざるを得なくなるのです。これを日本社会の恥と呼ばずしてなんと呼びましょう。

同じようなことは、ほかにもありました。2023年6月、駐日ジョージア大使のティムラズ・レジャバさんが、電車の優先席に座る自身の動画をX(旧ツイッター)に投稿し、批判を浴びたのです。もともとフォロワーが多い方だったこともあって、大きな騒ぎになったようです。
「優先席に座るのは非常識」という批判に対し、レジャバさんは、「空いていたから座った。優先席を必要とする人が乗ってきたら立つ」という旨の反論をしました。僕も動画を観ましたが、電車はほぼガラガラで、優先席に座っていても問題ないように思えました。
それより気になったのは、批判していたほうの言い分です。レジャバさんに対する批判の声を読んで、僕は、「この人たちは、優先席に座ってなければそれでいいと思い込んでいる」と感じました。
電車でもバスでも、普通席に座っている若者は、お年寄りや妊婦さんが立っていても、ほとんど席をゆずろうとはしません。「優先席じゃないんだから、好きなだけ座っていてもいいだろ」とばかりに、立っている人のことなどおかまいなしに座っています。
では、普通席であれば、ゆずる必要はないのでしょうか。いくらでも座り続けていていいのでしょうか。
そんなことはありません。そもそも、優先席はごく限られているからです。
現在の日本は、かつてないほど高齢化が進行しつつあります。それはつまり、席をゆずるべきお年寄りもどんどん増えつつある、ということです。
ハッキリ言って、優先席だけでは足りないのです。
優先席は、席全体のごく一部。その数は、高齢化の進行(による、席をゆずるべきお年寄りの増加)に追いついていないのです。
では、優先席の数を増やすべきなのでしょうか。
それも悪くありませんが、弥縫策です。もっと根本的な解決策を用いるべきです。
では、根本的な解決策とは何か。
「優先席を廃止し、すべての席を優先席と考えるようにする」。これです。
先に言いました通り、優先席の数は、限られています。それゆえ、優先席が埋まっていて、普通席も空いておらず、お年寄りや妊婦さんが座れずにいる、ということがよくあります。
そのとき、普通席に座っている若者はどうしているか。何もしていません。
ひたすらうつむいてスマホをいじっているのです。「自分は普通席にいるのだから、好きなだけ座っていて当たり前。立っている年寄りがいようが知ったこっちゃない」と言わんばかりに。
このような若者が、正義ぶってレジャバさんを批判していたのです。なんと恥ずべきことでしょう。
自分はひたすら下を向いてスマホをいじり、立ちっぱなしのお年寄りには目もくれずにいるくせに、電車の混み具合を見ずに、優先席に座っているというだけでレジャバさんを批判した。こんな情けないことがあるでしょうか。
優先席が人の心理に与える問題点がここにあります。優先席があると、優先席を必要としない若者は、「優先席があるのだから、お年寄りや妊婦さんはそちらに座ればいい。普通席に座っていれば、それらの人々のことは気にしなくていい」と考えがちなのです。
でも、これが大間違い。だって、必ずしも優先席と、優先席を必要とする人の数が、イコールなわけないのですから。優先席を必要とする人が、優先席の数を上回ることだってある。高齢化がどんどん進みつつある現状ならなおのことです。
だから、普通席に座っていれば、高齢者や妊婦さんを気にかけなくていいなどというのは間違いなのです。
優先席を廃止し、すべての席を優先席と考えるようにすべき、というのはそのためです。
どの席に座っていようが、今満席かどうかを気にかける。満席であれば、席をゆずるべき人がいないかも気にかけ、積極的にゆずる。それが「すべては優先席」の態度です。
もっと言えばね、若者は最初から立ってりゃいいんですよ。体力あるんですから。
僕はそうしてますよ。ガラガラであれば座りますけど、ある程度混み合っていたら座りません。立って、座れずにいるお年寄りや妊婦さんがいないかを気にかけています。
だからね、鉄道会社とバス会社が共同で、「優先席は廃止します。すべての席が優先席だと考えるようにしてください」って宣言すればいいんですよ。難しいことじゃないと思いますけどね。

駐車場もそうですよね。ある程度広さのある駐車場だと、みんなお店の近くに車停めようとするじゃないですか。それもよくないですよ。
店の近くは、お年寄りのために空けておくべきなのです。体が丈夫な若者、体力に問題のない人は少し離れた場所に停めて歩く。
先に言いました通り、お年寄りはどんどん増えています。自分で運転するお年寄りも、家族に運転してもらっているお年寄りも、たくさんいる。
だから、それらお年寄りのために、お店の近く、入り口近くの駐車場は空けておくべきなのです。なのに、みんなそーゆ―配慮をせず、「一番近い駐車場はどこか」に目を光らせるばかり。
ああ、恥ずかしい。なんと情けない。

これって、日本人の国民性の問題でもあります。
日本人は、「こうしましょう」と言われたことはわりと素直に従いますけど、自分の頭で判断して人のためになることをしようとはしませんよね。「空気」に従い、場を乱さぬよう、「空気の中の決まりごと」には従いますけど、それだけやっときゃ充分だと思っている。「こうしましょう」と言われたことや、空気の中の決まりごと以外にも、人を助けるべき場面や、気を利かせるべきことがあったりするのに、そこには目を向けようとしない。あくまで、「決まりごとの中」だけで考えている。
アメリカ在住の芸術家・近藤聡乃さんが、コミックエッセイ『ニューヨークで考え中』(亜紀書房)の第1巻・第三十話で、「ニューヨークに住み始めてから、「日本人って優しい」と感じるようになった」という話を描いています。帰国した際、「補足情報まで教えてくれる店員」「重いものからカゴに入れるレジ係の人」「片方荷物を持ってくれる友人」などに接して、そのように感じたそうです(アメリカの友人は荷物を持ってくれないのでしょうか?)。
なのに、次の第三十一話で、近藤さんは「日本人は冷たい」と言い出すのです。なぜかというと、「飛行機で棚から荷物を降ろす時、日本人は手伝ってくれない。手を貸してくれるのは、外国人ばかり」だから、とのこと。近藤さんは、「日本人は優しいんだか冷たいんだかわかりませんよ」とボヤいていました。
これはいったいどういうことなのでしょうか。
僕の考えでは、「マニュアル内」と「マニュアル外」の違いなのだと思います。店員さんが気が利くとか、重いものからカゴに入れたりするのは、「そうすべき」というマニュアル、もしくは接客業の常識があるからです。みんなその決まりごとに従っている。その、「決まりごとに沿った行動」が、優しい関わり、気の利いた関わりとして表れるのです。
対して、「飛行機の中で、女性の荷物を棚から降ろしてあげる」のは、日本人のマニュアルにはない。マニュアル外だから、やろうとしないのです。より正確に言えば、やろうとしないのではなく、「やるべきか否か」という選択肢が浮かぶことすらないのです。マニュアル外のことは、意識すらしないからです。

少し前に、「信号機のない横断歩道で歩行者が待っていたら、自動車は止まらなければなりません」っていう呼びかけがよく行われていましたよね。それは道路交通法で定められたルールなのに、ほとんど知られていない。だからその周知のために、メディアでの呼びかけが頻繁に行われていたのです。
その結果、現在では信号機のない横断歩道に立っていると、すぐに自動車が止まってくれるようになりました。多くの人が実感しているでしょうが、劇的な変化です。
このように、日本人は、「こうしましょう」と言われたことには素直に従いがちです。でも、自分で考えて人のために動こうとはしない。
できることなら自分から動けるようになるべきなのですが、それは教育によって国民性を変えていかないといけない。時間がかかります。
だからその国民性を利用するほうが手っ取り早い。「エレベーターは車椅子とベビーカーを優先しましょう」「電車もバスも、すべての席が優先席です」「お店の近くの駐車場はお年寄りのために空けておきましょう」という呼びかけを広く周知し、社会の常識に登録させる。
そうすれば、それらが新しい「こうしましょう」になるわけです。日本人はみな、おとなしく従うでしょう。
日本人の国民性を利用した意識改革。このアイディア、どうでしょうか。