徳丸無明のブログ

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江崎グリコ Bigプッチンプリン

2024-03-01 23:38:14 | 
今日はキレるプティングです。




プッチンプリンには「ツメ」があります。プリンをお皿に乗せるためです。ツメを折ると、容器からお皿に移すことができるのです。
しかしそのツメ、ほとんど折られることがありません。プッチンプリンをお皿に移さず、そのまま食べる人は約98%(推定)。大半のツメはムダになっているのです。
わざわざ用意されておきながら、折られることのないツメたち。役目を果たせないまま、焼却処分されるツメたち。
ツメの怨念は積もりに積もっています。いずれこの怨念は形を成し、人類に災いとなって降りかかることでしょう。
そのときは当然、ツメがキレる「プッチーン」という音が響き渡るはずです。
え?そういうお前はプッチンしてるのかって?するわけないじゃないですか、皿洗うのめんどくさいのに。

性差別について話します。個人の責任か、時代のせいかという話。
僕は以前、グループホームで働いていました。グループホームは、認知症のお年寄りを預かる介護施設です。
勤めていた当時、80代の男性入所者がいました。認知症ではあるものの、物忘れと、ごくまれに妄想を口にする以外はしっかりされていて、普通に会話のできる人でした。足が衰えていたため、杖と手すり、もしくは介護職員の介助に頼って歩いていました(外出時は車椅子を利用されていました)。
ウマが合ったのか、僕はその方に気に入られており、よく話し込んだりしていました。
その方は、仕事の話になったとき、「男にしかできないことがある」という発言をされたことがありました。女性職員の中には、その方に対して、「女を下に見ている」と反発している人もいました。
たしかに、そう言えばその通りと言えなくもない方でした。男尊女卑というか、男のほうが偉いと思っているフシが、かすかにある人でした。
でも、僕の目には、「この年代にしては」性差別意識が少ないほうに見えました。その方は戦時中生まれ。その時代に生まれ育った世代にしては、比較的女性と対等に接していたように思えたのです。
それに何より、僕は思うのです。年寄り連中、年配の男性の中に男尊女卑の人がいるのは、その人の性格に問題があるのではなく、生まれ育った時代のせいなのではないか、と。
「男のほうが女より偉い」という考えが、常識だった時代がありました。今は男女平等が当たり前で、「男のほうが偉い」などと言えば、「バカなことぬかすな」と非難されます。
それと同じように、かつては「男女は平等だ」と言ったら、「何をバカなことを」と論難されるような時代があったのです。
常識の変化。かつて、男尊女卑を、社会の成員(日本人全員)が常識として受け入れねばならなかった。その考えが時代とともに変化し、男女平等が常識となった。
つまり、今の時代を生きる我々が、「男女平等」を当たり前のこととして教えられてきたのと同じように、「男尊女卑」を、疑う余地のない真理として教えられてきた人たちがいたのです。
男尊女卑的意識のある年寄りと、男女平等当たり前の若者の違いは、性格の良し悪しなのか。
女性に差別的な発言をしてひんしゅくを買う年配男性がいます。たまにニュースになりますね。
彼らは、性格が歪んでいるのでしょうか。それはあくまで彼らの性格の問題、個人的な気質に帰せられる問題であって、そのような発言をした個人を道徳的に非難していればそれでいいのでしょうか。
僕は、それは少し違うと思います。彼らは、「時代の被害者」なのではないかと思うのです。
先に言いました通り、男尊女卑が当たり前だった時代がありました。その時代に生まれたということは、男尊女卑という時代の空気を否応なく浴びながら育つしかなかった、ということです。
「男女平等」という考えなど存在しておらず(あったとしても稀で、それに触れる機会などほぼなく)、「男尊女卑」以外の考え方、それ以外の男女関係のとらえ方などなかった時代。選択の余地なく「男尊女卑」を常識として身にまとうしかなかった時代。そんな時代に生まれてしまったなら、男女は平等であるという意識など、持ちようがありません。否応なしに、意識を男尊女卑に染め上げられてしまう。
性差別発言をする年配男性は、そんなふうに人格形成してきた人たちなのです。それって、時代のせいで男尊女卑になってしまった、とも言えるのではないでしょうか。
「男のほうが女より偉いのだ」と教えられて育ったのに、時代の変化とともに、いつの間にか「男女は平等だ」というのが常識になっていた。そうなると、「オレが教わってきたことはなんだったんだ、話が違うじゃないか」っていう気になるんじゃないでしょうか。
つまり、性差別発言は、個人の人格上の問題というよりも、生まれ落ちた時代の問題なのではないか、ということです。
と言っても、100%時代の責任にしていいかというと、簡単にそう断言するわけにはいきません。その人の人格に、非難されるべき点があるかもしれないからです。
この切り分けは難しい。どこまでが時代の責任で、どこからが個人の責任なのか。その境目を正確にするには、困難がともないます。
しかしいずれにせよ強調しておきたいのは、性差別発言があったとき、「時代の影響」を考慮に入れるのを忘れるべきではない、ということです。人は、生まれ育った時代から、何かしらの影響を受けて育ちます。まったくなんの影響も受けずに育つことはできません。だから、その人の発言に何かしら問題があるのだとすれば、そこに生まれた時代の影響が少なからず潜んでいる可能性があるのです。
性差別の問題は、そのような視点を持ってとらえるべきではないでしょうか。100%個人の人格の問題とせず、時代のせいでそのような考えを持つに至ってしまったととらえる。そういう見方も必要なのだと思います。
これは何も、性差別発言をした人の罪を一切問わない、ということではありません。明らかな悪意を持った発言もあるでしょうから、個人の人格に対する批判的視点は捨てるべきではない。
ただ、個人の人格だけ槍玉にあげていればいいのか、ということです。それ以外の原因を見なくていいのか。彼らが生まれ育った時代もまた、原因のひとつなのではないか、ということです。

僕は1980年生まれです。80年代は、表向き男女平等を常識として掲げながらも、まだまだ「男のほうが偉い」という空気が濃厚でした。ホンネとタテマエの都合のいい使い分けというか、「平等ってのが正しいのかもしれんけど、でも実際男のほうが偉いよな」という考えが色濃く残っていました。九州という土地柄の影響も多分にあったかもしれません。
今は「男らしさ・女らしさの押し付けはよくない」と言われます。でも当時は、「男らしさ・女らしさを押し付ける」のが正しいことであり、大人が果たすべき義務だと思われていたのです。
そんなホンネとタテマエが分離した状態は、90年代まで持続していました。誰かが女性蔑視発言を公然と行っても、あまり批判されることはありませんでした。
男尊女卑が政治的に正しくないこととして、きちんと批判されるようになったのは、ようやく2000年代に入ってからです(個人的な実感による偏向が入り込んでいて、正確ではないかもしれませんが)。それまで男女平等は理想論、もしくはきれいごとと思われていました。
勤め先の介護施設には、70代の女性もいらっしゃいました。その方は、バリバリ仕事をこなしてこられた方で、2人の子供を育て、自分の稼ぎで一戸建てを建てられたのだそうです。
旦那さんはいらっしゃったのか、離婚されたのか、そのへんの事情は聞いていないのですが、女性が自分の稼ぎで家を建てるというのは、当時としてはかなり珍しかったはずです。女性は結婚すれば専業主婦になるか、働くにしてもパート程度だった時代に、男性と伍して働いてこられたのです。
気が強い方で、足腰が痛くても、絶対に杖や車椅子に頼ろうとはしませんでした。甘えることを自分に許そうとはしなかったのです。
そんな、男勝りなところのある方でした。仕事こそが生き甲斐というのが信条で、施設の中でもゆっくりしようとはせず、洗濯物を畳んだり、食器を洗ったりなど、家事をよく手伝ってくださってました。
なのに、入浴の時間にその方を一番風呂に誘うと、必ず「男の人が先に入らなくていいの」と確認してこられたのです。「一番風呂は男が入るもの」という考えを内面化されていたのです。
男勝りなところのある方でさえ、そのような男性優位の考えを、ゆるぎなく内面化していた。時代による影響が、いかに強固なものであるかの表れと言えましょう。

先に言いました通り、グループホームに入所されていた80代の男性は、足が衰えていました。杖をつきながら、手すりにつかまったり、職員の介助に頼ったりしながら歩いていました。
ある日の介助中、その方がふと、「あんたはいいな、自分の足で歩けて」とつぶやかれました。とっさに、何かなぐさめの言葉を、と思いましたが、結局何も言えませんでした。気の利いた言葉が思いつかなかったということもありますが、何を言ってもおためごかしにしかならないような気がしたのです。黙り込むしかありませんでした。
あのとき、何か言ってあげることができたのではないか。その思いは、今でも悔いとなって残っています。
もちろんこれはただのエピソード。これで男尊女卑的な一面が帳消しになるわけではありません。
ただ、男尊女卑的な面だけがすべてではない、ということです。その方と散歩に出た際、喫茶店でコーヒーをおごってもらったこともあります。パン屋のチョコクロワッサンを買ってもらったことも。
男が偉いとされる社会において、男は強くなければなりません。その社会では、男は我慢を強いられる。
自力で歩けない男性がついもらした、「あんたはいいな、自分の足で歩けて」という言葉。その方は普段、施設内の共有スペース(居間)で、テレビを観ながらのんびり過ごされてました。でも、その暮らしを心から楽しめてはいなかったのではないか。
もし自分の足で歩けたら。施設に入らず生活することができていたら。そしたら、あそこに出かけて、こんなこともして、今より日々を楽しむことができたはずなのに・・・。
テレビを眺めながらも、そんなことを考えておられたのかもしれません。ですが、「男は強くなければならない」と教えられてきた戦時中生まれ。そんな様子はおくびにも出していませんでした。

女性蔑視発言をして叩かれる年配男性が、たまにいます。ひょっとしたら、彼らは傷ついているのかもしれません。「オレだって好きで男尊女卑になったわけじゃないのに」と。
頭では理解していても、腹に落ちてはいない、ということは、ままあります。あとから学んだ男女平等が正しいことだとわかってはいても、子供のころに教え込まれた男尊女卑が、体に染みついていてどうしても離れない。そんなこともあるのかもしれません。
ひとつ想像してみましょう。まずあり得ないことではありますが、仮に今から20年後、日本が大きく変容し、男尊女卑が社会の常識になったらどうでしょうか(政治形態は独裁や社会主義ではなく、現状の民主主義のままとします)。男女平等が当たり前の我々は、その新常識に容易になじめるでしょうか。このような仮想実験を、真剣に我がこととして考え抜いたとき、自分自身は性差別発言者を頭ごなしに非難できるほど清廉潔白な人間なのか、性差別発言者は無条件に罵倒されて当然なのかどうかがわかってくるでしょう。
性差別発言をした人がいます。さて、その人個人を責めるべきでしょうか。それとも、その人が生まれ育った時代の責任なのでしょうか。
簡単に答えの出せない問いです。
ひとつのありかたとして、「発言を許さないけど、その人を責めない」という対応が考えられます。その人の性格よりも、時代の影響のほうに問題があるのかもしれない。だから、発言は絶対に認めないけど、責めない。年配の方であるならば、いずれ社会の一線から退場されるであろうから、そのときを静かに待つ。
いずれ「男女平等当たり前」の世代が多数派になります。そのときを待ちましょう。僕自身、少なからず男尊女卑の空気を吸って育った世代です。おそらく、僕にも性差別意識の芽はある(抑えようとはしてますけどね)。
「男には男らしさを押し付ける」のが当たり前だった時代に生まれ育ったため、子供のころには、男らしくあらねばならないと、自分をいましめていました。今にして思えば、かなり無理をしていましたが。
だから、僕と同世代くらいまでが社会から退場して、ようやく男女平等は現実的なものとなるのです。完全な平等は難しいかもしれませんが、それでも、今よりはだいぶマシになる。そのときを待ちましょう。
価値観や常識は時代によって変化します。男尊女卑を当たり前のこととして教わってきた世代は、時代の犠牲者だったのです。だから、責めない。退場を待つ。批判すると、不必要に傷つけてしまうかもしれませんから。
性差別意識を植えつけられてしまった、気の毒な時代の犠牲者たち。彼らが社会から退場するその背中を、静かに見送る。
そんな対応があってもいいのではないでしょうか。