ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

ラテン帝国 L’impero latino

2020-06-22 19:00:00 | Agamben アガンベン
★以下に訳出を試みたものは、イタリアの新聞『ラ・レプッブリカ』に2013年3月13日に、フランスの新聞『リベラシオン』に2013年3月24日に掲載された、ジョルジョ・アガンベンの文章である。(原文サイト→https://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-l-impero-latino
 
 
1947年、フランス政府の高官でもあった哲学者アレクサンドル・コジェーヴは、それについてのアクチュアリティが今日省察し直すに適する、『ラテン帝国 L’impero latino』というタイトルのテクストを発表する。特異な先見の明でもって著者は留保なく、結果としてフランスをヨーロッパ大陸内の第二の勢力の地位に引き下げることで、ドイツは僅か数年内にヨーロッパ経済の主要国家になるだろうと断言していた。コジェーヴは、今日国民国家 gli stati-nazione が抑えがたく国家の諸境界を乗り越え、また“帝国 imperi”の名でもって規定していた政治的諸形態への段階に落ち込んだだろう同様、近代が国民国家の有利になるよう連邦的政治形態の没落を意味したように、その時までヨーロッパの歴史を意味した国民国家の終焉を明晰に見ていた。しかし、コジェーヴによれば、これら帝国から成る、文化の、言語の、生の諸様式の、そして宗教の現実的親近性を捨象する抽象化された統一体は存在することができなかった。諸帝国——彼がすでに彼の眼前に形成されたのを見ていたもの、アングロサクソンの帝国(アメリカとイギリス)とソヴィエトのそれのような——は、“超国家的な政治的統一体であるだろうが、しかし姻戚関係を結んだ諸国家により形成された”だろう。このため、彼は、それについて伝統を纏めたと同時に、地中海に開いているカトリック教会の協定によって経済的また政治的に三つのラテン大国(フランス、スペイン、そしてイタリア)を統一しただろう、ただ一つの“ラテン帝国”を念頭に置くことをフランスに提案していた。プロテスタントのドイツは、事実そうなったように、すぐにヨーロッパ内で最も裕福で有力な国に変わっただろう(アングロサクソンの帝国の諸形態あたりのヨーロッパ外の召命により情け容赦なく引き寄せられるだろう)と彼は論じていた。しかし、フランスとラテン的諸国はこの観点において、必然的に衛星国の周辺的役割に縮減されることで、多かれ少なかれ関係のない政体に留まるだろう。今日に特有なことは、ヨーロッパ連合 l’Unione europea〔EU〕は、文化的な具体的親戚関係がコジェーヴの提案を省察することに有益で緊急であることを無視したままに、形成されたということである。彼が予想していたことは詳細に確証された。生の形式の、文化の、また宗教の現実的な諸類縁性を放置したままでいることで、専ら経済的な基盤において存在することを強要する一つのヨーロッパは、(当に反対に経済的平面において)全てのその脆弱性を今日示す。ここに仮定された統一性は反対に諸差異を強く際立たせたし、また各々は、より豊かな少数の諸利益をより貧しい大多数に負わせる状態に落ちぶれることと関係がありうるだろう。そして、それら〔少数と大多数〕はよく、その最近の歴史の上に模範を考察することについて何も示唆しない、ある一つの国家の諸利益と同時に起きる。一人のギリシャ人、または一人のイタリア人が一人のドイツ人のように生きることを強く求めるのは、役に立たない唯一のことではない。しかし、このこともありうると仮定した時、これは、まず初めに生の形式によって作られたその文化的遺産の喪失を意味するだろう。そして、生の諸形式を無視することを要求するある政治的な統一性は、とどまることを運命づけられないだけではなく、また、ヨーロッパが雄弁に示すように、このように構成することすらできない。多くの兆候が予見させるように、もしヨーロッパが非情にも解体されることが望まれないなら、ある政治的現実性をコジェーヴがラテン的帝国と呼んでいたことに似た何かに返還することを試みることで、ヨーロッパ的な構成(それは、公法的な観点からそのことを覚えておくことがよいが、ある構成ではなく、しかし、このような、人民の投票に委ねられていない、また、フランスやオランダにおけるように、そこではそれがあったが、センセーショナルに拒否された、諸国家間の合意〔協定〕である)が違うように再び分節化されうるだろうといったように今や考え始めることは、配慮すべきである。

世界の終末について Sulla fine del mondo

2020-06-10 17:29:00 | Agamben アガンベン

世界の終末のテーマはキリスト教の歴史の中で何度も姿を現し、またいつの時も最後の日はとても近いと告げる預言者たちは現れた。今日、(教会は凋落するがままになる)この終末論的な任務は、絶対的な確実さでもって地上の生命の終わりをもたらす気候に関するカタストロフィーを予告し記述する、預言者として常により頻繁に引き合いに出される科学者たちによって引き受けられたことが特異的である。もし、現代において科学は信仰を代理し、ある実際的な宗教的役割を引き受けたことが考慮に入れられるなら、特異的なのは(しかし驚くことではない)、むしろあらゆる意味において(そこにおいて人類が信じる、あるいは少なくとも、信じていると信じる)私たちの時代の宗教だろう。

あらゆる宗教のように、また科学の宗教も終末論(即ち、恐怖の中で信者たちを維持しつつ、信仰を強化し、また同時に、聖職者の階級の支配を保証する装置 dispositivo)を欠くことはできなかった。この意味でGreta (1*) のような人の出現は兆候的である。Greta は盲目的に科学者たちが予言することや、2030年に世界の終わりを期待することにおいて信じ、まさに中世における千年至福説信者たちとして、世界を審判することへのメシアの差し迫った回帰において信じていた。少なからず兆候的なのは、(唯一の要因—大気中のCO2のパーセンテージ—についての黙示録的諸診断に集中しつつ)驚くべき無垢さでもって人間性の救済は原子核エネルギーにあると表明する科学である、Gaia理論の考案者のそれとしてフィギュールである。両方のケースにおいて、賭け金が宗教的であり科学的でない性格を持っていることは、歴史のキリスト教的哲学によって扱われる用語—救済 la salvezza—をそこに敷衍する、中心的な機能の中で変形される。

現象は、科学が決してその固有の諸任務のあいだで終末論を枚挙せず、また予言的な新たな任務の引き受けが、そこで出現 l’avvento を産出するカタストロフィーにおいて固有の否定できない責任の自覚を表すことが可能である限り、より不安を誘う。当然、あらゆる宗教におけるように、科学の宗教もその不信心者たちと反対者たち、つまり現代の他の広大な宗教—金銭の宗教—のシンパたちを保持する。しかし、分割された見かけの中で、二つの宗教は秘密裡に連帯している。科学(科学者たちが今日告発する破局的状況を定めた技術と資本)のあいだの常により緊密な同盟は確かにあったのだから。

これらの考察は、産業革命が生けるものたちの物質的かつ霊的な諸状況の中で生産する汚染ならびに有害な変化の問題の現実性に関して明確な態度をとることを意図しないのは、明白であるだろう。反対に、宗教と科学的真理のあいだの、また預言と明晰さのあいだの混乱に対し、利害関心〔私利私欲〕のある側面から無批判に、(最後の分析の中で政治的である以外にありえない)固有の選択と固有の判断を人々に命じさせることは問題ではないことを告げる。

2019年11月18日
ジョルジョ・アガンベン

原文サイト→https://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-sulla-fine-del-mondo

訳注(1*) Greta Thunberg(グレタ・トゥーンベリ):スウェーデンの女性気候変動問題活動家。


社会的距離化 Distanziamento sociale

2020-05-01 20:50:00 | Agamben アガンベン

《死が私たちをどこで待ち受けるか、私たちはどこにおいてもそれを待ち受ける故、私たちは知らない。死の省察は、自由の省察である。死を学ぶ者は、服従することを忘れる。死を知ることは、私たちをあらゆる隷属とあらゆる強制から自由にする。》ミシェル・ド・モンテーニュ

 

歴史があらゆる社会的現象がいくつかの政治的含意をもつ、あるいはもちうることを私たちに教えるゆえに、注意をもって今日政治的語彙の中の入口をなした新たな概念“社会的距離化 distanziamento sociale (social distancing)”を書き留めるよい機会である。この用語はこれまで使われた“境界化 confinamento”の用語の粗野さに関する婉曲語法として蓋然的に作り出されたにもかかわらず、何がそれの上に基づいた政治的秩序でありうるのだろうかが問われる必要がある。このことは、純粋に理論的な仮説としてだけ問題でないなら、より多くの方面から言われ始めたように、現行の公衆衛生上の緊急事態が、人間性を期待する政治的ならびに社会的な新たな諸局面がその中で準備される実験室として見なされうることがもし真実であるなら、尚更いっそう緊急である。

毎回起こるように、このような状況はもちろん肯定的であるように考えられることを、また新たな諸デジタルテクノロジーがしばらく前から、容易に遠隔コミュニケーションを可能にすることを示唆する愚かな人々がいるにせよ、“社会的距離化”の上に基づいた共同体は、人間的にもまた政治的にも生きうるものだとは私は信じない。いずれにしても、どのようなパースペクティヴが存在するのかということが、私たちが省察すべきこのテーマの上にあるように思われる。

最初の考察は、“社会的距離化”が産出した現象の全く特異な自然に関係する。カネッティは、その代表作である『群衆と権力』において、権力が触れられた存在の恐怖の転倒を通じてその上に設立される、群衆を定義する。人間たちは概して、見知らぬものから触れられることを恐れ、また人間たちが自身の周囲に設けるすべての距離は、この恐れから生まれる一方で、群衆はこのような恐怖においてその反対に向かい逆転される唯一の状況である。《群衆においてのみ、人間は触れられることの恐怖から解放されうる... その中で群衆へと身をゆだねる瞬間から触れられる存在になることを恐れない... 私たちに悩まされる者は誰も私たちと等しくあり、私たちが私たち自身を感じるように、私たちはその人を感じる。不意に、それはあたかも全てが唯一の身体の内部で生じるかのように... 触れられた存在の恐怖のこの逆転は群衆に特有なものである。まさに群衆が密であればあるほど、その中に拡散する苦悩の緩和はある顕著な水準に達する》。

カネッティが、ここで私たちが正面から遭遇する群衆の新たな現象学について何を考えたのだろうか私は知らない。社会的距離化の諸措置とパニックが作ったことが確かに群衆であり、しかし言うなれば、なんとしても一方が他方から距離を保つ個々人によって形成された、裏返った群衆である。密ではない、したがって、しかし疎であり、それでもやはり、もしこれがカネッティがすぐ後に明確にするように、その密集状態とその受動性により、《真に自由な運動はそれらにはないだろう... それは期待する、それらのことに示されるべきだろう指導者〔トップ〕を期待する》という意味において定義されるなら、まだ群衆である群衆。

何ページか後で、カネッティは禁止を通して形成された群衆を記述する。《その禁止において同じように統一された多くの人々は、ある瞬間まで単独として形成していたことをもはやなさないことを欲する。禁止は突然であり、単独者たちがもし独りでそれを負うなら... いずれにせよ、それ〔禁止〕は最大限の力でもって影響を与える。それはある秩序としてのカテゴリーであり、この〔禁止の〕ため否定的特徴は、やはり決定的である》。

社会的距離化の上に形成されたある共同体が、無邪気に考えられるように、行き過ぎた個人主義に関係しないことが見過ごされたままにならないことは重要である。それ〔共同体〕は、まさしく反対に、今日私たちの周囲で私たちが見るように、疎であり、そして禁止に基づいた、しかしまさにこのために、著しく密で受動的な群衆なのであろう。

2020年4月6日
ジョルジョ・アガンベン

原文サイト→https://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-distanziamento-sociale


ペストについての省察 Riflessioni sulla peste

2020-04-30 21:00:00 | Agamben アガンベン

私たちの辿る省察はエピデミックに関わらないが、人間たちのそれへの関係から私たちが理解しうることである。つまり、それによって全社会が感染したと感じること、家に隔離され、また生の通常の状態(仕事や友情、愛や宗教的ないし政治的信念にいたるそれらの関係)を宙吊りにすることを受け入れた容易さ facilità について省察することが重要である。想像しえていたこと同様、また通常これらのケースにおいて起きることのように、なぜ抗議や反対はなかったのか? 私が示唆したい仮説は、何らかの仕方で(それは純粋に無自覚=無意識的であろう)、明らかに人々の生の諸状況をこのように変化させていたペストは既にあったということであり、それらは、まさにペストのようであった—つまり、抗しがたい—ものによって出現するため、突然の印〔兆候〕は十分だったというものである。そして、ある意味で、これは現在の状況から引き出されうる唯一の肯定的な与件であり、また、後に人々がその中で生きていた様式がもし正当であったならと自問し始める可能性である。

また、それについて少なからず熟慮が要ることは、状況が出現させる宗教の必要性である。メディアの繰り返す言説において、現象を記述するため、特にアメリカのジャーナリズムの上で、強迫的に《アポカリプス》の言葉へ遡る、また度々明らかに世界の終わりを喚起する、終末論的ボキャブラリーの借用において取り上げられた専門用語が兆候である。それはあたかも(教会がもはや遂行する能力のない)宗教的必要性は、そこにおいて構成する他の場を手探りで探し、もはや私たちの時代の宗教になった事柄、即ち科学においてその場を見出しているかのようである。あらゆる宗教同様、これ〔科学〕は迷信や恐怖を作り出すことができ、あるいはいずれにせよ、それらを拡散するために使われる。今日のように異なり矛盾した意見と規定の(危機の瞬間の宗教の特色である)スペクタクルに居合わせれたことはなかった。〔その意見と規定は〕現象の重大性を否定する者たちの(ただ威信のある科学者たちにより代表された)少人数の異端の立場から、現象を主張し、またしかしながら、しばしば根本的に現象に直面する諸様式に関して一致しない正統的で支配的な言説へ向かう。そして、相変わらずこれらのケースにおいて、どの専門家たち、またこのように自称する者たちは、ある集団または他のもののための特定の諸利益によって決定し、それらの基準=措置を課す、君主の好意を(キリスト教を分割していた宗教的論争の時代のように)確かめることができるようになる。

考えるきっかけとなるだろう他のことは、あらゆる信念と共通の信仰の明らかな崩壊である。人間たちは、どんな犠牲を払ってでも助ける必要がある生物学的な裸の存在以外もはや何も信じないと言えるだろう。しかし、生命を失う恐れの上で、ただ独裁〔専制〕政治 tirannia のみ(ただ鞘から抜かれた剣をもつ残酷なリヴァイアサンのみ)設立される。

このため—いったん緊急事態(ペスト)が終わったと宣言されるなら、もしそうあろうとも—輝きのごく僅かを保存した者にとってさえも、最初のように生きることへ戻るのは可能だろうとは信じない。そしてこれが恐らく今日、最も失望させることである—たとえ、言われたように《もはや希望を持たない者のためだけに希望は与えられた》にせよ。

2020年3月27日
ジョルジョ・アガンベン

原文サイト→https://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-riflessioni-sulla-peste


感染 Contagio

2020-04-02 22:27:00 | Agamben アガンベン

L’untore! dagli! dagli! dagli all’untore!

Alessandro Manzoni, I promessi sposi

〔翻訳者注:ここで冒頭の引用に出てくる、l’untore は「ペスト塗り」という歴史的用語である。辞書的には“17世紀のペスト流行期にミラノで、ペストの毒を含んだ油を家の門や壁に塗り、病気を蔓延させたという嫌疑を受けた人”のことである。〕


コロナウィルスのいわゆる流行の際、イタリアであらゆる手段でもって人々に広めるようにさせるパニックのより非人間的な帰結の一つは、感染の同様の理念の中にあり、それは、政府から講じられた緊急事態の例外的措置から成る。ヒポクラテス的な医学に属さなかったこの理念は、1500年代から1600年代の間にどのイタリア的都市も荒廃させたペストの期間中に、その最初の気づかれざる兆候を保持している。『悪名高いコラムの歴史』についての論評同様に、彼の小説の中でマンゾーニによって不朽の名作にされた、ペスト塗りの形象〔人物像〕が問題である。1576年のペストのためのミラノのある“お触れ〔禁令〕”が、小都市にこれらのことを通告することで、次の仕方で描写する。

《いかなる人々が、愛徳の弱い熱意でもって、そして、ミラーノのこの都市の人民と住民たちに恐怖と心配を負わせるため、また、彼らに何らかの騒乱を呼び起こすため、有害で感染性であることを告げるため、家のドアと掛け金と、いわゆる都市の地区の角、国の他の土地を、ペストを私的なものと公的なものにもたらす口実で、しだいに塗油するようになっているのか、同様に、何が沢山の厄介事を、そして、人々——主に容易にそのような事を信じるように説き伏せられ、自分のために誰かある人に、どの身分、地位、階級と境遇(もし、彼が 500スクードを提供するなら、40日の期間 (*1) の中で、明らかになるだろう人、あるいは支援され、助けられ、あるいはこのような無礼な行為について知れている人)——の間にかなりの動揺をもたらすかという総督の通知が届いたことで…》

然るべき違いがなされるなら、最近の諸措置(私たちが乗り越えること—しかしそれは、予期された幾日かの期間内の法議会においては確認されなかっただろう幻想である—を好むいくつかの命令を伴う政府からの捕捉)は、事実上あらゆる個人を潜在的ペスト塗りに変形する。正にテロリズムについてのそれらが権利事実上、あらゆる市民を潜在的テロリストとして見なしていたように。規定に関係のない潜在的ペスト塗りは、牢獄でもって罰を課せられているといったアナロジーは、このように明白である。特に嫌われたのは、ペスト塗りから守られたようには、彼から守られうるわけではないのに、諸個人の多数性に感染する、健康あるいは早熟なキャリアーの形象である。

ましてや諸処置の中に含まれた自由の制限の悲しみは、私の意見では、それらが引き起こす、人間たちの間の関係の悪化である。彼が誰であれ、他の人間、親しい人にも近づいてはならず、触れられてもならず、また私たちと彼の間にむしろ、ある人々によれば 1メートルの、しかし、いわゆる専門家たちの最近の進言では、4.5メートル(興味深いことにこの 50センチメートル!)のそれであるべきだろう距離を置く必要がある。私たちの約束は破棄された。与えられた私たちの政府の倫理的な頼りなさでは、これら諸処置は、それらが引き起こそうと意図する同様の恐怖から影響がある人に課せられることが可能であり、しかし、それらが作り出す状況は正に、私たちを管理する人が幾度も実現しようとするそれ〔翻訳者注:恐怖のこと〕であることを、大学と学校がこの時ばかりに閉鎖され、マシーンが人間存在の間のそれぞれの接触 contatto —それぞれの感染 contagio —を代理することが可能な至るところで、政治的あるいは文化的な理由で会議し、話すことをやめ、またデジタルメッセージのみが交換されるだけの、オンラインでのみ授業が行われることを、考えないことの困難である。

2020年3月11日
ジョルジョ・アガンベン

原文サイト→https://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-contagio

 

(*1) 黒ペストが流行した14世紀に港で船を40日間の検疫停泊(封鎖処置)させた事から、その日数が言われている。そこから、イタリア語では「検疫」を意味する言葉が、quarantena(元は数字の40)と呼ばれる。


アガンベン『グスト Gusto』(2015, Quodlibet) の紹介と注釈

2019-01-07 21:32:19 | Agamben アガンベン
〔タイトルの Gusto は、イタリア語で“味覚”の意以外に、“美的な様式や好み、楽しみ”といった含意もある〕


1. 知識と快楽 Scienza e piacere

未だ知恵の実を食べ、楽園失墜に追いやられた君たちに、どのような情熱があるだろうか? 知恵が情熱の在り処を隠すなら、それこそが我々の探求の狙いだろう。君たちの生の情熱。一体いかほどか? 君たちの知らない知とは、味覚としての知だとしたら? あるいは、未だ快原理に属している(盲目の)知と、“別の知 altro sapere”のあり方の識別。

(党派性に根ざした闘争心。これは、限界にしかなっていないという証拠だろう。やがて、君たちは知識によって、知識故に苛まれる。)

あるいは、別の?

«L'estetica moderna, a partire da Baumgarten, si è costruita come un tentativo di indagare la specialità di questo «altro sapere» e di fondare l'autonomia accento alla conoscenza intellettuale (...).» p.12
「バウムガルテンから始まる近代美学は、この“別の知 altro sapere”の特殊性を探求し、また知的意識の横に自律性を創設する試みとして構築された。」

つまり、ここでは君たちの“知的意識 la conoscenza intellettuale”(論理的意識や概念でもある)から隠れた「情熱」の問題を、味覚という感覚機能(感覚的認識や直感でもある)を通して接近しようとしている。

«Solo perché verità bellezza sono originalmente scisse, solo perché il pensiero non può possedere integralmente il proprio oggetto, esso deve diventare amore della sapienza, cioè filosofia.» p.13
「ただ真理と美が根源的に分裂しているときのみ、ただ思考が完全に固有の対象を所持できないときのみ、それは知について愛すること amore della sapienza、即ち哲学になるだろう。」

このことは精神分析的に見ても面白い。哲学、つまり知を愛することが根源的に真理と美の分裂、固有の対象の非所持により成り立つのだとすれば、それは精神分析が実際には哲学に近い立場にあるということではないだろうか? つまり、ここでは意識が快原理(の主体)の固有の対象—それが、“新しい”知識であれ—保持することが重要なのではない。それが、真理と美のあいだで根源的に“失われている”ことが重要なのだ。それ故に、人は(未だ快原理に囚われたままでいる)利害関心からの出口を見いだすに違いない。


2. 真理と美 Verità e bellezza

美しい花と花の美しさの違い。無知でも美しい花に目は止まり、時には心も奪われるだろう。だが、「花」の美しさとは? 知識を通じて見た場合の美とは?

《君は美しい。》——この場合、美は形容詞だ。
《君には美しさがある(ように私には見える)。》——この場合、美は抽象名詞であり、存在と所属の問題に遷移されている。

花の美しさ。あるいは、美しさがある(ように思える)。いずれにせよ、盲目ではある。無知ではないかもしれないが、盲目ではある。だが、どうしてか? 何か混乱してはいまいか?

イデアとしての美。これは、プラトンの弁証法の根源的なパラ-ドクサだろう。恋する者の葛藤。知識故の盲目と、実際上の問題。あるいは、プラトンの美的弁証法とソクラテスのアイロニカルな弁証法の根本的な位相差?

果たして、美しさ / あるいは美は目に見えるのか?

«Il paradosso della definizione platonica della bellezza è la visibilità dell'invisibilità.» p.14
「美のプラトン的定義のパラドックスは、不可視性の可視性である。」

«La visibilità dell'idea nella bellezza è, infatti, l'origine della mania amorosa, che il Fedro descrive costantemente in termini di sguardo, e del processo conoscitivo che essa pone in essere, il cui itinerario è fissato da Platone nel Simposio.» pp.14-15
「実際、美におけるイデアの可視性は、『ファイドロス』が忠実に眼差しという表現で描写する愛の妄想〔熱中、固定観念、強迫観念〕と、それが『饗宴』におけるプラトンから囚われた行程である、存在に据える認識の過程の起源である。」

つまり、アガンベンは美におけるイデアの可視性を、プラトンが囚われたままでいる愛の熱病 la mania amorosa として、また、それを存在に据える認識的過程の起源として問題視している。その場合、その熱病と認識的過程の固有の対象は、プラトン哲学においては“失われている”と見なせるだろう。そして、それが眼差し sguardo として表現され、同定されていることにも留意がいる。

繰り返す——。美におけるイデアの可視性とは、愛の熱病 la mania amorosa と、それが存在 essere へと据える認識的過程 il processo conoscitivo の起源にある問題である。そして、そのような(不可視性の)可視性が、美のプラトン的定義のパラドックス il paradosso でもある。

ここで、我々のテーマに戻ろう。美が、存在において見出される(そのように見える、つまり見せかけや眼差しの位相)とは、一体どういう事態なのか? 我々はそうプラトンから遠くはない。

«Nello stesso Simposio lo statuto di Eros nell'ambito della conoscenza è caratterizzato come medio fra sapienza e ignoranza e, in tale senso, paragonato all'opinione vera, cioè a un sapere che giudica con giustezza è coglie il vero senza poterne, però, dar ragione.» p.15
「当に『饗宴』の中で、意識の領域におけるエロスの身分は知識と無知のあいだの中間として特徴づけられており、この意味において、真の判断、つまり的確に評価する知に比せられており、またしかし、それについて根拠〔理由〕を与える能力なしに真理を掴む。」

«Ed è proprio questo suo carattere mediale che giustifica la sua identificazione con la filosofia» p.15
「そして、哲学によってその同一性を認めるこの中間的な〔媒介的な〕特性こそが、固有である。」

この二文は、解釈が難しいだろう。エロスにおける知識と無知の中間性の身分の特性が問題であり、それは的確に判断するある知 un sapere に比せられる。それに根拠を与える能力なし senza poterne dar ragione に、それは真理を掴む。これは、完全な根拠を与えるような知恵=学識=賢明さ sapienza なのではなく、ある無知 ignoranza とのあいだの中間性の知 sapere であると言えるかもしれない。そして、哲学が同一性を認めるのは、この中間的な〔媒介的な〕特性であり、それこそが固有である。この固有性は、対象の“失われた”固有性(の非所持)とは、“別の”あり方をしているに違いない。

«Sempre nel Simposio, l'itinerario amoroso è descritto come un processo che va dalla visione della bellezza corporea alla scienza del bello (toû kaloû máthēma) e, finalmente, al bello in sé, che non è più né corpo né scienza» p.16
「『饗宴』において常に、恋〔愛〕の行程は肉体的美のヴィジョンから美の知識 (toû kaloû máthēma) に向かい、また最終的に、もはや肉体〔身体〕でも知識でもない、それ自体における美に向かう。」

«Il compito paradossale che Platone assegna alla teoria dell'amore è, dunque, quello di garantire il nesso (L'unità e, insieme, la differenza) fra bellezza e verità, fra ciò che vi è di più visibile e l'invisibile evidenza dell'idea.» p.17
「プラトンが愛の理論に委ねるパラドクシカルな役割は、要するに、 美と真理のあいだの(つまり、より可視的であることとイデアの不可視の明白さのあいだの)結びつき(統一性と、同時に差異性)を保証するそれである。」


例えば、天上を見上げ星座を美しいと思う。このような星座は、科学 la scienza としてあるわけではない。つまり、可視性の美以上のものとして天の星座を見るが故に、それは心に美しく思える。

«La bella varietà delle costellazioni celesti non può essere, come tale, oggetto di scienza» p.17
「天の諸星座の美しい多様性は、このように、科学の対象ではありえない。」

«Ma solo se si potesse fondare un sapere delle apparenze in quanto tali (cioè, una scienza del bello visibile), sarebbe allora possibile affermare di aver veramente «salvato i fenomeni».» p.18
「しかし、ただもしこのようなこと(つまり、可視的な美の科学=知識)に関して、現れの知 un sapere delle apparenze を基づかせることができれば、真に《諸現象を救済した salvato i fenomeni》ことを認めることができるだろう。」

«L'epistēmē, di per sé, non può che «salvare le apparenze» nei rapporti matematici, senza pretendere di esaurire il fenomeno visibile nella sa bellezza.» p.18
「エピステーメーは(それ自体としては)数学的な諸関係の中で、その美において可視的な現象を消尽することを要求しないで、《現れを救済すること salvare le apparenze》以外しえない。」

我々は教義のリーズニング(イタリア語では ragionamento)やその知恵、または学知=知識 la sapienza, o la scienza に依ることではなく、現れの知 un sapere delle apparenze に向き変えることを学ぶ方がいいだろう。

«Per questo il nesso verità-bellezza è il centro della teoria platonica delle idee.» p.18
「このため、真理-美の結びつきは諸イデアのプラトン的理論の中心である。」

«La bellezza non può essere conosciuta, la verità non può essere vista: ma proprio questo intrecciarsi di una duplice impossibilità definisce l'idea e l'autentica salvazione delle apparenze che essa attua nell'«altro sapere» di Eros.» pp.18-19
「美は知られえず、真理は見られえない。しかしこの二重の不可能性の絡まり合いが、エロスの《別の知 altro sapere》においてそれが実現する、現れのイデアと確かな救済を定義するそのものである。」


† ここまでで我々は、我々の問題を見失わないために、以下のようなこれまでの足取りを振り返っておくことが有効かもしれない。

経験における、「古い-同じ-別の-新しい」という問題を我々は巡っていた。ここでは、根本的な新しさは、知識の側ではなく経験に位置しているのだった。だが、この経験における同一性の変容を、我々はどのように考えることができるのだろうか? 変容を、眼差しの深さに見出すのは、未だ知識の深さという微睡みや錯覚からは逃れていないことを意味するだけであった。

つまり、我々は新しい経験とそれによる変容の可能性について、「別の知 altro sapere」(Agamben) という様態の基に再発見しなければならない。根拠を理性の側ではなく、「美の現れ l'apparenza del bello」(Carchia) の方に置かなければならない。

論理の見せかけ sembiante から美の現れ apparenza ——。そこに、諸現象の救済 la salvazione dei fenomeni のテーマがあった。そして、それはある種の経験主義を持っている。
-----

«La teoria platonica dell'amore non è, però, soltanto la teoria di un sapere altro, ma, anche e nella stessa misura, la teoria di un «altro piacere».» p.20
「愛のプラトン的な理論は、だが、ただ別の知の理論なだけではなく、しかし、また同じ尺度において、《別の快楽 altro piacere》の理論でもある。」

«La frattura della conoscenza che Platone lasciava in eredità alla cultura occidentale è, dunque, anche una frattura del piacere» p.21
「プラトンが西洋文化の遺産の中に残していた意識の割れ目は、したがって、快楽の割れ目でもある」

“il problema estetico del gusto, che è, insieme, un problema di conoscenza e di piacere, anzi, nelle parole di Kant, il problema dell'«enigmatica» relazione del conoscere del piacere” p.22
“趣味=味覚〔美的センス、テイスト、好み、楽しみ〕の美学的問題(同様に、意識と快楽の問題でもある)は、むしろ、カントの言葉において、意識と快楽の《謎めいた》関係の問題である”


3. 享楽する知と認識する快楽 Un sapere che gode e un piacere che conosce

この gusto というイタリア語は多義的であり、快楽 piacere と享楽 godimento の両方を含み、その両者のあいだの問題の繋がりと亀裂をも呈示している。もちろん、この用語は恐らくヨーロッパの美学的テーマの転回点を指し示してもいる。

«Il gusto appare infatti fin dall'inizio come un «sapere che non sa, ma gode» e come un «piacere che conosce».» p.22
「趣味 gusto は事実、最初から《知らずに、しかし楽しむ知 sapere che non sa, ma gode》として、また《知る快楽 piacere che conosce》として現れる。」

享楽とは、逆説的には意識と快楽の間の“無意識の謎”だとしたら? だとすれば、享楽を意識において知ることはナンセンスであるばかりか、無駄にしかならない。何故なら、それは“知らずに non sa”楽しむような知 sapere だからだ。ここでも、享楽の“理論を知る者”は、実際には頓挫してしまう。

美と享楽の結節点としての趣味——。この主体の亀裂が明かすのは、知られない享楽=知 godimento-sapere と享楽されない快楽=意識 piacere-conoscenza の問題である。美と真理のパラドックスは、イデアの可視性と不可視性の問題として、先に措定された。次は、美と享楽である。これら二重のパラドックスと亀裂。我々はこの両者の移行と断絶に、ミステリーの構造を読み解いたばかりである。

さしずめ、piacere-sapere を巡る美学的判断の“謎めいた関係”(Kant) とは、主体においては美と真理のパラドックス、そして快楽と享楽の亀裂としてミステリー化されているとでも言うべきだろう。このテーマは、エコノミー(オイコノミア)の問題と通底する。そしてまた、ここで我々が思い出すのは、フロイトによる意識と記憶の相互排他性という無意識の痕跡—つまり、それこそがミステリーである—に由来する分裂である。

† 無意識には、救済(経験論)と神秘(エコノミー)の問題がある。とりわけ、記憶痕跡における相互排他性—意識のパラドックスと快楽と享楽のあいだの亀裂。
-----

«In questa prospettiva, il gusto appare come un senso soprannumerario, che non può trovare posto nella partizione metafisica fra sensibile e intellegibile, ma il cui eccesso definisce lo statuto particolare della conoscenza umana.» p.27
「この見方において、趣味 gusto はある定数以上の感覚として出現する。それは可感的なものと叡知的なもののあいだの形而上学的な分割における場を見出すことはできず、しかしその超過は人間的意識の特殊な規則を定義する。」

p.28??? «Un tale senso,

«In questa prospettiva, il bello, come oggetto del gusto, finisce con l'assomigliare sempre più all'oggetto della sorpresa, che Descartes, con espressione significativa, definiva appunto come “cause libre”: un oggetto vuoto, un puro significante che nessun significato ha ancora riempito.» p.30
「この見方において、(趣味の対象としての)美は、意義深い表現でデカルトがまさに“自由の原因 cause libre”—未だいかなる意味内容も孕まないある純粋な意味作用である、空虚な対象—として定義していた、驚きの対象により常に類似するに至る。」

«Nella sua formulazione più radicale, la riflessione settecentesca sul bello e sul gusto culmina così nel rimando a un “sapere”, di cui non si può rendere ragione perché si sostiene su un puro significante (Unbezeichnung, «assenza di significato», definirà Winckelmann la bellezza), e a un “piacere” che permette di giudicare, perché si sostiene non su una realtà sostanziale, ma su ciò che nell'oggetto è pura significazione.» pp.33-34
「より根本的な公式化において、美と趣味についての18世紀の省察は、こうして“sapere” —それについてはある純粋な意味作用(Winckelmann が美を定義するだろう、Unbezeichnung《意味内容の不在》)の上に支えられるので根拠〔理由〕は与えられない—と、ある実体的な現実性の上にではなく、対象において純粋な意味作用化=表示 significazione であることの上に支えられるので、判断することを可能にする“piacere”への参照において頂点に達する。」

端的に述べれば、趣味としての il gusto は、“sapere” と “piacere” という用語参照の上に、その問題の射程を持っている。


4. 超過する意識 La conoscenza eccedente

«Il giudizio di gusto è, in altre parole, un'eccedenza del sapere, che non conosce (un «giudizio con cui non si conosce nulla»), ma si presenta come piacere, e un'eccedenza del piacere che non gode [...], ma si presenta come sapere.» p.36
「趣味判断は、他の言葉の中で、知らない(《それによって何も知られない判断》)知のある超過であるが、しかし快楽として現れ、また、享楽しない快楽のある超過であるが[…]、しかし知として現れる。」

«In queste parole di Kant è ancora presente in tutta la sua enigmaticità l'originale fondazione platonica dell'idea attraverso la differenza-unità di bellezza e verità. Come l'idea platonica, così anche l'idea estetica kantiana è tutta contenuta nel gioco fra una possibilità e impossibilità di vedere (di immaginare), fra una possibilità e un'impossibilità di conoscere. L'idea è un concetto che non si può esibire o un'immagine che non si può esporre. L'eccedenza dell'immaginazione sull'intelletto fonda la bellezza (l'idea estetica), così come l'eccedenza del concetto sull'immagine fonda il dominio del sovrasensibile (l'idea della ragione).» p.39

「カントのこの言葉においてまた、全きその不可解さの中に、美と真理の差異-統一性を通じたイデアのプラトン的な根源の基礎が現れている。プラトン的なイデアとして、このようにまたカント的美学のイデアも、見ることの(イメージすることの)可能性と不可能性のあいだの、知ることの可能性と不可能性のあいだの戯れの中に全て含まれている。イデアは提示されえない概念であるか、または、掲示されえないイメージである。知性〔悟性〕についてのイマジネーションの超過は美(美学的理念)を設立し、このようなイメージについての概念の超過として、超感覚的なもの(理性の理念)の領域を基礎づける。」

アガンベンによるプラトン=カントの美学的理念の解釈。この事こそが、フロイトにおける自我理想とそれを引き継ぐ超自我の問題系を接ぎ木している。


5. 知の主体の彼岸へ Al di là del soggetto del sapere

サイエンスの規定 lo statuto della scienza とは何か?——それは、知られている知 sapere che si sa に他ならない。これについては論証〔根拠〕が与えられうる di cui si può dar ragione 。(また、アリストテレスにおける学=エピステーメーの定義を思い起こしてもいい)

一方、快楽の規定 lo statuto del piacere とは何か?——ある知を所有に根拠づけることができないということだ。(その意味では、ラカン的な主体は快原理の主体としては正しい。その主体は真理と知のあいだで分裂している)

だが、そのような主体は科学的な主体であるのか? 意識においては然りだろう。理論上はそうも読めるし、そう踏襲する人間もいる。だが、その分裂は無意識においてであり、意識はそれについて不能と不可能という様相に置かれている。

一方で、意識と快楽の関係があり、他方で無意識と快楽の規定がある。意識—知—快楽について、我々は論証を与えることができるだろう。理論においてもそれは可能である。だが、無意識と快楽という規定を考えた時に、主体はその知を所有することはできない。ここに、再び経験の問題を見ることは容易い。

«L'oggetto e il fondamento di questo sapere che il soggetto non sa è designato come bellezza, cioè come qualcosa che, secondo la concezione platonica, si dà a vedere (tò kállos, «il bello», è la cosa più apparente, ekphanéstaton), ma di cui non è possibile la scienza, ma solo l'amore; ed era anzi proprio l'esperienza di questo impossibilità di afferrare l'oggetto della visione come tale (di «salvare il fenomeno») che aveva spinto Platone a configurare l'ideale della conoscenza non come un «sapere» in senso etimologico (una sophía), ma come un desiderio di sapere (una philo-sophía).» p.42

「主体が知らないこの知の対象と根拠は美として、即ち、プラトン的着想によって、見られはじめるだろう何か(tò kàllos 美)—それはより人目を引く ekphanéstaton 事物である—として規定される。しかし、それについて科学は可能ではなく、ただ愛のみが可能である。そして、それは寧ろ正に、このような(《現象を救済すること salvare il fenomeno》の)、プラトンが語源的な意味における《知 sapere》(sophía) としてでなく、知の欲望 (philo-sophía) として意識の理想を形作ることに至らしめたヴィジョンの対象を掴むことの、その不可能性の経験であった。」

〔続く〕

Mysterium iniquitatis - La storia come mistero

2018-09-28 17:00:32 | Agamben アガンベン
〔翻訳者注記:以下の一節は、2013年にイタリアで出版された『悪の神秘—ベネディクト16世と時の終わり』の中に収められている「Mysterium iniquitatis—神秘としての歴史」から訳出した。これは、2012年11月13日にスイス・フライブルクの会合にて発表された未刊のテクストの掲載である。〕


4.
Odo Casel—そして、彼の信奉者において、二十世紀の“典礼的運動 movimento liturgico”と呼ばれた事柄—が、典礼の聖霊からの教会の復興のそのプロジェクトを基礎づけたのは、この語の正確な翻訳においてである。既に彼の学位論文 De philosophorum graecorum silentio mystico(ギリシア諸哲学の神秘的沈黙について、1919年)の中で、Casel はギリシア語において mysterion は、ある言説の中で公式化されるだろうが、しかし明らかにすることを禁止された、秘密の教義 una dottrina segreta を規定しないことを示す。mysterion の語彙はむしろ、ある実践、行為、もしくは語の演劇的でもある意味におけるドラマ(すなわち身振りの一致、ある行為もしくは、ある神性な情熱がそれらを共有する人々の救済のための世界や時間の中で、これらを通じて効果的に実現化する行為と言葉の)を示す。このため、アレクサンドリアのクレメンスは、エレウシス的なミステリーを drama mysticon(“ミステリー的ドラマ dramma mistico” (Clemente, p. 30))と呼び、その結果としてキリスト教的告示 il messaggio cristiano を“ロゴスのミステリー mistero del logos” (ivi, p. 254) として定義する。
教会学的な論争において、典礼的運動を考慮に入れつつ、ピウス7世が回勅 Mediator Dei〔神々の仲介者〕によって解決しようとした、教義 dogma についての典礼の優位か、典礼についての教義の優位かをここで決めることは私の意図ではない。むしろ、Casel が典礼についての彼の論文にて、mysrerium の語に関して成し遂げた“神学的文献学”の並外れた課題を遠ざけることが妥当だと私は思うし、教義 dottrina についての典礼の優位に関する彼の諸理念を、彼がヘレニズムのミステリーの語彙からの用語の派生について書くことが如何に本質的に正確かを説明するために共有する必要はないと思う。Casel は、それでもやはり、Isaac Casaubon(近代語源学の創始者の一人)の Exercitationes de rebus sacris (1655) へ遡らせられうる、ある古代的伝統以外に再開しない。

La ragazza indicibile - Mito e mistero di Kore (2010)

2018-09-03 08:44:30 | Agamben アガンベン
IV
1921年に、ラインラントにある Maria Laach の修道院において、Odo Casel というベネディクト修道会の無名のある修道士が、もっと後に“典礼の運動 Movimento liturgico”と定義され、またその名の下に、カトリック教会の中で巨大な影響を行使すべくだった事柄の宣言の一種である、『神秘的祝典としての典礼』(Die Liturgie als Mysterienfeier) を公表する。Casel によれば、もしそれが、その本質において、教義ではなく神秘であり、このように、それが異教的であり、エレシウス教的、魅惑的で謎めいた神秘との創世的な関係を引きずり込むことが理解されないなら、キリスト教の典礼の真の本性は了解されない。すでに1918年の彼の論考(『De philosophorum graecorum silentio mystico』というタイトルで刊行された)において、若き修道士は異教の神秘は、言葉の中で表明されうるだろうが明らかにすることは禁止されていた、隠された教義を含まないことを示していた。起源において“神秘 mistero”はただ、それらを通じて神の行いが人間の救済のための時間と世界において有効に現実化される、実践、身振り、行為、言葉を意味する。
同様に、キリスト教の典礼も、その中でキリストの贖いの御業が教会において、またそれを介して現在化する、ある“神秘的祝祭 festa mistica”である。Casel によれば、“神秘的な実在 presenza misterica”という表現はトートロジーであり、何故なら、実在は典礼的神秘と同様の本性に属するからである。神秘において実在していることは、歴史的個人としてのキリストと同じではなく、しかし、秘跡において間違いなく成就される、その“救済的行為 azione salvifica” (Heilstat) と同じである。“カトリック的典礼のより固有な力は、対象となる神秘が存在するそれであり、またキリストの救済的行為の実現性 (Wirklchkeiterfülltes) で満ちていることである”と、Casel は書く。

Casel が語る“実現性 effettualità”は、神学的な伝統が典礼的行為の ex opere operato〔為された業から〕の効力の教説の中で定めたそれである。それは仮に、ある女性に秘跡を与える聖職者が彼女に性的に乱用するつもりでそれ〔典礼的行為〕を為すのかどうか、または酔っているのか、あるいは罪深い〔邪な〕思考から逸らされているかどうかもまた意味し、秘跡の救済的行為はいずれにせよ、それが司教に依存しているのではなく、キリストに(つまり、その“神秘的な実在”に)依存しているが故に実現化されるのである。キリスト教的神秘の効力はどのみち、またあらゆる可能な状況において、それが人間の業ではなく、神の業であるから保証されている。

異教的神秘の典礼のこの縮小できない効果からより遠いものはない。『黄金のロバ』の最後で、ルキウスがイシスの神秘への彼のイニシエーションを描く時、彼はそこに発見した救済は“不安定である precaria”と定義する (ad instar voluntariae mortis et praecariae salutis)。いかなる確実性もそこにはなく、しかし闇に向かい、あるいは冥界の神々と天上の神々の間で宙吊りにされた小道の上にある、薄明かりの中で存在している一つの進行がある。これらはとりわけ夢の中で対になり、それらがもたらす救済は本質的に不安定であり、何故なら、識別できなく、また高きものと低きもの、光と闇、眠りと目覚めの間の当惑の地帯において、それ〔救済〕は生起するからである。

ラテン語において、praecarius は、ただ praex(quaestio からは区別された、ある言葉の要求)を通じてのみ達成されることである。quaestio は達成されるのを欲することの成就を確実にする適正を備えたあらゆる手段によって為されたある要求である(このため quaestio の用語は終いには、それが常に欲されたことに達せられる拷問を示すようになるだろう)。
もし、この意味において、キリスト教の神秘が常に有効であるなら、不安定性〔不確実性〕precarietà は、その中で異教の入信者が動く—冒険的で夜の—次元である。

アプレイウスの小説は、神秘的イニシエーションについての闊達な描写を私たちに提供する古典古代の比類なき文書である。しかし、これは小説に含まれていたので、学者たちがそれについて然るべき評価を行なったのは常ではない。だが、ジャンニ・カルキアの見事な洞察によれば、本質的な繋がりがあるのは小説と神秘の間のみならず、むしろ、私たちに神秘の感覚を了解させるようにするのに相応しい小説の形態である。従って、小説において多分初めて、冒険と主人公の曖昧さが詳細に、イニシエーションの行程の不安や良心のとがめに、希望や絶望に対応する仕方で、人間的で現世的な要素が神性のできごとの媒介物に(おそらくパロディ的にであろう)なるのである。小説の主人公の周りに織り込む状況や出来事、関係や境遇のもつれ合いは、同時に、(説明しないことが問題であり、しかし、あるイニシエーションの内部として注視することが問題な)神秘としてその生を構成することである。
そしてもし何処からか、古代的神秘の反響音をとらえることが今日私たちに課せられるなら、このことは小説の形態 la forma-romanzo の中の生の枯渇したもつれが解かれることにおいてであり、典礼の効果的な〔説得的な〕豪華さにおいてではない。生それ自体が、同時に、それについての伝授者であり唯一の内容である、mysterion の前に私たちを置く小説、『黄金のロバ』におけるルキウスやジェームズの『ある婦人の肖像』におけるイザベル・アーチャーは何が問題なのか。

Altissima Povertà

2018-06-05 15:00:19 | Agamben アガンベン
(ページ数は原著より)

序言 Prefazione

「生-の-形式、即ち、法の捕捉から完全に逃れたある人間的な生、身体の、そしてもはや横領の中に実体化されない世界の使用を、どう考えるか? もはや固有性を生じないが、しかしある共通の使用に関することのような生を、どう考えるか?」pp.9-10


I. 規則と生 Regola e vita

「住むことは要するに、修道士たちにとって単に、ある場や衣服を共有することを意味するだけでなく、むしろ habitus のそれらである。この意味で、修道士は《住むこと abitare》の様式の上に生きる人間であり、つまりある規則と生の形式に従っている。」p.27

「“habitus”の用語の二つの意味を分割する距離はしかし、決して完全に消えないだろうし、いつまでもその両義性によって修道士の状態の定義を示すだろう。」p.27

「修道士の理想は時間を通した存在の完全な動員のそれであるということと、より明らかな仕方で言われえないだろう。」p.35

「教会の典礼が、仕事と休暇から祭式〔聖務〕の祝賀を分割する一方で、Cassiano の "Istitizioni" の引用した行において明らかなように、修道士の規則は、“opus Dei 神の業”の区別不可能な部分として世話〔保護〕の仕事を考慮する。」p.35

「…修道士の計画はそれに引きかえより正確には、時間を通した生の聖化として定義されうる。」p.36

「そしてもし私たちが今日、私たちの存在を時間や時間割により分節化し、また私たちの内的生をも同質的な線形的時間の経過として、そして倫理的な諸基準や推移の諸連関により測るべき具体的で異質な統一性の交替としてではなく見做すことに完全に慣れているなら、しかしながら、時間と生が初めて親密に殆ど同時に生起するまで重ね合わされたのは、修道院の horologium vitae においてであることを、私たちは忘れるべきではない。」p.37


「諸規則のテクストの検討は、それら〔諸規則〕は法の領域に関して少なくとも矛盾した姿勢を現すことを示す。」p.42

p.46-Non si potrebbe

p.47-In questo senso,

p.48-L'analogia


«La regola, il cui modello è il Vangelo, non può quindi avere la forma della legge ed è probabile che la scelta stessa del termine “regula” implicasse una contrapposizione alla sfera del comandamento legale.» p.63
「(そのモデルが福音書である)規則はしたがって、法の形式を持ちえず、また “regula” という用語の同様の選択は法的命令の領域への対抗をおそらく含んでいる。」

«La “nova lex” non può avere la forma della legge, ma, come “legula”, si avvicina alla stessa forma della vita, che guida e orienta (...).» p.63
「“新しい法 nova lex”は法の形式を持ちえなく、しかし“規則 legula ”として、(導き指導する)生の同様の形式に近づく。」


“l'assimilazione a dio è virtualmente un esilio.” (Filone)
「神への同化は、潜在的には追放〔亡命〕である。」(フィロン)

«L'«esilio dal secolo» è, innanzitutto, un gesto politico, che, in Filone e in Ambrogio, equivale alla costituzione di una nuova comunità.» p.68
「《世俗からの追放》は、まずもって、フィロンにおいて、またアンブロジウスにおいて新しいコミュニティの構築に等しい政治的身振りである。」


«Anche se Tommaso sembra ridurre il problema a quello della differenza fra peccato e regola, il punto decisivo, che gli autori hanno difficoltà a mettere a fuoco, è la trasformazione che è in questione nel passaggio da «promettere la regola» a «promettere di vivere secondo regola» (promettere la vita).» p.74
「もしトマスが問題を罪と規則の間の違いのそれ(著者たちが明確にするのに困難な決定的な点)に縮減しているように思えるにしても、《規則の約束をすること》から《規則によって生きることを可能にすること》(生の約束をすること)への通過において問題なのは、変容である。」

«L'oggetto della promessa non è più qui un testo legale da osservare o una certa azione o una serie di comportamenti determinati, ma la stessa “forma vivendi” del soggetto.» p.74
「約束〔誓約〕の対象はもはやここでは遵守すべき法的テクストやある種の行為、また一連の所定の行動ではなく、主体の“生きる形式 forma vivendi”それ自体である。」

〔ここで問題となっているのも意志 la volontà の審級である。その意味で既に紹介している言語と誓約の関係を論じた『言語活動の秘蹟』や意志と行動を問題化した『カルマン』にも繋がる。広義には、アガンベンにおける身振り il gesto の問題圏と呼べる。〕


II. 典礼と規則 Liturgia e regola

«È evidente che l'esecuzione di una regola di questo genere, che non si limita a prescrivere a un agente una condotta, ma produce questa condotta, diventa estremamente problematica.» p.91
「(実行者〔エージェント〕を一つの振舞い〔処理〕の規定に制限しないが、この振舞い〔処理〕を産出する)この種の規則の実行は、非常に問題的になる。」

〔つまり、これが forma-di-vita の問題でもある。その行為は規則と生を不分明の閾 la soglia indiscernibile として設定する。〕

«Una forma di vita sarebbe così l'insieme delle regole costitutive, che la definiscono.» p.92
「ある生の形式は、(それを定義する)このような構成的規則の集合であろう。」

«In realtà, come Wittgenstein sembra suggerire, l'idea stessa di una regola costituiva implica che sia neutralizzata la rappresentazione corrente secondo cui il problema della regola consisterebbe semplicemente nell'applicazione di un principio generale a un caso singolo - cioè, secondo il modello kantiano del giudizio determinante, in un'operazione meramente logicaIl progetto cenobitico, spostando il problema etico dal piano della relazione fra norma e azione a quello della forma di vita, sembra revocare in questione la stessa dicotomia di regola e vita, universale e particolare, necessità e libertà, attraverso le quali siamo abituati a comprendere l'etica.» p.92
「実際、ウィトゲンシュタインが示唆するよう思えるように、ある構成的規則と等しいイデアは、それにより規則の問題を常に、一般原則のある特殊なケースへの適応において—つまり、単純な論理的操作における、規定的判断力のカント的モデルにより—存立する、繰り返される代理を中和化したことを内包する。修道士のプロジェクトは、規則と行為のあいだの関係の平面の倫理的問題を生の形式のそれに移しつつ、それらが倫理を把握することに慣れさせることを通じて、規則と生、普遍と特殊、必然と自由の同様な二分法を、問題において取り消すように思える。」


«Se l’anno liturgico é, come abbiamo visto, una sorta di memoriale delle opere di Dio scandito secondo il calendario, la lettera delle Scritture sacre è il modo eminente in cui ogni giorno è, al limite, ogni ora sono messi in relazione anamnestica con un evento della storia sacra.» p.103

«L’anamnesi contenuta nella “lectio” «rappresenta» in senso etimologico, cioè rende performativamente presente la realtà di ciò che viene letto.» p.103

«Come la “meditatio” rende potenzialmente ininterrotta la “lectio”, così ogni gesto del Monaco, ogni più umile attività manuale diventa un’opera spirituale, acquista lo statuto liturgico di un “opus Dei”.» p.105
「メディタティオがレクティオを潜在的に中断させないように、修道士のこうしたありゆる振舞い、あらゆるより慎ましい手の活動は、霊的な作品になり、オプス・デイ〔神々の業〕の典礼的法規を獲得する。」

«E proprio questa ininterrotta liturgia è la sfida e la novità del monachesimo, ...» p.105
「そして固有のこの絶え間ない典礼は、〔略〕修道生活の挑戦であり、また新しさである。」


III. 生-の-形式 Forma-di-vita

«Va da sé che, fin dalle origini, il monachesimo è inseparabile da un certo modo di vita; ma, il problema, nei cenobi e negli eremi, non era tanto la vita come tale, quanto i modi, le norme e le tecniche attraverso cui riuscire a regolarla in tutti i suoi aspetti.»
p.117
「起源から、修道生活は生のある種の様式から分離できないのは当然であるが、しかし、修道院そして修道士における問題は、このような生だけではなく、それらを通じて、修道院そして修道士の全てのアスペクトにおいて生を規則化することができるようになる、諸様式、規則、技術である。」

«In ogni caso, il sintagma «forma di vita» sembra acquisire nel francescanesimo un significato tecnico, che è importante non lasciarsi sfuggire. Come abbiamo già visto per l’espressione “regula vitae”, il genitivo non è soltanto oggettivo, ma anche soggettivo;la forma non è una norma imposta alla vita, ma un vivere che, nella sequela della vita di Cristo, si dà e si fa forma.» p131


Karman - Brave trattato sull'azione, la colpa e il gesto

2018-05-12 06:51:19 | Agamben アガンベン
1. 訴訟〔原因〕と罪 La causa e la colpa

«In ogni caso, l'implicazione del protagonista - di ogni uomo - nella sfera del processo - cioè della legge - è così ineludibile e, insieme, impenetrabile, che quando egli pone la domanda decisiva: «come può un uomo essere colpevole?», ...» p.18
「いずれにせよ、訴訟の—即ち法の—領域における中心人物の—人間の—巻き込みは、彼が決定的な問い《どのように一人の人間は有罪になりうるのか》を据える時ほど、逃れられなく、同時に、不可解である……」

«La colpa viene, cioè, spostata dall'azione al soggetto, che, se ha agito "sciente e volente", ne porta l'intera responsabilità.» p.22
「つまり、もし“意識あることと欲していること”が作用したなら、罪は行動から、それを内的責任にもたらす主体へと移されるようになる。」

«La fondazione della colpa nella volontà del soggetto e la stessa elaborazione del concetto di volontà sono, infatti, come vediamo, opera della teologia cristiano.» p.24
「主体の意志における罪の基盤と意志の概念の同様の練り上げは事実、私たちが見るように、キリスト教神学の仕事である。」


«Ma "sancire” significa propriamente «rendere "sanctus"».» pp.28-29
「“sancire=認可・批准すること”はまさに《“sanctus”を付与すること》を意味する。」

«Occorre qui non confondere il sacro e il santo, che Ulpiano distingue risolutamente.» p.29
「Ulpiano が決然と区別する、神聖なること il sacro と聖なること il santo を混同しないことがここで必要である。」

«La distinzione tra il "sacre" e il "sanctus", che Benveniste cerca a questo punto di precisare, non è, però, così agevole» pp.30-31
「バンヴェニストがこの点で特定しようとする、sacre と sanctus の間の区別は、しかし、このように容易ではない。」



«La legge non è sempre stata circondata di una simile aura dì santità.» p.36
「法は聖性の同種のオーラにいつも取り囲まれてはいない。」

«Che la legge si definisca come un'articolazione di violenza e giustizia è un'evidenza a cui un'analisi filologicamente attenta della formulazione originaria dei testi legali rende difficile sottrarsi.» pp.37-38

«Che il delitto non sia un'infrazione della legge a cui consegue, come difesa dell'ordine legale, la sanzione, ma che sia piuttosto la sanzione a determinare il delitto è il nucleo essenziale della teoria pura del diritto di Hans Kelsen.» p.39

“Non ci sono mala in se, ma solo mala proibita.” (Kelsen)
「それ自体には悪はなく、しかしただ、禁止された悪がある。」


2. クリメンとカルマン Crimen e karman

«Un concetto che viene spesso associato a quelli di "colpa" e "causa"è "crimen".» p.44
「colpa や causa のそれにしばしば結びつけられる概念は、crimen である。」

«Come gli altri due, esso significa, secondo i dizionari, tanto l'accusa che il delitto.» p.44
「他の二つのように、辞書によれば、それ [crimen] は犯罪〔違反、反則〕と同様に非難〔告発、告訴〕を意味する。」

«Crimen è, cioè, la forma che l'azione umana assume quando è imputata e chiamata in causa nell'ordine della responsabilità e del diritto.» p.46

«Ogni accusa è, in qualche modo, una calunnia e "criminator", l'accusatore per eccellenza, è il demonio.» p.46

«La nostra ipotesi è, infatti, come dovrebbe essere ormai evidente, che il concetto di "crimen", di un'azione sanzionata, cioè imputabile e produttrice di conseguenze, stia a fondamento non soltanto del diritto, ma anche dell'etica e della morale religiosa dell'Occidente.» p.52
「私たちの仮説は実際、もはや明らかであろうように、〔認可・批准された行動についての、つまり責めを負い帰結を産出する〕crimenの概念が、法についてのみならず、西洋の宗教的な倫理ならびに道徳の根本に位置するということである。」

«Se lo [l'agire] si giudica solo secondo la misura della sue azioni, se l'azione sanzionata diventa per lui l'elemento in ogni senso decisivo, l'uomo è allora sempre tragicamente scisso, è sempre, insieme, colpevole e innocente, e il dissidio diventa tanto più insanabile, quanto più egli cerca di venire responsabilmente a capo dei propri atti.» p.60


«Il carattere è l'ombra enigmatica che l'etica dell'azione proietta sul soggetto.» p.68
「性格は、行動の倫理が主体の上に投げかける謎めいた影である。」

第2章の後半は、主にアリストテレスの『ニコマコス倫理学』が問題になっている。悲劇や喜劇の中での行為と性格が俎上に載せられる。

«L'etica, che rifiuta l'azione come suo elemento proprio, non può essere, nella prospettiva di Aristotele, che un'etica comica.» p.69
「その固有のエレメントとしての行動を拒否する倫理は、アリストテレスのパースペクティヴにおいて、ある喜劇的倫理以外にはない。」

«Come tra il carattere comico e l'eroe tragico, così anche tra l'essere e l'agire, tra l'azione e il carattere intelligibile occorre aprire lo spazio "tertium", che non ha più nulla di misterioso, perché restituisce il "mysterium" alla sua originaria vocazione teatrale.» p.71
「喜劇的性格と悲劇的英雄のあいだとして、同様にまた存在と行為のあいだに、行動と叡智的な性格のあいだに、"tertium=第三のもの"(それはもはや神秘的なもの=謎について何も持たない)の空間を開く必要がある。何故なら、それはその演劇の根源的な召命に"mysterium"を返還するのだから。」


«Non basta, infatti, come è avvenuto nel pensiero francese contemporaneo, sostituire al concetto di azione quello di evento.» p.72
「実際、同時代のフランス的な思考において起こったように、行動の概念に出来事のそれを代理することは十分ではない。」

ここでは、アガンベンは具体的にアラン・バディウを批判している。バディウにおいては、倫理学と政治学の根底に位置するカテゴリーの対は、存在と行動ではなく、存在と出来事である。以下は勿論、批判的な文脈で述べられている。

「そして行動がそれについて責任を引き受けるエージェントの倫理的な規約を定める時に、バディウにおいては、出来事はそれを信用するままでいる人々の倫理的な地位を定める。存在/出来事の二分法はつまり完全に、それらについてのアポリアと矛盾を私たちが示そうとした存在/行為の二分法に対応する。それが内包する主体の亀裂を伴う、西洋の倫理-政治学的な機械はこの方法で機能し続ける。」(p.72)


3. 意志のアポリア Le aporie della volontà

“ogni potenza è costitutivamente impotenza rispetto alla stessa cosa di cui è potenza”(Aristotele, Met., 1046 a, 30-31)
「あらゆる潜勢力は構成的に、潜勢力が属する同様の事柄に関して無能力である」(アリストテレス『形而上学』)

«L'intento di rendere l'uomo padrone delle sue azione e di garantirgli la paternità dei suoi atti dei suoi saperi ha, cioè, come conseguenza una fattura della sua capacità di agire, che è ora costitutivamente scissa in potenza e impotenza, poter fare e poter non fare.» p.76
「人間にそれら諸行動の支配を付与し、それら諸行為と諸能力の主人性を彼に保証する意図は、即ち結果として、今や構成的に潜勢力と無能力(することができることとしないことができること)において分裂し、彼の行為することの能力のひび割れを所持している。」


«volere è alla mia portata, ma mettere in atto il bene no» (Paolo, Rom., 7, 18)
「望む(欲する)ことは私の圏内にあるが、善を実行に移すことは違う」(パウロ『ローマの使徒への手紙』)


«Il senso e la funzione strategica del dispositivo sono perspicui: si tratta di limitare la potenza e l'anarchia divina, stabilendo un confine senza il quale il mondo precipiterebbe nel caos e non potrebbe più essere governato. Lo strumento che rende possibile questa limitazione è la volontà.» pp.96-97
「装置の戦略的な意味と機能は明快である。世界がカオスの中に落ち、より統治されえないことがない、ある境界を定めることで、権力と神性なアナーキーを限定することが問題である。この制限が可能になる手段は、意志である。」

«Il disipitivo teologico della volontà è qui rovesciato: la volontà che costituiva l'attributo essenziale di Dio si riduce a una pura potenza ineffettuale, che si realizza in atto soltanto nell'uomo, a cui, tuttavia, non appartiene in alcun modo. La volontà è, cioè, sempre impropria, e la sua appropriazione da parte dell'uomo coincide con la caduta e con il peccato» p.98
「意志の神学的装置はここで裏返される。神の本質的な属性を構成する意志は(しかしながら、いかなる方法においてもそれが属さない人間においてのみ実現される)ある純粋な実行できない潜勢力に縮減される。つまり、意志は常に非固有的であり、また人間の方からのその横領は転落と罪に一致する」

«E la volontà propria coincide con la creazione dell'inferno, è l'inferno» p.98
「そして、固有の意志は地獄の創造と一致し、それは地獄である。」


4. 行動の彼岸へ Al di là dell'azione

«Il termine latino “actio”, che traduce il greco “praxis”, appartiene del resto in origine alla sfera giuridica e religiosa, e non a quella filosofica.» p.100
「ギリシア語の praxis の翻訳である、ラテン語の actio はだが元々は、法的また宗教的領域に属し、哲学のそれにではない。」

actio が指し示すのは、ある過程 un processo である。これも、法学用語では「訴訟」の意味があり、atto は「法的な行為」や「証明、証書、記録」という含みも持っている。

イタリア語の agire も、「行動する、実行する、作用する、ふるまう」という意味があるが、「法的な手続きをとる、法律行為をする」ともあるので、この actio の系列にあると見なせるだろう。これは、似た意味で何かを「する・なす」といったように使われる fare とは区別されないとならない。

「作品をなす fare l'opera」という時には実際には、fare を使い、agire を用いない。そう考えると、作品 l'opera というのは、praxis (azione) の終局、または外にあり(atto の過程にそれはない)、そこにアリストテレス哲学の問題がある。

«Ed è proprio attraverso la contrapposizione aristotelica tra il fare e l'agire che Arendt cerca di difinire l'azione (che, nella sua esposizione, è inseparabile dalla parola e dal discorso).» p.101
「そして、アーレントが(彼女の叙述の中で、言葉や言説からは切り離しえない)行動 l'azione を定義しようとするのは、まさに fare と agire のあいだのアリストテレス的な対照を通じてである。」

«Evoca, a questo proposito, interpretandolo come «fine in sé», il concetto di “energeia”, «attualità», nel senso di essere in atto, con ciò Aristotele designava tutte quelle attività che non perseguono un fine esterno e non lasciano dietro di sé delle opere.» p.101
「この問題について、アリストテレスが外にある目的を追わず、また諸作品それ自体の後に残らない全てのそれらの活動を定義していたことにより、行動の中の存在の意味における《それ自体における目的》、“エネルゲイア”の概念、《現実態》としてそのことを解釈しながら喚起する。」

«Com'è stato suggerito, la strategia di Aristotele consiste qui nell'iscrivere la dottrina del bene in una teoria della finalità.» p.104

104 «Se vi è il bene come fine ultimo
105 «Ciò significa che tra l'uomo e il suo bene
105 «Per questo, secondo un paradigma


アガンベン曰く、西洋の文化に永らく影響を与えるだろうパラダイムによれば、倫理の領域は存在 l'essere ではなく、行動 l'agire にあるということになる。この存在と行動を巡る彼の考えは、この考察以前には『王国と栄光』の中でも為されている。実践 la prassi の領域とは、勿論だが行動 l'agire の問題に位置している。それは、存在やその理論では穴埋めはできない一つの亀裂でもある。

«La prassi è il luogo in cui questo debito si salda e incessantemente si riaccende. Una critica del concetto aristotelico di azione implicherà quindi necessariamente una critica preliminare del concetto finalità.» p.105
「実践はその中で、この負債が清算され、また不断に再燃する場である。行動 azione のアリストテレス的な概念の批判は、したがって必然的に目的 finalità の概念の予備的な批判を含むだろう。」

以下の件ではアガンベンはアーレントを、問題のコンテクストをきちんと汲んではいないと手厳しく批判しつつ自説を展開している。

ergon (l'opera, opus)...元々は、«offrire un sacrificio 犠牲を差し出す» という意味における、«agire, fare» を意味する erdō 。(また、ergon を巡る別の角度からの論考については『思考の潜勢力』所収の「人間の働き L'opera dell'uomo」を参照)

«Ed è a partire da “ergon” che Aristotele forgia uno dei suoi termini tecnici fondamentali, “energeia”, che designa l'essere-in-atto, l'operatività e l'effettività di un'azione.» pp.105-106
「アリストテレスが、行為における存在、ある行動の活動性や実効性を定義する、彼の根本的なテクニカルタームの一つである“energeia”を形作るのは、“ergon”からである。」


«Ciò che definisce per Aristotele l'azione è, invece, che l'essere-in-atto consiste qui pienamente nell'agente e non in una cosa esteriore.» p.108
「アリストテレスによって定義されたことは、むしろ、行為にある存在
l'essere-in-atto がこのエージェント〔動因〕において十全に構成し、また外的な事物においてではないのは、行為 l'azione であるということである。」

«Il problema è, per lui, piuttosto quello di dove si situi l'“energeia ”: nell'agente stesso o in un'opera esterna.» p.108
「彼〔アリストテレス〕にとって問題はむしろ、“エネルゲイア”はどこに位置づけられるか—エージェントそれ自体においてか、外的な作品の中か—ということである。」


«Il fine non è per questo eliminato e, nella forma del fine in sé, continua a fornire il paradigma dell’azione: un fine che non può mai essere mezzo è integralmente solidale con un mezzo che non può mai essere fine.» p.114
「目的はこのため除去されずまた、目的それ自体の形において、行為のパラダイムを提供し続ける。手段に決してなりえないある目的は、目的に決してなりえないある手段と完全に連携している。」

«Nessun organo è stato creato in vista di un fine, né gli occhi per la visione, né le orecchie per l’udito, né la lingua per la parola: ...» p.114
「ある目的を考慮に入れて造られたいかなる器官もない。視覚のための目はなく、聴覚のための耳はなく、言葉のための言語もない。…」

«Il rovesciamento della relazione tra organo e funzione sgombra il campo da ogni teleologia prestabilita.» p.115
「器官と機能の間の関係の逆転は、予め定められたあらゆる目的論の領域を一掃する。」

なぜ私は ius soli についての訴えに署名しなかったか

2018-01-26 07:23:14 | Agamben アガンベン
ius soli
地の法。出生により国籍を付与する法(出生地主義)。フランスやアメリカなどが採用する。反対は「ius sanguinis」(血の法)。
ius sanguinis
血の法。血統により国籍を付与する法(血統主義)。日本やドイツなどが採用する。反対は「ius soli」(地の法)。
こちらのサイトより。訳者による。)



Perché non ho firmato l’appello sullo ius soli

見たところによると、私は ius soli の訴えに署名するつもりはないとはっきり表明したにもかかわらず、私の名前は何らかの方法で不法に挿入されていた。私の拒否の諸々の理由は明らかに、移民たち(その全き重要性と緊急性を把握しつつ)の地位の社会的また経済的問題に関係はないが、国籍の同様の理念には関係ある。自分たちにその起源とその意義さえ問いたださないほど、私たちはこの装置の存在を当然と見做すことに慣れさせられている。誕生の瞬間にある人間存在は誰でも、ある国家の法体系の内に記入され、そしてこの方法で法と、選択されなかった、そしてそこからもはや解かれることのできない一つの国家の政治的システムに従属された状態になるべきであるということは、私たちには明白であるかのように思える。ここでは、私たちにただ近代国家 gli Stati moderni としてのみ馴染みのある、この制度の一つの歴史を描き出すことが問題ではない。これら諸国家は、誕生について人間存在 gli esseri umani のその内部への登記の原則をなす理由で、国民国家 Stati-Nazione とも呼ばれる。既に市民の両親からの誕生 (ius sanguinis) か誕生の場所 (ius soli) かの、どちらがこの登記の手続きに関する基準なのかが重要なのではない。結果はいずれにせよ同じである。一人の人間存在は必然的に、いかなるどの瞬間においても、法-政治的秩序の主体である。国家社会主義ドイツ、イタリア共和国、ファランへ党スペイン、アメリカ合衆国、またどの瞬間でも法を遵守し、相応する権利と義務を受け取るべきだろう。
私は完全に、無国籍者 apatride または移民の要件は避けられえない一つの問題であると納得するが、国籍は最良の解決であるとは確信がない。いずれにせよそれ〔国籍〕は、満足でき共有すべき一つの善である何かとして、私には最良ではありえない。もし可能なら(だがそれは可能ではない)、固有の国籍を公然と捨てることを促す訴えには喜んで署名しよう。詩人の言葉によれば、“祖国は我々全てが異邦人〔外国人〕である時だろう”。

Giorgio Agamben
2017年10月18日

何が残るのか? Che cosa resta?

2018-01-20 19:14:33 | Agamben アガンベン
Che cosa resta?

1.
《私は未来において不信を抱いているので、過去に向かってのみ計画を立てる》。Flaiano—その台詞が極めて真剣に取られるべきである文筆家—のこのフレーズは、省察する価値のある一つの真理を含む。(危機としての)未来は事実今日、権力の諸装置の最も主要で実効的なものの一つである。威嚇的なおぞましいこと(貧困化と終末論的カタストロフィ)として、または(うんざりさせる進歩主義にあるよう)輝く将来として、それが動揺させられるように、いずれにしても、私たちがただそれについての私たちの諸行動と私たちの諸思考を導く理念を通過させることが問題である。つまり、何が私たちに過去を放置させるのだろう。その過去は取り替えられることができなく、またしたがって役には立たない—あるいは、せいぜい博物館に保存すべき—そして、現在にある時はいつも、それについてただどれだけ未来を準備することに役立つかという程度で私たちは関心がある。次のこと以上に間違いはない:私たちが何らかの確実さを伴い所有し、知ることのできる唯一のことは過去であり、ところが一方、現在は定義的には掴むことが難しく、また(存在しない)未来はどのいかさま師によっても完全にでっち上げられうる。公的領域において同様、私的な生においても、私たちに未来を提供する者をあなた方は信用しない〔警戒する〕。この者は殆どいつも私たちを罠に嵌め、あるいは私たちを欺く。Ivan Illich は、《何かがあることまた何かがあったことを考えようと私が努めることを経由する諸概念を、未来の影の上に基づかせることを私は決して許さないだろう》と書いた。また、Benjamin は記憶 il ricordo(それは不動のアーカイヴとしての追憶 la memoria とは異なる何かである)の中で、私たちが過去の上に実際に作用し、私たちはそれを何らかの仕方で新たに可能にすると述べた。Flaiano はそうして、私たちに過去の上に計画を立てることを示唆することで、理があった。唯一、過去についての考古学的探求のみが私たちを現在に近づくことを可能にし、反対に、ただ未来に向けられた眼差しは、私たちの過去と共に、私たちから現在をも奪う。


2.
ある薬局に入り、緊急に必要な薬を尋ねることをあなた方は想像する。薬剤師があなた方に、あの薬が三ヶ月前に作られ、したがって利用可能ではないと返答するとしたら、あなた方はどうするだろう? 正に、書店に入りながら今日生じることである。本屋市場は今日、その中で流通が本が書店において最も少なく可能(時に一ヶ月以下)に維持することを要求する一つの Assurdistan [Absurdistan(*)] になった。結果として、同じ編集者がそれらの販売を—もしそれらがあれば—短い期限で取り尽くすべき本をプログラムし、その期間内に続くことができるカタログを構成することを断念する。このため、私—良き読者がいると純粋に信じる—は、ある書店に入りながらいつも、より居心地の悪さを覚える。(もちろん例外はある)陳列台がただ新刊のみにより占められている場所と私が根本的に必要だった薬(つまり本)を見つけることがいつも、より稀にできる場所。もし、本屋と編集者がこのシステムに反抗しないなら、大きな配給業者たちにより課せられたかなりの部分で、本屋が消え失せることは驚くに値しないだろう。これらがそのままなら、私たちは嘆くことさえできない。

(*)訳注…Absutdistan:(informal) Any country where absurdity is the norm, especially in its public authorities and government.


3.
Nicola Chiaromonte はかつて、私たちが私たちの生を考察する時の根本的な問いは、かつて何を持ったかまたは持たなかった以外ではなく、だがそれから何が残るのかと書いた。ある生に何が残るのか—しかしまた、そして始めにも—私たちの世界に何が残るのか、人間に、詩に、芸術に、宗教に、政治に何が残るのか? 今日、このような緊急のこれらのリアリティに関与することに慣れたこれら全てのことは姿を消しつつあり、あるいはいずれにせよ見分けがつなかくなるまで姿を変えつつある。《そこで生まれ育ったドイツのあなたにとって何が残るのか?》と彼女に尋ねたインタビュアーに、Hannah Arendt は《言語 la lingua が残る》と返答する。しかし、残りのものとしての言語(それについての表現だった世界に生き残る言語)とは何か? また、そこにただ言語が残るなら、そこに何が残るのか? 言うべきことをもはや何も持たないかのように見える、また、しかしながら、執拗に残り抵抗し、そこから私たちが私たちを分離できない言語? それは詩である、と答えよう。実際、もし一つずつ伝わりやすく情報を提供する通常の諸機能が不活性化にされた後に、言語について残ることでないなら、詩とは何だろう? Ingeborg Bachmann が私にかつて、肉屋に行き、そして彼〔肉屋〕に《私に薄切り肉1キロを下さい》と尋ねることはできなかったと言ったことを覚えている。詩の言語はより純粋な言語であり、それが私たちが肉屋で使う言語の、あるいは他の人たちにとって日常の諸用法の言語の彼岸に見つかると彼が言いたかったと私は思わない。むしろ詩の言語は、残り、そして各々のペテン〔陰謀〕また各々の腐敗〔退廃〕に抵抗する破壊できないもの、SMS や tweet でそれを使う用法の後にも残る言語、誰かが人間は限りなく破壊されうる破壊不可能なもの l'indistruttibile であると書いた通り、限りなく破壊されうるが、しかしながら留まる言語であると私は思う。この残る言語、この詩の言語—哲学の言語でもある、と私は信じる—は、言語の中での、言わない non dice こと、しかし呼びかける chiama ことに関係がある。つまり、名を伴う。詩と思考は名の方へ言語を横切り、言語のそのエレメントの名は語らず、知らせない。それは何かについて何かを言わず、しかし名指し、そして呼びかける。Italo Calvino が彼の《精神的証言 testamento spirituale》として捧げるのが常であったある短いテクストは、切断され殆ど息を切らしているフレーズの一連でもって終わる。《記憶のテーマ—失われた記憶—保存することと失われた失うこと—持たれなかったこと—遅れて持たれたこと—私たちに後ろにもたらされること—私たちに属さないこと…》。詩の言語、残り呼びかける言語は、当に失われたことを呼びかけると私は思う。集団の生同様に個人の生においても、失われた諸物(最も最後の消費、毎日私たちが忘れる知覚できない出来事)は、どのアーカイヴそしてどの記憶もそれらを含むことはできないように破壊されることを、あなた方は知っている。残るそれ、破壊から私たちが救う言語と生のその部分は、ただもし親しく失われたことに関係するなら、もしそのことのために何らかの様態にあるなら、もし名によってそれを呼び、そしてその名において応えるなら、意味を持つ。詩の言語、残る言語は失われたことに呼びかける所以、親しく大切であるとわかる。失われていること故に、神に属する。


これらのノートは、2017年5月20日・トリノの il Salone del libro〔本の展覧会〕への参加の傍らに刊行する。

Giorgio Agamben
2017年6月13日

『言語活動の秘蹟——宣誓の考古学』の紹介

2018-01-19 15:29:48 | Agamben アガンベン
以下に付せられた数字は、紹介の便宜上の為の区切りであり、実際の著作に付せられている番号とは違うことを明記しておく。


■1

アガンベンの『言語活動の秘蹟—宣誓の考古学 Il sacramento del linguaggio - Archeologia del giuramento』(2008, Editori Laterza) は、話す存在としての人間と権力の秘蹟の問題を、言語活動の観点から考察する試みになる模様だ。Homo Sacer シリーズの II-3 に位置する。

端的に言えば、人間が人間になる人類学的な起源に、アガンベンは宣誓の言語活動的な問題と、権力の秘蹟を見とっていると言える。


«Il giuramento sembra dunque essere un atto linguistico inteso a confermare una proposizione significante (un dictum), di cui garantisce la verità o l'effettualità.» (p.9)

「宣誓は要するに、真理と実効性を保証する、シニフィアン的な命題 (dictum) を確実にすることを意図した、ある言語学的な行為であるように思える。」


デリダの『嘘の歴史 序説』も訳されているのだがら、アガンベンの『言語活動の秘蹟——宣誓の考古学』も翻訳されていい。というのも、アガンベンも嘘 menzogna と宣誓 giuramento を対比させているところもある。あるいは、儀式的な間違い errore 。つまり、「言語活動に本来的に備わる嘘の可能性 la possibilità della menzogna inerente al linguaggio」からの回復として宣誓は考えられうるだろうと。

だが、どうだろう?

“il giuramento sembra implicare costitutivamente la possibilità dello spergiuro, ed essere destinato paradossalmente [...] non a impedire la menzogna, ma a combattere gli spergiuri.” (pp.10-11)

“宣誓は構成的に偽証の可能性を巻き込んでいるように思われ、また逆説的に、嘘を阻止するのではなく、偽証と対抗する方に運命づけられているように思われる。”

«Il giuramento non costituisce in alcun modo un rimedio contro il “flagello indoeuropeo”: piuttosto il flagello stesso è contenuto al suo interno nella forma dello spergiuro.» (p.11)

「宣誓はいかなる仕方においても“インド・ヨーロッパ的な災い”に対する解決策を構成しない。むしろ、災いそれ自体は偽証の形態の内部に含まれている。」

アガンベンが何故ここで、“インド・ヨーロッパ的な災い flagello indoeuropeo”というかについては、前述に、口頭契約の崩壊や引き受けられた義務の拒否や否認という問題について、Georges Dumézil を参照にしている。つまり、インド・ヨーロッパ社会の“機能上の災い flagelli funzionali”として、社会形態が脅かされる事態を引っ張ってきている。宣誓がこのような災いの解決策としてあるわけではなく、災いそれ自体が偽証の形態に含まれているという指摘は、別段インド・ヨーロッパ語族に限って読む必要はないだろう。差し当たっては、広くニーチェ的な文脈を含意していると読みたい。直接ニーチェを言及してはいないが、続いて“話す動物 animali parlanti”という言葉も出てくる。


■2

神の言葉と宣誓、名についてもアガンベンは分析している。ちなみにだが、宣誓とは言葉と行為の結節点にある問題だろう。何かを誓うにせよ、それを偽るにせよ。我々は誓う時、あるいは誓いを偽る時、何に対してそれを行うのか? そこに名の問題がある。

そう考えるなら、名声にも偽りが忍び寄ることは多々あるし、そのことについては枚挙に暇がない。もし、言語に神聖さの問題があるなら、それは宣誓の秘儀と試練に掛けられているからだろう。もしあなたが神に賭けるのなら馬鹿げている。あなたは神の名に賭けるはずだ。あなたの宣誓が神を保証することはない。神の側が人間の宣誓を保証し、名がそれを担保するのだ。だからもし、あなたがある宣誓を裏切り、欺くことにでもなれば、それは神の名において問われることになる。宣誓とは当にその意味で、言語活動と行為を試練に賭ける問いがある。

このことをアガンベンは、フィロンを引くことで考える。例えば、孫引きになるが、“Dio non è credibile a causa del giuramento, ma il giuramento è sicuro a causa di Dio.”(宣誓のおかげで神が信じられうるのではなく、神のおかげで宣誓が確証される。)

数ページ後にはキケロも引きながら、こう述べる。

«La fide è, cioè, essenzialmente la corrispondenza fra il linguaggio e le azioni.» (p.32)

「即ち、信用は根本的に言語活動と諸行為とのあいだの一致である。」


■3

以前訳したコラムに pistes / fides の問題があったが、丁度この『言語活動の秘蹟』にも頻出し、言及されている。それぞれ、ギリシア語とラテン語だが、これら信用の紐帯に、言語活動と行為、法、権力、宗教さえも読み込むあたりが、アガンベンらしい。先に訳したコラムでは、そのような信用が資本主義という最も残忍な宗教によって、食い散らかされていることを警告するものだった。

«Con la “fides”, esattamente come col giuramento, ci troviamo, cioè, in una sfera in cui il problema della relazione genetica fra religione e diritto è da riprendere su nuove basi.» (p.37)

「“fides”により、正に宣誓によるように、私たちはつまり、宗教と法学のあいだの創生的関係が、新しい諸基礎の上に再び取り上げるべきである問題の領域に出会う。」

«È possibile, semmai, che abbiamo qui a che fare con una sfera del linguaggio che sta al di qua del diritto e della religione e che il giuramento rappresenti appunto la soglia attraverso la quale il linguaggio entra nel diritto e nella “religio”.» (p.39)


■4

«Il giuramento sembra, dunque, risultare dalla congiunzione di tre elementi: un'affermazione, l'invocazione degli dèi a testimoni, e una maledizione rivolta allo spergiuro.» (p.43)

「従って、宣誓は三つの要素の結合から帰結するように思える。断言、証言への神々の呼びかけ、偽証へ向けられた呪詛。」

アガンベンは、宣誓を分析するには、呪詛との関係の問題に向き合うべきことを特筆している。裏を返せば、今迄の学者は、それ(呪詛)に配慮を欠いていた。


呪詛 la maledizione も極めて“政治的”宗教の問題である。

«Non soltanto il giuramento, ma anche la maledizione - in questo senso essa è detta a ragione “politica” - funziona come un vero e proprio “sacramento del potere”.» (p.52)

「宣誓のみならず呪詛も—この意味においてそれは正当にも“政治的”と呼ばれる—真で固有の“権力の秘蹟”として機能する。」

この主張は、『Profanazioni 涜聖=涜神』(2005, Nottetempo) の頃から一貫している。


■5

冒涜における間投詞の本質についての示唆。

«Benveniste sottolinea, inoltre, la natura di interiezione propria della bestemmia, che, come tale, non comunica alcun messaggio» (p.55)

Benveniste が Freud を紹介する行。(アガンベンによる引用)

“L'interdizione del nome di Dio serve a reprimere uno dei desideri più intensi dell'uomo: quello di profanare il sacro. È noto che il sacro ispira condotte ambivalenti.” (Benveniste)

“神の名の禁止は、人間のより緊張した欲望の一つを抑圧することに役立つ。それは、聖なるものを冒涜する欲望である。聖なるものはアンビヴァレンツな態度を生じさせることは周知である。”(バンヴェニスト)


«La bestemmia è un giuramento, in cui il nome di dio è estratto dal contesto assertorio o promissorio e viene proferito in sé, a vuoto, indipendentemente da un contenuto semantico.» (p.56)

「冒涜は、そこにおいて神の名が断言的あるいは約束的なコンテクストから締め出され、意味論的な内容から独立して、虚しく自身において発せられるべきである、一つの宣誓である。」


これで、象徴界が穴だというラカンの晩年の問いも、発話と神の名を巡るものであることが明らかになった。つまり、パロールにおける名の排除(締め出し)が、抑圧の一つの形態であるということは、フロイトを考慮しても否定できない。それが忘却であろうと。

ランガージュからの排除とパロールにおける排除は、区別できるとしても。

アガンベンの場合、宣誓と冒涜が真理とパロール、事物との連結や破壊との関連でも問われている。bene-dizione と male-dizione(祝福=恵み=良く-言うことと、呪詛=不運=悪く-言うこと)。

つまり、宣誓において名はパロールと事物のあいだの繋がりを表現し保証し、真実性とロゴスの力を定義する。逆に呪詛においては、この繋がりの破壊と人間の言語活動の無益を表現する。両者とも、言語活動の同じ出来事において共通の起源として巻き込まれている。


«Nel giudaismo e nel cristianesimo la bestemmia è legata al comandamento di “non nominare il nome di Dio in vano” (che, in Ex. 20, significativamente segue quello che vieta di farsi degli idoli).» (p.56)

《ユダヤ教またキリスト教において冒涜の言葉は“無駄に神の名を口にしないこと”の戒律に結びつく(そのことは、『出エジプト記』第20章において意味深くも偶像を作らせることの禁止に続く)。》

«Man mano che si perde la consapevolezza del l'efficacia della pronuncia del nome divino, quella forma originaria della bestemmia che è il preferirlo a vuoto passa in second'ordine rispetto al pro ferimento di ingiurie o falsità su Dio.» (p.57)

«Da “male dicere de deo”, la bestemmia diventa così “mala dicere de deo”.» (p.57)

要するに、罵倒ないし冒涜は、神の名前の裏返しなようだ。神聖さを貶めることは、神聖な神の名(の禁止)と結び付く。

«Si tratta, cioè, di un gesto simmetricamente opposto a quello della bestemmia, che estrae invece il nome di Dio dal contesto del giuramento.» (p.58)

「つまり、宣誓のコンテクストからそれに反し神の名を引き出す、冒涜の身振りに対称的に対置されるそれ〔身振り〕が問題である。」


■6

«Diventa più agevole comprendere, su queste basi, la funzione dell'imprecazione nel giuramento e, insieme, la stretta relazione che la lega alla bestemmia. Ciò che la maledizione sancisce il venire meno della corrispondenza fra le parole e le cose che è in questione nel giuramento.» p.58

«È dal giuramento 〜〜 le sue frazioni.» p.59

«Ogni nominazione, ogni atto di parola è, in questo senso, un giuramento, in qui “logos” (il parlante nel “logos”) s'impegna ad adempiere la sua parola, giura sulla sua veridicità, sulla corrispondenza fra parole e cose che in esso si realizza. E il nome del Dio non è che il sigillo di questa forza del “logos” - o, nel caso in qui essa venga meno nello spergiuro, della male-dizione che è stata così posta in essere.» p.63


«Nominazione e denotazione (o, come vedremo, aspetto assertorio e aspetto veridizionale del linguaggio) sono in origine inseparabile.» p.64

«Gli insulti funzionano, cioè, piuttosto come delle esclamazioni o dei nomi propri che come termini predicativi e, con questo, mostrano la loro somiglianza con la bestemmia» pp.65-66

«...si afferma che il soggetto è identico all'attributo.» p.70

«Pronunciare il nome di Dio significa, cioè, comprenderlo come quell'esperienza di linguaggio in cui è impossibile separare il nome e l'essere, le parole e la cosa.» p.71

«Il significato del nome di Dio non ha, cioè, alcun contenuto semantico o, meglio, sospende e mette fra parentesi ogni significato per affermare attraverso una pura esperienza di parola una pura e nuda esistenza.» pp.72-73

«Col “logos” sono dati insieme - cooriginariamente, ma in moda tale che non possono mai coincidere perfettamente - nomi e discorso, verità e menzogna, esistenza e non esistenza del mondo, essere e nulla.» p.77


■8

«Asserzione e veridizione definiscono, cioè, i due aspetti cooriginari del logos.» (p.78)

「断言と真言〔真理を言うこと〕はつまり、ロゴスの共起源的な二つのアスペクトを定義する。」

«...perché il soggetto locutore non preesiste né si lega successivamente a essa [veridizione], ma coincide integralmente con l'atto di parola.» (p.79)

「何故なら、話す主体は真理を言うことに先立って存在しないし、それに連続的に結ばれてもおらず、だが言語行為と完全に同時に起こる。」

«La logica, che veglia sull'uso corretto del linguaggio in quanto asserzione, nasce quando la verità del giuramento è ormai tramontata.» (p.81)

「断言としての言語活動の正しい使用に注意を払う論理学は、もはや宣誓の真理がいつ消えたかを隠す。」

«Nominare, dar nome, è la forma originaria del comando.» (p.87)

「命名すること(名を与えること)は、命令の起源的形態である。」


■9

«Ogni nominazione è, infatti, duplice: è benedizione o maledizione.» (p.95)

«L'età dell'eclissi del giuramento è anche l'età della bestemmia, in cui il nome di Dio esce dal suo nesso vivente con la lingua e può soltanto essere proferito “in vano”.» (p.97)

『火と物語』からの抄訳

2018-01-15 16:47:25 | Agamben アガンベン
『火と物語 Il fuoco e il racconto』(2014, nottetempo) 所収の論考から紹介用に試訳したものを残しておきます。〔簡単な注釈も含む〕


■「火と物語 Il fuoco e il racconto」

«Ogni racconto - tutta la letteratura - è, in questo senso, memoria della perdita del fuoco.» (p.9)

「それぞれの物語—あらゆる文学—は、この意味において、火の喪失の記憶である。」

«L'elemento in cui il mistero dilegua e si perde è la storia.» (p.10)

「その中で神秘が消え去り喪失されるエレメントは歴史である。」

«I generi letterari sono le piaghe che l'oblio del mistero scalfisce sulla lingua: tragedia ed elegia, inno e commedia non sono che i modi in cui la lingua piange il suo perduto rapporto col fuoco. Di queste ferite gli scrittori non sembrano oggi avvedersi.» (p.13)

«Dove c'è racconto, il fuoco si è spento, dove c'è mistero, non ci può essere storia.» (p.14)

「物語のある場所では火は消失して、神秘のある場所では歴史は存在しえない。」



■「寓話と王国 Parabola e Regno」

«Chi si ostina a mantenere la distinzione fra realtà e parabola non ha capito il senso della parabola. Diventare parabola significa comprendere che non vi è più differenza fra la parola del Regno e il Regno, fra il discorso è la realtà.» (p.35)

「リアリティと寓話のあいだの区別を保持することに固執する者は、寓話の意味を理解しなかった。寓話になる〔変わる〕ことは、王国の言葉と王国のあいだに、言説とリアリティのあいだにもはや違いはないことを了解することである。」

«Per chi si fa parola e parabola - la derivazione etimologica mostra qui tutta la sua verità - il Regno è così vicino, che può essere afferrato senza “andare al di là”.» (p.35)

「言葉と寓話になる者にとって—語源学的な起源はここにその真理を示す—王国は、“彼岸に向かうこと”なしに据えられることができるほどに近い。」

«Il senso letterale e il senso mistico non sono due sensi separati, ma omologhi: il senso mistico non è che l'innalzarsi della lettera oltre il senso logico, il suo trasfigurare nella comprensione - cioè, la cessazione di ogni senso ulteriore. Capire la lettera, diventare parabola significa lasciare che in essa avvenga il Regno.» (pp.36-37)

「文字通りの意味と神秘的な意味は切り離された二つの意味ではなく、ホモロジーである。神秘的意味は、その論理的意味を越えて文字を高めること、理解〔内包〕におけるその変容—即ち、あらゆる彼岸の意味の中断以外ではない。文字を理解すること、寓話になることは、その中に王国を到来させることを意味する。」

«La parabola parla “come Regno non fossimo”, ma proprio e soltanto in questo modo essa ci apre la porta del Regno.» (p.37)

「寓話は“王国はかつてなかったかのように”話し、しかしこの方法においてのみ当に、それ〔寓話〕は王国の扉を私たちに開く。」

«Parabolare è semplicemente parlare: Marana tha, “Signore, vieni”.»


■「創造行為とは何か? Che cos'è l'atto di creazione?」

«Possiamo ora comprendere in modo nuovo la relazione fra creazione e resistenza di cui parlava Deleuze. Vi è, in ogni atto di creazione, qualcosa che resiste e si oppone all'espressione.» (p.46)

「われわれは今や新たな方法で、ドゥルーズがそれについて語った創造と抵抗の関係を了解できる。各々の創造行為において、抵抗し表現に反対する何かがある。」

つまり、アガンベンはドゥルーズの創造と抵抗の問題の中に、行為に向かう運動の中で非の潜勢力 la potenza-di-non に留まる何かを、アリストテレスを介して見出している。

«Chi manca di gusto non riesce ad astenersi da qualcosa, la mancanza di gusto è sempre un non poter non fare.» (p.48)

「様式 gusto を欠いた人は何かを控えることができず、様式の欠如はつねに、しないことができないことである。」

«Che cos'è una inoperosità che consiste nel contemplare la propria potenza di agire?» (p.58)

「実行する固有の潜勢力を観想しながら構成する無為とは何か?」

«Spinoza ha difinito l'essenza di ogni cosa come il desiderio, il conatus di perseverare nel proprio essere.» (p.60)

「スピノザは欲望(固有の存在において固執するコナトゥス)としてあらゆる事物の本質を定義した。」

欲望、抵抗、コナトゥス→無為。あまり図式的に言うのはよくないが。余談だが、アガンベンは別所でではあるが(『哲学とは何か』参照)、スピノザのコナトゥスを「要請 l'esigenza」と解釈し訳すべきであるといった見解を示している。


■「読むことの困難さについて Sulla difficoltà di leggere」

«L'esigenza è un concetto molto interessante, che non si riferisce all'ambito dei fatti, ma a una sfera superiore e più decisiva, la cui natura lascio a ciascuno di voi precisare.» (p.84)

「要請は、諸事実の領域を参照しないで、しかし上位でより決定的な領域〔私はその自然をあなた方それぞれに決定させるがままにする〕を参照する、とても興味深い概念である。」

«Ma allora vorrei dare un consiglio agli editori e a coloro che si occupano di libri: smettetela di guardare alle infami, sí, infami classifiche dei libri più venduti e - si presume - più letti e provate a costruire invece nella nostra mente una classifica dei libri che esigono di essere letti.» (p.84)

「だがここで出版社や本に携わる人に一つ忠告をしたい。より売れ、また—そう推測される—より読まれる本の分類的な裏切り、そう、裏切りを重視するのは辞め、その代わりに、あなた方の教養に読まれることを要請する本の分類を構築するよう努めるように。」


■「本からスクリーンへ。本の以前と以後 Dal libro allo schermo. Il prima e il dopo del libro」

«Ciò implica una trasformazione decisiva nel modo di concepire l'identità dell'opera. Nessuna delle varie visioni è il “testo”, perché questo si presenta come un processo temporale potenzialmente infinito - tanto verso il passato, del quale include ogni schizzo, stesura e frammento, che verso il futuro - la cui interruzione in un certo punto della sua storia, per vicende biografiche o per decisione dell'autore, è puramente contingente.» (pp.92-93)

「このことは作品の同一性を概念化する仕方において決定的なある変容を含む。どの様々なヴァージョンの中にも“テクスト”はない。何故なら、—未来同様に、それぞれの草案、草稿や断片を含むその過去を通じて—、潜在的に無限な時間的な経過として現れるからであり、その歴史のある地点におけるその中断は、伝記的な諸推移によって、もしくは作者の決定によって、全く偶然的である。」

«La cesura, che pone fine alla stesura dell'opera, non le conferisce uno statuto privilegiato di compiutezza: essa significa soltanto che l'opera si dice finita quando, attraverso l'interruzione o l'abbandono, si costituisce come un frammento di un processo creativo potenzialmente infinito, rispetto al quale l'opera cosiddetta compiuta non si distingue se non accidentalmente da quella incompiuta,» (p.93)

「作品の草稿を終わらせる中間休止は、それら〔様々なヴァージョン〕に完全さの特権的な地位を授けない。それらは、中断もしくは放棄を通して、潜在的に限りない創造的プロセスの断片として構築される時に、作品は仕上げられたと言われることをただ意味し、それらに関していわゆる完全な作品は、不完全なそれらから偶然的である以外に区別されない。」

«Se questo è vero, se ogni opera è essenzialmente frammento, sarà lecito parlare non soltanto di un “prima”, ma anche di un “dopo” del libro, altrettanto problematico, ma ancor meno studiato di quello.» (p.93)

「もしこのことが真なら、それぞれの作品は根本的に断片である時に、本の“以前”のみならず、〔同様に問題的であるが、まだそれに関して研究されていない〕“以後”について語るのが適当だろう。」

«Il paradigma teologico della creazione divina mostra qui la sua altra faccia, secondo la quale la creazione non si è compiuta nel sesto giorno, ma continua infinitamente, perché se Dio cessasse un solo istante di creare il mondo, esso si distruggerebbe.» (p.95)

「神聖な創造の神学的パラダイムはここでその別の面を示し、このことによれば創造は第六日目において完成されなかったが、しかし無限に続き、何故ならもし神が世界を創造する唯一の瞬間を中断するなら、それは消滅するであろうから。」

«La coincidenza fra opera compiuto e opera non-finita è qui assoluta: l'autore scrive un libro in forma di edizione critica di un libro incompiuto. E non solo il testo incompiuto diventa indiscernibile da quello compiuto, ma anche, con una singolare contrazione dei tempi, l'autore si identifica col filologo che dovrebbe darne l'edizione postuma.» (p.96)

「完成された作品と終わらない作品とのあいだの一致はこの点で絶対的である。作者は、未完成の本の批判的版〔エディッション〕の形をした本を書く。そして未完成のテクストが完成したそれから見分けがつかなくなるのみならず、しかし、諸時間のある特異な収縮によって、作者は死後の版をそれに与えるだろう文献学者と一体化する。」


«E, tuttavia, è solo in relazione a quest'opera non scritta che i frammenti pubblicati acquistano - anche se soltanto ironicamente - il loro senso.» (p.97)

「しかしながら、また公表された諸断片が—またもしただ皮肉にも—それらの意味を獲得するのは、書かれていないこの作品に関してのみである。」


«Il “libro” è ciò che non ha luogo né nel libro né nel mondo e, per questo, deve distruggere il mondo e se stesso.» (p.104)

「その“本”は本においても世界においても生ぜず〔場を持たず〕また、このために、世界とそれ自身を打ち砕くに違いない。」


«Il tempo della lettura riproduceva in qualche modo l'esperienza del tempo della vita e del cosmo e sfogliare un libro non era la stessa cosa che svolgere il rotolo del "volumen".» (p.106)

「読書の時間は何らかの方法で生と宇宙の時間の経験を再現していて、本をめくることは volumen〔巻〕の円筒を解く同様なことではなかった。」

«Aristotele, nel suo trattato sull'anima, aveva paragonato la potenza del pensiero a una tavoletta per scrivere su cui nulla è ancora scritto e tutto può essere scritto.»

「アリストテレスは、アニマについての彼の学術論文の中で、思考の潜勢力をその上にまだ何も書かれてなく、また全てが書かれうる筆記用の小板に例えていた。」

«Il tacito presupposto è che materiale e virtuale designino due dimensioni opposte e che virtuale sia sinonimo di immateriale. Entrambi queste presupposizioni sono, se non completamente false, almeno assai imprecisa.» (p.108)

*p.108-途中

アガンベン『冒険』(2015, nottetempo)に関する投稿

2017-09-25 22:13:51 | Agamben アガンベン
◾️裏表紙の言葉

«Ogni uomo si trova preso nell'avventura, ogni uomo ha, per questo, a che fare con Demone, Eros, Necessità e Speranza. Essi sono i volti - o le maschere - che l'avventura ogni volta gli presenta.»

「それぞれの人間は冒険に心が奪われていることに気づき、このために、それぞれの人間はダイモーンとエロス、必然〔必要性〕と望みに関係がある。それらは、冒険がそれらを表す顔—あるいは、仮面—である。」


◾️1. Demone

«La vita di ogni uomo deve pagare il suo tributo a queste quattro divinità, senza cercare di eluderle o di imbrogliarle.»(p.6)

「それぞれの人間の生は、これらの四つの神性に、それらを誤魔化し避けようとすること、またはそれらを騙すことなく、捧げ物を支払うべきである。」

ここでアガンベンが挙げる四つの神性は、Daimon, Tyche, Eros, Ananche のことである。
ダイモーン=神霊、テュケー=運命、エロス=愛、アナンケー=必然〔必要性〕。

«Il modo in cui ciascuno si tiene in rapporto con queste potenze definisce la sua etica.»(p.6)

「各々がこれらの力能 potenze との関係を保つ様式が、その倫理を定義する。」


アガンベンはゲーテに依拠しながら、四つの神性の複雑な関係について描写している。

«Nelle "Parole orfiche" Goethe ha di fatto pagato il suo tributo a una sola divinità: il Daimon. Vita e scrittura, che il demone aveva congiunto in un destino, erano ciascuna per l'altra garanzia sufficiente della propria riuscita.»(p.16)

「ゲーテは事実、"Parole orfiche"の中で一つの神性さ、ダイモーンに捧げ物を支払っている。ダイモーンがある運命に連結した生と筆記は、他の固有な成果の十分な保証のための全てだった。」

つまり、君が作品に支払った才覚は、他の保証〔担保〕のための全て ciascuna per l'altra garanzia であって、それは固有の成果について十分である sufficiente della propria uscita と解釈しておく。それを主張していれば、その十分な成果が台無しになるばかりか、その他の保証〔担保〕からすら、君は遠のくことになる。勿体無いのは、一体どちらか? つまり、作品の運命については君の圏内にはない。それは、ダイモーンに任せておけ。そうすれば、君は見返りを求めなくても、固有の成果に満足いくだろう。わざわざ自らの手で、作品を破壊することもない。それが優れているなら、より一層。


アガンベンは、エディプス Edipo が自分自身を“テュケーの息子 figlio della Tyche”と定義していたことを見逃していない。テュケー〔運命〕は、人間たちのあいだで多くの名を受け取ったと、Dione Crisostomo は書いている。その公平さは Nemesis、その不可視性は Elpis、その不可避性は Moira、その正義は Themis—真には、多くの名と道を与える一人の女神であると。つまり、ここでは人間の業は、ダイモーン〔神霊〕を経由してテュケー〔運命〕へと委ねられているように思える。これは、一つの生の様式であり、倫理でもある。

«Tyche non é soltanto il caso: è, anche, per quanto questo possa apparirci contraddittorio, destino e necessità. Essa è veramente la potenza “dai molti nomi”, che governa in ogni ambito le vite e le sorti degli uomini.» (pp.15-16)

「テュケーはただ単に偶然ではない。それはまた、偶然が私たちに矛盾して見えうる限りで、運命と必然〔必要性〕である。それ〔テュケー〕は実のところ、人間たちの生と運命をそれぞれの領域で統治する、“多くの名にある”潜勢力である。」


◾️2. Aventure〔原著ではイタリック体〕

第2章の冒頭には、Chrétien de Troyes の騎士道詩 l'Yvain が掲げられている。
〔ここでは一部のみ抜粋しておく〕

“Et que voldroies tu trover?”
“Aventure, por esprover
ma proesce et mon bardement.
Or te pri et quier et demand,
se tu sez, que tu me consoille
ou d'aventure ou de mervoille”.

〔イタリア語訳〕
“Che cosa vorresti trovare?”
“Avventura, per mettere a prova
la mia prodezza e il mio coraggio.
Dunque ti prego e ti domando
se tu lo sai, che mi consigli
di avventure o di meraviglia”.


アガンベンは、直接的には明らかではないだろうと述べながらも、こう切り出している。

«Il termine - aventure - con cui il cavaliere definisce l'oggetto delle sue ricerche»(p.18)

「騎士が彼の諸探究の対象を定義するのに用いる aventure という用語」

そして、その用語が驚き la meraviglia (mervoille) と関わることは確実だと続ける。また、〔aventure の用語が〕 Yvain の勇気にとっての試練〔試み〕の役割を果たすに違いないだろうと。

ここでも勘のいい人たちは、宮廷愛や愛の対象と驚きの関係を思い起こすに違いない。

事実、アガンベンはフランス古語 trover とイタリア語の trovare の違いを指摘した上で、ロマンス詩学的語彙のテクニカル・タームの起源に aventure があることもまた明らかであると敷衍する。

«(per questo i poeti chiamavano se stessi trobadors, trouvères o “trovatori”)»(p.19)

「(このため詩人たちは自身を、trobadors、trouvères また“trovatori”と呼んでいた)」


アガンベンの語源学的な探究はこれには留まらないが、重要な点を述べておくと、彼は古代ラテン語からキリスト教の adventus (l'avvento di un principe o del messia=王またはメシアの到来)と eventus の繋がりを据えている。いずれにせよ、この eventus という用語は、肯定的であると同様に否定的でもありうる、神秘的で驚くべき何かに関するある人間の出現を指示する。

ラカンが欲望という時、このような問題の射程もあると思われる。それは、試練としての冒険と驚きに避けがたく巻き込まれている主体を含意している。いずれにせよ、ここでアガンベンがトゥルバドゥールを持ち出したのはたいへん興味深い。彼は、世界との出会いにおいて自分自身にも出会う、試練や冒険という文脈においても欲望や主体という語も使っている。

«Per questo, nei romanzi cavallereschi, "Aventure" sembra avere non meno significati di Tyche. Come questa, essa designa sia il caso che il destino, sia l'evento inaspettato che mette il cavaliere alla prova sia una catena di fatti che necessariamente si verificheranno.»(p.20)

「このため、騎士道小説において、"Aventure"は少なからずテュケー Tyche の意義を持っているように思われる。このように、それは運命であることも偶然であることも示し、騎士を試練にかける思いがけない出来事であり、必然的に彼を審査するだろう諸事件〔事実〕の一つ連鎖でもある。」


«E, tuttavia, tanto più strana e rischiosa è l'avventura, tanto più essa è desiderabile.»(p.22)

「また、しかしながら、冒険がより奇妙で危険であるほど、それはより欲望をそそる。」

必要なのは、このリスクを賭け、惜しまないことだ。安全に身を守るような生、これは免疫化の視点を通せば、冒険をすることに比べるなら、より致命的な破局を迎え兼ねない。そして、冒険を通して貴方が得た知識は、貴方を破局から身を守る抑止する力にかえってなるに違いない。

危険から身を守るだけの生が、破局に抗しえないのに対し、危険を賭して冒険する生は、かえって破局に対して身を守る。この逆説。


«Avventura e parola, vita e linguaggio si confondono e il metallo che risulta dalla loro fusione è quello del destino.»(p.25)

「冒険と言葉、生と言語活動は入り混じり、それらの融合から結果する合金は、運命のそれである。」

«...essa [l'avventura] non è un evento situato in un passato cronologico, ma è sempre già evento di parola.»(p.27)

「…それ〔冒険〕は年代順のある過去に位置する一つの出来事ではなく、常に既に言葉〔パロール〕の出来事である。」

«Avventura e verità sono indiscernibili, perché la verità avviene e l'avventura non è che l'avvenire della verità.»(p.28)

「冒険と真理は区別できなく、何故なら、真理は到来し、また冒険は真理の到来以外ではないからだ。」


«Non si tratta, come alcuni interpreti hanno creduto, di una dichiarazione di ignoranza, ma della consapevolezza che l'avventura non si situa né solo in un testo né soltanto in una serie di eventi, ma nel loro coincidere - cioè cadere insieme.» (p.30)

アガンベン曰く、冒険はテクストの中だけ、出来事の連続の中だけにあるのではなく、それらの同時生起 il loro coincidere、つまり共に落ちる cadere insieme〔倒れる、失敗する〕ことの中にあり、その自覚こそが問題なのだという。このことは、精神分析にも繋がる問題がある。失敗によって、逆説的に進む精神分析運動に。

«Anche ‘Saga’ designava l'evento in quanto era detto e non in quanto era avvenuto.» (p.33)

「‘サガ(中世の北欧英雄小説)’も語った限りでの出来事を明示していたのであり、起こった限りではない。」

ここでも、出来事が単なるその記述を含めた羅列ではなく、語りと共に示唆されている。これも、精神分析が語りの経験や、語られた限りでの出来事に関わる問題を扱い、単なる時系列順の記述にはその核心が抜き去られているということと同様の事態を示していまいか?


この節の最後は、冒険 l'avventura という用語の存在論的な固有な意義、言語活動の人類創生的な出来事の次元が示唆され、明らかに“存在の断固たる経験 una determinata esperienza dell'essere”に関わりがあることを、アガンベンは指摘して綴じている。


◾️3. Eros

«La fine del Medioevo e l'inizio dell'età moderna coincidono, infatti, con un'eclissi e una svalutazione dell'avventura.» (p.36)

「中世の終わりと近代的な時代の始まりは、事実、冒険の衰退と過小評価と共に起こる。」

«Anche nel nesso così stretto che sembra legare nella letteratura medievale l'avventura all'amore, si ritrovano la stessa accidentalità e la stessa esteriorità: ...» (p.37)

「中世の文学の中で冒険が愛に結び付くように見えるこうした緊密な繋がりにおいて、同様の偶然性と同様の外在性が見出される:…」


“L'unità in cui riuniamo in ogni momento l'attività e la passività nei confronti del mondo, quell'unità che è anzi in un certo senso la vita, conduce i suoi elementi alla piú estrema tensione, quasi non fossero altro che i due aspetti di una sola e medesima vita misteriosamente indivisa” (Simmel)

“我々があらゆる瞬間にその中で、世界の諸衝突において能動性と受動性を合一する統一性〔単位〕、むしろある意味において生であるこの統一性は、殆どあたかも、奇妙にも分割されていない単一で同じ生の二つのアスペクト以外ではないかのように、それらの諸エレメントを最も極限な緊張へ導く。”(ジンメル)

(アガンベンが引用しているジンメルの著作は、“Das Abenteuer”。本文ではイタリア語訳が挙げられている。)

«Ciò è evidente anche nel nesso costituivo che Simmel istituisce fra l'avventura e l'amore.» (p.42)

「ジンメルが冒険と愛のあいだに定める構成的な繋がりにおいても、このことは明らかである。」

このこと (Ciò) とは、前文の引用の内容を指している。つまり、“冒険としての”愛において出会われた出来事は、能動性と受動性を世界の諸衝突において統一している。ラカンが、“出来事としての”症状への同一化を説く時にも、この問題の射程はあるのではないか?


«La connessione fra l'esperienza amorosa e l'avventura è, tuttavia, ancora più profonda.» (p.43)

「愛の経験と冒険の繋がりは、しかしながら、依然としてより深い。」

«E se eros e avventura vi sono spesso intimamente intrecciati, ciò non è perché l'amore dia senso e legittimità all'avventura, ma, al contrario, perché solo una vita che ha la forma dell'avventura può incontrare veramente l'amore.» (pp.45-45)

「そしてもし、エロスと冒険にしばし親密な結びつきがあるなら、このことは愛が冒険に意味や正統性与えるからではなく、しかし反対に、冒険の形相 la forma dell'avventura をもつ生のみが愛に真に出会えるからである。」


◾️4. Evento

“L'evento non è quel che accade.” (Gilles Deleuze)

“出来事は、生じる何かではない。”(ジル・ドゥルーズ)

“Che piova, è qualcosa che accade, ma questo non basta a farne un evento: perché sia un evento è necessario che codesto accadere io lo senta come un accadere per me” (Carlo Diano, Forma ed evento)

“〔生じる何かである〕雨が降ること、しかしこれは、ある出来事をなすには十分ではない。何故ならその起こることが、私にとって起こることとしてそれを私が感じる必要があるのが、出来事であるから。”(カルロ・ディアナ『形態と出来事』)


冒険 l'avventura が出来事 l'evento の前提条件にあること。言い換えれば、冒険なき出来事とは、それ自体が一つの死、あるいは破壊に向かう姿でしかないということ。

“l'evento è sempre hic et nunc. Non vi è evento se non nel preciso luogo dove io sono e nell'istante in cui l'avverto” (Carlo Diana)

“出来事は常に、“今ここ hic te nunc”である。もし私がいる場が正確でなく、私がそれに注意を払う瞬間でないなら、出来事はない”(カルロ・ディアナ)

つまり、出来事とは、ただ単に起きることではない。それは当の主体の“自分自身との関連”に置かれた状態や態度を抜きにしては、成立すらしない問題だろう。だが、しかし…

«L'avventura, avvenendo, esige un “chi” a cui avvenire. Ciò non significa, però, che l'evento - l'avventura - dipenda dal soggetto» (p.56)

「〔到来する〕冒険は、それに到来する“誰か”を要請する。しかし、このことは出来事—冒険—が主体に依存することを意味しない。」

«Il “chi” non preesiste come un soggetto - si potrebbe dire, piuttosto, che l'avventura si soggettivizza, perché è parte costitutiva di essa l'avvenire a qualcuno in un certo luogo.» (p.56)

「“誰か”は主体のように前もって存在しない—むしろ、こう言いうるだろう。冒険は主体化される、何故なら、ある場における誰かへの到来は、冒険の構成的なパートであるから。」

ここで前もって私が、冒険が出来事の前提にあると言った意味が明かされる。鶏が先か、卵が先かみたいな議論に見えるが、そういうことではない。アガンベンが述べているのは端的に、“誰か chi”への到来という要請が、冒険を主体化し、その出来事の“場 luogo”の性質を定義づけるということではないか? そして、この“誰か chi”に“呼びかけ”の性質を読むのは、深読みではあるまい。

«Si comprende allora perché l'evento sia sempre anche evento di linguaggio e l'avventura indissociabile della parola che la dice.» (p.57)

「それでは何故、出来事は常に言語活動の出来事でもあり、それを表す言葉の分離不可能な冒険でもあると了解されるのか。」

«L'avventura, che lo [essere parlante] ha chiamato nella parola, è detta dalla parola di colui che ha chiamato e non esiste prima di questa.» (p.57)

「言葉においてそれ〔話す存在〕を呼んだ冒険は、呼んだところの人の、またそれ〔冒険〕の前には存在しない人の言葉から発せられる。」

したがって、先に示されたように、冒険 l'avventura の要請する“誰か chi”という性質は、呼びかけに通じる。それは、ある出来事の場 un luogo dell'evento を構成するパートになっている。そしてここまでの帰結として、単に起きる何か quel che accade (l'accidente) と出来事 l'evento のあいだに、精神分析的にも経験の問題があることも、位置づけできるだろう。

«In questo senso esso [l'evento] è qualcosa che, al di là della rassegnazione e del risentimento, deve essere voluto e amato da colui a cui accade, perché, in quel che accade , egli vede innanzitutto l'avventura che lo coinvolge e che deve saper riconoscere, per esserne all'altezza.» (p.58)

「この意味でそれ〔出来事〕は、服従とルサンチマンの彼岸で、生じるところの人により欲され、愛されるべき何かである。何故なら、生じる何かにおいて彼はまず最初に、それを巻き込み、またそれに比肩しうるために認めることができるであろう冒険を見るからである。」



«Fato e avventura, Ananche e Tyche non coincidono.» (p.59)

「運命と冒険、アナンケーとテュケーは同時ではない。」

«Chi si avventura nell'evento, certo ama, trema e si emoziona - ma, anche se potrà alla fine ritrovarsi, non può che perdersi in esso, con leggerezza e senza riserve.» (p.60)

«Ciò che avviene nell'evento è, cioè, l'essere ed ente e prima delle sue destinazioni epocali. Si tratta di pensare lo Es in Es gibt Sein, il “si” in “si dà l'essere”.» (p.62)

ここまでの考察で私たちは、発生 l'accadere と出来事 l'evento と冒険 l'avventura の分節化にまではどうにか辿り着いた。そして、これらの—“構造上の”と言っていいかは分からないが—区別が曖昧なままだったから、論点が不明瞭だということは言えるように思う。ある人たちは、ただの発生に過ぎないものを出来事と見誤り、勘違いしている。

転移を考えてみよう。転移はただの現象なのだろうか? 答えは多分、イエスでもありノーでもある。発生としての転移は、“存在の運命”に従属しているし、冒険としての転移は、“運命愛”に関わる。だが、この両者には、構造上の格差がある。この格差が、主体の“過去の存在の”出来事の問題が組織されるエレメントとなる。だから、この格差の問題は、空間的なのではなく、時間的でなくてはならない(アガンベンが「運命と冒険、アナンケーとテュケーは同時ではない」と書いたことの意味は、ここではこう据えよう)。


«Il vivente diventa umano - diventa un Dasein - nell'istante e nella misura in cui l'essere gli avviene: l'evento è, insieme, antropogenetico e ontogenetico, coincide col diventar parlante dell'uomo e con l'avvenire dell'essere alla parola e della parola all'essere. Per questo Heidegger può scrivere che il linguaggio è coessenziale all'evento.» (p.63)
「生ける者は瞬く間に、そして存在が彼に到来する尺度において人間になる—現存在 Dasein になる。出来事は同時に、人類創生的、また存在創生的であり、人間が話す者になることと共に、また存在が言葉に、そして言葉が存在に到来することと共に同時に起きる。このために、ハイデガーは言語活動は出来事と同じ本質であると書くことができる。」


«“Avventura” è, in questo senso, la traduzione più corretta di Ereignis.» (p.66)
「“冒険”はこの意味で、Ereignis のより正確な翻訳である。」

つまり、出来事は“冒険である限りにおいて”、自分自身との更なる出会いにもなるだろう。


◾️5. Elpis

«Quando l'avventura gli si rivela come demone, la vita gli appare meravigliosa, quasi che una forza estranea lo sorreggesse e guidasse in ogni situazione e in ogni nuovo incontro.» (p.69)
「冒険が彼〔人間〕にダイモーンとして現れる時、人生は彼に驚くべきように見え、まるで見知らぬ力があらゆる状況で、またあらゆる新しい出会いで彼を支え、導くようである。」

“il demone è la nuova creatura che le nostre opere e la nostra forma di vita sostituiscono all'individuo anagrafico che credevamo di essere” (p.70)
“ダイモーンは私たちの作品と私たちの生の形式が、私たちが存在すると信じる戸籍上の個人に代わる、新たな被造物である”

“il demone è qualcosa che incessantemente si perde e a cui dobbiamo cercare di restare a ogni costo fedeli” (p.71)
“ダイモーンは、不断に失われ、また私たちがなんとしても忠実に留まろうとすべき何かである”

«Il nome della potenza rigeneratrice che, al di là di noi stessi, dà vita al demone è Eros.» (p.71)
「私たち自身の彼岸で、ダイモーンに生を与えるだろう再生する潜勢力の名前は、エロスである。」

«Eros è la potenza che, nell'avventura, costitutivamente la eccede, così come eccede e scavalca colui a cui essa avviene.» (p.71)
「エロスは冒険において、それが到来する者を越え、凌駕するままに、構成的にそれを越える潜勢力である。」

デモーニッシュな力とエロスのあいだ。これこそが、まさに問うべきに値する——。

ある意味で私たちは、アガンベンの提出した『冒険』の様相から精神分析的な転移をもう一度考え直した。無意識の主体と区別する意味での、分析の主体はまさに冒険という観点からもそのあり方を問える。

仮に無意識の主体がかつての「出来事 l'evento」に捕らえられ、その苦しみを受動的に被るのだとすれば、分析の主体は「冒険 l'avventura」という形式から能動性と受動性を再統一してもいる。

だが、転移愛の核心にある「経験 l'esperienza」とは、その愛 l'amore が無能力 incapacità に到ることにあるのだとしたら?

愛の欲望の試金石とは、まさにデモーニッシュな力とその再生を司るエロスとのあいだの新たな関係であると言えないだろうか? そして、愛の無能力の「経験」とはその二つの力動の彼岸にあり、愛それ自体に再び向き変えていると言えるだろう。

そして、この「経験」を抜きにしている内は、私たちは精神分析に満足できないだろうし、精神分析の根本的な経験とは何であるかも知ることはできないだろう。

*****

«L'amore spera, perché immagina e immagina, perché spera. Spera che cosa? Di essere esaudito? [...] Non perché esse [la speranza e l'immaginazione] non desiderino ottenere il proprio oggetto, ma perché, in quanto immaginato e sperato, il loro desiderio è stato già sempre esaudito. [...] Se oggetto della speranza è l'inesaudibile, è solo in quanto insalvabili - già salvi - che abbiamo sperato nella salvezza. Così come supera il suo esaudimento, la speranza oltrepassa anche la salvezza - anche l'amore.» (pp.73-74)

「愛はイメージするが故に望み、また望むが故にイメージする。何を望むのか? 叶えられることを?…それら〔望みとイマジネーション〕は固有の対象を得ることを欲さないからではなく、しかし、イメージされ望まれる限りで、それらの欲望は既に常に叶えられているからである。…もし望みの対象が叶えることができぬものであるなら、私たちが救済において望んだことは、ただ救済不可能なものたち—既に救われた—としてのみである。その成就を越えるままに、望みは救済も—愛も—越えていく。」(了)