ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

ベンヤミンを通じた引用と断片 (2)

2017-04-30 18:09:19 | Note
《美の本来の時代は神話の凋落からその粉砕までと定められる。そうした時代は、民族大移動の時代に初めて生じた。凋落前の神話は、その粉砕後と同様に、美になじみがない。美は神話の潜在的な作用を前提条件とする。》——ベンヤミン「美の理念についての一構想」

ベンヤミンにおいて、神話的なものと美の関係は、未だに運命や法といった強制力(暴力)を備えている。時代が進むにつれ、神話的なもの拘束が衰え、代わって「美しい仮象」という仮面を身につける。そのような神話的暴力が、近代の法概念にも引き継がれていて、人間の生を規定し犠牲を強いるというのが、ベンヤミンの批判でもある。これは、啓蒙主義や合理主義によって“取り払われない”。


□美と真理(その迷路)

ベンヤミンが、美と真理の結び付きを断とうとするのは、それが“美しい仮象から美しい犠牲へ至るという帰結”に繋がるからだと言う。ここから、聖なるものへの「観念」までは近い。だが、この聖なるものの「観念」には準ぜずに(つまり、殉教などという誤った美化に陥らずに)、「世俗化」の問題を導入したら、どうだろうか?

これは、考えてみる価値がある。世俗化とは、端的に言えば、ニヒリズムの完遂であろう。真理の真理はないという“経験”、あるいは、美が覆う秘密は、もはや隠される秘密などないという“経験”。現に、イタリアには次のような考え方がある。美と凋落、あるいは世俗化との切り離せない結び付き。

真理についても美についてもだが、それを観念論的(つまりは、現象学的という意味でもあるが)に把握することへの限界があるように思われる。ヘーゲルの『美学講義』は、ある意味でその限界に位置している。

身体の内部からとはいえ、外部からとはいえ、もはや感性的なものの境域が、問題になる。源泉が目標である。では、何故、迷路になるのか? 目的にたどり着く(想起する)ことを恐れるからだ。案じて迷えば、迷路にもなるというのは、至極当然だ。(裏を返せば、案ずるより産むが易し)


□アレゴリー(壊死)

「アレゴリーには多くの謎 Rätsel はあるが、いかなる秘密 Geheumnis もない」Benjamin

真理を信仰する悪趣味(物事を明らかにしようとする意志も含む)に、美的に自由な嘘が異議申し立てをする。だが、ここには循環性と共犯関係がある。ハイデガーとニーチェは、実のところは裏では手を取り合っている。アレゴリーが要求するもの、それはまさに、美のニヒリズムだろう。

「アレゴリーは、大衆が自分自身の自己疎外を見、歴史の断片化された過酷な状況を認識することを可能にするのである。」Michael Jennings, Dialectical Images


□類似性と模倣(イメージ-言語への同一化)

《類似性を知覚するということは、いずれにせよ、一瞬の閃きに結びついている。それはさっと過ぎ去る。これを再び手にすることはできるかもしれないが、他の知覚のようにしっかりととどめておくことは本来できない。類似性の知覚は、星の配置と同じように、束の間、眼前に現れ、そして過ぎ去ってゆく。さまざまな類似性を知覚するということは、つまり時間の契機と結びついているように思われる。》——ベンヤミン「類似性の理論」

この類似性の知覚の過ぎ去るイメージが、メシア的時間の問題にもなる。
《〈いま〉とは〈かつて〉についてのもっとも内奥のイメージである。》——ベンヤミン『パサージュ論』

ベンヤミンは、模倣の能力やオノマトペ、占星術の星の配置などを、この類似性の具体例として挙げるが、これが人間の言語にも影響を与えているとするのが、彼の歴史哲学の妙味だろう。

〈このように文字は、言語と並んで、非感性的なさまざまな類似、非感性的な照応関係〔コレスポンデンツ〕の書庫となったのである。〉

〈そうだとすれば、言語とは次のような意味で、模倣の能力を最高度に用いたものということができるだろう。つまり言語はひとつの媒質〔メディウム〕であり、類似的なものを知覚するあの昔の能力は、この媒質のなかへあますところなく入り込んでいったのである。〉

《そして、その力は最終的には、魔術の力を清算することとなる。》——ベンヤミン「模倣の能力について」

この記事をはてなブックマークに追加

ベンヤミンを通じた引用と断片 (1)

2017-04-30 17:24:37 | Note
《歴史観におけるコペルニクス的転回はこうである。ひとびとは〈過去のもの〉を一種の定点と考え、現在をみるときには、この定点のほうへと手探りしながら、認識をみちびこうと努力していた。この関係は、いまや逆転されなければならない。過去が、めざめた意識の弁証法的な変換に、思いがけぬ意想に、ならねばならないのだ。》——ベンヤミンの遺稿より



■「経験と貧困」

《経験をとおしてわれわれがそれに結びつくことのできない文化財など、何の価値があろう。ここで経験を衒ったり、横領したりしても、しかたがあるまい。》

《そうだ。率直に認めよう。この経験の貧困は、単に私的なものだけにとどまらない。人類の経験そのものが貧困におちいっているのだ。そして、これはそのまま、一種の新しい野蛮状態を意味する。》


■「認識批判的序説」

ベンヤミンは「認識批判的序説」の中で、プラトンの『饗宴』を優れたドキュメントとして評し、このことに関する決定的な二つの発言を含むという。

《それは真理を——諸理念の領域を——美の本質的内在として展開してみせるとともに、真理を美しいと明言する。》

私見だが、認識における美的な次元への停止という問題は、救済の条件や予兆としても、考えられるだろう。

〈真理が美しいといわれる場合、このことは、エロス的な願望の諸段階を記述している『饗宴』篇の関連のなかで、理解されなくてはならない。〉

〈真理は、それ自体において美しいよりも以上に、エロスにたいして美しい。〉

美は、悟性が覆いを取り去ることで顕現するのではない。それは、結局のところ、享楽の露出や、その野蛮状態を新たに産み出すことにしかならない。美は、むしろ悟性が形式化する覆いを炎上させることで明示される。そこでの悟性の対象は、美の真理的な次元との“距離”を打ち立てる。


〈真理と美とのこの関係は、ひとが真理と等置することに慣れてきている認識の対象が、真理といかにかけ離れているかを、ほかの何よりも明瞭に示している。そしてこの関係のなかに、単純なのにひとが見たがらない事実への鍵が、宿されている。〉

真理は、認識の対象でもないし、認識が意図し志向することの問題なのでもない。真理は、認識がその意図や志向と共に消滅する極点を“語る”。認識の意図や志向性が、理念の星座に分散されること。これが、真理と美が、救済の名のもとに啓示されることに近い問題であることは、把握できる。


〈概念的な意図において規定される認識の対象は、真理ではない。真理は意図とは無縁に、諸理念から構成された存在である。だから、真理にふさわしい態度は、認識における志向性ではなくて、真理へはいりこんで消滅することだ。真理とは意図の死にほかならぬ。〉

ベンヤミンは、理念における根源的な“聴取”ということを命名(諸理念の所与性)において見出している。そう考えると、どうだろう? ベンヤミンにおける、美と真理の次元と、理念における距離は、音響と聴取において感受されていると明言したくなる。ベンヤミンの立場は、カント的な構想力の問題(悟性と感性の眼差しの亀裂)を、イメージと理念性の距離(感性と理性の聴覚的な把握)へと昇華させる。

結局どういうことか? 悟性が認識において、意図や志向性を存続させ、享楽しようとする魂胆が、既に〈貧しい〉。悟性は、美に学ぶ(真似ぶ)べし。享楽というのが、観念論的な仮象における、自己実現になってしまっている。


〈他人の財産を掠めるときの性急な手つきでもって作品や形式を扱うことは、惰性的な批評家に特有の態度だが、そんな態度は俗物の愚直さと、少しも変わりばえがしない。〉

〈事実的なものだけがいくら見やすく並べられていても、根源的なものはけっして認識されはしない。〉

《言語の隠喩法は、特定する力をもちながらもやんわりしたところがあるものだが、この隠喩法のみなもとである内奥の形象喚起力を、詩人たちは自分のものにしようと努力した。》

この隠喩法における形象喚起力、これを出来事の発生に結び付け、素材にし、想起を目的にする記憶との媒介におかれる問題が、無意識である。

表象は、何らかの形で形象を代理しているとは言え、悟性や志向性が存続し、享楽が目的化されれば、この無意識の記憶や想起との結び付きは、やはり疎外される。その結果は、(経験の)貧困と野蛮状態がもれなく付いてくる。

内面や深さという想定における無意識というのは、悟性のレベルにおける錯誤だ。フロイトの発見のコペルニクス的転回の革新性は、カントの超越論的な問題に比肩されるが、深みにそれを見出すという錯誤は、多分だが、ハイデガーによるカント読解の影響下にある証拠だろう。

表象が、形象力を代理しているのか、あるいは歴史的イメージの根源まで遡る問題なのかは、検討がいる。だが、言語のレトリック的回転で据えられるのは、メタファーや比喩、概念のレベルの仮象のみだろう。出来事の生起自体が、そこではレトリカルな仮象と不可分なのだ。だから、発生的な形象力を代理する、悟性レベルの表象は、対象—真理—美という問題について、ある種の臆断を免れ得ない。

このような取り違えに気づくには、感覚の側の美的対象と、理性がアンチノミーとして見出す真/偽とのあいだの距離を通じてではないだろうか? あえて言えば、悟性が認識するような対象は、美的なものと宗教的なものを巡って、経験の彼岸として与えられる以外にない。初期のベンヤミンの芸術批評は、このような問題意識を巡っている。美がヴェールとして機能し、対象が真/偽のレベルで分裂するのは、悟性の見かけにおいてのみだろう。


■「一方通行路」

《じっさい、ぼくらが十五歳ですでに知っていたか実行していたかしたことだけが、やがてぼくらの魅力を形成するのだ。》

〈……自分が「できる」ものに固執してはならない。力は即興にある。決定的な打撃はすべて、左の手でなされるだろう。〉

〈理由あって美しいと呼ばれるものすべてにあっては、それが出現していることが、背理のように思われる。〉


ラカンが面白いのは、多分、予めの前提としての主体—客体図式を、それが成立する与件としての他者とその異物に分解してみせたことだろう。主体—客体という問題は、実体として与えられるわけではなく、そもそも欲望の構成的な平面で演繹される。それが、無意識の文字の問題だった。

だとすれば、その文字と記憶痕跡の問題は、出来事の発生の印に先立って、既にそれを廃絶するような力に晒されているに違いない。言語活動の経験とは、故に、言語活動の廃絶の経験、その主体と客体の“貧しさ”の経験に他ならない。主体にせよ、対象にせよ、言語活動の構成的な平面と経験の貧しさにおいて、落下する。

何故、象徴界は“穴 trou”なのか?


■「文学史と文芸学」

《「価値」を大きくうんぬんすることによって近代主義は、歴史を思いどおりに偽造しはじめた。》

《近代主義は、このように認識と実践との間の緊張を博物館的教養概念で均してしまったのとひとしく、歴史の領域では現在と過去との緊張を、いうならば批評と文学史との緊張を、均してしまった。》

《相手が同時代のものとなると大学の学問は、あきれるほどに、見さかいなく何とでも同調する。…〔略〕…どんな大都市の新聞にも劣らない消息通たろうとする功名心が、学問にとりついている。》


経験の貧しさから、壮大なものに流れていく。認識から認識へ。ある意味で、ここから感性的なもののプロブレマティックを取り出したのは、重要だろう。

悟性が陥る、真理と美のヴェールと接近という錯視(観念論的仮象)と、理性が陥る、超越論的仮象(純粋な真偽なき見せかけ)という、意志と行為(人間の行動一般)への批判的な問題。


「超越論的仮象は(……)それがすでに暴かれ、その取るに足らなさが超越論的批判によって明らかに見抜かれたとしても、それにもかかわらず止むことはないのである」——カント『純粋理性批判』

この記事をはてなブックマークに追加

信用への未来 Futuro a credito

2017-04-21 21:21:38 | Agamben アガンベン
[翻訳者より:以下のイタリア語から訳出したジョルジョ・アガンベンの記事の中には、「信」を表す言葉が幾つか出でくる。文脈に応じて訳し分け、元の語を記しておいた。]
→元の記事へのリンク


Giorgio Agamben


何を“未来 futuro”という言葉が意味するかを理解するため、もし宗教的領域にないなら、より使われることに馴染みのない他の言葉“信仰 fede”が何を意味するかを先ず理解する必要がある。信仰 fede あるいは信用 fiducia なくしては、未来は可能ではなく、何かを望み信じることができる限り、未来は存在する。そう、しかし信仰 la fede とは何だろうか? 宗教学の偉大な研究者の一人である David Flüssere は、—この奇妙な名を持つ教義もまた存在する— pistis という言葉について、まさに仕事をしていた。今日、アテネのある広場で目を上げるなら、ひょっとすればある地点で見られ、その前面に Trapeza tes pisteos とキュービット体で書かれたものを人は見つける。

偶然の一致に驚いたことに、よく見れば間もなく、ある銀行の前に飾り気なく、ギリシャ語で“信用銀行 banco di credito”を意味する trapeza tes pisteos を見つけることに気づく。数ヶ月のあいだ理解することに努めていた pistis の言葉の意味は、この時代はこうであり、“信仰 fede”は単に、神の元でわれわれが享受〔享楽〕し、われわれにて神の言葉が享受〔享楽〕する“クレジット=信用 credito”である。これらの理由で、パウロは“信仰 la fede は、汝らの望むことの実体=物質 sostanza である”という有名な定義において、言うことができるだろう。それは、まだ存在していないことに、だが、われわれが信じることと信頼 fiducia を持つこと、われわれの信用 credito と言葉を賭けたことに、リアリティを与えるだろうということであると。ある未来として何かが、われわれの信仰 fede が実体を、即ちわれわれの望みのリアリティを与えることができるようになる尺度において存在する。

しかし、周知のとおり、われわれの時代は、乏しい信 fede、または Nicola Chiaromonte が言っていたよう、不誠実の、即ち強制により維持され、確信のない信 fede の時代である。したがって、未来ないし望みなき時代、—または、空虚な未来、偽の望みのそれである。だが、真に信じるには老いすぎていて、真に絶望されるためには狡猾すぎるこの時代において、何がわれわれの信用 creditoに、何がわれわれの未来に属するのだろうか?

よく考えれば、何故だか、まだ信用 credito の支えの周囲へ全てが向かう領域、その中でこの領域は全てのわれわれの pistis 、全てのわれわれの信 fede が完遂するに至らされる領域が存在する。この領域は金であり、銀行 -trapeza tes pisteos- はその聖堂である。金はある信用 un credito 以外ではなく、多くの銀行紙幣について(ポンドについて、ドルについて、—はたして何故、一体これがわれわれに疑われるべきだったか—もし、ユーロについてでないなら、まだ中央銀行が何らかの方法でこの信用 credito を保証することを約束する文字 scritto がある。われわれが通り過ぎようとしている、いわゆる“危機 crisi”—しかし、“危機”と呼ばれることは(これはもはや明らかである)、われわれの時代の資本主義がその中で機能する、通常の状態であるが—は、信用 credito についての、現実化されうる前に何度も控除され、大量に転売される諸信用 crediti についての諸操作の無思慮な連なりによって始まった。このことは、言い換えれば、金融資本主義—と、それについてある主要な機関である銀行—は、人間たちの信用 credito について—即ち、信仰 fede について—投機しながら〔賭けをしながら〕機能する。

だが、このことはまた、Walter Benjamin の仮説を意味し、それによれば、資本主義は実際に、一つの宗教であり、これまで存在するだろう中で最も残忍で執拗である。贖いや休戦を知らないので、文字通り受け取られるべきである。銀行は—その灰色の役職員と専門家と共に—、信用 il credito を管理することで、教会と司祭の地位を手に入れ、われわれの時代がまだそれ自体に持つ信用 la fede—乏しい、不確かな信頼 fiducia—を取り扱い、経営する。そして、より責任がなく、良心の咎めのない方法で、人間の信頼 la fiducia と希望の金を儲け、誰でも享受〔享楽〕することができるだろう信用 il credito と、(その主権を従順に放棄した、諸国家の信用 il credito さえも)それのために支払うべき代価と定めることで、そうする。このやり方で、信用 il credito を管理しながら、世界だけでなく人間の未来、危機が常により短く期限付きにする、ある未来もまた統治する。そして、もし今日、政治がより可能であるように見えないなら、そのことは、財政上の権力が、全ての信仰 la fede と全ての未来、全ての時間と全ての期待を、事実上差し押さえられたことが理由である。

この状況が続く限り、世俗と信じられるわれわれの社会性が宗教の最も暗く、非理性的なものに隷属されたままであろう限り、各々がその信用 credito と未来を、この陰鬱な、威信をなくした偽聖職者、銀行家、レート rating の様々な仲介の専門家と役職者の手から回復するのは、適切だろう。そして恐らく、なすべき最初のことは、それらが勧めるような、未来のみを見ることを辞めることである。それよりも、過去へ眼差しを向け返すために。ただ、何が起きたのかを把握し、何にもまして、どのように起きえたのかを理解しようと努めることで、恐らく、各々の〔固有の〕自由は再発見されうるだろう。考古学—未来学ではない—は、現在への接近のただ唯一の道である。


この記事は、2012年2月16日付の La Repubblica 紙上にもまた、「もし金の残忍な宗教が未来を貪り食うなら」というタイトルで掲載された。


→他の関連記事へのリンク

この記事をはてなブックマークに追加

享楽の体験と無意識の経験——ベンヤミンを手がかりに

2017-04-13 20:19:00 | Essay
※Twitterへの投稿を、編集したもの。


《われわれの経験の貧困が現代の巨大な貧困の一部》——ベンヤミン「経験と貧困」


物語が衰退し、情報が増大しながら跋扈している今日、我々にはいかなる《経験 Erfahrung》があるのだろう? 理解や知性が、経験を〈体験 Erlebnis〉に貶め、横領している昨今、いかなる問いや批評の観点を、我々は持ちうるのだろう? ベンヤミンは、第一次世界大戦の問題から、あるエッセイを書き、その中で「経験の貧困化」を分析している。

《経験を無理に装ったり、あるいはずる賢いやり方で手に入れることによって、十九世紀の様々な様式や世界観のひどいごちゃ混ぜが非常に鮮明になってきた》Benjamin


今日、精神分析の伝達も、経験した者の語りから生まれるというよりは、情報として整理され、その出来事が自分とは関わらないものとして、理解されている。もはや、論文という伝達形式が、誰にでも理解可能で、その分、自らの問いを産み出さない情報として機能する。

しかし、ベンヤミンの意図は、失われていく経験や物語の復権を計るものではない。ベンヤミンは、この経験の衰退の中に「凋落のアウラ」、新しい美的な指標を見ようとする。ベンヤミンが見て取る「凋落のアウラ」、ここには、悟性や意志の没落というニーチェ的な反響を聴き取ることができる。


だが、どうだろう? ここで、フロイト的な無意識と想起を取り上げないとならない。今日、フロイトに反して、無意識は内面や深みであるとされ、そのような主体はもうないことになったらしい。

確かにそうだ。経験が蔑ろにされ、操作される体験や享楽が前景化されれば、フロイト的な無意識と想起の、“意識や意図に反する”出来事の“経験的な”性格と、無意識に存続する意欲(無意識的な欲望や意志)の連関は、入り込む余地はない。 そもそも、フロイト的な「経験」と「発見」は、表面であるが。

ここに一つ、このような見方の欺瞞性を指摘できる。彼らは、自らを操作可能な体験や享楽のレベルへと“格下げ”し、これは「凋落のアウラ」でもなんでもないが、自らの悟性や意欲の“存続を”計ったことに由来する、搾取的な欺瞞に陥っている。


〈確かに、経験は、ある特殊な外的事物によって喚起されなければ思い起こすことができない非理知的な領域、もしくは無意識的な層に沈んでいるかもしれない。〉——長澤麻子「ベンヤミンの「経験」概念」

〈…体験は、意識のなかにその占める位置が定められた、意志によって回想できる記憶である。それは、もはやショックのようにいわゆる刺激として存在するものではなく、それゆえ、意識の範疇に属している。〉ibid.

この自意識のレベルへと格下げされた「享楽の体験」による、記憶痕跡や想起を伴う「無意識の経験」への欺瞞的な防衛は、どう考えたらよいだろうか?

フロイトに従えば、意識は刺激に対する防御として機能するので、意識それ自体には記憶痕跡が全く受容されない。つまり、無意識的記憶を構成するものは、〈体験〉として起こったものではない《経験》である。


意識と記憶の相互排他的な性格は、享楽の体験と無意識の経験にも、繋がるようだ。

享楽が、幾分前のめりな形で自らを主張して止まない今日、我々はベンヤミンやニーチェにしたがい、凋落のアウラを眼差し、悟性や意志の没落の反響音を聴く耳を持たなければならないのだ。そのあいだには、何やら“別の”経験の問題が、君を待ち伏せているようだ。


《人類の自己疎外は、自分自身の絶滅を美的な享楽として体験するほどにまでなった》Benjamin



◆後記(20170417):解明される情報知の直接的体験(享楽)に抗して

《ミメーシスなきラチオは己自身を否定する。》——アドルノ『美の理論』


臆病で怠惰な人間は、解明されることに喜ぶ。だが、それは錯覚がまた深まっただけだ。このような特質は、勇敢な人には見られない。結局だが、臆病で怠惰な人間が文字を読み、何かを解明したとしても、やはりそれはまた、新たな蒙昧化でしかない。


精神分析は、情報化された。悟性は、情報化された精神分析を、それ自体で理解し、享楽を“図る”。

物語が経験に結び付く媒質になるには、悟性の志向性は“埋没”しないとならない。 だが、精神分析の情報化は、既成のコードに従えば、それ自体で理解できる。 教養俗物たちが、その蒙昧化の張本人であれ、そのような人間が、アルゴリズムを論じるのは、些か皮肉だ。

ベンヤミンが「経験の貧困化」と呼ぶ事態は、まさにこの情報化された精神分析が、悟性が埋没することを経ずに、直接的に理解の“対象化”を操作する形而上学的な錯誤や欺瞞に陥ることとも、密接に重なり合う。


現代の読み手や聞き手は、このように「解明」されて情報化された精神分析を、情報としての知の一義的で直接的な指示に従い、行為することになる。 もちろんこれは、精神分析の野蛮化であるとはいえ。 この精神分析の情報化は、道具的にいつでも取り替え可能、操作可能である。

現代の読み手は、もはや読書に経験を求めない。彼らは、その情報知の命令に従い、従順に行為することを狙っている。 彼らは、経験ではなしに、情報知を直接的に体験(享楽)する。


「〈知識/行為〉問題の現代的条件の下では、知識=道具の素朴なイメージによる知識と行為の結合は、「経験の貧困」の拡大再生産の過程にあらかじめ組み込まれてしまっていると言わねばならない。」——今井康雄「〈知識/行為〉問題の教育思想史的文脈」

今井は、この中で、行為をポイエーシス poiesis・プラクシス praxis・ミメーシス mimesis の三分割として区分けし、それらと知識とのあいだの関連を叙述している。結論部で、ポイエーシス的行為と“ニーチェ流の”ミメーシス的行為に批判的見解を述べた後、ミメーシスの「美的なもの」の機能に、ある評価を加える。

「ミメーシス的行為の領域は、知識と行為を媒介するよりはこの両者の“真面目で機械的な結合”をむしろ破壊する。しかしこの破壊作用は、「経験の貧困」への順応から諸個人を目覚めさせるショックとして機能する可能性をもつのである。」(今井:“”による強調は引用者による)


《……真のアクチュアリティーを手にいれようとする以上、はかなさは当然の、正当な報いなのだから。》——ベンヤミン「雑誌『新しい天使』の予告」

この記事をはてなブックマークに追加