《美の本来の時代は神話の凋落からその粉砕までと定められる。そうした時代は、民族大移動の時代に初めて生じた。凋落前の神話は、その粉砕後と同様に、美になじみがない。美は神話の潜在的な作用を前提条件とする。》——ベンヤミン「美の理念についての一構想」
ベンヤミンにおいて、神話的なものと美の関係は、未だに運命や法といった強制力(暴力)を備えている。時代が進むにつれ、神話的なもの拘束が衰え、代わって「美しい仮象」という仮面を身につける。そのような神話的暴力が、近代の法概念にも引き継がれていて、人間の生を規定し犠牲を強いるというのが、ベンヤミンの批判でもある。これは、啓蒙主義や合理主義によって“取り払われない”。
□美と真理(その迷路)
ベンヤミンが、美と真理の結び付きを断とうとするのは、それが“美しい仮象から美しい犠牲へ至るという帰結”に繋がるからだと言う。ここから、聖なるものへの「観念」までは近い。だが、この聖なるものの「観念」には準ぜずに(つまり、殉教などという誤った美化に陥らずに)、「世俗化」の問題を導入したら、どうだろうか?
これは、考えてみる価値がある。世俗化とは、端的に言えば、ニヒリズムの完遂であろう。真理の真理はないという“経験”、あるいは、美が覆う秘密は、もはや隠される秘密などないという“経験”。現に、イタリアには次のような考え方がある。美と凋落、あるいは世俗化との切り離せない結び付き。
真理についても美についてもだが、それを観念論的(つまりは、現象学的という意味でもあるが)に把握することへの限界があるように思われる。ヘーゲルの『美学講義』は、ある意味でその限界に位置している。
身体の内部からとはいえ、外部からとはいえ、もはや感性的なものの境域が、問題になる。源泉が目標である。では、何故、迷路になるのか? 目的にたどり着く(想起する)ことを恐れるからだ。案じて迷えば、迷路にもなるというのは、至極当然だ。(裏を返せば、案ずるより産むが易し)
□アレゴリー(壊死)
「アレゴリーには多くの謎 Rätsel はあるが、いかなる秘密 Geheumnis もない」Benjamin
真理を信仰する悪趣味(物事を明らかにしようとする意志も含む)に、美的に自由な嘘が異議申し立てをする。だが、ここには循環性と共犯関係がある。ハイデガーとニーチェは、実のところは裏では手を取り合っている。アレゴリーが要求するもの、それはまさに、美のニヒリズムだろう。
「アレゴリーは、大衆が自分自身の自己疎外を見、歴史の断片化された過酷な状況を認識することを可能にするのである。」Michael Jennings, Dialectical Images
□類似性と模倣(イメージ-言語への同一化)
《類似性を知覚するということは、いずれにせよ、一瞬の閃きに結びついている。それはさっと過ぎ去る。これを再び手にすることはできるかもしれないが、他の知覚のようにしっかりととどめておくことは本来できない。類似性の知覚は、星の配置と同じように、束の間、眼前に現れ、そして過ぎ去ってゆく。さまざまな類似性を知覚するということは、つまり時間の契機と結びついているように思われる。》——ベンヤミン「類似性の理論」
この類似性の知覚の過ぎ去るイメージが、メシア的時間の問題にもなる。
《〈いま〉とは〈かつて〉についてのもっとも内奥のイメージである。》——ベンヤミン『パサージュ論』
ベンヤミンは、模倣の能力やオノマトペ、占星術の星の配置などを、この類似性の具体例として挙げるが、これが人間の言語にも影響を与えているとするのが、彼の歴史哲学の妙味だろう。
〈このように文字は、言語と並んで、非感性的なさまざまな類似、非感性的な照応関係〔コレスポンデンツ〕の書庫となったのである。〉
〈そうだとすれば、言語とは次のような意味で、模倣の能力を最高度に用いたものということができるだろう。つまり言語はひとつの媒質〔メディウム〕であり、類似的なものを知覚するあの昔の能力は、この媒質のなかへあますところなく入り込んでいったのである。〉
《そして、その力は最終的には、魔術の力を清算することとなる。》——ベンヤミン「模倣の能力について」
ベンヤミンにおいて、神話的なものと美の関係は、未だに運命や法といった強制力(暴力)を備えている。時代が進むにつれ、神話的なもの拘束が衰え、代わって「美しい仮象」という仮面を身につける。そのような神話的暴力が、近代の法概念にも引き継がれていて、人間の生を規定し犠牲を強いるというのが、ベンヤミンの批判でもある。これは、啓蒙主義や合理主義によって“取り払われない”。
□美と真理(その迷路)
ベンヤミンが、美と真理の結び付きを断とうとするのは、それが“美しい仮象から美しい犠牲へ至るという帰結”に繋がるからだと言う。ここから、聖なるものへの「観念」までは近い。だが、この聖なるものの「観念」には準ぜずに(つまり、殉教などという誤った美化に陥らずに)、「世俗化」の問題を導入したら、どうだろうか?
これは、考えてみる価値がある。世俗化とは、端的に言えば、ニヒリズムの完遂であろう。真理の真理はないという“経験”、あるいは、美が覆う秘密は、もはや隠される秘密などないという“経験”。現に、イタリアには次のような考え方がある。美と凋落、あるいは世俗化との切り離せない結び付き。
真理についても美についてもだが、それを観念論的(つまりは、現象学的という意味でもあるが)に把握することへの限界があるように思われる。ヘーゲルの『美学講義』は、ある意味でその限界に位置している。
身体の内部からとはいえ、外部からとはいえ、もはや感性的なものの境域が、問題になる。源泉が目標である。では、何故、迷路になるのか? 目的にたどり着く(想起する)ことを恐れるからだ。案じて迷えば、迷路にもなるというのは、至極当然だ。(裏を返せば、案ずるより産むが易し)
□アレゴリー(壊死)
「アレゴリーには多くの謎 Rätsel はあるが、いかなる秘密 Geheumnis もない」Benjamin
真理を信仰する悪趣味(物事を明らかにしようとする意志も含む)に、美的に自由な嘘が異議申し立てをする。だが、ここには循環性と共犯関係がある。ハイデガーとニーチェは、実のところは裏では手を取り合っている。アレゴリーが要求するもの、それはまさに、美のニヒリズムだろう。
「アレゴリーは、大衆が自分自身の自己疎外を見、歴史の断片化された過酷な状況を認識することを可能にするのである。」Michael Jennings, Dialectical Images
□類似性と模倣(イメージ-言語への同一化)
《類似性を知覚するということは、いずれにせよ、一瞬の閃きに結びついている。それはさっと過ぎ去る。これを再び手にすることはできるかもしれないが、他の知覚のようにしっかりととどめておくことは本来できない。類似性の知覚は、星の配置と同じように、束の間、眼前に現れ、そして過ぎ去ってゆく。さまざまな類似性を知覚するということは、つまり時間の契機と結びついているように思われる。》——ベンヤミン「類似性の理論」
この類似性の知覚の過ぎ去るイメージが、メシア的時間の問題にもなる。
《〈いま〉とは〈かつて〉についてのもっとも内奥のイメージである。》——ベンヤミン『パサージュ論』
ベンヤミンは、模倣の能力やオノマトペ、占星術の星の配置などを、この類似性の具体例として挙げるが、これが人間の言語にも影響を与えているとするのが、彼の歴史哲学の妙味だろう。
〈このように文字は、言語と並んで、非感性的なさまざまな類似、非感性的な照応関係〔コレスポンデンツ〕の書庫となったのである。〉
〈そうだとすれば、言語とは次のような意味で、模倣の能力を最高度に用いたものということができるだろう。つまり言語はひとつの媒質〔メディウム〕であり、類似的なものを知覚するあの昔の能力は、この媒質のなかへあますところなく入り込んでいったのである。〉
《そして、その力は最終的には、魔術の力を清算することとなる。》——ベンヤミン「模倣の能力について」