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per l/a psicoanalisi

動物とヒト、社会化された人間への疑問符として

2020-02-15 23:01:01 | Note

 政治的動物 zōon politikon(アリストテレス)
 社会的動物 animal socialis(セネカ)
 「人間は本性上政治的、すなわち社会的である homo est naturaliter politicus, id est, socialis」(トマス・アクィナス)


これらは、翻訳上の推移である。これについてのアーレントの判断は次のようになる。

《しかしこのように、政治的なものを、無意識のうちに社会的なものに置き代えたということは、政治にかんするもともとのギリシア的理解がどの程度失われたかということを、どんな精緻な理論よりもはっきりと暴露している。》——アーレント『人間の条件』邦訳版p.44

ここで目を惹くのは、人間は動物 zōon, animal であるということでもある。近代になるとこの労働もする動物は、種としてのヒトとして扱われるようになる。

「ヒトの社会 societas generis humani」という概念と共に、「社会的」という用語が、基本的な人間の条件という一般的な意味を獲得する。ここでのヒトは既に何らかの具体的な活動をする動物とは違う、ある種の概念化が起きているように思える。

動物性の軽視とヒトという種の優性。これらは同じコインの裏と表である。そして、種としてのヒトとは“科学的対象”にも変化する。

あるいは、フロイトも『性理論三篇』において古代人と近代人の違いを述べるにあたり、後者の側の欲動への蔑みを挙げていたことを思い起こそう。


アリストテレスによる人間の第二の定義は「言葉を発することのできる動物 zōon logon ekhon 」であるとされ、このラテン語訳は「理性的動物 animal rationale」になるが、これも先の「社会的動物」同様の基本的誤解に基づいているとアーレントは述べる。

そして、アリストテレスにとっての人間の最高の能力は、logos ではなく nous の観照の能力である。アリストテレスはあくまでも政治的領域とその生活様式を定義して、人間をそう定式化したに過ぎない。

《政治的領域と社会的領域とを同一視するという誤解は、たしかに、ギリシア語をラテン語に翻訳し、それをローマ=キリスト教思想に取り入れたときからすでに始まっている。しかし、社会という言葉の近代的使用法と近代的理解になると、事態はいっそう混乱している。》ibid., p.49

最初のシニフィアンとそれへの同一化にもそれはある。だが、それを如何にして公的なものに開かせるかという問題は、言語活動の出来事の次元に求められた。だが、この事実性の水準に我々は知性によっては接近できないことも既に見てきた。

問題は、この最初の同一性は“聖性”の領域をも保存しているということでもある。公的なものに対して私的なもの。政治的なものに対して家族的なもの。しかし、「社会」という枠組みにあって両者は混乱している。つまり、そのエコノミーは躓きにもなっている。

《私的なものでもなく公的なものでもない社会的領域の出現は、比較的新しい現象であって、その起源は近代の出現と時を同じくし、その政治形態は国民国家に見られる。》ibid., p.49


近代の個人主義的な人間は、プライベートなもの(私的なもの)をもはや、その語源的な意味である「剥奪 privation」としては考えない。この語は古代人にとってはまず、公的なものに参加する能力の欠如の徴候を帯びている。

《…人間の能力のうちで最も高く、最も人間的な能力さえ奪われている状態を意味した。》ibid., p.60

こう考えると、通常我々が考える社会生活におけるプライバシーとは、公的なものとはもはや完全に隔たってしまった状況と解釈できる。(私的領域が著しく豊かになったにも関わらず)

アーレントが指摘するところによれば、それは政治的なものと対立しているだけではなく、社会的なもの—そもそも近代社会とは、公的なものと私的なものの区別が消失し、曖昧化している—とも対立しているということである。つまり、我々の親密さの領域が社会においてそれ自身と対立している事態とは、何よりも近代人特有の葛藤を物語ってもいる。

《この近代人は果てしのない葛藤を続けながら、社会の中で気楽でいることもできなければ、その外側で生きることもできない。そして彼の気分はたえまなく変化し、その情緒生活は過激な主観主義に満ちている。》ibid., p.61

このような状況にあって、人間の親密圏の地勢図は変化している。おそらく、ラカンが「外密 ex-timaté」という造語を発案したのはこのような事情も汲んでいる。


社会的 social という言葉ないし概念は、フランスでは18世紀半ばに至るまで殆ど用いられてはいなかった(英語としては既に17世紀末にJ. ロックによって用いられている)。そして恐らく—仮説としてでもいいが—、この社会という言葉が結託したのは“科学的な意味における”「自然 nature」概念であるということはできるように思える。そのような土壌があったからこそ、両者は「運動」として性質を持ち得、その「過程」が重要視されるようにもなった。


資本主義をも含むだろう全体主義化のイデオロギーが拠って立つのは、「自然」と「歴史」である。前者には成長力やその増大が含まれ、後者にはその過程〔プロセス〕や進歩が含まれる。社会やそこから資本主義社会(つまりは、高度消費社会)が発生した根拠を問えば、如何にそれらが問題含みであるかは掘り崩すことはできる。

精神分析「運動」という事態にも否を唱えることになるだろう。その政治化は、目的論の外部で「政治」や「活動」を考えるならまだしも、未だに目的論の連関の内部に捉えられてしまう。

フロイトの時代にも科学の問題や性の生物ないしは自然主義的な残滓があった。科学の用意した「自然 nature」概念は無限の性質を持っている。これは古代の「自然 physis」の循環性とは異なるあり方をしている。そして恐らく、欲動概念には無限の問題も循環性の問題も入り込む。故に、享楽 jouissance は身体にも有機体にも働きかけるわけだし、無限の問題としても精神に亀裂を入れる。

フロイトの炯眼は、欲動を中間的で曖昧なものとして示しえたことだ。そして、アーレントの炯眼は、社会を私的なものと公的なものの区別の曖昧化(蒙昧化でもありうる)として捉えられたことだ。故に、欲動は我々の内側からも外側からも影響を及ぼしてくる。社会も同じように、私的で親密なものにも、公的で開かれたものにも影響を与える。


ノモス nomos とは本来はその両者の間の「壁」である。(ポリスの領域はこのノモスにより囲まれている)

だが、全体主義において法 law は、本来なら自由の原因でもある法が必然性という法則に変質したかのように「運動法則」に転化する。社会が我々の世界を守るとら限らない。本来、世界に安定性を与えるのは法の側である。だが、社会は往々にして運動法則に転化した法則に忠実になる。(アガンベンが法の不活性化を説く時も、それは単にネガティヴだというよりは、運動法則に転化した法を問題にしているのだと推測できる)

要するに、社会的なものを無条件的に、あるいは無媒介的に称揚することは、全体主義の運動を許容し推進するに等しく、結果は死を招く。また、そのような暴力は種の優生とも容易に結びつくし、自然と歴史というイデオロギーは、種の全体を保存するためにいわゆる生権力=死権力を行使する。

今日、いわゆる社会 society で自己主張をしているのは、“種としての”生命なのだ。

《…社会の勃興のなかで自己主張したのは究極的には“種の生命”であった。近代初期には、個体の「エゴイスティックな」生命が主張され、近代後期になると、「社会的」生命や「社会化された人間」(マルクス)が強調された。……残されたものは「自然力」、つまり生命過程そのものの力であって、すべての人、すべての人間的活動力は、等しくその力に屈服した(「思考過程そのものが自然過程である」)。この力の唯一の目的は——目的がともかくあるとして——“動物の種としての人間の生存”であった。》ibid., pp.498-499


このアーレントが引いた「思考過程そのものが自然過程である」(1868年7月、マルクスがクーゲルマンあてに書いた書簡)という言葉の「過程」ということに注意するなら、彼女がマルクスを批判する時には、恐らくだが「労働」と「社会化」という用法の中に既に“動物化の兆候”を見ていた節はある。そして、“過程の運動”はこれらを直接的にか結び付ける項となる。

繰り返しになるが、アーレントにおいて“社会化された”人間の労働は、その中に人間の動物化を招くという論点が内包されている。つまり、社会化という“過程や運動”において、既に私的なものが拡大し、公的なものが衰退していく兆候をアーレントは見ている。この“過程 process”は、“訴訟 process ”でもある。

そしてこれも誤解されてはならないが、アーレントは私的なものや必要性=必然性 necessity を軽視したわけではない。アーレントは、逆にそれらを「解放」することを警戒していた。つまり、労働そのものというよりは労働の解放を。社会化された労働は既に公私の区別を失っているわけだから、その労働の運動-過程は解放されやすい。
 

†労働、仕事、運動-過程、リズム

アーレント版・主-奴の弁証法は、〈工作人 Homo Faber〉と〈労働する動物 Animal Laborans〉の関係である。その理論の射程は、間違いなり誤読の批判を考慮に入れても、マルクスのそれと引けを取らない。それは、資本主義のディスクールの循環性—生命過程—によって見えなくなっている目的-手段のカテゴリーをしっかりと据えている。

労働とは違い、仕事=制作は世界性の樹立の主人たりうる。だか、問題はその工作人も自らの利益(名誉といっても同じだが)を、症状の疾病利得とほぼ同様なこととして勘定し出すことにある。そして、人は悪く(つまり、悪い意図をもって)作ることがあるし、そう“できる”。

《目的と手段をはっきりと区別することができなくなっているこのような状態を、人間行動の側から考えてみよう。そうすると、これは、特定の最終生産物を得るために道具を自由に取り扱い使用しているという状態ではなく、むしろ、労働する肉体が道具とリズミカルに統合されている状態である。そして、労働の運動そのものが、このような統合する力として働いているといえる。》ibid., p.235

“労働の運動”ということに注意を喚起する。ここにも、“過程”という問題が二重に入り込む。労働の運動の過程(労働する肉体と道具がリズミカルに統合されている継起)において既に、目的と手段は見失われている。


《この運動の中で、道具はその手段的性格を失い、人間と用具の間の区別、用具と目的の間の明白な差異は曖昧になる。労働過程を支配し、労働の様式で行なわれるすべての仕事過程を支配しているのは、人間の目的ある努力でもなければ、人間が欲している生産物でもなく、実にこの過程そのものの運動であり、それが労働者に押しつけるリズムなのである。》ibid., p.236

そう考えれば、我々は如何にしてその労働の運動リズム-弁証法的過程から離れ、別の問いを発することができるかということが頭をもたげてくるようになる。

《労働過程のリズム以上にたやすく自然に機械化できるものはない》ibid., p.236

《この労働過程のリズムは、同じように自動的で反復的な生命過程のリズムと、生命過程と自然との新陳代謝のリズムに対応している》ibid., p.236

 

†“animal civile”(礼儀正しい動物)——?

冒頭にて、アーレントが示した翻訳上の推移の問題を掲げた。だが、これは間違いではないにしても不正確であると、市野川は『社会 the social』(2006) の中で述べている。

《というのも、アリストテレスの“politikon”に対して、アクィナスは“socialis”の他に、もう一つ別の訳語をあてているからだ。》——市野川容孝『社会』p.90

 quod politicum idem est quod civile〔政治的なものは civilis なものと同じである〕

 quod homo est naturaliter animal civile〔人間というものは、その本性からして civilis な動物である〕

 politicus enim facit hominem civilem〔政治的なものは、すなわち人間を civilis にする〕

《これらの箇所では、アリストテレスの“politikon”は、一貫して“civilis”というラテン語に訳されている。この“civilis”という言葉は、“civis”(市民)という名詞から派生した形容詞であり、さらに“civitas”(都市、国家)とも関連している。》ibid., p.92

この civilis というラテン語の形容詞から、中世ヨーロッパの各世俗語では、“civil”(英語、仏語)、“zivil”(独語)という言葉が生まれている。これらはいずれも「礼儀正しさ」や「礼儀作法」をも意味する。(ちなみに、伊語では“civile”である)

アーレント的な問題が、〈政治的動物〉(アリストテレス)から〈労働する動物〉(マルクス)の伝統との対決に向かうのだとすれば、市野川はトマス・アクィナスによる訳語から〈礼儀正しい動物 animal civile〉を探求しようとする。

ここで断っておきたいのは、市野川はこの politikon から civilis の系譜をも手放しで賞賛しているわけではないということだろう。

《この礼儀正しさは、そのまま宮廷社会の内と外を境界づけていた。》ibid., p.93

《それはまた「宮廷社会」という、一般人から隔離された特権的空間を意味したのであり、アリストテレスの政治的な動物も、この宮廷社会の中で、礼儀正しく振る舞う動物たちを意味するようになった。あるいは、そのような動物を意味するまでに堕落したのである。そして重要なのは、この宮廷社会が何に支えられていたかである。言うまでもなく、それは中世以来の身分制にほかならない。》ibid., p.93

“politikon”の訳語から出発し、中世以降のヨーロッパでは宮廷社会と身分制の別名となった“civilis”・“civil”は、何よりも不平等の装置を意味している。

ここから、アーレントの問題点を逆照射するなら、アーレントの理想とする古代ギリシャ・ポリスのモデルも、既に奴隷制を前提としている。(しかし、アーレントは別段に奴隷という存在を“無視”しているわけではない。労働と奴隷の繋がりを寧ろ、必然=必要的なものとして彼女は捉えている)

市野川の場合は、animal civile における civilis の側に不平等の起源の問題(ルソー)を見出しているが、アーレントの場合は、動物 animal の生命循環の過程がそもそも必然性=必要性 necessity の様相にあり、その循環過程に繋ぎ止められている状態を奴隷と表現しているという違いはある。

故に、政治的動物 zōon politikon という時のアリストテレス的なテーマは、生政治の問題—この場合、bios による zoe の締め出しという重大の契機が共同体の起源に措定ないし刻印される—に変遷されることもあれば、自己の主人となることの統治性の主題にもなりうるだろう。

あるいは、ここからマルクス的なテーマを指摘しておけば、civilis の側は階級やそれらの闘争の政治=社会的運動として、animal の側は物質代謝の論点を内属させているといえるかもしれない。


ここまでで、我々は翻訳上の推移の問題から幾つかの論点を手にしたことになる。

politikon からは、socialis における動物化と、その労働と運動の肥大化の過程—広義には、全体主義運動における自然と歴史のイデオロギー化—を、civilis からは政治的な起源における不平等の問題—中世以降の身分制や古代の奴隷制—を。

そして、zōon (animal) には、その両者に跨ったある種の人間性=ヒューマニティを揺るがすような問いを。