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per l/a psicoanalisi

学生たち Studenti

2017-05-22 02:08:06 | Agamben アガンベン

Studenti

ある記念すべき論文の中で、ベンヤミンがベルリン学生たちの生の窮乏を明らかにしていた時から百年が経ち、ストラスブールの中で流布したある匿名の本が『学生の環境における窮乏』—その経済的、政治的、心理学的、性的な諸アスペクトにおいて、また特殊なインテリたちの中で考案された—のタイトルでそのテーマを明らかにしていた時から、まさに半世紀が経った。それ以来、無情な診断はそのリアリティを失っただけでなくまた、(経済的なものと精神的なものを伴った)窮乏が抑制できない尺度で増大したと誇張する恐れなしで言われうるだろう。そして、企業の隠語と科学的研究所の用語法とのあいだにある語彙 ad hoc の推敲を通じてそれが隠されようとするほど、この下降化 degradazione は、賢い観察者にとっては、ますます明らかである。

この専門用語的な詐欺〔欺瞞〕の一つのしるしは、“研究 ricerca”という言葉の“学問 studio”という言葉(明らかに威信があるようにはより見えない)への、それぞれの領域における代用である。そして、もし(アカデミックな諸文書から実際に消失した)言葉が、“諸学問の大学 Università degli studi”を一つの歴史的残存物としてもはや告げる、公式からもまた取り消されるためになくなるであろうなら、代用はこのように私たちに要求されうるほどに完全なものである。学問 lo studio は研究 la ricerca より勝るそれぞれのアスペクトの下での認識的〔識別的〕パラダイムであることだけではなく、(人間科学の領域において)それに関連するエピステモロジー的制定は、弁証法かつ研究のそれにまったく矛盾しないことを示すように、私たちは努めよう。

自然科学の領域から人間科学の領域へのある概念の軽率な移転に由来する不都合が際立って明らかになるのは、“研究 ricerca”という用語にとって固有である。事実、同じ用語が二つの領域において、まったく異なった構造と方法論のパースペクティヴへ参照を送り返す。諸自然科学における研究 La ricerca はまず最初に、ある一人の研究者が自分自身でそれを現実化することが考えうることさえないほど複雑で代価の高い用具一式の使用を含み、その上、客観的必要性—例えば、腫瘍の拡散、新しい技術また軍事的要請の過程での発展—や、化学的、情報的、また戦争に関する諸産業における適合した諸利益の継ぎ目から帰結する諸管理〔運営〕、要綱、探究のプログラムを含む。人間科学において、匹敵することは何も発生しない。ここでは“研究者 ricercatore”—より本来的には“学者 studioso”と定義されうるかもしれない—は、蔵書とアーカイヴだけを必要とし、それらへのアクセスは概して容易で無償である(登録料金が適切で、それが取るに足りない時は)。この意味で、(実際に不足している)研究資金についての繰り返す抗議は基礎のかけらもない。問題の資金は事実、固有の意味での研究 la ricerca のためではなく、もともと諸自然科学の中では等しく共通するところが何もない、会議や対談〔話し合い〕に参加するために使われる。ところが一方、これら〔諸自然科学〕においては、最も緊急な新しい事柄を理論においてのみならず、まず最初に実験的照合においてもまた伝達することが問題であり、(その中ではプロティノス、あるいはレオパルディの一節の解釈は、いかなる特殊な緊急事項には結び付かない)人文学的領野では同様なことは何も起きえない。これら構造的相違からその上、自然科学においてより進んだ諸研究 le ricerche は概して、共に働く科学者たちのグループのためのパイプであるのに対して、人間科学においてより革新的な調査結果は常に、(図書館〔蔵書〕の中で彼らの時代を通過し、会議に参加することを愛さない)単独の学者たちから達成されることが帰結する。

もし既に、二つの領域のこの本質的な異種性が諸自然科学に研究 ricerca という用語を保存するよう勧めるのなら、他の諸議論もまた諸人間科学を返還するよう、数世紀のあいだそれらを特色付けたこの学問に示唆する。まだ固有の対象を発見したことがなく堂々巡りに送り返す (circare)、“研究 ricerca”という用語と違い、ある欲望の最高の度合 (studium) を語源学的に意味する学問 lo studio は常に既に、その対象を見出していた。諸人間科学において、研究 la ricerca は、(同定された一度でその対象を中断する)学問 lo studio のただの一時的なフェーズである。しかし、学問 Lo studio は、永続的な一つの条件である。むしろ、学問 studio は、その中で知識のある欲望がその最高の緊張に到達し、ある生の形式—学生の生、むしろ学者の生—になる点と定義されうる。このため—その中で学生 lo studente は研究者 ricercatore に関するより低い一つの身分である、アカデミックな専門用語において含意されることに反し—、学問 lo studio は研究 la ricerca よりヒエラルキー的に勝る、ある認識的パラダイムである。これ〔研究〕が、仮にある欲望によって活性化されず、その目的に到達できない、また、かつてそれに到達したがために、それと熱心に同居する以外できない(学問 studio において変形する)という意味において。

研究 la ricerca は常に具体的統一性を目標にするのに反し、ある永続的な条件を代理する限りで殆ど生の形式 forma di vita であるような、ある直接の統一性を強く要求しえがたい学問 lo studio について同様なことは言われえないと、これらの考察に反論されうる。ここで、その統一性から全ての人間的諸活動性が定義されるに応じる共通の場を裏返す必要がある。この原理に基づき、最も明らかに過剰〔余計〕な諸原因〔事物〕がある功利主義的なパラダイムの中に、常に純粋な法のためだけに為される人間的諸活動が必要であるかのように再コード化しながら、今日記入される。事実、統一性により支配されたある社会においては、使えない諸事物が保護〔防衛〕するための財になることが明らかに固有であるに違いない。学問 lo studio はこのカテゴリーの一員である。学生の状況はむしろ、多くの人にとって、今日常に最も希有な、統一的な諸目標から差し引かれたある生の経験をする唯一の機会である。このため、職業学校における人文学系の諸学部の変化は、学生たちにとって、同時に一つの欺瞞そして崩壊である。欺瞞、なぜなら学問 lo studio(またこのような最も絶えず希薄化され威信をなくした教育法も明らかにない)に相当するある職業は存在しないし、存在しえない。崩壊、なぜならそれらの状況の最も固有な意味を成立させていたところの学生たちは欠けているからであり、まだ労働市場において捕捉される以前に、学問 lo studio において結ばれた生と思考を放棄しながら、取り消しがたいほどにそれらから遠ざかっているからである。

Giorgio Agamben
2017年5月15日


美しい仮象

2017-05-19 01:46:02 | Note
《……模倣 Nachahmung するのであれ、あるいは偽造 Nachmachung するのであれ、いずれにしても反復されている。》Derrida, Economimesis


美しい仮象のレトリック的偽造の性格。仮面愛への幻惑と変身願望。

表層/深さの愛は、物の犠牲のナルシシズム的イメージを、表面/高さに映し出す。(incorporation)
レトリック仮面劇。その時、享楽は自己-触発的なエコノミーの循環-閉域に嵌り込む。

一方、“純粋な”表面においては、S1 は既に、喪失の代償のイメージである。それは、失われていく限りで、知を横切る。 その時、主体は自らの経験を知り得ない。(introjection)
主体の変身ではなく、変化を支えるような、無意味な知。


■欲望の根源と幻想の起源の分岐

「欲望の根源」とは、そもそも真理の出来事性のレベル(発話行為を含む)にあるが、それは美的仮象を纏って現れる。純粋な見せかけ・ミメーシス〔模倣〕の次元。詩人と神のアナロジー。

「幻想の起源」とは、忘却により論理的仮象を纏って発生する。ソフィズム。しかし、ソフィストにおいては、論理的仮象の方が“美的”であると幻惑されている。

両者は、欲動の辿る運命が異なる。
後者は、特に享楽によって、喪=哀悼の作業の機会が阻まれる。


■しるしと痕跡

カントは「しるし」や「痕跡」について、「自然がその美しいフォルムにおいて象形的にわれわれに語りかけるところの暗号化された文字表記」と述べている。そして、この自然が示すしるしや痕跡は、概念に基づく学知によってコントロールされる必要がない。

もともと、カントにおける美的な趣味判断は、享受については無関心である。かといってそれが、共通感覚による伝達から阻まれているわけでもない。さて、こういう問いを発してもいいだろう。

ララング=エコノミメーシスにおいては、享楽は断念されて、失われており、それは喪に服する可能性を得ている。つまり、これは“範例的な”口唇性だが、そのような口は、対象の消費=飲食を諦め、それによって味わうこと=趣味の可能性を持つ。