ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

ジジェク、革命を語る(途中)

2014-08-18 19:00:51 | Note
——DEMANDING THE IMPOSSIBLE by Slavoj Žižek (2013)


“…エコロジーはきわめて自己中心的、人間中心的な装置です。自然は狂気じみたものです。自然はカオスであり、手に負えない、予測不可能な、意味づけられない災害をもたらします。”

「ヨーロッパ的な視点からみて問題と思うのは、世界には何らかの自然のバランスないし調和が存在するという東洋的な見識です。私はこの世界に調和があるとは思いません。反対に、あらゆる調和は“単なる部分的で不完全な調和”であると思います。」

「危機を前にすると、人々はきまって、おのずから、ある種の失われたバランスを追い求めます。それは孔子から始まりました。孔子は馬鹿の元祖だと思います。孔子は哲学者というよりイデオロギー的空論家の原型です。彼の関心は形而上学的な真理ではなく、むしろ、個々人が幸せで倫理的な生活を送れるような調和のとれた社会空間にありました。」

「もとの調和が失われたとき危機が起こる、だから理想は調和を取り戻すことである、これが孔子の考え方です。この考え方はやめるべきだと思います。我々が回帰すべき、あるいは回帰できる調和など存在しません。調和を得るためには、我々は自らが望むものが何であるかを“決定”しなければならない、そして、それをめざして戦わなければならないのです。」

「混沌としている、だから我々は安定性に回帰するべきだ、というのが伝統的な儒教の規範ですが、今日の人類が置かれた状況に対してこの規範を適用できるとは思いません。我々は、我々の望む安定性がどのような安定性なのかを決定しなければならない。いかなる自然のバランスや社会の調和もあてにはできません。この点では、私は悲観論者です。」


「この新しい権威主義は、旧来の、規律のきびしい体制における権威主義のようにはならないでしょう。そうではなく、これは奇妙な社会に行き着きます。それは、人が消費活動と私的生活においてあらゆる性的自由を享受し、何でも好きなものを手に入れる社会であると同時に、ある種の“脱政治化された”秩序をもった社会でもあります。これは恐ろしい考えです。」

“欧米は将来いよいよ民主主義を廃止せざるをえなくなるだろうと、私は思います。……”

“資本主義と民主主義の結婚は終わりました。”

《ユートピア的な夢想と言えるのは、新たな社会が可能である、ということではありません。むしろ、現状は維持される、世の中は今と変わらずいつまでも続いていける、ということのほうが夢想なのです。》


《…すなわち、左翼は何かを隠すことによってではなく、まさに“何も隠さない”ことによって、敵に反抗し、敵を混乱させる、という秘密です。》


*途中p.81~

アガンベン『例外状態』

2014-08-18 12:28:51 | Agamben アガンベン
――Giorgio Agamben, Stato di eccezione (2003)


第1章 統治のパラダイムとしての例外状態

《他方で、もし例外というのが、法が生に関連させられ自らの一時停止をつうじて生を自らのうちに包摂するさいの独自の装置であるとするならば、例外状態についての理論は、生きているものを法に結びつけると同時に見捨ててしまうような関係を定義するための前提条件となる。》p.8

“法学的な観点からすれば、第三帝国は全体として十二年間にわたって継続した例外状態とみなすことができるのである”p.9

《例外状態というのは、なにか特殊な法(戦時法のような)ではないのであって、法秩序それ自体を停止させるものであるかぎりで、法秩序の閾あるいは限界概念を定義したものなのである。》p.14

“例外状態は、むしろ空虚な状態を、すなわち法の空白を構成している”p.16

“…例外状態は、もはや歴史的尺度としてではなく、ますます統治の技術として登場するようになっただけではなくて、法秩序を構成するパラダイムとしてその本質を明るみに出すようにもなっていることを告知する先導役を果たしている。”p.18

“すなわち、例外状態はいまや通常の状態になってしまったというのが実態なのだ。”p.22

“しかしながら、すべての西洋民主主義諸国において現に進行中の一傾向と歩調を合わせながら、例外状態の宣言は、通常の統治技術としての安全確保というパラダイムの先例なき全般化によって徐々に取って代わられつつある。”p.31

「しかしまた、その例外状態の宣言は、それと自覚されないアイロニーをともないつつ、制度史上初めて、たんに安全と公的秩序の保護のためにではなく、「自由民主主義的憲法」の擁護のために準備されたのだった。守護された民主主義がいまや通常の状態になってしまったのである。」p.34-35

“アメリカ合衆国大統領は、いまや例外状態にかんする主権的決定者となってしまっていたのだった。”p.45

《実際には、例外状態は法秩序の外部でも内部でもないのであって、その定義の問題は、まさにひとつの閾にかかわっているのである。言いかえれば、内部と外部が互いに排除しあうのではなく、互いに互いを決定しえないでいるような未分化の領域にかかわっているのである。》p.50

《のちに見るように、例外状態をめぐる抗争は、本質的には、例外状態が位置する場所〔ロクス〕をめぐる論争として提示されるのである。》p.51


第2章 法律× - の - 力
(注:「法律」の上に×印が掛かっている)

“例外状態を法秩序のうちに繋留することを可能にする操作をしているのは、この場合には、自らを憲法へと構成する権力と憲法へと構成された権力とのあいだの区別である。”p.68

“例外状態に関して決定することのできる主権者は、例外状態を法秩序に繋留することを保証するのである。”p.70

《“法秩序の外にあり、しかしまた法秩序に属している”。これこそは例外状態の位相幾何学的な構造である。そして、例外に関して決定する主権者は、本当を言えば、論理的にみて、自らの存在においてこの構造によって定義されているからこそ、主権者自身もまた、“脱却―所属”という撞着語法によって定義されうるのである。》p.70-71

「シュミットの主権概念の地位と逆説は、すでに見たように、例外状態に由来するのであり、その逆ではない。」p.71

「彼の主権理論が例外状態を法秩序にきっちりと繋留させようとする試みを代表していることは疑いない。」p.71

☆p.78 例外状態というのは、一方では、~

《この意味では、例外状態というのは、そこにおいて適用と規範が互いに分離を提示しあい、ある純粋な法律× - の - 力によって、その適用を停止されていたある規範を実現する――すなわち、適用を停止することによって適用する (applicare dis-applicando) ――ことがなされるようなひとつの空間が開かれている状態である。》p.82


第3章 ユースティティウム iustitium

「このようにもっぱら法的空白の生産を目的とする逆説に満ちた法制度の意味こそが、ここでは、公法体系学の観点からも政治哲学的な観点からも、検討される必要があるのである。」p.84

「戦争 (bellum) と動乱 (tumultus) とのあいだの関係は、一方では戦争と軍事的戒厳状態とのあいだに、他方では例外状態と政治的戒厳状態とのあいだに存在する関係に等しい。」p.86

〈一時的な「法の外にある」命令権があらゆる市民を覆い尽くすようにみえるこの必要状態指揮権の定義において、モムゼンは彼に可能であったかぎりで例外状態の理論を定式化に接近しながらも、その手前で立ち止まってしまったのだった。〉p.90


「というのも、ある国家においてその種の対策が存在しない場合には、法規を守っていたのでは滅びることが必定だからである。それとも、滅びたくないのであれば、法規を破壊することが必要となる」(Nissen, 1877, p. 138)

「公法の観点からすると、例外的な諸規則 (Ausnahmema�・regeln) の採用の可能性が現実のものとなるような、休止」(ibid., p. 76)

《この意味において、最終元老院決定とユースティティウムとはローマの国法秩序の限界を印づけているのである。》p.94

“ニセン Nissen のテーゼ(法の全面的な停止としてのユースティティウム)”p.94

《まず、ユースティティウムは法秩序全体の中断と停止を意味するものであるかぎりで、独裁のパラダイムによって解釈することはできない。》p.95

《このようなユースティティウムとの連関から展望した場合には、例外状態は、独裁のモデルにしたがって諸権限の十全さ、法が充溢した状態として定義されるのではなく、法が空っぽの状態、法の空白と停止として定義されるのである。》p.96

“必要状態というのは「法の状態」ではなく、法のない空間なのだ(たとえ例外状態は自然状態ではなくて、法の停止に由来するアノミーとして立ち現れるとしてもである)。”p.102

《理論の本質的な任務は、例外状態が法的な性質のものであるかいなかを明らかにすることだけではなく、むしろ例外状態と法との関係の意味、場所、様態を定義することなのである。》p.104


第4章 空白をめぐる巨人族の戦い

「この暴力に固有の特徴は、それが法を措定も維持もせず、法の廃止 (Entsetzung des Rechts [Benjamin, 1921]) を達成するということであり、こうしてそれはひとつの新しい歴史的時代の幕を開けるのである。」p.108

《例外状態というのは、彼が純粋暴力というベンヤミンの考えを捕捉し、アノミーをノモスの総体それ自体のうちに書きこもうとするさいに設定される空間なのである。シュミットに言わせれば、純粋暴力すなわち絶対的に法の外部にある暴力など存在しえない。というのも、例外状態においては、純粋暴力は自らが排除されること自体をつうじて法のうちに包摂されるからである。すなわち、例外状態というのは、全面的にアノミー的な人間の行動についてのベンヤミンの主張にシュミットが返答するために使う装置にほかならないのである。》p.109

「同様に、あらゆる法的問題の最終的な決定不能性というベンヤミンの考えへの返答として、シュミットは極限的な決定の場所としての主権を主張するのである。」p.110

“主権者は例外状態に関して決定することによって、それをいかなる仕方でも法秩序のうちに包摂してはならないのであって、反対に、それを法秩序から排除し、その外部に放り出したままにしておかなければならないのである。”p.111

「そのつど例外に関して決定しなければならない主権者とは、まさに法の総体を分割している断裂が埋め合わせ不可能なものになってしまう場にほかならない。権力 (Macht) と能力 (Verm�・gen) とのあいだには、いかなる決定も埋めることのできない裂け目が口を開けているのだ。」p.113

《こうした主権者の機能のドラスティックな再定義は、例外状態の別の状況を含意している。例外状態はもはや、その停止状態のうちにあって効力を発揮する法律の力によって内部と外部、アノミーと法的コンテクストとのあいだの接合を保証する閾としては立ち現れない。それはむしろ、被造物の領域と法秩序とが同じひとつの破壊のなかに巻きこまれるような、アノミーと法とも絶対的に決定しがたいひとつの地帯なのだ。》p.115

“しかしながら、シュミットがいかなる場合にも受け入れることができなかったのは、例外状態が全面的に通常の状態と融合してしまうことだった。” p.116


「すなわち、このアノミーの地帯において問題となっているのは、暴力と法との関係なのであり――究極的には人間の行動の暗号としての暴力の地位なのだ。暴力を法的コンテクストのうちに書きこみなおそうと事あるごとに努めているシュミットに対して、ベンヤミンは純粋暴力としての暴力に法の外部にあっての存在を保証しようと事あるごとに努めることによって応じているのである。」p.119

「究極の形而上学的掛け金としての純粋存在に、ここでは、極限的な政治学的対象、あるいは政治学の「もの自体」としての純粋暴力が対応している。純粋存在をロゴスの編み目のなかに捕捉しようとしてきた存在‐神‐学的戦略に、アノミー的な暴力と法とのあいだの関係を保証するはずの例外の戦略が対応している。」pp.119-120

《純粋暴力とは、むしろ、例外状態をめぐる抗争におけるゲームの掛け金であるにすぎず、その抗争から生じる結果である。そして、このようにしてのみ、法に先立つものとして前提されるものなのである。》p.121

“――言いかえれば、純粋暴力と神話的‐法的暴力とのあいだの差異は暴力それ自体のうちにあるのではなく、暴力とその外部にある何ものかとのあいだの関係のうちにあるということを意味している。”p.123

“純粋暴力によってなされる神話的‐法的暴力の仮面剥奪に、カフカ論においては、一種の残余として、もはや実地には用いられず、もっぱら勉学されるだけの法という謎めいたイメージが対応する。”p.126


第5章 祝祭・服喪・アノミー

「主権者は生きた法律であるということは、主権者は法律によって拘束されないということ、法律の生命は主権者のうちでは全面的なアノミーと合致するということでしかありえない。」p.140


第6章 権威 auctoritas と権限 potestas

「権威主義的パーソナリティ」(アドルノとエルス・フレンケル=ブルンシュヴィック)

「自由主義による権威と暴政との混同」(Arendt, 1961, p. 97)

「権威と自由、権威と民主主義を対立させ、そのあげく権威と独裁とを混同するにいたった現代の国家理論における伝統喪失」(Schmitt, 1931, p. 137)


《しかしながら、そもそも後見人=「増大させる者」の「力」はどこからやってくるのか。また、この「増大させる」力とは何なのか。》p.155

〈モムゼンは権威のこの特異な性格を表現しようとして、それは「命令以下であり助言以上である」(Mommsen, 1969, p. 1034) というように書いている。〉p.157

《権威と権限とは、互いにはっきりと区別されている。しかしまた、それと同時に両者は一体となって二項からなるひとつの体系を形成しているのである。》p.158

“法的効力というのは人間的行為の本源的な性格なのではなくて、「適法性を授与する潜勢力」(Magdelain, 1990, p. 686) をつうじてそれらの行為に伝達されなければならないものなのである。”p.159

《…権威は、“権限が生じているところではそれを停止させ、権限がもはや効力をもたなくなってしまったところではそれを復活させる力”として作用しているように思われる。それは法を停止したり復活させたりするが、形式的には法としての効力を発揮することがないひとつの力なのだ。》pp.159-160

《ここで権威は、一瞬の間だけ、その本質を明らかにする。「適法性を授与する」と同時に法を停止することのできる潜勢力は、その法的無効性が最大限に到達した時点で自らのもっとも本来的な性格を露呈するのである。これこそは、法が全面的に停止された場合にも法に残っているもの (ciò che resta del diritto)なのだ(この意味では、それはカフカの寓話のベンヤミンによる読解のなかで、法ではなくて生であると言われているもの、そのあらゆる点で生と判別不能になってしまった法にほかならない)。》pp.162-163


*権限 (potestas) [dynamis] p.165

「…権威は、人物から、その人物をつうじて構成されるものとして、湧き出てくるのであり、その人物のうちでのみ生き、その人物とともに消えてなくなるのである」(Heinze, 1925, p. 356)


「法とはある特別の視点から見られた生にほかならない」——サヴィニー (1779-1861)


《権力の「玉手箱」(arca) がその中心に内包しているものは何かといえば、それは例外状態である。しかし、例外状態というのは本質からして空虚な空間であって、そこでは法との関係をもたない人間の行動が生との関係をもたない規範に対峙しているのである。》p.175

《ところが、本当の意味で政治的なのは、暴力と法とのあいだのつながりを断ち切るような行動だけなのだ。そして、このようにして開かれた空間から出発することによってのみ、例外状態において法を生に結びつけていた装置を不活性化したあとで、法の使用の可能性についての質問を提出することが可能となるだろう。》p.178

アガンベン『人権の彼方に―政治哲学ノート』

2014-08-13 12:30:52 | Agamben アガンベン
――Giorgio AGAMBEN, MEZZI SENZA FINE (1996)


I

“つまり、人民 popolo はそれ自体のうちに常に既に、基礎的な生政治的亀裂を抱えこんでいる。人民は、自らが部分をなしている全体の中に包含されることができないもの、自らが以前から常に包含されている集合に所属することができないものである。”

“それは、存在するためには、自分の反対物によって自らを否定しなければならないものである(人民へと向かいながらその廃絶を目指すという労働運動に特有のアポリアの数々はここに起因する)。”

“この観点からすると、現代は、人民を分割している亀裂を埋め、排除された者たちという人民を根源的に消滅させる試み――容赦のない、方法的な試み――にほかならない。”

《エス Es と自我 Ich の関係についてのフロイトの公準を言い換えて、近代の生政治は「剥き出しの生のあるところに〈人民 Popolo〉がなければならない」という原則に支配されている、と言えるかもしれない。ただし、この原則は、逆の定式化をしても、つまり「〈人民 Popolo〉のあるところに剥き出しの生があることになる」としても、同じ価値をもつ、ということをすぐさま条件として付加すれば、である。》

《西洋の基礎的な生政治的亀裂を考慮に入れることのできた政治だけが、この振動を停止させ、人民とこの地上の都市とを分割している内戦に終わりをもたらすことができるだろう。》

《いまや都市の内部に自らを確固と据えた収容所は、この惑星の新たな、生政治的な規範〔ノモス〕である。》


II

《身振りを特徴づけるのは、そこにおいては人は生産も行動もせず、引き受け、負担する、ということである。》

〈制作することが、これこれの目的のための手段であり、行為することが、手段のない目的であるとすると、身振りは、目的と手段のなしている、道徳を麻痺させている誤った二者択一を打ち壊すのであり、それは、目的になってしまうことのないままに手段性の領域に“そのままで”従属する諸手段を提示する。〉

“身振りとは、ある手段性をさらしだすということであり、手段としての手段を目に見えるものにするということである。”

「このように、身振りにおいても、人間たちに交流するのは、それ自体が目的である目的の圏域ではなく、目的を欠いた、純粋な手段性の圏域なのである。」

☆p.64「目的のない目的性」


「というのも、いまやさらに明らかに、“人間の住みうる世界における人間の生き延び”を管理するのがその専制の任務となるからである。」

“到来する政治は、新たな主体にせよ古い主体にせよ、もはや社会的主体の数々によってなされる、国家の征服および制御のための闘争ではなく、国家と非国家(人間)との間の闘争、複数の何らかの特異性と国家組織との間の、埋めることのできない選言である。”


“真理を対象とするこの闘争は、〈歴史〉と呼ばれている。”――「顔」

〈というわけで、露出は、数々の像やメディアを通じて集約された一つの価値へと変容し、その価値の管理を、新たな官僚階級が嫉妬深く見張っている。〉

“顔とは、顔面が顔面の剥き出しの中に露出することであり、それは、性格に対する勝利――言葉――である。”

“人間の顔は、顔の構造そのものの中に、固有なものと非固有なもの、交流と交流可能性、潜勢力と現勢力、といった二重性を再生産しており、この二重性が人間の顔を構成している。人間の顔はある受動的な地から形成されており、その地から表現的な輪郭が浮き出している。”


III

“実のところ、主権者が、例外状態を布告して法の効力を中吊りにすることで暴力と法権利とが混同される点をしるしづける者であるとすると、警察は、いわばこうした「例外状態」において常に動きだす。”――「主権警察」

“この意味では今日、地上には、潜在的に犯罪者でないような国家の長は一人もいない。”


p.118 主権とは、暴力と法権利、生きものと言語活動との間に決定不可能な結びつきがあるという理念のこと……

“今日、社会的な潜勢力が存在するとすれば、それはそれ自体の無力さの果てまで行くのでなければならず、法権利を維持したり措定したりする意志の一切を忌避し、主権を構成している暴力と法権利の間、生ける者と言語活動の間の結びつきを至るところで粉砕するのでなければならない。”

“手段性を露呈すること、手段それ自体をそのまま目に見えるものにすることが、政治的なことである。”



“ところがいまやまさに、血と生物学的身体は、決定的な政治的判断基準の代わりとなっている。”

〈はっきりと見分けられないもののなすこの不透明感地帯を収容所と呼ぶとするなら、われわれは、収容所からふたたび始めなければならないのだ。〉

《だが、倫理的 ‐ 宗教的な諸範疇と法的諸概念との混同ほどに、あらゆる倫理的経験の取り返しのつかない荒廃の明白な指標であるものもない。この混同は今日、絶頂に達している。今日では、どこであれ道徳が語られているところで人が口にしているのは法権利の諸範疇であり、反対に、どこであれ法をなしたり訴訟をなしたりするところでは、倫理的な諸概念が警士〔リークトル〕の斧のように取り扱われている。》

「今日のいわゆる民主主義国家の中に、人間の悲惨のこの大々的な製造に首まで浸かっていないような国家はない。」

「愛から脱する者たちに対する処罰とは、〈審判〉の権力へと引き渡されてあるということである。彼らは互いに互いを裁かなければならなくなる。」


《確かなことが一つある。この政治家たちは、懸命に勝利しようとする自分の意志自体によって、結局は敗北するだろう、ということである。主流派〔エスタブリッシュメント〕であろうとする欲望は、先立つ者たちを敗北させたのと同じように、彼らをも敗北させるだろう。》


《政治とは、人間の本質的な働きのなさに対応するもの、人間の共同体の根源的に働きのない存在に対応するものである。そこに政治がある。というのも、人間とは働きのない argos 存在であり、どのような固有な働きによっても定義づけられないからである。すなわち、いかなる同一性によってもいかなる使命によっても汲み尽くされることのない、純粋な潜在性の存在だ、ということである》

《この働きのなさ argia、この本質的な働きのなさおよび潜在性が、どのように、歴史的な任務となることなく引き受けられうるのか、すなわち、政治が、どのように、人間の働きの不在の露出にほかならず、それぞれの任務に対する創造的な無関心の露出にほかならないものでありうるのか、そしてまさにその意味で政治が幸福へと全面的に割りふられてある、ということ――まさにこのことこそ、剥き出しの生に対するオイコノミアの惑星規模での支配を通じて、またその支配を超えて、到来する政治の主題を構成する。》


“われわれはすべての人民の破産の後に生きている。”

-Φ を考える

2014-08-07 05:42:02 | 精神分析について
(※Twitterからの転載)

私は以前に、-Φ(マイナス・大文字のファイ)のマテームを考えていました。レエルの欠如、つまり“現実的な穴”を意味するものとして。

象徴的ファルスのシニフィアンが単にハリボテだとしても、原抑圧の吸引として反復強迫=死の欲動が働かないと、シニフィアンは連鎖しないとも言える。つまり、ここで自由連想が可能かどうか見極める必要性がある。この原抑圧の吸引力が、父性隠喩成立の条件ですね。

ラカンは象徴的ファルスについては逡巡しているところもあるから、この -Φ は私の読みでもあるんですけど、この -Φ により現実界に穴が穿たれ、S(A/) が取り囲むのが女性のセクシュアリティの在り方。


――ある方からの応答:今日考えててふと思ったが-Φって倒錯でいいのか、って思った。


そう、その連関で考えてたんです。ラカンは倒錯者なんじゃない? みたいに。サディズムあるでしょ、彼は。それに別段、ラカンの理論をセミネール順に律義に教えを順守し出すのも、あまり私のスタイルではないし、そのようにはやりたくはない。

それにラカンは象徴的去勢 cartration のマテームを -φ で表記したのだから(象徴的去勢の対象は想像的ファルス)、現実的剥奪 privation のマテームを -Φ で記すのは問題は別にない(現実的剥奪の対象は象徴的ファルス)。

前者を象徴界の欠如 lack、後者を現実界の穴 hole と考えれば、ラカンの纏まりのない言い方も、筋は通る。私はセミネールの4『対象関係』を結構、重要視していて。


――質問:「-Φの否認」。これは、-Φが倒錯であるならば、「倒錯の否認」となり、「否認の否認」という意味になりますが、そういった意味でしょうか。もしそうなら蓮實重彦が言っていた「倒錯を倒錯する」(だったかな)を思い出しました。


そうではなく、倒錯者が -Φ(現実的な剥奪)を否認しているという意味です。-Φ 自体は倒錯とは違いますね。

現実的な剥奪 privation により、象徴界からΦのシニフィアンが欠如するわけです。つまり、「剥奪」を受け入れるのは、Φたる「男性的抵抗」を克服する意味もあります。女性の場合は、「ペニス羨望」を克服することですね。


■剥奪(-Φ)を否認するということについて

ちなみに私が考えていたのは、-Φ の否認が日本人には男女問わず多いことですね。ラカンすらそうだと思ってました。-Φ を否認した上で、Φ と-φ の間を右往左往している印象があります。

つまり、自分が現実的に剥奪 privation されているのに、その穴を塞ごうと躍起になっている。フロイトで言うなら、寄る辺なさ helplessness を受容できていない。

簡単に言うなら、皆がどうにもならない現実を、どうにかしようと躍起になり、あれこれ画策しだしてしまうわけですね。


■-Φ とA/〔大他者の欠如〕について

(※質問に対する返答)

両者の強調点の違いを挙げてみますと、-Φ は“現実界の穴”を指し示していて、A/ はそれが“象徴界において欠如として表象される”、というニュアンスの違いがあると思います。文学で言うと、カフカが描いた法の不条理な世界や、アガンベンの言う〈例外状態〉をイメージしてもらってもいいでしょう。後ですが、このマテームを考案した利点は、トラウマの精神分析も扱え得るということは言えると思います。

リアルな穴(孤立無援、寄る辺なさの状況)に立たされた患者は、ある意味でこの出来事を主体化し、過去のものとは出来ずに現前させてしまうのでしょうから(フラッシュバック)、トラウマの患者が立たされている状況は、S / -Φ です。S は象徴化される以前の主体、欲動のエス Es の主体です。

メランコリーの主体が、A/ を前にして罪の意識や取り返しのつかなさに苛まれるとすれば、トラウマの主体はA/ を前にして、自らの剥き出しの生 la nuda vita(≒欲動のエス Es)と恥に苦しむのかもしれません。


-Φ とA/ の間で、主体が宙吊りにされ不能に陥るのが、カフカ的な不条理と思われます。この構造は、逆説的にですが主権権力の発生と重なります。

(仮にこの構造式を、「A/ / -Φ」と印しましょう。更に言うなら、この構造により全体主義的な権力は力を失います。)


ある意味では私は、剥き出しの生と例外状態を、精神分析の基礎として据えようと試みているわけです。S / -Φ と A/ / -Φ。


「すなわち、例外状態というのは外でも内でもないひとつの空間(規範の無化と停止に対応する空間)を包含し捕捉する」――ジョルジョ・アガンベン『例外状態」(p.70)