(※Twitterからの転載)
■20141026
私が、-Φ という符号で射止めようと思ったのは「あらゆる法権利の宙吊り」であり、トポロジー的にはトーラスの中心の穴についてである。
事実、この形象は黄金比の漸近線として考えられるだろう。この操作子によって、内部と外部、中心と周縁は不明瞭な閾へと変わるのだ。
例えば、ユダヤの律法を表している文字は、この黄金比的な形象と関連を持つという秘儀を想い起こしてもらいたい。その中心には、それ自体は決して“書かれない不可能な穴”があるのだ。
《つまり例外状態とは、空間的かつ時間的な宙吊りのことではなく、むしろ、例外と規則、自然状態と法権利、外と内、これらが互いの内を通過する、複雑な位相幾何学的形象のことなのである。》Agamben, HOMO SACER
何故、ユダヤ教には秘儀があったのか? これは正統や正義を自任している人間の目からは隠しておかなければならなかったのだ。
“正義の目から隠しておかなければならなかった、この位相幾何学的な不分明地帯こそ、逆に我々はまなざしを向けようとしなければならない。”ibid.
《例外状態という「法的には空虚」な空間が(そこでは法は、法の解体という形象〔フィグーラ〕——つまり語源をたどれば“つくりもの”——においてこそ効果をもち、したがってそこでは主権者が事実上必要と思うあらゆることが起こりえた)、その空間的かつ時間的な境界を打ち砕き、その境界の外に溢れ出して、いまやいたるところで通常の秩序と一致しようとしている。そこではこのようにして、あらゆることが新たに可能になってしまうのだ。》ibid.
■20141027
-Φ という符号を、アリストテレス的な非潜勢力〔アデュナミス〕に結びつけることが可能だろう。裏を返せば、ラカンがΦ に与えていた両義性と逡巡は、潜勢力〔デュナミス〕と非潜勢力の違いではないか?
単純に言うと、Φ〔象徴的ファルス〕は潜勢力のことを言う。
私はこのΦ〔大文字のファイ、象徴的ファルス〕にマイナス符号を付けることによって、現勢力〔エネルゲイア〕へと移行しないこともでき、“しないことのできる潜勢力”を言いたかったのだ。
《したがって、潜勢力がそのつど現勢力において消え失せずにそれ自体で整合性をもつためには、潜勢力は現勢力へと移行しないこともでき、構成上(おこなったり存在したり)“しないことのできる潜勢力”でもあり、あるいはまたアリストテレスの言うように、非潜勢力でもあるのでなければならない。》Agamben, HOMO SACER
“存在する潜勢力とはまさしく、現勢力に移行しないことができるというこの潜勢力のことである”ibid.
〈この潜勢力は、自らが宙吊りにされてあるという形式で現勢力との関係を維持するのであり、現勢力を実現しないことができるという現勢力でありえ、主権的なしかたで、それ自体が非潜勢力でありうる。〉ibid.
■20141028
私は、-Φ という形象に、ベンヤミンのいう神的暴力——法権利を措定も保存もせず、脱措定する entsetzen 純粋暴力——という含みも持たせている。
“ベンヤミンが神的な暴力として定義している暴力は、例外を規則から区別することがもはや不可能である地帯に位置している”——Agamben, HOMO SACER
■20141029
精神分析の様式論こそ、まさに問われていいのではないか?(なぜなら、様式を生み出しすことが、基礎付けることよりも極めて倫理的だからだ。)
ラカンの限界形象として、非潜勢力〔アデュナミス〕を思考しなかったということがあるように思える。
■20141030:補足〔ラカンとバタイユの聖性について〕
私の考えでは、ラカンにはバタイユへの回帰が見られる。だが、ラカンはバタイユの聖性の考えの両義性を脱したかどうかは、甚だ疑問に思える。
つまり、ラカンにおけるサントームsinthome, saint homme と、アガンベンのホモ・サケル homo sacer の形象との間には、幾分の違いがあるのではないか?
“バタイユによると、いずれの場合も、つまり儀礼的犠牲においても個人における過剰においても、主権的な生は殺害の禁止の瞬間的な侵犯によって定義づけられる。”——Agamben, HOMO SACER
バタイユとラカンの関係は、転移でいうなら、無意識的な陰性と陽性の閾を出ていないようにも思われる。バタイユが犠牲的身体の威光に囚われていたとするなら、ラカンは創造性の威光に眩んでいたのではないか?
“バタイユは、無自覚にではあれ、剥き出しの生と主権のあいだの結びつきを明るみに出すにいたったが、彼において生は、聖なるものの両義的な循環の内に全面的に呪縛されたままである。”ibid.
ラカンがバタイユから、聖性なる概念を引き継ぐにあたり、同時に“犠牲”のイデオロギーも招き入れてしまったのではないだろうか?
《聖性は、今日の政治においてつねに現前している逃げ道であり、その逃げ道はさらに広大で不明瞭な地帯への向かい、市民の生物学的な生そのものと一致しようとしている。ホモ・サケルという形であらかじめ規定することのできる形象が今日もはや存在しないのは、我々が皆、潜在的にはホモ・サケルであるからかもしれない。》ibid.
■20141026
私が、-Φ という符号で射止めようと思ったのは「あらゆる法権利の宙吊り」であり、トポロジー的にはトーラスの中心の穴についてである。
事実、この形象は黄金比の漸近線として考えられるだろう。この操作子によって、内部と外部、中心と周縁は不明瞭な閾へと変わるのだ。
例えば、ユダヤの律法を表している文字は、この黄金比的な形象と関連を持つという秘儀を想い起こしてもらいたい。その中心には、それ自体は決して“書かれない不可能な穴”があるのだ。
《つまり例外状態とは、空間的かつ時間的な宙吊りのことではなく、むしろ、例外と規則、自然状態と法権利、外と内、これらが互いの内を通過する、複雑な位相幾何学的形象のことなのである。》Agamben, HOMO SACER
何故、ユダヤ教には秘儀があったのか? これは正統や正義を自任している人間の目からは隠しておかなければならなかったのだ。
“正義の目から隠しておかなければならなかった、この位相幾何学的な不分明地帯こそ、逆に我々はまなざしを向けようとしなければならない。”ibid.
《例外状態という「法的には空虚」な空間が(そこでは法は、法の解体という形象〔フィグーラ〕——つまり語源をたどれば“つくりもの”——においてこそ効果をもち、したがってそこでは主権者が事実上必要と思うあらゆることが起こりえた)、その空間的かつ時間的な境界を打ち砕き、その境界の外に溢れ出して、いまやいたるところで通常の秩序と一致しようとしている。そこではこのようにして、あらゆることが新たに可能になってしまうのだ。》ibid.
■20141027
-Φ という符号を、アリストテレス的な非潜勢力〔アデュナミス〕に結びつけることが可能だろう。裏を返せば、ラカンがΦ に与えていた両義性と逡巡は、潜勢力〔デュナミス〕と非潜勢力の違いではないか?
単純に言うと、Φ〔象徴的ファルス〕は潜勢力のことを言う。
私はこのΦ〔大文字のファイ、象徴的ファルス〕にマイナス符号を付けることによって、現勢力〔エネルゲイア〕へと移行しないこともでき、“しないことのできる潜勢力”を言いたかったのだ。
《したがって、潜勢力がそのつど現勢力において消え失せずにそれ自体で整合性をもつためには、潜勢力は現勢力へと移行しないこともでき、構成上(おこなったり存在したり)“しないことのできる潜勢力”でもあり、あるいはまたアリストテレスの言うように、非潜勢力でもあるのでなければならない。》Agamben, HOMO SACER
“存在する潜勢力とはまさしく、現勢力に移行しないことができるというこの潜勢力のことである”ibid.
〈この潜勢力は、自らが宙吊りにされてあるという形式で現勢力との関係を維持するのであり、現勢力を実現しないことができるという現勢力でありえ、主権的なしかたで、それ自体が非潜勢力でありうる。〉ibid.
■20141028
私は、-Φ という形象に、ベンヤミンのいう神的暴力——法権利を措定も保存もせず、脱措定する entsetzen 純粋暴力——という含みも持たせている。
“ベンヤミンが神的な暴力として定義している暴力は、例外を規則から区別することがもはや不可能である地帯に位置している”——Agamben, HOMO SACER
■20141029
精神分析の様式論こそ、まさに問われていいのではないか?(なぜなら、様式を生み出しすことが、基礎付けることよりも極めて倫理的だからだ。)
ラカンの限界形象として、非潜勢力〔アデュナミス〕を思考しなかったということがあるように思える。
■20141030:補足〔ラカンとバタイユの聖性について〕
私の考えでは、ラカンにはバタイユへの回帰が見られる。だが、ラカンはバタイユの聖性の考えの両義性を脱したかどうかは、甚だ疑問に思える。
つまり、ラカンにおけるサントームsinthome, saint homme と、アガンベンのホモ・サケル homo sacer の形象との間には、幾分の違いがあるのではないか?
“バタイユによると、いずれの場合も、つまり儀礼的犠牲においても個人における過剰においても、主権的な生は殺害の禁止の瞬間的な侵犯によって定義づけられる。”——Agamben, HOMO SACER
バタイユとラカンの関係は、転移でいうなら、無意識的な陰性と陽性の閾を出ていないようにも思われる。バタイユが犠牲的身体の威光に囚われていたとするなら、ラカンは創造性の威光に眩んでいたのではないか?
“バタイユは、無自覚にではあれ、剥き出しの生と主権のあいだの結びつきを明るみに出すにいたったが、彼において生は、聖なるものの両義的な循環の内に全面的に呪縛されたままである。”ibid.
ラカンがバタイユから、聖性なる概念を引き継ぐにあたり、同時に“犠牲”のイデオロギーも招き入れてしまったのではないだろうか?
《聖性は、今日の政治においてつねに現前している逃げ道であり、その逃げ道はさらに広大で不明瞭な地帯への向かい、市民の生物学的な生そのものと一致しようとしている。ホモ・サケルという形であらかじめ規定することのできる形象が今日もはや存在しないのは、我々が皆、潜在的にはホモ・サケルであるからかもしれない。》ibid.