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per l/a psicoanalisi

-Φ を考える2——アガンベン『ホモ・サケル』と共に

2014-10-27 17:38:16 | 精神分析について
(※Twitterからの転載)

■20141026

私が、-Φ という符号で射止めようと思ったのは「あらゆる法権利の宙吊り」であり、トポロジー的にはトーラスの中心の穴についてである。

事実、この形象は黄金比の漸近線として考えられるだろう。この操作子によって、内部と外部、中心と周縁は不明瞭な閾へと変わるのだ。

例えば、ユダヤの律法を表している文字は、この黄金比的な形象と関連を持つという秘儀を想い起こしてもらいたい。その中心には、それ自体は決して“書かれない不可能な穴”があるのだ。

《つまり例外状態とは、空間的かつ時間的な宙吊りのことではなく、むしろ、例外と規則、自然状態と法権利、外と内、これらが互いの内を通過する、複雑な位相幾何学的形象のことなのである。》Agamben, HOMO SACER

何故、ユダヤ教には秘儀があったのか? これは正統や正義を自任している人間の目からは隠しておかなければならなかったのだ。

“正義の目から隠しておかなければならなかった、この位相幾何学的な不分明地帯こそ、逆に我々はまなざしを向けようとしなければならない。”ibid.

《例外状態という「法的には空虚」な空間が(そこでは法は、法の解体という形象〔フィグーラ〕——つまり語源をたどれば“つくりもの”——においてこそ効果をもち、したがってそこでは主権者が事実上必要と思うあらゆることが起こりえた)、その空間的かつ時間的な境界を打ち砕き、その境界の外に溢れ出して、いまやいたるところで通常の秩序と一致しようとしている。そこではこのようにして、あらゆることが新たに可能になってしまうのだ。》ibid.


■20141027

-Φ という符号を、アリストテレス的な非潜勢力〔アデュナミス〕に結びつけることが可能だろう。裏を返せば、ラカンがΦ に与えていた両義性と逡巡は、潜勢力〔デュナミス〕と非潜勢力の違いではないか?

単純に言うと、Φ〔象徴的ファルス〕は潜勢力のことを言う。

私はこのΦ〔大文字のファイ、象徴的ファルス〕にマイナス符号を付けることによって、現勢力〔エネルゲイア〕へと移行しないこともでき、“しないことのできる潜勢力”を言いたかったのだ。

《したがって、潜勢力がそのつど現勢力において消え失せずにそれ自体で整合性をもつためには、潜勢力は現勢力へと移行しないこともでき、構成上(おこなったり存在したり)“しないことのできる潜勢力”でもあり、あるいはまたアリストテレスの言うように、非潜勢力でもあるのでなければならない。》Agamben, HOMO SACER

“存在する潜勢力とはまさしく、現勢力に移行しないことができるというこの潜勢力のことである”ibid.

〈この潜勢力は、自らが宙吊りにされてあるという形式で現勢力との関係を維持するのであり、現勢力を実現しないことができるという現勢力でありえ、主権的なしかたで、それ自体が非潜勢力でありうる。〉ibid.


■20141028

私は、-Φ という形象に、ベンヤミンのいう神的暴力——法権利を措定も保存もせず、脱措定する entsetzen 純粋暴力——という含みも持たせている。

“ベンヤミンが神的な暴力として定義している暴力は、例外を規則から区別することがもはや不可能である地帯に位置している”——Agamben, HOMO SACER


■20141029

精神分析の様式論こそ、まさに問われていいのではないか?(なぜなら、様式を生み出しすことが、基礎付けることよりも極めて倫理的だからだ。)

ラカンの限界形象として、非潜勢力〔アデュナミス〕を思考しなかったということがあるように思える。


■20141030:補足〔ラカンとバタイユの聖性について〕

私の考えでは、ラカンにはバタイユへの回帰が見られる。だが、ラカンはバタイユの聖性の考えの両義性を脱したかどうかは、甚だ疑問に思える。

つまり、ラカンにおけるサントームsinthome, saint homme と、アガンベンのホモ・サケル homo sacer の形象との間には、幾分の違いがあるのではないか?

“バタイユによると、いずれの場合も、つまり儀礼的犠牲においても個人における過剰においても、主権的な生は殺害の禁止の瞬間的な侵犯によって定義づけられる。”——Agamben, HOMO SACER

バタイユとラカンの関係は、転移でいうなら、無意識的な陰性と陽性の閾を出ていないようにも思われる。バタイユが犠牲的身体の威光に囚われていたとするなら、ラカンは創造性の威光に眩んでいたのではないか?

“バタイユは、無自覚にではあれ、剥き出しの生と主権のあいだの結びつきを明るみに出すにいたったが、彼において生は、聖なるものの両義的な循環の内に全面的に呪縛されたままである。”ibid.

ラカンがバタイユから、聖性なる概念を引き継ぐにあたり、同時に“犠牲”のイデオロギーも招き入れてしまったのではないだろうか?

《聖性は、今日の政治においてつねに現前している逃げ道であり、その逃げ道はさらに広大で不明瞭な地帯への向かい、市民の生物学的な生そのものと一致しようとしている。ホモ・サケルという形であらかじめ規定することのできる形象が今日もはや存在しないのは、我々が皆、潜在的にはホモ・サケルであるからかもしれない。》ibid.

アガンベン『ホモ・サケル——主権権力と剥き出しの生』(2)

2014-10-25 15:01:52 | Agamben アガンベン
第三部 近代的なものの生政治的範例としての収容所

 一 生の政治化

“政治がかつてないほど、全体主義的なものとして構成されえたのは、現代にあっては政治が生政治へと全面的に変容してしまっているからにほかならない。”

「政治の新たな主体は、特権や立場をもった自由人ではなく、単なる人間でもない。それは身体なのであり、近代民主主義はまさしく、この「身体」を要求することとして、またこれを露呈することとして生まれる。汝は身体をもち、それを見せるべし、というわけである。」

〈近代民主主義は、聖なる生を廃棄するのではなく、これを細かく分けてそれぞれの身体の内に播き散らし、政治的衝突の争点とする。ここにこそ、近代民主主義の秘かな生政治的使命の根がある。〉

“身体は二面的な存在であり、主権権力への隷従の保有者であると同時に、個人の自由の保有者でもある。”

〈その身体が諸個人のすべての身体によって形成される『リヴァイアサン』という大いなる隠喩は、この光に照らして読まなければならない。西洋の新たな政治的身体を形成するのは、臣民の、まったく殺害可能な身体である。〉

 二 人権と生政治

“例外化の純粋空間である収容所は、人道的なものが解決することのできない生政治の範例なのだ。”

p.186近代において
p.186サドの今日性

 三 生きるに値しない生

*シュミット『パルチザンの理論』

 四 「政治、すかわち人民の生に形を与えること」

《実のところ、近代の生政治の新しいところは、生物学的な所与がそのままでただちに政治的な所与であり、政治的な所与がそのままで生物学的な所与である、という点にある。》

“生と政治はもともとは、剥き出しの生が住みついている例外状態の中立地帯によって二分され区別されているが、この二つが一つになろうとするとき、あらゆる生は聖なるものとなり、あらゆる政治は例外化となる。”

“例外状態が規則となったところでは、かつては主権権力の相対物だったホモ・サケルの生が、もはや権力の据えることのできない一つの実存へと転倒する。”

 五 VP〔人間モルモット〕

 六 死を政治化する

*『バイオエシックス』

 七 近代的なもののノモスとしての収容所〔割愛〕

《例外状態はこのようにして、事実的な危険という外的かつ暫定的な状況に関連づけられなくなり、規範自体と見分けがつなかくなっていく。》

《収容所とは、例外状態が規則になりはじめるときに開かれる空間のことである。……》p.230

*コピーp.232-235

“いまや都市の内部に確固と据えられた収容所は、地球の新たな生政治的ノモスである。”

p.244-245エス(剥き出しの生)と自我(人民)の関係についての

p.250主権者の政治的身体と物理的身体のあいだの

“今日、ビオスはゾーエーの内に横たわっているが、これはハイデガーによる現存在の定義において本質が実存の内に横たわるのとちょうど同じである。”

アガンベン『ホモ・サケル——主権権力と剥き出しの生』(1)

2014-10-25 15:00:55 | Agamben アガンベン
――Giorgio AGAMBEN, HOMO SACER il potere sovrano e la nuda vita (1995)




《西洋の政治の基礎をなす範疇の対は友‐敵ではなく、剥き出しの生‐政治的存在、ゾーエー‐ビオス、排除‐包含である。政治が存在するのは、人間が、言語活動において自分の剥き出しの生を分離し自分に対立させ、同時に、その剥き出しの生との関係を包含的排除の内に維持する生きものだからだ。》

“我々の政治は今日、生以外の価値を知らない(したがってこれに反する他の価値も知らない)。”


第一部 主権の論理

 一 主権の逆説

《例外が規則にしたがうのではなく、規則が、自らを宙吊りにすることで例外に場を与える。》

〈主権による例外化において問題になっているのは実のところ、過剰を制御したり中和したりするということであるより、まずは、法的‐政治的な秩序が価値をもつことのできる空間を創造し定義づけるということである。〉

“例外とは、自らが所属している全体に包含されることのできないもの、自らがすでに包含されてある当の集合に所属できないもののことである。”

《法権利は、法権利が例外化の排他的包含によって自分の内に据えることのできる以外の生をもたない。法権利は例外によって養われるのであり、例外がなければ死文である。》

“その決定とは、ある決定不可能なものの措定である。”

“法が生とのあいだにもつ関連は、適用ではなく〈遺棄〉である。”

 二 主権者たるノモス

《つまり例外状態とは、空間的かつ時間的な宙吊りのことではなく、むしろ、例外と規則、自然状態と法権利、外と内、これらが互いの内を通過する、複雑な位相幾何学的形象のことなのである。》

“正義の目から隠しておかなければならなかった、この位相幾何学的な不分明地帯こそ、逆に我々はまなざしを向けようとしなければならない。”

《例外状態という「法的には空虚」な空間が(そこでは法は、法の解体という形象〔フィグーラ〕——つまり語源をたどれば“つくりもの”——においてこそ効果をもち、したがってそこでは主権者が事実上必要と思うあらゆることが起こりえた)、その空間的かつ時間的な境界を打ち砕き、その境界の外に溢れ出して、いまやいたるところで通常の秩序と一致しようとしている。そこではこのようにして、あらゆることが新たに可能になってしまうのだ。》

 三 潜勢力と法権利

“主権権力は、法治状態とのあいだに締め出し関係というしかたで維持される自然状態として自らを前提する。主権権力はそのようにして、構成する権力と構成される権力へと分裂し、その二つが不分明になる点に自らを位置づけることで、両者との関連を保つ。”

☆p.68 ネグりの本はむしろ、

《したがって、潜勢力がそのつど現勢力において消え失せずにそれ自体で整合性をもつためには、潜勢力は現勢力へと移行しないこともでき、構成上(おこなったり存在したり)“しないことのできる潜勢力”でもあり、あるいはまたアリストテレスの言うように、非潜勢力でもあるのでなければならない。》

“存在する潜勢力とはまさしく、現勢力に移行しないことができるというこの潜勢力のことである”

〈この潜勢力は、自らが宙吊りにされてあるという形式で現勢力との関係を維持するのであり、現勢力を実現しないことができるという現勢力でありえ、主権的なしかたで、それ自体が非潜勢力でありうる。〉

「潜勢力にあるものは、存在しないという自分の潜勢力(自分の非潜勢力)を棄却する点においてのみ、現勢力へと移行できる。非潜勢力のこの棄却は非潜勢力の破壊を意味するわけではない。これが意味するのはむしろ非潜勢力の完成であり、潜勢力が潜勢力自体に向き返って潜勢力自体に潜勢力を与えるということである。」

「主権的であるものとは、存在しないことができるという、それ自体としての潜勢力を単に断ち切り、自らが存在するにまかせ、自らが自らに与えることによって自らを実現する現勢力のことである。」

 四 法の形式

“「意味のない効力」という法の純粋形式が近代にはじめて現れるのはカントにおいてである。”

p.82“意味のない効力という経験は、現代の思考の一つの重要な潮流の基礎にある。……”

“……メシア的任務は、潜在的な例外状態をまさしく実効的なものにし、番人に対して法の門(イェルサレムの門)を閉めることを強制するのかもしれない”

「メシアは、自分の必要がなくなってはじめて到来するだろう。彼は自分の到着の一日後にならないと到来しないだろう。彼は最後の日には到来しないだろう。彼が到来するのは一番最後の日だろう。」カフカ

《したがって、政治的‐法的な視点からすると、メシア主義は例外状態の理論である。ただ、その例外状態を効力ある権威が布告するのではなく、権力を転覆するメシアが布告する、という点だけが異なっている。》

「法の純粋形式とは、関係の空虚な形式のことにほかならない。しかし、関係の空虚な形式はもはや法ではない。それは、法と生が見分けがつかなくなる地帯、つまり例外状態である。」

“だからハイデガーは、自分は生起において「存在者を考慮に入れない存在」を思考しようとする、と書くことができるのであり、このことは、存在論的差異をもはや関係としてではなく思考し、存在と存在者をありとあらゆる関連の彼方で思考しようとすることに等しい。”

《人間が自らに自らを与える諸形式[……]笑い、エロティシズム、戦闘、奢侈》バタイユ

  境界線

“ベンヤミンが神的な暴力として定義している暴力は、例外を規則から区別することがもはや不可能である地帯に位置している”

《生の聖性に関する教義は、調べてみるだけのことはあるだろう。この教義が最近の日付をもつものであり、聖なるものという失われたものを広大無辺の濃霧のなかで探す、弱体化した西洋的伝統の最後の踏み迷いだ、というのはありうることだし、本当にあありそうなことでもある》——ベンヤミン「暴力批判論」


第二部 ホモ・サケル

 一 ホモ・サケル

“殺害可能性と犠牲化不可能性の交点に位置し、人間の法からも神の法からも外に置かれているとすると、ホモ・サケルの生とは何なのか?”

 二 聖なるものの両義性

《締め出し——タブーと同じものとされている——の分析は、聖なるものの両義性の教義が生まれるにあたって、はじめから決定的なものとして働いている。包含することで排除するという締め出しの両義性が、聖なるものの両義性を含意している。》

「聖なるものには二種類ある。吉〔ファスト〕と不吉〔ネファスト〕である。この相対立する二つの力のあいだには明らかな断絶は存在しない。それどころか、ある同一の対象が、本性を変えずに一方から他方へと移行することもある。浄から不浄が作られ、不浄から浄が作られる。聖なるものの両義性はこの転換の可能性に存している。」——エミール・デュルケーム『宗教生活の原初形態』

“……いずれにせよ重要なのは、ホモ・サケルにおいて露出している原初的な法的‐政治的次元が、それ自体によって何も説明できないのみならず、それ自体が説明の必要があるような科学的神話素によってふたたび覆われてしまわないようにすることである。”

 三 聖なる生

「……聖化は二重の例外化をなしている。それは人間の法からの例外化であるとともに神の法からの例外化であり、宗教的領域からの例外化であるとともに世俗的領域からの例外化でもある。この二重の例外化が指し示す位相幾何学的構造は、二重の排除と二重の捕捉のなす構造であり、その構造と主権による例外化の構造のあいだに見られるのは単なる類似ではない。」

「主権による例外化において、法は自らを適用から外し、例外事項から身を退くことによって、例外事項への自らを適用するが、それと同様に、ホモ・サケルは、犠牲化不可能性という形で神に属し、殺害可能性という形で共同体に包含される。“犠牲化不可能であるにもかかわらず殺害可能である生、それが聖なる生である”。」

《主権的圏域とは、殺人罪を犯さず、供犠を執行せずに人を殺害することのできる圏域のことであり、この圏域に据えられた生こそが、聖なる生、すなわち殺害可能だが犠牲化不可能な生なのである。》

「主権による例外化と聖化のあいだに見られる構造的類似の意味が、ここで完全に示される。法的秩序の一方の極にある主権者とは、彼に対してはすべての人間が潜勢的にはホモ・サケルであるような者であり、他方の極にあるホモ・サケルは、彼に対してはすべての人間が主権者として振る舞うような者である。その意味で、主権者とホモ・サケルは、同一の構造をもち互いに相関関係にある正反対の二つの形象を提示するものである。」

“両者は、人間の法からも神の法からも、規範〔ノモス〕からも本性〔ピュシス〕からも自らを例外として排除しながら、本来の意味での最初の政治的空間をある意味で確定する、そのような運動の形象であるという点で同一である。この政治的空間は宗教的圏域とも世俗的圏域とも区別され、自然的秩序とも通常の法的秩序とも区別される空間である。”

“我々の仮説が正しいとすれば、聖性とはむしろ、剥き出しのが法的‐政治的次元に含みこまれる原初的形式のことであり、ホモ・サケルという連辞は、原初的な「政治的」関係のようなものを名指している。すなわちそれは、包含によってなされる排除において、主権的決定に対する参照対象となるかぎりでの生のことである。主権による例外化の内に据えられてはじめて、生は聖なるものとなる。……”

《「聖なるものであれ」は、これこれのものの不気味な性格を、つまり荘厳であるとともに唾棄されるべきものであるという性格を裁可する宗教的な呪いの定式などではない。これは、主権的な拘束を課すことの原初的な政治的定式化なのである。》

 四 生殺与奪権

“したがって、原初的な政治的要素とは単なる自然的な生ではなく、死へと露出されている生(剥き出しの生ないし聖なる生)なのである。”

“政治権力の第一の基礎が、自らが殺害可能であるということによって自らを政治化する端的に殺害可能な生であるということを、これほど明白に言うことはできないだろう。”

《聖なる生は、政治的なビオスでも自然的なゾーエーでもなく、ゾーエーとビオスとが包含しあい排除しあうことで互いを構成する不分明地帯なのだ。》

 五 主権的身体と聖なる身体

“王の政治的身体が、殺害可能で犠牲化不可能なホモ・サケルの身体と見間違うほど似通っていたように見える、その不明瞭な地帯をこそ、我々は探究したいと思う。”

“主権者の身体とホモ・サケルの身体が、互いに見分けのつかなくなるように見える不分明地帯”

《この「聖なる生」の形象においてはじめて、剥き出しの生といったものが西洋世界にはじめて現れた。だが決定的なのは、はじめからこの聖なる生がすぐれて政治的な性格をもったものであり、主権権力を基礎づける土台との本質的な結びつきを示している、ということである。》

 六 締め出しと狼

〈ホッブズのいう自然状態は、都市の法権利とまったく関係のない、法に先行する条件なのではなく、法権利を構成し法権利に住みついている例外であり境界線である。自然状態は、万人の万人に対する戦いであるというより、正確に言えば、誰もが他の者に対して剥き出しの生でありホモ・サケルであるという状況のことなのである。……〉151

“実は、主権的暴力は契約を基礎とするのではなく、剥き出しの生を国家の内に排除的に包含することを基礎としている。さて、主権権力がまず直接に参照対象とするのは、この意味では、殺害可能で犠牲化不可能な生であり、その範例となるのがホモ・サケルなのである。それと同様に、主権者の人格には、狼男が、すなわち人間に対して狼である人間があり、これが国家の内に安定したしかたで住みついているのだ。”

《ホッブズの神話素を“締め出し”としてではなく“契約”として読むという曲解によって、民主主義は、主権権力の問題に直面することが問題になるたびに無力さへと断罪されてきた。また、この曲解によって、民主主義は構成上、近代において国家によらない政治を本当の意味で思考することを妨げられてもきた。》

“締め出されたものは、自らの分離そのものへと置きなおされ、それとともに、自分を遺棄した者の意に委ねられる。すなわち、締め出されたものは、排除されるとともに包含され、解き放たれるとともに据えられる。”

※「締め出しにある、遺棄されてある (in bando, a bandono)」

《この締め出しの構造を、我々のいまだに生きている政治空間、公的空間の内にそれと看て取ることを学ばなければならない。“都市において、聖なる生の締め出される空間は、いかなる内部性よりも内密であり、いかなる外部性よりも外的である”。これは、他のあらゆる規範を条件づける主権的ノモスであり、あらゆる局所化、あらゆる領土化を可能にし、それを支配する原初的な空間化なのだ。……》157

  境界線

「私のいう主権は国家のそれとはほとんど関係がない」——バタイユ『至高性』

“バタイユによると、いずれの場合も、つまり儀礼的犠牲においても個人における過剰においても、主権的な生は殺害の禁止の瞬間的な侵犯によって定義づけられる。”

“…バタイユは、無自覚にではあれ、剥き出しの生と主権のあいだの結びつきを明るみに出すにいたったが、彼において生は、聖なるものの両義的な循環の内に全面的に呪縛されたままである。この道を通ると、主権的締め出しを、現実的であれ茶番であれ反復することにしかならない。”

《聖性は、今日の政治においてつねに現前している逃げ道であり、その逃げ道はさらに広大で不明瞭な地帯への向かい、市民の生物学的な生そのものと一致しようとしている。ホモ・サケルという形であらかじめ規定することのできる形象が今日もはや存在しないのは、我々が皆、潜在的にはホモ・サケルであるからかもしれない。》


第三部 近代的なものの生政治的範例としての収容所〔割愛〕

アガンベン『到来する共同体』

2014-10-23 15:36:03 | Agamben アガンベン
――Giorgio Agamben, La comunità che viene (1990 and 2001)


《愛が“何ものか”を欲するのは、それが“そのように”存在するままに存在するかぎりにおいてのことである。これが愛に特有のフェティシズムである。》Qualunque〔なんであれかまわないもの〕


〈じっさいにも、救済すべきものが何ひとつ存在しない生はまことに救済のしようがないのであって、そうした生にたいしてはキリスト教的オイコノミア〔統治〕の重厚な神学機械も難破せざるをえない。〉Dal Limbo〔リンボから〕


《これらの純粋な単独者は、あくまでも見本の空虚な空間のなかで、なんらの共通の特性、なんらの自己同一性によっても結びつけられることがないままに交信しあう。それらの単独者は所属そのもの、記号∈を自らのものにするためのあらゆる自己同一性を剥奪されてしまっている。トリックスターないし無為の徒、助手ないしカートゥーンとして、彼らは到来する共同体の見本にほかならない。》Esempio〔見本〕


〈善を獲得することは、こうして必然的に、排斥されてしまっていた悪の部分が成長することをも含意していた。そして天国の壁が固められるたびごとに地獄の底知れない深みもいっそう深まっていくのだった。〉Aver luogo〔生起〕


〈この代表=表象不可能な空間を名指す固有名詞がくつろぎ〔agio〕である。〉Agio〔くつろぎ〕


《“わたしたちを基礎づけたりするのではなくて、わたしたちを産み出す様式こそが倫理的なのだ”。そして、このようにして自分自身の様式から産み出されるものが、人間たちにとって真に可能な唯一の幸福なのである。》Maneries〔マネリエス〕

《わたしたちがわたしたちの本来的な存在として露呈させる非本来的なもの、わたしたちが“使用する”様式こそがわたしたちを産み出すのである。これこそはわたしたちの第二の自然、〔第一の自然よりも〕さらに幸福な自然なのだ。》


〈わたしたち自身の無力から逃走しながら、あるいはその無力を武器に役立てるようとこころみながら、わたしたちは邪悪な権力を構築し、この権力によってわたしたちに弱さを示す者たちを抑圧するのである。また、わたしたちの最も内奥に潜んでいる、存在しないでいることの可能性をつかみ損ねて、愛を可能にする唯一のものから転落してしまうのである。じっさいにも、創造——ないし現実存在——とは存在することの力が存在しないでいることの力と闘って勝利することではない。それはむしろ、神が神自身の無力を前にして無力であることなのだ。神が存在しないでいることができ“なく”なって、もろもろの事物がたまさかに発生するのをそのままにしていることなのである。あるいは神における愛の誕生なのである。〉Demonico〔悪魔的なもの〕


“存在しないでいることができる存在、自ら無能力であることができる存在こそ、本来、なんであれかまわない存在なのである。”Bartleby〔バートルビー〕

「…存在しないでいることの能力の場合には、行為はけっしてたんなる可能態〔potentia〕から現実態〔actum〕への移行のうちには存在しえない。すなわち、その能力はその能力そのものを対象にもつ能力、あるひとつの potentia potentiae〔能力の能力〕なのだ。」

「完全な書記行為は書くことの能力からやってくるのではなく、無能力が自分自身へと向かい、このようにして(アリストテレスが能動知性と呼んでいる)純粋の行為として自らに到来することからやってくる。」

「バートルビー、すなわち、ただ書くことを止めず、しかしまた《書かないでいることのほうを好む》筆生は、自らの書かないでいる能力以外のものは書かないこの天使の極端な像にほかならない。」


《取り返しがつかないというのは、事物が手の施しようもなくそれらがそんなふうに存在している状態に引き渡されてしまっていること、いやそれどころか、事物とはまさしくそれらが“そんなふうである”しかないことを意味している(…)。》Irreparabile〔取り返しがつかないもの〕

《しかしまたそれは、事物にとっては、文字どおり、どんな避難所もありえないということ、それらがそんなふうであるなかで、事物はいまや絶対的に表にさらけ出されており、絶対的に見捨てられているということをも意味している。》


〈倫理にかんするあらゆる言説の出発点に置いておくべき事実は、人間にはそうであったり実現しなければならなかったりするどんな本質、どんな歴史的ないし霊的召命、どんな生物学的運命も存在しないという事実である。唯一このためにこそ、なにか倫理のようなものが存在しうるのである。〉Etica〔倫理〕

“…人間は自分に欠如しているもののために、自分が犯さなかった罪のために、罪ある存在なのである。”

〈これにたいして、唯一の悪は現実存在の負債のうちにとどまりつづけようと決意すること、存在しないでいる能力を現実存在の外にある実体ないし根拠として自分のものにしようと決断することである。あるいは(そしてこれが道徳の運命なのだが)人間の現実存在の最も本来的な様態である可能態そのものをなんとしても抑えこむ必要のある罪であるかのように見なすことである。〉


《今日ほど、人間の肉体——とりわけ女性の肉体——が宣伝と商品生産のテクニックによって大規模に操作され、いわば頭のてっぺんから足の爪先まで形象〔イメージ〕化されてしまったことはかつてなかった。》Collants Dim〔ディム・ストッキング〕

《テクニック化されたのは、肉体ではなくて、その形象〔イメージ〕だったのだ。こうして宣伝広告のきらびやかな肉体は仮面に転化するのであり、その仮面の裏側では人間の脆くて繊細な肉体がその不安定な生存を続けているのである。》


“だが、いっさいが最終的に完結してしまったのちに、一体全体、どのようにして《別なふうに》は思考しうるのだろうか。”Aureole〔光背〕


“存在するもののいっさいをプチ・ブルジョワは仕草そのもののなかで無化し、頑固としてその無化された状態に執着しようとしているように見える。”Senza classi〔階級のない社会〕

“プチ・ブルジョワジーのなかでは、世界史の悲喜劇を特徴づけてきたもろもろの相違が露呈され、合体して、さながら走馬灯のように変幻自在で内容のない一篇の幻覚と化してしまっている。”


《この意味では敷居=閾は限界と別のものではない。それは、こう言ってよければ、限界そのものの経験、“外”の“内”にあるということである。このようなエク‐スタシス〔ek-stasis:脱我の状態に入りこむこと〕こそ、個々の単独者が人類の空っぽの手から受けとる贈り物にほかならない。》Fuori〔外〕


《「~と言われていること」、言語活動のうちにあることこそは、卓越した意味においての非述語的 non-predicative な特性であって、それはあるクラスのどのメンバーにも属する特性であると同時にその所属をアポリア的なものにしているのである。》Omonimi〔同名異義語〕

“なんであれかまわないものとは概念と(だけ)ではなくイデアと(も)関係しているかぎりでの個物のことなのだ。”

“名前は、それがある事物を名指すかぎりで、名前によって名指されるかぎりでの事物以外の何ものでもない”


〈コミュニケーションを妨害しているのは、コミュニケーション能力そのものである。人間たちは人間たちをひとつに結びつけているものから切り離されるのだ。ジャーナリストとメディクラットがこの人間の言語的本性からの疎外の新しい僧侶である。〉Schechina〔シェキナー〕


“なぜなら、到来する政治の新しい事実とは、それがもはや国家の獲得や管理のための闘争ではなく、国家と非国家(人類)のあいだの闘争、なんであれかまわない単独者たちと国家組織との埋めることのできない分離になるだろうということだからである。”Tienanmen〔天安門〕

〈所属そのもの、自らが言語活動のうちにあること自体を自分のものにしようとしており、このためにあらゆるアイデンティティ、所属の条件を拒否する、なんであれかまわない単独者こそは、国家の主要な敵である。これらの単独者たちが彼らの共通の存在を平和裡に示威するところではどこでも天安門が存在することだろう。そして遅かれ早かれ戦車が姿を現わすだろう。〉



“だからこそ、世界と生活をふたたび神聖なものにしようと努めている者たちは、生活が神聖でなくなってしまっていることに絶望している者たちと同じく、不敬虔なのだ。”
L'irreparabile〔取り返しがつかないもの〕

《世界は——絶対的に、取り返しがつかないほど神聖でなくなってしまっているかぎりにおいて——神である。》

“救済の最も奥深い性格をなしているのは、わたしたちが救済されるのはわたしたちがもはや救済されたいとは願っていないときである、ということである”

“驚かされるのは、何ものかが存在することができたということではなくて、存在しないのではないことができたということである”

《世界が取り返しのつきようもないことをきみが認識する瞬間、まさにその瞬間において世界は超越的である。

 世界はどのように存在しているのか——このことは世界の外にある。》

ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』(途中)

2014-10-19 10:31:23 | Note
《個人の意識的な行為にとってかわった群衆の無意識的な行為が、現代の特徴の一つをなしているのである。》

《群衆は、推理の能力こそほとんど持たないが、これに反し、行為にははなはだ適しているように見える。》

《群衆は、もっぱら破壊的な力をもって、あたかも衰弱した肉体や死骸の分解を早めるあの黴菌のように作用する。……かくて一時は、多数者の盲目的な力が、歴史を動かす唯一の哲理となるのである。》

“群衆が他より暗示される意見以外に何等かの意見をいだく能力をいかに欠いているか”


《それゆえ、意識的個性の消滅、無意識的個性の優勢、暗示と感染とによる感情や観念の同一方向への転換、暗示された観念をただちに行為に移そうとする傾向、これらが、群衆中の個人の主要な特性である。群衆中の個人は、もはや彼自身ではなく、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる。》

“それは、吝嗇家を浪費家に、懐疑家を信心家に、正直な人間を罪人に、臆病者を英雄に一変させるほどである。”

“単独の個人は、自己の反射作用を制御する能力を持っているが、群衆は、この能力を欠いている、といえば、この現象を生理学的に定義することができる。”


《群衆は、巧みに暗示を与えられると、英雄的精神、献身的精神をも発揮することができるのである。しかも、単独の個人よりも、はるかにこれを発揮することができさえするのである。》

“群衆の誇張癖が感情にのみ作用して、少しも知能には作用しないことをつけ加えるには及ばない。単に個人が群衆に加わったということだけで、すでに指摘したように、その知的水準が著しく低下する。”

“横暴さと偏狭さとは、群衆にとって、非常に明瞭な感情となっている。”

《群衆は、弱い権力には常に反抗しようとしているが、強い権力の前では卑屈に屈服する。権力の作用が、あるいは強くあるいは弱く働く間歇的なものであるときには、常にその極端な感情のままに従う群衆は、無政府状態から隷属状態へ、隷属状態から無政府状態へと交互に移行するのである。》


*途中p.73~