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per l/a psicoanalisi

不安におけるギリシャ的規定とユダヤ的規定、あるいは愛の行方について

2019-11-07 14:36:23 | 精神分析について
キルケゴールが不安の無をいう時に注意がいるのは、それが咎=罪 schuld について言われているということだろう。つまり、不安の対象が無であるということは、ユダヤ的な律法概念やそこから帰結する咎=罪の概念と切り離しえない。また、シュルト schuld は転じて「負債」や「責務」という意味にも使われる。

罪に向かい弁証法的に規定されている不安の対象が、無なのである。だが、罪が逆に措定されれば、そこ残るのは(不安は過ぎ去り)悔いであると言われる。

「咎 Schuld は精神の眼にとっては、蛇のまなざしがそういう作用をするといわれているような威力をもっている、——それは魔法をかけるのである。」——キルケゴール『不安の概念』岩波文庫版p.183


確かに、ギリシャ精神とユダヤ精神における不安は、対象の規定としては異なるのかもしれない。このことは、精神分析の文化的な文脈においても決定的な差をもっている。

では、運命・幸福・不幸についてのギリシャ的規定のユダヤ精神化が精神分析なのか? 一つのメルクマールにこそなれ、それが絶対でも全てでもない。

だが、犠牲とはそれら(への愛 erōs)のユダヤ精神化であることは確かではないだろうか? ここでは広義の愛 amor のあり方の変容が問題になる。つまり、我々は先にギリシャ的な erōs とキリスト教の文脈の agapē を区別している。それらがまた、philia や caritas に変貌することも含めて。

また、ここでは欲望の規定もその根源や対象との関連で変化すると見なせるだろう。そして、欲望は下位の欲求との繋がりもまた含意している(愛には cupiditas という貪欲の側面もまたあった)。


では、犠牲と罪の関係は如何なるものか? 犠牲とは罪の現実的関係である。そう言えるのかもしれない。また、罪は罰として反復する。だが、それは犠牲の反覆とは異なったあり方をしているのかもしれない。(仮に、“反復”と“反覆”として表記を変えた)

罪の反復は情動のドラマを伴い主体の現実性を表現している。だが、犠牲の反覆とは罪の現実的関係の顕現の反覆なのである。あるいは、形式的な反覆と言い換えていいのだろうか?

一つ言えるのは、罪はその無知や堕落(誘惑)、罰と一体になっているが、犠牲は復活や救済と共に考えられている点だろう。キリスト教精神は、その意味でギリシャ的な哲学の規定とは根本的な問題の変化を遂げている。


† ここで、我々の思索の端的な成果を簡潔に記しておきたい。

自我理想-超自我
ギリシャ的エロス-キリスト教的アガペー
運命愛-犠牲
眼差し-声

象徴的なものにおいても二段階に両者は分節化・分離・分断される(倫理的なものと宗教的なもの、ないしは哲学と宗教として。出来事・冒険は両者の総合として到来する)。

つまり、フロイトが超自我を自我理想を引き継ぐ、ある道徳的でもありうる審級とする時、そこには極めてキリスト教的な問題(ないしユダヤ教の戒律の何たるか)が組み込まれている。キルケゴールによる不安の概念やギリシャ哲学とキリスト教における愛の秩序の問題、そしてアガンベンによる任務論を概観した結果こう導ける。

運命愛に導かれる愛 erōs は上昇に向かうのだし、犠牲に導かれる愛 agapē は下降する。そのあいだに、自由意志や意志、恩恵(あるいは選択)というテーマもまたあった。

ある意味で、エロスとアガペーは目的が異なる。(それを回心や向き変え、方向転換と呼んだ)