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per l/a psicoanalisi

剥奪された固有性と現代

2015-10-23 18:00:44 | Essay
【ハイデガーとラカン以後の問題として】


果たして、人間性を“剥奪”され、人間性の“根拠の不在”を否応なしに経験した人間に、人間の尊厳や尊重とは、どう感じられるだろうか?

これに不感症な知識人は、恥を知った方がいい。ここにハイデガー的な倫理の限界がある。死ぬことすら剥奪された人間という形象。


人間の“固有の死”という在り方すら、奪われた人々……歴史が彼らのものでないとすれば、そのような歴史とはまだ未完な歴史に留まらずを得ない。固有の死すら奪われた人間に、単独性の尊重や尊厳の回復という空虚なお題目は通用するだろうか?

彼らはただ、“誰でもない”ものとして生き延びてしまい、“誰でもない”ものとして罪を感じてしまうのだ。


ハイデガーにせよラカンにせよ、まだそのような固有性を信じることができた。だが、それができない思想家たちがいる。彼らは、夜や非知、非人称の方に向かう。

固有性に関する信仰は、“未だ近代の限界”に位置している。

現代の様々な問題や課題は、思想も含めて、そのような根拠すらもう人間にはないという地平から始まっている。足場や立場、根拠に訴えることはできないし、そのような営みはもはや虚しい。それが、現代の問題の諸相だろう。

精神分析について理論的態度をとることの誤謬

2015-10-02 16:56:19 | 精神分析について
*Twitterに投稿したものから。


《思索をテオーリアとして特徴づけることと、認識作用を「理論的」態度として規定することは、すでに思索の「技術的」解釈の内部で起こっていたのである。》Heidegger, Uber den Humanismus


ハイデガーはこのような特徴や規定は、行為することや為すことと区別して、思索することをなおも自立的状態のうちに救い出そうとする、“反動的な”試みであると述べる。

《しかし、こうした努力は、思索の本質の放擲である。哲学は、もしも自分が学問科学でないとすれば、名望と威信を失うのではないかという恐怖によって、駆り立てられている。……思索の境域としての存在は、思索の技術的解釈のうちでは、放擲されてしまっているわけである。》ibid.


ハイデガーは、世間のひとは思索を、それに不適切な尺度で判定しているという。つまり、思索の本質は、技術的知〔テクネー〕や観想的理論〔テオーリア〕、ましてや「論理学」にもない。

そして、存在の発語 Sage すなわち、呈示 Zeige は、「断念」において経験されると云っているようだ。ここで、断念されるものは何だろうか? ereignet の働きでは?

Ereignis についてはまた別件でやろう。固有性や単独性は断念されなければならないことは述べておいていい。この「断念」という契機が、“基礎付け”に埋められてしまったのが、小笠原氏の問題だろう。また、ラカン派全般に言えるのは、彼らは断念をしないで起源や基礎付け、それらの永続化の努力に向かい固執するということだ。

ハイデガーはまた、書き言葉よりも、発語の方が思索本来の生き生きした動きや多次元性を保持することができると考えている。

そして、思索の厳密さ die Strenge と技巧的な、つまり技術的-理論的な精密さ Exaktheit を対比する。

《思索の厳密さは、発語が、純粋に存在の境域のうちにとどまり、その存在の境域に含まれる諸次元が多様でありながら単純なものとして支配力を揮うようにさせることに存するのである。けれども他方においてやはり、書かれたものは、熟慮しつつ慎重に言語的表現を行わざるをえないようにさせるという有益な強制力をも提供してくれるのである。》ibid.


現代のラカン派とは、精神分析の“説明”や社会的“認知”を得ようとして、精神分析を「営業化」する試みなのだろうか? あるいは、新たな“主体性の支配”を樹立したいだけなのだろうか?

少し長いが、そのまま引用しておこう。

「しかもこの整序開始と権限受理は、主観性の支配に由来するものであるために、形而上学的に制約されているのである。それゆえに、言葉は、人々の間のいろいろな交通路の媒介に奉仕するだけの手段になり下がり、その交通路の上では、あらゆる事柄を、あらゆる人々にたいして、一様に接近可能にすることとしての対象化という働きが、いかなる限界をも無視して、広がってゆくのである。このようにして、言葉は、公共性の独裁に隷従してゆく。この公共性は、何が理解可能なことであるのか、そして何が理解不可能なこととして却下されねばならないのかを、あらかじめ決定している。」Heidegger, Uber den Humanismus


■追記:形而上学と白痴な現代

形而上学においては、享楽は“白痴の享楽”に終わる。これが、現代のラカン派が辿り着いた道だ。現代とはまさに、記憶が間延びし、未来へと常に先送りされた“忘却の時代”の呼称に過ぎない。

後期ハイデガーにおいて、《存在 Ek-sistenz》の分節化が時間における脱自態、時熟として考えられていることは知られている。だが、それは単に内部から外部への超越方向に考えてはいけない。

つまり、Ek-sistenz と形而上学的な existentia (rei extra causas et nihilum sistentia) は、ハイデガーも断っているように同じではない。

「後者は、可能性としてのエッセンティア〔本質〕との差異において、現実性を意味している。」(Heidegger)

これをラカン的に言い換えたらどうなるだろうか? 象徴界の彼岸にある現実界、不可能な現実界というテーマは、未だ形而上学の問題 (exsistentia) でしかないということだ。

「このエクシステンティア〔現実存在〕を、中世の哲学は、アクテュアリタース〔現実性〕と据える。」(Heidegger)



《しかしながら、言葉は、たんに言葉であるにすぎぬのではない。すなわち、私たちが、せいぜい、音声形態(文字画像)と旋律と律動と意義(意味)との統一として眼前に見据えて表象しているかぎりでの言葉にすぎぬのではない。》Heidegger, Uber den Humanismus

《進歩するとは、すなわち、当の場所から離れ去って先へと、歩み進むことだが、それは、一つの誤謬であって、その誤謬は、思索そのものが投げかける影のありさまで、もとの思索を追いかけているのである。》ibid.