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per l/a psicoanalisi

肯定的な哲学のために Per una filosofia affermativa

2024-04-19 02:02:51 | 試訳

★以下の小記事は、イタリアの著名な文化批評サイト Doppiozero〔ドッピオゼーロ〕に掲載されたものからの訳出である。

Michele Pavan

2019年8月23日

 

Roberto Esposito が『政治と否定——肯定的な哲学のために Politica e negazione. Per una filosofia affermativa』において展開する省察は、無活動 inoperosità、非の潜勢力 potenza-di-non、非構成化する力 potenza destituente (否定の倫理-政治的含意についての Paolo Virno のそれや、聖パウロにおける抑止する力 potere che frena の否定的カテゴリーについての Massimo Cacciari のそれ)の概念の周囲の Giorgio Agamben の省察を包含する、現代のイタリア的思考の内部に位置する。しかしながら Esposito は“免疫化 immunizzazione”(それは排除することよりも“対立の力を無効化するため、排除を意図することの部分を含む”否定性のエンブレムである)の概念における彼の提言についての特殊性と重要性に合流しつつ、否定性のパラダイムの排除的な特性を緩和する試み—そして、壊滅的な限界—への更なる貢献を付加する。

『政治と否定』の理論的成果は、初めの二つの章の中で Esposito により導かれた歴史-批判的作業なしでは、いずれにしても思考可能ではないだろう。古代ギリシャから十九世紀初めまでの哲学と政治学の内的な絡み合いは、密かにそれを通る否定的登記から再読される。特に、何か—ある存在、ある対象、あるカテゴリー—を、同時にその反対を否定することなしに定義する、典型的に西洋的な不能性が明るみに出される。この不能性はいくつかの近代的な政治カテゴリーの形成を条件づけた固有のものであった。不-必要や非-強制としての“自由”、善それ自体の所有へのあらゆる他の要求の不在としての“固有性”、国家の法からの非-依存の状態としての“主権”、固有な内部へと位置づけられた他の実体—大衆、群衆、多数者—とのコントラストの効果としての“人民”。この同様の不能性は、すでに別の世紀の当初に、政治的カテゴリー、別名ポリス polis の否定的価値—排除する以上の—を印づけた。アリストテレス的意義においては実際、このことは“一方では現前のモデルのアスペクトを引き受け”(たんに“生きること”と対比された“よく生きること”のモデルももちろん)、他方では(またそのことの徳において)“それに合致した行動をとらないすべての人々を締め出す”。

政治と否定の共属 coappartenenza はこのように二つのモードで歴史的に表出される装置 dispositivo の特徴〔外観〕を定義する。一つは政治的なものの否定的な傾斜において、もう一つは否定性の政治化のプロセスにおいて。もし最初の分析が政治的なものの諸カテゴリーの中で否定性を明確にすることを含意するなら、第二の分析は、それが(否定されるところのものの締め出しに向かう)“言語学的規則から論理学的規則へ、そして存在論的、最後には遂行的な規則へと”完遂する移行を示す。

分析のこの最後の斜面の上で、用語上の異なった諸領域によって十九世紀最初の哲学は Esposito にとって、特に寓意的な歴史に関する通路を表象する。否定性の政治化は Saussure の言語学的構造主義—言語 linguaggio を構成する諸要素の否定的、相対的、そして対立的特性に基礎づけられた—同様に、Freud の精神分析的理論(そこでは否定性は主体が肯定〔断定〕的な形では表現できないことの抑圧の媒介であるだろう)に根をおろす。それはあらゆる様式で、一連の過程〔訴訟〕のメタ政治学的諸効果がより明らかな手法により追跡される Carl Schmitt の思考の中においてである。ドイツの哲学と法学にとって、“omnis determinatio est negatio” の論理は政治的主体の規則を定義する。ここから、現行の秩序の存続を否定できることとしてだけかくある“主権者 sovrano”の理念が立ち上がる。政治的主体は排除(“内部の敵”の追放の布石)と壊滅(他の国家に対する戦争)の明白な形態において否定性を行使する。

Aristotele から Schmitt に至る、理論的観点からの否定的なものの強化は、自動的に(行為)遂行的観点からの排除する諸慣例の作動を招く。Esposito のアイデアはそこでこのような〔排除的な〕結びつきを、それらの解釈の多くの手から逃れたある否定性の繋がりを、排除的ではない意味で再び結びつけることにより断ち切ることである。Macchiaveli、Spinoza、Kant、Nietzsche、Deleuze、そして Foucault を繋ぐ原初的な赤い糸 l’originale “fil rouge” に戻ることで、イタリアの哲学者は否定性の概念のあるオルタナティブなアプローチの可能性を垣間見させる。これらの思想家たちの議論にしたがうなら、否定することは単に何かを排除することをもはや意味しないだろう、がしかし相互的な交換と混交をなしたある関連的な力学において差異を肯定〔断言〕することである。差異がそれ自体の上で肯定的な affermativa.または“肯定〔断定〕 l’affermazione”と両立可能な方向において排除的な姿勢を転換するまで自らを曲げることで、限定 determinazione と反対 opposizione は否定のカテゴリーを再考することにより、また、ポジティブな地平においてそれを含むことを証明することにより、根本的な座標に変わる。

ドゥルーズ的差異はここで分散が包含の原則として作用する視点において、差異が分離するというよりむしろ諸差異を交通させる瞬間に、決定的な役割を演じる。自体性は要するに限定 determinazione のカテゴリーとして重要である。この場合、Esposito の哲学の歴史への回帰は Spinoza を経由する。オランダの哲学者によれば、ある事物の限定は、実体を構成する無限の他の諸事物の限定に取りつかれた存在を含むことで、その存在論的地平からそれら〔諸事物〕が排除されないようにする。要するに反対 l’opposizione に関しては、このようなカテゴリーの肯定的な affermativa 価値は、接頭辞 obの前に davanti a”に相対して a fronte di”)の原則的な意味作用の中に全てある。ob 対照 contrapposizione”の動力学に生じることとは反対に、全てのその他について排除または無に帰することができる op-poste の極性がないことを当然含む。この点で、Macchiavelli における貴族と庶民のあいだの政治的コントラスト、カントにおける引力と斥力のあいだの実在的拮抗、Nietzsche における作用と反作用のあいだの力の戯れ、そして Foucault における権力と抵抗のあいだの力学は寓意的になる。

まさしくこの点で、『政治と否定』の最終的な提言が描かれる。(かかる二極性に共同体と免疫のあいだの弁証法が、それらの凝縮した、またありうるヴァリアントとして付加されうると Esposito は断言する。)特に、免疫化のカテゴリーはこのような弁証法の内部に決定的な役割を引き受ける。(“たんなる排除というよりはむしろ、ワクチン接種の実施が患者の身体にそれを防ぐ目的でウイルスの一部を注入するのと同様のやり方で、それはある種の排除的包含—衝突の力を無効にするために排除を意図することの部分を含む—を実行する”。)Immunis は、部分的にそれを引き受けながら、その限界(その引き受けが有害な諸効果—基準適合の認可、依存、搾取—の産出しかしえないこと以上の限界)を受け入れることを学ぶ方策で生きる、コミュニティーの結束で自分自身を保護することである。こうすることで、更には、普遍的なモデルに固有な異種性が基準に適合している、と認定することにしむける衝突の力を無効化しながら、それ〔immunis〕はコミュニティーそれ自体を全体(主義)的な横滑りから保護する。

免疫化はこのように、新しいパラダイムに合流することで、否定の排除的性格を和らげる。否定されることは、今や、肯定されることの反対ではなく、むしろ相互に排除し、また無にする反対のポジション(この場合、共同性と免疫性)の同等の可能性である。この可能性は、これら両極が保存する(取り扱い、また内包する)反対される可能性の一部と共に、全面的な肯定的傾向によって否定される。

同じパラダイムの下—しかるべき区別を考慮にしつつ—、Esposito の否定的なものの問題へのアプローチは最初に記されたイタリア哲学的な展望の思想家たちのそれと重ねることができるようになる。アリストテレス的潜勢力の否定的機能の周辺の Agamben の仕事を考えれば十分である。(否定されるのは—潜勢力と現勢力のあいだの力学において—潜勢力でも現勢力それ自体でもなく、むしろ第二のものにおける第一のものの統合的解決だろう。)同様のアプローチのトレースは Massimo Cacciari の『抑止する力』についての試論においても見つけられ、その中で“katechon ”のパウロ的カテゴリーを通じて、“遇する che trattiene”否定性の政治神学的勾配が探究される。しかし Paolo Virno の『否定についての試論』も二重否定(あなたを愛していないわけではない)の言語学的価値を主張する。二重否定は元の肯定〔断定〕(あなたを愛している)を復元する可能性への返送ではなく、言うなれば、その反対(あなたを愛していない)をも否定されるや否や、“(未だ表されていないニュアンスで満たされた)変形を通した情感”の複雑さをかかる様態で再構築することで、何かを保存することに関わるだろう。


アーレント試訳3

2022-04-07 21:50:00 | 試訳
«Between Past and Future»所収、“WHAT IS FREEDOM?”の最後の節から。


全ての行為 act は、行為者 agent の観点からではなく、それが生じるフレームワークと中断するオートマティズムの過程の観点から見れば、何らかの予期されえない“奇跡”である。もし、行為 action と始まり beginning が本質的に同じであることが真実なら、奇跡を為すことの能力は、同様に人間能力の一つに加わるべきだろう。そのことは実際上よりも奇妙に聞こえる。“無限に〔おおよそ〕起こりそうにないこと infinite improbability”として世界へ割って入ることは、あらゆる新しい始まりの本性であり、しかも、私たちが現実と呼ぶあらゆることの真のテクスチャーを実際に構成しているのは、まさにこの無限に起こりえないことなのである。つまり、私たちの全存在は一連の奇跡に基づいてあり、それらは、地球の存在者への生誕、そこでの有機的生命の発達、動物種からの人類の進化である。宇宙と自然における過程の観点、そしてそれらの圧倒的な蓋然性の観点から、宇宙的過程からの地球の生起、非有機的過程からの有機的生命の形成、最終的には、有機的生命からの人間の進化は“無限の起こりそうにないこと”であり、それらは日常語における“奇跡”である。どんなに恐怖あるいは希望の中で予期されていたとしても、ひとたび出来事が起きるなら、私たちに驚異の衝撃が走るのは、全てのリアリティーにおいて現前する“奇跡的なもの”のこの要素のためである。ある出来事の衝撃は決して完全に説明できない。その事実性は原理的に全ての予期を超えている。出来事が奇跡であることを私たちに告げる経験は恣意的なものでもなければ、殊更に複雑なことでもない。それは、反対に、最も自然的であり、実に、殆どありふれた日常の生活の中にある。このありふれた経験がなければ、宗教がこの超自然的な奇跡に割り当てた部分は、殆ど理解不能であっただろう。

私が何らかの“無限に起こりそうもないこと”の到来によって妨げられる自然的過程の実例を選んだのは、私たちが日常的な経験の中で現実と呼ぶことの殆どが、フィクションよりも奇なる(偶然の)一致を通じて存在するに至ったことを例示するためである。もちろんこの例には限界があり、単純に人間事象の領域に適応されえない。歴史的または政治的過程が自動的となっているコンテクストで、奇跡、つまり“無限に起こりそうもない”ことを望むのは、完全には排斥されえないにせよ、まったくの迷信であるだろう。自然と対をなすように、歴史は出来事に満ちている。この領域では偶然の出来事と無限の起こりそうにないことの奇跡は頻繁に起きるため、奇跡を口にすることがそもそも奇妙なことに思える。しかし、このような奇跡が頻繁に起きる理由はただ、歴史の過程が人間のイニシアティヴ——彼が行為する存在者である限り、人間が持つ始まり initium——によって創造され、絶えず中断されるからである。したがって、政治的な領域において、予見不可能で予言不可能なものを考慮し、“奇跡”に備え、そしてそれを見込むことは、迷信であるどころか、リアリズムの勧告でさえある。そして天秤が凶事の方に重く傾けば傾くほど、自由に為された行いはそれだけ奇跡的なものとして現れる。なぜなら常に自動的に生じ、それゆえに常に抵抗しがたいものとして必ず現れるのは、救済ではなく、凶事だからである。

客観的に、すなわち外側から、そして人間は始まりであり始める者であることを度外視して眺めるなら、明日が昨日と同じだろう〔偶然の〕確率は圧倒的である。確かに、地球が宇宙的発生から決して出現し“なかった”確率、非有機的過程から生命が発展し“なかった”確率、動物的生命の進化から人間が現れ“なかった”確率としては、それほど圧倒的ではないが、殆ど圧倒的に等しい。私たちの地球上の生命のリアリティーが基づく“無限に起こりそうにないこと”と、歴史的リアリティーを樹立するそれら出来事に固有の奇跡的な特徴のあいだにある決定的な相違は、人間事象の領域において、私たちが“奇跡”の作者を知っているということである。それは、奇跡を実演する人々 men——自由 freedom と行為 action の二重の天分を受け取っているが故に、彼らに固有なリアリティーを樹立することのできる人々——である。


アーレント試訳2

2021-09-20 19:00:03 | 試訳
«Between Past and Future»所収、“TRADITION AND MODERN AGE”の最後の節から。

《近代科学(その精神は疑念と不信のデカルト哲学において表現される)の発生以来、伝統の概念的枠組みは確実ではなくなっている。観照と活動の二分法(真理は究極的には、無言で活動の伴わない見ることにおいてのみ把握されることを規定する伝統的ヒエラルキー)は、その中で科学=知が活動的になり、また知るためになした条件の下では支持されえなかった。事物が真にあるものとして現れるという信頼が消えた時、啓示=暴露としての真理の概念そして、それに伴う啓示された神への無条件の信仰は疑わしくなっていった。理論=学説 theory”の概念はその意味を変えた。それはもはや、〔それ自体〕作られなかったものとして、しかし理性と諸感覚に与えられたものとしての、推論にかなうように連結された諸真理のシステムを意味しなかった。むしろそれは、それが産出する結果に応じて変わり、また、それが明らかにする reveals”ことではなく、それが作動する works”かどうかについての有効性に依拠することで、近代科学理論それは、基礎となる=実用的な仮説 working hypothesis であるとなった。同様のプロセスによって、プラトンの諸イデアは世界と宇宙を照らす自律的な力を失った。最初に、それらはプラトンにとって政治的領域(標準と測定法)、あるいは調整(それらがカントにおいて出現するように、人間特有の推論する精神の強制力の制限)への関係性においてのみ何であったのかということになった。それから、為すこと doing に対する推論 reason の(人間-人々 men の諸活動に規則を課す精神の規定の)優位の後から、産業革命による全世界のトランスフォーメーション(人間 man の為すこと doings と製作 fabrications がそれらの規則に推論することを命じるのを示すように思われた成功へのトランスフォーメーション)においてそれらイデアは失われ、最終的にそれらは、それらの有効性が一人または多数の人間たちにより決定されるのではなく、それらの絶え間なく変化する機能的な必要=要求 needs における全体としての社会により決定される、単なる価値に変化した。

それらの外部そして内部の可変性における価値は、社会化された人間-人々 socialized men”に任された(そして、理解された)だけのイデア ideas”である。それらの人々は、プラトンにとって日常の人間事象の洞窟 the cave”であることから決して離れないことを決めた人々であり、また、おそらくは、近代社会の至る所にある機能化が、その最も基本の諸特徴の一つ——あるがままのものに対し驚きをもって触れること——を奪いとった世界、そして生へ単独で冒険しないことを決めた人々である。この極めて現実的な発展はマルクスの政治的思考の中で反響され、予示されている。その独特の枠組みの中で伝統を転倒させることで、彼は実際にプラトンのイデアを取り除いたのではなく、しかしながら彼は、それらのイデアが(他の存在の多くと同様に)人々の目に一度見えるようになったその場所、つまり透明な空が徐々に暗くなることを記録したのである。》


アーレント試訳

2021-08-08 21:41:00 | 試訳

以下は、“The Freedom To Be Free”(1966-1967) からの抄訳である。このタイトルは、単なる活動 action やアーレント的な政治性の基本要素である自由 freedom とは区別された意味合いを読むことができる概念でもあり、重要性が見逃されてもいるので、その示唆も含めて訳出を試みた。


《…相違は、アメリカ革命は奴隷制の設立と奴隷たちがある異なった人種に属していたという信念のため惨めな人々 the miserable の存在を、またそれに伴い、生活の純粋な必要性としての政治的抑圧によりそれほど拘束されていない人たちを解放する厄介な課題を、見過ごしていたことでした。フランス革命の過程でたいへん甚大な役割を果たす悲惨な人々 les malheureux, the wretched (フランス革命は彼らを人民 le peuple と区別していました)は、アメリカでは存在していないか、もしくは完全に暗がりに留まったままでした。》

《フランスにおける革命の主要な帰結の一つは、歴史においてはじめて、人民を路上に連れ出し、彼らを目に見えるようにすることでありました。これが生じた時、ただの自由ではなく、自由であるための自由  the freedom to be free はいつも少数者の特権であったということが判明しました。しかしながら同様に、失敗を鳴り響かせることで終わったフランス革命が、私たちが現在革命的伝統と呼ぶことを決定した、また未だ決定している一方で、アメリカ革命が革命の歴史的理解のための多くの帰結がないままであったことです。》

→これと似たような事態が、精神分析についても言えるのではないでしょうか?(後ほどまた、この文章の前後を訳出しようと思います)
 
大多数は、自由よりも必要と支配に縛られたままでいることを望み、よしとしているのです。大学という場でさえ、そうなります。(また、それが困難でもあります)
 

《それから1789年にパリでなにが起きたのでしょうか? はじめに、恐怖 fear からの自由は、少数者たちが歴史の比較的短い期間においてだけ享受していた特権でさえあり、また、必要〔欠乏〕want からの自由は数世紀を通じて人類のごく僅かなパーセンテージを識別していた偉大な特権でもありました。》

→大多数とは、家庭に縛られ、仕事に追われ、金や必要事に困窮しあくせくしているのが良いと感じているのです。自由より。

《私たちが人類の記録された歴史と呼ぶ傾向があるものは、大部分が、それらの特権的な少数者たちの歴史です。必要〔欠乏〕と自由を区別する人たちのみが、恐怖からの自由の意味を完全に評価でき、また必要と恐怖両方から自由である人たちのみが公的自由への情熱を抱く(自由 liberté のための嗜好 goût or taste と自由がそれにもたらす平等 égalité or equality への独特な趣き teste が彼ら自身の中で発展する)立場にいます。》

→ここでも我々はまた、自由(とそれがもたらす平等)と、趣味の問題、あるいはそれへの冒険的なあり方というアガンベン的なテーマに行き着く。(あるいは、そのような公的自由へと向かう情熱があるのかどうか?)

《概略的に述べれば、それぞれの革命が自由 freedom〔統治の新しい形態と政体の設立の第二の、そして決定的な段階〕に達する前に、それらが解放 liberation の段階をはじめに通り抜けると言われうるでしょう。アメリカ革命の過程において、解放の段階は政治的拘束力からの(独裁者もしくは君主からの、また使われていただろう言葉が何であれ)解放を意味しました。最初の段階は暴力により特徴付けられ、しかし第二の段階は、審議、議論、説得、つまりは創設者たちが理解したタームとして政治的知識を適応することが問題でした。しかし、フランスにおいては何か完全に違うことが起きました。革命の最初の段階は暴力よりも崩壊によってよりよく特徴付けられ、そして第二の段階が達せられ、国民公会がフランスは共和国になると宣言した時、権力は既に街頭へと移っていました。人民よりも国家を代表するためにパリに集まった人々(彼らの主要な関心それらの名前がミラボーあるいはロペスピエールであろうと、ダントンもしくはサン=ジェストであろうとは統治、君主制の改変、後に共和制の設立でした)は突然、解放の未だ他の課題(それは一般の民衆を惨めさから解放すること、自由になるために彼らを自由することです to free them to be free)に、彼ら自身が直面するのを目撃しました。…》

 

《二つの最初の革命(それらの始まりはとても似ていて、また終わりはたいへん甚だしく異なっています)の比較は、貧困の克服は自由の樹立のための前提条件であるだけでなく、貧困からの解放は政治的抑圧からの解放と同じやり方によっては扱われえない、と私が考えることを明確に示します。》

《暴力に対抗する暴力は(対外もしくは市民)戦争を導くので、社会的条件に対抗する暴力はいつも恐怖を導きました。単なる(古い体制が解体されて、新しい体制が導入された後に恐怖が緩める)暴力よりも恐怖は、革命をそれらの破滅へ送ることであり、もしくは、それらが専制や暴政に陥るほど決定的に変形させることです。》


ジャンニ・カルキア『名とイメージ』

2018-03-02 16:15:01 | 試訳
--Gianni Carchia, Nome e immagine: Saggio su Walter Benjamin (Quodlibet, 2009)


◼︎アガンベンによる裏表紙への寄せ書(原文はコチラの出版社のサイトにも掲載されている)

ジャンニ・カルキアの最初の作品と最後の作品同様に、存在の特異な運命がこの本において触れられている。1999年の春に(彼を死に導くだろう病いが重くなる少し前)カルキアは、力強くも明白でもある文体において既に模範の熟練した諸論文を表しており、ある仕方でそれについて彼の証言をなす、24歳の学生の“若きベンヤミンにおける真理と言語 Verità e linguaggio nel giovane Benjamin”というタイトルでもってトリノ大学で1971年に議論されていた、学位のテーゼを手に取り改編する。“名とイメージ Nome e immagine”というタイトルで資格を与えながら。始まりと終わりはここで、事実、確かに哲学的な身振りによって、あたかも、ある驚くべき倒置法でもって、カルキアの最後の思考の諸動機(出来事と証言としての哲学の概念、方法の批判、終末のメシア的練り上げ)を結び付けることが、初めて若き日のテーゼにおけるそれらの反響音 eco に出会うだろうと正に見受けられる。本書でもって開くベンヤミンの容貌は、この意味で、19世紀のイタリア哲学における最も適切な声 voci の一つとしても私たちに開いている著者の一つの肖像でもある。

ジョルジョ・アガンベン


〔訳者による付言:アガンベンがイタリアにおけるベンヤミンの著作の編纂に携わっていたのは有名だが、ジャンニ・カルキアの名もその仕事にはもちろん記されている。〕



◼︎本文からの抜粋と試訳

◻︎第一章「批評と真理 Critica e verità」

«L'assoluto romantico si determina a questa stregua come un «medio» della riflessione.» p. 28
《ロマン主義的な絶対はこの尺度で、反省のある“媒介=中間”として定義される。》

«In questo medio, ogni semplice riflessione sorge assolutamente da un punto di indifferenza che si tratta di determinare.» p.28
《この媒介=中間において、それぞれの素朴な反省は絶対的に、定義することが問題である無差異のある点から発生する。》

«Dal dispiegamento del concetto di riflessione, risulta che tutto ciò che è nell'assoluto pensa ma, poiché questo pensiero è quello della riflessione, può pensare solo se stesso.» p. 29
《反省の概念の表明から、絶対においてあること全ては思考し、だかこの思考は反省のそれであるので、ただそれ自体を思考しうることが帰結する。》

“Per i romantici non si dà dal punto di vista dell'assoluto alcun Non-Io, alcuna natura nel senso di una essenza che non diviene sé” (Benjamin)


«La libertà delle dottrine estetiche eteronome è ottenuta fissando un criterio dell'opera d'arte diverso dalla regola, e cioè il criterio di una struttura determinata immanente all'opera stessa.» p. 32
《他律の美学的諸教義の自由は、規則とは異なった芸術作品のある基準を定めることで達成される。即ち、作品それ自体に内在する所定のある構造の基準である。》

“La teoria romantica fonda la validità delle forme indipendentemente dal l'ideale delle creazioni” (Benjamin)

“È elemento caratterizzante del concetto romantico di critica non conoscere una particolare soggettiva valutazione dell'opera nel giudizio di gusto. La valutazione è immanente alla ricerca positiva ed alla conoscenza dell'opera.” (Benjamin)


«Dove l'ironia della materia è negativa e soggettiva, quella della forma è positiva ed obiettiva.» p. 35
《物質のアイロニーが否定的で主体的である処で、形態のそれは肯定的で客観的である。》

«Dove la critica, nell'interesse di una superiore unità di arte e filosofia, non esita a sacrifare l'opera singola, l'ironia formale è capace di mantenerla integra ed, al stesso tempo, si riferirla all'idea dell'arte.» p. 35
《批評が(芸術と哲学のある高次な統一の関心において)単一の作品を犠牲にすることを躊躇わない地平で、形態のアイロニーはそれを完全に保つことができ、同時に、それを芸術の理念に参照させる。》


«Benjamin nell'Ursprung illustra la verità quale «contenuto essenziale della bellezza».» p. 43
《『根源』におけるベンヤミンは、“美の本質的な内容”であるところの真理を注釈する。》

“In tutto che, a ragione viene definito bello agisce paradossalmente la circostanza che esso appare” (Benjamin)

«L'esistenza della verità è, in definitiva, identica coll'apparenza del bello.» p. 44
《真理の存在は、最終的には、美の現れと同じである。》

«La verità come contenuto del bello non viene «in luce nell'esplicazione».» p. 44
《美の内容としての真理は“説明の光の下に”生じない。》


«Il bello infatti può sussistere solo nella misura in cui è consapevole che unicamente nell'attimo, nel momento della suprema fugacità, la verità può giungere all'esistenza in esso» pp. 47-48
《美は実際ただ、瞬間において、最期の儚さのモーメントにおいて、真理はそれ〔美〕における存在に到達しうると自覚する尺度においてのみ、現存する。》

«La verità appare nella bellezza solo nella misura in cui quest'ultima non è epifenomeno superfluo.» p. 48
《真理は、美が余分な付帯現象ではないという尺度においてのみ、美において現れる。》

«Compito della bellezza non è di rendere visibile l'idea della verità, ma il suo segreto.» pp. 48-49
《美の役割は真理のイデアを見えるようにする為ではなく、その秘密を見えるようにする為にある。》

“Non apparenza, né involucro di qualcos'altro è la belezza. Essa stessa non è fenomeno, ma essenza... né l'involucro, né l'oggetto velato è il bello, ma l'oggetto nel suo involucro...” (Benjamin)

«Solo del bello vale il paradosso che l'essenziale è l'apparenza e ciò sembra potere rimandare ad un più vasto discorso di filosofia della storia, fondato sulla visione del mondo nelle dimensioni contrapposte del mistero e della rivelazione.» p. 49
《美のみが、本質的なものが現象〔見かけ〕であり、このことが神秘と啓示の対立した諸次元における世界のヴィジョンの上に基礎づけられた、歴史哲学のより広大な言説に送り返しうるように見えるというパラドックスをもたらす。》

MEMO:
rivelazione (potenza del nome)
tragedia (silenzio)


«L'inespresso non è per Benjamin un esteriore artificio tecnico proprio di una singola opera o genere artistico ma una vera e propria categoria del linguaggio e dell'arte.» p. 51
《表現されぬものはベンヤミンにとって、単独の作品または芸術的ジャンルの固有の技巧・技術的な外面ではなく、言語と芸術の正真正銘のカテゴリーである。》


«La costruzione di queste due serie parallele e contrapposte: mito-creazione-conoscenza da un lato; natura-arte-verità dall'altro, deve ora confrontarsi col concetto di bellezza che é qui il punto in discussione.» p. 53
《パラレルで対立するこの二つの系列の制定[一方は、神話-創造-意識、他方は、自然-芸術-真理]は今や、当該の問題である美の概念によって出会われるだろう。》

«Non più a lungo che per un attimo la verità giunge all'esistenza.» p. 53
《長々とではなく、瞬く間において、真理が存在に達する。》


«Che la bellezza prenda il posto della speranza non può essere, dunque, l'ultima parola di Benjamin in proposito.» p. 55
《美が望みを得ることは、従って、この点に関するベンヤミンの最後の言葉になりえない。》

«Se nessuna opera a tesi potrà mai comunicare l'essenza della speranza, essa non può però nemmeno irradiarsi dall'apparenza di conciliazione che offre la bellezza dell'opera gelidamente compiuta.» p. 56
《もし、問題の作品が望みの本質を伝えるに決して至らないなら、しかし、冷たく完成した作品の美をもたらす調停の現れからそれが放射状に広がる〔四方に広がる〕ことは決してありえない。》


«A questa sfera si è rivolto Goethe con la sua teoria dei fenomeni originari (Urphänomene) che ha avuto come punto di partenza la teoria dell'Urpflanze, concepita a Palermo, durante il viaggio in Italia, nel 1787.» p. 57
《1787年のイタリア旅行の間に、パレルモにて概念化された Urpflanze の理論を出発の点として持った、彼の根源的現象 Urphänomene の理論によって、ゲーテが専念したのはこの領域である。》

«Lo sforzo di Goethe, nell'accertamento degli Urphänomene, era volto a cogliere l'idea della natura al fine di presentarla come archetipo dell'arte, contenuto puro.» p. 57
《Urphänomene の検証においてのゲーテの尽力は、純粋な内容物である芸術のアーキタイプとしてイデアを示す目的で、自然のイデアを集めることに向けられた。》

«La natura cioè rimpiazza le Muse ma non muta il carattere causale del rapporto che si stabilisce fra la singola opera e l'ideale dell'arte.» p. 58
《自然はつまり、ムーサ〔ミューズ〕たちの後を引き継ぐが、単一の作品と芸術の理念的なものの間に居を構える関係の原因的特性を変更しない。》


«Infatti, se l'ideale della natura che si costituisce a contenuto puro dell'arte diventa intuibile nei fenomeni originari, ciò che viene meno è proprio quell'elemento di rottura che sembrava inerente all'opera d'arte e si ricade fatalmente in una teoria del rispecchiamento. L'archetipo non per caso diviene modello.» p. 59
《実際、もし芸術の純粋な内容物に構成される自然の理念が根源的諸現象において直観できるものになるなら、欠けていることは正に、芸術作品に本来備わっているように見えていて、避け難く反映の理論に落ちる〔関係の〕断絶のこのモーメントである。》

«La mancata distinzione, nell'ambito della natura, della sfera che più propriamente compete all'arte, la confusione tra archetipo e fenomeno originario, come conduce ad una banale concezione dell'arte come imitazione, tradisce al contempo le pur corrette esigenze che sono contenute nel concetto dell'Urphänomenon.» pp. 60-61
《(自然の領野における)芸術により固有に関わる領域の不十分な区別、アーキタイプと根源的現象の混同は、模造としての芸術のある凡庸な概念に帰結するように、同時に原現象の概念に含まれている全き正当な諸要請を裏切る。》


«L'assolutismo idealistico ha per risvolto l'empiricismo nell'osservazione dei fenomeni. Gli sfugge, secondo Benjamin, la forma peculiare di «idea» che il genere artistico assume una volta che sia configurato come fenomeno d'origine.» p. 66
《イデア論的な絶対主義は向き変えられたものとして、諸現象の観察の中に経験主義を持つ。ベンヤミンによれば、それは根源の現象として一旦形成されるなら、芸術的ジャンルが呈する《イデア》の特殊な形態を避ける。》

«Al concetto di origine di Benjamin è, invece, inscindibilmente connessa la nozione dì discontinuità, la consapevolezza che l'idea di una forma d'arte non è l'etichetta del catalogo, perché le opere che vi si comprendono aprono costellazioni storiche della verità.» p. 67
《むしろ、ベンヤミンの根源の概念に分かち難く繋がるのは、私たちに理解される諸作品は真理の歴史的な諸星座を開く故に、不連続性の教え—ある芸術形態の理念はカタログの分類ではないという自覚—である》


“... la storia appare soltanto come la frangia colorata di una simultaneità cristallina.” (Benjamin)
“…歴史は、ある結晶化した同時性の着色された粉飾としてのみ現れる。”(ベンヤミン)


«La virtualità del discorso storico impedisce alla dialettica degli estremi di broccarsi attorno al momento della sintesi. Gli estremi non si rapportano reciprocamente in modo antitetico quasi dal loro reciproco cozzare avesse da scaturire il momento superiore della totalità.» p. 71
《歴史的言説の潜在性は、諸極限の弁証法が総合の瞬間の周辺に突然停止することを妨げる。諸極限は、ちょうど相互にそれらがぶつかる状況で全体性の上位の瞬間が発生するようには、対立的な仕方では相互に関連しない。》

«Nel corso virtuale della storia, l'unità dell'idea si apre a rivelare sempre di nuovo altre valenze estreme. Si potrebbe definire questo procedere di Benjamin come il più paradossale rovesciamento della dialettica hegeliana.» p. 72
《歴史の潜在的な過程において、イデアの統一性はその都度常に、他の極限の諸価値を明らかにし始める。ベンヤミンのこの手続きはヘーゲル的弁証法の最もパラドキシカルな逆転として定義されうるだろう。》


〔第一章の最後は、イデア、静止した弁証法、モナドに繋がる論述で締められる。ここまでから導ける帰結は、特異性“概念”と特異性の“理念”との差異化だろう。〕


◻︎第二章「ある言語活動の哲学の方へ Verso una filosofia del linguaggio」

«Se la totalità non è data in un "continuum" mediale, ma si sprigiona dai singoli estremi, all'idea-monade compete il carattere dell'immagine.» pp. 77-78
《もし全体性が媒介=中間的な "continuum" において与えられないなら、しかしイメージの特性に関わるイデア-モナドにおける諸極限的単独性からそれは迸り出る。》

«Il punto di indifferenza tra nominalismo e realismo si qualifica così concretamente come la sfera del «medio» linguistico.» pp. 84-85
《唯名論と実在論のあいだの無差異の点は、このように具体的に言語学的な《中間》の領域として特徴づけられる。》

“Il nome è l'analogon della coscienza dell'oggetto nell'oggetto stesso. L'oggetto si scompone in nome ed essenza. Il nome è sovraessenziale, esso designa il rapporto fra l'oggetto e la sua essenza” (Heidegger, Der Gegenstand: Dreieck, VL, p. 14)
“名は対象自体における対象の意識のアナロゴンである。対象は名と本質において解体される。名は超本質的であり、それは対象と本質のあいだの関係を規定する”(ハイデガー)

«All'idea deve venire sottratto ogni carattere di sostanzialità.» p. 87
《物質性のあらゆる特性が取り去られるのは、イデアからであろう。》

“Le idee non sono date nel mondo dei fenomeni. Si pone dunque la questione del genere del loro darsi” (Benjamin, Ursprung, p. 17)
“イデアは諸現象の世界においては与えられない。したがって、それら発生の生成の問題が置かれる。”(ベンヤミン)

つまり、イデアは現象との間に、ある生成の謎を構成として持っていると言える。そのことが、美を前にした時の我々の問題なのだ。イデアの不可視性としての美は、現象の発生 / 生成のミステリーでもある。これが、ベンヤミンにおいては《根源現象》として扱われる問題であることは言うまでもない。美—イデア—現象の連関は、根源のイメージのミステリーを構成する。これが、アガンベンにおいて《閾の思考》として名指される何かであると断定するのは、間違えではない。(ネオプラトニズムが頓挫しているのは、この根源現象の問題だろう。ネオプラトニズムの間違えは、中間性の問題を流出という直接性へと還元していることにあるのではないか?)

«Il rapporto fra le idee e le cose non presenta quindi alcuna affinitá con la sua tradizionale interpretazione in senso neoplatonico, per la quale tale rapporto riveste un valore di immediatezza ed i fenomeni si collocano in maniera polare rispetto alle loro astrazioni entizzate.» p. 87
「イデアと事物の関係はしたがって、ネオプラトニズム的な意味における伝統的解釈によって、いかなる類似も呈さず、(この類似性のために)このような関係は直接性の価値を帯び、また諸現象はそれらの存在化された抽象に関してに両極化した様式に置かれる。」

もちろん、ここでは類似〔親和〕性 affinità は批判的な意味を帯びている。我々は、この類似性に対して「別の」というあり方を探求している途上にいる。では、諸イデア le idee と諸事物 le cose(先の引用もいずれも複数形である)の関係とはどのようなものか? ベンヤミンによれば、それらは星座 le costellazioni と星 le stelle(両者とも複数形)に等しいのだという。つまり、イデア=星座は(星の)概念でもなければ、(星という)事物に結びついてもいない。我々の文脈で言うなら、「別の」何かを含んでいる。

«Le idee non si annettono i fenomeni ma costituiscono solo la luce, nel cui riflesso questi giungono ad essere interpretati.» p. 88
「イデアは現象に付け加えらるのではなく、だがただ光のみを構成し、その反射の中でこれらは解釈されるに至る。」

ここで留意しなければならないのは、光 la luce という比喩だろう。光は事物に当たれば我々の目という器官によって見える。だが、それは光それ自体の構成=イデアではない。見ているのは一つ一つの星だが、それを星座として据えるのは、不可視の何かだ。

«Lo specifico modo di salvazione dei fenomeni qui attuato, si pone così totalmente al di fuori del l'alternativa tradizionale fra immanenza e trascendenza, perché le idee come non sono i concetti in cui le cose si risolvono integralmente, nemmeno sono le leggi che le regolano.» p. 88

«Al termine «costellazione» va, allora, riservato un valore il più possibile reale.» p. 89
「また、最も可能な現実がある価値を保存したのも《星座=付置》という用語においてである。」

恐らく、最も可能な現実により保存された価値とは、潜勢力 la potenza としてアガンベンにおいて思考されている。つまり、閾の構造(ミステリー)は、潜勢力の思考でもある。だが我々は、これを共同性の問題としても据えなければ十分だとは言えない。

ふつうの精神病から“倒錯の利得”へ(抄)

2016-10-26 23:00:12 | 試訳
--DALLA PSICOSI ORDINARIA AL “BENEFICIO PERVERSO”, Amelia Barbui

〔番号は、文章の纏まりと区切りに応じて、訳者が示した。〕

1.

私は Miller のこの引用を、“倒錯の利得 beneficio perverso”が享楽することのモードについて“少なくとも一つの理念 almeno un'idea”を持つことに関わることを強調しつつ、ふつうの精神病の近似的論理へ、そのファジーな論理へ送り返すために、図案の下として選択しました。

《ふつうの精神病とフローな臨床 Psicosi ordinaria e clinica flou》で Miller は、近似(“確実ではない non è sicuro”、“およそ più o meno”)を導入しつつ、“享楽することの諸モード modi di godere”について語ることを私は記憶しています。その近似は、二分法的で不連続な方法で、人間的な諸事象 le cose umane の現実または真理を(諸階層により)分割することに、私たちが同意するあの組織的な原則がなくなるようになる瞬間において関係する、私たちの獲得です。

2.

要するに私は、Miller により1988年に精神病の主題へ案出された、“ふつうの ordinario”の用語を、倒錯によって、享楽が前景にあり、大他者が存在しない、要するに、無意識からエスへ、象徴的なものの優位から、現実的なものの意味の外へアクセントが移された、同時代性に関してそれを問いただすため、検証できればと思います。

このため私は、ファジー論理 la logica fazzy について、不確定な縁による諸集合 gli insiemi dai contorni incerti の理論について何か述べるでしょう。そこにおいて、女性的なポジションは固有なゆとり proprio agio を持つに至ります。

3.

女性的なポジションはしたがって、ファジー論理において位置を見出し、その諸集合は(ある連続性により)非所属 non appartenenza から完全な所属 appartenenza completa へ進む、ある“所属の度合 grado di appartenenza ”を規定し、そして、各々の要素が〔複数の〕他 gli altri からの差異において定義される場です。極値 le estremità で、そして、(Miller が私たちに言及するように)そこにおいて“人間的な諸事物の真理 la verità delle cose umane”と、私たちの日々のパンである“確実ではない non è sicuro”の場を見出す、ガウス曲線におけるような、およその半鐘形で、“根本的に反対 radicalmente opposti”が見出されます。

ファジー論理は、ある二値の論理ではありません。反対の二つの価(例えば真/偽)のあいだで、多数の値(0 と 1 のあいだに連続性がある)が定義され得ます。多数の値 valori multipli にある一つの論理であり、そこで真理の異なった度合が位置を見出します。ファジーな諸集合の理論において、無矛盾の、そしてここで要約された結果のような排除された第三項の、アリストテレス的諸原則は有効ではありません。

4.

古典的諸集合が私たちに、所属と同時に排除の正確なある定義を与えることを許す一方、不確定な縁の諸集合は、違った方法で、(ある所有からその補足への移行の)境界 la frontiera の問題について、そして、秩序=順序 l'ordine が根拠をおく所属 appartenenza についてよく定義された、あの基準の欠如を評価することに同意しながら、極限 il limite の問題についての疑問に合致します。

Lacan は、そこでは想像的なもの、象徴的なもの、そして現実的なものが、ヒエラルキー的に異ならない結び目 i nodi を導入しつつ、秩序=順序 l'ordine を問いただし、それを審議に付します。このように“秩序=順序の効果から結び目の効果へ Dall'effetto ordine all'effetto nodo”(※) の移行を提出します。そして、記します。“ordine の概念—後に言うように、それは独創性 l'originalità を承諾しない—は、私を妨害し、そして私は、他の何か(それは、結節点 la nodalità に存する)を示すことで、それから脱しようと試みる”。

※J. Lacan, Le non-dupes, lezione del 15/1/74

さらに、セミネール R.S.I. —75年2月11日の講義—の中で Lacan は、(一 uno に他 l'altro をもたらす穴における、一 uno の移行の相互関係はないという意味で)一 uno が他 l'altro に結ばれない、連鎖しないことを明確にします。象徴界、想像界、現実界のあいだの関係はこれです。ボロメオの結び目は、このように分離における結び目、結び目における分離の一つのモデルを提供します。

5.

2008年3月の講義において J.-A. Miller は言います。“結節〔交点〕の精神分析 la psicoanalisi nodale は、私たちが流体の精神分析 psicoanalisi liquida と呼ぶことから、再び位置づけられることにたどり着くでしょう”。そして、続けます。“結び目 il nodo は、精神分析の流体の状態に適合する構造が持続することを思考できるようにすると言われ得るでしょう。結び目は、流体に属することと構造のあいだのある分節を私たちに提供します”。“Lacan が示唆するように、もし結び目が流体の精神分析に相応しいなら、解読を(享楽の出来事についてのある外科的作用の)切れ目の効果と相対的とみなす必要があります”。
こうして、ランガージュとララングの差〔開き〕の、無意識の諸形成物と身体の出来事の差異の、欲望と享楽の意味の、流体のパロールについて言及した後、講義を締めくくります。
続く講義においては、満足の経験 esperienza di soddisfacimento として精神分析について話すでしょう。
ここで私は、図案の下に私が置いた引用の“倒錯の利得 beneficio perverso”に再び結びつきます。“人が享楽することのできるモードについて、少なくとも一つの理念—近似的論理 logica approssimativa—を少なくとも持つこと”。


そういうわけで、流体の精神分析にうまく適うある他の論理 un'altra logica—ファジー論理のような—によって、大他者 l'Altro の介入のない、しかし構造なしではない同時代性に合致することが問題です。

Il fantasma, un concetto fondamentale per la psicoanalisi?

2016-09-05 23:00:15 | 試訳
〔以下は、「幻想、精神分析についての基本的概念?」という論考からの抜粋である。番号は、文章の纏まりと区切りに応じて、引用者が示した。〕


1.

私たちを現実性 la realtà から逃れるままにされることからはなれて、幻想がその場面に現実性を与えることは、フロイトが、幻想的な局面の方が事実的な局面よりも記憶におけるトラウマ的価値がより多いことを識別した契機において、うまく特定した事柄である。
彼はその時、ある無意識的な力が人間に、経験と記憶に再び型を作ることを仕向けることを認識し、そこで原初的欲望 il desiderio primario の効果を認める。
諸幻想は、このアルカイックな欲望の効果とアクチュアルな諸欲望の原型 la matrice になる。
夢 i sogni、言い間違い i lapsus、失策行為 gli atti mancati の起源においてあるのは、知覚と記憶を変形するそれらである。それらは、マスターベーション的な諸活動を誘発し、白昼夢の中で自らを表現し、ついには偽装した〔マスクをかぶった〕方法で、主体の職業的、関係的、また情動的な諸選択によって自己実現しようと努力する。


2.

幻想は、S/◇a により与えられた公式である、シニフィアン的な構成 una composizione significante 以外ではなく、二つの特性を持つことを意味している。フレーズ una frase、斜線を引かれたものとしての主体 S/ を生じさせる発話 un enunciato と、他方は対象a の現前 la presenza d'un oggetto a である。

確かに、幻想の機能は、その現実化は禁止され、より根本的には不可能であるので、空想の生 le vie della rêverie についての淫な享楽についての探究を呈することにある。
その現実化は、ランガージュと同様の事実のために不可能であり(ランガージュは主体を、存在と思考のあいだで根本的に分割する)、このため、私はあなた方に、ラカンがなすデカルト的“コギト cogito”の解釈を参照させる。実際、存在の完全性の概念は、完全に現実化された享楽への主体のこの狙い mira である。
しかし、存在は(デカルトが信じていたこととは逆に)ランガージュが表す思考に反対するので、治療の手段(ランガージュ)は存在の(したがって享楽の)ある喪失を意味する。
主体はそれ故に、言葉の知 il sapere delle parole と彼が取り戻そうと空想する失われた享楽 un godimento perduto とのあいだで、根本的に分割されている。
そして、それらの局面の一つを介して、このような(ランガージュのせいで不可能であるよりも神話的な)享楽を現実化することを誘惑し、他方ではこの享楽の執行停止〔権限剥奪〕を考慮する、幻想の逆説的で矛盾したアスペクトがここにある。
これがトラウマ(主体が認めようとはしないで、ファルスに同一化することで避けようと試みるこの分割)である。
ファルスへのこの同一化は、幻想への堅固さ〔コンシステンス〕を与えるだけでなく、エディプス・コンプレックスの違った二つの状況(母の享楽と、父の機能を提出するこのような享楽の禁止)のあいだの、中間また中心的なポジションを占めるだろう。


3.

治療が中断されるのは、この点で頻繁である。なぜなら、その知で“武装され”、幻想に対する防衛でその諸症状からしばしば解放された主体は、その幻想を現実化できるだろうからであり、そして招き入れる歓喜の瞬間の向こう側のこのような現実化は、行為よりも、可能な行動について、婚姻、父性、母性、社会的成果の刻印を与えながら、時折ポジティヴな効果を持つからである。
しかし、幻想の構成に先行するこの段階で、主体はいまだ、それの原因になることについて完全に無知である。幻想の構成の時間が本質的であるのは、このためである。


4.

幻想の横断 traversata del fantasma(つかの間の時間なので横断)の用語を提出した時に、ラカンが主張したことは、その経過において、主体は彼の幻想は、現実的なもの il Reale の支えきれなさを前にしたあるスクリーン〔防御、保護、遮蔽〕でしかない事実の尺度を受け入れるだろうということである。その中で、主体がある単純な切れ目でしかないものに縮減され、対象がある無、ある対象の欠如に縮減される、脱存在 desêtre (de-essere) の時。
生に欠かせないこの克服(ある幻想の再構成の結果)は、Melman の公式によれば、主体に彼の幻想に関して再び分割されることを許すに違いなく、こうした幻想とその機能についてのある知のおかげで、主体にもはや遊び道具(盲目の犠牲者)にならないこと、そして、より代価の高い〔大きな犠牲を負う〕様式に与しないことも、大他者 l'Altro は存在しないので、大他者を存在させるためにもはや犠牲にならないことを許すだろうということである。


5. 〔残された幾つかの問題について〕

- まず初めに、幻想と無意識のあいだの諸関係。一つの知 un sapere が可能であるのは、確実に無意識の形成物からである。R. Chemama とJ.P. Hiltenbrand の叙述はそこからそれについて、より正確に語る。私の方からは、しかしながら幻想はその中で、治療のあいだに構成されることを要求する、(解釈に向けた主体ではない)一つの閉集合 un insieme chiuso を構成する尺度において、無意識の形成物とは違うことを提示しようと思う。
- 幻想と症状のあいだの関係の問題。それは単純ではない。しかしながら急いで、フロイトが注記したように、諸症状は幻想から派生すると言いましょう。苦しみによって、身体はある矛盾した享楽 un godimento contraddittorio へ統一性を与えることを試みる。苦しむことは人間に、固有の存在と、同時に彼の無実の試練をもたらす。何故なら、苦しむ人はいつも、出来事を彼の運命のせいにすることができるからであり、したがって人間はこのように、彼の諸症状に愛着をもっている〔執着している〕からである。
- 他の問題は、幻想と構造のあいだの関係のそれである。それぞれの主体にとっての根本的構造として、そしてそれはラカンがマテーム S/◇a の文字によって強調したかったことであるかぎりで、幻想は普遍性の部分に住まうのだから、部分的には幻想と構造は同じ事であるでしょうと私は言いたい気にさせられる。このようなマテームに基づき、彼は私たちにヒステリー者の幻想と強迫症者の幻想の特殊な幾つかの公式を与えた。Patrick De Neuter はヒステリー者の幻想について、J.M. Rebeyrol は恐怖症のそれについて、そして G. Balbo は倒錯のそれについて話すでしょう。


Janine Marchioni-Eppe
Associazione lacaniana internazionale TORINO


【関連記事】
Che cosa è la scrittura del fantasma? – di Jean-Jacques Tyszler
Le Pulsioni – di Jean Pal Hiltenbrand

精神分析家の行為とそれに住まう欲望

2016-08-26 22:30:46 | 試訳
--L'atto dello psicoanalista e il desiderio che lo abita, Rosa Elena Manzetti


精神分析は、(他の全ての人間的な諸生産としての)一つの症状であるが、その対象は各々の話す存在 parlessere が組み立てることに固有で、そのことのために更に知らずに、快楽 il piacere と死の欲動 la pulsione di morte を満足させるための機会の最も大きなものを得ようとしながら存在において立脚するため、同時にまた他の全ての人間的な諸生産とは違う。そのように話す諸存在に、それらの取り違え〔勘違い〕同様に対象さえも忘れることを強いるある占有のことである。それらの直接の要求の彼岸で、何が話す諸存在を動かすのか?

精神分析家はひょっとして、この要求への返答を持つだろう人だろうか? 彼は症状の原因であるシニフィアンを知り、去勢が実行にある時、ファリックな意味作用 la significazione fallica と人がしがみつく〔かじりつく〕ところの剰余享楽 il più-godere が同一であることについて知ると、私たちは言いましょう。

分析家の知は、不能の知 il sapere dell'impotenza(すなわち、分析的治療の行程が照準を合わせる SsS =知の想定された主体の盲目な路地)と不可能の知 il sapere dell'impossibile(パスの装置において目的とされる分析的行為についてのある知)のあいだで揺れ動く、ある逆説的な知である。

実際、分析的知 il sapere analitico を無意識的な知 il sapere inconscio から区別することが必要である。無意識の知は、解読可能である主体なきある知であり、ところが一方、分析的知は行為についてのある知、シニフィアンを通して接近できないある知、知のゼロ地点である。

分析におけるある主体を、他の分析家たちを生み出すための場が占めるべき対象a のこの見せかけ sembiante の場についての知であるところの、知の恐怖の方へ導く、行為の恐怖に直面することが問題である。

しかしながら、ラカンは精神分析家に行為のポジションに留まらないように促す。彼は、無意識との関係を更新し、分析家の欲望を再生するために、精神分析家に分析主体に再びなること、分析主体の道と分析的行為を交互にさせることを促す。分析家の欲望はしたがって、分析的知に与えるべきある貢献を内包する。

分析家の側の解釈の水準で想定されるのは、分析的行為(ほとんど議論されない概念)である。

まず最初に、分析家のポジションはその非-行動 non-agire から特徴づけられているので、精神分析における行為について語ることは一見矛盾しているように思えるであろうことに、私たちは気づく。制度〔施設〕における臨床についてのセミネールの一つのために仕事をした人たちが私たちに解説するように、事実は、行為 l'atto は行動 l'agire ではない。行為は常に、ある言うこと un dire に根拠がある。

ラカンは、彼のセミネール『精神分析的行為』、そして 『他のエクリ』で公表された「パリ・フロイト学派での講演」の彼の発言の中で、パスは、分析主体から分析家への推移はまさに分析的行為の問題であるので、その中で現れる瞬間において確証されうる行為による契機であることを、浮彫りにする。

ラカンは、彼の教えの全編成に沿って分析的行為について従事するが、特に1967年以降、分析的行為についてのセミネールの中で、『他のエクリ』で公表されたこのセミネールの報告で、セミネール『一つの大文字の他者から小文字の他者へ D'un Autre à l'autre』の1969年6月4日の講義において、専念する。

分析家が、分析家に関する彼の規定をそこから引き出す分析的行為はどのように特徴づけられるのか? セミネール『精神分析的行為』の中で、ラカンは私たちに、その行為における精神分析家は、(欲望の原因の対象の役割の)知のあるプロセスの中で、支えとして提供されると述べる。このことは、幻想によるある種の親密さを持つ、したがって幻想の基本的諸要素を明らかにする、シニフィアン的現実化以外は問題でない知の原因となる。私たちは70年代の終わりにあり、そしてラカンは分析の終わりは幻想の横断 l'attraversamento del fantasma により構成されることを考察する。

分析的行為が存在するように、分析家がその主体のための欲望の原因対象の見せかけの場を引き受けるだけでよいのではないことに私たちは気づき、欲望の原因対象の支えのそのポジションにおいて身をささげることが、続いて分析において獲得された知に結び付いた知のある種のプロセスの中で為される必要がある。

この知はラカンによって、治療から導かれる分析家の利益として使われていない。彼の位置は、知の受益者であることには属さず、啓示の手段である。このことは、分析家のポジションを特徴づけ、そして分析家の資格を制定する知ではないことも意味する。このことは、それどころか確かに、精神療法家が諸症状とそれらの治癒に関する決定された諸問題の上のある知の保有者と見なされる、精神療法の領域の共同体より、留意がいる。

もし、欲望の原因対象は行為のボルト〔支え〕であるなら、これは主体のため以外に、分析家が仕事をするためにあることを意味する。このため、ラカンは分析的行為にある精神分析家は考えないと述べる。対象の見せかけとして、そして知の主体としてではなく機能する限り、分析主体は、最終的に彼を支えていた知の分析家を主体的に解任するに至るために、(転移の源泉である)知の想定された主体における信でもって始められた全行程をなすべきだった。ここに、分析的行為の一つの特殊性がある。

精神分析家は、行為が主体を変える一つの言葉 un dire において到来するので、SsS のこの機能を原因におくことのできる唯一の者である。

ラカンは、(行為の観点から)本質的なことは、分析の終わりにおいて分析家が分析主体にとって、欲望の原因対象になることではなく、分析家は最初の頃から全過程に沿って、欲望の原因対象の見せかけとして巻き込まれいているということであるという事実について、とても強く主張する。

もし、対象が突然に現前していて、それについての分析家がその支えなら、やはり彼は対象であるのみならず、それを扱う変化は治療の経過の中である種の攻撃性を持っている。そのため、たとえ欲望の原因対象が治療の始まりから現前しているとしても、作業の終わりで対象は現実的なもの、言い換えれば分析主体により棄却されたものにおいて再び現れるので、分析主体の当然の仕事は全て必要である。そして、分析家はこの排斥された対象を代理するのみである。

ラカンの理論における分析家のポジションと介入

2016-08-22 19:20:41 | 試訳
--LA POSIZIONE E L'INTERVENTO DELL'ANALISTA NELLA TEORIA DI LACAN


■解釈
INTERPRETAZIONE

解釈の再認 il riconoscere nell'interpretazione が精神分析家の仕事というのは、広く流布した一つの意見であり、この着想は分析家を、言い間違い、症状、つまり無意識の表出の解読〔判読〕者のポジションと機能の中に据える。

ラカンの教えにおいて、解釈の概念は決して精神分析の基本的諸概念の一つを構成しなかった。
ラカンは分析家の仕事の上に中心化された分析的解釈の理論を批判し、彼によれば解釈するのは無意識である。
もし、解釈する者が無意識なら、沈黙において聴取しながら、言葉を自由にさせる必要がそれにはある。この理由でラカン派分析家は、沈黙の聴取のポジションにある。
ラカン的解釈は従って、ポストフロイディアンのそれとは異なり、シニフィエには向かわず、シニフィアンに向かう。

■ラカンにおける解釈についての前提
PREMESSE SULL'INTERPRETAZIONE IN LACAN

- 単一の理論は存在しないが、一連の進展があり、エクリとセミネールに由来する知識を再調整する。
- 中心点は常に、シニフィアンの構造の象徴的登記への解釈の係留 l'ancoramento にある。想像的なものの象徴化の効果から、享楽の効果へ向かうことにより、彼の方向を変える係留。
- ラカン的解釈の一つのスタンダードは存在しないが、ラカニアンたちが避ける解釈の二つの形態がある。転移の解釈 l'interpretazione di transfert と意味論的解釈 l'interpretazione semantica である。転移の解釈は、ディスクールの意味が分析家との転移的関係へ引き戻されるための解釈である。意味論的解釈は、分析家が患者の言表の無意識的意味〔シニフィエ〕il significato inconscio degli enunciati del pz をさらすことを介するある様式である。
この解釈の二つの形態は、禁忌される。何故なら、1) 解釈するべきは分析主体に関する原則に違反する。2) 意味論的解釈の効果は、分析家の権威によって支えられているため、ある間違った主体性の点の上で、分析主体の練り上げ〔推敲〕のプロセス il processo di elaborazione dell'analizzante を妨害する。

■他者と享楽のあいだの精神分析的意味論
LA SEMANTICA PSICOANALITICA TRA L'ALTRO E IL GODIMENTO

精神分析的意味論は、分析主体により産出された一つの意味論であり、分析家の任務は彼の仕事の中で、それを支え、従ってそのディスクールに何も付け加えないことである。

■再認と句読法のあいだの解釈
INTERPRETAZIONE TRA RICONOSCIMENTO E INTERPUNZIONE

実際、この意味論の中心に存在するのは、欲望 desiderio と欲望の欠如 mancanza di desiderio の概念である。論文「機能と領野」における精神分析的意味論は、再認の欲望 desiderio di riconoscimento と欲望の再認 riconoscimento di desiderio の二重の公式における、再認のヘーゲル的概念の周りを回る。
再認の欲望の概念により、ラカンは真理から離れた神経症的主体(その分割された自己意識 il suo sentirsi diviso)のポジションを示そうとする。彼は何を望むか知らないで、自身の外で、他者との関係において、自分の欠如への返答を探す。主体は従って、彼の真理は何に由来するかを彼に告げるのは、他者 l'altro であることを期待するポジションにある。しかしながら、彼の真理を再認させることのできる他者は存在しないので、このポジションは主体に絶え間ないフラストレーションの刑を告げる。主体が他者において彼の真理を見出すことのできるという要求を放棄する時のみ、彼は主体化の行程(=精神分析)を始動させること、つまり由来する歴史と和解することができるだろう。
欲望の再認はまさに、その中で主体が彼の真理を見つける和解のこのプロセスに存する!!!

この再認が心に留めることを通過する方法は、句読法として解釈により与えられる。分析家は、主体を彼自身のパロールに含まれた真理を承認するように導きながら、無意識の解釈を浮彫りにする第二の契機に介入する。分析家は、ディスクールのどのような部分がより重要かを、どんな他者よりもよく知っている。

■換喩的-喚起的解釈
INTERPRETAZIONE METONIMICO-ALLUSIVA

ラカンはフロイトの圧縮と遷移〔移動〕の基礎知識を、隠喩と換喩の概念に翻訳し、これら諸概念を、あるランガージュとして構造化された無意識の機能の基本的諸法則にまで高める。症状は隠喩として特徴づけられ、一方、欲望は換喩としてである。
圧縮→隠喩、ある唯一のパロールにおける圧縮
遷移→換喩、他の諸連想によるある観念 un'idea の置換〔代入、代理〕

欲望はもはや主体の真理についての無意識の意味ではなく、存在欠如 la mancanza a essere の換喩である。もし欲望は換喩であり、欲望は解釈であるならその時、分析的解釈の構造自体は換喩的である!! ???

■幻想の意味論から寄せ集め〔混合〕の意味論へ
DALLA SEMANTICA DEL FANTASMA ALLA SEMANTICA MISTA

60年代の講義の中で、ラカン的教義における、ある混合物の意味論 una semantica mista が発展する。
一方で、幻想とリビードの意味論が、他者 l'altro から(特に、欲望の他者 l'altro del desiderio から)構造化し、そして無意識の意味作用 la significazione inconscia の中心としての幻想の概念の周りを回る意味論として、検討される。
他方、幻想とリビードの意味論は、そのことをある曲がり角に導くだろういくつかの理論的矛盾を開く。現実界の登記のその練り上げの中心の置き直しと、ラカンがその中で享楽の現実界を組み込む寄せ集めの諸公式 le formule miste と、主体がその中で構成されるシニフィアンの構造における対象の始動である。??

〔訳注:?? が末尾に記されている一文は、文章の構造上、次のようにも解釈はできる。筆者自身、判断し兼ねているようにも思えるが、以下にもう一つの訳文を掲載しておく。

→現実界の登記のその練り上げの中心の置き直しと、ラカンがその中で享楽の現実界と、そして主体がその中で構成されるシニフィアンの構造における対象の現実界を組み込む寄せ集めの諸公式 le formule miste の始動である。〕

■解釈 VS 行為
INTERPRETAZIONE VS ATTO

70年代から晩年まで、享楽から一つの意味論は構築するだろう。この骨子においては分析における主体のパロールは、大他者 l'Altro に向けられず、享楽の支え supporto do godimento である ??

■分析的行為
L'ATTO ANALITICO

ラカンは分析家の存在の問題に、その欲望の側面からのみならず、その行為の側面から取り組む。
最初はラカンは、(後にするように)行為 atto と活動 azione のあいだを区別しない。続いて、それらを区別し、事実、行為だけではなく、また活動だけではないのも同じく、しかし、行為が活動の芯 il cuore を設立し、行為なくしてある初まり un inizio は存在しないだろうと主張する。ラカンはルビコン河を渡るシーザーの決心により、行為の一つの例を引く。
行為の諸次元:
1) それを成し遂げる主体についての行為の変化的-変形的次元:行為が不可逆的な変化を導き入れたために、主体はもはや以前のそれではない、一度完結した行為。象徴的な限界を越えて行くこと。
2) 行為の瞬間的-断続的次元:それは、最初と後のあいだにある切れ目を導入する。
3) 違反〔侵犯〕的次元:それぞれの真の行為は、コード、法を越えることをもたらす一つの行為である。
4) 行為の保証のない次元:それは他者 l'altro により権限を与えられてはいないが、選択、そして外部のどんな保証もない一つの行為は、決断することを求められた主体に代わりうる。

分析的行為はそれぞれの分析の開始に介入し、そして行為は言うことによって生じ、しかしとりわけ、行為は享楽の水準に現れる。

精神分析的臨床は転移の下での一つの臨床なので、行為は転移的な座標の外では見つけえなく、転移の一つの支えである。

分析的行為を介して、どのようなことが分析の終わりに分析家に帰せられるだろうか知らないふりをしながら、分析家は分析の開始と知の想定された主体の創設を認可する。最初の分析的行為は、歪曲された知の想定された主体でもって機能する。

分析家と彼の行為の運命は、廃棄された-対象 oggetto-rifiuto の純粋な機能へと凋落するそれである。この意味で、その結末にある分析的行為は悲劇的行為に例えられる。運命は捨てられた存在のそれである。

■分析家の欲望
IL DESIDERIO DELL'ANALISTA

分析家の人格の主体性、つまり分析家の諸感情とは関係はないが、分析的関係の内部の彼の象徴的ポジションにおける分析家の存在に収まる一つの機能である。
分析家の欲望は、分析主体をその内容物で満たすように仕向ける彼の内容物を欠いたある操作的機能として形成される限りにおいて、分析的治療のボルト〔支え〕である。

■フロイトの欲望
IL DESIDERIO DI FREUD

何年かのあいだ、ラカンは分析家の欲望とフロイトの欲望のあいだのある等価を支持した。フロイトの欲望については、表現の客観的意味を含意し、つまり、フロイトにより着想された概念に注目する。

■分析家の欲望
IL DESIDERIO DELL'ANALISTA

治療において作用することであるに加えて、分析家の養成において決定的なファクターでもある。自然な欲望ではなく、それに従い、分析主体のポジションから分析家のそれへの移行を成し遂げるに至るそれらの主体において、分析が産出する未だ知られていない欲望である。


DOMENICO COSENZA

陰性転移:治療学から症状へ

2016-08-18 21:03:02 | 試訳
--Il transfert negativo: dalla terapeutica al sintomo, Alejandro Reinoso

フロイトにとって、陰性転移 il transfert negativo は第一に、分析すなわち無意識の解読に障害をなしていた、ある敵対〔敵意〕の感情だった。しかしながら、それは治療への抵抗、つまり連想の中断 arresto delle associazioni として、恋愛性転移 il transfert erotico を用いるようにして、私たちに働きうるということを告げるだろう。フロイトは、陰性転移は“治療しうる”精神神経症 le psiconevrosi “curabili” における愛情転移 il transfert tenero と一緒に生じることを明確にするため、ブロイラー Breuler の“両価性=アンビヴァレンス ambivalenza”の用語を再び取る [1]。転移の取り扱い〔使用、操作〕に関しては、それは基本的な動因として、解釈とセッティングの条件を参照させる。そのために、フロイトが『終わりある分析と終わりなき分析』の中で述べるだろう、陰性転移の白熱した地帯を通過しない、最後まで導かれた分析はない [2]。したがって、フロイトにとってこの転移は、袋小路の類いに属するある現象ではなく、むしろ構造的である。

ラカンは、知の想定された主体から転移を定義する。しかし何が、陰性転移の中で知によって生じるのか? 陰性転移は、誰かの目の特徴を受け継ぎながら(この場合は、分析家の)、つまり点検し、または疑いながら、縮減〔退引〕する。このように初期のラカンは、転移における攻撃性の想像的ライバル意識〔競争、対抗意識〕の眺望のさらに先に進む。

ミレールは、私たちに知らせる。


“疑念は知の低い段階〔水準〕であり、証言が利用できないので証明できないある知である。まさにこの理由により、疑念はとても固執する〔しつこい、頑固である〕。人が証言を自由にする時、問題は完結したと見なされる。反対に、疑念は開かれたある縁〔余白、欄外〕を残す” [3]。


“疑念の下の sotto sospetto”分析家は、開かれた縁にあるこの知の照合〔確認〕の帰結である一方、解釈は常によこしまな〔悪い〕斜面の上にあり、神経症的信念の流れの上でもあり、パラノイアの確信の流れの上でもある。陰性転移は分析家の知に向かってはないが、分析家の存在(それは、憎しみの対象になりうる)と関係がある。しかし何故、憎しみは分析家の存在へ向きなおるのか? 主体の眺望から、(アガルマ的対象としての)分析家は主体を存在欠如 la mancanza-a-essere に対決させる。

症状と陰性転移の関係はどのようなものか? 分析家は症状の治療上の機能を解き放ち、同様の症状のエゴ〔自我〕同調的な egosintonico 均衡をかき乱す [4]。このように、享楽の安定性のズレ、つづいて招来する喪失により、大他者への敵対〔敵意〕が浮かび上がる。

知についての愛、無意識における信、そして話す症状の場は分析の旅立ちを開き、“分析的ドラマの開始の結び目 il nodo inaugurale del dramma analitico”を入り込ませる。ラカンが陰性転移を、精神分析における攻撃性でもって in L'aggresività nella psicoanalisi 定義するように。その中で“知の想定された主体 il soggetto-supposto-sapere が‘パロールを想定された症状 sintomo-supposto-parola’であり、そして分析的実践が症状の言葉を検証させることに由来する” [5]一つの論理によって。

愛について

2016-08-08 22:30:38 | 試訳
--Sull’amore. Intervista a Jacques-Alain Miller
「愛について:ジャック=アラン・ミレールへのインタヴュー」


Psicologies〔以下、P〕: 精神分析は、愛について何か教えるでしょうか?

Jaques-Alain Miller〔以下、M〕: とても、愛がきっかけである一つの経験ですので。自動的な、そして多くはしばしば無意識的な、分析主体が分析家に抱き、人が転移と呼ぶその愛が問題です。それは一つの虚構の〔偽の、見かけ倒しの〕愛ですが、真の愛の同じ布地にも属します。その力学は明らかです。愛は、私たちの本当の真理について知っていると考えられる人に向かうのです。しかし、愛は、この真理が愛すべきで、心地よいだろうと想像することを許す一方で、事実は、非常に支えることが困難です。

P: それでは、愛は実は何を意味するのでしょうか?

M: 愛は実際は、何か、それを愛しながら、自分自身についてのある真理に人が接近できると信じることです。人は、その返事、または私たちの《私は誰? Chi sono ?》という問いへのある返事を大切にしまう彼または彼女を愛するのです。

P: なぜ、何人かの人は愛することができ、他の人はそうではないのでしょう?

M: ある人たちは、他者の中に愛を引き起こすことができ、それは恋愛関係、いうなれば、男と女です。それらのボタンを、愛してもらうために、彼らは押すことができます。しかし、彼らは必要で愛するのではなく、むしろ彼らの獲物で追いかけっこをします〔訳注:直訳すると、猫とネズミで遊ぶ〕。愛するため、人は固有の〔自己の〕欠如を受け入れ、私たちに欠けている他者が必要であることを認めるべきです。ひとりで完全な存在であると信じる人たち、またそうあることを望む人たちは、愛することができません。そして時折、彼らはそのことを、苦しみで確かめます。彼らは誘導し、集団を魅了しますが、愛の冒険と歓喜は知りません。

P: 《ひとりで完全である》、ただある男のみ、これを信じられる…

M: その通り! ラカンは《愛は持っていないものを与えること》と言ってました。このことが意味するのは、愛することは固有の〔自己の〕欠如を認め、それを他者に贈ること、他者の中にそれを据えることです。人が所有しているもの、幾らかの財産を与えるではなく、幾つかの贈り物は、自分自身の限界を超える、所有していない何かを与えることです。このため、人は固有の〔自己の〕欠如、固有の〔自己の〕《去勢 castrazione》を、フロイトが言っていたように請け合うべきです。そしてこのことは、 本質的に女性的です。人は実はただ、ある女性的なポジションからのみ愛します。愛することは、女性化します。この理由で、男性において、愛は常に少し喜劇的です。でも、もし人が滑稽さ〔馬鹿らしさ、たわいなさ〕から臆病なままなら、それは実際には、自分の男らしさについて自信がないからです。

P: 愛することは男性たちにとって、少し難しいようですね?

M: もちろん、そうです! 恐らく、恋をした一人の男は、この愛は彼を不完全さ、依存のポジションに置くので、彼の愛の対象に対し、傲慢さ〔プライド〕の爆発、攻撃性の振動を持ちます。このため、愛した時に、不確か〔宙吊り〕になった男性的ポジションを取り戻すように、愛していない女を欲望することができます。フロイトが、男性における《愛情生活の堕落〔低俗〕degradazione della vita amorosa》と呼んだのは、この原理です。愛と性的欲望の分裂 la scissione dell'amore e del desiderio sessuale です。

P: そして、女性においては?

M: より一般的ではないです。しばしばよくあるケースでは、男性的パートナーのある分割 un sdoppiamento があります。一方では、彼女らを楽しませ、彼女たちが欲するのは、愛人=恋人 l'amante です。しかし、女性化され、必然的に去勢されているのは、愛する男 l'uomo dell'amore でもあります。しかし、“一つの男性的ポジションを選ぶ女性たちがいる”を命じるその解剖学はありません。それについては常にそれ以上です。家での、愛のための一人の男性 un uomo per l'amore と、インターネット上で、道路で、電車の中で出会った、享楽のための何人かの男性たち degli uomini per il godimento …

P: 《常にそれ以上》?

M: 女性らしさと男性らしさの社会文化的な諸ステレオタイプは、最大に変化〔変異〕しています。男性たちは、その適切な諸感情〔刺激〕を受け入れ、愛し、自ら女性化するよう促され、それに反し、女性たちは、法制上の名の下に、ある種の《男性への衝動=衝迫 spinta all'uomo》を示し、《私も anche io》を繰り返して言う傾向があります。同時に、同性愛者たちは、結婚や親子関係のような、異性愛者たちの権利と象徴の回復要求をします。ある時代の不変性と対照をなす、多大なる役割の不安定さ(愛の劇場の一般化された流動性)に由来することです。愛は、社会学者ジグムント・バウマン Zygumunt Bauman が認めた、《流体 liquido》になります。各人は、固有〔自己〕の個人的《生のスタイル stile di vita》を発明し、楽しむことと愛することの固有〔自己〕のモードを引き受ける傾向があります。伝統的なシナリオは次第に古くさくなります。彼らに順応するように仕向ける社会的情熱は消滅はしていませんが、減少していっています。

P: 《愛はいつも、交換し合う L'amore è sempre reciproco》と、ラカンは言ってました。それ今日の文脈においても、まだ真実ですね? これは何を意味するのでしょう?

M: このフレーズは、それを理解することなく、あるいは誤解〔勘違い〕しながら繰り返されています。彼〔その人〕が私たちを愛するように、誰かを愛すれば十分という意味ではありません。馬鹿げたことでしょう。こう意味します。《もし私があなたを愛するなら、それはあなたが愛すべきだからです。愛するのは私ですが、あなたも巻き込まれています。何故なら、あなたの中に、私があなたを愛することを引き起こす何かがあるから。一つの堂々巡りがあるので、相互的です。あなたのために私が育む愛は、あなたが私のために存在する愛の原因に由来する効果です。したがって、何かのための余裕〔ゆとり〕があります。あなたにとって私の愛は、ただ私だけの事ではなく、あなたの事でもあります。私の愛は、おそらくあなた自身知らないあなたについて、何かを告げます。》これは一方の愛が他方の愛に返事をするだろうという保証はまったくありません。この事は、生じる時、常に奇跡の配置 l'ordine del miracolo に属し、前もって計算できません。

P: 固有の全ての人、偶然に固有の全ての人には出会われません。何故、彼なのでしょう? 何故、彼女なのでしょう?

M: フロイトが Liebesbedingung と呼んだこと、愛の条件、欲望の原因があります。それは、ある人々のため、愛の選択において一つの決定的な機能を持つ、特別な特徴 un tratto particolare —あるいは諸特徴の集合 un insieme di tratti —です。このことは、各人に固有であり、単独で内密の固有な歴史に依存しているので、完全に神経科学から逃れます。時折、ごく僅かの諸特徴が動き始めます。例えば、フロイトは彼の患者たちの一人における欲望の原因として、一人の女の鼻の上のあるきらめきを識別していました。

P: 愛がこのような些細な事柄の上に基礎〔根拠〕を置かれていることは、信じ難いです。

M: 無意識の現実性は、見せかけ〔虚構〕を超えます。人間的な生においては、また特に愛においては、人が似たような些細なこと、くだらないこと、《神々しい細部 dettagli divini》に根拠を置く、全てのことの理想がありません。私たちが、フェティッシュのような、その現前が愛のプロセスを駆り立てるのに不可欠である、欲望の原因を見出すのは、とりわけ男性において、ということも真実です。私たちが、父、母、兄弟、姉妹、幼年期のある種の重要人物に引き寄せる最少の諸特殊性 particolarità minime は、女性たちの愛の選択における役割のそれらも擁しています。しかし、愛の女性的形象はしばしば、フェティシストよりもエロトマニア的です。女性たちは愛されること、そして関心、私たちが彼女たちに表明する、または彼女たちが他者の中に想定する愛を望み、しばしば、彼女たちの愛、または少なくとも彼女たちの同意を解き放つ、一つの絶対条件です。現象は、男性的牽引から成り立っています。

P: どの役割も、ファンタスムに原因がないのですか?

M: 女性たちにおいて、意識的か無意識的かよりも、愛の選択によってより、彼女たちは享楽のポジションに対して決定づけられています。男性たちに対し、逆が役立ちます。例えば、まさに行為の最中に、叩かれ、汚され、また一人の他の女であること、あるいはまた別のところにいて、放心しているとただ想像するだけで、ある女性が享楽を達成できること—オーガズム、と私たちがいう—が生じます。

P: ところが、男性的ファンタスムは?

M: 一目惚れにおいて、とても顕著です。ラカンによって注釈された古典的な例は、ゲーテの小説の中における、彼女を初めて見た時、彼女を取り巻く悪漢を心に抱きながらの、若きウェルテルのシャルロットに対する突然の情熱です。ここに、愛を爆発させる女性の母親的態度の身分があります。私の実践で扱われた、ある他の例はこうです。ある50歳のボスが、秘書のポストのため、候補者たちと面会します。20歳の若い女性が現れます。彼はすぐに自身の愛を打ち明けます。何が急ぐ原因か彼に尋ねられ、分析に入ります。そこで全てこのことが突発したということを発見します。彼において、彼が最初の就任のために出席した時、彼自身20歳の時だったということを呼び起こす、いくつかの特徴を再発見しました。ある種のやり方で、彼は自分自身に恋をしました。この二つの例において、私たちはフロイトにより区別された二つの斜面を再発見します。人は、自分または保護する人物(この場合、母親)を愛する、さもなければ自分のナルシスティックなあるイメージを愛する。

P: 操り人形 le marionette である印象が持たれます。

M: いいえ、一人の男と一人の女のあいだには、前もって何も書き込まれてませんし、何の羅針盤も、予め定められた関係もありません。彼らの出会いは、精子と卵子のそれのようにプログラムされていません。遺伝子とすら関係は何もないです。男たちと女たちは、ディスクールのある世界 un mondo di discorso で話し、生き、決定的であるのはこれです。愛の諸様相は周囲の文化にとても敏感です。それぞれの文明は、それが関係を構造化する方法によって、性別の間を区別します。目下、西洋文明で、同時に私たちの自由主義的、商業的、司法〔法制〕的社会において、《多数性 molteplice》が《一 uno》を退位〔失脚〕させています。《全ての生の偉大なる愛 grande amore di tutta la vita》の理想的模範は、speed dating、speed loving と選択的で、連続的、同時的でさえある愛のシナリオの全盛を前に、劣勢になっています。

P: では、継続する愛は? 永遠のは?

M: バルザックは言ってました。《永遠であると信じられない、どうな情熱も残酷極まりない。》しかし、情熱の調子による全ての活気で、絆は支えられるでしょうか? 一人の男が、ただ一人の女に献身すればする程、彼女は彼のために、ある母性的意味作用 una significazione materna を引き受ける傾向があります。彼女が愛されれば愛される程、崇高で触れることができなくなります。女性のこの崇拝をより多く発達させるのは、移された〔遷移された〕同性愛です。アラゴンはエルザのための固有の愛を歌います。死ぬやいなや、何とまあ! ところが、一人の女がただ一人の男にしがみつく時、彼を去勢します。故に、道は狭い。要するに、アリストテレスが言っていた、夫婦の愛のよりよい道は友愛です。

P: 問題は、男性たちは女性たちが何を欲するか分からないことを語り、そして女性たちのそれは、男性たちが彼女たちから期待していること…

M: そう。アリストテレス的解決に反対することは、ラカンが嘆いていました、他者との一つの性についての対話 il dialogo di un sesso con l'altro は不可能ということです。事実、恋人たちは、もがきながら、(常に取り消しできる)解読のキーを探しながら、際限なく他者の言語を習得することを余儀なくされています。ラカンが、《愛は、持っていないものを与えること L'amore è dare ciò che non si ha》と明言していたように。

(Psychologies Magazine, 2008年10月, n. 278)

転移についてのラカンの教えと逆転移の概念への批判

2016-08-05 19:44:58 | 試訳
--L'INSEGNAMENTO DI LACAN SUL TRANSFERT E LA CRITICA ALLA NOZIONE DI CONTROTRANSFERT


■ラカンにおける転移の理論
LA TEORIA DEL TRANSFERT IN LACN

ラカンの教えにおいて、(フロイトの理論に合致して)転移の基礎知識は精神分析の基本的諸概念の一つを構成する。実際、その中で転移は治療の開始についての必要条件として明らかになる。確かに、精神分析家の任務は、転移が治療の原動力になり障害物にならない試みの中で成り立つ。1960年に、ラカンは(『転移 Le transfert』と題された)8番目のセミネールを開催し、その中で分析的転移の彼の理論をより組織的な形で発展させる。このパースペクティヴにおいて、転移は私たちを間-主観〔主体〕性 l'intersoggettività の彼岸に結びつける構造の現象として見なされるべきである。分析的転移の構造が挿入されるのは、もはや“主体から主体への da soggetto a soggetto”間-人間的関係の枠組みにおいてではない。本質なものにおいて、転移は愛であるのだから、(セミネール『転移』を貫く)キーテーゼは、分析的転移の本性 la natura を明らかにするために、愛の本性 la natura とそれが含む謎を問いただすことに存する。その上(分析的転移のラカン的理論において)、愛の次元は知の次元に構造的に結びつく。その証拠に、分析家は分析主体の謎(彼の欲望の原因)を含む対象 (a) になることにより、分析主体の苦しみに関する真理について何らかの知を想定されている限りにおいて、分析主体の分析的転移の中でエロティックに投資されている。知の想定された主体 il soggetto supposto sapere は、その周りで転移と見なすことの全てが分割されるボルト il perno を代理する。ラカンにとって、フロイト以前に(愛の経験の論理を照らす)西洋的思考の伝統についてのあるテクストがある。プラトンの『饗宴 il Simposio』である。『転移』の第1部の全ては実際に、プラトンの『饗宴』への、そしてその登場人物たちによる愛について述べられた諸言説へのある詳細な注釈とともに提示される。ラカンは把握してもらうよう、『饗宴』は、アルキビアデスの(彼の愛の言説とソクラテスへの嫉妬を通過する)闖入がその内容の全てが回転する周りの点を表象する、分析的セッションの報告書〔経験談〕の一種のように考慮されるべきだと主張する。プラトン的な対話におけるソクラテスの機能は、ラカンによって分析家の機能に結びつけられ、その機能は転移の中で、主体を自身の欠如との遭遇に結びつける。ラカンは『饗宴』において、欠如としての愛のある理論を浮き彫りにし、それによれば、本質的なものにおいて“愛は人が持っていないものを与えることである l'amore è dare ciò che non si ha”。事実、(ある愛する人 un amante の経験において)愛が欲望に結びつき選ぶ〔好む〕、彼を彼に欠けている対象にしつつ、自身の欠如を贈ることのできる人としての一人の他者 un altro(愛される人 l'amato)は、人が持っていないものの水準に特有〔固有〕のものである。愛する人とは欲望の対象であり、それに反して、愛される人はこのカップルにおいて、何かを持っている唯一の人として経験される。『饗宴』において、アルキビアデスは愛する人の形象を体現し、一方、ソクラテスは彼にとって愛される人のポジションを体現する。愛の本性を解説するためラカンは、愛をあるメタファー、すなわち(その場所に愛する者が生まれる、愛される者の位置への)置換〔代入〕として定義しながら、“愛のメタファー metafora dell'amore”を考案する。(そこにおいて愛する者が愛される者に姿を変える)このような変転は、ラカンによれば、この変形〔変換〕が愛の現象を、また分析的転移の始動さえも生じさせないことはないのだから、分析的経験において本質的であると示される。したがって、転移愛 l'amore di transfert はこのように、むしろ患者が彼に想定するある真理の保有者の機能に向いているので、治療者への愛ではない。治療者はこの転移による愛 amore da transfert をしっかりと掌握し、それをその無意識的な諸起源に送り返されるべき、非現実的な何かとして見なすべきである。


■知の想定された主体としての転移
IL TRANSFERT COME SOGGETTO-SUPPOSTO-SAPERE

分析的転移のラカン的理論において、愛の次元は知の次元に結びつく。分析家は養成のあいだ、無意識についてのある知を持つ誰かであるが、彼にその要求を向ける人の欲望については、何も知らない。このため、彼の知は、ただ想定されたある知である。
分析主体が分析家は自分の苦しみの真理について何かを知っていると想定することなしには、真の分析の開始はないでだろう。


■転移は反復ではない
IL TRANSFERT NON È RIPETIZIONE

転移は過去の純粋な反復には減じない。反対に、フロイトにとって転移は単純なかつてあった反復である。


■無意識の性的現実性の発動としての転移
TRANSFERT COME MESSA IN ATTO DELLA REALTÀ SESSUALE DELL'INCONSCIO

〔訳注:この項目については、タイトル末に (?) が付され、割愛されている。〕


■転移のアルゴリズム(より少ないアルゴリズムで)
L'ALGORITMO DEL TRANSFERT (fare algoritmo a meno)

アルゴリズムの上部には、シニフィアンの一連のものがある:他のシニフィアンの間で選択された S=SIGNIFICANTE DEL TRANSFERT=転移のシニフィアン(謎めいた仕方で、ある Sq=SIGNIFICANTE QUALUNQUE=ありふれたシニフィアンによって主体 (s) を代理する)
下部には、私たちはシニフィアンの様々な効果を持つ。それら諸効果は、分析主体のディスクールのシニフィアンのシークエンスを通る。
アルゴリズムはラカンに、分析の開始と終結を形式化することをできるようにする。
開始に関しては、人は転移の謎めいたシニフィアンと、彼の苦しみについて分析家に尋問するための分析家への要求 (Sq) との間の関連を設ける。
終結に関しては、主体が欲する〔望む〕ことを言い知ることについて応答可能になる限りにおいて、知の想定された主体の失墜が生ずる。


■治療における逆転移の利用へのラカンの批判
CRITICA DI LACAN ALL'IMPIEGO DEL CONTROTRANSFERT NELLA CURA

ラカンは、逆転移にとっての転移の現象の必然的な帰結を解釈する。
セミネール『転移』の中で、逆転移の利用に関するラカンの気がかりが際立つ。
逆転移的な眺望において、分析家は治療の中で、彼を主体としての試練にかけることの危険を侵すことをしないで、だが分析主体を固有の無意識的な知、すなわち大他者の場所に近づきやすくしつつ、彼の位置を占めることができる。ラカンのこの眺望では、分析家は彼のポジションを脱主体化すべきで、このことは彼は非情動的 anaffettivo であることを意味しないで、それに比べてセッションで彼は他者のより強いある欲望 un desiderio più forte degli altri、分析家の欲望 il desiderio dell'analista によって動かされていることを意味する。ラカン派の分析家は、患者へのあるシニフィアン的な応答の座である。(患者はそのことを、彼を苦しめさせるそれらシニフィエの周りでの、象徴的練り上げの作業へと返送する。)


DOMENICO COSENZA

Lacan関連の記事 (la Repubblica.it)

2016-08-03 00:10:14 | 試訳
Jacques Lacan l'inconscio visto da vicino

「ジャック・ラカン 隣人から出会われる無意識」

もし、70年代から出版される『エクリ』が、“どのように come”無意識は機能するのかを示すのだとすれば、Einaudi(※) が9月に出版する予定の『他のエクリ』は、“なぜ perché”機能するのかを次の流儀で告げる。《ラカンはそれは、人間存在の喜びや苦しみであるそれら際限なき反復 infinite ripetizioni が症状に負ける〔譲る〕無意識の動因 il motore dell'inconscio であることを明らかにする》。

※訳注:Einaudi はイタリアの出版社名。イタリア語版の『他のエクリ Altri Scritti』は、2013年9月に出版されている。

ラカンが何かを“明らかにする metta in chiaro”とは疑問でもあるだろうが(しばしば、かの有名な撞着語法 un ossimoro に見える)、しかし Antonio Di Ciaccia(その名前がイタリアでのラカン派の著作の翻訳と編纂に結び付いた分析家)によれば、このようである。(600ページ以上の)『他のエクリ』の発売は、待望されている。なぜなら——『セミネール』と違い、フランス人の師自身によって編集されたテクスト集で——、常に世界の各地域の学生たち(分析家のみならず)によって、最も読まれているからである。そして、53年の開会式のローマ講演 Discorso di Roma からレトゥルディ Lo stordito までの、終には無意識の形成物を読解する分析家の能力(または負の能力)についての省察までの、ある真実で適切な理論的概説を含むその“珍味 chicche”のために。

他のテクスト集は、メルロー=ポンティのような哲学者たちや(ヴェーデキントからマルグリット・デュラスまでの)作家たちに留意する。そして、もちろんジョイス。文体は不連続で、バロック風、冗長的で晦渋なあるスタイルから、“ボシュエ風 alla Bossuet”——編者曰く、無味乾燥で本質的、ミリメートルの正確さで構成されたランガージュ——まで見渡せられる。

〔随時、訳出予定〕

Il corpo sintomo

2016-07-31 22:00:25 | 試訳
「症状-身体」

真理との諸関係における症状と、隠喩〔メタファー〕の形態における症状に取り組んだ後、ラカンは、身体によって分節する症状のある定義を提出する。症状は、一つの“身体の出来事 evento di corpo”である (1)。身体に組み込まれる症状は、ラカンにおいて新しい示唆でない。それは、彼の教えの最初から出てきている。テクスト「パロールとランガージュの機能と領野」に戻るのは適切であり、そのテクストの中で、ある点では症状は既に肉の砂 (2)の上に記入することとして位置づけられていて、また別の点では神経症のヒステリー的核として、またそれゆえにそれぞれの症状に固有な身体におけるある登記として導入される。このように、(当時から)現在の中の過去に関する主体的再生産として考えらる出来事の概念の練り上げは、確実にうかがい知れる。しかし更に、ある別のパースペクティヴは1953年から構想されており、その中でラカンの公式“細い身体、されど身体 corpo sottile, ma corpo”によって、概念化されている。何が要するに、身体における登記 iscrizione として定義された症状と、(20年以上後の)身体の出来事 evento として定義された症状の間で、変化するのか? 欲動的固着としての、そして代理的満足としての症状のフロイト的着想と、無意識の享楽の様式としての、ラカンの症状の着想との間に、ある変更がある。私たちは、賭け金はただ学識〔教義〕上なだけではなく、主に分析の中で症状になることに関係することに注目する。実際、身体の出来事としての症状の公式化は、ある修辞学上の精巧さ以外はよく示さない。ラカンの初期のアイディアが、症状は身体の中に書かれているということだったにもかかわらず(このことは「パロールとランガージュの機能と領野」の時代に関係する)、それは引き出し、解放するためのパロールと、それの登記が“散漫であり得る può essere distrutto” (3)ことを検討していた。ラカンはこのように(この時期に)、初期のフロイトの治療学上の楽観視を手直ししていた。

さて、身体の出来事としての症状が規定することを把握するため、セミネール «Les non-dupes errent» (4)に言及する必要がある。その中でラカンは、もしある言うこと dire のためでないなら出来事はないと強調する。この新しい出来事の概念は、この終着点が象徴的なもの〔象徴界〕に関するある解釈ではもはやなく、しかしある現実的なもの〔現実界〕の印(従って解読の彼岸を記入することとしての)であることを仮定する。ラカンがランガージュを“細い身体 corpo sottile”として提示した時期に、主体と身体の間の断絶も据えていたことも指摘する必要がある。実際、主体の定義は無意識における諸シニフィアンの連鎖を含意しているが、身体は含意しない。そして、もはや身体の享楽を仲介〔通過〕する存在を明示するのは、ラカンに話す存在 parlessere のコンセプトを導入することをもたらす、シニフィアンと享楽の間のある結合を通過する構造的必然性である。

しかしどんなことにおいて、“心が困惑する思考 pensiero di cui l'anima si imbarazza” (5)に関する強迫症的症状の身体の出来事があるかという知の疑問は設定できるだろう。それは、思考は享楽であり、そしてもしある身体を持つのでないなら、享楽しないという事実のためである。

ローマの会合 Rendez-vous はしたがって、確かにディスクールの一つの臨床であり、しかしその目的は享楽する物質の様式化である、精神分析的臨床の試金石を置くことになるだろう。ラカンはおそらく、“現実的なものの装置が現実的なものを扱う dispositivo il cui reale tocca il reale”ように精神分析を示していたのではないでしょう? (6) その核心で、時折、一つの分析の入口と終わりで、身体の現象 fenomeni di corpo と身体の出来事 eventi di corpo の間を識別することが問題であろうために。最初のものは、ヒポコンデリー〔心気症〕において、あるいはその本質において無言であろう一つの身体を再び目覚めさせながら、心身症的現象についての表出を見いだす。二つ目のものは、身体におけるシニフィアンの導入(つまり消せない痕跡)と、身体の謎と享楽により為しうることに関与するある解決についての単独性(それぞれの分析主体に固有な)を吟味する。

Luis Izcovich, 31 Gennaio 2010

Il « mistero del corpo parlante »

Il sintomo analitico

2016-07-29 21:00:33 | 試訳
「分析的症状」

症状は、精神分析への接近の扉である。その精神分析は目標と限界として言葉を通して(話す存在の肉と精神の中で噛みつく苦しみに関する)症状を扱う事実を持っている。勿論、パロールが大きな影響を持つことを知るため精神分析の必要があったのではない。宗教、魔術、そして最後に到来した現代科学は、言葉 parole、儀式 pratiche、祭式 riti や公式 formula でもって現実性〔リアリティ〕の上に大きな影響を与えることが出来ることを示している。医学は、特に、最初からずっとパロールが治療することを知っている。

私たちは、もやは医者にではなく、まず最初にそれに苦しむ人に「話す」症状を、分析的と呼ぶ。まだ一人の精神分析家に尋ねる以前に、人間存在は、症状が彼が耐える苦しみの向こう側に何かの印 segno を彼になしていることを捉え、このように人は概して、(真か偽かである)一つの前-解釈 una pre-interpretazione を与える。彼は、未知のシニフィエからのあるメッセージの尺度でそれを読もうとする。

しかし、それを正確に読み、解釈するために、分析的症状は無意識のシニフィアン連載の発動を要求する。その場所で、それは主体のメタファーとして、つまりその特権的シニフィアンとして現れる。分析的経験において症状は、転移の下で行われる解釈によって、屈折し、移動し、相互作用を及ぼす傾向がある。

症状と解釈はこのように、同じシニフィアンの布地 stoffa significante でできていることを示す。しかしこの包み involucro でできた、(この布地の向こう側にある)症状は、パロール続いて象徴的なもの〔象徴界〕の秩序によって捕獲されるがままになることに根本的に抵抗力のある一つの核 un nucleo により構成されている。

ラカンは、この象徴化が不可能なことを享楽と呼ぶ。実際、主体がなしで済ますことのできない、(ある種の快楽とともにわき出る)不快な思いが問題である。ただ一つの分析の経過においてのみ、主体は通常はそれに付随するより不快な思い無しで、この享楽の亡骸の周りに置かれることができるだろう。その機能の更新された使用法によって、(イタリアでも1600年代に流行った)古代の書記法に遡りつつ、ラカンはサントーム sinthomo という用語でもって症状を名付ける。

Antonio Di Ciaccia