——Giorgio Agamben, L'aperto: L’uomo e l'animale (2002)
第1章 動物人〔テロモルフォ〕
《…最後の審判の日、動物と人間の関係が新たなかたちへと和解され、人間そのものがその動物的な本性との宥和を遂げるだろう、ということだったというのは、あながちありえない話ではないのである。》
第2章 無頭人〔アセファル〕
「囚人が監獄から逃げるように、人間は頭から逃走した」Bataille
《…彼らの特権化された経験のなかにほんの一瞬だけ垣間見られる無頭の存在は、おそらく人間的存在でも神的存在でもありえなかった。しかしまた、この無頭の存在は、断じて動物的なるものでもあってはならなかったのである。》
「私の生こそが開いた傷口なのです」Bataille
第3章 スノッブ
「人間とは動物が患う道徳上の病なのである」コジェーヴ
《おそらく人間化した動物の身体(奴隷の身体)とは、観念論の遺産として思考に遺された解消しえない残余 resto なのであり、今日における哲学のさまざまなアポリアは、動物性と人間性とのあいだで還元されぬままに引き裂かれ張りつめているこの身体をめぐるアポリアと符号するのである。》
第4章 分接の秘儀
〈すなわち、われわれの文化において、“定義されえないにもかかわらず、だからこそなおさら、たえず分節化され分割されなければならないもの”こそが、まさしく生にほかならないかのようである。〉
〈換言するならば、分割され区別されたもの(この場合は、栄養の活動)こそ、まさしく——一種の“分割統治”〔divide et impera〕において——一連の能力や機能的対立からなるヒエラルキー的な分節化として、生の単一性を成立させうるものなのである。〉
〈…すなわち、どのようにして人間が間から、動物的なものが人間的なものから——人間のうちで——分割されてきたのかを自問してみることのほうが、いわゆる人間の価値や権利といったお題目について立場表明することよりもはるかに急務なのである。そして、おそらく聖なるものとの関係というもっとも光耀に充ちた領域もまた、動物的なものからわれわれを分割した——いっそう陰欝とした——領域になんらかの仕方で依存しているのである。〉
第5章 至福者たちの生理学
「復活とは——トマスはそう諭している——人間の自然的な生の完成のために設けられているものではなく、観想的な生という究極の完成のために定められているものなのである。」
「…復活した者たちの身体では、動物的な機能は「無為で空疎」なままなのである。すべての肉体が救済されるわけではなく、至福者の生理学においては、救済という神の配剤=経済〔オイコノミア〕は、贖いえない=買い戻すことのできない残余〔レスト〕をとどめている。」
第6章 経験的認識
〈歴史のメシア的終末、あるいは救済という神による配剤〔オイコノミア〕の実現は、ひとつの臨界の閾を明るみに出しているのであり、その閾においては、現代文化にとってはかくも決定的であるはずの動物と人間のあいだの差異は、抹消されかねない気配である。〉
〈だからこそ、歴史以後〔ポストストーリア〕に到達するということは、人間と動物の境界線が画定されていた、歴史以前〔プレイストリコ〕の閾をふたたびアクチュアルなものにする、ということを必然的に意味しているのである。天国によってエデンの園が疑問に付されることになる。〉
“人間と動物の差異が消え、この両極が——今日よく起こるように——ともに危機に瀕しているとするならば、存在と無、合法と非合法、神と悪魔といった差異もまた無効になり、その代わりとして、それを指し示すための名すら欠いているような何かが姿を現わしてくるのである。おそらく強制収容所や絶滅収容所もまた、この種の経験=実験、すなわち、人間か間かを決定しようとする極端かつ途轍もない企てといえるだろう。そして、この企ては、最後には、人間と間とを弁別する可能性そのものを破局へと巻き込んでいくのである。”
第7章 分類学
《ホモ・サピエンスは、それゆえ、明確に定義された実質でも種でもない。むしろそれは、ひとつの機械、あるいは人間認識を生み出すためのひとつの装置なのである。》
《リンネは人類〔ホモ〕を定義して「みずからを存在しないものとして認識したときにのみ存在する動物」と規定した。》
第8章 序列なし
《人文主義による人間の発見とは人間そのものの不在の発見なのであり、人間の尊厳=序列〔ディグニタース〕の取り返しようのない欠如の発見なのである。》
《人間の顔の輪郭は——まだほとんど——未確定で偶然なものであるために、束の間の存在が描き出す輪郭のように、たえず溶解し消え去りつつあるものなのである。》
第9章 人類学機械
《言語と自己同一化することによって、話す人間は、すでにして人間であるものであれ、いまだ人間ならざるものであれ、自己固有の沈黙を自己の埒外に置いたのである。》
“われわれはむしろ、言葉を話す人間を介して、つねに人間の動物化(ヘッケルの猿人のような動物人)か、動物の人間化(人猿)かのいずれか一方だけを抽出してくるのである。動物人と人獣は、それらのいずれによっても埋めることのできない同じ断絶の二つの顔なのである。”
p.69☆シュタインタール
~すのである。
《おそらくこれは、近代人の人類学機械だろう。人類学機械は——これまで見てきたように——すでに人間であるものを(いまだ)人間ならざるものとして自己から排除することによって作動している。つまり、人間を動物化し、人間のうちから非人間的なもの、すなわちホモ・アラルス〔言葉をもたない人〕、あるいは猿人を分離することによって作動しているのである。》
第10章 環世界
第11章 ダニ
第12章 世界の窮乏
〈このように、存在を、陰画〔ネガ〕として——存在の剥奪によって——動物の環境のなかに導き入れたのち、講義のなかでももっとも緻密な箇所においてハイデガーがいっそう際立たせようとしているのは、動物が放心状態のなかで自己を関係づけているものに特有の存在論的ステータスである。〉
「心を奪われることに特有の開示性のなかで、本能的な放心へと、なにがしかの方法で駆り立てられているものは、どのようにして特徴づけられるべきなのか。」Heidegger
「放心に開かれた存在とは、動物の本質的な所有なのである。この所有のおかげで動物は、なしですませたり[entbehren]、窮乏したりすることができるのであり、窮乏によってその存在のうちに規定されることも可能なのである。」Heidegger
第13章 開かれ
「途方もない動物の擬人化であり、……それに対応する人間の動物化」Heidegger
《神秘的な知が本質的に不可知の経験であり、不可知としての隠蔽〔ヴェラメント〕の経験であるのに対して、動物は開かれざるものに関わることができず、まさに露顕〔ズヴェラメント〕と隠蔽〔ヴェラメント〕が衝突する本質的な領域から締め出されたままなのである。》
“すなわち、人間世界の開かれは——それがまたとりもなおさず露顕〔ズヴェラメント〕と隠蔽〔ヴェラメント〕の本質的な衝突への開かれであるかぎりにおいて——開かれざる動物世界に対して行使されるひとつの操作を介してのみ成就されうるということである。そして、この——世界に対する人間の開かれと抑止解除するものに対する動物の開かれとがほんの束の間だけ踵を接し合う——操作の場こそ、倦怠にほかならないのである。”
第14章 深き倦怠
〈宙づりのままに保持され、不活性のまま滞留しているということは、いまや現存在に特有の可能性、現存在があれこれすることができる可能性なのである。〉
《……というのも、“できないこと”、人為による個々の特定の可能性を不活性化することから出発してのみ、この根源的な可能化は可能だからである。》
《開かれ aperto、存在の自由は、開かれても閉じられてもいない動物の環境と根源的に異なるようなものを名指すことはない。…略…つまり、開かれ Lichtung において賭けられている開示は、本質的に閉ざされへの開示であり、開かれをじっと見据える者は、閉ざされていること、見ないことしか見ていないのである。》
〈人間界を規定する露顕と隠蔽のあいだ、非隠匿性と隠匿性のあいだの解決しがたい闘争は、人間と動物のあいだの内部抗争なのである。〉
「現存在の意味とは、無のうちに宙づりにされたまま保持されてあることである」Heidegger
「人間の現存在は、無のうちに宙づりのままに保たれたときはじめて、存在者に対して行動する」Heidegger
《存在は、その根源以来、無に横切られており、開かれ Lichtung は元をただせば無化 Nichtung なのである。》
「現存在は、退屈することを習得した動物、自己の放心“から”自己の放心“へと”覚醒した動物にすぎない。生物がまさに自分が放心した状態へと覚醒すること、自己を開かれざるものへと——苦しくとも決然と——開くということこそが、人間にほかならないのである。」
第15章 世界と大地
《真理を規定する隠匿性と非隠匿性の弁証法のなかで賭けられているものが、ハイデガーにとって政治的なパラダイムかどうかということは問題外である(というより、むしろ政治的パラダイムと呼んでしかるべきなのだ〉。》
《隠匿性と非隠匿性との葛藤としての真理という存在論的パラダイムは、ハイデガーにおいては直接的かつ根源的に、政治的なパラダイムである。ポリスや政治学のようなものが可能であるのは、まさに本質的に人間が閉塞への開示において生起するからなのである。》
“……非隠匿性と隠匿性のあいだの根源にある政治的葛藤は、同時に、かつ同程度に、人間のもつ人間性と動物性のあいだの葛藤にもなる。動物とは、人間によって守られ、そういうものとして白日のもとに曝された〈露顕されえないもの〉なのである。”
“もし、人間性が動物性を宙づりにすることでしか獲得されず、それゆえ、動物性の閉塞に開かれたままに保持されなければならないとするならば、「人間の実存的本質」を把捉しようとするハイデガーの企図が、動物性〔アニマリタス〕がはらむ形而上学的な優位をとらえそこなってしまうのは、いったいなぜなのか。”
第16章 動物化
人間という動物には、自分の同類を家畜にする者もいる。——ペーター・スローターダイク
「およそ七〇年の距たりを経た今日、人々が引き受けるべき、あるいは、たんに課されるだけのものにせよ、いかなる歴史的使命ももはや存在しないことは、まったく誠意に欠けるといった人でないかぎり、誰にとっても、明白なことである。」
「ゲノム、グローバル経済、人道主義という名のイデオロギーは、歴史以後〔ポストストリコ〕の人類が、自分たち自身の生理学を最後の非政治的な委託として受け入れてゆくこのプロセスの、三つのたがいに連動する局面なのである。」
《動物の完全な人間化は、人間の完全な動物化に符号しているのだ。》
第17章 人類創生☆
3…開かれとは
4まさに、
5現代の文明
6人類学機械が
第18章 あいだ
世界のすべての謎は、性をめぐる細微な秘密にくらべれば、取るに足らないことのように思える。——ミシェル・フーコー
「したがって、〔芸術作品は、〕いかなる審判の日も待望することのない自然、歴史の表舞台でもなく人間の棲処でもないような自然のモデルとして定義されるのです。つまり、救出された夜[die gerettete Nacht]なのです。」Benjamin
〈「救出された夜」とは、このおのれ自身へと送り返された自然を指し示す名前なのである。……救済されるべきはむしろ、喪失と忘却そのもの——つまりは、救われえないものである。救出された夜は、救われえないものと関わっている。〉
「この生は、神秘を失うのとひきかえにしてはじめて、自然との関係から解放される。だが、人間を生に結びつけている秘密の絆を——ほどくのではなく——断ち切るのは、すっかり自然に属しているようにみえながら、むしろいたるところで自然をはみだしている要素、すなわち性的充足なのである。性的快楽の土壇場で、神秘から解き放たれ、いわば自然ならざるものを認識することになる生というこの逆説的なイメージのうちに、ベンヤミンは、もうひとつの新たな人間ならざるものの象形文字〔ヒエログリフ〕のようなものを読みとったのだ。」
145Benjamin?
第19章 無為
《恋人たちは、性の充足のうちに、みずからの神秘を失うことで、完全に無活動となった人間本性——救われざる生の至上の形象としての、人間と動物の無活動や無為——に思いを凝らすようになるのである。》
第20章 存在の外で
秘教主義とは、非 - 知の様態を分節化することである。——フリオ・イエージ
《ティツィアーノが描いた恋人同士が、たがいにみずからの神秘の不在を宥し合うように、救出された夜に、生——開かれているわけでもなく、露顕されえないものでもない——は、自己の隠匿性との関係を静かに保ち、これを存在の外に存在させる〔lasciar essere fuori dall'essere〕のである。》
「歴史的な使命を想定することもなく、人類学機械を起動させることもなく、生者が義人たちのメシア的な宴に腰を下ろすことのできる方法がおそらくまだあるだろう。人間を産出してきた接合の秘儀をもういちど解くには、分割をめぐる実践的かつ政治的な神秘の未曾有の深化を経なければならないのである。」
第1章 動物人〔テロモルフォ〕
《…最後の審判の日、動物と人間の関係が新たなかたちへと和解され、人間そのものがその動物的な本性との宥和を遂げるだろう、ということだったというのは、あながちありえない話ではないのである。》
第2章 無頭人〔アセファル〕
「囚人が監獄から逃げるように、人間は頭から逃走した」Bataille
《…彼らの特権化された経験のなかにほんの一瞬だけ垣間見られる無頭の存在は、おそらく人間的存在でも神的存在でもありえなかった。しかしまた、この無頭の存在は、断じて動物的なるものでもあってはならなかったのである。》
「私の生こそが開いた傷口なのです」Bataille
第3章 スノッブ
「人間とは動物が患う道徳上の病なのである」コジェーヴ
《おそらく人間化した動物の身体(奴隷の身体)とは、観念論の遺産として思考に遺された解消しえない残余 resto なのであり、今日における哲学のさまざまなアポリアは、動物性と人間性とのあいだで還元されぬままに引き裂かれ張りつめているこの身体をめぐるアポリアと符号するのである。》
第4章 分接の秘儀
〈すなわち、われわれの文化において、“定義されえないにもかかわらず、だからこそなおさら、たえず分節化され分割されなければならないもの”こそが、まさしく生にほかならないかのようである。〉
〈換言するならば、分割され区別されたもの(この場合は、栄養の活動)こそ、まさしく——一種の“分割統治”〔divide et impera〕において——一連の能力や機能的対立からなるヒエラルキー的な分節化として、生の単一性を成立させうるものなのである。〉
〈…すなわち、どのようにして人間が間から、動物的なものが人間的なものから——人間のうちで——分割されてきたのかを自問してみることのほうが、いわゆる人間の価値や権利といったお題目について立場表明することよりもはるかに急務なのである。そして、おそらく聖なるものとの関係というもっとも光耀に充ちた領域もまた、動物的なものからわれわれを分割した——いっそう陰欝とした——領域になんらかの仕方で依存しているのである。〉
第5章 至福者たちの生理学
「復活とは——トマスはそう諭している——人間の自然的な生の完成のために設けられているものではなく、観想的な生という究極の完成のために定められているものなのである。」
「…復活した者たちの身体では、動物的な機能は「無為で空疎」なままなのである。すべての肉体が救済されるわけではなく、至福者の生理学においては、救済という神の配剤=経済〔オイコノミア〕は、贖いえない=買い戻すことのできない残余〔レスト〕をとどめている。」
第6章 経験的認識
〈歴史のメシア的終末、あるいは救済という神による配剤〔オイコノミア〕の実現は、ひとつの臨界の閾を明るみに出しているのであり、その閾においては、現代文化にとってはかくも決定的であるはずの動物と人間のあいだの差異は、抹消されかねない気配である。〉
〈だからこそ、歴史以後〔ポストストーリア〕に到達するということは、人間と動物の境界線が画定されていた、歴史以前〔プレイストリコ〕の閾をふたたびアクチュアルなものにする、ということを必然的に意味しているのである。天国によってエデンの園が疑問に付されることになる。〉
“人間と動物の差異が消え、この両極が——今日よく起こるように——ともに危機に瀕しているとするならば、存在と無、合法と非合法、神と悪魔といった差異もまた無効になり、その代わりとして、それを指し示すための名すら欠いているような何かが姿を現わしてくるのである。おそらく強制収容所や絶滅収容所もまた、この種の経験=実験、すなわち、人間か間かを決定しようとする極端かつ途轍もない企てといえるだろう。そして、この企ては、最後には、人間と間とを弁別する可能性そのものを破局へと巻き込んでいくのである。”
第7章 分類学
《ホモ・サピエンスは、それゆえ、明確に定義された実質でも種でもない。むしろそれは、ひとつの機械、あるいは人間認識を生み出すためのひとつの装置なのである。》
《リンネは人類〔ホモ〕を定義して「みずからを存在しないものとして認識したときにのみ存在する動物」と規定した。》
第8章 序列なし
《人文主義による人間の発見とは人間そのものの不在の発見なのであり、人間の尊厳=序列〔ディグニタース〕の取り返しようのない欠如の発見なのである。》
《人間の顔の輪郭は——まだほとんど——未確定で偶然なものであるために、束の間の存在が描き出す輪郭のように、たえず溶解し消え去りつつあるものなのである。》
第9章 人類学機械
《言語と自己同一化することによって、話す人間は、すでにして人間であるものであれ、いまだ人間ならざるものであれ、自己固有の沈黙を自己の埒外に置いたのである。》
“われわれはむしろ、言葉を話す人間を介して、つねに人間の動物化(ヘッケルの猿人のような動物人)か、動物の人間化(人猿)かのいずれか一方だけを抽出してくるのである。動物人と人獣は、それらのいずれによっても埋めることのできない同じ断絶の二つの顔なのである。”
p.69☆シュタインタール
~すのである。
《おそらくこれは、近代人の人類学機械だろう。人類学機械は——これまで見てきたように——すでに人間であるものを(いまだ)人間ならざるものとして自己から排除することによって作動している。つまり、人間を動物化し、人間のうちから非人間的なもの、すなわちホモ・アラルス〔言葉をもたない人〕、あるいは猿人を分離することによって作動しているのである。》
第10章 環世界
第11章 ダニ
第12章 世界の窮乏
〈このように、存在を、陰画〔ネガ〕として——存在の剥奪によって——動物の環境のなかに導き入れたのち、講義のなかでももっとも緻密な箇所においてハイデガーがいっそう際立たせようとしているのは、動物が放心状態のなかで自己を関係づけているものに特有の存在論的ステータスである。〉
「心を奪われることに特有の開示性のなかで、本能的な放心へと、なにがしかの方法で駆り立てられているものは、どのようにして特徴づけられるべきなのか。」Heidegger
「放心に開かれた存在とは、動物の本質的な所有なのである。この所有のおかげで動物は、なしですませたり[entbehren]、窮乏したりすることができるのであり、窮乏によってその存在のうちに規定されることも可能なのである。」Heidegger
第13章 開かれ
「途方もない動物の擬人化であり、……それに対応する人間の動物化」Heidegger
《神秘的な知が本質的に不可知の経験であり、不可知としての隠蔽〔ヴェラメント〕の経験であるのに対して、動物は開かれざるものに関わることができず、まさに露顕〔ズヴェラメント〕と隠蔽〔ヴェラメント〕が衝突する本質的な領域から締め出されたままなのである。》
“すなわち、人間世界の開かれは——それがまたとりもなおさず露顕〔ズヴェラメント〕と隠蔽〔ヴェラメント〕の本質的な衝突への開かれであるかぎりにおいて——開かれざる動物世界に対して行使されるひとつの操作を介してのみ成就されうるということである。そして、この——世界に対する人間の開かれと抑止解除するものに対する動物の開かれとがほんの束の間だけ踵を接し合う——操作の場こそ、倦怠にほかならないのである。”
第14章 深き倦怠
〈宙づりのままに保持され、不活性のまま滞留しているということは、いまや現存在に特有の可能性、現存在があれこれすることができる可能性なのである。〉
《……というのも、“できないこと”、人為による個々の特定の可能性を不活性化することから出発してのみ、この根源的な可能化は可能だからである。》
《開かれ aperto、存在の自由は、開かれても閉じられてもいない動物の環境と根源的に異なるようなものを名指すことはない。…略…つまり、開かれ Lichtung において賭けられている開示は、本質的に閉ざされへの開示であり、開かれをじっと見据える者は、閉ざされていること、見ないことしか見ていないのである。》
〈人間界を規定する露顕と隠蔽のあいだ、非隠匿性と隠匿性のあいだの解決しがたい闘争は、人間と動物のあいだの内部抗争なのである。〉
「現存在の意味とは、無のうちに宙づりにされたまま保持されてあることである」Heidegger
「人間の現存在は、無のうちに宙づりのままに保たれたときはじめて、存在者に対して行動する」Heidegger
《存在は、その根源以来、無に横切られており、開かれ Lichtung は元をただせば無化 Nichtung なのである。》
「現存在は、退屈することを習得した動物、自己の放心“から”自己の放心“へと”覚醒した動物にすぎない。生物がまさに自分が放心した状態へと覚醒すること、自己を開かれざるものへと——苦しくとも決然と——開くということこそが、人間にほかならないのである。」
第15章 世界と大地
《真理を規定する隠匿性と非隠匿性の弁証法のなかで賭けられているものが、ハイデガーにとって政治的なパラダイムかどうかということは問題外である(というより、むしろ政治的パラダイムと呼んでしかるべきなのだ〉。》
《隠匿性と非隠匿性との葛藤としての真理という存在論的パラダイムは、ハイデガーにおいては直接的かつ根源的に、政治的なパラダイムである。ポリスや政治学のようなものが可能であるのは、まさに本質的に人間が閉塞への開示において生起するからなのである。》
“……非隠匿性と隠匿性のあいだの根源にある政治的葛藤は、同時に、かつ同程度に、人間のもつ人間性と動物性のあいだの葛藤にもなる。動物とは、人間によって守られ、そういうものとして白日のもとに曝された〈露顕されえないもの〉なのである。”
“もし、人間性が動物性を宙づりにすることでしか獲得されず、それゆえ、動物性の閉塞に開かれたままに保持されなければならないとするならば、「人間の実存的本質」を把捉しようとするハイデガーの企図が、動物性〔アニマリタス〕がはらむ形而上学的な優位をとらえそこなってしまうのは、いったいなぜなのか。”
第16章 動物化
人間という動物には、自分の同類を家畜にする者もいる。——ペーター・スローターダイク
「およそ七〇年の距たりを経た今日、人々が引き受けるべき、あるいは、たんに課されるだけのものにせよ、いかなる歴史的使命ももはや存在しないことは、まったく誠意に欠けるといった人でないかぎり、誰にとっても、明白なことである。」
「ゲノム、グローバル経済、人道主義という名のイデオロギーは、歴史以後〔ポストストリコ〕の人類が、自分たち自身の生理学を最後の非政治的な委託として受け入れてゆくこのプロセスの、三つのたがいに連動する局面なのである。」
《動物の完全な人間化は、人間の完全な動物化に符号しているのだ。》
第17章 人類創生☆
3…開かれとは
4まさに、
5現代の文明
6人類学機械が
第18章 あいだ
世界のすべての謎は、性をめぐる細微な秘密にくらべれば、取るに足らないことのように思える。——ミシェル・フーコー
「したがって、〔芸術作品は、〕いかなる審判の日も待望することのない自然、歴史の表舞台でもなく人間の棲処でもないような自然のモデルとして定義されるのです。つまり、救出された夜[die gerettete Nacht]なのです。」Benjamin
〈「救出された夜」とは、このおのれ自身へと送り返された自然を指し示す名前なのである。……救済されるべきはむしろ、喪失と忘却そのもの——つまりは、救われえないものである。救出された夜は、救われえないものと関わっている。〉
「この生は、神秘を失うのとひきかえにしてはじめて、自然との関係から解放される。だが、人間を生に結びつけている秘密の絆を——ほどくのではなく——断ち切るのは、すっかり自然に属しているようにみえながら、むしろいたるところで自然をはみだしている要素、すなわち性的充足なのである。性的快楽の土壇場で、神秘から解き放たれ、いわば自然ならざるものを認識することになる生というこの逆説的なイメージのうちに、ベンヤミンは、もうひとつの新たな人間ならざるものの象形文字〔ヒエログリフ〕のようなものを読みとったのだ。」
145Benjamin?
第19章 無為
《恋人たちは、性の充足のうちに、みずからの神秘を失うことで、完全に無活動となった人間本性——救われざる生の至上の形象としての、人間と動物の無活動や無為——に思いを凝らすようになるのである。》
第20章 存在の外で
秘教主義とは、非 - 知の様態を分節化することである。——フリオ・イエージ
《ティツィアーノが描いた恋人同士が、たがいにみずからの神秘の不在を宥し合うように、救出された夜に、生——開かれているわけでもなく、露顕されえないものでもない——は、自己の隠匿性との関係を静かに保ち、これを存在の外に存在させる〔lasciar essere fuori dall'essere〕のである。》
「歴史的な使命を想定することもなく、人類学機械を起動させることもなく、生者が義人たちのメシア的な宴に腰を下ろすことのできる方法がおそらくまだあるだろう。人間を産出してきた接合の秘儀をもういちど解くには、分割をめぐる実践的かつ政治的な神秘の未曾有の深化を経なければならないのである。」