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per l/a psicoanalisi

アガンベン『開かれ 人間と動物』

2014-11-25 15:04:21 | Agamben アガンベン
——Giorgio Agamben, L'aperto: L’uomo e l'animale (2002)


第1章 動物人〔テロモルフォ〕

《…最後の審判の日、動物と人間の関係が新たなかたちへと和解され、人間そのものがその動物的な本性との宥和を遂げるだろう、ということだったというのは、あながちありえない話ではないのである。》

第2章 無頭人〔アセファル〕

「囚人が監獄から逃げるように、人間は頭から逃走した」Bataille

《…彼らの特権化された経験のなかにほんの一瞬だけ垣間見られる無頭の存在は、おそらく人間的存在でも神的存在でもありえなかった。しかしまた、この無頭の存在は、断じて動物的なるものでもあってはならなかったのである。》

「私の生こそが開いた傷口なのです」Bataille

第3章 スノッブ

「人間とは動物が患う道徳上の病なのである」コジェーヴ

《おそらく人間化した動物の身体(奴隷の身体)とは、観念論の遺産として思考に遺された解消しえない残余 resto なのであり、今日における哲学のさまざまなアポリアは、動物性と人間性とのあいだで還元されぬままに引き裂かれ張りつめているこの身体をめぐるアポリアと符号するのである。》

第4章 分接の秘儀

〈すなわち、われわれの文化において、“定義されえないにもかかわらず、だからこそなおさら、たえず分節化され分割されなければならないもの”こそが、まさしく生にほかならないかのようである。〉

〈換言するならば、分割され区別されたもの(この場合は、栄養の活動)こそ、まさしく——一種の“分割統治”〔divide et impera〕において——一連の能力や機能的対立からなるヒエラルキー的な分節化として、生の単一性を成立させうるものなのである。〉


〈…すなわち、どのようにして人間が非人間から、動物的なものが人間的なものから——人間のうちで——分割されてきたのかを自問してみることのほうが、いわゆる人間の価値や権利といったお題目について立場表明することよりもはるかに急務なのである。そして、おそらく聖なるものとの関係というもっとも光耀に充ちた領域もまた、動物的なものからわれわれを分割した——いっそう陰欝とした——領域になんらかの仕方で依存しているのである。〉

第5章 至福者たちの生理学

「復活とは——トマスはそう諭している——人間の自然的な生の完成のために設けられているものではなく、観想的な生という究極の完成のために定められているものなのである。」

「…復活した者たちの身体では、動物的な機能は「無為で空疎」なままなのである。すべての肉体が救済されるわけではなく、至福者の生理学においては、救済という神の配剤=経済〔オイコノミア〕は、贖いえない=買い戻すことのできない残余〔レスト〕をとどめている。」

第6章 経験的認識

〈歴史のメシア的終末、あるいは救済という神による配剤〔オイコノミア〕の実現は、ひとつの臨界の閾を明るみに出しているのであり、その閾においては、現代文化にとってはかくも決定的であるはずの動物と人間のあいだの差異は、抹消されかねない気配である。〉

〈だからこそ、歴史以後〔ポストストーリア〕に到達するということは、人間と動物の境界線が画定されていた、歴史以前〔プレイストリコ〕の閾をふたたびアクチュアルなものにする、ということを必然的に意味しているのである。天国によってエデンの園が疑問に付されることになる。〉

“人間と動物の差異が消え、この両極が——今日よく起こるように——ともに危機に瀕しているとするならば、存在と無、合法と非合法、神と悪魔といった差異もまた無効になり、その代わりとして、それを指し示すための名すら欠いているような何かが姿を現わしてくるのである。おそらく強制収容所や絶滅収容所もまた、この種の経験=実験、すなわち、人間か非人間かを決定しようとする極端かつ途轍もない企てといえるだろう。そして、この企ては、最後には、人間と非人間とを弁別する可能性そのものを破局へと巻き込んでいくのである。”

第7章 分類学

《ホモ・サピエンスは、それゆえ、明確に定義された実質でも種でもない。むしろそれは、ひとつの機械、あるいは人間認識を生み出すためのひとつの装置なのである。》

《リンネは人類〔ホモ〕を定義して「みずからを存在しないものとして認識したときにのみ存在する動物」と規定した。》

第8章 序列なし

《人文主義による人間の発見とは人間そのものの不在の発見なのであり、人間の尊厳=序列〔ディグニタース〕の取り返しようのない欠如の発見なのである。》

《人間の顔の輪郭は——まだほとんど——未確定で偶然なものであるために、束の間の存在が描き出す輪郭のように、たえず溶解し消え去りつつあるものなのである。》

第9章 人類学機械

《言語と自己同一化することによって、話す人間は、すでにして人間であるものであれ、いまだ人間ならざるものであれ、自己固有の沈黙を自己の埒外に置いたのである。》

“われわれはむしろ、言葉を話す人間を介して、つねに人間の動物化(ヘッケルの猿人のような動物人)か、動物の人間化(人猿)かのいずれか一方だけを抽出してくるのである。動物人と人獣は、それらのいずれによっても埋めることのできない同じ断絶の二つの顔なのである。”

p.69☆シュタインタール
~すのである。

《おそらくこれは、近代人の人類学機械だろう。人類学機械は——これまで見てきたように——すでに人間であるものを(いまだ)人間ならざるものとして自己から排除することによって作動している。つまり、人間を動物化し、人間のうちから非人間的なもの、すなわちホモ・アラルス〔言葉をもたない人〕、あるいは猿人を分離することによって作動しているのである。》


第10章 環世界

第11章 ダニ

第12章 世界の窮乏

〈このように、存在を、陰画〔ネガ〕として——存在の剥奪によって——動物の環境のなかに導き入れたのち、講義のなかでももっとも緻密な箇所においてハイデガーがいっそう際立たせようとしているのは、動物が放心状態のなかで自己を関係づけているものに特有の存在論的ステータスである。〉

「心を奪われることに特有の開示性のなかで、本能的な放心へと、なにがしかの方法で駆り立てられているものは、どのようにして特徴づけられるべきなのか。」Heidegger

「放心に開かれた存在とは、動物の本質的な所有なのである。この所有のおかげで動物は、なしですませたり[entbehren]、窮乏したりすることができるのであり、窮乏によってその存在のうちに規定されることも可能なのである。」Heidegger

第13章 開かれ

「途方もない動物の擬人化であり、……それに対応する人間の動物化」Heidegger

《神秘的な知が本質的に不可知の経験であり、不可知としての隠蔽〔ヴェラメント〕の経験であるのに対して、動物は開かれざるものに関わることができず、まさに露顕〔ズヴェラメント〕と隠蔽〔ヴェラメント〕が衝突する本質的な領域から締め出されたままなのである。》

“すなわち、人間世界の開かれは——それがまたとりもなおさず露顕〔ズヴェラメント〕と隠蔽〔ヴェラメント〕の本質的な衝突への開かれであるかぎりにおいて——開かれざる動物世界に対して行使されるひとつの操作を介してのみ成就されうるということである。そして、この——世界に対する人間の開かれと抑止解除するものに対する動物の開かれとがほんの束の間だけ踵を接し合う——操作の場こそ、倦怠にほかならないのである。”

第14章 深き倦怠

〈宙づりのままに保持され、不活性のまま滞留しているということは、いまや現存在に特有の可能性、現存在があれこれすることができる可能性なのである。〉

《……というのも、“できないこと”、人為による個々の特定の可能性を不活性化することから出発してのみ、この根源的な可能化は可能だからである。》

《開かれ aperto、存在の自由は、開かれても閉じられてもいない動物の環境と根源的に異なるようなものを名指すことはない。…略…つまり、開かれ Lichtung において賭けられている開示は、本質的に閉ざされへの開示であり、開かれをじっと見据える者は、閉ざされていること、見ないことしか見ていないのである。》

〈人間界を規定する露顕と隠蔽のあいだ、非隠匿性と隠匿性のあいだの解決しがたい闘争は、人間と動物のあいだの内部抗争なのである。〉


「現存在の意味とは、無のうちに宙づりにされたまま保持されてあることである」Heidegger

「人間の現存在は、無のうちに宙づりのままに保たれたときはじめて、存在者に対して行動する」Heidegger

《存在は、その根源以来、無に横切られており、開かれ Lichtung は元をただせば無化 Nichtung なのである。》

「現存在は、退屈することを習得した動物、自己の放心“から”自己の放心“へと”覚醒した動物にすぎない。生物がまさに自分が放心した状態へと覚醒すること、自己を開かれざるものへと——苦しくとも決然と——開くということこそが、人間にほかならないのである。」

第15章 世界と大地

《真理を規定する隠匿性と非隠匿性の弁証法のなかで賭けられているものが、ハイデガーにとって政治的なパラダイムかどうかということは問題外である(というより、むしろ政治的パラダイムと呼んでしかるべきなのだ〉。》

《隠匿性と非隠匿性との葛藤としての真理という存在論的パラダイムは、ハイデガーにおいては直接的かつ根源的に、政治的なパラダイムである。ポリスや政治学のようなものが可能であるのは、まさに本質的に人間が閉塞への開示において生起するからなのである。》

“……非隠匿性と隠匿性のあいだの根源にある政治的葛藤は、同時に、かつ同程度に、人間のもつ人間性と動物性のあいだの葛藤にもなる。動物とは、人間によって守られ、そういうものとして白日のもとに曝された〈露顕されえないもの〉なのである。”

“もし、人間性が動物性を宙づりにすることでしか獲得されず、それゆえ、動物性の閉塞に開かれたままに保持されなければならないとするならば、「人間の実存的本質」を把捉しようとするハイデガーの企図が、動物性〔アニマリタス〕がはらむ形而上学的な優位をとらえそこなってしまうのは、いったいなぜなのか。”

第16章 動物化

人間という動物には、自分の同類を家畜にする者もいる。——ペーター・スローターダイク

「およそ七〇年の距たりを経た今日、人々が引き受けるべき、あるいは、たんに課されるだけのものにせよ、いかなる歴史的使命ももはや存在しないことは、まったく誠意に欠けるといった人でないかぎり、誰にとっても、明白なことである。」

「ゲノム、グローバル経済、人道主義という名のイデオロギーは、歴史以後〔ポストストリコ〕の人類が、自分たち自身の生理学を最後の非政治的な委託として受け入れてゆくこのプロセスの、三つのたがいに連動する局面なのである。」

《動物の完全な人間化は、人間の完全な動物化に符号しているのだ。》

第17章 人類創生☆

3…開かれとは
4まさに、
5現代の文明
6人類学機械が

第18章 あいだ

世界のすべての謎は、性をめぐる細微な秘密にくらべれば、取るに足らないことのように思える。——ミシェル・フーコー

「したがって、〔芸術作品は、〕いかなる審判の日も待望することのない自然、歴史の表舞台でもなく人間の棲処でもないような自然のモデルとして定義されるのです。つまり、救出された夜[die gerettete Nacht]なのです。」Benjamin

〈「救出された夜」とは、このおのれ自身へと送り返された自然を指し示す名前なのである。……救済されるべきはむしろ、喪失と忘却そのもの——つまりは、救われえないものである。救出された夜は、救われえないものと関わっている。〉

「この生は、神秘を失うのとひきかえにしてはじめて、自然との関係から解放される。だが、人間を生に結びつけている秘密の絆を——ほどくのではなく——断ち切るのは、すっかり自然に属しているようにみえながら、むしろいたるところで自然をはみだしている要素、すなわち性的充足なのである。性的快楽の土壇場で、神秘から解き放たれ、いわば自然ならざるものを認識することになる生というこの逆説的なイメージのうちに、ベンヤミンは、もうひとつの新たな人間ならざるものの象形文字〔ヒエログリフ〕のようなものを読みとったのだ。」

145Benjamin?

第19章 無為

《恋人たちは、性の充足のうちに、みずからの神秘を失うことで、完全に無活動となった人間本性——救われざる生の至上の形象としての、人間と動物の無活動や無為——に思いを凝らすようになるのである。》

第20章 存在の外で

秘教主義とは、非 - 知の様態を分節化することである。——フリオ・イエージ

《ティツィアーノが描いた恋人同士が、たがいにみずからの神秘の不在を宥し合うように、救出された夜に、生——開かれているわけでもなく、露顕されえないものでもない——は、自己の隠匿性との関係を静かに保ち、これを存在の外に存在させる〔lasciar essere fuori dall'essere〕のである。》

「歴史的な使命を想定することもなく、人類学機械を起動させることもなく、生者が義人たちのメシア的な宴に腰を下ろすことのできる方法がおそらくまだあるだろう。人間を産出してきた接合の秘儀をもういちど解くには、分割をめぐる実践的かつ政治的な神秘の未曾有の深化を経なければならないのである。」

ベンヤミン「歴史の概念について」(1940)

2014-11-18 01:21:09 | Note
*アガンベンを読み解く上でも重要なテクストなので、Twitterに投稿したものに幾つか書き足して纏めておきます。主に、アガンベンの言う「例外状態」や「メシア的時間」に関わる論稿です。通称、〈歴史哲学テーゼ〉と呼ばれるテクスト。


《「歴史的唯物論」と呼ばれている人形は、いつでも勝つことになっているのだ。それは、誰とでもたちどころに張り合うことができる——もし、こんにちでは周知のとおり小さくてみにくい、そのうえ人目をはばからねばならない神学を、それが使いこなしているときには。》

“そして敵は、依然として勝ちつづけているのだ。”

“かれは明らかに勝利者に感情移入しているのだ。しかし、いつの時代でも支配者は、かつての勝利者たち全体の遺産相続人である。したがって勝利者への感情移入は、いつの時代の支配者にも、しごくつごうがよい。”


★アガンベンが『例外状態』でも引いている有名な一節。
《被抑圧者の伝統は、ぼくらがそのなかに生きている「非常事態」が、非常ならぬ通常の状態であることを教える。ぼくらはこれに応じた歴史概念を形成せねばならない。このばあい、真の非常事態を招きよせることが、ぼくらの目前の課題となる。》


〈歴史のなかで人類が進歩するという観念は、均質で空虚な時間をとおって歴史が進行するという観念と、切り離せないものである。こういう進行の観念にたいする批判が、一般に進歩という観念にたいする批判の土台を形成せねばならぬ。〉

「歴史という構造物の場を形成するのは、均質で空虚な時間ではなくて、〈いま〉によってみたされた時間である。」

「したがって暦は、時間を時計のように数えるものではない。暦は、ヨーロッパでは百年まえからもはや、かすかな痕跡もとどめていないかに見える歴史意識の、モニュメントなのである。」

《一般史は理論的武装ではない。一般史のやりくちは加法的であって、均質で空虚な時間をみたすために、大量の事実を召集する。これにたいして、唯物論的歴史叙述の根底にあるのは、構成の原理だ。考えるということは、思考の運動のみならず、思考の停止をもふくむ。》

《この位置からかれは、生起するものを停止させるメシアの合図を——いいかえれば、抑圧された過去を解放する闘争のなかでの、革命的なチャンスの合図を——認識するのだ。》


「〈いま〉という時間が、メシア的な時間のモデルとして、全人類の歴史をおそろしく短縮して総括するとき、それは、人類の歴史が宇宙のなかにおかれたときの、〈あの〉イメージとぴたりと符号する。」


《こうしてかれは、メシア的な時間のかけらが混じえられている〈いま〉としての現在の概念を、基礎づけるのだ。》


「周知のことだが、ユダヤ人には、未来を探しもとめることは禁じられていた。その一方で、律法と祈祷とが、かれらに回想を教えている。回想が、予言者に教示を仰ぐひとびとを捕えている未来という罠から、かれらを救いだす。とはいえ、ユダヤ人にとって、未来は均質で空虚な時間でもなかった。未来のあらゆる瞬間は、そこをとおってメシアが出現する可能性のある、小さな門だったのである。」



☆テクスト内で引用されている言葉

〈ぼくらは歴史を必要とする。しかし、学園に閑居するふやけたやつがそれを必要とするのとは、別のしかたで必要とするのだ。〉——ニーチェ『歴史の効用と害悪について』


〈源泉こそ目標だ。〉——カール・クラウス『詩となったことば I』

アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの——アルシーヴと証人』

2014-11-04 22:39:14 | Agamben アガンベン
——Giorgio Agamben, Quel che resta di Auschwitz : L’archivio e il testimone (Homo sacer III) (1998)


 序言

“これ以上に真実なものはないというくらいにリアルな事実。事実的諸要素を必然的に逸脱してしまっているほどのリアルさ。これがアウシュヴィッツのアポリアである。”

“じつのところ、アウシュヴィッツのアポリアは歴史認識のアポリアにほかならない。すなわち、事実と真実、確証と理解のあいだの不一致である。”

〈もっとも、証言にはその本質的な部分として欠落がともなっていること、すなわち、生き残って証言する者たちは証言しえないものについて証言しているのだということがある時点で明らかとなったので、かれらの証言について注釈することは、必然的に、その欠落について問うことを意味するようになった。あるいはむしろ、その欠落に耳を傾けようとすることを意味するようになった。欠落に耳を傾けることは、著者にはむだな労力とはおもわれなかった。〉

《語られていないことに耳を傾けるやり方、いやおそらくはその唯一可能なやり方である。》


第1章 証人

「責任を負うというふるまいは、純粋に法律的なものであって、倫理的なものではない。」

「しかし、倫理とは罪も責任も知らない世界である。……罪と責任を負うことは——ときにはそうする必要があるにしても——倫理の領域を出て法律の領域に入ることを意味する。……」


《証人は、ギリシア語では martys、すなわち受難者である。最初の教父たちは、迫害されたキリスト教徒の死を指すために、その語から martyrium〔殉教〕という後を得た。迫害されたキリスト教徒は、死ぬことによって自分の信仰について証言したのである。収容所で起こったことは、殉教とはほとんど関係がない。このことについて、生き残った者たちの意見は一致している。》

「ナチズムの犠牲者たちを殉教者と読んだなら、かれらの運命を神秘化することになる」(Bettelheim 1, p.93)

〈こうして、殉教の教義が、無意味な死という躓きの石、ばかげたことにしか見えない虐殺という躓きの石を正当化するために生まれる。〉

“しかし、なぜ言語を絶しているのだろう。なぜ大量虐殺に神秘主義の栄養を与えなければならないのだろう。”


《生き残って証言する者たちは、さも証人であるかのような顔をして、かれらの代わりに代理として語る。生き残りたちの供述する証言は欠落した証言なのだ。……》

《かれらのために証言する責務を引き受ける者は、自分が証言するのは証言することの不可能性のためでなければならないことを知っている。しかし、このことは証言の価値を決定的に変え、証言というものの意味を思いがけない領域に探しにいくことを強いる。》

《証言の言語とは、もはや意味作用をおこなわない言語である。》


第2章 「回教徒」der Muselmann

“しかも、回教徒が棲みかとした生と死、人間的なものと非人間的なものの極限的な閾が政治的な意味をもちうるということ、このこともまた明確に主張されていた。”

“こうして、ベッテルハイムにおいて、収容所は、典型的な極限状況として、なにが人間的で、なにが人間的ではないかを決定することを可能にし、回教徒を人間から分かつのを可能にしている。”

《アウシュヴィッツとは、まさしく、例外状態が正規のものとぴたりと一致していて、極限状況が日常的なもののパラダイムそのものとなっている場所のことである。》


“人間が忌み嫌うものは自分がそれに似ているのを知られたくないものでもあるという法則に従うなら、回教徒こそは、みながこぞって回避しようとするものでもある。というのも、収容所のだれもが、その抹消された顔のうちに自分を認めるからである。”

《死の収容所であるよりもまえに、アウシュヴィッツは、生と死を越えたところでユダヤ人が回教徒に変容し、人間が非‐人間に変容するという、これまで考えられたこともない実験場である。》

〈見ることの不可能性を表象したgorgoneion〔ゴルゴンの頭〕は、見ないではいられないものなのである。〉

《すなわち、見かけは人間のままでも、人間が人間であるのをやめる地点が存在するのである。その地点が回教徒であり、収容所は、かれらにうってつけの場所である。しかし、人間にとって、非‐人間になるとは、なにを意味するのだろうか。人間の生物学的な人間性から区別し分離することのできる人間性は存在するのだろうか。》


“したがって、回教徒とは、ベッテルハイムにとって、放棄することのできない自由の余地を放棄して、その結果、感情の働きと人間性のいかなる痕跡をも消し去ってしまった者のことである。”

《「考えてみる」必要があるのは、まさにこのことであり、ベッテルハイムが信じているように見えるのとはちがって、尊厳の問題ではない。》

《生物種として人類に帰属しているという「究極の」感情とは、どのようなものだろうか。そして、この感情のようなものは存在するのだろうか。回教徒のうちに、多くの者は、ただ単に、この問いに対する答えを探しているように思える。》

〈そこは、上品なままでいることが上品ではなくなる場所、尊厳と自尊心を保持しているとしんじていた者たちがあっという間にそれを失った者たちよりも恥ずかしさを感じる場所なのである。〉

「自分の尊厳がむなしい芝居であること」

《回教徒は、あるひとつの特定種の限界形象なのであり、そこでは、尊厳や自尊心のようなカテゴリーだけでなく、倫理の境界という観念そのものが意味を失ってしまうのである。》

《そして、「種に帰属しているという究極の感情」は、どうあっても尊厳ではありえない。》

“そのもっとも極端な定式化である回教徒は、尊厳が終わったところで始まる倫理もしくは生の形態の番人である。……”

《アウシュヴィッツでは、人が死んだのではなく、死体が生産されたのである。……》


〈いいかえれば、近代によって引き起こされた死の非本来化を目の前にして、詩人は、フロイト的な喪の図式にしたがって反応しているのである。失った対象を自分のうちに取りこもうとしているのだ。あるいは、メランコリーというそれと同種のケースがそうであるように、本来のものであるとか本来のものでないと語ることが単純に無意味であるような対象——死——を、奪われたものとして出現させている。〉

《……無数の、残酷な、死なない死 (ungestorbener Tode) という途方もなく悲惨な状況がいたるところに見られる。にもかかわらず、死の本質は、人間には阻まれている。》——ハイデガーの講演「危機」より

《しかしそれなら、収容所においては、“死ぬ”死、本来的な存在のうちで耐えられる死とは、なんでありえたのだろうか。そして、アウシュヴィッツでは、本来の死を本来のものでない死から区別することに本当に意味があるのだろうか。》


“じっさい、収容所は、自分本来のものと自分本来のものでないもの、可能なものと不可能なもののあらゆる区別がまったくなくなる場所である。”

《自分本来のものでないものの本来化は、もはや可能ではない。》

〈このことが意味するのは、人間は非人間的なものの刻印を担っているということであり、人間の精神は非‐精神という傷、すべてを受け入れられる人間の能力のもとへと残酷にも引き渡された非人間的なカオスという傷をみじからの中心に含みもっているということである。〉

《回教徒は、執拗に人間としてあらわれる非‐人間なのであり、非‐人間的なものと区別することのできない人間的なものなのである。》

〈いいかえれば、“人間は人間のあとも生き残ることのできる者である”ということである。〉


〈こうして、ナチスの生政治のシステムにおける収容所の決定的な役割が理解される。収容所は、死と大量殺戮の場であるだくでなく、なによりも、回教徒を生産する場、生物学的な連続体のうちで切り離されうる究極の生政治的実体を生産する場である。その向こうにはガス室しかない。〉

〈そして、それは、どれか特定の地理的空間にひとたび据えられたなら、その地理的空間を生政治の絶対空間、そこへと人間の生が定めることの可能ないかなる生政治的アイデンティティをも越えて移行していく生にして死の空間 (Lebens-und Todesraum) に変容させてしまう生政治の機械にほかならない。ここにいたっては、死は単なる付帯現象にすぎない。〉


第3章 恥ずかしさ、あるいは主体について

《あたかも、生き残った者は、他人の代わりに生きることしかできなくなるかのようである。》

《生き残った者の恥ずかしさのもつ別の顔は、ただ単純に生き残ったことそのものを讃えることである。》


「〔…〕まだ生きている者にたいするわたしたちの義務は、生存本能を強化することである」(Bettelheim 1, p.102)

《これら二つの像は、生者が無実と罪を分離しておくこと——自分の恥ずかしさになんとか決着をつけること——の不可能性の二つの顔である。》


「意外なことに、あらゆる年代のドイツ人がナチズムにまつわる集団的な罪を戦後になって進んで負ったということ、かれらの親やかれらの民族が犯したことに進んで罪を感じたということの裏には、同じくらい意外なことに、個々人の責任を確認し、個々の犯罪を処罰することにたいする消極的な気持ちがはたらいていたのだったということについて想起するよううながしたのは、ハナ・アーレントだった。」


「しかし、生き残り証人が恥ずかしさを感じているのは他人の代わりに生きているがゆえの罪の意識によるという説明が信用できない理由は、ほかにももうひとつある。」

〈悲劇的であるのは、わたしたちには無実に見える主体が客観的な罪を無条件に負うからなのである。〉

《アウシュヴィッツ以後、悲劇のモデルを倫理に利用することは不可能なのである。》


「恥ずかしさは、本当には罪の意識、すなわち他人よりも長生きしたがゆえの恥ずかしさではないこと」

「すなわち、人間は、死に臨んでも、その赤面、その恥ずかしさ以外のいかなる意味も自分の死に見いだすことができないということ」


《その“自己”とは、自己触発の——能動的にして受動的な——二重の運動において、残りのもの (resto) として生まれるものである。このために主体性は主体化であると同時に脱主体化でもあるという形態を構造的にもっているのであり、このためにそれはその本質において恥ずかしさなのである。赤面とは、あらゆる主体化において脱主体化をあらわにし、あらゆる脱主体化において主体について証言するところの、その残りのもの (resto) にほかならない。》


《あたかも、言葉を発することにともなう恥ずかしい脱主体化は秘密の美を吹くんでいて、詩人を休みなくみずからの疎外について証言するよう突き動かしてやまないかのようである。》


「記号の世界は閉じている。記号から文へは、連辞化によってであろうと、ほかのやり方によってであろうと、移行はない。ひとつの裂け目が両者を分け隔てている」(Benveniste 2, p.65)

「言表の主体は、完全にディスクールのうちに存在しており、完全にディスクールからなるのであるが、まさにこのために、ディスクールのうちにあって、かれは何も言うことができず、話すことができないのである。」

〈したがって、言葉を発する行為に含まれているこの内密の疎外に直面して、詩人たちが責任と恥ずかしさのようなものを感じたとしても不思議ではない。〉

〈こうして言葉をもたない者と話す者、非‐人間と人間は——証言において——、無差別の地帯に入りこむ。そして、その地帯では主体の位置を割り当てることは不可能なのであり、自我という「夢想された実体」、またそれとともに真の証人をつきとめることは不可能なのである。〉


《恥ずかしさがあらゆる主体性とあらゆる意識の隠れた構造のようなものであるのはどのような意味においてであるのかが、いまや明らかとなる。もっぱら言表の行為を本質とするかぎりで、意識は、構造的に、引き受けられないものへと引き渡されているという形をとっている。意識するということは、無意識にゆだねられていることを意味するのである。(ハイデガーにおける意識の構造としての罪も、フロイトにおける無意識の必然性も、ここに由来する。)》


《“人間とは非‐人間であり、人間性が完全に破壊された者こそは真に人間的である”ということである。》

《“証人とはその残りのもののことなのである”。》


第4章 アルシーヴと証言

《さまざまな学問の体系と多様な知が、意味をそなえたもろもろの文、もろもろの命題、多少なりともうまく作られたもろもろの言説を言語活動の内部にあって定義しているのだとすれば、考古学のほうはこれらの命題やこれらの言説の純粋な生起、すなわち言語活動の外部、言語活動が存在するという単純な事実そのものをみずからの領分として要求するのである。》

「それの空虚のなかで言語活動の果てしない溢出が休みなく追い求められる場所である非存在 (inexistence)」(Foucault 3, p.112)

「言表 (�・nonciation)」の主体は、意味内容によってではなく、言語活動のできごとによって支えられている。……」Agamben

「すなわち、アルシーヴとは意味をそなえたあらゆる言説のうちにそれの言表の機能として刻みこまれる非‐意味論的なもののかたまりであり、あらゆる具体的な発語を取り巻いてそれを限界づける暗い余白である。」


《偶然性 (contingenza) というのは、可能なもの、不可能なもの、必然的なものと並ぶ様相のひとつではない。》

《偶然性とは主体の試練にかけられた可能なもののことである。》


《つまり、証言というのはつねに「アウクトル (auctor)」の行為なのであって、不十分なところを補い、能力が欠如しているものに能力を授けるという、本質的な二元性をつねに秘めているのである。》

“単独で効力をもっているとうぬぼれているようなアウクトルの行為には、なんの意味もない。”

《証言が保証するのは、アルシーヴに保管されている言表されたものの即物的な真理についてではない。証言が保証するのは、自分の保管不可能性、自分がアルシーヴの外部にいること、すなわち——言語の存在として——自分が記憶からも忘却からも不可避的に逃れ出る存在であることについてである。》


〈根拠とは、ここでは目的〔テロス〕の関数であって、目的〔テロス〕とは人間の到達点もしくは根拠、非人間の人間への生成の到達点もしくは根拠のことである。徹底的に問題視しなければならないのは、この考え方である。〉

《未来に向かってではなく、単に過去に向かってでもなく、中間の剰余のなかで時を満たすものこそ、まさに歴史的である。メシアの王国は未来(至福千年)でも過去(黄金時代)でもない。それは“残っている時間” (tempo restante) なのである。》

-Φ を考える3——ベンヤミン「暴力批判論」

2014-11-04 00:39:51 | 精神分析について
■20141102:ベンヤミンの神話的暴力と神的暴力について(「暴力批判論」から抜粋)

《いっさいの領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪をつくり、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。》

“だが、まさに滅ぼしながらもこの裁きは、同時に罪を取り去っている。この暴力の無血的性格と滅罪的性格との、根底的な関連性は、見まがいようがない。”

《したがってその形態は、神自身が直接にそれを奇蹟として行使することによってではなく、血の匂いのない、衝撃的な、罪を取り去る暴力の執行、という諸要因によって——究極的には、あらゆる法措定の不在によって——定義される。》


■20141103:追記(新たなる理論的な布置として)

以前、「倒錯に関する覚え書」で理論的な布置として、S1(排除のシニフィアン)-S2(包摂のシニフィアン)の拮抗を描き出した。

ベンヤミン「暴力批判論」を接続させることにより、この両者の弁証法(法措定暴力S1と法維持暴力S2)は、副次的に過ぎないことが今や明らかになる。


“この変動法則の基礎は、法維持の暴力はかならずその持続の過程で、敵対する対抗暴力を抑圧することをつうじて、自己を代表する法措定の暴力をもおのずから、間接的に弱めてしまう”

“神話的な法形態にしばられたこの循環を打破するときにこそ、いいかえれば、互いに依拠しあっている法と暴力を、つまり究極的には国家暴力を廃止する時にこそ、新しい歴史的時代が創出される”

《しかし、非難されるべきものは、いっさいの神話的暴力、法措定の——支配の、といってもよい——暴力である。これに仕える法維持の暴力、管理される暴力も、同じく非難されねばならない。これらにたいして神的な暴力は、神聖な執行の印章であって、けっして手段ではないが、摂理の暴力ともいえるかもしれない。》——ベンヤミン「暴力批判論」(1920/21)