ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

倒錯に関する覚え書

2013-04-03 01:24:40 | 精神分析について
——パリ・フロイト学派へのオマージュ


□ギイ・ロゾラート「フェティシズムの構造」より引用

《要するに、否認はいまだ知覚と結びついたままで、言葉より“表象”に近いことが強調されているのである。》

《あるきまった快楽に意を集中する倒錯者が、そのことから欲望と苦痛を混同することはありうる。》

《倒錯者の自我の分裂は、ある一定の中心的な主題に加えられた否認のために、おそらくひとつの想起として、構成された複写として、主体の分割を証拠だてる機制として存在し、この切り傷は、崇拝対象を介して置き換えられ、比を与えられ、視覚化され、“客観化される”。》

《倒錯者にとって、快楽は、かれの掟がかれの欲望であることの表示である、といえよう。》


■考察

倒錯者は、自身の身体を《母》に見たてるが故に、それを構造化することから逃れようとする。

そして、自身の欲望を、“理想の父”に預けることにより全能性を投射し―その変わりに“現実の父”は抹殺される―、その位置から母たる身体に“ファルス的ナルシシズム”を付与し、この二重の操作により《去勢》を「否認」している。換言すれば、倒錯者は、自身の身体で理想の父の庇護の元に、近親相姦願望を満たす。

この倒錯者における父の二重性―理想の父と現実の父―が、彼らの軽躁病的興奮や周期的鬱病という形で、情動を支配しているとも言える。

もう一点特筆すべきこととして、倒錯者が、その「否認」を維持する上で必要な女性との曖昧な共犯関係が挙げられる。この女性は、倒錯者の保護者であり、友人であり、想像的な恋人のような役割を持つ者である。

倒錯者の眼差しは、フェティッシュによって必然的に捉えられている。フェティシストが理論や知識を好む性向があるのは、このフェティッシュに魅せられた〈換喩的な規則性〉においてである。そこから、倒錯者特有の経済への偏向性も導かれる。(マルクス風に言うなら、倒錯者は〈一般的等価形態〉を好むのだ)


■倒錯者における絆

倒錯者同士を結び付けているのは、愛というよりも〈情熱の絆〉です。その情熱において、精神分析的な正常な主体、つまり神経症的な主体が〈愚鈍な者〉として貶められる事実は指摘して然るべきでしょう。(これが、倒錯が投げかける問題の振幅です)

倒錯者にとっては、愛が挑戦として意識されているということです。彼らにおいて、精神分析が禁欲主義的な理想、つまり苦行のように捉えられている事実も、それを物語っています。倒錯者の語る愛とは、〈情熱の罠〉になるのです。

「…これはまた、彼らが義務とか同情とか呼んでいる感情、さらにずっと頻繁に《愛情》と呼んでいる感情を理由としてなされるのであるが、こうした感情があらゆる弱さ、さらにはあらゆる自由主義を正当化できると主張する。」(ジャン・クラヴルール)

つまり、倒錯者の弱さは、愛において、情熱を“克服しよう”と望むこと―それはナルシシズム的情熱です―にあるのです。そして、それ自体がまた別の情熱に囚われてしまうことに、倒錯者は気づいていません。倒錯とは、自らが仕掛ける罠に自らが嵌るような構造を示しています。


■神経症と倒錯の間~眼差しと目

「カップルの“不釣合い”という言葉はつねに注目されるべきである。私はここで、ラカンが彼の〈自覚的な不釣合い〉に関するセミネールのために一貫して『饗宴』の同性愛のカップルに準拠していたのを思い起こさないわけにはゆかない。」(ジャン・クラヴルール)

正常な神経症者が享楽に“耐える”ところを、倒錯者は“探求”しています。ここに、倒錯者特有の非礼や侮辱が表現されています。

ここで、知の問題を持ち出すと、倒錯者の知とは“否認の知”、あえて言うなら、知が“欺く”という事実を無視するような知ではないでしょうか。倒錯者は、真理と知が分裂する場所においてこそ、確実性―母のファルスへの確信―を呼び込むわけです。それはいかなる情動によってでしょうか?

「感嘆」という情動によってです。それによって彼らは〈非―知〉の領域に場所を明け渡すことを、不当なことのように幻惑されてしまうのです。このように言えるでしょう。“倒錯者の情熱は、〈眼差し〉の次元を〈目〉に担保することに向けられている”、と。

倒錯者の〈目〉は、“理想化”の刻印から“知性化”という防衛に到るような通路なのです。ここに彼らの持つ〈秘密〉が隠されているわけです。


■倒錯の精神分析~“知の欠如”と“騙されない知”という挑戦

「ところで、倒錯者の否認が向かうところはまさしくこの点なのである。いわく、欲望の原因は“欠如”ではなく、“現前”(フェティッシュ)である、と。」(ジャン・クラヴルール)

倒錯の精神分析は、“知の欠如”による欲望の原因についての再解釈の機会をもたらします。倒錯者の欠いているものはこの再解釈であり、この再解釈がある遡及する力を持っています。


「…したがって、見ること、知ることの欲望は構造的に性欲とは異なっているのである。」

「最後にそれは、事実の打ち消しに直面して訂正のきかない、頑固で執拗な一種の知であり、どうあっても他人から快楽が得られると確信しているエロティシズムの種々相に関する知である。」


倒錯者が“知ろうと欲すること”により、欲望の原因(欠如)を否認することから、倒錯者は男性においては概してメカ好きが多いんですね。パソコンを含めた機械類や車にも愛を感じてしまう、つまり“性愛化”しています。

もっと言うなら、神経症者が愛の対象を幻覚の次元から同一化するのに対し、倒錯者は幻覚や幻滅を経由していないが故に、生の現実で触れてしまうのです。倒錯者の危険は、ヘーゲル的〈絶対知〉への接近であり、その上にフェティッシュを厳密に構成することにあると言えるでしょう。

ある種の女性においても、“愛する”のではなしに、相手を“知ろうと欲する”女性がいます。ここに女性が男性を愛することと、母親のポジション―母親の目―から男性を貶めることの違いを指摘してもいいかも知れません。

これが、倒錯者が神経症者との間に繰り広げる愛の攻防と言ってもいいでしょう。倒錯者は男性にせよ女性にせよ、表現の仕方に違いは見られるとは言え、正常つまり神経症的な愛に“挑戦”せずにはいられないのです。(歴史的に見ればこれは、キリスト教の発生にまで遡ります)

ここにラカンの言う、〈騙されない彷徨う者たち〉の発生を見ることすら可能です。倒錯者の〈目〉に写るのは、“騙されている自分の姿”を認めるではなしに、延々と自分を“騙す者”として発見し、また発見するがままになるということなのです。まさに、〈彷徨う=間違う者たち〉なのです。


■倒錯者の〈大他者〉を巡る擬態~偶然なきエロティシズム

倒錯者が“装う”親みの情や礼儀の中には、既に「挑戦」が秘められています。そこで彼らは自らの倒錯行為の共犯者を得ようと目論むのです。その目論みの前に、彼らは欲望においては譲っています。

付け加えますと、倒錯者の〈知〉に示す態度は、擬態のようなものでありポーズです。彼らは興味があるような素振りを見せますが、“欠如の知”―元を辿れば、母親が去勢されていることの事実―については本心では知ろうとしないで、曖昧な態度をとります。

例えば、彼らが分からないことを辞書で調べるという事一つをとってみても、彼らがしていることは、欲望の原因=対象である“欠如”を〈大他者〉の目、つまり母親の目で埋めてしまうのです。

逆に、正常な神経症者なら、そこに愛の対象のために幻覚が占めることになる“欠如”を残します。つまり、“欺く知”に騙され、倒錯者のように、欠如を知で埋め尽くすようなこと、騙されないようなことはしないのです。

はっきり言いますと、彼らは”知らない”という態度―母親が去勢されているという事実、つまり“欠如の知”の承認―をとれないのです。

正常な神経症者なら、“欠如の知”の承認から、“知の欠如”へと向かうことを「学習」と言うでしょう。倒錯者の質問の仕方すら、根底には“欠如の知”に対する不信感や疑念、挑戦の調子を帯びています。その意味では、倒錯者の真の相手は、〈大他者〉の目―彼岸の目―です。

ギイ・ロゾラートはこう述べます。「倒錯者は言葉ではなく眼差しのなかに、そのいっさいの知を汲みとり、さらには汲みとろうとします(私は根源的な外傷の空想に関係づけています)」。そこから、倒錯者のエロティシズムが、偶然を排した必然に絡め取られている様子すら見えてくるでしょう。


□以下は理論的な布置として

正常な神経症者の〈知の欠如〉、つまり「分離の根源」に位置する“父の名”と、倒錯構造における〈否認的な知〉をラカンのマテームで表現してみると、次のようになる。

〈知の欠如〉→a/S1
〈否認的な知〉→S2/a

※前者は、“父の名”からの対象aの抽出の成功であり、後者は、対象aを知で埋めていることを意味している。

尚、〈否認的な知〉の方は、「無意識のディスクール」の右辺と一致していることから、倒錯のディスクールを「無意識のディスクールの半身」と呼ぶことも出来よう。


更に、両式を“欠如”を表す欲望の原因=対象aを介し合成することで得られる次のマテームを挙げておく。

S2/a/S1

これは、ジジェクの指摘している、現実界におけるS1(=主人のシニフィアン)とS2(=一連の通常のシニフィアン)との間のヘゲモニー闘争を意味している。

ゲーテ語録

2013-04-02 00:01:00 | Note
★新潮文庫『ゲーテ格言集』から抜粋しました。


人間のあやまちこそ人間をほんとうに愛すべきものにする。

愛人の欠点を美徳と思わないほどの者は、愛しているとは言えない。

人間は、なんと知ることの早く、おこなうことの遅い生き物だろう!

人類ですって? そんなものは抽象名詞です。昔から存在していたのは人間だけです。将来も存在するのは人間だけでしょう。

憎しみは積極的不満で、嫉みは消極的不満である。それゆえ、嫉みがたちまち憎しみに変わっても怪しむにたりない。

君の胸から出たものでなければ、人の胸を胸にひきつけることは決してできない。

頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ!

内面のものを熱望する者は
すでに偉大で富んでいる。

学術においても実際は人は何も知ることはできない。常に実践が必要である。

感覚は欺かない。判断が欺くのだ。



信仰は、見えざるものへの愛、不可能なもの、ありそうにもないものへの信仰である。

キリスト教は、政治的革命を企てたが、失敗したので、のちに道徳的なものになった。

われわれの処世術の本領は、生存するためにわれわれの存在を放棄するところにある。

人が君の議論を認めない場合も、忍耐を失うな。(コーランから)

慰めは、無意味なことばだ。
絶望しないものは生きてはならない。

すべて慰めは卑劣だ。絶望だけが義務だ。

不可能を欲する人間を私は愛する。

不可能であるがゆえにこそ、信じるに値する。

人間だけが不可能なことをなし得る。



古典的なものは健康であり、ロマン的なものは病的である。

フランス語は、書かれたラテン語からではなく、話されたラテン語から生じた。

われわれ自身を制御することをなさしめないで、われわれの精神を解放するものはすべて危険である。

個人は何ものかに達するためには、自己を諦めなければならないことを、だれも理解しない。

無制限な活動は、どんな種類のものであろうと、結局破産する。

自負し過ぎない者は、自分で思っている以上の人間である。

人が実際の値打以上に思い上がること、実際の値打以下に自分を評価すること、共に、大きな誤りである。

だれでも、人々が自分を救世主として待望しているなどとは思わないでくれ!

一般的な概念と大きな自負は、ともすれば恐ろしい不幸をひき起こす。

願望したものを持っていると思いこんでいる時ほど、願望から遠ざかっていることはない。

卑怯者は、安全な時だけ、威たけ高になる。

自由でないのに、自分は自由だと思っているものほど奴隷になっているものはない。

豊かさは節度の中にだけある。

有能な人は、常に学ぶ人である。

根本悪とは、めいめいができるだけ自分のなり得るものになりたがり、他の者は無であれ、否、いなければよいと思うこと。

多数というものよりしゃくにさわるものはない。なぜなら、多数を構成しているものは少数の有力な先進者のほかには、大勢順応のならず者と、同化される弱者と、自分の欲することさえ全然わからないでくっついて来る大衆とであるから。

実際の道徳の世界は大部分悪意と嫉妬から成り立っている。

不正のことが、不正な方法で除かれるよりは、不正がおこなわれている方がまだいい。

無秩序を忍ぶよりは、むしろ不正を犯したい。

われわれは平等ではないし、平等ではあり得ないことを、ぼくはよく知っている。しかしぼくは、尊敬を受けるためにいわゆる下層民から遠ざかる必要があると信じている人間は、負けることを恐れて敵に姿を隠す卑怯者と同様に非難に値すると思う。



真の弟子は、知られたものから知られざるもを発展させることを学び、かくして師に近づく。

わたしは人間だったのだ。
そしてそれは戦う人だということを意味している。

人は努めている間は迷うものだ。

よい人間は暗黒な衝動にかられても、
正しい道を忘れはしない。

絶えず努めて倦まざる者を
われらは、救うことができる。

種をまくことは、取り入れほど困難ではない。

一切の理論は灰いろで、
緑なのは生活の黄金の木だ。

生活はすべて次の二つから成立っている。
したいけど、できない。
できるけど、したくない。

神聖な真剣さだけが生活を永遠にする。

目標に近づくほど、困難は増大する。

欺かれるのではない、われみずからを欺くのである。

思慮を欠いた事をすると、始終、逃げ道はないかと探していなければならない。

賢い人々は常に最上の百科全書である。

どんな賢明なことでも既に考えられている。それをもう一度考えてみる必要があるだけだ。

経験したことは理解した、と思いこんでいる人がたくさんいる。



人は重い鎖を恐れて、
軽い“わな”の中にかけこむ。

すぐれた人々は他のものよりも損である。人々は自分を彼らと比較できないので、彼らを監視する。

灰色の馬が百頭寄っても、ただ一頭の白馬にもならぬ。

人はほんとうは、ほとんど知らない時にのみ知っている。知識と共に疑いが増す。

適切な答は愛らしいキスのようだ。

人はみな、わかることだけ聞いている。

見識の代わりに知識を持ち出す人々がある。

博学はまだ判断ではない。

忘恩は一種の弱点である。有能な人で忘恩だったというのを、私はまだ見たことがない。

私が愚かなことを言うと、彼らは私の言いぶんを認める。
私が言うことが正しいと、彼らは私を非難しようとする。

人々は人間を実際以上に危険だと思いがちである。

愚か者と賢い人は同様に害がない。半分愚かな者と半分賢い者とだけが、最も危険である。

光の多いところは、強い影がある。

すぐれたものを認めないことこそ、即ち野蛮だ。

予めおもんぱかれば、簡単であるが、後になっておもんぱかれば、複雑になる。

あせることは何の役にも立たない。
後悔はなおさら役に立たない。
前者はあやまちを増し、
後者は新しい後悔を作る。

敵の功績を認めることより
大きな利益を私は名づけ得ないだろう。

耳ある者は聞くべし。
金ある者は使うべし。

ジジェク語録3(未編集)

2013-04-02 00:00:51 | Note
「一言でいえば、ブルジョアジーは、宗教的および政治的な幻影で隠された搾取を、あからさまで恥知らずの、露骨であけすけな搾取と置き換えたのだ。」——『共産主義者宣言』


《いわゆる「ポストモダン」の主体性とは、こうして、本来的な象徴的禁止の欠如を原因とする、ある種の“想像的理想の直接的な「超自我化」”に関わっているのである。》35

〈すなわち政治とは“不可能なこと”についての技法なのだ。そして政治とは現存の配置図において「可能」と考えられることの要素それ自体を変更することなのだ。〉42


《それは、他者が私に成り代わる、あるいは他者が私のために何かをする、という状況を指示しているのではなく、その正反対の状況、すなわち、私は他者の受動性によって、“絶え間なく能動(行為)的であり”、そうすることで私の行動を維持するという状況を指示しているのである。》63

〈そうした強迫神経症患者は、本当に問題になっていることが問題として顕在化しないように、言い換えれば、本当の問題が起動されることなく放置されるという状況を確実に保証するために、つねに話し続けているか、さもなければ血迷ったかのように能動(行為)的になっているのだ。〉64


ジャック・ランシエール
エチエンヌ・バリバール

ジジェク語録2

2013-04-02 00:00:01 | Note
◇論文「精神分析に横断される哲学」(『批評空間』1992 No.6 所収)

“幻想とは究極的にはつねに成功した性的関係の幻想であるというラカンのテーゼ”

《幻想の空間はしたがって断固として二次的で、それはある限界に「実体を与え」、具現化する、いやもっと正確に言うなら、それは“不可能なものを禁じられたもの”に変えるのである。》

《〈主=師〉の言説の「裏」としての分析的言説は、〈主=師としてのシニフィアン〉によるばらばらな領域の「キルティング」に先立つ決定不能性の状態、つまりシニフィアンの「自由な浮遊」の状態に我々を移しいれる――そこで「反復」されるのは、究極的には、被分析者の象徴的空間を生みだした偶然性そのものである。》

“したがって「使徒」はシニフィアンの「“代表”Repraesentanz」の機能にぴったりと対応している。いっさいの〈病理学的=パトローギッシュ〉特徴(彼の心理的性癖など)を無効にすることによって彼は単なる代表に仕立てあげられる。”

《権威が直接的‐感覚的強制によって支えられている場合、我々が扱っているものは権威そのもの(すなわち、象徴的権威)ではなくたんに暴力の力である。権威そのものはそのもっとも根本的な水準ではつねに無力であり、或る「呼びかけcall」であって、それは「実際に我々を強制して何かにすることはできない」ながらも、一種の内的な強制的衝動によって無条件的にこれに従わなければならないと我々は感じるのである。》

「彼〔キルケゴール〕によれば、“権威‐ある‐言表の究極にして唯一の支えはそれを発話する行為自体である”。」

《キルケゴールは「天才」を「使徒」から隔てる深淵に関してこの「質的差異」を展開した。すなわち、「天才」は人間の内在的能力(知恵、創造性……)がもっとも強められたものを代表しているが、他方「使徒」は天才にはない超越的権威によって支えられている、というわけである。》


◆『信じるということ』
——ON BELIEF by Slavoj Žižek (2001)

「〈愛〉はつねに〈他者〉に対する愛であり、相手に欠けているところがあればこそのものである――われわれが〈他者〉を愛するのは、相手の限界、無力、さらには平凡さ“ゆえ”のことだ。」


〈ユダヤ人は、自分が信じていることを“宣言”する必要はなく、実践において直接“示す”のだ。だからキリスト教は内面の動揺の宗教であり、自己検証の宗教だが、ユダヤ教にとっての問題は、結局のところ、「外部の」法的言説の問題である――ユダヤ人は従うべき規則に注目し、「内面で信じているか」という問題は、まったく立てられない。〉


《今日の個人性の主流になっている形態では、自己中心的な心理的主体の肯定は、逆説的に、状況の犠牲者としての自分という認識と重なるのである。》


〈これこそ、「形式的」自由と「現実の」自由との区別が、最終的に帰着するところである。「形式的」自由は、既存の権力関係の座標系“内部”での選択の自由である一方で、「現実の」自由は、この座標そのものを危うくする介入の場を指している。〉

〈これが意味することは、この集合を意識して変更する行為としての「実際の自由」は、強制された選択の状況の中で、人は“あたかも選択は強制されていないかのように行為”し、「不可能なことを選ぶ」ときにしか生じない。〉


〈権威の営みを正当化する三つの方法(「権威主義的」、「全体主義的」、「自由主義的」)は、何のことはない、この空虚な呼びかけの深淵が誘惑する力を覆い隠し、見えなくする三つの方法なのだ。ある意味で、自由主義は三つの中でも最悪でさえある。何せそれは、服従の理由を、主体の内面の心理的構造の中に“自然化”するのだから。つまり逆説は、「自由主義的な」主体が、ある意味でいちばん自由ではないというところである。自由主義者は、自分の見解/認識を変え、自分に“押しつけ”られたものを、自身の「本性」に由来するものとして受け入れるのだ――彼らはもはや、自分が服従していることも“自覚”していない。〉


《「ソクラテス」は、ある発話の“立場”を指すのであり、共同体からの「プラグ抜き」の立場を指すのであって、そのために、彼は命題の集合ではなく、自分の生命を支払ったのだ。》


《人が犠牲をささげるのは、〈他者〉から何かを得るためではなく、〈他者〉を騙すため、相手に、こちらにはまだ何かが、つまり享楽が欠けていると思い込ませるためである。だから強迫観念にとりつかれると、繰り返し、犠牲の強迫的儀礼を成し遂げなければという、強迫を感じるのだ――〈他者〉の目の前では自分の享楽を否認するために。レベルを変えると、いわゆる「女の犠牲」についても、女が裏方に残る側にまわり、夫や家族のために犠牲にすることにも成り立つではないか。この犠牲は、〈他者〉を騙すために使われ、犠牲を通じて、女は実は、自分に欠けているものを必死に求めていると、〈他者〉に思い込ませるという意味で、偽物ではないのか。まさにこの意味で、犠牲と去勢は、反対のものと見るべきだ。犠牲は、去勢を自発的に受け入れるどころか、それを否認する、つまり、自分は実は、自分を愛するに値する対象にする秘宝を所有しているかのようにふるまう手の込んだ方法である……。》


“フロイトのエロス化された身体は、リビドーに維持され、不均一の諸地帯をめぐって組織された、まさに非動物的、非生物学的身体ではないか。この(そして動物的でない)身体こそ、精神分析の本来の対象ではないのか。”

“われわれは新しい状況で、どうやって〈古いもの〉に忠実でいられるかということである。そうでないと、本当に〈新しい〉ものは生成できない。同じことは精神分析にも言える。”

“時には、両者間の境がほとんど識別できないことがある。対象が症候(抑圧された欲望の)として機能し、ほとんど同時に呪物(公式には縁を切っている信条を託す)として機能することがある。”

《つまりモダンは、それが勝利したときに敗北するのだ。》



◆『「テロル」と戦争――〈現実界〉の砂漠へようこそ』
——WELCOME TO THE DESERT OF THE REAL! by Slavoj Žižek (2002)

“アメリカの多文化主義的なグローバル帝国にとってプレモダンな伝統を統合することなど容易いことだ。アメリカが事実上同化し得ない実体としての外国は、ヨーロッパ的なモダニティー〔近代〕である。”

“フロイトに事寄せてアドルノは、現代の「行政化された世界」とその「抑圧的な脱昇華」から私たちが得つつあることは、もはやイドとその欲動といった旧来の論理ではなく、自我を犠牲にした超自我(社会的権威)とイド(禁制の攻撃的欲動)との倒錯的な直接的協定であると主張している。そうしたことと構造的に似ている何かが、今日の政治レヴェルにおいても進行しているのではないだろうか――ポストモダンなグローバル資本主義[超自我]とプレモダンな諸社会[イド]とのモダニティー〔近代〕それ自体[自我]を生贄にした異様な協定が?”

〈何かをしなければ――だが何を? 抗争はそれ自身の構成要素においては解決され得ない。この悪循環を突破する唯一の途は、抗争の座標軸それ自体を変化させる行為をとおしてもたらされる。〉

《まさに全国民を〈聖なる人間〉へと還元し、彼らから共同体の構成員としての自立性を剥奪する文律・不文律のネットワークへと彼らを従属せしめるという側面こそ、問題なのだ。》

《遠く隔たって安全な場所から蔑みの普遍的判断を宣告するようなそうした一般化は、倫理的裏切りの形式、“まさに形式それ自体”である。》

《他者を〈聖なる人間〉として扱うようになるとき、それと似た無視、ある種の倫理的エポケーが動員される、と私は主張したい。またとすれば、いかにこの窮状を突破すべきなのだろうか?》


《ここでシュミットは、カント的範疇〈構想力 Einbildungskraft〉、構想することの超越論的力に言及している。敵を認知するには、既存の諸範疇の許へ[そのイメージを]概念的に包摂するだけでは不充分である。対象を憎悪と闘争の適切なターゲットへと作りあげることができる具体的な形ある形象を供給することで、〈敵〉の論理的形象が「図式化」されねばならないのだ。》


《真の問題が、排除されている人びとの脆弱な地位にではなく、むしろ私たち“すべて”が、もっとも基本的なレヴェルで、「排除されて」いるという事実、私たちの「ゼロ」ポジションが生政治の対象というポジションであり、ありうべき市民としての政治的権利が生政治的な戦略的配置にそくして与えられている二次的な素振りにすぎないという意味で「排除されて」いる事実に存在するとしたら、どうだろう? そして、これが「ポスト・ポリティクス」という考え方の究極的帰結だとしたら、どうだろう?》


「〈末人〉が選び採る「ポスト‐形而上学的」な延命策は、自分の影をだらだらと引き擦って進む生彩のない生のスペクタクルに終始することだ。」

「こうした、あらゆる超越的〈大義〉に反対し、あくまで〈生〉の肯定にしがみつくという態度における最大の敗北がアクチュアルな生それ自体の敗北に他ならないというパラドクスは、まさにニーチェ的なパラドクスである。生を「生きるに値する」ように作りあげること、それが生の過剰である。」


「大きな〈他者〉というイデオロギーの存在に疑問を呈するポストモダンな疑惑への適切な応答は、存在していないのは主体それ自体なのだ……と。」


「民主主義は現代政治の主要なフェティッシュであり、社会的敵対の基本的な否認である。選挙制度によって社会的位階は一時的に宙吊りにされ、社会体は頭数を数えることができる純粋な意味でのマルチチュードへ切り縮められ、またその結果、敵対もまた宙吊りにされたのだ。」

“「正直な民主主義」という理念は、こうして、一つの幻想である”

“民主的政治秩序は、腐敗し易いというまさにそうした性質によってこそ成り立っている”。


“私たちは、自分の象徴的任務を引き受けることなく、また「マジに考える」こともなく、演じている。この父は、父であるなどといった愚かしさについてアイロニック/反省的なコメントを垂れ流しながら、父として機能しているのだ。”


“マルチチュード、全体化し得ない差異の脱中心化された叢生という現代における生のあり方についてのドゥルーズ的な詩的感興ほど、単調なものはないではないか?”

“ドゥルーズについての明敏なブックレットでバディウは、哲学から文学そして映画に到るいかなる論題に関わってであろうと、同一な概念的基盤を繰り返し反復し再発見した哲学者がいたとすれば、それはドゥルーズに他ならないことに注意を喚起している。”


“現実の普遍性とは、ある固有の文化から他の文化への翻訳といった、獲得されたことなど決してなかった中間的空間ではなく、むしろ、いかに私たちが文化的な乖離を貫いて同一の敵対を共有するのかといった、暴力的な経験なのである。”


“欲望は人びとをもっと先まで進ませる力だった――結局それは、大方を占める多数派が明らかに“より”幸せでは“ない”システムを導きだすことになる。”

“幸福の代償は主体がその欲望の一貫性のなさにしがみついたままでいることなのだ。”

“こうして幸福は、本質的には、欺瞞である。それは私たちが本当は望んでいないものに憧れるという幸福である。”


「だが彼らが分かっていないこと、それはこのどん底世界と自分自身のイカサマの純粋性との間にはヘーゲルの思弁が見抜いた同一性が存在するということである」

“〈悪〉は〈悪〉をそこいらじゅうに感じ取る無辜の眼差しそれ自体に(もまた)棲まっているという、ヘーゲルのよく知られた格言”


“選択の表見上の明瞭さを梯子として、蒙昧化が全面化する”


“ムスリム原理主義に対立するグローバルな資本主義的リベラリズムはそれ自体として原理主義の一様式であり、したがって現在進行中の「テロリズムとの戦争」で私たちは、事実上、原理主義の衝突という問題に直面している。”

《グローバルな資本主義が一つの総体性であるという事実は、それがそれ自身と、その他者すなわち「原理主義的」なイデオロギー的基盤にもとづいてそうした資本主義に対抗する諸力との、弁証法的統一態であることを意味している。》


“その安定的な存在が社会的媒介関係を神秘化する堅固な対象としてのフェティッシュという考え方に依拠したマルクス[の時代]とは対照的に、現代ではフェティッシュそれ自体が「脱物質化」され、流動的で「非物質的」な仮想的実体へ転じることで、フェティシズムがその絶頂に到達していることが強調されなければならない。”


“過去において私が行わなかったこと、それは現在に存在しなくても、その亡霊としてみずからを主張し続けるのである。”

“後期資本主義的な消費社会では「リアルな社会生活」それ自体が設けられたイカサマといった特徴を獲得している。”

「というのも、すでにジェレミー・ベンタムが分かっていたように、現実とは現実それ自体の最高の仮象だからである。」

ジジェク語録1

2013-04-02 00:00:00 | Note
◆『ポストモダンの共産主義――はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』
——FIRST AS TRAGEDY, THEN AS FARCE by Slavoj Žižek (2009)

《シニカルな人はラカンのいうところの〈さまよえる騙されない者〉なのだ。彼らは幻想の象徴的効用を、幻想が社会の現実を生みだす活動を左右することを、理解していない。…》

《したがって、現代の支配的イデオロギーの世界は、これらふたつのフェティシズム様式、シニカルと原理主義に分けられるが、両者とも「合理的」批判を受けつけない。原理主義者は議論を無視して(または信用せず)ひたすらフェティッシュに執着するが、シニックは議論を受け入れるふりをしながら、議論が表象する効力を無視する。言い換えれば、原理主義者は自らのフェティッシュが体現する真実を(信じるというより)直覚している一方で、シニックは否認の論法を用いる(「とてもよくわかる、しかし……」)。》



◇『ジジェク自身によるジジェク』
——CONVESATION WITH ŽIŽEK by Slavoj Žižek and Glyn Daly (2004)

“今日、私たちにはもはや中心的な闘争はなく、多数の闘争があるという考えは偽りだと思っています。というのも、私たちはこの数多くの闘争の土台が現代のグローバル資本主義によって生み出されたのだということを忘れるべきではないからです。”

《遡及的にそれ自身の前提を引き起こし、措定する原因について話すとき、私たちは遠回しにある特定の楕円的な自己囲い込みについて語っているのです。そしてこれこそまさにフロイト的欲動の基本的構造なのです。》

《…この問題に関してはバディウですら、単に使える状態にある存在の秩序と、真理という出来事の魔術的契機との間にある、ある種のカント的対立から逃れられずにいるのではないでしょうか。》

《倫理的行為は世界の構造のなかに有機的に組み込まれているわけではありません。むしろそれは因果的ネットワークや世界の構造における亀裂、断絶を示唆しているのです。自由とはこの断絶であり、それ自体から始まる何かなのです。》

“つまり、私たちの知覚は現実を歪めます。なぜなら観察者が観察されるものの一部であるからです。これこそがラディカルな唯物論者の立場を包含する普遍化された視角主義〔パースペクティヴィズム〕であると思います。”

“つまり、偶発的な人間性は同時に絶対的なものそれ自体が露呈する唯一の場なのです。”

“重要なのは、〈現実界〉は不可能であるということではなく、むしろ不可能なものが〈現実〉として存在するということなのです。”

「つまり、死の欲動というフロイトの概念を、ドイツ観念論において自己関係的な否定性として主題化されているものと一緒に読んでいくことです。」

“真の交わりは孤独を共有できるときだけだ”


◇『イラク』
——IRAQ: The Borrowed Kettle by Slavoj Žižek (2004)

《薔薇の崇高さを日常生活の低俗さという試練のなかで認識する……すなわち、崇高な(ユートピア的)ヴィジョンを日常の実践へと――ひと言で言えば、“実践的”ユートピアへと――翻訳する力を奮い起こすことである。》

《真に禁じられた知とは、したがって愛おしい現実についての十全な知ではなく、欲望の対象のリアリティについては知るべきことが“何もない”というまさしくそのことを知ることでなのであり、対象を私の欲望の原因にしているものは、それが占めている禁じられた場所であるということなのだ。》

「だからヘーゲルは、S1とS2のあいだのギャップの維持の必要性に気づいていた。もしこのギャップが消されたなら、その結果はS2としての「全体主義的」官僚主義である。」

《…分析家は脱主体化した主体のパラドックスを表している。分析家という主体は、ラカンが「主体の欠乏」と呼んだところのものを引き受けており、欲望の間主観的弁証法の悪循環を打ち破り、純粋欲動という無頭 (acephale) の存在になるのである。》

〈多様なものの「超越論的」生成は、二項的シニフィアンの欠如のなかに棲みついている。すなわち多様なものは、二項的シニフィアンの欠けた部分のギャップをなんとか埋めようとする一連の試みとして生じるのである。〉

〈「ユートピアの終わり」が、どのようにして自己反省的な身振りで自己自身を反復したのかを認識するのは決定的に重要なことだ。究極のユートピアとは、ユートピアの終わりの後、われわれは「歴史の終わり」にいるのだ、という観念そのものだったのである。〉

〈すなわち、「原理主義者」の享楽への固着は、“民主主義それ自体の、裏側の幻想的な付属物なのだ”、ということである。〉

〈この大胆な行為において日和見主義的動機がはたらいていたことは十分明白である。だがそれでも、たんなる計算以上のものが、すなわち戦術的な合理化によっては説明されえない向こう見ずな過剰さが、ここには明らかにあったのだ。〉

〈「信による跳躍」を成し遂げ、この場所で作動しているグローバルな回路の“外側へ踏み出そう”とする意志というものがある。〉

「行為は現存の秩序“内部”での戦術的介入ではないし、現存秩序に対する「狂った」破壊的“否定”でもない。行為とは一種の「過剰」であり、現存の秩序の規則と外形とを新たに定めなおす、超戦術的な介入なのだ。これがキーポイントである。」

《このような純粋な犠牲という「不可能な」身振りだけが、歴史の状況布置 (constellation) の内部において戦術的に何が可能であるのかということの座標それ自体を変化させることができる》

〈すなわち、「民主主義」とは「全体主義的」な極端さの回避を意味するのだ。ギャップを縮め、〈物自体〉のために行為する(ふりをする)という「全体主義的」誘惑に対する絶えざる闘争として、それは定義される。〉


◇『快楽の転移』
——The Metastases of Enjoyment: Six Essays on Woman and Causality by Slavoj Žižek (1994)

〈例えば、無意識の経済において、「不合理な」アクティング・アウトは、象徴的負債を返済する行為として機能することができます〉

「または、公的な象徴的〈法〉と、その下に潜む暗闇の猥褻な超自我との区別について言えばこうなります。超自我は、常に公的な〈法〉につきまとう、不快な「幽霊」、影のような行き霊なのです。」

〈ソクラテスは、対話の相手――自分は知っている、もしくはそう信じていると言い張る者――に、真の知識を授けたりはせず、その者に自身の筋の通らない立場を直視させて、知識があるという装いはただの仮像にすぎないと思い知らせます。より正確に言えば、相手に、(真実への)欲望の保証は真実そのものの中にはないと悟らせ、自分の発言の責任はすべて自分にあることを認めさせるのです。〉

「〈主人〉は明らかに、実際には象徴的機械の自動操作の結果でしかないものを、自分の決断の成果だと勘違いしている、愚かなペテン師なのです。」

《ファルスの享楽を通して充足感を得たいならば、そのことは明らかな目的ではないのだと拒否しなければならない。》

〈女は、男の「公的な」行為という魅力に弱い。つまり、男は実は女のためにそれをしていると感じられることに弱いのだ。〉

「何層もの仮面から作られる筋の通らない表面が、〈なぞ〉たる〈女〉という幽霊を作り上げる。他ならぬ〈秘密〉の秘密とは、この筋の通らない表面なのだ。」

「こうした舞台に放りこまれた主体(男)はパニックに陥り、数知れぬ仮面が玉ねぎの層のように一枚一枚とはがれていっても、その奥には何もない、つまりは女性の究極の〈秘密〉なるものはない、という恐怖に対面する。」

〈ただ単に他者の中のアガルマに魅了されているだけでは、真に愛してるとは言えない。愛の対象である他者が、実はもろくて失われたものであること、つまり「それ」をもっていない者であること体験しても、愛がその喪失を乗り越えた時にこそ、真に愛していると言える。〉

“対象に至る道を妨げるような外的な障害物は、まさに、それさえなければまっすぐにたどりつけるという幻想を生み出すためにそこにある。”

「伝統的な権力では、超自我かひそかに作用しているのに対し、「全体主義的」秩序では、それが公の空間を引き継ぎ、いわゆる「暖かな人間味」というのは、歴史の必然性が猥褻な恐怖をなさなければならない人々の私的な姿として表れる……。」

「…われわれは、猥褻な裏面をもつ公の法秩序の顔ではなく、やさしい、正直な「人間的な」裏面を封じ込めている恐ろしい顔をもっているのだ。」

「aが現実にあまりに近づきすぎて、象徴による虚構の活動を窒息させることの必然の帰結は、したがって、現実そのものの「脱‐現実化」である。現実はもは、象徴による空虚によっては構造化しない。想像の過度成長を調整する幻想が、現実を直接掌握する。…」

「共同体の享楽は、この異常に集合的な否認によってもたらされる――たとえば、ヒッチコックの「進歩的な」性格を唱えることによって。それはこの枠組みに明らかに入らないものの象徴的な実効性を中断する。」

「この、卑猥な法は、共同体を立てる原初の嘘〔プロトン・プセウドス〕、からなるとも言えるだろう。つまり、共同体との一体化は、結局は常にある共有される罪、あるいはもっと正確に言うと、“この罪のフェティシズム的な否認”の上に成り立っているということだ。」

「ヘーゲル語を使って言えば、歪曲の必要性は、コミュニケーションの概念そのものに書き込まれているのではなく、労働のそのときの現実の事情や、理想的なものの実現を妨げる支配のせいなのである。権力と暴力の関係は、言語にもともと備わっているのではない。」

〈この修正主義の理論的「後退」は、理論と治療の間に立てられる関係を通じてはっきり現れる。理論を治療に役立てることで、修正主義はその弁証法的緊張を消し去る。……だから、理論が治療に従属することは、精神分析の批判的次元の喪失を必要とするのだ。〉

□Twitter-fav8・Agamben

2013-04-01 00:07:00 | Agamben アガンベン
■『涜神』

“魔術とはまさに、幸福にあたいする者は誰もいないことを意味している。古代人たちが知っていたように、人間に釣り合う幸福はつねにヒュブリスであり、つねに傲慢と過剰であることを意味している。”——「魔術と幸福」

“すなわち、幸福は、その主体と逆説的な関係をもっているのだ。幸せな者は自分が幸せであることを知りえず、幸福の主体は主体ではなく、意識の形式をもっていない。たとえそれが最良の意識であっても。”


〈統治することは、かなえることを意味しない。それは、かなえられないものが残っているものであることを意味する。〉——「助手たち」

〈失われたものが要求するものは、記憶され、かなえられることではなく、わたしたちのなかに忘れられたものとして、失われたものとして残ることである。ただそのことによってのみ忘れえぬものになるのだから。〉


《神聖なものと神聖を汚すものを隔てる閾を、性から愛、低俗から崇高を区別する閾を混乱させ、永続的に識別できなくしているのである。》——「パロディ」

〈……個人的なものにかんしては、使用も享受もありえず、ありうるのは所有と嫉妬だけである。〉


《倫理的であるのは、単純に道徳律に従う生ではなく、その身振りにおいて取り消しがたく留保することなく自らを賭けることを受け入れる生である。たとえ、このようにして、その幸福と不幸が一度かぎり永遠に決定されてしまうという危険を冒してもである。》——「身振りとしての作者」

《ひとつの主体性が生み出されるのは、生きているものが言語活動と出会い、そのなかに留保なく自らを賭けながら、ある身振りのなかでそれへの自らの解消不可能性を提示するところにおいてである。それ以外のすべては心理学である。そして、心理学のなかでは、どこからもわたしたちは、倫理的主体のようなもの、生の形式のようなものに出会うことはないのである。》


“遊びと儀礼のこの関係を分析したエミール・バンヴェニストは、遊びが神聖なものから派生するだけでなく、なんらかの仕方で転倒を表象していることを証明した。”——「涜神礼賛」

“もはや見守られずに遊ばれるレリギオー〔配慮〕が使用の門を開くように、経済と法と政治の力は、遊びによって無力化され、新しい幸福の門となるのである。”

“遊びを純粋に涜神的なその使命に返すことは、ひとつの政治的な課題である。”

《この意味においては世俗化と涜神を区別する必要がある。世俗化はひとつの排除の形式であり、もろもろの力に手を触れることはせず、ある場所から別の場所へと移し換えるにとどまる。こうして、神学的概念(主権のパラダイムとしての神の超越)の世俗化は、天上の君主制を地上の君主制に転位することしかせず、その権力は手つかずのまま残す。
 逆に、涜神は、神聖を汚すものの中和を含意している。使用できずに分離されていたものは、ひとたび神聖を汚されれば、そのアウラを失い、使用へと返還される。どちらも政治的な操作である。しかし、世俗化は、それを神聖なモデルに関係させることによって保証する権力の行使とかかわっている。涜神は、権力の諸装置を無力化し、権力が剥奪していた空間を共通の使用へと返還するのである。》

「もし神聖を汚すことが神聖なものの領域のうちに分離されていたものを共通の使用へと返還することを意味するなら、資本主義という宗教は、その究極の段階においては、絶対的に《神聖を汚すことのできないもの Improfanabile》の創造をめざすのである。」

《もし今日、大衆社会の消費者たちが不幸であるとするならば、その理由は、自らの使用不可能性を自らのうちに組み込んだ対象を彼らが消費していることだけに求められるのではない。それはまた、とりわけ、それらの対象にたいする彼らの所有権を彼らが行使していると信じているからなのである。というのも、彼らにはそれらの神聖さを汚すことができなくなってしまっているからである。》

“すなわち、新しい使用の創造は、人間にとっては、古い使用を無力化し、それを不活性化することによってのみ、可能となるのだ。”

《というのは、神聖を汚すということは、たんに分離を廃棄し、消去することではなく、それらから新しい使用を作り、それらと遊ぶすべを学ぶことを意味するからだ。階級なき社会というのは、階級的格差の記憶すべてを廃棄してそれを失った社会ではなく、階級的格差の諸装置を無力化して、新しい使用を可能にし、階級的格差を純粋な手段に変えることのできた社会である。》

「《神聖を汚すことのできないもの》の神聖を汚すことは、来たるべき世代の政治的課題である。」


□雑多なアガンベン語録

《善悪の彼岸にあるのは、生成の無垢ではない。罪をともなわないだけでなく、いわばもはや時間もともなわない恥ずかしさである》——『アウシュヴィッツの残りもの』


《生きものは、自分の内に自分固有の声を除去しつつ保存することによってロゴスをもつのであり、また同様に生きものは、自分の固有な剥き出しの生 la nuda vita をポリス内で例外化されることによってポリスに住む》——『ホモ・サケル』

《構成する権力と構成される権力との関連は、アリストテレスが潜勢力と現勢力のあいだに設けている関連と同じほど複雑である。つまるところこの関連は〔……〕潜勢力の存在と自律とがどのように思考されるかにかかっている》

《限界においては、純粋な潜勢力と純粋な現勢力は見分けられないのであり、まさにこの不分明地帯こそが主権者なのである》

《主権権力は構成する権力と構成される権力へと分裂し、その二つが不分明となる点にみずからを位置づける》

〈潜勢力と現勢力とは、存在が主権的に自己を基礎づける過程の二つの局面にほかならない〉

《新たな政治の向かう道や様態は、こうした不確かで名のない土地、この厄介な不分明地帯から出発して思考されなければならない》

「例外状態が規則となったところでは、かつて主権権力の相対物だったホモ・サケルの生が、もはや権力の据えることのできないひとつの実存へと転倒する」

〈みずからの剥き出しの実存でしかない存在〉

〈みずからの形式であり形式から分離できないままの生〉



〈人類学機械が、一種の例外状態、つまり外部が内部の排除でしかなく内部が外部の包摂でしかないような未決定な領域〉——『開かれ——人間と動物』

〈人間の倦怠も動物の放心もともに、もっとも本質的な身振りにおいては、閉ざされに開かれている〉

“ハイデガーは、人間と動物、開かれと閉ざされとのあいだのアポリアを、人類学機械によって解決できると信じた最後の哲学者であった”


〈わたしの顔はわたしの外である。わたしのあらゆる固有性が差異を失い、固有なものと共通なもの、内部と外部とが差異を失う点である〉——『目的なき手段』

《きみたちは、ただきみたちの顔であれ。境界線に向かっていけ。自分の固有性、自分の能力の主体であることにとどまってはいけない。それらの下にとどまってはいけない。それらとともに、それらのうちに、それらを越えて、行くのだ》


《法律もサケル sacer であれば、法律を侵犯するものもサケル sacer である》——『言語活動と死』

〈いずれにしても肝要なのは、祝福と呪詛とが同じ起源をもつということであり、両者が共存するかたちで誓いを構成しているということである〉

〈祝福の言葉としての誓いと、呪詛の言葉としての呪いとは、同じ言語活動の出来事のうちに、同じ起源をもつものとして内包されているのである〉


《人間はつねにすでに審判の日に立ち会っている。審判の日は人間の通常の歴史的状況であり、この状況に直面することへの恐れだけが、彼をしてその日がなおも来るべきものだという錯覚を抱かしめるのだ》——『中味のない人間』


《文化とは総じて本質的に伝播と「生き残り」のプロセスなのである》——『スタンツェ』


《真理に到達するにあたって愛がいわば存在論的に優位に立つ》——『思考の潜勢力』

〈愛はむしろ、現存在の超越を特徴づける「世界にすでに存在していること」のなかにこそ居場所を見いだし、そこにこそ愛の自体的分節化を見いだすのでなければならない〉

□Twitter-fav7

2013-04-01 00:06:00 | Twitterから
「破壊的性格は、そのなすべき仕事をするが、ただし創造的な仕事だけは避ける。創造者が孤独をもとめるとすれば、破壊者は絶えずひとびとに、かれの活動の証人となるひとびとに、取り巻かれていることを必要とする。」——ベンヤミン「破壊的性格」

「破壊的性格は、歴史的な人間という自覚をもっている。歴史的な人間の基本的心情は、事物の成りゆきにたいするやみがたい不信であって、いつでも、何もかもだめになるかもしれぬ、ということに周到に入念な注意を払っている。したがって破壊的性格には、ほかの誰よりも信頼がおける。」ibid.

「破壊的性格が生きているのは、人生は生きるに値いする、という感情からではない。自殺の労をとるのはむだだ、という感情からである。」ibid.



「おれの平和を得ようとして、実はあいつを平和にしてしまったのだ」——マクベスの科白

《彼は何かを演じたつもりだったが、実のところ演じさせられているだけだ。役者というよりも操り人形だ。……》——柄谷行人「マクベス論」

《在りもしないものと闘うことはそれを存在させることになる。そういう循環がもはや馬鹿げてみえたのだ。》ibid.

《マクベスは運命と闘ったかのようにみえる。だが、事実は運命を求めて挫折したにすぎない。そして、この失敗があたかも「運命と闘う」英雄の如き外観を呈するのであるが、実は惨めで卑小なひとりの男がそこにいるにすぎない。……》ibid.


《マルクスは体系的な思想家である。しかし、体系的でない真の思想家などありえない。なぜなら、考えるということは原理的に考えるということにほかならないからで、問題はその体系がすこしも視えやすいところにはないということである。》——柄谷行人「掘立小屋での思考」



《権力の新しい仕組みは、次のように機能する。権利ではなく技術によって、法ではなく規格化によって、処罰ではなく管理統制によって、それはあらゆるレベルにおいて、そして国家とその機関を越えた形態で行使される権力の仕組みなのである。》——フーコー『性の歴史I——知への意志』


“近代国家の原理は、主観性の原理を人格の特殊性という自立の極限にむかって完成させると同時に、それを実体的統一のうちにひきもどし、こうして主観性の原理そのもののうちに実体的統一を維持するという、おそるべき力とふかさを有するのである。”——ヘーゲル



《私たちは自分の上にあるものを認めないことで自由になるのではない。自分の上にあるものに敬意を払うことにより、自由になるのだ》——ゲーテ

《自分の境遇以上のものをがんこに否定するのが俗物である。しかも俗物は、自分以外の境遇を否定するのみならず、ほかのあらゆる人間が自分と同じ存在でなければならぬと要求する》

〈彼らは偉大なものにはなんにでも反対する癖がある。それは野党精神などではなく、反対のための反対である。彼らは憎むことのできる偉大な相手がいないと気がすまないのだ〉

〈国民的憎悪というものは、一種独特なものだ。——文化のもっとも低い段階のところに、いつももっとも強烈な憎悪があるのを君は見出すだろう〉



“説得されるとは、何らかの外的な権威によって認識の真理を受け容れることである。反対に、確信するとは、自分自身の理性によって(そしてそれだけで)この真理の証拠をつくり出すことである。”——ベルナール・バース

「主体が呼び出されるのは、自分の場所であり、自分の真なる場所、自分の真理の場所そのものへである。すなわちこの場所こそ、シニフィアンの純粋な欠如としての無意識なのである。」

「無意識の主体が実体ではないのは、シニフィアンの連鎖において常に想定しなくてはならないのが、まさにシニフィアンの欠如でしかないからである。」



《私の学説の本質的に新しい点は、記憶とは単純なものでなく様々な仕方で登録されることを明言したことです》——フロイトのフリース宛の書簡52



《投票は、いまのところ、恐怖という情動の布置のみを構成するこの見せかけの操作でしかないのである。ようするに、投票は、本質的な失見当識〔デゾリアンタシオン〕から採取された、選択の虚構的形象である。》——バディウ

“よく考え抜いてみると、ヒロイズムは勇気よりも容易である。ヒロイズムとは、不可能事に直面するときのものである。それは場合によっては、つねに崇高な境遇として表象される。”

“勇気はヒロイズムとははっきり区別される。というのも、勇気とは徳であって、瞬間や境遇ではないからだ。勇気は構築された徳である。”

“かりにヒロイズムを不可能事に直面することの主観的形象であるとすると、勇気は不可能事における忍耐の力=徳である。勇気は点ではなく、点の維持である。……勇気の第一質量とは、時間なのだ。”

《勇気は、再び以前と同じように始めることであるような勇気のことでは決してないのである。》


〈“反対推論によって”、哲学が体系の不可能性を宣言するのは、哲学が縫合され、思考を哲学の諸条件の唯一つに委ねているからである。〉——バディウ

“あらゆる縫合は誇張である。というのも、ハイデガーとともに私が繰り返したように、哲学は問題を深刻化させるからである。”

《すでにプラトンは、『テアイテトス』の中で、ソフィスト的な命題の底にある存在論は存在の多数の遊動性の内に保持されることをはっきりと指摘し、この存在論に——それが妥当かどうかは別だが——ヘラクレイトスの名を冠している。》

《あらゆる主体は芸術的であり、科学的であり、政治的であり、愛情を持っている。しかもこれらは各自経験から知っていることであり、というのも、これら四つの領域の外では、実存あるいは個体性があるだけで、主体は存在しないからである。》



〈解釈がメタ言語的先制に陥るとき、分析家は、私たちが前節の最後に否定したあの幻の権威の座に身を置いているのである。いうまでもなく、それはひとつの錯覚にすぎない。区切りの実践としての反メタ言語論は、この錯覚から私たちを守るだろう。メタ言語は語らいを閉じるが、区切りはそれを開く。精神分析の経験が導くのは、梯子を掛けて登る言語ではなく、語らいに刻まれる線なのである。〉——立木康介

〈ひとつの原因=大儀 cause のために戦うということがこの原因=大儀の効果だというよりも、むしろ、原因=大儀はそのために人が戦ってはじめてある〉——ピエール・ブリュノ



“フロイトに劣らぬほどのシュレーバーのこのような鋭い思考力のおかげで、我々は他の症例にも適用できる構造的概念を得ることができる。つまりこの妄想の中に、我々は、神経症のように隠されているのではなく、はっきり露われ、いわば理論化すらされている或る真理を見ることができる。”——小出浩之『シニフィアンの病い』

“アカデミックな心理学は人間を適応した存在と考えている。しかし、人間の運命ほど愚かなものはないし、人間は常に騙されているという単純明快に事実に目を開かなくてはならない。すべてがうまくいったときでも、うまくいってみると、それは当人が望んだものではない。すべての望みが叶った人ほど失望している人はない。”



〈私たちが普通「自己」の名で呼んでいるものも、それが自己と言われるにふさわしい自己性——ないし主体性——をおびて経験されうるためには、十分なアクチュアリティによって支えられていなければならないだろう。〉——木村敏

《リアルなモノの次元ではないアクチュアルなコトの次元での私の生命、私がいまここに生きているという主観的なアクチュアリティの意識が、一方では絶対的に交換不可能な単独性の形で、もう一方では無限に開かれた生命的連帯性の形で、“二度”現れてくるのはどういうことだろう。》

《リアルな個的身体的生命とアクチュアルな生命一般が相接した界面に、そのつどの私のアクチュアルな個別性と主観性の意識が生起する。》

《ということになると、身体はその活動の本拠を閉鎖系としての自分自身のシステムの内部にもっているのではなく、環境との“あいだ”あるいは境界面にもっていることになる。この境界面で、身体はつねに生命一般との接触が失われないように、チャンネルが途切れないようにふるまわなければならない。》

《自己意識の発生に端を発したこれらの仮象は、科学文明という壮麗な虚構を生み出す一方で、人間にとってからだとは本来何であるのかを覆い隠してしまった。生きものとして見るかぎり、からだこそ生命体の主体性と主観性の本拠であり、物質的な身体と心理的なこころは、この単一の主体性/主観性をそれぞれのはたらきをつうじて周囲の世界に向かって実現する物心両面でのエイジェントにすぎないということになる。》

□Twitter-fav6・Lacoue-Labarthe&Nancy

2013-04-01 00:05:00 | Twitterから
□ラクー=ラバルト&ナンシー「政治的パニック」、柿並良佑「恐怖〔パニック〕への誕生――同一化・退引・政治的なもの」(共に岩波『思想』2013年第1号・所収)

「もし精神分析の限界が主体の限界であるならば、その同じ限界は、政治的なものの輪郭を描く限りにおいて権力の限界である。」

「すなわち、もし主体とは他なるものが主体の中で問題になっているのだとすれば、権力とは他なる何かが権力の中で問題になっているのだ。」


《〈ナルシス〉にとって善良なる“他人”とは死せる他人、あるいは排除された他人である。》

「すなわち、社会性はリビードに基づくのと同様に同一化に基づく、“あるいは”リビードに先立って同一化に基づく。ともかく(略)、同一化は社会的なものの基礎にある。」

「すなわち同一化はナルシス的な非‐関係の制限となり、基礎的で社会‐政治的な一つの紐帯=拘束(あるいはこの紐帯=拘束そのもの)となるのである。」


“〈父〉の政治は精神分析の内的限界、すなわち同一化の限界と遭遇するがゆえに、外的限界として導入される。”

《無意識の問題はまさしく「集団的なもの〔le collectif〕」の問題に他ならない》

「模倣に先立つものとして、感情移入は他人への移行によって同一性を構成する。しかしこの点に関しても先のハイデガーによる批判を繰り返す必要がある。感情移入はここでもやはり“既に”構成された他人への関係を前提にしているのだ。」


〈すなわちナルシスを傷つけるのは、ナルシスを追放しては引き留め、ナルシスに対して父を現前させては匿してしまう母なのだ。〉


「〈政治的なもの〉とはかかる偽装そのものの完全なる固有化への意志である。……“政治的動物”は自らのイメージに自分自身を生贄として捧げるのだ。」


《情動の心理学は存在せず、情動には「社会学」しか存在しない》


※尚、「政治的パニック」(1979)に続いて書かれたものに「ユダヤの民は夢を見ない」(1980)がある。(後者は日本語では『Imago, 3(7)』に所収)


□ラクー=ラバルト&ナンシー『ナチ神話』

「一つの革命的感情にみずから結びつけるさまざまな反動的概念は、結果としてファシズム的心性をそなえることになる」——ライヒ『ファシズムの集団心理』

“唯一断罪されるべきなのは、故意に(あるいは漠然と、感情的に)何かあるイデオロギーに奉仕して、その背後に庇護を求め、あるいはその権力を利用しようとするような思考である。”


「ドイツ人はかつて一度も国家を持ったことはなく、ただ聖なる帝国の神話を持っていただけであった。彼らの愛国心はつねにロマン主義的なもの、いずれにせよ反ユダヤ主義的なものであり、同時に敬虔で権威を重んずるものであった」——デュレンマット「愛国心について」

〈要するに、すでにこの面において、人は“ロゴス”ではなく、一種の神話的発話を暗黙のうちに引き合いに出しているのであり、この神話的発話は、だからといって詩的なものではなく、おのれ自身の断言=肯定の剥出しで尊大な力の中にその手立てのすべてを求める態のものなのである。〉

“神話とは、厳密に言えば、事物や対象あるいは表象以上の、一つの潜勢力なのである。”

〈こうして、神話は一個人あるいは一民族の根本的な力と方向の数々を結集する潜勢力、地下に隠れた、目に見えぬ、非経験的な同一性の潜勢力である。(略)抽象の中に解消されてしまったそれらの同一性に対立して、神話は固有なる差異としての同一性を、そしてその断言=肯定を指し示すのだ。〉

〈しかしまた、そして何よりも、神話はこの同一性を、一つの事実としても言説としても与えられることはないが、しかし“夢見られる”何ものかの同一性として指し示す。神話の潜勢力とは、本来的に夢の勢勢力、人がみずからをそれに同一化する一つのイメージを投影する潜勢力なのである。絶対者とは、実際、私の外部に措定されるような何かではあり得ず、それさ私がみずからをそれに同一化し得る夢のことである。〉


《伝統の内部で権利回復要求された神話は、“ロゴス”に対置された本源的言語としての“ミュトス”にしばしばみずからを同一化する。ここでは反対に、神話がいわば血と化し、そして要するに、そこから血な迸る大地と化しているのである。》

〈——二十世紀のいまだ実現されざる神話としてのドイツとは、もはや十八世紀までそうであったような言語の問題ではなく、物質的な、すなわち、領土的かつ国家的な統一性の問題である。「類型化」されなければならないのは大地(ドイツの無媒介的な“自然”)であり、またそれとともに、ドイツ人の血なのである。〉

〈しかるに、近代世界の不幸と悪とは、個人と人類という、抽象的で血肉を欠いた無力な二重の観念である。それは、別の言葉で言えば、社会民主主義とマルクス主義ということだ。〉

《われわれとしてはただ、この論理が、同一性への擬態的意志と形態の自己—実現という二重の特徴において、どれほど深く西洋一般の体質に、そしてより正解には、この語の形而上学的な意味における主体というものの根本的体質に属しているかということを強調しておきたいと思う。》

□Twitter-fav5・Kierkegaard

2013-04-01 00:04:00 | Twitterから
■『反復』

〈反復と追憶とは同一の運動である、ただ方向が反対だというだけの違いである。〉

〈ほんとうは、反復の恋こそ唯一の幸福な恋なのだ。反復の恋には、追憶の恋と同じように、期待の不安定さがない、探検に伴う不安な冒険もない、しかしまた、追憶のもつ哀愁もない、そこには瞬間の至福な確実さがある。〉

〈期待は追う手をすり抜けてゆくかわいい娘である。追憶は美しくはあるが今ではもうけっして用を足せない老婆である。反復はいつまでも飽きることのない愛妻である。飽きがくるのは新しいものに限っているからだ。〉

“しかし、反復を欲するには勇気がいる。期待するしか欲しないものは卑怯である。追憶をしか欲しないものは淫らである。”

《反復、これが現実なのだ、人の世の厳粛さなのだ、反復を欲するものは厳粛さにおいて成熟しているのだ。》

“思うに、観察者であることはしばしばまことに心悲しいことだ、それは警官にも似たメランコリーにひとをひき入れる。”


〈だからどんな恋愛関係にあっても、関係はできたが実現の見込みはないという場合には、思いやりが最大の侮辱である。エロス的な目をもちしかも臆病でない男なら、思いやりをもたないということが、娘の体面を保ってやるために残された唯一の方法だということを、容易に理解するだろう。〉

《反復は発見されなくてはならぬ新しい範疇である。》

「反復の弁証法は容易である、なぜかというに、反復されるものは存在していたのである、でなければ、反復されえないであろう。ところが、それが存在していたということが、かえって反復を何か新しいものにする。」

《人生は反復である、といわれるとき、それは現に存在したことのある現存在が今や現存在となる、ということを意味する。》

《反復は形而上学の“関心”である、しかし同時に、そこで形而上学が座礁する関心でもある。》


《何事もそれぞれ適当な時におこなわれることが肝心なのだ。すべては若いときにその時をもっている、そして若いときにその時をもったことは、また後でその時を得るものだ。》


《わたしはわたし自身のまわりを周航することはできる、しかしわたしはわたし自身を越えて出て行くことができない。》

“あくまでも自己の感情の強さを恃〔たの〕もうとする利己的な強情さ”

“未熟な、メランコリックな寛大病”


《宗教的な個人というものは、それとは反対に、自分自身のうちに安らって、現実のあらゆる児戯をさげすむものです。》


■『死に至る病』

〈絶望していないこと、換言すれば自分が絶望していることを意識していないこともまたまさに絶望の一つの形態であるということ。〉

〈すなわち自分は絶望していると主張するものも或る意味では決していつも絶望しているわけではないことが注意されなければならない。実際またひとは絶望を気取ることもありうる。〉

〈だが絶望していないということはかえって絶望していることでありうるのである。絶望は病気の場合のように、悪いと思うことと病気とが一致するというわけのものてはない。決してそうではない。悪いと思うことがそれ自身更に弁証法的なのである。悪いと思う気持に一度もなったことのない人がかえって絶望しているのである。〉

《精神の直接的な健康というものは存在しない。》


「自己とは反省である、——そして想像力〔ファンタジー〕とは反省であり、すなわち自己の再現であり、したがって自己の可能性である。想像力とはあらゆる反省の可能性である、強烈なる想像力のないところには強烈なる自己もまた存在しない。」

「絶望せる偏狭性は根源性の欠乏である、換言すれば人間が自己の根源性を奪い去られて精神的な意味で去勢されている状態である。一体いかなる人間も根源的に自己自身たるべく定められており、彼自身となることが彼の使命である。」

“——というのは、自己は、ひとたび絶望の経験を通じて自己自身を自覚的に神のうちに基礎づける場合にのみ、まさにそのことによってのみ健康であり絶望から解放されてありうるからである。”


「かくて絶望せる自己は絶えずただ空中楼閣を築くのみであり、絶えず空中に剣を振りまわすのみである。」

“悩んでいる者には、自分はこういうふうに救ってもらいたいといういろいろの仕方というものがある。もしも彼がそういう仕方で救われるのであれば、無論彼は喜んで救ってもらいたいのである。”

《ああ、何という悪魔的〔デモーニッシュ〕な狂想であろうか! 永遠がもしかしたら彼の悲惨を彼から奪い去ることを思いつくかもしれないということに思い到るとき最も狂暴になるというのは!》

《罪とは、人間が神の前に(ないし神の観念を抱きつつ)絶望的に自己自身であろうと欲しないことないし絶望的に自己自身であろうと欲することの謂いである。》

“——彼はその形式的な否定的な無限性の力で自分の自己を自分で構成しようと欲するのである。”


「嫉視とは隠されたる驚嘆である。驚嘆者が献身によって幸福になりえないと感じた場合に、彼は驚嘆の対象を嫉視することを選ぶに至るのである。」

「さて彼は別の言葉を語る、彼の言葉はいまやこうである、——これ(彼が本来驚嘆している事)は実に下らんものだ、愚鈍な、気の抜けた、奇妙な、とっぴなものだ。まことに驚嘆は幸福な自己喪失であり、嫉視は不幸な自己主張である。」

“或ることを理解したということからそのことを行為することへの移行に関する弁証法的規定が欠けているという点に難点が存するのである(ソクラテス的な立場も或る程度まではこの難点に気づいていて、何とかそれを埋めあわせようとしていた)。”


《罪のうちに止まっている状態が罪なのである、そしてこの罪が新しい意識状態のなかでその度を強められることになる。》

〈彼の利己的な自己は名誉慾において絶頂に達する。さて彼はいまや帝王となった、けれども彼は自己の罪に、更には悔い改めの現実性と恩寵とに絶望しているので、彼はまた自己自身をも喪失したのである。彼は自己自身に対してさえも自分の自己を主張することができない、——彼は恩寵を据えることができないと同様に名誉慾を充足した自分の自己を享楽することもできないのである。〉

《彼の悲哀、彼の憂鬱、彼の絶望は利己的なものである》


■『現代の批判』

“何一つ本質的な意味をもつものもなくすべてがほとんど意味をもたなくなっているばっかりに、たとえばただ形式だけの器用さが、つのりつのってまさに無形式性に化そうとしている時代”


《高齢の老人が腰に手をあて杖にすがって身をささえるように、異常な思慮分別も、事前の反省で身をささえ、事後の反省で説明のし直しをしてその場その場をしのいでいくのである——なぜそうなるのか?  ほかでもない、行動するにいたらなかったからである。沈黙の、寡黙な決断という神の子の代りに、今の世代は、何から何まで心得ている分別という悪魔の取り替え子を生みおとしているのである。》

《現代は本質的に“分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃えたがっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代”である。》

《なぜかといえば、現世代の人間はみんな有能な弁護士であって、事件の判決をくだしたり決着をつけたりするのにけっして行動に訴えないというのが、まさにその技術〔うで〕であり、分別であり、妙技なのだからである。》


〈それというのも、百科全書家たちの時代、つまり、孜々として厖大な本を何冊も何冊も書いた人たちの時代は過ぎ去ってしまって、いまでは、全人世とあらゆる学問をこともなげに片づけてしまう、軽武装の百科全書家たちの出番がまわってきているというわけなのだ。〉

“しかしこれだけは確かだが、知識がませば憂いが増すように、反省が増しても憂いが増すのである。”

“讃嘆と傑出したものとが、たいていの場合、どこまでも一対の慇懃な対等者であって、お互いに睨めっこをし合っているのである”


“だがあいにく、そんなものはアイロニーではないのだ、真のアイロニストというものは(英雄が積極的な時代における公然たる感激の具現者であるように)消極的な時代における隠れたる感激の具現者なのだ、ほんとうのアイロニストは自己を犠牲にする者なのだ、現にあの偉大なアイロニーの大家〔ソクラテスのこと〕は死刑に処せられて生涯を終えたではないか”


“利己的な妬みは願望という形で個人自身にあまりにも過大な要求をし、それがために、弱い母親の偏愛が子供を甘やかしてだめにするのと同じように、個人を柔弱にしてしまう。”

〈こうして、妬みは、“現に存在している”傑出物に対してばかりでなく、また“きたらんとする”傑出物に対しても抗弁することになる。〉

《水平化は、古代における運命に対する、現代における反省の対応物である。》

《水平化の作業は一個人の行為ではなく、抽象的な力の掌中にある反省のいとなみである。》

〈感激者の突進は滅亡に終わる“ことがある”、しかし、水平化する者の勝利は、とりもなおさず彼自身の滅亡なのである。〉


《ひとつの階級、たとえば聖職階級とか市民階級とか農民階級とかによって、国民自身によって、水平化に近い現象が生ずることはある。けれども、これらすべてはあくまでも、具体的な個体の内部における抽象物の動きにすぎないのである。》

《公衆という規定は反省の奇術である。この奇術にかかると、個人個人はだれでもこの怪物が自分のものになったような気がするので、のぼせあがってしまい、現実の具体的な世界などは比べものにならぬほど貧相に見えてくる。》


《“おしゃべりする”というのはどういうことであろうか? それは黙することと語ることのあいだの情熱的な選言を排除することである。ほんとうに黙することのできる者だけが、ほんとうに語ることができ、ほんとうに黙することのできる者だけが、ほんとうに行動することができる。沈黙は内面性である。おしゃべりは、ほんとうに語ることを先取りしてしまい、反省の所見は機先を制して行動を弱める。》

“ところがおしゃべりは沈黙の瞬間を恐れる、沈黙の瞬間は空虚さを暴露するだろうからである。”

〈沈黙のうちにおのれみずからを省みているということが、社交上の教養ある談話の条件であり、内面性をねじまげて外に向かわせるのが、おしゃべりすることであり、教養の欠如である。〉


“顕示欲とは、反省のいだく空想の自画自賛”


《すなわち数によって、団結によって、強めはするが、しかしこのことこそ倫理的には一種の弱体化なのである。ひとりひとりの個人が、全世界を敵にまわしてもびくともしない倫理的な態度を自分自身のなかに獲得したとき、そのときはじめて真に結合するということが言えるのであって、そうでなくて、ひとりひとりでは弱い人間がいくら結合したところで、子供同士が結婚するのと同じように醜く、かつ有害なものとなるだけのことだろう。》

■「天才と使徒との相違について」

《天才は内在的な目的論をもつに過ぎない。使徒は絶対的逆説的な目的論の立場に置かれている。》

「天才は天才として伝えられる当初は逆説的でありうるが、天才的な人間が自己を自覚して行くにつれて、逆説的なものは次第に消え去っていく。天才はおそらく一世紀ほど時代に先行しており、したがって逆説のようであるかも知れぬが、ついには人類はそのかつて逆説であったものを同化してしまい、かくてそれはもはや逆説ではなくなる。」


“内在性の領域では権能は全く考えられない、あるいは消え去るものとしてしか考えられない。”

「権能は使徒たるの召命または聖職就任の特殊な質である。説教をすることは、まさに権能を用いることである。そしてこれが説教することだということ、まさにこのことが、現代では全く忘れ去られているのである」


《いかなる天才も「のために」をもたない、使徒は“絶対的逆説的”に「のために」をもっている。》



□雑多なキルケゴール語録

〈実存においてはあらゆる契機が同時にその場にそろっていることが重要である。実存に関わるとき、思惟は空想や感情にまさるわけではなく、それらと同列にある。〉

〈すべては、量的弁証法と質的弁証法との区別を絶対的とするか否かにかかっている。全体者の観点からの論理学は量的ないし様相的弁証法である。全体というものはたえず同一にとどまるからである。これにたいし現存在に関しては、質的弁証法がものを言う。〉

〈あらゆるあいまいさや無自覚のもとには、認識と意志との弁証法的な共演がなされているのであって、認識だけを強調したり、意志だけを強調したりすると、人間の理解を誤ることになりかねない。〉

《個別者から人類へいたることが課題ではなく、個別者から人類を経て個別者(単独者)にいたることが課題だ》


「〈自己〉とはまさに、普遍的なものが単独的なものとして措定されているという矛盾を意味する。単独的なものという概念が与えられてはじめて、自己に関して語ることもできるようになる。だが、何百万という無数のそうした自己が生きているにもかかわらず、いかなる学問も、その自己とはいったい何であるかを、まったく一般的に述べる以外には語り明かすことができない。」

「普遍的なものは、思惟されることおよび思惟されうることによってのみ……存在する。しかも思惟されたとおりに存在する。」

《単独的なものに肝要な点は、まさに、普遍的なものへの否定的態度、普遍的なものを拒否することにある。》

《この拒否ということが無視されるやいなや、単独的なものは止揚されてしまう。また拒否ということが思惟されるやいなや、その拒否そのものが変質させられてしまい、結局、それを思惟してもいないのに思惟していると思いこむことになるか、もしくは、それを思惟することで、思惟のなかにそれがすでにとりいれられていると思いこむことになるか、いずれかである。》


《思惟と存在との同一性という哲学的命題は……、思惟が実存をすっかり棄て去ってしまったということの表明にすぎない。》


「実存への問いに臨んで抽象作用が、実存する者の窮状をさしおいたまま回避し、そのうえでどんなことでも説明しうるといって胸をはったとしても、まさにその点でこそ、抽象作用の疑わしさが明白となる。」

《現実性についてのいかなる知も可能性なのである。》

《何が現実性であるかということは、抽象性の言語では示されえない。》

「現実性とは、抽象により仮説的に統一される思惟と存在との〈間にあるもの〉である。抽象作用はなるほど可能性と現実性とを取り扱うが、しかし現実性についてのその把握は虚しい複製である。その媒体は現実性ではなく、可能性だからである。」

《抽象作用の圏内で抽象作用の言語でもって現実について語られるすべてのことは、実は、可能性の圏内で語られているのである。》


《情熱とはまさに矛盾のなかで緊張を支えるものなのであり、情熱がとり去られてしまうなら、矛盾は冗談か洒落にすぎなくなってしまう。》

《情熱とは、実存する者にとってまさに実存の最高の力にほかならない。》


「その弁証法的な内面性のゆえに、直接的表現形式には納まりきれない一切の主体的なものは、本質的秘密なのである。」


「倫理的に生きる者は自らの中心へと気分を収束させている。彼は気分のなかにいるのでもなく、また彼自身が気分なのでもない。彼はむしろ気分を有しているのであって、気分を自分自身のうちに領有しているのである。彼が活動するのは〔自らの人格の〕連続性のためであり、その連続性こそがつねに気分の主人なのである。」

《実存する者にとって存する唯一の現実性は、彼自身の倫理的な現実性である》

《本来の主体性は知る主体性ではなく、倫理的に実存する主体性である》

《神秘家は現存在を、現実性をないがしろにする》

「倫理的に生きる者にはこうして、自分自身が自らの課題となる。彼の自己は直接的なものとしては偶然的に規定されている。それだから彼の課題は、偶然的なものと普遍的なものとを協働させあうことである。」

「倫理的領域はたんに通過される領域なのであって、そのためそこでの最高の表現は、消極的な行為としての悔悟である。美的領域は直接性の領域で、倫理的領域は要求の(その要求が無限に大きなものであるために個人はつねに破産するほかない)領域、そして宗教的領域は成就の領域である。」

《単独の人間がただ独りで立つことを学ぶことは、倫理的に実存することに役立つ予備修練である》


《そのことのためなら、人間は誰でもただ独りで生きることができよう。》

「そもそも衆は各個人からなっているものであり、そのため自らが本来そうである単独の個となることは、誰にとっても実行しうることである。単独者となるというそのことについては、締めだされる者は誰ひとりいない。自ら衆となることを選んでわれとわが身を締めだす者を除いては。」


「主体的に思惟する者は、学者ではなく、芸術家である。実存することは一つの芸術なのである。主体的に思惟する者は、自らの生が美的内容を具えるのに充分なほど美的であり、その生を規制するのに充分なほど倫理的であり、かつ思惟しつつその生を統御するのに充分なほど弁証法的である。」

《主体的に思惟する者は、実存的なものに関わる弁証法的思索者である。彼は思索の情熱を傾けて、〈あれか、これか〉の質的な分裂 (qualitative Disjunktion) を堅持しつづける。》


《罪とは、神の前で絶望して自分自身であろうと欲しないこと、もしくは、神の前で絶望して自分自身であろうと欲することである。》

「…だが、いまやここでは、生成するとは罪人になることなのである。罪責の意識の全体性においては、実存は内在の領域内にあってできるかぎり強く自らを主張するが、これにたいし罪の意識とは断絶なのである。」


「だれもが意見を持つことができる、けれどもその意見を持つためには数の上で結束しなければならないのである」——『一つの文学評論』

「人はすべてのことを『原理に基づいて』行なっている、だから個人的な責任をまったく回避することになっている」——『一つの文学評論』

《悲劇的英雄は確かなものを、それ以上にさらに確かなもののために放棄する。だから彼を観る者の目は安心しておれる》——『おそれとおののき』

「個別者は……普遍的なものに対する関係を絶対的なものに対する彼の関係によって規定する、けれども絶対的なものに対する関係を、普遍的なものに対する関係によって規定してはならない」——『おそれとおののき』

「妄想は直接的に破壊することができない、ただ間接的な手段で根本から取り除かれるほかはない」——『私の著作活動の立場』

《倫理的なものは本質的に個人やその最も内的な自己に関係する》

□Twitter-fav4・Nietzsche

2013-04-01 00:03:00 | Twitterから
「民族は、おのれの義務を義務概念一般と取りちがえるとき、徹底的に没落する」——『反キリスト者』

《高貴であることのしるし。すなわち、われわれの義務を、すべての人間に対する義務にまで引き下げようなどとはけっして考えないこと。おのれ自身の責任を譲り渡すことを欲せず、分かち合うことをも欲しないこと。自己の特権とその行使を自己の“義務”のうちに数えること。》——『善悪の彼岸』


〈明るく澄んだ眼つきをしていて、誠実に〔redlich〕話すいっさいの者を、私は愛する。〉——『ツァラトゥストラ』

「弁証家のイロニーは賎民の復讐の一つの形式である」——『力への意志』


〈道徳的理想の“勝利”は、あらゆる勝利と同一の「非道徳的」手段によって、すなわち暴力、虚言、誹謗によって獲得される。〉——『力への意志』

〈“道徳的になるのは、——道徳的であるからではない”! ——道徳に服従することは、君主に服従することと同じように、奴隷的でも、思い上がりでも、利己心でも、諦めでも、陰鬱な熱狂でも、無思慮でも、絶望の行為でもありうる。それ自体としては、それは道徳的なものではない。〉——『曙光』


“友人への同情は、ある堅い殻の下に隠されているべきだ。この同情〔という果実〕を噛もうとすれば、きみは歯の一本ぐらい折りかねないというようであるべきなのだ。そうであれば、同情はその細やかで甘美な味を持つことになろう。」——『ツァラトゥストラ』

“それゆえ、高貴な者は、自分を戒めて、人に恥ずかしい思いをさせないように心がける。高貴な者は、自分を戒めて、およそ悩んでいる者に対して〔自ら〕羞恥を覚えるように心がけるのだ。”——『ツァラトゥストラ』


“彼ら〔救済者〕の精神は彼らの同情の中で溺死した。そして、彼らが同情によって膨れ、膨れ上がったとき、〔同情の〕水面にはいつもある大いなる愚かさが漂っていた。”——『ツァラトゥストラ』

“ああ、同情深い者たちにおけるよりも大きな愚行が、この世のどこかで行なわれただろうか? また、同情深い者たちの愚行以上に多くの悩みを引き起こしたものが、この世に何かあっただろうか?”——『ツァラトゥストラ』

“彼ら〔善人たち〕は心の底でひとえに一つのことを最も念願している、すなわち、彼らが誰からも傷つけられないということだ。そこで、彼らは誰に対しても先んじて親切を尽くす。”——『ツァラトゥストラ』


《“思想家はどこまでおのれの敵を愛するか”。——きみの思想と反対に考えることのできる者をけっして抑制するな。口外せずにはおくな! 自分にそれを誓え! それは思索の第一の誠実に属している。》——『曙光』

《“駄目になる”。——同じ考え方の人間を違った考え方の人間よりも高く尊敬せよと指導さするなら、青年は一番確実に駄目になる。》——『曙光』

《きみたちは、憎むべき敵たちだけを持つことが必要であって、軽蔑すべき敵たちを持ってはならない。きみたちは自分の敵を誇りとしなければならない。》——『ツァラトゥストラ』



“「われわれに対して等しくないすべての者に復讐を誹謗を加えよう」——タラントゥラたちは心を合わせてこう言う。「そして『平等への意志』——これこそ将来道徳の名に代わるべきものだ。権力をもつ一切の者に対して、われわれはわれわれの叫び声を上げよう!」”——『ツァラトゥストラ』


《自分の正しさを主張して譲らないよりは、自分に不正を帰するほうが高貴である。自分の正しい場合にはとりわけそうだ。ただ、そうするに足るだけ豊かでなくてはならない。》——『ツァラトゥストラ』

“しばしば泥が玉座に坐っている——そしてしばしば玉座がまた泥の上に座を占めている。”——『ツァラトゥストラ』


“あまりにも長いあいだ、世人は彼ら〔小さい人々〕の言行を是認してきた。そこで、ついには彼らに権力までも与える結果となったのだ——いまや小さい人々は教える「小さい人々が善と呼ぶものだけが善なのだ」と。”——『ツァラトゥストラ』


《しかし、道徳を育て上げた諸力のうちには、“誠実性”があった。“このもの”がついには道徳に反抗し、その“目的論”を、その“私心ある”考察を暴き出し——そしていまやわが身から振り捨てようにも振り捨てることのできない長期にわたる血肉化されたこの欺瞞を見抜く洞察が、刺戟剤としてはたらくのである。》——『力への意志』

“〈誠実〉とは何かという問題について、おそらくいまだ何人も充分に誠実であったことはない。”——『善悪の彼岸』


「おお、これら善人どもときたら! “善人どもはけっして真理を語らない”。精神にとっては、こういうふうに善であることは、一種の病気である。これら善人ども、彼らは譲歩し、忍従する。彼らの心は受け売りし、彼らの心底は聴従する。だが、聴従する者は“自分自身の声には耳を傾けないのだ”!」——『ツァラトゥストラ』

“とりわけ「善人」と自称する者たちこそ、最も有害なハエであることを私は知った。彼らはまったく無邪気に刺し、まったく無邪気に嘘をつくのだ。”——『ツァラトゥストラ』

〈われわれは自分にもわけのわか好意に出くわすことがよくある、しかし、正体がわかると、それはわれわれの気を悪くさせる、それは人がわれわれのことを充分真剣には、充分重くは見ていないことを示しているからである。〉——『人間的、あまりに人間的』


「だが、彼ら〔善人ども〕が自分たちのものとして持っている徳は、長く生きるためのものであり、しかもある哀れむべき自己満足のうちに生きるためのものなのだ。」——『ツァラトゥストラ』

「そして、たとえ悪人どもがどんな害悪をなすにもせよ、善人どもの害悪こそ最も有害な害悪なのだ! また、たとえ世界を中傷する者たちがどんな害悪をなすにもせよ、善人どもの害悪こそ最も有害な害悪なのだ。」——『ツァラトゥストラ』

「まことに、私はしばしばあの虚弱な者どもを嘲笑した、彼らは自分が善良だと信じているが、そのじつ、彼らの前足が麻痺しているだけのことなのだ!」——『ツァラトゥストラ』



《実際のところは、認識とは“衝動相互の一種の関係”にほかならない》——『喜ばしき知恵』

《愛することもまた、学ばなければならない》——『喜ばしき知恵』


「狂信というのは、虚弱で心許ない人間でも辿り着ける唯一の「意志の強さ」だからである。」——『喜ばしき知恵』

「自己を保存しようとするのは、苦境にあることの表現である。それは、本来の生の根本衝動——“力の拡張”を目指し、その意志によってしばしば自己保存を疑問に付し、犠牲にするような衝動——が衰微していることの現れである。」——『喜ばしき知恵』


〈道徳的仮装を必要とするのは、猛獣の獰猛さではなく、根深い凡庸さをもち、臆病さと自身への退屈を抱いた群畜類なのだ。道徳は“ヨーロッパ人を飾り立て”——われわれは白状しようではないか!——、いっそう高貴で重厚で堂々たる者、「神々しい者」に仕立てているのだ。〉——『喜ばしき知恵』

〈かつてはすべてが逆であった。労働こそが良心の疚しさをともなっていたのだ。生まれの良い人間は、必要に迫られて労働に手を染めるときも、それを“ひた隠し”にしたものだ。奴隷たちは、自分たちが何か卑しいことをやっているという感情の重圧のもとではたらいていた。——そう、そこでは「行動」そのものが、なにやら卑しいものであったのだ。「高貴さと名誉は閑暇と戦争の内に宿る」——古代人の先入見の声はこう叫ぶだろう。〉——『喜ばしき知恵』


〈文筆家というのは本質的に俳優である。——つまり彼らは「事情通」を演じ、「専門家」を演じるのだ。〉——『喜ばしき知恵』

〈学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。〉——『喜ばしき知恵』


「私はどこまでも身体であってそれ以外のなにものでもない。心とは身体に付属した何かを指す言葉にすぎぬ。身体とは偉大な理性であり、“ひとつの”感覚をもった多様なのだ。」——『ツァラトゥストラはこう語った』

「……兄弟よ、君の思考と感情の背後にはひとりの強力な命令者、知られざる智者がいる。その名を〈自己〉という。君の身体に彼は住む。君の身体が彼なのだ」——『ツァラトゥストラはこと語った』

□Twitter-fav3・Kant

2013-04-01 00:02:00 | Twitterから
◇カント『永遠平和のために』

〈三つの国家体制のうちで、“民主制”は語のほんらいの意味で必然的に専制的な政体である。というのは民主制の執行権のもとでは、すべての人がある一人について、場合によってはその一人の同意なしで、すなわち全員の一致という名目のもとで決議することができるのであり、これは普遍的な意志そのものと矛盾し、自由と矛盾するからである。
 だから“代議的”でないすべての統治形式は、ほんらい“まともでない形式”である。というのは立法者が同じ人格において、同時にその意志の執行者となりうるからである。ところがこのことは、理性の推論において、普遍的な大前提が同時に特殊な小前提をみずからのうちに含むと同じように、矛盾したことなのである。〉


◇ヨハン・シュルツ『カント『純粋理性批判』を読むために』



「感性は私たちに直観を与えるが、すべてのこうした直観は、悟性がそれらの直観を“思考する”、つまり直観における多様な概念のうちへと総括し、それらについて判断するのでなければ、思想を欠いた盲目な直観であるだろう。」

「したがって、経験の可能性は三重の総合を前提するのであり、三重の総合は、直観による“把捉”の総合と、構想における“再生産”の総合と、統覚ないしは意識による、概念における“再認”の総合である。」

「つまり、純粋な意識もまた純粋な構想力を前提する、すなわち、把捉と再生産においてアプリオリな必然的制約に従って直観の多様を連結する能力を前提するのである。」

「さて、純粋悟性概念はたんに現象にのみ適用可能であるが、しかし、悟性概念と現象は、悟性概念がたんに悟性のみを源泉とし、現象がたんに感性のみを源泉とするので、まったく異種的である。…中略…この媒介表象を著者は超越論的“図式”と名づけ、図式による悟性の働きを純粋悟性概念の“図式機能”と名づける。さて、この図式は時間である。…」

「このような概念の図式は概念の像からは区別されねばならない。それというのも、概念の図式は、概念に概念の像を与えるという普遍的手続きを示すだけだからである。」

「しかし、これら図式は総じて時間規定であり、すなわち感性の形式にかかわるので、このことから、純粋悟性概念の客観的実在性は、悟性の外にある条件、すなわち感性のうちにある条件に応じて制限されること、したがって、純粋悟性概念は、“対象がそれ自体である”ようにではなく、“対象が私たちに現象する”ようにしか対象に妥当しない、ということが同時に明らかになるのである。」


「したがって、悟性は悟性のアプリオリな法則を、自然から汲み取るのではなく、自然に措定するという命題は、なるほど非常識に見えるが、しかしそれでもなお確実な命題である。」


「純粋悟性の総合的原則がこのように確立されたことは、今や完全に、純粋悟性概念はたんに現象、ないしは経験の対象にのみ適用可能であり、したがって、超越論的使用を決してもたず、もっぱら経験的使用のみをもつ、ということを示している。」

「したがって、たんに叡智的な対象の可能性も不可能性も証明されえないので、ヌーメノンの概念はたんなる“限界概念”にすぎない。この限界概念によって一つには、悟性は、感性的認識の分野が、悟性が思考するすべてのものを超えて広がっているかのような感性の越権を制限し、しかももう一つには、悟性は、自分の概念により感性の分野の外部では何ら積極的なものを認識せず、物自体を、たんに未知なるものという名の下で思考しうるのみである、という限界を自分自身に定めるのである。」

「…それというのも、悟性はまず、或るものを何らかの仕方で規定しうるには、その或るものが(少なくとも概念において)与えられていることを要求し、したがって、純粋悟性の概念においては、質料が形式に先行するからである。しかし、私たちがたんに空虚な概念だけに携わるのではなく、概念を対象に関係づけようとするなら、この場合には、逆に形式が質料に先行する。それというのも、私たちの概念は直接的には対象に関係できず、たんに感性的直観を介してのみ対象に関係できるので、対象は、純粋悟性によるのではなくて、感性的直観によってのみたんに現象として私たちに与えられるからである。…」


「したがって、純粋理性がたどり着く概念は、純粋悟性概念とはまったく区別される。なぜなら、純粋悟性概念はたんに可能的経験の対象にのみ適用可能であるが、これに反して、純粋理性の概念はまさに、経験においては決して与えられない対象にかかわるからである。」

「さて、理念に三つの種類が存在するので、弁証論的理性推理にも三つの種類があるのであり、すなわち、心理学的、宇宙論的、神学的の三つが存在する。著者は第一の種類を純粋理性の“誤謬推理”〔パラロギスムス〕、第二の種類を純粋理性の“二律背反”〔アンチノミー〕、そして第三の種類を純粋理性の“理想”〔イデアール〕と名づけている。」


「したがって、私は私の自我を対象として判定しようとするならば、私は他者の視点で私を考察しなければならないが、しかしこの場合には、私は、意識の形式として一つのたんなる思想であるこの自我が、この自我によって相互に結合される残りの諸思想と同様に流れ行くのでなないのかどうかを、決して突き止めることはできないのである。」

「すなわち、超越論的観念論は、それ自体で真なる教説であるのみならず、人が経験的観念論に落ち込まないように望み、それどころか、二元論も、唯物論も、唯心論も想定する権原を与えられないという混乱に陥らないように望むかぎり、必然的に想定されなければならないのである。」

「したがって、合理的心理学の全体は、誤謬推理だけで構成されているので、人間理性のすべての力が及ばない学問として抜け落ちるのである。」


「すなわち、私自身の無知を自由に告白しつつ、それでもなおあらゆる思弁的な敵の独断的攻撃を追い払うことができるのであり、私の期待によって自分を支えるために、私の主観の本性について私が知るより以上のことは、思弁的な敵も、私の期待の可能性を否認するために、私の主観の本性について決して知ることができない、ということを思弁的な敵に示せるのである。」


「こういうわけで、四つ以上の宇宙論的理念は存在しない。すなわち理性は絶対的完璧性を、(一)世界全体の合成において、空間に関しても、過去の時間に関しても、(二)物質の分割において、(三)現象の生起において、(四)変化するものの現存在の依存性において、要求する。」

「それは、私たちの理性が自分自身との抗争に陥り、しかもその仕方はおのずとまったく自然的で不可避的であり、この抗争が故意の詭弁によってでっち上げられたわけではないということである。」

「このようにして今やここでは、理性が自己自身と抗争している、奇妙な抗争が明らかとなる。なぜなら、理性の宇宙論的主張はどれも、その反対が同じく厳密に証明されうるという種類のものだからである。」

「それゆえ、純粋理性の理念は、理念によってある種の対象の概念があたえられるかのように、したがって、人が理念を介してあらゆる可能的経験をはるかに越えて自分の認識を拡張できるかのように、“構成的”に使用されることは決してしない。(略)そのかわり、純粋理性の理念はたんに“統制的”に使用されるだけである。すなわち、純粋理性の理念は、私たちの悟性による諸認識を“体系的”にすることに役立ち、すなわち悟性による諸認識の連関を一つの原理から導出し、こうして私たちの悟性使用を全面的一致、完璧性、体系的統一へともたらすことに役立つのである。」

「それゆえ、理性はなるほど“経験の”客観的“限界”にまで、すなわち、自身は経験の対象ではなく、あらゆる経験の最上の根拠でなければならないものへの“関係”にまで、私たちを導く。しかしここで理性は自らの制限を感じる。…」


「ところで現実にこういった純粋な道徳的な諸法則が存在することは、誰も否認できない命題である。しかし当為〔なすべし〕は可能性をすでに自己のうちに含んでいるのだから、このことから帰結するのは、純粋理性はその道徳的使用のうちに“経験の可能性”の原理を、すなわち、道徳的な諸法則に適って人間の“歴史”において見出され“うる”ような行為の原理を含んでいることである。したがって純粋理性の原理はその道徳的使用において“客観的実在性”を持つ。」

「概念の構成に基づくあらゆる理性認識の体系は“数学”と呼ばれる。概念自身に基づくあらゆる理性認識の体系は“哲学”と呼ばれる。」

「つまり、“自然の形而上学”と“人倫の形而上学”が存在する。したがって、自然の形而上学は理性の思弁的使用に関係し、狭い意味において形而上学と呼ばれるのがつねであるが、これに対して、人倫の形而上学は純粋理性の実践的使用に関係し、本来は純粋道徳であって、この純粋道徳においては、人間学が、あるいは経験的条件が根底に置かれてはならない。」




“つまり、原因と結果の概念はまったく悟性の産物ではなくて構想力のたんなる虚構にすぎない、というヒュームの疑いははたして根拠づけられたものではないのだろうか、というように人は熟慮しなかったのである。”

“しかし、二つの異なる物の間で仮言的に必然的な連結を証明することが理性にできるものだろうかどうか、またどのようにすればできるのだろうか、ということについての教えをヒュームはまさしく要求したのだが、このことがまたしても気付かれなかったのである。”

“要約すると、ヒュームが投げかけた本来の問いは、どのようにして悟性はまったく異なる物の間に必然的な連結を認識しうるのか、というものであり、またはカントの言い方では、どのようにして悟性はアプリオリに総合判断を生み出しうるのか、というものであってこの問いの解答をヒュームは不可能であるとみなしたのである。この問いはヒュームのすべての反対論者によってまったく見過ごされたのであり、したがってヒュームの懐疑論は論駁されないままであったのである。”


「…このことから、次のようなアプリオリな普遍的総合的原則が確立する。すなわち、可能的な経験の対象であるべきすべてのものは、空間と時間とのうちにあらねばならないばかりか、このようなものにはすべての部類の純粋悟性概念のなかの少なくとも一つが必然的に帰属しなければならない、という原則である。」

“つまり、ヒュームが申し立てたように、私たちの概念は、私たちがたんに経験から手に入れた感性的印象の写しにすぎないであろうなどということは、とんでもないことであり、私たちの概念は、この概念と対象との連結によってはじめて経験そのものが可能となるようなものなのである。”

「こうして、純粋悟性概念の適切な演繹によって、どのようにして悟性はまったく異なる対象の間にアプリオリに必然的な連結を考えることができるのか、というヒュームの問題が完全に解決されているばかりか、それと同時に、あらゆる可能的なアプリオリな総合的原則の総数が正確に規定されているのである。」


「物“自体”が何であるかに関しては、物自体は私たちの感性の対象でも、私たちの悟性の対象でもまったくないのである。」


「したがって、このようにして明らかであることは、悟性が自分の概念と原則とによって私たちを可能的経験の限界を越えて連れ出せないのとまさしく同様に、理性も自分の推理によって私たちを可能的経験の限界を越えて連れ出せないということであり、それゆえ理性は自分の思弁でもって悟性に新しい客観を与えることはまったくできなくて、悟性が私たちに与える、自然についての普遍的学識を理性がさらに加工して、許容範囲内で完璧な体系へともたらすだけで理性は満足しなければならない、ということである。」

「それゆえ、絶対的に無条件的なものの概念はすべてたんなる理念にすぎず、この理念の客観的実在性は証明不可能なのである。」


「この著作—『純粋理性批判』のこと—が必当然的な確信をもってまったく人間理性に認めない能力は、概念と判断と推理でもって感性の分野を超越でき、可能的な経験の対象でないようななにかあるものについてほんのわずかでも概念を作れる、という能力のすべてである。」

□Twitter-fav2

2013-04-01 00:01:00 | Twitterから
「コギトをつうじて先取りされる存在はやはり1である宿命を負って反復へと導かれる」——ラカン『精神分析の裏面』


「痕跡の中に記された pas(歩み、否定)がそれを pas と読む者の発音の中に移し換えられるときに、この pas は、それが le pas(歩み)を意味することを人が忘れるという条件の下で、まず人がエクリチュールの音声化と呼ぶものの中で pas(否定)を表象するものとして役立ち、同様に pas(歩み)の痕跡を痕跡 pas(否定)に場合によっては変えるのに役立つ。」——ラカン『同一化』

「われわれが pas から、剥奪 (privation) の純然たる事実をはっきり含意する何かを作り出さねばならぬ、ということだろうか。実際このようにして、あらゆる面に当たり、諸文例をうまく一つのグループにまとめているかぎりにおいて、確かにピションの傾向を示していることになるだろう。」——ラカン『同一化』

※ここではピションからラカンが拝借したタームの〈排除 forclusion〉ではなく、〈剥奪 privation〉が用いられていることに留意がいる。



◇モニク・ダヴィド=メナール

〈哲学を性格づけているのは、欲動と思考との間でつねに活動している結びつきの忌避であり、これは時折成功している。成功しているというのは、概念への移行が実現しているような暴力——おそらくは自己の殺害——と引き換えに手に入る概念的秩序においては成功している、ということである。〉


「女性は、彼女がファルスの問題系において男性に期待しているものが失望に終わるということを知らないわけにはいかない。なぜなら、ペニスはファルスではないからである。そしてまた女性は、ファルスが具現化しえないような彼女の性生活の部分を、いずれにせよ、幸福な経験の中ですら、独力で、あるいは別の仕方によって象徴化することになるだろうということを、知らないわけにはいかないのである。」

「性関係は存在しない、つまり、愛は〈他者〉の再臨ではなく、また両性の完結性および相補性の経験でもない、という主張は、女性と男性とでは同じ意味を持っていない。男性はこれによって、彼をファルス的ナルシシズムから脱出させてくれる対象に対する関係を説明する。女性はこの定式によって、ペニスとファルスとの間の分離の経験を説明するのである。」

「ラカンは次のように言う。男性がファルス的なものの同語反復から抜け出すのは、自らを例外とすることによってのみであり、このことが愛情生活に関する臨床において対応しているのは、愛というナルシシズムを脱することにほかならない。」


《ラカンによれば、存在命題が形式化している例外のおかげで、〈一者〉が存在する——つまり「Y a d'l'Un」——あるいはさらに「Unien」が存在するのであり、これは同一化の特徴の一なるもの〔l' unaire〕からは区別される。》

《主体は、もしそれが同一化によって構成されているとすれば、「同じもの」ではない。一なるもの〔l' unaire〕とは一つのもの〔l' un〕ではないのだ。それは、全体的なもの、統一化されたものを禁じる。逆に、主体が持っている、フロイトが言っていたところの「他に同じようなもののない」唯一の〔einzig〕ものとして主体の生を際だたせるような反復において、主体は告知されるのである。》

《「現実存在を主張することとは、まさしく、ゼロという数字を否定することにほかならない」(フレーゲ)。言語の指示機能は、フレーゲにおいては、(論理的定数であるような固有名に対しては除いて)量化を経ることによってのみ、物に対する言葉の関係を認めるという原理に従うのである。》

□Twitter-fav1

2013-04-01 00:00:00 | Twitterから
「無論、彼らは私の言いたい事を聴きとっています。彼らは私の言いたい事を聴きとっていますが、ただ、残念なことに、彼らはそれを理解してしまうのです。そして彼らが理解したことは少しばかり性急なのです。」――ラカン『アンコール』


〈このように監禁の起源とその最初の意味は、この社会的な空間の再構成に結びついていたのである。〉——フーコー『精神疾患とパーソナリティ』

〈退行は、たんに発達の一つの潜在性ではなく、個人史の帰結でもある〉——フーコー『精神疾患とパーソナリティ』


《主体は、その対象に対して内部的な締め出しをくっている》——ラカン「科学と真理」


「知覚を曲げるのは意識だ。この奇妙なごまかしは何に支えられているのだろうか。鏡は三次元の空間、このわれわれが現実としている空間を二重にするために区切る表面しか明らかにしない。鏡像は、もしその前にあるものと偽の対称が二つの眼、二つの耳などをすでに明らかにしていなかったらこの無知の意味を持たないだろう。しかし、身体の内部では、すべてが多少なりともねじれている。そして、分割された主体が球状トポロジーの世界のなかに記入されたものを、どうやって説明できるだろう」——カトリーヌ・クレマンによる未刊行のラカンのセミネール講義録ノート(1965)より


「私がパロールのうちに探していることは、他者の応答である。私が主体として構成されるものは、私の問いである」——ラカン


「〈他者〉がパロールの場でありまたその欠如の場であるとするならば、欲望とは、主体がシニフィアンの連鎖を分節しながら、〈他者〉からの補充の呼びかけをともなう存在欠如を明るみに出すかぎりにおいて、要求がみずからの内側に掘った間隙に現れてくるものである」——ラカン


「…しかり、面接の中止は、まさに記憶の訓練と混じった正義を意味している。しかし、面接は、なおも他の多くの〔患者の〕記憶に支えられている。すなわち、句読点の語は、たんなる隠喩ではないのである。」——カトリーヌ・クレマン


「われわれは患者がどのようにして面接の期間を自分の期限にかみ合わせるために、さらには逃げ道になるように、その決着のつく日を計算するか知っているし、また患者がいかにして、待避壕から窺いながら、武器の重さを見積る仕方で分析の期間を先回りして見破っているか知っている」――ラカン


「ひとり精神分析だけが、愛情がつねにとりこわすか、または断ち切るかしなければならない想像上の隷属の絆を認識することができる」――ラカン


「愛他主義的感情はわれわれにとって多くを約束しない。われわれは、博愛主義者や理想主義者や教育者、さらには革命者の活動の底にある攻撃性をすでに見破っているのだから」――ラカン


《私が当てにしているのは渦巻だ》――ラカン (S, 1980.3.18)


「私が隣人を名指すに先んじて、隣人は私を召喚している。それは認識のではなく、切迫(obsession) の形態である。(略)“隣人に近づきつつあるとき、私はすでにして隣人に遅れており、その遅れの咎によって、隣人に従属しているのである”。私はいわば外部から命令されている(外傷的な仕方で命令されている)のであるが、私に命令を下す権威を表象や概念によって内在化することがないのである」――レヴィナス


「男とか女とかいうシニフィアンは、受動的態度と能動的態度とか、攻撃的態度と協調的態度といったこととは異なるものです。つまりそのような行動とは別の次元のことです。そのような行動の背後な間違いなく或るシニフィアンが隠れているのです。このシニフィアンは、どこにも決して完全には具体化されませんが、『男』、『女』という語の存在の下で最も完全に近い形で具現化されるのです」――ラカン『精神病』


「被害者との同一化によって「告発者」の地位を得ようとする戦略そのものは別に特異なものではない。(略)「被差別者」たちの傷の深さと尊厳の喪失こそが、彼らと同一化するおのれ自身の正義と倫理性を担保してくれるからである。」――内田樹


「私たちが自分の暴力性や愚かしさを肯定するのは、それによって得られるものがそれによって失われるものより大きいという計算が立った場合だけである。」――内田樹


「人間は自分が依存する他者の愛を失えば、様々な危険に対する庇護を失うことにもなり、とりわけ、自分より強力なこの他者が自分に対して懲罰というかたちでおのれの優越性を示してくるという危険にさらされることになる」——フロイト『文化の中の居心地悪さ』


「これによって知覚複合体は、恒常的で理解されない部分、つまり事物〔das Ding〕と、変化し、理解される部分、つまり事物の属性や運動とに分かたれる」――フロイト『心理学草案』


「欲動/昇華が、たまたま出会った対象と自分で選ぶ対象とを区別できなくなる、そういう事態が生じることを欲動/昇華は望んでいる。欲動/昇華の説明としてこれほど適切なものはない。」――ジョアン・コプチェク


「対象がそれ自身以上のなにかを表していたり代理したりしているからではなく、ジョーンズにとって、対象はつねにそれ以上のものである」――ジョアン・コプチェク
※引用者注:ジョーンズ→ジャスパー・ジョーンズのこと。


「哲学者が扱う、果てしない広がりを持ち万人が共有する存在の代わりに、ラカンはなにを持ってくるか。対象a、つまり主体の核心に在る非存在のかけらとしての享楽である。」――ジョアン・コプチェク


「精神分析の倫理は、存在論への根本的な批判から、欲動と昇華の理論から生まれている。欲動と昇華の理論によって、精神分析は、哲学的探究を主体の存在論に置きかえるのだ。精神分析の倫理は、〔非〕存在の小さなかけらと主体との関係を問題とするのであり、他の人々ないしは〈他者〉と主体との関連は中心的問題ではないのである。」――ジョアン・コプチェク



《われわれの戦いの相手は、現実の堕落した個人ではなく、権力を手にしている人間全般、彼らの権威、グローバルな秩序とそれを維持するイデオロギー的神秘化である。》――ジジェク『終焉の時代に生きる』


「このように、構造を明らかにすることによって、その法則性そのものの議論をすることが可能になるわけである。そうして、このように定式化した理論は、形式化された明証的なものとして、解析することができるのである。」——森毅『数学的思考』


「思想の構造に命題〔節〕の統辞が対応する。そこでは一般に語順が関与してくる。思想をその要素に破壊、解消するという場合には、紙に書かれた命題を鋏で細切れにするかのように言葉を互いに引き離さなければならないだろう。(…)これは思想を否定することであろうか。否! 思想はこの刑罰にもかたちをとどめて (in effigie) 生き残ることは疑いない。」――フレーゲ


「ところで文における完全な否定が実現されるには、ある事実が認識領域に現われない (forclusion) だけでは十分ではなく、それがこの領野にある全ての事実と両立しない (discordance) ことが必要である。」――枝川昌雄「否定と象徴形成」


「…超自我の享楽は、法を通して、法の彼方に見え隠れする現実界の中の〈他者〉=隣人へ向けられる愛とは異なる。超自我の享楽は法を歪曲して〈世界〉の中へと法を転調した超自我の味わう情熱 (passion) に過ぎないからだ。」――作田啓一「愛の深層」



《所有とは、モノの生成の困難がモノを支配する力と権利における他人と自分への対立にすり替えられることで起こる感情である》――樫村晴香

「つまりあなたが何かをもっているなら、その何かをめぐって他者との間に潜在的な緊張関係が発生する。」

「モノの支配をめぐる所有の政治関係は、快楽を与える唯一の定式であるモノの不在と現前の現実的な交代のリズムを、記号化して恒常的に現前させ、そのことで、モノが単に物質的に存在するなら必ず摩滅していくはずのモノに基づく快楽を、隠喩の水準で冷凍保存しつづける。 」

「所有に対決する彼らの所有概念のメカニズムとその暗点については後回しにするとして、ともかくも、所有する感情とは対象を維持する感情であり、そのことが、同時に所有する者自体の維持を可能にする。」

「結局のところ、所有が覆い隠していた人間の臆病さはなんら変わらず、人間がより怠惰になっただけで、こうしてあらかじめ他者が咀嚼した後期資本主義のこのモノの群れを、さしずめハイデッガーなら、途方もなく<間抜けになった>モノたちと表現したことだろう。」


《あらゆる闘争と神学において、人は必ず敗北する。しかしやがてくるこの神話のとき、そこにおいてはすべてのものが、果てしない弱さと強さの混淆する光のなか、完全に勝利するにちがいない。》——樫村晴香