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アガンベン『事物のしるし——方法について』

2015-01-17 20:34:51 | Agamben アガンベン
——SIGNATURA RERUM by Giorgio Agamben (2008)


第一章 パラダイムとはなにか

“パラダイムの言説体制は論理ではなく、むしろアナロジーである。”29

「アナロジー的な第三項は、ここでなによりも、はじめの二項の脱同一化と中和を通して証明される。はじめの二項はいまや区別しえなくなるのである。第三項とは、この区別しえなさである。」30

《したがって、修道士それぞれの生活は、つまるところパラダイム的なものになり、〈生の形式〉として構築される傾向にある。》33

〈すなわち、パラダイムが含意する運動は、単独から単独へと進み、そこから出ることなく、けっしてア・プリオリとして定式化できない一般的な規則の“範例”へとどんな単独の事例であっても変形するのだ、と。〉33

「つまり、パラダイム的な関係は、たんに可感的な単独の対象間にあるのでも、単独の対象と一般的な規則とのあいだにあるのでもなく、なによりも単独性(そのようにしてパラダイムになるところの)とその展示(すなわちその可知性)とのあいだにあるのだ。」36

〈……その意味で、範例は例外と対称をなしている。例外が、除外されていることを通して包摂されている一方で、範例は、包摂されていることの提示を通して除外されているのである。〉37

“……すでに見たように、パラダイムの役割をはたすものは、通常の使用から引き離されると同時に、それ自体として提示される。”40

《アリストテレスの定義によれば、パラダイム的な身振りは、個別から全体へと進むのでも、全体から個別へと進むのでもなく、単独から単独へと進むのだった。現象は、その認識可能性のただなかに展示され、全体を示すことで、パラダイムとなる。パラダイムは、現象の前提(「仮定」)ではない。「前提されていない原理」として、パラダイムは過去にも現在にもなく、それらの範例的な布置のうちにあるのだ。》42


《その意味で、考古学はつねにパラダイム論である。アーカイヴの史料を検討する手腕だけてなく、パラダイムを認識し分節する能力こそが、研究者の序列を規定するだろう。》48


第二章 しるしの理論

「したがって、しるしによって表現される関係は、因果関係ではない。しるしの主 signator に逆作用するという、いっそう複雑ななにものかである。まさにこれを理解することが重要である。」54

「けれども、しるしの原型たる〈しるしの術〉(Kunst Signata) が言語なのだとすれば、この類似は、物理的ななにものかとしてではなく、アナロジー的で非物質的なモデルによるものとして理解すべきだろう。言語は、非物質的な類似のアーカイヴを保管しており、しるしの宝庫でもあるのだ。」56

「関連は、〈しるしづけるもの〉(signans) と〈しるしづけられたもの〉(signatum) とのあいだ、シニフィアンとシニフィエのあいだにあるのではない。……」57


「したがって霊印とは、零度のしるしである。この零度のしるしは、シニフィエなしに記号の出来事を表現し、この出来事のうちに中身のない純粋な同一性を打ち立てるのである。」76

“とはいえ、類似、共感、類比、照応の緊密な骨組みからなる世界は、それらを認識させてくれるマーク、しるしを必要とする。”89


〈バンヴェニストによれば、たんに記号体系としてのみ言語を考えようとするフェルディナン・ド・ソシュールの試みは不充分である。それではいかにして記号から発言へと移行するのかを説明できない。……死後出版されたノートのなかでソシュールも直観していたように、もし言語が記号体系であると想定してしまうなら、いかにして記号が言説に変形するのかを説明できなくなってしまうのである。〉94

「実のところ記号の世界は閉ざされている。記号から文への移行は、連辞によってもほかの仕方でもありえない。断絶がそれらを分け隔てているのだ」(Benveniste 1974) 95


《するとそのとき、存在論は存在の「言説」として、すなわち「存在の受動」として可能になるのである。〈いかなる存在者も一であり、真であり、善である〉(Quodlibet ens est unum, verum, bonum)、あらゆる存在者は一のしるし(存在者を数学ないし単独性の理論へと移動させる)、真のしるし(存在者を認識の教説へと向ける)、善のしるし(存在者を共有されうる望ましいものにする)を呈示するのである。》102


《その意味で、すでに見たように、第一哲学における超越論的なものは概念ではなく、しるしであり、「存在」概念の「受動」である。》119

“いずれにしても「世俗化」は概念なのではなくて、戦略的な操作子であるという事実”119

《この操作子によって、政治の諸概念がしるしづけられ、その神学的な起源に送り返されるのである。つまり世俗化は、近代の概念系にあってしるしとしてはたらき、この概念系を神学へと送り返すのである。……同様に「世俗化した」概念は、しるしとして、神学の領域にかつて所属していたことを提示する。》119-120

《それどころか、二十世紀の思想の無視しえない部分の根底には、しるしの絶対化とでも言うべきもの、つまり意味作用にたいするしるしの構成的優位の教説があると言っても過言ではないだろう。》120

「……事実、アリストテレスにしたがえば、欠如は、欠如している形相への参照をなおも含んでいるかぎりで、たんなる「不在」(apous?a) とは区別されるという(『形而上学』1004a, 16)。この形相は、まさにその欠乏によって確証されているのである。」121


第三章 哲学的考古学

《しかしこのアルケーは、ニーチェやフーコーにおけるように、過去のなかに通時的に追いやられることはなく、むしろ体系の共時的理解と一貫性を保証している。》143

「つまり歴史的ア・プリオリは、ア・プリオリな条件が、その条件にたいしてア・ポステリオリにしか構成されえないはずの歴史に刻み込まれているという、パラドクスを明らかにする。研究は——フーコーの場合なら考古学は——歴史のなかにア・プリオリな条件を見いださねばならないのである。」146


《ただ精神分析のみが、症状と強迫的な行動を超えて、抑圧された出来事にまで遡ることを可能にするだろう。》155

《考古学的退行は、意識と無意識の分水嶺の此方に遡る。そうして、思い出と忘却、体験されたものと体験されなかったものとが同時に交通し合いながら分離している断層線にまで辿りつく。》158

“むしろ問題は、系譜学研究による細部への配慮を通して、幻想を呼び覚まし、同時に幻想をはたらかせ、脱構築し、詳らかにし、ついには徐々に侵食していって、その起源の地位を失わせることである。つまり、考古学的退行とは回避的なのである。考古学的退行は、フロイトにおけるように先行状態の復元を狙うのではない。むしろ、その状態を解体し、遷移させ、最終的には迂回して、その内容にではなく、分裂の様相、状況、契機にまで遡ることを目指す。分裂は、そうした様相、状況、契機を遷移させ、起源として構成していたのである。その意味で、考古学的退行は永遠回帰の正反対である。つまり、過去を反復することでかつてあったものに同意しようとしたり、「そうだった」を「そうであることをわたしが欲した」に変えたりしようとはしない。逆に、過去をあるがままにし、解放して、その此方ないし彼方で、かつてなかったもの、かつて欲しなかったものに接近しようと望むのである。”158-159


「夢は解放の瞬間を先取りしているのだ。夢はトラウマ的な過去の強迫的反復である以上に、歴史の予兆なのである。」(Foucault 1994, I) 164

《考古学は歴史の流れを逆なでにして遡る。ちょうど想像力が個人の伝記の流れを遡るようにだ。これらはいずれも退行的な力を表象している。しかしこの退行的な力は、トラウマ性神経症のように、壊れることのなきまま起源へとあとずさりするのではない。逆に、歴史(個人のであれ集団のであれ)が先立未来の時制にしたがってはじめて接近可能になる点へと向かう。》165