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per l/a psicoanalisi

ふつうの精神病から“倒錯の利得”へ(抄)

2016-10-26 23:00:12 | 試訳
--DALLA PSICOSI ORDINARIA AL “BENEFICIO PERVERSO”, Amelia Barbui

〔番号は、文章の纏まりと区切りに応じて、訳者が示した。〕

1.

私は Miller のこの引用を、“倒錯の利得 beneficio perverso”が享楽することのモードについて“少なくとも一つの理念 almeno un'idea”を持つことに関わることを強調しつつ、ふつうの精神病の近似的論理へ、そのファジーな論理へ送り返すために、図案の下として選択しました。

《ふつうの精神病とフローな臨床 Psicosi ordinaria e clinica flou》で Miller は、近似(“確実ではない non è sicuro”、“およそ più o meno”)を導入しつつ、“享楽することの諸モード modi di godere”について語ることを私は記憶しています。その近似は、二分法的で不連続な方法で、人間的な諸事象 le cose umane の現実または真理を(諸階層により)分割することに、私たちが同意するあの組織的な原則がなくなるようになる瞬間において関係する、私たちの獲得です。

2.

要するに私は、Miller により1988年に精神病の主題へ案出された、“ふつうの ordinario”の用語を、倒錯によって、享楽が前景にあり、大他者が存在しない、要するに、無意識からエスへ、象徴的なものの優位から、現実的なものの意味の外へアクセントが移された、同時代性に関してそれを問いただすため、検証できればと思います。

このため私は、ファジー論理 la logica fazzy について、不確定な縁による諸集合 gli insiemi dai contorni incerti の理論について何か述べるでしょう。そこにおいて、女性的なポジションは固有なゆとり proprio agio を持つに至ります。

3.

女性的なポジションはしたがって、ファジー論理において位置を見出し、その諸集合は(ある連続性により)非所属 non appartenenza から完全な所属 appartenenza completa へ進む、ある“所属の度合 grado di appartenenza ”を規定し、そして、各々の要素が〔複数の〕他 gli altri からの差異において定義される場です。極値 le estremità で、そして、(Miller が私たちに言及するように)そこにおいて“人間的な諸事物の真理 la verità delle cose umane”と、私たちの日々のパンである“確実ではない non è sicuro”の場を見出す、ガウス曲線におけるような、およその半鐘形で、“根本的に反対 radicalmente opposti”が見出されます。

ファジー論理は、ある二値の論理ではありません。反対の二つの価(例えば真/偽)のあいだで、多数の値(0 と 1 のあいだに連続性がある)が定義され得ます。多数の値 valori multipli にある一つの論理であり、そこで真理の異なった度合が位置を見出します。ファジーな諸集合の理論において、無矛盾の、そしてここで要約された結果のような排除された第三項の、アリストテレス的諸原則は有効ではありません。

4.

古典的諸集合が私たちに、所属と同時に排除の正確なある定義を与えることを許す一方、不確定な縁の諸集合は、違った方法で、(ある所有からその補足への移行の)境界 la frontiera の問題について、そして、秩序=順序 l'ordine が根拠をおく所属 appartenenza についてよく定義された、あの基準の欠如を評価することに同意しながら、極限 il limite の問題についての疑問に合致します。

Lacan は、そこでは想像的なもの、象徴的なもの、そして現実的なものが、ヒエラルキー的に異ならない結び目 i nodi を導入しつつ、秩序=順序 l'ordine を問いただし、それを審議に付します。このように“秩序=順序の効果から結び目の効果へ Dall'effetto ordine all'effetto nodo”(※) の移行を提出します。そして、記します。“ordine の概念—後に言うように、それは独創性 l'originalità を承諾しない—は、私を妨害し、そして私は、他の何か(それは、結節点 la nodalità に存する)を示すことで、それから脱しようと試みる”。

※J. Lacan, Le non-dupes, lezione del 15/1/74

さらに、セミネール R.S.I. —75年2月11日の講義—の中で Lacan は、(一 uno に他 l'altro をもたらす穴における、一 uno の移行の相互関係はないという意味で)一 uno が他 l'altro に結ばれない、連鎖しないことを明確にします。象徴界、想像界、現実界のあいだの関係はこれです。ボロメオの結び目は、このように分離における結び目、結び目における分離の一つのモデルを提供します。

5.

2008年3月の講義において J.-A. Miller は言います。“結節〔交点〕の精神分析 la psicoanalisi nodale は、私たちが流体の精神分析 psicoanalisi liquida と呼ぶことから、再び位置づけられることにたどり着くでしょう”。そして、続けます。“結び目 il nodo は、精神分析の流体の状態に適合する構造が持続することを思考できるようにすると言われ得るでしょう。結び目は、流体に属することと構造のあいだのある分節を私たちに提供します”。“Lacan が示唆するように、もし結び目が流体の精神分析に相応しいなら、解読を(享楽の出来事についてのある外科的作用の)切れ目の効果と相対的とみなす必要があります”。
こうして、ランガージュとララングの差〔開き〕の、無意識の諸形成物と身体の出来事の差異の、欲望と享楽の意味の、流体のパロールについて言及した後、講義を締めくくります。
続く講義においては、満足の経験 esperienza di soddisfacimento として精神分析について話すでしょう。
ここで私は、図案の下に私が置いた引用の“倒錯の利得 beneficio perverso”に再び結びつきます。“人が享楽することのできるモードについて、少なくとも一つの理念—近似的論理 logica approssimativa—を少なくとも持つこと”。


そういうわけで、流体の精神分析にうまく適うある他の論理 un'altra logica—ファジー論理のような—によって、大他者 l'Altro の介入のない、しかし構造なしではない同時代性に合致することが問題です。

手段性の圏域へ

2016-10-19 22:03:52 | 精神分析について
症状から倒錯的なリビードへ迂回した。そこから、対象リビードと自我リビード(ナルシシズム)という対立(葛藤)を見出した。 何よりも、症状における抵抗点は、この二極 (*1) だった。

〔*1: これを、精神分析における倒錯的享楽の二源泉と呼びたい。〕


リビードは、対象から自我へと一部帰還する (*2) 。この帰還したリビードが、言わば症状における身体との固着となり、抵抗する。 ラカンはこれを何と呼んだか? ここから、死の欲動とトラウマは近い。 エロスを辿ったわけだが、ナルシシズムへの帰還を通じて死に行き着く。

〔*2: 詳しくは、フロイト「ナルシシズム入門」(1914) の一次ナルシシズムと二次ナルシシズムの区別を参照。〕


問題になっているのは、無意識の形成物から、症状形成の“経路”だ。

身体に固着した、主体の運命は? これは、精神分析でしか探究し得ない。

こう言って良ければ、精神分析はその目的を、純粋な手段へと変容させるのかも知れない。 主体の運命は、“かつての”目的や理想に囚われている。それは、無意識を通すことで、“現実的な”手段へと変わる。



《私は、享楽することとしての知の想定された主体として、知の想定された主体と同一化するある倒錯者、享楽するモードに関するある確信〔必然性〕を持つ主体について語ります。享楽することとして知らないことは、よくある診断のある種の動機です。このためラカンは、ある精神分析的治療は、倒錯の利得 un beneficio perverso を認めるべきと言い得ました。明らかに、“倒錯 perversione”の用語のこの使用は、古典的なそれではありません。この場合、倒錯の利得 il beneficio perverso は、人が享楽することのできるモードについて、少なくとも一つの理念を少なくとも持つこと avere almeno un'idea に存します。》J.-A. Miller, conferenza teatro Colieso

フロイト『性理論三篇』再読ノート

2016-10-11 21:30:02 | 精神分析について
1. Lust と Libido

Freud は、Lust という用語と Libido という用語を分けている。Lust には、欲求の感情と充足の感情が割り与えられ、Libido は、ラテン語の羨望や欲望を経由し、人間の性の欲動の根底にある、“心的”エネルギーのようなものとして考えられている。Lust は、「……をしたい」という願望を表現する際にも、快感を享受した時にも使われ、Libido と区別される。 これを先ず、押さえて欲しい。

さて、Lacan の欲望と、欲望の迂回路として私が見立てようとする、前駆快 Vorlust の峻別と考察に着手しよう。

「精神分析を見下しながら、精神分析の理論を軽蔑されておられる方々には、拡張された性という精神分析の概念が、〈神のごとき〉プラトンのエロスの概念とごく近いものであることを思い出していただきたい。」 ——フロイト『性理論三篇』(1905)の1920年版序文

人間の奢りのためにゼウスによって引き裂かれ、昔の半身を求めて恋をするという寓話も、考慮しよう。 そこに、愛の要求と性の目標の倒錯性も読めるのではないか?


2. 性対象倒錯と性目標倒錯

まず、Freud は『性理論三篇』の最初で、“性対象”倒錯と“性目標”倒錯の分類をしている。 Lacan の対象a とアガルマは、フェティッシュとの関連を持つことも付言していい。愛やフェティッシュとしての対象a はリビード的であり、屑や残余としてのそれは、脱リビード化している。

勿論、これは分析の入口や進展において、変化するし、繰り返す。

正常や病理、分類学的な議論は差し控えておくとして、Freud のこの指摘は引用しておいていい。 “幼児の頃にリビードの方向を決定するような体験が存在している”、“こうした体験は、その人物の意識的な記憶にのぼらないとしても、適切な影響を与えて想起させることができる”。

また、倒錯を発達障害として考える議論もあるが、この着想は Freud においても既に確認できる。 “……そして性欲動が発展する際に遭遇する障害こそが問題となる”。対象的な倒錯性と主体的な倒錯性という問題もあるが、ここでは差し控えたい。ただ、この両者は区別できるだろうが、混じり合っていることも指摘できる。


3. 同性愛と発達障害、学問と権威

Freud の論文で、同性愛感情と発達障害の連関が書かれているのは、『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出』である。是非、手にとってみて欲しい。

学問集団の友情や師弟関係も、こういう同性愛と発達障害の問題がある。例えば、そのような内輪での成果はあっても、セクシュアリティはますます枯れている。


学問においても、とりわけ精神分析でも、何故権威は簡単に信じられてしまうのか? そこに、性目標の〔性対象についての〕過大評価がある。

《これを性目標の過大評価と呼ぼう。心的な領域にもこうした過大評価が拡大し、性対象の精神的な能力や完全性についての論理的な幻惑(判断力の低下)をともなうことがあり、その場合には性対象の行う判断を簡単に信じ込んでしまう態度として現れる。愛に基づく信じやすさは、権威の根源的な源泉ではないとしても、その重要な源泉の一つである。》Freud, 1905


4. 性対象と性目標の関係、そして性欲動

面白いのは、性対象を Freud は、途上にあるものであり、〈中途的な〉段階と呼ぶところだ。つまり、性対象は性目標の中途的な段階であり、“先駆的な”性目標であると。 ここに、リビード Libido と前駆快 Vorlust の分岐を見出せる。

そして、性“欲動”の観点から見れば、性対象は性欲動を「代理」しているに過ぎない。 分析家のポジションは、あくまでも性対象である。それは、患者の性欲動を代理する、途上のもの、前駆的なものだろうが、性目標そのものではない。

精神分析は、ある意味で、性倒錯の積極的な利用である。


5. 分離の一般化と汎フェティシズムの病理、資本主義のパラドックス

さて、分離の一般化とセクシュアリティの枯渇という問題にも、先鞭をつけておく。《“性的な過大評価”と結びついたこの現象によって、性目標の放棄が行なわれるからである。》Freud, 1905

これは、性欲動が性対象を拡大しすぎる傾向に関係がある。

正常な人にもフェティシズムはある。だが、これが行き過ぎ、一般化されるとどうなるだろう? 性対象が病的な性目標に置き換わり、特定の人物からは離れ、一般的な性目標になることが起きる。

欲動の観点から言えば、源泉にあるものが目的論化し、逆説的に常に先送りされ、いつまでも到達〔満足〕しない。これは資本主義の究極的なパラドックスでもある。


6. 部分欲動

精神分析が性倒錯の利用であることを先に述べた。部分的であるにせよ、その側面はある。

何故、部分的なのか? それは、少なからず性欲動を何らかの仕方で、置き換え、転換しているからだ。症状において、性欲動の“倒錯的な転換”が見出せる。それは、ヒステリーにおいて顕著だが、症状全般に言える。

部分欲動をどう扱うか? これが、分析の試金石になる。部分欲動の体制とは、いわば倒錯的な体制であり、単一ではなく、複数の体制であることを指摘していい。


7. 依託、自体愛、前駆快

性欲動が、自体愛の前段階で既に、“依託的な”あり方をして作動している。 自体愛は、この“依託的な”あり方を思い出していて、後に独立したものになる。躓きがある場合がほとんどですが、この筋書きは覚えていい。

自体愛が独立するにあたり、以前の“依託的”であった愛のあり方も変化し、“前駆的”な快感に変わるというのはあり得る。


8. 転移愛との関連

転移を形成する論理的な操作が二つある。これを性対象と性目標として考える。

精神分析の知という時に、逆説的に到達不能な知というものが要請される。このこととパラレルなのは、幼児のセクシュアリティに関する知が、潜伏期を下準備するということだ。

自体愛と対象愛を、どう区別するかという問題もある。この移行領域が、転移の力動性と、部分欲動の倒錯性の場でもある。自体愛と対象愛の間の部分欲動(倒錯性)。


転移の設置で完遂しないとならないのは、症状の倒錯性をヒステリー化するということ。 その場合の症状の倒錯性は、サディズム、マゾヒズム、ナルシシズムが混合し、対象選択もフェティッシュとしての性質がある。 正常/病理という線引きは関係なく、これは誰にでもある特色である。

もう少しヒントを言うなら、症状の倒錯性のヒステリー化の二極が、不能と不可能になる。 一方の目標が不能になり、他方の対象が不可能になることで、セクシュアリティの言説〔官能性の場〕が形成される。


9. 精神分析の危機

精神分析が何らかの形で前駆快を利用するのは確かだろう。だが、その利用自体が行き過ぎ、目的論化されると、精神分析は滅ぶ。 日本ではこれが蔓延しつつある。

これを、精神分析の“性目標倒錯化”と仮に呼ぼう。私が常に批判した、文献学への過剰な行き過ぎた固執も、この危険がある。 言うなれば、フェティッシュの行き過ぎたコレクターが、実際の性は禁忌するのに似ている。

まさに、やり過ぎ〔行き過ぎ〕とは何にもならない。


10. 前駆快 Vorlust と 最終快 Endlust

リビードの道筋としての享楽 Jouissance 。この道筋の性別化ないし異化=分化については、また別所にて考察する。

また、リビードが運命的な性格を持つことも、症状において考えられなければならない。



■1923年「幼児の性器体制」(性理論への補遺)からの考察

ある種のセクシュアリティの現実性が希薄な人は、ファルスの優位を幼児期に確立できなかったのではないか? 今更、ファルスの優位? いや、発達段階でこれを経ないなら、去勢の意味も評価できない。彼らは、去勢をことごとく悪しきものとして避ける。

では何故、ファルスの優位を確立出来なかったのか? あるいは、このポジションのみに執拗に固執するのか? これは対象の問題ではない。それに隠れた自我ないしは主体の問題だろう。

自我の脆弱性が原因となり、ファルスの優位の段階を充分に引き受けられなかった。それゆえ、去勢を避け、ファルスを持つことのみにこだわるということはあるかもしれない。

《去勢コンプレックスの意味は、それが男根〔ファロス〕優越の段階において発生したことを考慮にいれない限り、正しく評価できない》Freud, 1923

見たところ、権威や名誉に訴え出る人ほど、この現象が起きるように思える。彼らは、実際の生活でも、退行できるポジションがないなら、不安に駆られるだろう。

普通ならどこかで、親の庇護や既成の権威からの離脱の作業を、苦痛を伴う中で遂行する。だが、彼らの自我は、これを引き受けようとはしない。退行的なポジションの保存が、優先されてしまう。

このことは、ナルシシズム型の対象選択という帰結と密接な関わりがあるのかもしれない。