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per l/a psicoanalisi

ペストについての省察 Riflessioni sulla peste

2020-04-30 21:00:00 | Agamben アガンベン

私たちの辿る省察はエピデミックに関わらないが、人間たちのそれへの関係から私たちが理解しうることである。つまり、それによって全社会が感染したと感じること、家に隔離され、また生の通常の状態(仕事や友情、愛や宗教的ないし政治的信念にいたるそれらの関係)を宙吊りにすることを受け入れた容易さ facilità について省察することが重要である。想像しえていたこと同様、また通常これらのケースにおいて起きることのように、なぜ抗議や反対はなかったのか? 私が示唆したい仮説は、何らかの仕方で(それは純粋に無自覚=無意識的であろう)、明らかに人々の生の諸状況をこのように変化させていたペストは既にあったということであり、それらは、まさにペストのようであった—つまり、抗しがたい—ものによって出現するため、突然の印〔兆候〕は十分だったというものである。そして、ある意味で、これは現在の状況から引き出されうる唯一の肯定的な与件であり、また、後に人々がその中で生きていた様式がもし正当であったならと自問し始める可能性である。

また、それについて少なからず熟慮が要ることは、状況が出現させる宗教の必要性である。メディアの繰り返す言説において、現象を記述するため、特にアメリカのジャーナリズムの上で、強迫的に《アポカリプス》の言葉へ遡る、また度々明らかに世界の終わりを喚起する、終末論的ボキャブラリーの借用において取り上げられた専門用語が兆候である。それはあたかも(教会がもはや遂行する能力のない)宗教的必要性は、そこにおいて構成する他の場を手探りで探し、もはや私たちの時代の宗教になった事柄、即ち科学においてその場を見出しているかのようである。あらゆる宗教同様、これ〔科学〕は迷信や恐怖を作り出すことができ、あるいはいずれにせよ、それらを拡散するために使われる。今日のように異なり矛盾した意見と規定の(危機の瞬間の宗教の特色である)スペクタクルに居合わせれたことはなかった。〔その意見と規定は〕現象の重大性を否定する者たちの(ただ威信のある科学者たちにより代表された)少人数の異端の立場から、現象を主張し、またしかしながら、しばしば根本的に現象に直面する諸様式に関して一致しない正統的で支配的な言説へ向かう。そして、相変わらずこれらのケースにおいて、どの専門家たち、またこのように自称する者たちは、ある集団または他のもののための特定の諸利益によって決定し、それらの基準=措置を課す、君主の好意を(キリスト教を分割していた宗教的論争の時代のように)確かめることができるようになる。

考えるきっかけとなるだろう他のことは、あらゆる信念と共通の信仰の明らかな崩壊である。人間たちは、どんな犠牲を払ってでも助ける必要がある生物学的な裸の存在以外もはや何も信じないと言えるだろう。しかし、生命を失う恐れの上で、ただ独裁〔専制〕政治 tirannia のみ(ただ鞘から抜かれた剣をもつ残酷なリヴァイアサンのみ)設立される。

このため—いったん緊急事態(ペスト)が終わったと宣言されるなら、もしそうあろうとも—輝きのごく僅かを保存した者にとってさえも、最初のように生きることへ戻るのは可能だろうとは信じない。そしてこれが恐らく今日、最も失望させることである—たとえ、言われたように《もはや希望を持たない者のためだけに希望は与えられた》にせよ。

2020年3月27日
ジョルジョ・アガンベン

原文サイト→https://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-riflessioni-sulla-peste


感染 Contagio

2020-04-02 22:27:00 | Agamben アガンベン

L’untore! dagli! dagli! dagli all’untore!

Alessandro Manzoni, I promessi sposi

〔翻訳者注:ここで冒頭の引用に出てくる、l’untore は「ペスト塗り」という歴史的用語である。辞書的には“17世紀のペスト流行期にミラノで、ペストの毒を含んだ油を家の門や壁に塗り、病気を蔓延させたという嫌疑を受けた人”のことである。〕


コロナウィルスのいわゆる流行の際、イタリアであらゆる手段でもって人々に広めるようにさせるパニックのより非人間的な帰結の一つは、感染の同様の理念の中にあり、それは、政府から講じられた緊急事態の例外的措置から成る。ヒポクラテス的な医学に属さなかったこの理念は、1500年代から1600年代の間にどのイタリア的都市も荒廃させたペストの期間中に、その最初の気づかれざる兆候を保持している。『悪名高いコラムの歴史』についての論評同様に、彼の小説の中でマンゾーニによって不朽の名作にされた、ペスト塗りの形象〔人物像〕が問題である。1576年のペストのためのミラノのある“お触れ〔禁令〕”が、小都市にこれらのことを通告することで、次の仕方で描写する。

《いかなる人々が、愛徳の弱い熱意でもって、そして、ミラーノのこの都市の人民と住民たちに恐怖と心配を負わせるため、また、彼らに何らかの騒乱を呼び起こすため、有害で感染性であることを告げるため、家のドアと掛け金と、いわゆる都市の地区の角、国の他の土地を、ペストを私的なものと公的なものにもたらす口実で、しだいに塗油するようになっているのか、同様に、何が沢山の厄介事を、そして、人々——主に容易にそのような事を信じるように説き伏せられ、自分のために誰かある人に、どの身分、地位、階級と境遇(もし、彼が 500スクードを提供するなら、40日の期間 (*1) の中で、明らかになるだろう人、あるいは支援され、助けられ、あるいはこのような無礼な行為について知れている人)——の間にかなりの動揺をもたらすかという総督の通知が届いたことで…》

然るべき違いがなされるなら、最近の諸措置(私たちが乗り越えること—しかしそれは、予期された幾日かの期間内の法議会においては確認されなかっただろう幻想である—を好むいくつかの命令を伴う政府からの捕捉)は、事実上あらゆる個人を潜在的ペスト塗りに変形する。正にテロリズムについてのそれらが権利事実上、あらゆる市民を潜在的テロリストとして見なしていたように。規定に関係のない潜在的ペスト塗りは、牢獄でもって罰を課せられているといったアナロジーは、このように明白である。特に嫌われたのは、ペスト塗りから守られたようには、彼から守られうるわけではないのに、諸個人の多数性に感染する、健康あるいは早熟なキャリアーの形象である。

ましてや諸処置の中に含まれた自由の制限の悲しみは、私の意見では、それらが引き起こす、人間たちの間の関係の悪化である。彼が誰であれ、他の人間、親しい人にも近づいてはならず、触れられてもならず、また私たちと彼の間にむしろ、ある人々によれば 1メートルの、しかし、いわゆる専門家たちの最近の進言では、4.5メートル(興味深いことにこの 50センチメートル!)のそれであるべきだろう距離を置く必要がある。私たちの約束は破棄された。与えられた私たちの政府の倫理的な頼りなさでは、これら諸処置は、それらが引き起こそうと意図する同様の恐怖から影響がある人に課せられることが可能であり、しかし、それらが作り出す状況は正に、私たちを管理する人が幾度も実現しようとするそれ〔翻訳者注:恐怖のこと〕であることを、大学と学校がこの時ばかりに閉鎖され、マシーンが人間存在の間のそれぞれの接触 contatto —それぞれの感染 contagio —を代理することが可能な至るところで、政治的あるいは文化的な理由で会議し、話すことをやめ、またデジタルメッセージのみが交換されるだけの、オンラインでのみ授業が行われることを、考えないことの困難である。

2020年3月11日
ジョルジョ・アガンベン

原文サイト→https://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-contagio

 

(*1) 黒ペストが流行した14世紀に港で船を40日間の検疫停泊(封鎖処置)させた事から、その日数が言われている。そこから、イタリア語では「検疫」を意味する言葉が、quarantena(元は数字の40)と呼ばれる。