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per l/a psicoanalisi

九鬼周造『偶然と驚きの哲学』(途中)

2014-12-23 07:00:36 | Note
「偶然と運命」

《物理的必然の裏になお論理的または形而上学的偶然が潜んでいるのであります。……》

〈遇わなければならないという必然性が間へ入らないで可能が可能のままで出逢うのが偶然であります。……〉

《偶然は“必然”の方へは背中を向け、“不可能”の方へ顔を向けていると云ってもいいのであります。》


「偶然の諸相」

《必然性が同一者の様相的言表であったに反して、偶然性とは一者に対する他者の二元性の様相的言表にほかならない。必然性は「我は我である」という主張に基いている。「我」に対して「汝」が措定されるところに偶然性があるのである。必然性に終始する者は予め無宇宙論へ到着することを覚悟していなければならない。それに反して偶然性を原理として容認する者は「我」と「汝」による社会性の構成によって具体的現実の把握を可能にする地盤を踏みしめているのである。》

“「我」と「汝」のあるところに具体的現実もあり社会もあるのである。”


〈定言的偶然は概念の普遍的同一性の包摂機能にあずからないところに生ずるものである。〉

〈「ま」は「間」である。空間的および時間的の間隔である。やがてまた間隔を置いてより存在せぬものを意味する。従って「まれ」なものを意味する。「まれ」とは「間有れ」の約である。「ま」は稀れにより存在せぬものであるから「ま」はまた偶然を意味する。〉


☆31-32定言的偶然


《定言的偶然は論理学上の概念性の次元に於てのみ成立しているものである。我々はこの洞察に基いて定言的偶然から仮説的偶然へ移って行くのである。》


《偶然性の核心的意味は甲と乙との遭遇である。「我」と「汝」との邂逅である。我々は偶然を定義して「独立なる二元の邂逅」ということも出来るだろう。……》

《我々は経験の領域にあって全面的に必然の支配を仮定しながら理念としてのXを「無窮」に追うたわけである。然しながら我々が「無限」の彼方に理念を据え得たとき、その理念は「原始偶然」であることを知らなければならない。かくて問題は仮説的偶然の経験的領域から、離接的偶然の形而上学的領域へ移されるのである。》


〈確率の先験性、経験性のいずれに拘らず、蓋然法則は謂わゆる巨視的地平に於て成立するので、微視的地平において各々の場合にどの目がでるかという偶然的可変性は依然として厳存しているのである。しかし偶然の偶然たる所以はまさに微視的なる細目の動きに存している。その点に、偶然性の問題は哲学的提出に対する確率論の根源的無力があるのである。〉


「驚きの情と偶然性」

〈要するに、同一性という性質が、様相の上では必然性である。〉

〈同一性、従って必然性は、どういう特殊な形を取ってあらわれて来るかというに、先ず概念は、その本質的徴表との同一性に於て成立している。次に“理由と帰結”とか、“原因と結果”とか、“目的と手段”とかいうような系列は、或る意味でやはり同一性を保っている。次にまた“全体”というものは、各部分の総和と同一性を示している。同一性、従って必然性は、およそそういう三つの形を取ってあらわれる。〉


〈何等恐れる必要はないが、しかし思いがけないもの、すなわち自己同一性に対して偶然的なものが、驚きの情を起させるのである。自己の環境として自己同一性の中に属してしまっている事柄に関しては驚かない。〉

《ともかくも、驚きという情は、偶然的なものに対して起る情である。偶然的なものとは同一性から離れているものである。同一性の圏内に在るものに対しては、あたり前のものとして、驚きを感じない。同一性から離れているものに対して、それはあたり前でないから驚くのである。》


《なお、驚きは偶然性に関する知的情緒と見ることもできると言ったが、それき対して不安は可能性に関する意志的情緒と言うこともできるであろう。可能ではあるが、実現が不確かなものとして対して、意志を基礎として不安の情が起るのである。また、喜びや悲しみのような快、不快の情緒は必然性に伴うと考え得ると言ったが、それは情緒のうちでも知的要素や意志的要素の交り気の少ない特に情的な情緒である。》


〈西洋の哲学がキリスト教の影響の下に立っている限りは、純粋な偶然論、純粋な驚きの形而上学は出来て来ないのである。〉

〈梵は自在性と無執着性とを性格としていて、何等の必然性に強要されるところがないから、偶然の遊戯をするのである。〉

〈なお、支那では王充の「遇不遇は時なり」という思想も偶然性の哲学である。〉


78それならば、偶然性の度合とは何のことかというに、

79それはふたつの違った因果系列が偶然「出逢った」ための


「哲学私見」

“普通に存在という場合には必然的存在、可能的存在、不可能的存在、偶然的存在の四つの様相が理解されている。他方にあって、現実、非現実、実在、虚無の四つの形態が考えられる。この八つの存在相が如何に関係するかを見極めところに存在一般の根源的会得の基礎があると思う。”

“可能存在は発展の概念を蔵している。そして発展の極限が必然存在と考えられている。必然存在とは可能存在の発展の極限である。必然とは超可能にほかならない。”

“哲学は偶然的存在にあって現実性の尖端を体験し、存在一般の体系に於て偶然的存在に位置を与えることによって存在一般の会得を投企する。可能性を指導原理とする哲学は一種の実践哲学に限局されることを常とする。必然性を手引とする哲学はともすれば自然界哲学に終始する危険を伴う。偶然性を出発点とする哲学が初めて真の歴史上哲学を展開することができる。”


〈実存者は有限性と時間性とに纏われている。実存者の哲学は存在一般を時間的地平に齎らすことによって真の意味で存在を会得することができるのである。〉

〈必然性が過去を時間的地平とし、可能性が未来を時間的地平とすることは明かな存在論的事実に属すると信ずる。〉

95?

《要するに必然性は過去よりの存続を仮定している。可能性は未来への動向を表わしている。偶然性は現在に於ける瞬間的存在を意味している。そして必然性と可能性との時間的地平の開明は存在一般の実存的会得の深化にほかならない。》


「人間学とは何か」

《情緒論は自然的人間の人間学の主要な問題である。情緒とは肉体と心との合一としての人間が、物の存在の仕方に対する有機的な反応であると考えられる。物の存在の仕方は、人間の主体に対する様相の上では、偶然的か、必然的か、可能的かである。従って情緒を大別すれば、偶然的存在に対応する情緒、必然的存在に対応する情緒、可能的存在に対応する情緒の三種類となる。》

〈……スピノザが驚きを情緒の一つとして認めなかったのは、必然論の立場にあって、一切の偶然の存在を拒否したことに基づいている。人間として偶然の存在を認める以上は、驚きは情緒の中で最も顕著な形態を備えたものであることも認めなければならない。驚きにあっては随意筋は一時麻痺し、鼓動は急激となり、抹消血管は収縮するなど、驚きは興奮としての情緒の典型である。〉118-119

〈謂わゆる怪しみの情も、驚異である限りは、驚きの情の一種に過ぎない。〉


・快感としての主要な情緒は「嬉しい」という情緒であり、不快感としての主要な情緒は「悲しい」という情緒である。

・「嬉しさ」は興奮的な情緒であるから、おのずから「喜び」へ展開しようとし、「悲しみ」は抑鬱的な情緒であるから、必ずしも「歎き」への展開を求めない。従って「喜び」への方向を含まない「嬉しさ」は殆ど無いが、「歎き」の方向へ開かずに自己内に閉じている「悲しみ」は多く見られる。

・それのみならず、情緒の対立関係は「嬉しさ」と「悲しみ」との対立や、「喜び」と「歎き」との対立よりも、むしろ「喜び」の遠心的能動性と「悲しみ」の求心的受動性との対立に顕著に現われる。

・なお「嬉しさ」が肉体との近接状態にあるのは「楽しみ」であり、「悲しみ」が肉体との近接状態にあるのは「苦しみ」である。

・なお、「嬉しさ」と「悲しみ」とが「楽しみ」と「苦しみ」とに対する関係は、発生的には、肉体的な後者の方が、精神的な前者よりもむしろ始めに起こったものと考え得る。このことは、ジェームス・ランゲの情緒末梢起原説とも深い関聯を有(も)っている。

・以上は純主観的な快、不快の情緒であったが、対象への志向性を内容とする意味での客観的な快、不快の情緒もある。「嬉しさ」を起させる対象には「愛」を感じ、「悲しみ」を起させる対象には「憎」を感じる。

・なお、「愛」と「憎」とは未来性によって様相化を受ける。愛する対象を未来の地平に置くときには「恋しい」という情緒を生じ、憎む対象を未来の地平に置くときには「恐れ」という情緒を生ずる。「恐れ」とは事物及び事象の未来に於ける生起に対する憎しみの情である。「恐れ」が未来性を棄てると共に、防衛的消極性から攻撃的積極性へ移ったものが「怒り」である。「恋しさ」が未来性を有(も)っているのは、対象の欠如を未来に於て填充しようとする志向を内包しているからである。「恋う」と「乞う」に通じて、未来に求めている。

・恋の迫力が、肉体を離れれば離れるほど、強さを増すのは事実であるが、それは恋が、肉体の背景なしに成立つことを表示するものではない。

・「愛」と「憎」との未来性による様相化は、おのずから第三種の情緒として、可能的存在によって生ずる情緒へ導いて行く。可能的存在に対応する情緒が、快、不快の調を稀薄にして、緊張性に於て不確実的性格を自覚する場合に「不安」の情を生ずる。ハイデッガーの哲学が、可能性の実存論であると共に不安の解釈学であるのは、人間学的事実に深い根拠を有(も)っていると云わなければならない。不安は不快であるとは限らない。希望も心配も疑いもみな不安の一種にほかならぬ。そして、不安の主体的基礎は人間の衝動的「欲」が対象を未来に於て展望することに根ざしている。


・可能的存在に対応する情緒としての不安は、自由を本質とする歴史的人間の自然的情緒であったのである。一か他かの可能性に基づく緊張感が、一を選ぶか他を選ぶかの危機的情緒が不安だったのである。

・不安をもってなされた選択が、誤っていたことが明かになった場合には、後悔の情が起る。

・キルケゴールによれば、実存は情熱を伴わない場合はない。実存にあっては、一か他かということが情熱をもって決定されるのである。


〈時間性の特色が脱自的、未来優位的、有限的の三点に存するという時間解釈が、歴史的人間に基づいてなされた解釈であることは、今更言うまでもない。〉

“歴史的人間は、孤立した唯一の存在と考えることはできない。既に自然的人間の肉体的機構に於ても、相互填補性は他者へ環顧していたのであるが、特に歴史的人間は他の歴史的人間と共に社会を造ってのみ存在し得るものである。”

《……ハイデッガーにとっても人間の在り方としての「世界内存在」は「共同的世界内存在」にほかならない。世界への内在は他者との共同存在であり、現存在は共同相互存在 (Miteinandersein) の在り方を有(も)っているのである。……》130


〈この意味の神学上の人間学は、絶対者が人間化されることに於て成立するものであるが、なお逆に、人間が絶対者に接触する在り方も人間学の考察の対象となる。形而上学的人間の人間学とはまさしくそういうものである。〉

139☆形而上学的人間とは、~
歴史の起始は原始事件としての原始偶然である。

《ただ一つ確かなことは、人間はショーペンハウエルの言ったように見出し amimal metaphysicum(形而上学的動物)である。人間は神のような獣である。》



「(附録)偶然と驚き」

《永遠な問題は必ずしも最高音で語られるとは限らないのであります。》

“驚きとは、必然的でないもの、すなわち偶然的なものに対して怒る情であります。”

“或る一つの事柄が、偶然という性格を有(も)っている時に、それが驚きの原因となるのでありまして、また驚きの原因が複雑な知的事象である場合が多いために、驚きは特に知的情緒と言われることもあるのであります。”

149-150☆二つの違った

《ライプニッツのほかには、シェリングも世界の偶然性に対する感覚を有(も)って居りまして、世界の始まりを原始偶然によるとしたものであります。歴史の始まりは、原始的な偶然であると考えたのであります。そして、意志にとっては、そういう原始偶然は、運命として課せられているので、意志はそれを見て驚くのであります。》


「(附録)『偶然性の問題』抄」

《しかし「真の存在(オントス・オン)」は「非存在(メ・オン)」との関係に於てのみ原本的に問題を形成するのである。形而上学の問題とする存在は、非存在すなわち無に包まれた存在である。》

“偶然を偶然としてその本来の面目において問題となし得るものは形而上学としての哲学を措いてほかにない。”

《偶然性は不可能性の無の性格を帯びた現実である。単なる現実として戯れの如く現在の瞬間に現象する。……》

174☆個物の起源は一者に対する他者の二元的
~潜んでいるのである。

ディスクールとランガージュの分裂と分節——無意識の位置と場所を再考する

2014-12-10 18:20:54 | 精神分析について
(※Twitterの投稿より、一部改編したもの)


先に私はアガンベンを参照項にし、ディスクールとランガージュの秩序が全くの別物であり、根源的な分裂を被っていることを述べた。(これを同一視してしまうのは錯覚にすぎない)

ここで私は、この区分を大胆にもフロイトの言う「一次過程(幻覚的満足)」と「二次過程(現実的満足)」の分節に重ね合わせる視点を得た。

端的に言えば、ランガージュの秩序(禁止の体系)はディスクールにおける幻覚的満足(症状の満足と等価)に対し、迂回路を形成している。ラカンはこの根源的な亀裂と分節化については、定式化を誤っているだろう。


【-Φ→負量】


ラカンはセミネールXI において、一次過程を「知覚と意識の断裂の経験において据え」るとも言う。われわれの考えでは、ディスクールの秩序は知覚-意識 (W-Bw) システムの側に存する。

この場合、ランガージュのシステムは“ディスクールの彼岸”として、“快原理の彼岸”として「措定ないし想定」される。勿論だが、ランガージュの秩序は禁止により構成される体系なのだから、フロイトの述べた〈死の欲動〉に裏打ちされている。

ここでわれわれが考えなければならないのは、無意識の存在論的審級の位置である。しかしこの場所は、彼岸に縫合不能なひとつの「開口部」(現実的な穴 -Φ)、根源的な不安を孕んでいるのだ。


ラカンはソシュールから拝借した〈シニフィアン〉の用語を、ランガージュにもディスクールにも適用している。

“措定ないし想定された”限りでは、ランガージュは禁止のシステムに留まるだろう。だが、実際に存在するのは、《ある穴》なのだ。


■問題の余白に:

ラカン派立木康介に従えば、この無意識の“原因”の開口部(“負量”として指し示されるのだとすれば、私がこの穴を -Φ と記したのも肯首できる)は、ラカンのセミネールXI を踏まえた上で〈非決定因〉と呼ばれている。

では、Φ とは“全て”だろうか? “全て”と言うには、その裏地に“ある穴”が無いとならないだろう。立木は、ラカンが同セミネールにおいて「法」と「原因」を峻別していることを指摘している。(「夢と覚醒のあいだ」参照、『精神分析と現実界——フロイト/ラカンの根本問題』所収)


問題は、反復強迫と負量、象徴的法と原因、アウトマトンとテュケーと言い換えることができる。


■20150203追加:否定と禁止の違い

否定性というのは、言語が感覚的確信を語ることが出来ないという媒介の作用であり、禁止とはまた違う。主にヘーゲルとハイデガーを解説したアガンベンの著作『言葉と死』を見て欲しい。

「言語が生起しているという当のことを据えることを可能にしてくれる窮極のシフターとしての〈声〉は、あらゆる存在-論の休らう否定的基礎として、あらゆる否定の支えとなる原初的否定性として現れる」Agamben, 1982

アガンベンにおいて、〈声 Voce〉——phone とは区別される——は「原初的な否定的分節化」として立ち現れる。ヘーゲルとハイデガーを経由しグノーシス主義にまで遡るアガンベンは、沈黙においてのみ生起する声を、思考の対象として見出している。

つまり、パロールとランガージュは分節化されなければならない。ここからディスクールの位相を初めて見出すことが出来る。

アガンベンはまた、『言葉と死』において三位一体説では解決できない問題があると指摘している。

勿論、アガンベンの分析は否定性に留まるものではない。

“言語の核心において否定性に出会うということは、現代の政治生活の空虚な隠語を引き剥がすプロセスとなる。そのプロセスはまた、言語が生起しているという当のことを提示することによって、またという根本的否定性を超えた先の空間を見いだそうと企てることによって、そのような空虚な隠語を暴露するプロセスでもある。”
——アレックス・マリー『ジョルジョ・アガンベン』


アガンベン『言葉と死——否定性の場所にかんするゼミナール』(途中)

2014-12-03 19:18:31 | Agamben アガンベン
——Giorgio Agamben, Il linguaggio e la morte (1982)


序論

〈じっさい、西洋哲学の伝統のなかでは、人間は“死すべき存在”であると同時に“言葉を話す存在”として登場する。〉

《言語活動の「能力」も死の「能力」も、それは人間にもっとも本来的な住処を開くものであるかぎりで、この住処がつねにすでに否定的なものによって横断されており、否定的なものによって根拠づけられていることを明らかにするのである。》

〈そして、存在は——それが場所をもつのは根拠 Grund の非‐場所(つまりは無)においてであるかぎりで——根拠を欠いたもの das Grundlos なのである。〉


第一日目

〈この死へと向かう存在の純粋に否定的な仕方においてもっとも徹底した不可能性を経験することによってのみ、ダーザインは自らのもっとも真正な次元に接近することができるのであり、自分を一個の全体として把握すらことができるようになるのである。〉

“否定性はダーザインにそれ自身の〈ダー〉からやってくるのである。”

《森の中の明るい空き地 (Lichtung) でありつづけている者がまさにそのために「無の場所の保持者 (Platzhalter des Nichts)」(Heiddgger) であるなら、〈ダー〉はどこに存在するのだろうか。また、ダーザインを徹頭徹尾貫通している否定性は、どの点において、わたしたちが近代哲学史をつうじて見慣れている否定性とは相違しているのだろうか。」

“『存在と時間』におけるハイデガーの思想が〈ダー〉であること〈ダーザイン〉の分析でもって始まっているように、ヘーゲルの『精神現象学』の感覚的確信の「〈このもの〉をつかまえる (das Diese nehmen)」試みでもって開始されているのである。ことによると、『存在と時間』において、ダーザインに自らの〈ダー〉である真正な可能性を開いている死の経験と、『精神現象学』の冒頭において、ヘーゲルの言述が無から始まるのを保証している「〈このもの〉をつかまえる」ことの経験とのあいだには、アナロジー〔類比的関係〕が存在するのではないだろうか。”


第二日目

〈じじつ、感覚的確信が自分の対象を定義しようとして「〈このもの〉とはなんであるか」と問うとしよう。そのときには、感覚的確信はもっとも具体的な真理であるようにみえていたものがたんなる一般的な概念でしかないことを経験せざるをえなくなる。〉

「こうして、実際には、一般的なもの (Allgemeines) こそ感覚的確信の真理なのである。」Hegel

《…すなわち、絶対的なものとして最初に置かれたつもりの「自然的意識 (?)」なるものは実をいうすでにつねにすでに「歴史」(Geschichte) なのだということの経験をすることを意味しているにすぎない。》39★

“彼は、一方では、感覚的事物のうちにあって自らそれらの空しさを実現していながら、他方では、その空しさを実現するのはそれら自身であることを見てとるのである。”

“動物が感覚的事物の真理をたんにそれらを食いつくすことなよって、すなわち、それらを空無なものとして認めることによって保存するのと同じように、言語活動も、言葉で表現できないものを、言葉で表現できないと言い表すことによって、すなわち、それをその否定態において受けとることによって守護する。”

《「序論」のあるくだり——そのくだりについては注意深く反省してみるべきだろう——で述べておいたように、神秘的な脱自状態は、その混濁のなかにありながら、「事実上“純粋概念” (der reine Begriff) 以外のなにものでもない」(Hegel 2, p. 66) のだった。》

「無は、〈このもの〉の無として、直接性を守護しており、それ自体感覚的なものであるが、しかしまたそれは一般的な直接性なのである。」Hegel

“〈ダー〉であることと、〈このもの〉をつかまえること——これら二つの言い回しのあいだに認められる類似性、およびそれらがともに否定性と結びついているということはたんなる偶然なのだろうか、それとも、それらのうちにはなおも問われるべくして残っているさらに本質的な結びつきが隠されているのだろうか。〈ダー〉の場合であれ、〈このもの〉の場合であれ、人間を否定性へと導いていく力をもっているのはなんなのだろうか。そしてなによりも、これら二つの小詞はなにを意味しているのか。〈ダー〉であること、〈このもの〉をつかまえることとは、なにを意味しているのか。”


付記1(第二日目と第三日目のあいだで)

「あらゆる〔第一次的〕実体は〈このなにものか〉を意味する」
「不可分割で……数において一なるもの」
——アリストテレス『カテゴリー論』


《“こうして存在の問題——最高の形而上学的問題——はそもそもの初めから指示代名詞の意味の問題と不可分なものであったことがわかる。それゆえ、その問題はつねにすでに指示の領域と関連していたのだった”》

「〈この〉は指示行為を意味しており、〈なにものか〉は主体に応じた実体を意味している」——アンモニウス・ヘルメイオウ『カテゴリー論』

《すなわち、“存在の意味次元は、意味表現行為の限界の次元、意味表現行為が指示行為へと移行していく地点なのだ”》

“…ヘーゲルは『精神現象学』の第一章において、言語活動の限界はつねに言語活動の内部にあってもたらされるのであり、つねにすでに言語活動のうちに否定的なものとして含まれているのだと断言している”

“ヘーゲルは、「〈このもの〉をつかまえる」試みが必然的に否定性のうちに捕らわれたままであらざるをえないことを明らかにした。というのも、〈このもの〉は、厳密には、〈このものでないもの〉として、存在したもの (Gewesen) として露わになるのであり、「存在したもの (Gewesen) は存在するもの (Wesen) ではない」からである。”


「……それゆえ、この原因については二重の否定をつうじて (per duas negationes) 定義されるのがふさわしい。しかしまた、それらの否定は無限の否定ではない。というのも、それらは定義そのもののなかに設定されているこれらの限界によって拘束されているからである」——アルベルトゥス・マグヌス『トラクタトゥス』

《あらゆる存在論(あらゆる形而上学、しかしまたあらゆる科学もそうであって、科学も——意識していようが意識していまいが——形而上学がたどる領域の範囲内で動いているのである)は、或るものを直接的に指示することとそれの意味を言葉で表現することとの相違を前提にしている。それどころか、それはまさしく、両者のあいだの境界が位置している地点をつうじて定義されるのである。》


第三日目

61超越概念が対象を?

《このような歴史的見通しのなかではじめて、ここにいたってわたしたちは感覚的確信を弁証法的過程へと変容させていくことをヘーゲルにゆるしている代名詞——「このもの」——と指示行為とのあいだの緊密な絡まりあいに目を注ぐことができるのである。》

「指示作用の性質が複雑なものであって、必然的に言語活動の次元にかかわらざるをえないものであることを直感するなかで、中世の思想は代名詞において生じる“意味表現行為”から“指示行為”への移行が問題含みのものであることを意識するが、それをうまく処理することはできないままにとどまっている。……」

67この見通しの?

「……ヤーコブソンはシフターを二つの機能を再結合した特殊なクラスの記号、すなわち、“シンボル=インデックス”と定義する。」Agamben

68ここでは、?

「……代名詞の固有の意味は——それがシフターならびに言表の指示子であるかぎりで——現に進行中の言述行為への送付から切り離せない。代名詞が遂行する分節——シフティング (shifting) ——は、言語的でないもの(感覚的な指示行為)から言語的なものへの分節ではなくて、ラングからパロールへの分節なのだ。古代以来、代名詞に特有の性格がそこにあるとされてきたデイクシス=指示行為は、たんに名指されることのない対象を指示するだけでなく、なかんずく言述の現存そのもの、それの生起を指示している。……」

70Benveniste

《……代名詞やそれ以外の「言表の指示子」は、実在する個々の対象を表示する以前のところで、まさしく、“言語活動が生起している”という事実そのものを指示するのである。こうして、それらの指示子は、意味されるものの世界に指向するのに先立って、“言語活動という出来事”そのものに指向することを可能にしてくれるのであって、なにものかが意味されうるのはこの言語活動という出来事の内部においてでしかない。》

〈言語活動の科学はこの次元を言語活動が作動状態に置かれる次元、ラングのパロールへの転換がなされる次元としてつかまえる。〉

〈そして形而上学とはあらゆる言行為のうちにあってこの次元が開示されるのをつかみとる言語活動の経験のことなのであって、それはなによりもまず、言語活動が“存在する”という「驚き」を経験するのである。言語活動がもろもろのシフターをつうじて自己の現存へと指向することを可能にするからこそ、存在や世界といったようなものが思考へと開かれるのである。……〉


付記2(第三日目と第四日目のあいだで)

79☆無限定の「在る」までもが除去されて、~

81☆ここで存在の最高の神秘的経験ならびに神の完全な名として~


第四日目

“言語活動という出来事の経験において、わたしたちを否定性へと投げ入れるものはなんであるのか。もしその場所をつかまえようとする試みがこのようないっさいを空無化する力となっておわってしまうのであってみれば、そもそも言語活動はどこに位置しているのか。”

《“言表行為にしても現に進行中の言述行為にしても、それがそのようなものとして同定されるのは、それを発語する音声をつうじてでしかない”。》

92-93☆“音声の除去と
93-94☆じっさいにも、

〈したがって、〈声〉は、言語活動の生起をつかみとることを可能にする最高のシフターとして、すべての存在論ならびに論理学がその上に安らっている否定的な根拠、あらゆる否定作用がそれに支えられている本源的な否定性として立ち現れる。このため、存在の次元の開示はつねにすでに無の脅威にさらされている。…〔略〕…そして、さらには、この否定性こそが、わたしたちがさきに超越性の本源的構造を構成するのを見た、言語活動の分野の“意味表現行為”と“指示行為”への分裂を分節するのである。〉

《「〈このもの〉をつかまえる」とか「〈そこ〉である」といったことが可能になるのは、〈声〉の経験、すなわち、音声が奪われるなかで言語活動が生起するという経験をすることによってのみなのだ。》


付記3(第四日目と第五日目のあいだで)

《グランマ〔文字〕は音声の理解可能性を保証するこの第四番目の通訳者にほかならないのである。》

《“音声の符牒であると同時に構成要素でもあるものとして、グランマは自ら自身のインデックス (index sui) という特別の身分を引き受けることとなるのである”。》

「音声のうちにはなにも存在しない〔無が存在する〕、音声は否定的なものの場所であり、〈声〉、すなわち、純粋の“時間性”である、と。しかしまた、この否定的なものこそはグランマなのである。すなわちそれは音声と言語活動とを分節し、こうして存在と意味を開示するアルトロン〔分節態〕にほかならないのである。」

《形而上学というのはつねにすでにグラマトロジーなのだ。そしてグラマトロジーというのは、グランマには(〈声〉には)否定的な存在論的根拠としての機能が属しているという意味において、“根拠学” (fondamentologia) なのである。》


第五日目

109だが、なぜ動物の声の?

「声のなかでは意味は自らの内部へ立ち戻る。それは否定的な自己、欲求 (Begierde) である。それは欠乏、それ自身のうちにおける実体の喪失である。」Hegel

〈“死の”声(ならびに記憶)とはつぎのこと、すなわち、その声は死が生者を死者として保存し記憶しようとしたものであり、それと同時に、そのまま死の痕跡ならびに記憶でもある、つまりは純粋の否定性でもあるということを意味している。〉

〈人間の言葉は、この「消え失せていく痕跡」を分節したもの、すなわち、それを停止させ保存したものであるかぎりで、動物の声の墓場にほかならない。……〉

〈声が発せられる場所のうちに書きこまれているからこそ、言葉は死の声であると同時に死の記憶でもあるのだ。それは死を記憶し保存する死なのであり、死の痕跡の分節態にして文法なのである。〉

118Hegel


付記4(第五日目と第六日目のあいだで)

「しかしまた、満足の原理そのものは笑うべきでないと要求なさるのです。」——バタイユのコジェーヴ宛の書簡

125あるいは
現存というのは
~無なのです。

「こういうわけでわたしはあなたが潜勢力から現勢化されたものへ、哲学から知恵へ移行していかれることを願っています。しかし、このためには、あなたの本の天使的な部分をあくまでも無でしかない無へ還元なさってください。すなわち、沈黙へと還元なさってください。」——コジェーヴのバタイユ宛の書簡

126-127じつのところ、


第六日目

〈“言葉は生命体としての人間の声ではないのだ”。それゆえ、言語活動の本質はもはや形而上学の伝統にしたがって(動物の)音声の分節作用にあるとは規定しえない。……?〉132

《まさにダーザインがそれにもっとも本来的な開かれた場所に近づいた地点で、この開かれた場所は「無であり、どこにもない」ものとして露わにされる。すなわち、〈ダー〉、言語活動の場所は、ひとつの非-場所 (non-luogo) にほかならないのだ(リルケが〈開かれた場所〉を「ドゥイノの悲歌」第八歌において「〈ない〉をもたない、どこにもない場所」[Nirgends ohne nicht] というように特徴づけていることを想起されたい。》

「そして、ダーザインは〈ダー〉のなかに投げ入れられることによって、言葉の生起する場所を〈どこにもない場所〉(Nirgends) として経験するのである。」

137☆ここでは、不安のシュティムングがダーザインを~

138☆ダーザイン、〈ダー〉であるとは、シュティムングのうちにあって、あらゆるシュティンメよりもさらに本源的なこの無のなかにとどまりつづけるということ、すべてのシフターが消失し、~
意味いるのである。

138-139☆無化 (Nichtung) のなかで、~
考えているからである。

《“死の思考とは、単純にいって、〈声〉の思考なのだ”。ダーザインは、それが〈ダー〉のなかに投げ入れられている状態から、死に向かって、徹底的に後退していくことによって、実際には、おのれの無声状態を否定的なかたちで再現しているのである。…〔略〕…ヘーゲルの場合、動物は、暴力的な死に直面して声をもつ。同じように、ダーザインも、正真正銘の死に向かおうとするなかで、〈声〉を見いだす。そして、この〈声〉は、ヘーゲルの場合もそうであったように、「魔術的な力」を保持していて、否定的なものを存在へと反転させる。すなわち、無は存在の「覆い」にすぎないことを証明するのである。》

114Heidegger

「存在は言語活動の生起としての〈声〉の意味次元にほかならない。すなわち、言われることがないままに純粋に言いたいとおもうこと、良心をもつことがないままに純粋に良心をもとうと意志することの意味次元にほかならない。存在の思考とは〈声〉の思考のことなのだ。」


付記5(第六日目と第七日目のあいだで)

  わたしは到達しがたい
  沈黙
  そして多くの思い出が残っている
  エピノイア〔思念〕。
  わたしは多くの音に
  起源をあたえる声
  そして多くの像をもつ
  ロゴス〔ことば〕。
  わたしはわたしの名の発音者。

  (ナグ・ハマディ写本・第VI写本一四・一〇)


《そして、この深淵的なあり方については、三位一体神学は根底にまで突きつめて解決することはできないでいるのである。》


第七日目

《……そして、やがて記憶のテクニックへと堕落していった。「場所」を記憶のための像であると考えるテクニックであって、このテクニックを自在に操ることが弁論家に彼の演説を「論拠づける」可能性を保証していたのである。記憶の場所のテクニックとして、トピカはもはや言語活動という出来事を経験させるものではなくなり、これらの出来事をすでにつねにあたえられ起きてしまったものとしてそこに同定しておく人為的な住居(「備忘録」)を構築するだけのものになってしまった。……話者にとっては、このすでにあたえられているものを自由に使えるように固定し備忘録に記しておくことこそが重要なのであった。》

「この考え方によると、言葉がそこから生まれる愛の欲求のほうが、言葉がすでにあたえられてしまっている状態を想起しようとするものであるインウェンティオー inventio〔発見〕よりも本源的なのであった。」

《トロバドールたちはすでになんらかのトポス〔場所〕に保管されている論拠を想起しようと欲しているのではない。そうではなく、むしろ、あらゆるトポス中のトポス、すなわち、本源的な“論拠”としての言語活動の生起そのものを経験しようと欲しているのである。この本源的な論拠からのみ、古典的レトリックで言われる意味でのもろもろの論拠は湧き出てくるのである。だから、そのトポスはもはや記憶術の伝統において言われる意味での記憶の場所ではありえない。そうではなくて、それはいまや、アウグスティヌスの言うアッペティートゥスを踏襲して、愛の場所として提示されることとなる。アモール」(amor) というのが、トロバドールたちが詩的言葉の到来の経験にあたえた名前である。彼らにとっては、愛こそは卓越した意味でのラソ・デ・トロバール〔発見法〕なのであった。》


《…“そのトポスそのもの、言語活動の生起という出来事そのものを愛と詩の根本的な経験として生きようとする”試みこそが、重要なのである。》

「トロバドールたちにとってはラソ〔発見の方法〕を“生きる”こと——すなわち、言語活動という出来事を愛として体験すること——であったものが、いまや、“生きられたものを弁論する”こと、伝記上の個別的な出来事を言葉にすることへと変化してしまうのだ。」

「しかしまた、このような愛としての言語活動の生起の経験には、必然的に、困難と否定性とが含まれていた。そして、これをトロバドールのうちでもっとも急進的な人たちは——「無」(nihil) にかんする同時代の神学的思弁を踏襲して——無の経験というように考えるまでにいたっていた。」


171☆《“言語活動”は存在するが、

存在するものとして、無はさまざまなシフターの働きに内在しているのを見た〈声〉の否定的構造そのものをつかみとるのである。(じじつ、無の言語的表現形態はほとんどいつの場合にもあるシフターの、あるいは中世の論理学のトラーンスケンデンティア〔超越概念〕のうちのひとつの否定態として立ち現れている。……》


「“レオパルディの田園詩のなかでは、〈このもの〉は、すでにつねに垣根の向こう側、遠く離れた地平の彼方、言語活動が無限に生起していく方向を指示している”。すなわち、詩語は、それが到来した瞬間にすでにつねに未来と過去へと逃れ去っていくようなふうにして到来する。それゆえ、詩のやどる場所はつねに記憶と反復の場所なのである。……」

「また、その言述行為自体、記憶され無限に反復されるにすぎず、しかも、記憶され反復されたからといって、言葉で表現されうるもの、“トロバール〔発見〕しうるもの” (trovabile) に転化するわけではない。」


Sempre caro mi fu quest'ermo colle ...
〔この人里離れた丘はわたしにはいつも親しいものとしてあった〕
——レオパルディの田園詩「無限」より

〈「いつも」(sempre) は「一度起こったらその後もずっと」(una volta per tutue) を意味する。すなわち、単一なものが複数のものを通過し反復を繰り返しながらひとつに結集していくという考えを内包している。……〉

〈…習性は“思考”に席を譲る。そして、思考は当初の「いつも」(sempre)(sem-plice〔単純なもの〕)を尽きることのない多様なものとして「仮構してみる」、つまりは表象する。〉

〈その思考は、言語活動の場所のトロバール〔発見〕不可能性をとことん突きつめて経験しながら“思考”に努めている運動、すなわち、その不可能性を宙吊りにしたまま、それを構成している諸次元を比較しようとする運動にほかならないのである。〉

“思考が難破するのは、言語活動の——トロバール〔発見〕できない——生起という、それについての思考がしょうじたのと同じもののなかにおいてである。”

189思考は、自らの難破のなかで、~
それである。


付記6(第七日目と第八日目のあいだで)


第八日目

「〈声 Voce〉——言葉で表現することのできない沈黙の声——こそは、思考が言語活動の生起を経験し、このことによって存在の次元を存在者との差異のなかで根拠づけることを可能にしてくれる、最高のシフターにほかならないのである。」

「さらには、その二重の否定性をつうじてフォネーとロゴスの本源的分節を作動させるものであるかぎりで、〈声 Voce〉の次元は西洋文化が自らの抱える最高の問題のうちのひとつを思考するさいのモデルをも構成する。自然と文化、ピュシスとロゴスのあいだの関係と一方から他方への移行の問題がそれである。この移行はすでにつねにアルトロン、分節として考えられている。すなわち、断絶であると同時に連続であるようなもの、除去であると同時に保存でもあるようなものとして考えられている(略)。」


“死と〈声 Voce〉とは同じ否定的構造をもっており、形而上学的には不可分離の関係にあるのである。”

“論理と倫理の本源的な統一は、形而上学にとっては、あくまでもシゲー〔沈黙〕的なものなのだ。”

《形而上学は“存在の思考であると同時にに意志である”。すなわち、“〈声 Voce〉の(あるいは死の)思考である同時に意志である”。》


205言葉をもつ動物
立ち現れる。

「“存在 (essere)” (否定性をともなった存在論的・神学的なもの)が人間の“所有 (avere)”の、その“住処 (abitazione)”であるとともにその“慣習 (abitudine)”であるものの、単純な神秘の高みにいないということはありうることなのだろうか。また、わたしたちが存在を超えてそこへと立ち戻っていく住処が天上界を超えた場所でも〈声〉でもなくて、たんにわたしたちの“所有している使い古した”言葉にすぎないとしたら、どうなのか。」

222哲学は人間


付記7(最終日のあとで)

228☆〈声〉が時間としての

236☆ここでもまた、

236☆わたしたちはこう言ってもよいのかもしれない。〈性起〉において、~

“〈絶対的なもの〉というのは〈声〉の自己指示行為のことである。”

「かくて、〈性起〉の「もっとも真正な様態」をなすザーゲ (Sage)、本源的な言行為は、本質的に純粋の指示行為、指示する (Zeige) と同時に自己を指示する (sich zeigen) 行為のことである。」

《既在 Gewesen の思考(〈最初のもの〉の思考)は、必然的に〈最後のもの〉の思考、終末論であらざるをえないのだ。》

240「それどころか、〈性起 Ereignis〉はまさしくザーゲ (Sage) としての言語活動を人間の言葉にまで運んでいく運動のことにほかならない。……人間の言語活動は、ここではもはやいかなる自然にも縛られてはいないけれども、依然として送り先を指定されており、歴史的なものでありつづけている。


“絶対的な根拠の問題、つまりは根拠を欠いていること〔無底〕の問題”

242共同体から排除されたものは、
243あらゆる人間的実践の無底性は、
244そうではなくて、

“暴力の根拠は根拠の暴力である。”

246じっさいにも、


エピローグ

248「探究のなかに

248思考とは声が言語活動のなかで未決定の状態にあることの謂いにほかならない。

250しかし、声、
250思考すること

〈それゆえ、言語活動はあくまでもわたしたちの声、“わたしたち”の言語活動である。きみがいまどのように語るか、これが倫理というものなのだ。〉

精神分析についての緒言

2014-12-02 17:45:53 | 精神分析について
-Φ を考察してきた元に、ここに精神分析についての緒言を記してみよう。


■20141118:精神分析家の様式 modus

精神分析家の様式についての規定。

“剥奪された自己の非存在”を提供する者。

この時、分析家と分析主体の在り方は極めて“不分明な閾”において生起することになる。転移の概念もまた、これにおいて見直しが図られることになるだろう。

ちなみにこの規定は、ラカンの愛についての定義、“自分の持っていないものを与える”をも含意している。


■20141202:精神分析の“経験の場所 topos”について

精神分析とは、〈欲望の空無 vide〉の内的体験(バタイユ)である。

これも、人間が根源的に被る〈剥奪 privation〉の形象の元に据えられる、“プライベート private”な体験であると言える。これは、〈不在 absence〉の体験とも言い換えられる。


■20141205:精神分析特有の次元(経験と思考)

精神分析特有の次元は、精神分析“についての”テクストの次元とは異なります。

そして、精神分析の経験と思考は「形而上学=存在論」に結びついています。

精神分析を“すること”とは、この存在を“言うこと“の経験、そしてそれまでの在り方を“思考すること”の経験です。

そこで問われるのは、貴方自身の在り方なのです。精神分析における「主体」は、分析家ではなく貴方の側にあります。


■20141212:精神分析を「学=訓育 discipline」として組織する行為について(それは最も反精神分析的である)

基本、精神分析は教えることは出来ないです。フロイトも言っているように、精神分析を学ぶ最良の方法は、実際に精神分析を経験することに限ります。あくまでも「学=ディシプリン」は“合目的性”に“調和”するよう組織されますが、精神分析の経験は、そのような“調和”に留まらないです。

学者連中が本を読むように言うのは、それが彼らにとって得であり、有利な位置に立てるからに過ぎないでしょう。ラカン派の精神分析を「学=ディシプリン」としてだけ推進しようとしている人間は、実際に精神分析を経験していないですし、文化に根付いて欲しいとも思っていません。

例えば、『エクリ』を入念に見れば、それは無意識のように書かれていますし(いたるところに穴がある)、フロイトの著作も体系的に読むことを拒むところがあります。

なので、精神分析に興味がある人は、実際に精神分析を経験することがベストです。あれを、合目的性に従い「学=ディシプリン」とすることは、最も反精神分析的な行為なんです。日本のラカン派然り。

ちなみに、ラカンを「学=訓育 discipline」とする行為自体、ラカンは拒否するよう表明しています。