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父の名(問題)について——経験の後に残るもの

2018-03-19 20:41:40 | 精神分析について
「神の名を言うことは即ち、そこにおいて名と存在、言葉と物が分かつことが不可能である、その言語活動の経験としてそれ〔神の名〕を了解することを意味する。」——アガンベン『言語活動の秘蹟』(原著p.71)

«Pronunciare il nome di Dio significa, cioè, comprenderlo come quell'esperienza di linguaggio in cui è impossibile separare il nome e l'essere, le parole e la cosa.» Agamben, Il sacramento del linguaggio, p.71


“起源のパロール”は、呼びかけや間投詞の問題であり、他者に向かわないというのは、アガンベンにおいても言われている。但し、アガンベンの場合は、如実に「神の名 il nome di Dio」や「冒瀆 la bestemmia」である。つまり、それは論理的な伝達〔コミュニケーション〕を目指してはいない。

確かに、そのような名前や間投詞が、結び目や身体の器官に関わるというのは、別段否定はしない。だが、それと言語活動の関係や、言語活動そのものを拒否してしまうというのは、行き過ぎではないだろうか? 複数の言語活動のセリーとその結び目。


例えを挙げれば、われわれは普通、驚きや驚愕に出会った時に“思わず”、「ああ」や「うう」、「クソッ」や「チッ」、また宗教的背景がある人は「神の名」、また実の父に助けを乞う意味で「父の名」を呼びかける。思わず、それは“論理的判断”の文脈からは切り離され、“感情”や“感覚”のままに、あるいは感嘆符のように発せられる。

そう考えれば、そのような間投詞的なパロールは、道徳的な判断から発せられるわけでもないし、論理的な推論からでもない。では、そのようなロゴスのセリーから外れた語は、意識の通常の思考とどのように抵触し、躓きとなりうるのか?

これが、ラカンにおいては享楽の問題としても提出されているというのは否定しない。だが、問題であって解決ではないことは指摘できるかもしれない。


この論点も、経験から析出される見方もありうる。仮に意識的な思考から始めるにしても、そのような間投詞や名の発話は、そもそもが感覚的な発話だった可能性がある。そう考えれば、理性の推論を働かせながらこれを“理論的に”考えることは、そもそもが矛盾に陥る。

その矛盾が、論理的な真理と美的な真理として、最近取り組んでいた問題でもある。だとすれば、そのままこれを“無意識の論理”に移し替えるだけではナンセンスだ。少なくとも、“無意識の感性“の問題を射程に入れなければならない。それを、私は「経験」と呼んでいる。

いずれにせよ、意識的な推論でも、無意識的な論理でも、感覚の問題にアプローチしないことには、この父の名、神の名、間投詞には向き合えない。その転換点として、私は精神分析的な経験や自身のディスクールなりパロールを経由させる必要性を言っている。もちろん、「パス」する必要性(正確には要請)とも言えるかもしれない。


感覚の両義的な問題(つまり、肉)として、意識的であれ無意識的であれ、ロゴスないしはグランマがそこで頓挫する地平。これにアプローチできるのは、声=フォネーだ。つまり、言語活動の「経験」。身体なら享楽といっていいが、肉の場合は官能性が関係してくる。

ディスクールにおいて名の機能とは、そもそも分離の支えになる。但し、支えそれ自体は、“経験としては”そこから分離しえずに残る。アガンベンは驚くべきことに、起源の間投詞の名残り(遺物、遺品)が、意味論的 semanico ではなく、むしろ記号論的 semiotico なものであることを指摘している。そして、言語活動の流れがそれら遺品を自身の後ろに引きずり、歴史的になると述べている。

精神分析の経験とは何より、われわれの声を歴史化するような実践でもあると言えないだろうか?(とは言っても、このような歴史は、出来事を時系列順に整理し記述する営みとは全く関係がないとは、もう言わなくてもいいだろう)


“言われたことは、了解され思考されるべき同様の事実として、必然的に存在することを試される”——聖アンセルムス

“ciò che è detto [hoc ipsum quod dictur], per il fatto stesso che viene inteso e pensato [eo ipso quod intelligitur vel cogitatur] è provato esistere necessariamente” (Anselmo d'Aosta; 1033 o 1034 - 1109)



■問題の余白に……

宣誓—パフォーマティヴなパロールの起源的経験—こそが、宗教や魔術に先行しているというのが、アガンベンによる帰結である。ここから翻って、宗教-法学的な名の禁止と刑罰(つまりは、偽誓への措置)が派生したのであり、その逆ではないという要約が『言語活動の秘蹟』の結論部でなされている。

その意味で、父の名と禁止の関係は、“パフォーマティヴなパロールの起源的経験”として前者の側が先行しているということに同意できる。つまり、この先後関係を“ヒエラルキー”ないしは“順序構造”と名指した。

この部分が、広義のロゴスとして、パロールとエクリチュールの“起源的な問題”としては不明瞭だったというのが、ラカンが残していた問題であり、デリダとの確執も原始的口唇性として表面化されたというのが、私からの指摘だった。

ロゴスと“フォネーの経験”の分節化として、言語活動を思考し直したアガンベンを通して見た結果ではあるが、結び目と真理の問題を解くには、この順序の構造は無視できない。

つまり、精神分析の“根本的な経験”は、エクリチュールではなくパロールの方であることが、ここから導ける。書くことの側を精神分析の経験に近づける論者も見受けるがこれは間違いで、まだ思考の根源には向き合えてはいない証左だといえる。

もし、精神分析を“書くために”実践するのだとしても、それは本末転倒である。(あえて指摘しておけば、“書くことを目的に”しているから、忘却が重要になってしまうという本末転倒な観念が生じる)

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美の理念から陶酔の感覚

2018-02-15 18:51:47 | 精神分析について
1. 美的な理念においては、それが抽象による束縛は免れていないにせよ、恐怖や強制力が縮減されているということが重要だろう。その最初の形象が《アウラ》と名指された。仮に《一》の理念を措定するにせよ、それには既に大文字のファルスは効力を失っている。

ラカンを読む限りでは、その部分はどうも不明瞭に留まるし、はっきりと言明もされていない。ある識者も、《一》の享楽と《ファルス》享楽の区別については分からないと言っていた。

仮にだが、精神分析のプログラムのような構想をするなら、美の理念や領域に関する考察は絶対に外すことはできない。もちろん、神話的な美が無条件に称揚されてもいけない。だが、美の考察を抜きにしては、精神分析が何たる実践かは伝えることはできない。

神話の中で沈殿した暴力。『暴力批判論』における、“神話的な”暴力と“神的な”暴力の対立。精神分析の中では、最初から神話的な暴力装置を停止させるような神的暴力が問題になっていたとは言えないだろうか?

法概念に既に、人間の運命や罪、贖いという問題は含まれている。だが、精神分析はそれを終わらす。受け入れられがたい。それを抵抗と呼んでいいかは分からない。精神分析それ自体の抵抗とその彼岸。敷居という観点から見れば、贖いや贖罪、犠牲という問題も二重化している。

法の圏内でナルシスティックに犠牲を美化していること(残酷)と、法との闘争において自らを犠牲にすることは、贖罪や贖いという見方からも異なってくる。罪を存続させる為の美化に陥った者と、罪を終わらす者。


2. 精神分析のペスト性とは、その用語法と裏腹に神的暴力のことだと考える。

精神分析の(無)条件性についてだ。ここに、分析家が担っている問題と、分析主体(になる者)の問いの決定的な非対称性がある。

“無意識の”主体においては、決定的に何かが“終わっている”。だが、その主体はパッサージュに躓いている。精神分析は、それを転移において再び遂行する。


3. 書物が理性の調和に回収されるだけか、書物が一つの傷口なのか? アコギな著作をまた出しただけなのか?

古い法を再建し、復讐の等価交換を演じただけなのか? あるいは、新しい法の中に消える“最初の”英雄になったのか?

“現前していること”のペテンな法の装置の歯車に終わるのは何故か?

贖いとは、罪なき者が消え去るということだ。そのような意味での贖いは、“高次の”犠牲になる。彼・彼女は神話的な世界に回収されたのではない。ヒエラルキーという意味で“高次の”象徴秩序(名)の犠牲になった。罪なき人間が。

ここに一つ、崇高な震撼させる問題がないだろうか? ベンヤミンはゲーテの《結晶化》という概念に、革命の契機を見とる。崇高に“動的なもの”を見たカントとは対照的に、ベンヤミンにとって革命は水が氷に変化するが如く、瞬間の停止(“質的変化”)の契機なのだ。だから、彼は名において革命が進行していると言うことができた。

革命に熱狂を見てはいけない。革命とは本質的に、時間が停止する震撼という崇高な契機に他ならない。それは、名の中で静かに進行している。


4. 〔革命とは、熱狂とは無縁だ。それは醒めている。熱狂し浮かれている連中は、そんなことに思いも及ばない。だが、革命とは名の中で“密かに”進行している。熱狂を夢見るのは、その者“自身”が病んでいる証拠だ。〕


5. 神話的なものの時間形式は、反復だとベンヤミンは定義している。ここから、永遠回帰の問題点が浮かび上がるが、永遠回帰がそれ自体パッサージュの問題ということまでは、思い至らない論者が多い。つまり、永遠回帰は同一物の空間的布置の回帰である一方で、そのモーメントの亀裂までも予見する。

モーメントであるということは、その布置関係には、それ以前とそれ以後の問題が横たわっているということだ。だから、ニーチェのように永遠回帰は、敷居の“躓き”にもなり得た。神話的な強制力が衰退するのを“美”において見抜いたベンヤミンは、アウラの輝きを無自覚ながらかその同一物の“中に”見出していた。

神話的な強制力に服した秩序とは、むろん空間的な布置(それをシニフィアン的な布置と言い換えても間違いではない)を持っている。だが、その同一物の布置が揺らぐ契機もその中に潜伏している。精神分析の対象は、それが“一回性”を失った対象であると思い出してもらおう。

そう考えると、ここでもファルスの意味作用の支配下にある問題(シニフィアンの空間的布置関係)と、それを逃れ、転覆させる対象の問題(その一回性を失った対象)という二重化された構造が浮かび上がる。

つまり、分析空間(その移行を含めれば時間)は、両義的だ。かたや恐怖症的な対象(Φ)によって反復される問題点があり、かたや無意識の対象として、その布置関係を変化させ、最後には主体を転覆させるような情動のドラマがある。

ここまでの帰結として、美的な対象の側には既に、ファルスの強制力を宥和させるような力学(非の潜勢力)が用意されていると見なせないだろうか? 分析家が担うのは、対象のポジションでもあるが、そのような対象に既に働いている、−Φ 的な停止点でもある。

〔単なる“S1 の再生産”のような解法では、どうとでも言えてしまう。それに内在している問題までは、見えていない。永遠回帰は、歴史的出来事を再生産するというテーゼがある。〕


6. 享楽というだけなら、それが“熱狂的”なのか“陶酔的”なのか分からない。ベンヤミンはある著作で、“陶酔による自我の弛緩”ということを言っている。それとは対照的に自我が強化されるような享楽や熱狂もあり得る。

アウラとは、美的理念の宥和的形式でもあるのだから、この効果(陶酔)により自我が弛緩するというのは、私たちが美しいものについて抱く態度とも関係なくはない。

麻薬以上の麻薬とは、自我—とりわけ“強化された”自我—なのだとしたら? 事態は一転する。享楽は、毒にもなることを忘れてはなるまい。

自我の目覚め? その覚醒? 危うい。自我とは、それ自体が麻酔薬だ。確実な自我とは、麻薬の一変種だ。ベンヤミンの実験の逆説だろうか?

精神分析は何故、パロールから始めるのか? 人間が言葉を話す。あるいは、韻律を紡ぐ。そこに既に、音声による陶酔(自我の弛緩の効果)があるのかもしれない。それはエクリチュールにより確証を得る“手腕”とは全く違う。


7. 他者に色あせた自我のイマージュを見るための奮闘は、熱狂と徒労に終わる。陶酔とは、逆に醒めている。

本来的に麻酔薬、麻薬たる自我の覚醒ではない。自我の弛緩による陶酔は、目覚めを伴っている。恋愛も陶酔の経験を伴う。

根源経験(享楽体験ではない)とは何だろうか? それは、事物の名の“中に”参入することだ。その名と事物のイマージュの繋がりを通過—パス—することだ。つまり、偶像崇拝による熱狂とはまるでその経験は異なる。

夢のイマージュの中にも、物のイマージュの名残りが既に潜み、呼びかけいる。名の中に残ったイマージュの言語。それを、フロイトは“夢の思考”と呼んだ。それは、《象形文字》のように判読できるのではなかったか?

そう考えると、精神分析において名の問題は、そのイマージュと不可分であることが伺い知れる。その意味で、精神分析が夢を扱うことは、核心=革新的である。

そこには思考の根源経験が印されている。

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欲望の mysterium / ministerium について

2017-11-19 17:48:19 | 精神分析について
Agamben が、mysterium と ministerium の混同について指摘しているが、これについては、Lacan 派にも影響があったりするのだろうか? 端的にイタリア語では、ministero=聖務であり、mistero=神秘・秘密〔複数形では秘儀・奥義〕を指し示す。

つまり、欲望のミステリー〔ここでは身体のミステリーでも別段変わりはない〕とは、欲望の〔経済学的な問題も含む〕管理経営 l'amministrazione を内包しているという観点すら持たないとならない。

欲望のミステリー的な転回——初期の転移の様相はこのようなものとして表れるだろうが、分析の諸相としてこのテーマは度々出現する——があるなら、それは欲望の管理経営的問題を示唆することは否定しきれない。これを、“享楽の節制”として考えることは、無理はないだろう。禁欲原則を思い起こしても、享楽を称揚した方が無理がある。

Lacan が聖性や神性として残した問題を逆照射する観点が、Agamben にはある。

Agamben 曰く、この用語の混同の起源はパウロの表現まで遡る。

“...ma l'origine della confusione è più antica e riposa nella stessa espressione paolina « economia del mistero » e nella sua inversione in un « mistero dell'economia », ...” (Agamben, Il Regno e la Gloria, p.175)

「…しかし、混同の起源はより古く、パウロの同様の表現における《ミステリーのエコノミー》と、その倒置法における《エコノミーのミステリー》の元に戻る」

ここでは、Agamben はパウロの表現とその倒置法における mistero を取り上げているが、他にも ministero が同時に出てくる箇所を、ウルガタ聖書〔主として聖ヒエロニムスが四世紀末に翻訳したラテン語訳聖書:ローマカトリック教会が公認した〕から引いている。確かに、この翻訳過程でこれらが混同される可能性は高く、その影響が Lacan 自身の宗教的な背景にあることは否定しきれない。

“L'amministrazione (L'« economia ») ha essenzialmente a che fare con un arcano e, d'altra parte, il mistero può essere dispensato solo amministrativamente ed « economicamente ».” (Ibid., p.175)

「管理経営(《エコノミー》)は本質的にある謎〔神秘〕に関わりがあり、また他方、ミステリーはもっぱら管理経営的に、そして《経済=エコノミー的に》分配されうる。」



■ここで、この問題を受けてある方がとても示唆的なコメントをしてくれたので紹介したい。

《ラカンはイエズス会だったわけですがセミネールではルターやパウロが度々登場しました。有名なのは精神分析の倫理について語ったセミネールで、いかにして人は精神分析家になり得るかと問うところです。そこで彼はパウロが師となるようにフロイトを同化させて、倣うことに焦点を当てます。

パウロには神秘体験というものが語られるわけですが、まさに「神秘」こそが、あらゆるものを飛び越えてキリストと合一する方法で、「神秘」によりパウロは師となり得たわけです。「聖務」は「神秘」の再現です。ですからラカンの側からパウロを見るとこの二つは区別されるものではないわけです。

パウロがキリストに倣うように、ラカンはフロイトに倣います。どちらも廃すべきものによって成り立つ欲望があります。双方空虚/欠如を作らねばならないのです。その引き算を前提にして純粋な欲望が備給されます。ラカンはパウロのようでありたいと願ったのです。》


この言を更に受け、分析家の欲望とは欲望の謎 il mistero の管理経営 l'amministrazione 的な問題——つまりは、聖務 il ministero ——を内包していると言ったら、言い過ぎだろうか?
〔分析家の欲望と欲望の分配、ないしは配剤〕

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ヒステリーとエディプスを再び—歴史性のリミットの間隙

2017-06-15 20:00:23 | 精神分析について
セクシュアリティと文学的エクリチュールという問いを立てた時、既にそこに作動しているのは、法形式の問題だった。その場合、欲望とはその実現ではなく、法における消去と逸脱の迂回路を目的とするのであり、自己目的的ではない。それは、達成されない限りで、達成する。

しかし、もう一つの条件がある。法=掟の出現、あるいは法=掟の前への出来について、我々は何ら合目的性があるわけではなく、“不条理な仕方”で、あるいは“他者の呼びかけ”によって、差し止められているということだ。そこでは、明晰な知は、それ自体が起源との関連に置かれることで、疑念と懐疑を呼び起す。

欲望の起源//法の根源という問題を立てた時、それ自体がフィクションであることを精神分析は否定しないだろう。だが、それは裏を返せば、欲望それ自体がフィクションとしての問題を保存しているということでもある。そう考えると、精神分析における出来事とトラウマの問題は二重化される。それは、トラウマ的でもあるのに欲望との関連におかれること、そして、そのような出来事はフィクションとしての性格を拭い切れないにも関わらず主体を捉えること。

精神分析においても起源や根源は、亀裂や侵食に絶えず付き纏われている。それは、物質性や志向性によっても覆い隠すことはできない問いだろう。何故なら、物質や志向が出来事としての歴史的性格を獲得したとたんに、そのような歴史的出来事は、物質や志向にも亀裂をマークするからだ。

仮に、出来事が物質的であるとはいえ、その物質的出来事の現れや遭遇は、主体にとっては歴史性の問題なのだ。テクノロジー然り。それゆえ、テクノロジーは問題を解決するどころか、それとの出会いが受苦にもなる。

言葉を物質性とみなすにせよ、歴史においては、その主体は出来事によって籠絡され、追放さえされている。このような主体は、対象志向的ではない。能動-受動、サディズム-マゾヒズム以前のパトスを被っている。それは、主体の選択以前の問題ですらある。対象を志向するような主体を考えてはならない。むしろ、対象に絶対的受動性として捉えられ、取り憑かれている主体である。むしろ、主体が出来事の客人である。

その意味で、法=掟が保証しているのは、何も適法性や合法性なのではない。アウトロー、逸脱、法の倒錯性だとしたらどうだろう? 純粋な普遍的法とは、根本的に堕落するものではないか? そのような法が機能する与件としての、法の堕落と倒錯性があるのではないか?

ここにおいて、主体、対象、法、そして出来事の関係は錯綜としている。出来事の主体とは、そもそも客体の客体である。そのような無条件性の為に、法の倒錯性があり、その限りで法は機能する。生起とは、到来である。その度毎に、一度限りの不可能な生起=到来。



ヒステリーは衰退した。エディプスの主体は居なくなった——。

我々は、こういうあからさまな言説に馴らされ過ぎている。それが、どういう事態なのかを思考し、問い詰めることを止めている。

ヒステリーにせよエディプスにせよ、痕跡における亀裂とマークの問題として突き詰めることができる。ここでの考察では、欲望の起源と法の根源の亀裂を「ヒステリー」の問題として名指した。そしてその時、「エディプス」とは、欲望の起源の問いとその特異性、また、“不条理に”ないしは“他者からの呼びかけ”に応じて、絶対的受動性を被る形で、普遍性に差し止められている形式として考えた。

では、何故、それらは見失われ衰退するのだろうか? もしかしたら、それが記憶痕跡の「場」に由来する性-政治的な問題だとしたらどうだろうか?


《コーラとは、存在の二つのジャンル(不易にして叡智的な/滅びやすく生成状態にあり感性的な)に対する triton genos〔第三のジャンル〕であるのだが、それは同時に、性的なジャンル=ジェンダーに関しても限定を受けているようにみえる。》Jacques Derrida, Khôra (1993)

“……コーラは、父とはカップルを成さない。換言するなら、模範的なモデルとはカップルを成さないのである。” ibid.

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introjection/incorporation における転移と同一化

2017-06-07 20:07:03 | 精神分析について
Freud においては、喪の作業の帰結として同一化が生じる。これは、Lacan とは違いがないだろうか?

Freud を真に受けないまでも、この辺りの Lacan や Derrida との比較検証はあっていい。分析の終結という問題にも繋がる。

例えば、Lacan 的な同一化は、体内化/取り込みの「線」で解釈することもできる。 では、体内化と取り込みは、どのように区別され、また境界を共にしているのだろうか?

Freud の場合、同一化とは体内化とほぼ同義である。その成功が、精神分析の喪の作業として、分析の終わりを含意する。
Lacan の場合、同一化は体内化/取り込みの両義性を保存していると見ていい。一方は、幻想の論理として、もう一方は、純粋な対象喪失として。
だが、Derrida の場合は複雑である。彼は、M. Torok に依拠しながらも、体内化/取り込みの境界線を脱構築しようとする。 単一の線を、“父には”帰属せず回帰しない散種へと、ある経済的な遅延を伴うエクリチュールへと仕立て上げることが、Derrida の狙いであるかのようだ。


取り込み(または取り入れ)introjection は、Ferenczi がもたらした概念だが、いわゆる正統派精神分析では、その十分な問題が汲み尽くされないで使用されたというのが、M. Torok の主張である。

これについては、同一化のみならず転移を考える重要な問題にもなる。 Ferenczi によれば取り込みとは、必ずしも愛の対象の現実的な喪失を必要としない。それは、「欲動とその変転の総体」を取り込み、対象はそのきっかけに過ぎない。

Derrida の指摘によれば、Ferenczi を参照にしている M. Torok は、「取り込みが単に対象ばかりでなく、それに関わる諸々の欲動を内包する(封入する)inclure と言い添えている」ということだ。

ここに何やら、転移と同一化が、既に欲動の運命を巻き込んでいることを読めないだろうか? それは必ずしも、現実的な喪失を必要とはしないまでも、“過程においては”そのような喪失が、問題化される。

幾つかの訴訟のような亡霊たちのざわめきとしての精神分析——?

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メタファーと転移を巡る断片的考察 (5)

2017-03-20 20:35:58 | 精神分析について
先に、私は文体の良し悪しは“趣味”の問題だと言った。その文体が伝える像については、感覚の臆見であり認識ではないと、初期Nietzsche のレトリック問題に則して述べた。

このことは、Kant 的な“構想力”のテーマ、とりわけ『純粋理性批判』ではなく、『判断力批判』の側の構想力に関係しているようだ。 まず、構想力についての扱いが、『純粋理性批判』と『判断力批判』においては違うこと、そして、後者においては、認識判断ではなく、美的な趣味判断になることに注意しよう。

いみじくも、Lacan が『精神分析の倫理』のセミネールで欲望と美について言及した問題が思い起こされる。

Kant によれば、趣味判断は「単に観照的」であり、「この観照そのものは諸概念には向けられていない。というのは、趣味判断は(理論的にも実践的にも)認識判断ではないからである。したがって諸概念に“基づいておらず、また諸概念に達することを“目的としてもいない”」と述べている。

そう考えれば、精神分析における象形文字(図像-文字)とその解釈は、認識や悟性的な総合とも、切り離される問題と言えなくもない。 むしろ、このような美的な趣味判断の問題が、なぜ悟性的な認識判断と取り違えられるのかという問いは立てられるとはいえ。

この美的な趣味と悟性的な概念のあいだに、対象が占めるなら、それは不純な幻想ということにもなる。だが、この美的判断が観照する像と、悟性が総合的統一として包摂する概念とのあいだには、如何なる問題があるのか? そこに、空間と時間、直観と概念を位置づけできないだろうか?


転移の問題に則して言えば、この両者を、無意識における二段階仮説作業として、ここでは考察している。あるいは、視覚的に限定された像-メタファーが、如何にしてパロールの発話行為を通して、メタモルフォーゼするのか? ここに、精神分析的な“経験に固有な”時間性の問題もある。

Kant は、確かにこの問題を、“時間の観点”で考えている。 これは、美と崇高のあいだの問題になるわけだが、精神分析におけるメタモルフォーゼや昇華に伴う感情、主体的な時間にも変奏される。


言語上の転義に先立つ、「感官知覚の交換を示す転移」(Gustav Gerber) こそ、言語の出来事としての性格を語っている。

■Nietzsche の場合:
事物の表面→視覚形象(第一のメタファー〔転移〕)→語音(第二のメタファー)→概念

■Gerber の場合:
事物の表面→神経刺激→感覚→音声→表象→語根→語


Lacan の転移“概念”の形成は、その思想的な背景から鑑みても、Kant 的な悟性に侵食されている。確かに、Lacan もメタファーの重要性は見取ってはいる。 だが、“実際上の”転移とは先ず、「感官知覚の交換」を示す転移=愛だろう。転移における言語の「図像学的転回」が先ずある。

そう考えると、転移を“知の想定された主体”として定式化した Lacan の場合は、“概念上の”転移に限定されているという疑念も生じる。 概念も“色あせたメタファー”ではあるが、もっと言えばそれは“忘却における転移”だろう。


ここでの若干の考察においては、Nietzsche 的なパースペクティヴからの“仮象としての転移”という論点だけは、保存しておきたく思う。その否定的な役割が肯定的な役割に転換すること——その元にある経験が、“言うこと”の経験である——を含めて。


「眼からはわれわれは“決して”時間表象に到達することは“ない”だろうし、耳からは決して空間表象に到達することもないだろう。」Nietzsche

「というのは、始まりは或る限界であるが」Aristotélēs



□補遺(20170503)

ここでの一連の考察の中で、ある種の“偽装された論理性”を私は批判していた。これはこのような“論理への意志”がそもそものところ、“言語の情念”を切り捨てているように思えたからだ。同様に、真理についてもそれは言える。真理という時に、それは実践や行為の“パトスを伴う真理”なのか、それともこれを消去した上での、“形而上学的な態度”としての真理なのかでは、自ずと扱いは異なる。

例えば、星野太はロンギノスの『崇高論』を論じるにあたる際に、「崇高の五つの源泉」における「パトス」の位置づけに多大な留意をはらっている。「偉大な思考を形成する力」に続き「強く熱狂的なパトス」が生得的な要因として挙げられるが、パトスは単に崇高を形成する要素のひとつにすぎないの“ではない”。

ロンギノス自身、「時宜を得た真のパトス以上に崇高なものはない」と述べ、このようなパトスの重要性の示唆は、枚挙に暇がないという。 以下は、パトスとメタファーについてのロンギノスからの引用である。

《すでに比喩について述べてきたように、時宜を得た強いパトス、および真の崇高は、大胆な隠喩の多用に対する適切な解毒剤となる。というのもその本性上、それらはすべてを押し流してしまい、その必然的な効果として大胆な隠喩を求めるようになるからである。そのさい、聞き手は語り手の興奮を共有してしまっているがゆえに、そこでどれほどの隠喩が用いられたか、などと考える暇はもたないのである。》(ロンギノス)

つまり、パトスが、修辞学的な感染(転移の源泉)とも呼んでいい“メタファーの解毒剤”となるということ明言している。つまり、パトスは“メタファー的な転移の解毒剤”になる。

余談だが、星野は『崇高の修辞学』の中で、バークの『崇高と美の観念の起源』とロンギノスの『崇高論』のあいだに横たわる問題を、些か誇張気味ではあるが言い当てている。詳細は、星野の論述に譲るとして、結論だけここでは記しておこう。

「バークの言語論、およびそれと密接に関わる情念論において何よりも特筆すべきは、「音」のみを媒介とする「共感」の称揚であり、それに付随する「像」の排除なのである。」――星野太『崇高の修辞学』

ここでの考察は、精神分析的な文字と音声言語の問題を再考する一助になる。

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メタファーと転移を巡る断片的考察 (4)

2017-03-20 20:19:58 | 精神分析について
言語という形象は、もはや図像学や修辞学的な転回と共に考えなくてはならない。 それらは元々、規則を侵犯するような問題さえをも含んでいる。

言語が隠喩形成への意志として考えられるなら、そもそも言語はレトリカルに、その形象を伝えるということを、働きとして持っているということになる。 Nietzsche と Aristotélēs を繋ぐ、“仮象のレトリック”というところまでは紹介した。

言語学的転回と図像学的転回は、アナロジーでもある。この観点は、近年の神経系人文学とも関係あるだろうし、Agamben も引き受けている問題でもある。

ここから、精神分析的な意味での「転移」を、もう一度考えてみよう。 その為に、転移という問題を、無意識の“二段階の仮説作業”として、そしてその間に働く力動性の問題として、問い直してみる。更に、解釈学的なアプローチや技法論の問題もあるだろうが、ここではあまり問題を限定しないで、問い直していこう。


そもそも、精神分析的な解釈は何を目指しているのか? 意味の生産-再生産ではないことは明らかだ。 それは図像-言語の“現れ”を目指している。それはまだ、視覚的な問題に限定されているとはいえ。

図像を見ることと文字を読むことは、同一視される事柄に属する。 ここには、依然として形而上学の欺瞞がある。

一点注意しなければならないのは、この図像を見ることと文字を読むことの同一視というのは、空間-視覚的な把握の仕方としてあるということだ。 ここに、転移において働いているメタファー的な像が、視覚において限定された問題に過ぎないことを指摘しよう。

だが、これを言葉として“言うこと”に結びつけた場合、この形而上学的な同一視の問題は、時間的な差異を伴った、音節の問題へとメタモルフォーゼする。 メタファーからメタモルフォーゼ。この変化に決定的な力を与えることが、言葉を“言うこと”に他ならない。

精神分析は、パロールにその力と効果を負っている。その言葉を話すこと、それは無意識の仮説作業の第一段階から、その次の段階への移行を準備する。 今まで知られていない、同一視のレベルの無意識を言う。そこに、転移的な力動の転回も存在している。

ここに、メタファーが感覚の臆見しか伝達しないことに意義がある。 メタファーにおける像は、ある微表しか際立たせない。それは、出来事の全体をも記憶してはいない。だが、それが時間的に音節化されるなら、問題は、生成の側に移行する。 ここから、第二の仮説作業が始まる。


[メタファーの形成衝動は、Kant 的な統制的概念として機能するのかという難問]


何れにしても、精神分析的な転移においても、主体の個人史における起源と発生の、両方が問われないとならない。 それは言語に起源を措定し、その内在する構想力の問題を問う仕方と、言語を発生の観点から問い、その出来事の経験と超越を問題化する仕方の、両面が必須ということだろう。

その両極が、正に転移の力動性を特徴付けている。そして、起源にある力は、愛やセクシュアリティと不可分である。

「過去の現前、それこそが転移の現実です」Lacan


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メタファーと転移を巡る断片的考察 (3)

2017-03-20 20:13:36 | 精神分析について
Lacan はある意味で、Saussure 的な記号論を、レトリック化した点で、評価できるのではないか? その結実が、学派のマテームだった。 だとしたら、それはロジックによらずに、パトロジックな伝達を仮象としているに違いない。その本義は、パトスとして伝達された文字を、再び“言うこと”に返還することにあるだろう。

こう考えてみよう。われわれは何故、ある文体を評価し、ある文体には心地悪さを感じたりするのだろう? もちろん、これは趣味の問題でもある。 だが、文体の良し悪しは、詩的韻律が最終的な判断の拠り所になる。 文体においては、論理的規則より、韻律的気息が優位だ。

そう考えるなら、文体(仮象として言語)は、音声の韻律的な響きや気息を、その最終的な拠り所として探し求めていると、言えないだろうか?

ここに精神分析の核心の問題がある。 “無意識の文字は、ある発話される韻律と沈黙のあいだにかかる仮象である”という問題が。



転移と無意識の問題を二段階仮設として考えよう。(Nietzsche がまた参照になる)

一つは「隠喩形成への衝動」、その次は「仮象による救済」。 一方が、無時間的なら、その次は、時間性が関係してくる。いずれにせよ、レトリックと音声を両輪で考えないことには、意味がない。 身体の出来事が、如何にして隠喩化され(転移し)、次に解消されるのか?

出来事としてあったもの(原因に位置する)が、結果のように錯覚されるのが、そもそもレトリカルな換喩による取り違えに起因するものだった。 (某ラカン派の記述=奇術とは、まさにこの、もっともらしい捏造に与するものだったと言える)

実は、Nietzsche が問題化する転移 Übertragung は、神経生理学と修辞学の両方に繋がる出典的な由来もある。ここから、Freud まではとても近い。

更に言うと、感覚というものは、もっともらしいこと(真実性)を論理として形成しようとする意志を内蔵しているということだ。ここに、語の転義(メタファー)の問題を見ていい。つまり、そのもっともらしいこと(真実性)のレベルの伝達というのは、誤謬に根ざすことになる。

これが、転移の第一段階。(※第二段階については、後ほど述べる)

しかし、Freud 的転移がそもそも、「原版の再版」だった。「隠喩形成の衝動」のみなら、別にロジック(とレトリック)だけでもよかったのかもしれない。だが、それでは精神分析を経験したとは言えない。

[理解したとしても、すべからく誤謬である]


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メタファーと転移を巡る断片的考察 (2)

2017-03-20 19:58:04 | 精神分析について
無意識というのは、言わば他のトポス—他の舞台—を捏造する。これが、人間の記憶の問題でもある。そして、その立役者的な語の転義が、メタファーだろう。

Nietzsche は、この記憶によって固定化される概念を“規則による虚構 regulative Fiktion”と呼び、論理的思惟と代数の公式について説明し、虚構、捏造された思惟、歪曲の技術という言葉を当てがっている。

これによるなら、メタファーにおいては、感覚の臆見が伝達されるということ、感覚的なものと知性的な精神の捏造や歪曲の技術のあいだに、虚構的な性格が存在していて、われわれの愚かさがあたかもそれらを、“現実”と認識〔錯覚〕し、経験している“気になっている”ということも、合点がいく。

ちなみにだが、Nietzsche が“規則による虚構”として具体的に挙げていることは、「自我、質量、もの、実体、個体、目的、数」である。

これらが、《つまりは“規則による虚構”にすぎず、この助けを借りて一種の恒常性、したがって「認識可能性」が生成の世界に置きいれられ、“捏造される”のである》(Nietzsche)。

そう考えると、精神分析について、捏造された概念でもって論文を作成する「技術」や、弁論における「記憶術」の問題が、“苦痛”や“良心のやましさ”という生理学と仮象の問題に変わり得る。


さて、ここから“欲望の原因”すら、ある種の誤謬推論によるものであることを導きたい。 何故、それは欠如で、出会い損ねるのか?

発生論的には、「原因と結果の取り違え」から欲望の原因が生じる。 だが、わたしたちは、欲望の原因がまずあるのではないかと夢想する。 欲望の原因と呼ばれるもの(欠如)は、本来は「原因と結果の取り違え」から、遡及的にしか見出せないものであるが。

ここに、プラトニズムの盲目性があることは、触れておきたい。 「欲望の原因」は、本来は、エイドスとイデアの取り違えからの“帰結”に比するべき問題なのだ。

このことは、後期Nietzsche においてはどう言われているか? 《「内的世界」の現象体制においては、わたしたちは原因と結果の時間関係を逆転させる》、《結果が生じたのちに、原因が想像されるということ》、《原因が結果よりもあとになって意識される》。

Freud 的な欲動 Trieb と外界の問題も、この地平ある。私たちの感覚刺激は、内部から生み出されたものであるのにも関わらず、それが外界からのものと、われわれは取り違える。 後からの帰結に過ぎない問題〔外界〕が、先〔時間的な原因〕にあるかのように錯覚される。

《中枢神経の興奮に対して、ひとつの原因が求められ、表象されるということ》、《それは過去の「内的経験」すなわち記憶にもとづいた手さぐりである。しかし記憶は古い解釈の習慣すなわち「内的経験」の誤った原因設定を保持しているのであって、……そのため「内的経験」はそれ自身の中に、すべての過去の誤った因果論的仮構の帰結を依然担い続けなければならないのである》。

Nietzsche はこの因果論的仮構の誤謬を“理性の本来の頽廃”と呼び、その誤謬は神聖化されていて、「宗教」「道徳」という名称を持っていると述べる。

「宗教と道徳とが定式化するあらゆる命題はこの誤謬をふくんでおり、僧侶と道徳の立法者とは理性のあの頽廃の張本人である」——ニーチェ『偶像の黄昏』


もはや、日本においては精神分析すらそうなりつつある。


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メタファーと転移を巡る断片的考察 (1)

2017-03-20 19:50:48 | 精神分析について
「しかるに、かの認識が究極目標として達成するものは、ただ、——破滅のみ、なのである。」Nietzsche


Lacan が Saussure から拝借したシニフィアンは、レトリックの問題と神経系の感覚的受容において惹起される微表なイメージを架橋しているとも、読めなくはないだろうか?

その中でも、語本来のレトリカルな在り方を示すのが、メタファーであり、転移の謎めいた性質も、これに帰せられる。それは認識の伝達ではなく、感覚の臆見の伝達である。

表音文字の文明においても、メタファーはそれよりも古い、象形文字としてみなされているということに留意がいる。


Agamben のニンファにも見られるが、哲学はなぜ概念を形象-イメージで伝達しようとするのか? あるいは、哲学とレトリック、転移 Übertragung の関係とは? 精神分析も、こういう問題を取り逃したらいけない。

Freud と Nietzsche を巡り、この転移 Übertragung による伝達が、メタファーやレトリック、神経刺激の量の問題、哲学で脇に追いやられがちな感性、イメージ、想像力のテーマをも含むことは、精神分析にとって示唆的だと言える。

つまり、古代的なレトリカルな問題が、無意識の象形文字と詩的な韻律を繋いでいるということでもある。 精神分析はやはり、文字とパロールの両輪を実践上のパラダイムとして保持していると言える。それは、理論的な認識の伝達ではない。

精神分析における転移は、語の転義である。 それは、感覚における刺激を、形象として移しているに過ぎない。

そう考えると、Lacan のシニフィアンの論理を、Nietzsche 的な記憶術の問題として、捉え返したくなる。この両者は、比較考察されてもいい問題を共有している。

シニフィアンは、“ロジックとしてのみ扱えば”精神の入墨と言いたい。 だが、シニフィアンを、“レトリックとして”感覚化すれば、身体の出来事になる。


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徳の活用と教育分析の問題

2017-03-09 12:00:03 | 精神分析について
アリストテレスの正義論(ここでは、『二コマコス倫理学』第五巻に限定する)で面白いのは、能力や学問においては、相互反対なことを結果することが可能という指摘だろう。 例えば、不正にそれらを用いれば、それらの有用性の反対の結果を生じさせる。 医学は健康も、病気をも生じさせることが可能である。

だが、「状態〔ヘクシス hexis〕」については相互反対なことが結果するというわけにはいかない。例えば、健康な「状態」からは、もっぱら健康なことが為されるに留まる。 これは、精神分析を考える上でも面白い。

※注:「ヘクシス hexis」は、ラテン語訳では habitus。邦訳は難しいが、アリストテレス倫理学の重要な概念。ここでは、岩波文庫版の訳に準じている。

精神分析を能力や学問の水準で考えるなら、その能力や知見を、名誉欲の“不正な”利用に歪め、全く反精神分析な帰結を生み出す。 まさに現在は、これが優勢である。だが、精神分析における教育分析の問題を、行為と徳、それらが生み出す「状態」に基礎を持たせるとしよう。

そうすれば、精神分析の伝達とは、倫理的徳の伝達であり(それは知識のようには伝達できない)、そのような徳の“活用〔クレーシス〕”に懸かっていることに同意できる。

つまりは、精神分析の知識の所有ではなく(それは、“不正に”用いるなら、反精神分析的な結果を生じさせる)、徳の“活用”において、教育分析の問題を考えればいい。

精神分析を学問上に限り、それで名誉を計るのだとすれば、精神分析は道を間違えるに違いない。そこからは、悪徳が栄えるだろう。

ちなみにだが、アリストテレスは「状態 hexis」についてはしばしば、その主体、それに関係ある基体〔ヒュポケイメノン=subjectum〕から知られるとも述べている。 この用語参照も、精神分析的主体を再考する上で重要な示唆になると思われる。

自らのパロールに従属した分析主体は、倫理的な「状態」の主体でもある。そのような「状態」を据えるようにさせるのが、精神分析的行為ではないだろうか?



†アルケー〔始原〕や、それを何らかの仕方で代理する政治は、エコノミーの問題にもなる。 事物の配置・配剤・分配に関わるのが、本来のエコノミーの語源(アリストテレスに由来する)であることは有名だ。

そう考えると、(症状のアナロジーとしての)無意識の政治経済学というのも、ある公平さが求められると言えまいか? 分析家は、それらをジャッジするわけではないが、少なくとも聴取においては、公平さを保持してはいる。

症状におけるリビドー量や疾病利得といった問題、セッションの料金の設定や時間に至るまで、何らかの「正」という観点は、あり得る。これらは、オイコノミア=エコノミーという包括的な概念でもって、測られる問題と言えるだろう。

※注:アリストテレスは、家政的な正〔オイコノミコン・ディカイオン〕と市民社会的な正〔ポリティコン・ディカイオン〕を別個に扱う。

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徳と享楽、あるいは欲望

2017-03-06 15:00:43 | 精神分析について
勇敢〔アンドレイア〕とは苦痛に関する徳だが、節制〔ソーフロシュネー〕とは快楽に関する徳だ。 つまり、苦痛や快楽に対する態度でも、その人間の固有の徳が既に働き、問題にもなる。 なるほど、見せかけはそのような徳を装ってはいるが。

アリストテレスは快楽についても、魂に属するそれと肉体的なそれを区別している。例えば、名誉愛や学習愛の場合は、悦びを感じるのは知性=思考〔ディアノイア dianoia〕であるという。

アリストテレスにおいて、快楽は魂が感じると部位と肉体が感じる部位に分けられている。 われわれが、快楽について節制であるとか、放埒と判断するのは、快楽でも肉体に結び付いた部分に特定される。 ラカンの言葉ではまさに享楽、性感帯や特定の身体に固有な快楽だろう。

つまり、アリストテレスに則すなら、特定の情欲を催す快楽—精神分析的には、幼児のセクシュアリティや性感帯に結び付いた身体的な快楽—即ち、享楽に対する態度としての徳が問題なことにもなる。 断じて、安易に享楽を称揚し、享楽していればいい、享楽が解決というわけではない。


「節制は、だから、肉体的な快楽にかかわるのでなくてはならぬ。」
「節制ならびに放埒のかかわるところの快楽は、[…]人間以外のもろもろの動物にひろく共通する快楽であり、さればこそそれは、奴隷的な、獣的な快楽であると見られるのである。」
(『二コマコス倫理学』第三巻・第十章)


アリストテレスは、そのような奴隷的、獣的な快楽の源泉を、肉体の感覚の中でも、触覚と味覚に特定している。

(また以前に、ラ・ボエシの隷従論に則して、“享楽への隷従”というマゾヒズム的な問題を提出したことも強調していい。そこから、オイコノミア=エコノミーの問題にも伏線を引いた。)

味覚と触覚でも、味覚は殆どないしは全然問題にならなく触覚によって生じる享楽がすべて、と付け加えてもいる。 これは、精神分析的も興味深い。事実、精神分析において、分析家と患者の触覚的な接触は、何らかの仕方で禁止され、それは特定の情欲を刺激するからだろう。

そう考えると、そのような享楽の称揚が、理論的にも実践的にも、如何に間違った解放(*) の導き方であるかは、述べるまでもない。 何故、問題になっている事柄を解決であるかのように取り違えるかは、“精神分析の性目標倒錯化”として指摘しておいた。

(“解法”を“解放”と誤変換したが、あながち間違いでもないので、そのままにする。“制御なき解放”は危険であることも留意されたい。)


われわれは、精神分析を(目的や所有ではなく)手段と使用として導き、考え、実践する。


◆付記:

アリストテレスは肉体的な快楽についても、欲求(オレクシス)と欲情(エピテュミア)に分節している。この観点から、ラカンの欲望概念を照らし、享楽との関連を問うのも面白いだろう。

欲情は欲求の非ロゴス的なものである。ただ、この用語法は、アリストテレスにおいて厳密ではない。

だから、ラカンが欲望(とその原因)という用語に託した問題は、フロイトとアリストテレスを架橋するような射程を持つ。



†ギリシア哲学における、徳=卓越性〔アレテー〕の問題は、精神分析のもう一つの“実践倫理上の原則”、禁欲原則との関連があると結論していいだろう。

われわれは、この“禁欲”という用語法に、欲望の消極性や否定というよりは、欲望の積極性やその彼岸としての“愛の情念”(情動でも情欲でもない)を見ていいのかもしれない。その時、われわれはわれわれの享楽を上手く“治める”ことを学ぶだろう。

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手段性の圏域へ

2016-10-19 22:03:52 | 精神分析について
症状から倒錯的なリビードへ迂回した。そこから、対象リビードと自我リビード(ナルシシズム)という対立(葛藤)を見出した。 何よりも、症状における抵抗点は、この二極 (*1) だった。

〔*1: これを、精神分析における倒錯的享楽の二源泉と呼びたい。〕


リビードは、対象から自我へと一部帰還する (*2) 。この帰還したリビードが、言わば症状における身体との固着となり、抵抗する。 ラカンはこれを何と呼んだか? ここから、死の欲動とトラウマは近い。 エロスを辿ったわけだが、ナルシシズムへの帰還を通じて死に行き着く。

〔*2: 詳しくは、フロイト「ナルシシズム入門」(1914) の一次ナルシシズムと二次ナルシシズムの区別を参照。〕


問題になっているのは、無意識の形成物から、症状形成の“経路”だ。

身体に固着した、主体の運命は? これは、精神分析でしか探究し得ない。

こう言って良ければ、精神分析はその目的を、純粋な手段へと変容させるのかも知れない。 主体の運命は、“かつての”目的や理想に囚われている。それは、無意識を通すことで、“現実的な”手段へと変わる。



《私は、享楽することとしての知の想定された主体として、知の想定された主体と同一化するある倒錯者、享楽するモードに関するある確信〔必然性〕を持つ主体について語ります。享楽することとして知らないことは、よくある診断のある種の動機です。このためラカンは、ある精神分析的治療は、倒錯の利得 un beneficio perverso を認めるべきと言い得ました。明らかに、“倒錯 perversione”の用語のこの使用は、古典的なそれではありません。この場合、倒錯の利得 il beneficio perverso は、人が享楽することのできるモードについて、少なくとも一つの理念を少なくとも持つこと avere almeno un'idea に存します。》J.-A. Miller, conferenza teatro Colieso

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フロイト『性理論三篇』再読ノート

2016-10-11 21:30:02 | 精神分析について
1. Lust と Libido

Freud は、Lust という用語と Libido という用語を分けている。Lust には、欲求の感情と充足の感情が割り与えられ、Libido は、ラテン語の羨望や欲望を経由し、人間の性の欲動の根底にある、“心的”エネルギーのようなものとして考えられている。Lust は、「……をしたい」という願望を表現する際にも、快感を享受した時にも使われ、Libido と区別される。 これを先ず、押さえて欲しい。

さて、Lacan の欲望と、欲望の迂回路として私が見立てようとする、前駆快 Vorlust の峻別と考察に着手しよう。

「精神分析を見下しながら、精神分析の理論を軽蔑されておられる方々には、拡張された性という精神分析の概念が、〈神のごとき〉プラトンのエロスの概念とごく近いものであることを思い出していただきたい。」 ——フロイト『性理論三篇』(1905)の1920年版序文

人間の奢りのためにゼウスによって引き裂かれ、昔の半身を求めて恋をするという寓話も、考慮しよう。 そこに、愛の要求と性の目標の倒錯性も読めるのではないか?


2. 性対象倒錯と性目標倒錯

まず、Freud は『性理論三篇』の最初で、“性対象”倒錯と“性目標”倒錯の分類をしている。 Lacan の対象a とアガルマは、フェティッシュとの関連を持つことも付言していい。愛やフェティッシュとしての対象a はリビード的であり、屑や残余としてのそれは、脱リビード化している。

勿論、これは分析の入口や進展において、変化するし、繰り返す。

正常や病理、分類学的な議論は差し控えておくとして、Freud のこの指摘は引用しておいていい。 “幼児の頃にリビードの方向を決定するような体験が存在している”、“こうした体験は、その人物の意識的な記憶にのぼらないとしても、適切な影響を与えて想起させることができる”。

また、倒錯を発達障害として考える議論もあるが、この着想は Freud においても既に確認できる。 “……そして性欲動が発展する際に遭遇する障害こそが問題となる”。対象的な倒錯性と主体的な倒錯性という問題もあるが、ここでは差し控えたい。ただ、この両者は区別できるだろうが、混じり合っていることも指摘できる。


3. 同性愛と発達障害、学問と権威

Freud の論文で、同性愛感情と発達障害の連関が書かれているのは、『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出』である。是非、手にとってみて欲しい。

学問集団の友情や師弟関係も、こういう同性愛と発達障害の問題がある。例えば、そのような内輪での成果はあっても、セクシュアリティはますます枯れている。


学問においても、とりわけ精神分析でも、何故権威は簡単に信じられてしまうのか? そこに、性目標の〔性対象についての〕過大評価がある。

《これを性目標の過大評価と呼ぼう。心的な領域にもこうした過大評価が拡大し、性対象の精神的な能力や完全性についての論理的な幻惑(判断力の低下)をともなうことがあり、その場合には性対象の行う判断を簡単に信じ込んでしまう態度として現れる。愛に基づく信じやすさは、権威の根源的な源泉ではないとしても、その重要な源泉の一つである。》Freud, 1905


4. 性対象と性目標の関係、そして性欲動

面白いのは、性対象を Freud は、途上にあるものであり、〈中途的な〉段階と呼ぶところだ。つまり、性対象は性目標の中途的な段階であり、“先駆的な”性目標であると。 ここに、リビード Libido と前駆快 Vorlust の分岐を見出せる。

そして、性“欲動”の観点から見れば、性対象は性欲動を「代理」しているに過ぎない。 分析家のポジションは、あくまでも性対象である。それは、患者の性欲動を代理する、途上のもの、前駆的なものだろうが、性目標そのものではない。

精神分析は、ある意味で、性倒錯の積極的な利用である。


5. 分離の一般化と汎フェティシズムの病理、資本主義のパラドックス

さて、分離の一般化とセクシュアリティの枯渇という問題にも、先鞭をつけておく。《“性的な過大評価”と結びついたこの現象によって、性目標の放棄が行なわれるからである。》Freud, 1905

これは、性欲動が性対象を拡大しすぎる傾向に関係がある。

正常な人にもフェティシズムはある。だが、これが行き過ぎ、一般化されるとどうなるだろう? 性対象が病的な性目標に置き換わり、特定の人物からは離れ、一般的な性目標になることが起きる。

欲動の観点から言えば、源泉にあるものが目的論化し、逆説的に常に先送りされ、いつまでも到達〔満足〕しない。これは資本主義の究極的なパラドックスでもある。


6. 部分欲動

精神分析が性倒錯の利用であることを先に述べた。部分的であるにせよ、その側面はある。

何故、部分的なのか? それは、少なからず性欲動を何らかの仕方で、置き換え、転換しているからだ。症状において、性欲動の“倒錯的な転換”が見出せる。それは、ヒステリーにおいて顕著だが、症状全般に言える。

部分欲動をどう扱うか? これが、分析の試金石になる。部分欲動の体制とは、いわば倒錯的な体制であり、単一ではなく、複数の体制であることを指摘していい。


7. 依託、自体愛、前駆快

性欲動が、自体愛の前段階で既に、“依託的な”あり方をして作動している。 自体愛は、この“依託的な”あり方を思い出していて、後に独立したものになる。躓きがある場合がほとんどですが、この筋書きは覚えていい。

自体愛が独立するにあたり、以前の“依託的”であった愛のあり方も変化し、“前駆的”な快感に変わるというのはあり得る。


8. 転移愛との関連

転移を形成する論理的な操作が二つある。これを性対象と性目標として考える。

精神分析の知という時に、逆説的に到達不能な知というものが要請される。このこととパラレルなのは、幼児のセクシュアリティに関する知が、潜伏期を下準備するということだ。

自体愛と対象愛を、どう区別するかという問題もある。この移行領域が、転移の力動性と、部分欲動の倒錯性の場でもある。自体愛と対象愛の間の部分欲動(倒錯性)。


転移の設置で完遂しないとならないのは、症状の倒錯性をヒステリー化するということ。 その場合の症状の倒錯性は、サディズム、マゾヒズム、ナルシシズムが混合し、対象選択もフェティッシュとしての性質がある。 正常/病理という線引きは関係なく、これは誰にでもある特色である。

もう少しヒントを言うなら、症状の倒錯性のヒステリー化の二極が、不能と不可能になる。 一方の目標が不能になり、他方の対象が不可能になることで、セクシュアリティの言説〔官能性の場〕が形成される。


9. 精神分析の危機

精神分析が何らかの形で前駆快を利用するのは確かだろう。だが、その利用自体が行き過ぎ、目的論化されると、精神分析は滅ぶ。 日本ではこれが蔓延しつつある。

これを、精神分析の“性目標倒錯化”と仮に呼ぼう。私が常に批判した、文献学への過剰な行き過ぎた固執も、この危険がある。 言うなれば、フェティッシュの行き過ぎたコレクターが、実際の性は禁忌するのに似ている。

まさに、やり過ぎ〔行き過ぎ〕とは何にもならない。


10. 前駆快 Vorlust と 最終快 Endlust

リビードの道筋としての享楽 Jouissance 。この道筋の性別化ないし異化=分化については、また別所にて考察する。

また、リビードが運命的な性格を持つことも、症状において考えられなければならない。



■1923年「幼児の性器体制」(性理論への補遺)からの考察

ある種のセクシュアリティの現実性が希薄な人は、ファルスの優位を幼児期に確立できなかったのではないか? 今更、ファルスの優位? いや、発達段階でこれを経ないなら、去勢の意味も評価できない。彼らは、去勢をことごとく悪しきものとして避ける。

では何故、ファルスの優位を確立出来なかったのか? あるいは、このポジションのみに執拗に固執するのか? これは対象の問題ではない。それに隠れた自我ないしは主体の問題だろう。

自我の脆弱性が原因となり、ファルスの優位の段階を充分に引き受けられなかった。それゆえ、去勢を避け、ファルスを持つことのみにこだわるということはあるかもしれない。

《去勢コンプレックスの意味は、それが男根〔ファロス〕優越の段階において発生したことを考慮にいれない限り、正しく評価できない》Freud, 1923

見たところ、権威や名誉に訴え出る人ほど、この現象が起きるように思える。彼らは、実際の生活でも、退行できるポジションがないなら、不安に駆られるだろう。

普通ならどこかで、親の庇護や既成の権威からの離脱の作業を、苦痛を伴う中で遂行する。だが、彼らの自我は、これを引き受けようとはしない。退行的なポジションの保存が、優先されてしまう。

このことは、ナルシシズム型の対象選択という帰結と密接な関わりがあるのかもしれない。

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転移の格差?

2016-08-20 18:00:37 | 精神分析について
*Twitter に投稿したコメント


分析の入り口であるにせよ、出口であるにせよ、知はそれ以前に無意識に想定されており(そこから転移が生じる)、享楽もリビード的な投資がされている。精神分析は、その無意識の享楽の在り方をダイレクトに変えるから、主体の変化が、何らかの形で生じる。

そういった意味では、分析の始まりは愛に関係するし、終わりでは享楽に関係する。転移を愛と享楽のあいだに見出すのは、適切に思える。

陰性転移においては、主体がその享楽のポジションを変えたがらない、それに相当なリビードが投資されており、断念することができない。それが、憎しみや葛藤、アンビヴァレンスとしての反応を引き起こすと言える。

ただ、その享楽へのこだわりが、現実に見合うかは問われてもいい。


そう考えると、愛と享楽の間に、「転移の格差」が既にあると見なせそうだ。

無意識は、その舞台であり、ドラマでもある。無意識の欲望の主体とは、その現実的なものの切れ目であり、対象とは割り切れなさだ。

そして、何よりもそれを言葉の経験のみを通じて体験するのが、精神分析の核心であり、醍醐味でもある。

精神分析は、何よりもパロールの実践なのだ。


転移の舞台〜Intermezzo〜

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