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per l/a psicoanalisi

-Φ=非の潜勢力「しないでいることができる」こと

2016-01-14 22:03:21 | Essay
さて、“生真面目な”ラカン派は何故「ピエロ」を演じるように命令されてしまうのだろうか? 現在の生権力は勉強会や主体的なグループでも働いているのだと廣瀬浩司氏は言っている。そして、生権力は何よりもわれわれの「しないでいることができる」ことを搾取する旨をアガンベンは指摘していた。

「しないでいることができる」という能力を奪う権力による搾取を具体的に挙げるなら、ラカンを学ぶにはフランス語をしなければならないや、精神分析をするならフランス語とドイツ語をしなければないらないという凝り固まった言説に現れ出ている。

勿論、それは彼らの利益や得になるし、何よりも「しないでいることのできる」力を奪うことによって、人の自由を操ることを可能にしてしまう。(彼らはそれにより「ピエロ」になる。操る者は実は操られてもいる)

簡単に考えよう。もし彼らのその「要求」に従うなら、彼らは必ず優位に立つとは思わないだろうか? そうやって、日本社会にも蔓延る悪しき負の連鎖にまだ彼らは無意識では加担しているわけだ。(残念だが、こうなると精神分析はラカンだろうが、形骸化し腐敗する)

僕はそれを嫌というほど知っているから、自分自身の精神分析の根幹に「非の潜勢力 -Φ」を位置づけた。そして、それはそのような自由を奪い、われわれを貧しくしようとしている“ガキによる”精神分析(もはや反‐精神分析)に「抵抗」することを可能にしてくれる。

精神分析は、愛に学ぶものだしセクシュアリティの問題がその魅力であることは確かだろう。だけど、権力による「しないでいられること」の搾取は、我々のセクシュアリティすら枯渇させてしまう結果になる。(現在の日本を鑑みて見て頂きたい)


つまり、彼らは自己を憎しみと防衛から発達させたわけだ。それで勝つことを覚え始めた。僕は、それを大敗北でしかないと思うし、それから戻るのが大変なのも知っている。

これが、西洋の生政治や人格の問題でもある。反動から発展したものが、それを存続させ、延命させることを目的としてしまう。

歴史を見ても、支配とはまず言語に働きかけるものではなかったか?——残念だが、“生真面目な”ラカン派がしていることの内実は、ヨーロッパの“愚かさの反復”でしかない。

アガンベン『裸性』

2016-01-07 17:27:10 | Agamben アガンベン
——Nudità, Giorgio Agamben (2009)


◆創造と救済

13「しかしながら、創造の行為を救済する権利ならびに義務を持った存在は、創造行為の結果として生じ、創造行為に由来する。序列や尊厳の面で優っているものは、それより劣ったものに源を持つのである。」

14「しかし、創造の行為と袂を分かった批評家は、創造行為にたいする執拗なまでの審判によって、創造行為にたいして仕返しをするのである。」

15「しかし、仕事=作品の序列を決める要因はまたしても、創造と才能の結果ではない。そうではなく、天分と救済によって仕事=作品の上に刻みこまれたしるしの結果こそが、序列を形成する決定的要因である。」

15“このしるしとは文体のことであり、それは創造のうちにあって創造に抵抗し、創造を破壊してしまう、ほとんど逆行的ともいえる力である。”

17《潜勢力が現勢力に先行し現勢力を超えるものであるのと同様、贖いの仕事は創造の仕事に先立つ。》

17〈あらゆる仕事=作品が忘れ去られ、あらゆるしるしと言葉とが判読不可能になるからこそ、救済の仕事のみは消しがたく残るであろうことが、この天使には理解できないのだ。〉

19「ひとつの創造から生まれたものは未決済のままにとどまり、もはや目的も持たずに、ひとつの不可解な救済へとたどりつく。」

◆同時代人とは何か?

23「知性ある人物は、しばしばみずからの時代を憎悪しますが、いずれにせよ自分は決定的にそこに属しており、自分はこの時間から逃れられないのだということをよく承知しています。」

23「特定の時代にあまりにも密着する人たち、あらゆる点において時代と完全に一致してしまう人たちは、同時代人ではありません。」

24「詩人は、同時代人であるがゆえに、この裂け目にほかならず、時間がつながることを阻止する存在であり、また同時に、その断然を縫合するべき血でもあるのです。」

27〈同時代人とは、世紀の光によって目を眩まされるままになるのではなく、影の部分を、その内奥の暗がりを、世紀のなかに識別することができる人物のみをいうのです。〉

36〈……同時代人はまた、時間を分割し内挿することによって、時間を変形させ、さらにほかの時間との関係を作りだし、歴史をいまだ知られざる方法で読むことができる人物でもあるのです。〉

◆K

41〈あらゆる人間は、自分自身にたいして中傷的な訴訟を提訴している。これこそがまさに、カフカの出発点である。〉

42《しかし、なぜKは、なぜあらゆる人間は、自己を誣告し、偽りの自白をするのだろうか。》

◆しないでいられることについて

79《今日の人間は、みずからの力ではなく、みずからの無力に盲目になっている。できることではなく、できないことにたいして、しないでいられることにたいして、盲目になっているのである。》

80《……いまやあらゆる人びとが、順応性という価値に無邪気にも服従しようとしているのだという認識である。市場が各人に、何よりも優先すべき今日の価値として、順応性を要請してくるのである。》

80《こうした無能力=非の潜勢力からの疎外は、何にも増して人間を貧しくし、自由を奪い去る。できることから引き離された人は、それでも抵抗することができるし、しないということができる。それに引き替え、みずからの無能力=非の潜勢力から引き離された人は、まず最初に、抵抗する力を失ってしまう。》

◆ペルソナなきアイデンティティ

90「新たなアイデンティティ、それはペルソナなきアイデンティティであり、その内面では、わたしたちがかつて肌で感じとっていた倫理的な空間が意味を失って、一から再考される必要が生じている。」

93「実際のところ、承認の対象がペルソナではなく数字からかるデータであるとしたら、承認されるとは何を意味しているか。ことによると、わたしを承認してくれているように見える機械の背後には、実にはわたしを承認する気などさらさらなく、わたしをコントロールし糾弾したいだけのほかの人間たちが、なおも潜んでいるのではないか。」

◆裸性

102「要するに、裸と衣服の関連という、表面上は副次的に見える問題が、人間本性と恩寵の関係という、神学的にあらゆる意味で根源的な問題と共鳴しているということである。」

102〈裸をめぐる問題とは、したがって、恩寵との関係における人間本性についての問題なのである。〉

109《つまり、裸にかんしてわたしたちが経験できることはつねに、裸にすることであり、裸にされることであり、それはけっして持続的な形式や所有ではないのである。いずれにせよ、それを把握することは困難であり、それをとめおくことは不可能である。》

111「それゆえ、裸の問題に真剣に取り組もうとするなら、その探求のためには何よりもまず、裸‐衣服、本性‐恩寵という神学的な対立が築き上げた峰を、考古学的にさかのぼっていく必要がある。しかしそれは、両者が分裂するより以前の、起源の状態へとたどりつくためではなく、その分裂を生じさせた装置を理解し、無効化するためである。」

112〈アウグスティヌスにとって欲情 libido とは、罪の帰結を定義づけるテクニカル・タームである。〉

130もはや恩寵の衣服によって

132《堕落とは肉の堕落ではなく、精神の堕落である。つまり、失われた無辜なる状態と裸は、なにがしかのセックスの仕方に関係しているのではなく、認識のヒエラルキーや様態と関係しているのである。》

133「中世の心理学において、認識の媒介を務めるのは、イメージ、ファンタズマ〔表象像〕、あるいはスペキエス〔形象〕である。それゆえ、完全なる認識へといたる過程は、この「ファンタズマ」を少しずつ裸にしていく営為として描写される。」

133《完成された認識とは、裸の状態での、裸にかんする観想なのである。》

134人間の肉体の裸は、人間のイメージであり、

◆天の栄光に浴した肉体

150《天国における同一性の範例とは、今日の警察機構が生体測定の装置をとおして同定しようと努めている物質的等価性ではなく、像=イメージであり、すなわち肉体の、肉体それ自体との類似なのである。》

158“ゾーン・レーテルによれば、ナポリ人にとって、物は利用できない状態に陥ってからはじめて機能しはじめる。”

159《人間が盲目的な自動作用に異議を唱え、機材に対立し、想定された領域や使用法から機械を配置転換することを学ぶやいなや、本当の技術がはじまる。》

160《地上の典礼の唯一の目的は、天上のそれと同様に、信仰の領域において絶えることなく無為をつかまえ、それをより偉大な神の栄光へと〔ad maiorem Dei gloriam〕配置転換することにある。》

162栄光とは、

163「肉体を使用することと、ある目的のために道具のように肉体を利用することとは、じつのところ同じではない。…〔略〕…愛欲や、いわゆる倒錯によってなされることこそが、その新しい使用法となる。」

◆牛のごとき空腹

175「それでは、安息日、仕事、そして無為のあいだの近接性、あるいは相互内在性と呼ぶことすらできそうな関係を、いかに理解すべきであろうか。」

178《「ゼロ度の象徴的価値」を持つこうしたシニフィアンは、祭日によって空っぽにされ無活動へと導かれる人間の活動や事物に相当するだろう。そこに宗教が介入してきて、それら活動や事物を、儀礼的な装置の内部へと分離し再編するのである。》

178-179祭日の無為が、

◆世界の歴史の最終章

181「したがって、うまく気づかないでいられる方法というものがあり、美はその一例である。いやむしろ、うまく気づかないでいられる方法こそまさに、わたしたちが認識できることのランクを決定づけるのであり、認識のない領域の分節こそが、わたしたちのあらゆる知にとって必須条件——そしてまた同時に、試金石——であるとさえいえるであろう。」

182「わたしたちにとってもっとも親密であり滋養に富んだものは、科学や教義の形式ではなく、優美さや証言の形式をとるようになる」