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per l/a psicoanalisi

なぜ私は ius soli についての訴えに署名しなかったか

2018-01-26 07:23:14 | Agamben アガンベン
ius soli
地の法。出生により国籍を付与する法(出生地主義)。フランスやアメリカなどが採用する。反対は「ius sanguinis」(血の法)。
ius sanguinis
血の法。血統により国籍を付与する法(血統主義)。日本やドイツなどが採用する。反対は「ius soli」(地の法)。
こちらのサイトより。訳者による。)



Perché non ho firmato l’appello sullo ius soli

見たところによると、私は ius soli の訴えに署名するつもりはないとはっきり表明したにもかかわらず、私の名前は何らかの方法で不法に挿入されていた。私の拒否の諸々の理由は明らかに、移民たち(その全き重要性と緊急性を把握しつつ)の地位の社会的また経済的問題に関係はないが、国籍の同様の理念には関係ある。自分たちにその起源とその意義さえ問いたださないほど、私たちはこの装置の存在を当然と見做すことに慣れさせられている。誕生の瞬間にある人間存在は誰でも、ある国家の法体系の内に記入され、そしてこの方法で法と、選択されなかった、そしてそこからもはや解かれることのできない一つの国家の政治的システムに従属された状態になるべきであるということは、私たちには明白であるかのように思える。ここでは、私たちにただ近代国家 gli Stati moderni としてのみ馴染みのある、この制度の一つの歴史を描き出すことが問題ではない。これら諸国家は、誕生について人間存在 gli esseri umani のその内部への登記の原則をなす理由で、国民国家 Stati-Nazione とも呼ばれる。既に市民の両親からの誕生 (ius sanguinis) か誕生の場所 (ius soli) かの、どちらがこの登記の手続きに関する基準なのかが重要なのではない。結果はいずれにせよ同じである。一人の人間存在は必然的に、いかなるどの瞬間においても、法-政治的秩序の主体である。国家社会主義ドイツ、イタリア共和国、ファランへ党スペイン、アメリカ合衆国、またどの瞬間でも法を遵守し、相応する権利と義務を受け取るべきだろう。
私は完全に、無国籍者 apatride または移民の要件は避けられえない一つの問題であると納得するが、国籍は最良の解決であるとは確信がない。いずれにせよそれ〔国籍〕は、満足でき共有すべき一つの善である何かとして、私には最良ではありえない。もし可能なら(だがそれは可能ではない)、固有の国籍を公然と捨てることを促す訴えには喜んで署名しよう。詩人の言葉によれば、“祖国は我々全てが異邦人〔外国人〕である時だろう”。

Giorgio Agamben
2017年10月18日

何が残るのか? Che cosa resta?

2018-01-20 19:14:33 | Agamben アガンベン
Che cosa resta?

1.
《私は未来において不信を抱いているので、過去に向かってのみ計画を立てる》。Flaiano—その台詞が極めて真剣に取られるべきである文筆家—のこのフレーズは、省察する価値のある一つの真理を含む。(危機としての)未来は事実今日、権力の諸装置の最も主要で実効的なものの一つである。威嚇的なおぞましいこと(貧困化と終末論的カタストロフィ)として、または(うんざりさせる進歩主義にあるよう)輝く将来として、それが動揺させられるように、いずれにしても、私たちがただそれについての私たちの諸行動と私たちの諸思考を導く理念を通過させることが問題である。つまり、何が私たちに過去を放置させるのだろう。その過去は取り替えられることができなく、またしたがって役には立たない—あるいは、せいぜい博物館に保存すべき—そして、現在にある時はいつも、それについてただどれだけ未来を準備することに役立つかという程度で私たちは関心がある。次のこと以上に間違いはない:私たちが何らかの確実さを伴い所有し、知ることのできる唯一のことは過去であり、ところが一方、現在は定義的には掴むことが難しく、また(存在しない)未来はどのいかさま師によっても完全にでっち上げられうる。公的領域において同様、私的な生においても、私たちに未来を提供する者をあなた方は信用しない〔警戒する〕。この者は殆どいつも私たちを罠に嵌め、あるいは私たちを欺く。Ivan Illich は、《何かがあることまた何かがあったことを考えようと私が努めることを経由する諸概念を、未来の影の上に基づかせることを私は決して許さないだろう》と書いた。また、Benjamin は記憶 il ricordo(それは不動のアーカイヴとしての追憶 la memoria とは異なる何かである)の中で、私たちが過去の上に実際に作用し、私たちはそれを何らかの仕方で新たに可能にすると述べた。Flaiano はそうして、私たちに過去の上に計画を立てることを示唆することで、理があった。唯一、過去についての考古学的探求のみが私たちを現在に近づくことを可能にし、反対に、ただ未来に向けられた眼差しは、私たちの過去と共に、私たちから現在をも奪う。


2.
ある薬局に入り、緊急に必要な薬を尋ねることをあなた方は想像する。薬剤師があなた方に、あの薬が三ヶ月前に作られ、したがって利用可能ではないと返答するとしたら、あなた方はどうするだろう? 正に、書店に入りながら今日生じることである。本屋市場は今日、その中で流通が本が書店において最も少なく可能(時に一ヶ月以下)に維持することを要求する一つの Assurdistan [Absurdistan(*)] になった。結果として、同じ編集者がそれらの販売を—もしそれらがあれば—短い期限で取り尽くすべき本をプログラムし、その期間内に続くことができるカタログを構成することを断念する。このため、私—良き読者がいると純粋に信じる—は、ある書店に入りながらいつも、より居心地の悪さを覚える。(もちろん例外はある)陳列台がただ新刊のみにより占められている場所と私が根本的に必要だった薬(つまり本)を見つけることがいつも、より稀にできる場所。もし、本屋と編集者がこのシステムに反抗しないなら、大きな配給業者たちにより課せられたかなりの部分で、本屋が消え失せることは驚くに値しないだろう。これらがそのままなら、私たちは嘆くことさえできない。

(*)訳注…Absutdistan:(informal) Any country where absurdity is the norm, especially in its public authorities and government.


3.
Nicola Chiaromonte はかつて、私たちが私たちの生を考察する時の根本的な問いは、かつて何を持ったかまたは持たなかった以外ではなく、だがそれから何が残るのかと書いた。ある生に何が残るのか—しかしまた、そして始めにも—私たちの世界に何が残るのか、人間に、詩に、芸術に、宗教に、政治に何が残るのか? 今日、このような緊急のこれらのリアリティに関与することに慣れたこれら全てのことは姿を消しつつあり、あるいはいずれにせよ見分けがつなかくなるまで姿を変えつつある。《そこで生まれ育ったドイツのあなたにとって何が残るのか?》と彼女に尋ねたインタビュアーに、Hannah Arendt は《言語 la lingua が残る》と返答する。しかし、残りのものとしての言語(それについての表現だった世界に生き残る言語)とは何か? また、そこにただ言語が残るなら、そこに何が残るのか? 言うべきことをもはや何も持たないかのように見える、また、しかしながら、執拗に残り抵抗し、そこから私たちが私たちを分離できない言語? それは詩である、と答えよう。実際、もし一つずつ伝わりやすく情報を提供する通常の諸機能が不活性化にされた後に、言語について残ることでないなら、詩とは何だろう? Ingeborg Bachmann が私にかつて、肉屋に行き、そして彼〔肉屋〕に《私に薄切り肉1キロを下さい》と尋ねることはできなかったと言ったことを覚えている。詩の言語はより純粋な言語であり、それが私たちが肉屋で使う言語の、あるいは他の人たちにとって日常の諸用法の言語の彼岸に見つかると彼が言いたかったと私は思わない。むしろ詩の言語は、残り、そして各々のペテン〔陰謀〕また各々の腐敗〔退廃〕に抵抗する破壊できないもの、SMS や tweet でそれを使う用法の後にも残る言語、誰かが人間は限りなく破壊されうる破壊不可能なもの l'indistruttibile であると書いた通り、限りなく破壊されうるが、しかしながら留まる言語であると私は思う。この残る言語、この詩の言語—哲学の言語でもある、と私は信じる—は、言語の中での、言わない non dice こと、しかし呼びかける chiama ことに関係がある。つまり、名を伴う。詩と思考は名の方へ言語を横切り、言語のそのエレメントの名は語らず、知らせない。それは何かについて何かを言わず、しかし名指し、そして呼びかける。Italo Calvino が彼の《精神的証言 testamento spirituale》として捧げるのが常であったある短いテクストは、切断され殆ど息を切らしているフレーズの一連でもって終わる。《記憶のテーマ—失われた記憶—保存することと失われた失うこと—持たれなかったこと—遅れて持たれたこと—私たちに後ろにもたらされること—私たちに属さないこと…》。詩の言語、残り呼びかける言語は、当に失われたことを呼びかけると私は思う。集団の生同様に個人の生においても、失われた諸物(最も最後の消費、毎日私たちが忘れる知覚できない出来事)は、どのアーカイヴそしてどの記憶もそれらを含むことはできないように破壊されることを、あなた方は知っている。残るそれ、破壊から私たちが救う言語と生のその部分は、ただもし親しく失われたことに関係するなら、もしそのことのために何らかの様態にあるなら、もし名によってそれを呼び、そしてその名において応えるなら、意味を持つ。詩の言語、残る言語は失われたことに呼びかける所以、親しく大切であるとわかる。失われていること故に、神に属する。


これらのノートは、2017年5月20日・トリノの il Salone del libro〔本の展覧会〕への参加の傍らに刊行する。

Giorgio Agamben
2017年6月13日

『言語活動の秘蹟——宣誓の考古学』の紹介

2018-01-19 15:29:48 | Agamben アガンベン
以下に付せられた数字は、紹介の便宜上の為の区切りであり、実際の著作に付せられている番号とは違うことを明記しておく。


■1

アガンベンの『言語活動の秘蹟—宣誓の考古学 Il sacramento del linguaggio - Archeologia del giuramento』(2008, Editori Laterza) は、話す存在としての人間と権力の秘蹟の問題を、言語活動の観点から考察する試みになる模様だ。Homo Sacer シリーズの II-3 に位置する。

端的に言えば、人間が人間になる人類学的な起源に、アガンベンは宣誓の言語活動的な問題と、権力の秘蹟を見とっていると言える。


«Il giuramento sembra dunque essere un atto linguistico inteso a confermare una proposizione significante (un dictum), di cui garantisce la verità o l'effettualità.» (p.9)

「宣誓は要するに、真理と実効性を保証する、シニフィアン的な命題 (dictum) を確実にすることを意図した、ある言語学的な行為であるように思える。」


デリダの『嘘の歴史 序説』も訳されているのだがら、アガンベンの『言語活動の秘蹟——宣誓の考古学』も翻訳されていい。というのも、アガンベンも嘘 menzogna と宣誓 giuramento を対比させているところもある。あるいは、儀式的な間違い errore 。つまり、「言語活動に本来的に備わる嘘の可能性 la possibilità della menzogna inerente al linguaggio」からの回復として宣誓は考えられうるだろうと。

だが、どうだろう?

“il giuramento sembra implicare costitutivamente la possibilità dello spergiuro, ed essere destinato paradossalmente [...] non a impedire la menzogna, ma a combattere gli spergiuri.” (pp.10-11)

“宣誓は構成的に偽証の可能性を巻き込んでいるように思われ、また逆説的に、嘘を阻止するのではなく、偽証と対抗する方に運命づけられているように思われる。”

«Il giuramento non costituisce in alcun modo un rimedio contro il “flagello indoeuropeo”: piuttosto il flagello stesso è contenuto al suo interno nella forma dello spergiuro.» (p.11)

「宣誓はいかなる仕方においても“インド・ヨーロッパ的な災い”に対する解決策を構成しない。むしろ、災いそれ自体は偽証の形態の内部に含まれている。」

アガンベンが何故ここで、“インド・ヨーロッパ的な災い flagello indoeuropeo”というかについては、前述に、口頭契約の崩壊や引き受けられた義務の拒否や否認という問題について、Georges Dumézil を参照にしている。つまり、インド・ヨーロッパ社会の“機能上の災い flagelli funzionali”として、社会形態が脅かされる事態を引っ張ってきている。宣誓がこのような災いの解決策としてあるわけではなく、災いそれ自体が偽証の形態に含まれているという指摘は、別段インド・ヨーロッパ語族に限って読む必要はないだろう。差し当たっては、広くニーチェ的な文脈を含意していると読みたい。直接ニーチェを言及してはいないが、続いて“話す動物 animali parlanti”という言葉も出てくる。


■2

神の言葉と宣誓、名についてもアガンベンは分析している。ちなみにだが、宣誓とは言葉と行為の結節点にある問題だろう。何かを誓うにせよ、それを偽るにせよ。我々は誓う時、あるいは誓いを偽る時、何に対してそれを行うのか? そこに名の問題がある。

そう考えるなら、名声にも偽りが忍び寄ることは多々あるし、そのことについては枚挙に暇がない。もし、言語に神聖さの問題があるなら、それは宣誓の秘儀と試練に掛けられているからだろう。もしあなたが神に賭けるのなら馬鹿げている。あなたは神の名に賭けるはずだ。あなたの宣誓が神を保証することはない。神の側が人間の宣誓を保証し、名がそれを担保するのだ。だからもし、あなたがある宣誓を裏切り、欺くことにでもなれば、それは神の名において問われることになる。宣誓とは当にその意味で、言語活動と行為を試練に賭ける問いがある。

このことをアガンベンは、フィロンを引くことで考える。例えば、孫引きになるが、“Dio non è credibile a causa del giuramento, ma il giuramento è sicuro a causa di Dio.”(宣誓のおかげで神が信じられうるのではなく、神のおかげで宣誓が確証される。)

数ページ後にはキケロも引きながら、こう述べる。

«La fide è, cioè, essenzialmente la corrispondenza fra il linguaggio e le azioni.» (p.32)

「即ち、信用は根本的に言語活動と諸行為とのあいだの一致である。」


■3

以前訳したコラムに pistes / fides の問題があったが、丁度この『言語活動の秘蹟』にも頻出し、言及されている。それぞれ、ギリシア語とラテン語だが、これら信用の紐帯に、言語活動と行為、法、権力、宗教さえも読み込むあたりが、アガンベンらしい。先に訳したコラムでは、そのような信用が資本主義という最も残忍な宗教によって、食い散らかされていることを警告するものだった。

«Con la “fides”, esattamente come col giuramento, ci troviamo, cioè, in una sfera in cui il problema della relazione genetica fra religione e diritto è da riprendere su nuove basi.» (p.37)

「“fides”により、正に宣誓によるように、私たちはつまり、宗教と法学のあいだの創生的関係が、新しい諸基礎の上に再び取り上げるべきである問題の領域に出会う。」

«È possibile, semmai, che abbiamo qui a che fare con una sfera del linguaggio che sta al di qua del diritto e della religione e che il giuramento rappresenti appunto la soglia attraverso la quale il linguaggio entra nel diritto e nella “religio”.» (p.39)


■4

«Il giuramento sembra, dunque, risultare dalla congiunzione di tre elementi: un'affermazione, l'invocazione degli dèi a testimoni, e una maledizione rivolta allo spergiuro.» (p.43)

「従って、宣誓は三つの要素の結合から帰結するように思える。断言、証言への神々の呼びかけ、偽証へ向けられた呪詛。」

アガンベンは、宣誓を分析するには、呪詛との関係の問題に向き合うべきことを特筆している。裏を返せば、今迄の学者は、それ(呪詛)に配慮を欠いていた。


呪詛 la maledizione も極めて“政治的”宗教の問題である。

«Non soltanto il giuramento, ma anche la maledizione - in questo senso essa è detta a ragione “politica” - funziona come un vero e proprio “sacramento del potere”.» (p.52)

「宣誓のみならず呪詛も—この意味においてそれは正当にも“政治的”と呼ばれる—真で固有の“権力の秘蹟”として機能する。」

この主張は、『Profanazioni 涜聖=涜神』(2005, Nottetempo) の頃から一貫している。


■5

冒涜における間投詞の本質についての示唆。

«Benveniste sottolinea, inoltre, la natura di interiezione propria della bestemmia, che, come tale, non comunica alcun messaggio» (p.55)

Benveniste が Freud を紹介する行。(アガンベンによる引用)

“L'interdizione del nome di Dio serve a reprimere uno dei desideri più intensi dell'uomo: quello di profanare il sacro. È noto che il sacro ispira condotte ambivalenti.” (Benveniste)

“神の名の禁止は、人間のより緊張した欲望の一つを抑圧することに役立つ。それは、聖なるものを冒涜する欲望である。聖なるものはアンビヴァレンツな態度を生じさせることは周知である。”(バンヴェニスト)


«La bestemmia è un giuramento, in cui il nome di dio è estratto dal contesto assertorio o promissorio e viene proferito in sé, a vuoto, indipendentemente da un contenuto semantico.» (p.56)

「冒涜は、そこにおいて神の名が断言的あるいは約束的なコンテクストから締め出され、意味論的な内容から独立して、虚しく自身において発せられるべきである、一つの宣誓である。」


これで、象徴界が穴だというラカンの晩年の問いも、発話と神の名を巡るものであることが明らかになった。つまり、パロールにおける名の排除(締め出し)が、抑圧の一つの形態であるということは、フロイトを考慮しても否定できない。それが忘却であろうと。

ランガージュからの排除とパロールにおける排除は、区別できるとしても。

アガンベンの場合、宣誓と冒涜が真理とパロール、事物との連結や破壊との関連でも問われている。bene-dizione と male-dizione(祝福=恵み=良く-言うことと、呪詛=不運=悪く-言うこと)。

つまり、宣誓において名はパロールと事物のあいだの繋がりを表現し保証し、真実性とロゴスの力を定義する。逆に呪詛においては、この繋がりの破壊と人間の言語活動の無益を表現する。両者とも、言語活動の同じ出来事において共通の起源として巻き込まれている。


«Nel giudaismo e nel cristianesimo la bestemmia è legata al comandamento di “non nominare il nome di Dio in vano” (che, in Ex. 20, significativamente segue quello che vieta di farsi degli idoli).» (p.56)

《ユダヤ教またキリスト教において冒涜の言葉は“無駄に神の名を口にしないこと”の戒律に結びつく(そのことは、『出エジプト記』第20章において意味深くも偶像を作らせることの禁止に続く)。》

«Man mano che si perde la consapevolezza del l'efficacia della pronuncia del nome divino, quella forma originaria della bestemmia che è il preferirlo a vuoto passa in second'ordine rispetto al pro ferimento di ingiurie o falsità su Dio.» (p.57)

«Da “male dicere de deo”, la bestemmia diventa così “mala dicere de deo”.» (p.57)

要するに、罵倒ないし冒涜は、神の名前の裏返しなようだ。神聖さを貶めることは、神聖な神の名(の禁止)と結び付く。

«Si tratta, cioè, di un gesto simmetricamente opposto a quello della bestemmia, che estrae invece il nome di Dio dal contesto del giuramento.» (p.58)

「つまり、宣誓のコンテクストからそれに反し神の名を引き出す、冒涜の身振りに対称的に対置されるそれ〔身振り〕が問題である。」


■6

«Diventa più agevole comprendere, su queste basi, la funzione dell'imprecazione nel giuramento e, insieme, la stretta relazione che la lega alla bestemmia. Ciò che la maledizione sancisce il venire meno della corrispondenza fra le parole e le cose che è in questione nel giuramento.» p.58

«È dal giuramento 〜〜 le sue frazioni.» p.59

«Ogni nominazione, ogni atto di parola è, in questo senso, un giuramento, in qui “logos” (il parlante nel “logos”) s'impegna ad adempiere la sua parola, giura sulla sua veridicità, sulla corrispondenza fra parole e cose che in esso si realizza. E il nome del Dio non è che il sigillo di questa forza del “logos” - o, nel caso in qui essa venga meno nello spergiuro, della male-dizione che è stata così posta in essere.» p.63


«Nominazione e denotazione (o, come vedremo, aspetto assertorio e aspetto veridizionale del linguaggio) sono in origine inseparabile.» p.64

«Gli insulti funzionano, cioè, piuttosto come delle esclamazioni o dei nomi propri che come termini predicativi e, con questo, mostrano la loro somiglianza con la bestemmia» pp.65-66

«...si afferma che il soggetto è identico all'attributo.» p.70

«Pronunciare il nome di Dio significa, cioè, comprenderlo come quell'esperienza di linguaggio in cui è impossibile separare il nome e l'essere, le parole e la cosa.» p.71

«Il significato del nome di Dio non ha, cioè, alcun contenuto semantico o, meglio, sospende e mette fra parentesi ogni significato per affermare attraverso una pura esperienza di parola una pura e nuda esistenza.» pp.72-73

«Col “logos” sono dati insieme - cooriginariamente, ma in moda tale che non possono mai coincidere perfettamente - nomi e discorso, verità e menzogna, esistenza e non esistenza del mondo, essere e nulla.» p.77


■8

«Asserzione e veridizione definiscono, cioè, i due aspetti cooriginari del logos.» (p.78)

「断言と真言〔真理を言うこと〕はつまり、ロゴスの共起源的な二つのアスペクトを定義する。」

«...perché il soggetto locutore non preesiste né si lega successivamente a essa [veridizione], ma coincide integralmente con l'atto di parola.» (p.79)

「何故なら、話す主体は真理を言うことに先立って存在しないし、それに連続的に結ばれてもおらず、だが言語行為と完全に同時に起こる。」

«La logica, che veglia sull'uso corretto del linguaggio in quanto asserzione, nasce quando la verità del giuramento è ormai tramontata.» (p.81)

「断言としての言語活動の正しい使用に注意を払う論理学は、もはや宣誓の真理がいつ消えたかを隠す。」

«Nominare, dar nome, è la forma originaria del comando.» (p.87)

「命名すること(名を与えること)は、命令の起源的形態である。」


■9

«Ogni nominazione è, infatti, duplice: è benedizione o maledizione.» (p.95)

«L'età dell'eclissi del giuramento è anche l'età della bestemmia, in cui il nome di Dio esce dal suo nesso vivente con la lingua e può soltanto essere proferito “in vano”.» (p.97)

『火と物語』からの抄訳

2018-01-15 16:47:25 | Agamben アガンベン
『火と物語 Il fuoco e il racconto』(2014, nottetempo) 所収の論考から紹介用に試訳したものを残しておきます。〔簡単な注釈も含む〕


■「火と物語 Il fuoco e il racconto」

«Ogni racconto - tutta la letteratura - è, in questo senso, memoria della perdita del fuoco.» (p.9)

「それぞれの物語—あらゆる文学—は、この意味において、火の喪失の記憶である。」

«L'elemento in cui il mistero dilegua e si perde è la storia.» (p.10)

「その中で神秘が消え去り喪失されるエレメントは歴史である。」

«I generi letterari sono le piaghe che l'oblio del mistero scalfisce sulla lingua: tragedia ed elegia, inno e commedia non sono che i modi in cui la lingua piange il suo perduto rapporto col fuoco. Di queste ferite gli scrittori non sembrano oggi avvedersi.» (p.13)

«Dove c'è racconto, il fuoco si è spento, dove c'è mistero, non ci può essere storia.» (p.14)

「物語のある場所では火は消失して、神秘のある場所では歴史は存在しえない。」



■「寓話と王国 Parabola e Regno」

«Chi si ostina a mantenere la distinzione fra realtà e parabola non ha capito il senso della parabola. Diventare parabola significa comprendere che non vi è più differenza fra la parola del Regno e il Regno, fra il discorso è la realtà.» (p.35)

「リアリティと寓話のあいだの区別を保持することに固執する者は、寓話の意味を理解しなかった。寓話になる〔変わる〕ことは、王国の言葉と王国のあいだに、言説とリアリティのあいだにもはや違いはないことを了解することである。」

«Per chi si fa parola e parabola - la derivazione etimologica mostra qui tutta la sua verità - il Regno è così vicino, che può essere afferrato senza “andare al di là”.» (p.35)

「言葉と寓話になる者にとって—語源学的な起源はここにその真理を示す—王国は、“彼岸に向かうこと”なしに据えられることができるほどに近い。」

«Il senso letterale e il senso mistico non sono due sensi separati, ma omologhi: il senso mistico non è che l'innalzarsi della lettera oltre il senso logico, il suo trasfigurare nella comprensione - cioè, la cessazione di ogni senso ulteriore. Capire la lettera, diventare parabola significa lasciare che in essa avvenga il Regno.» (pp.36-37)

「文字通りの意味と神秘的な意味は切り離された二つの意味ではなく、ホモロジーである。神秘的意味は、その論理的意味を越えて文字を高めること、理解〔内包〕におけるその変容—即ち、あらゆる彼岸の意味の中断以外ではない。文字を理解すること、寓話になることは、その中に王国を到来させることを意味する。」

«La parabola parla “come Regno non fossimo”, ma proprio e soltanto in questo modo essa ci apre la porta del Regno.» (p.37)

「寓話は“王国はかつてなかったかのように”話し、しかしこの方法においてのみ当に、それ〔寓話〕は王国の扉を私たちに開く。」

«Parabolare è semplicemente parlare: Marana tha, “Signore, vieni”.»


■「創造行為とは何か? Che cos'è l'atto di creazione?」

«Possiamo ora comprendere in modo nuovo la relazione fra creazione e resistenza di cui parlava Deleuze. Vi è, in ogni atto di creazione, qualcosa che resiste e si oppone all'espressione.» (p.46)

「われわれは今や新たな方法で、ドゥルーズがそれについて語った創造と抵抗の関係を了解できる。各々の創造行為において、抵抗し表現に反対する何かがある。」

つまり、アガンベンはドゥルーズの創造と抵抗の問題の中に、行為に向かう運動の中で非の潜勢力 la potenza-di-non に留まる何かを、アリストテレスを介して見出している。

«Chi manca di gusto non riesce ad astenersi da qualcosa, la mancanza di gusto è sempre un non poter non fare.» (p.48)

「様式 gusto を欠いた人は何かを控えることができず、様式の欠如はつねに、しないことができないことである。」

«Che cos'è una inoperosità che consiste nel contemplare la propria potenza di agire?» (p.58)

「実行する固有の潜勢力を観想しながら構成する無為とは何か?」

«Spinoza ha difinito l'essenza di ogni cosa come il desiderio, il conatus di perseverare nel proprio essere.» (p.60)

「スピノザは欲望(固有の存在において固執するコナトゥス)としてあらゆる事物の本質を定義した。」

欲望、抵抗、コナトゥス→無為。あまり図式的に言うのはよくないが。余談だが、アガンベンは別所でではあるが(『哲学とは何か』参照)、スピノザのコナトゥスを「要請 l'esigenza」と解釈し訳すべきであるといった見解を示している。


■「読むことの困難さについて Sulla difficoltà di leggere」

«L'esigenza è un concetto molto interessante, che non si riferisce all'ambito dei fatti, ma a una sfera superiore e più decisiva, la cui natura lascio a ciascuno di voi precisare.» (p.84)

「要請は、諸事実の領域を参照しないで、しかし上位でより決定的な領域〔私はその自然をあなた方それぞれに決定させるがままにする〕を参照する、とても興味深い概念である。」

«Ma allora vorrei dare un consiglio agli editori e a coloro che si occupano di libri: smettetela di guardare alle infami, sí, infami classifiche dei libri più venduti e - si presume - più letti e provate a costruire invece nella nostra mente una classifica dei libri che esigono di essere letti.» (p.84)

「だがここで出版社や本に携わる人に一つ忠告をしたい。より売れ、また—そう推測される—より読まれる本の分類的な裏切り、そう、裏切りを重視するのは辞め、その代わりに、あなた方の教養に読まれることを要請する本の分類を構築するよう努めるように。」


■「本からスクリーンへ。本の以前と以後 Dal libro allo schermo. Il prima e il dopo del libro」

«Ciò implica una trasformazione decisiva nel modo di concepire l'identità dell'opera. Nessuna delle varie visioni è il “testo”, perché questo si presenta come un processo temporale potenzialmente infinito - tanto verso il passato, del quale include ogni schizzo, stesura e frammento, che verso il futuro - la cui interruzione in un certo punto della sua storia, per vicende biografiche o per decisione dell'autore, è puramente contingente.» (pp.92-93)

「このことは作品の同一性を概念化する仕方において決定的なある変容を含む。どの様々なヴァージョンの中にも“テクスト”はない。何故なら、—未来同様に、それぞれの草案、草稿や断片を含むその過去を通じて—、潜在的に無限な時間的な経過として現れるからであり、その歴史のある地点におけるその中断は、伝記的な諸推移によって、もしくは作者の決定によって、全く偶然的である。」

«La cesura, che pone fine alla stesura dell'opera, non le conferisce uno statuto privilegiato di compiutezza: essa significa soltanto che l'opera si dice finita quando, attraverso l'interruzione o l'abbandono, si costituisce come un frammento di un processo creativo potenzialmente infinito, rispetto al quale l'opera cosiddetta compiuta non si distingue se non accidentalmente da quella incompiuta,» (p.93)

「作品の草稿を終わらせる中間休止は、それら〔様々なヴァージョン〕に完全さの特権的な地位を授けない。それらは、中断もしくは放棄を通して、潜在的に限りない創造的プロセスの断片として構築される時に、作品は仕上げられたと言われることをただ意味し、それらに関していわゆる完全な作品は、不完全なそれらから偶然的である以外に区別されない。」

«Se questo è vero, se ogni opera è essenzialmente frammento, sarà lecito parlare non soltanto di un “prima”, ma anche di un “dopo” del libro, altrettanto problematico, ma ancor meno studiato di quello.» (p.93)

「もしこのことが真なら、それぞれの作品は根本的に断片である時に、本の“以前”のみならず、〔同様に問題的であるが、まだそれに関して研究されていない〕“以後”について語るのが適当だろう。」

«Il paradigma teologico della creazione divina mostra qui la sua altra faccia, secondo la quale la creazione non si è compiuta nel sesto giorno, ma continua infinitamente, perché se Dio cessasse un solo istante di creare il mondo, esso si distruggerebbe.» (p.95)

「神聖な創造の神学的パラダイムはここでその別の面を示し、このことによれば創造は第六日目において完成されなかったが、しかし無限に続き、何故ならもし神が世界を創造する唯一の瞬間を中断するなら、それは消滅するであろうから。」

«La coincidenza fra opera compiuto e opera non-finita è qui assoluta: l'autore scrive un libro in forma di edizione critica di un libro incompiuto. E non solo il testo incompiuto diventa indiscernibile da quello compiuto, ma anche, con una singolare contrazione dei tempi, l'autore si identifica col filologo che dovrebbe darne l'edizione postuma.» (p.96)

「完成された作品と終わらない作品とのあいだの一致はこの点で絶対的である。作者は、未完成の本の批判的版〔エディッション〕の形をした本を書く。そして未完成のテクストが完成したそれから見分けがつかなくなるのみならず、しかし、諸時間のある特異な収縮によって、作者は死後の版をそれに与えるだろう文献学者と一体化する。」


«E, tuttavia, è solo in relazione a quest'opera non scritta che i frammenti pubblicati acquistano - anche se soltanto ironicamente - il loro senso.» (p.97)

「しかしながら、また公表された諸断片が—またもしただ皮肉にも—それらの意味を獲得するのは、書かれていないこの作品に関してのみである。」


«Il “libro” è ciò che non ha luogo né nel libro né nel mondo e, per questo, deve distruggere il mondo e se stesso.» (p.104)

「その“本”は本においても世界においても生ぜず〔場を持たず〕また、このために、世界とそれ自身を打ち砕くに違いない。」


«Il tempo della lettura riproduceva in qualche modo l'esperienza del tempo della vita e del cosmo e sfogliare un libro non era la stessa cosa che svolgere il rotolo del "volumen".» (p.106)

「読書の時間は何らかの方法で生と宇宙の時間の経験を再現していて、本をめくることは volumen〔巻〕の円筒を解く同様なことではなかった。」

«Aristotele, nel suo trattato sull'anima, aveva paragonato la potenza del pensiero a una tavoletta per scrivere su cui nulla è ancora scritto e tutto può essere scritto.»

「アリストテレスは、アニマについての彼の学術論文の中で、思考の潜勢力をその上にまだ何も書かれてなく、また全てが書かれうる筆記用の小板に例えていた。」

«Il tacito presupposto è che materiale e virtuale designino due dimensioni opposte e che virtuale sia sinonimo di immateriale. Entrambi queste presupposizioni sono, se non completamente false, almeno assai imprecisa.» (p.108)

*p.108-途中