*読んでTwitterに載せたものをこちらにも移しておきます。
数少ないアガンベンの入門書ですが大変優れているように思いました。いきなり入るのが難しい方は、岡田温司『アガンベン読解』を先に読み、何冊かアガンベンの著作を読んだ後、整理や位置付けに使うといいかもしれません。
■「言語が生起しているという当のことを据えることを可能にしてくれる窮極のシフターとしての〈声〉は、あらゆる存在-論の休らう否定的基礎として、あらゆる否定の支えとなる原初的否定性として現れる」Agamben, 1982
“言語の核心において否定性に出会うということは、現代の政治生活の空虚な隠語を引き剥がすプロセスとなる。そのプロセスはまた、言語が生起しているという当のことを提示することによって、またという根本的否定性を超えた先の空間を見いだそうと企てることによって、そのような空虚な隠語を暴露するプロセスでもある。”Alex Murray
■「共同体は、ブランショが無為 désœuvrement と呼んだものにおいて必然的に生起する[……]。共同体は特異性が中断されることによってできている。もしくは、特異な存在たちが宙吊りであって、共同体は、その宙吊りによってできている。共同体はそれらの者たちの働きではないし、共同体がそれらの者たちを自らの働きとしているわけでもない。ましてや交流が一つの働きであるわけでもなく、交流は特異な存在たちのなす作用でさえない[……]。交流とは、社会的、経済的、技術的、制度的な働きの働かなくなることである。」Jean-Luc Nancy
「…けっして現勢力へと移行することなく内在を保持する無為というものが重要とされているという点には留意しておくべきである。」Alex Murray
《他の生きものに可能なのは種的潜勢力だけである。それらはたた、これこれやしかじかをなすことができるだけである。だが、人間は自らの非の潜勢力が可能な動物である。人間の潜勢力の偉大さは、その非の潜勢力の深淵によって計り知られる。》Agamben, 1999 b
*「アガンベンによれば、「だれかれの特異性」は、「言語活動のうちにある自体的な存在」という点においてのみ結びついているのであり、その他の「あらゆる帰属の同一性と条件を拒否する」。真に共有されるのは現勢力ではなくて潜勢力である。」——岡田温司『アガンベン読解』p118
〈アガンベンは、潜勢力は「到来する共同体」の核心にあると指摘している。彼の示唆している非アイデンティティという形式は、現代の諸逆説のなかから立ち現れうるものである。〉Alex Murray
■《最も価値ある政治的行動とは、支配的な権力言語をないものとすることにもとづいた政治的行動である。……支配的な権力言語を打ち破るこのプロセスは、到来する共同体へと向かう道を提示するにあたって決定的である。》Alex Murray
「聖性は、現代政治においてつねに現前している逃げ道であって、その逃げ道はますます広大で不明瞭になっていく地帯へと向かい、ついには市民の生物学的な生自体と一致しようとしている。」Agamben, Homo Sacer
「だが、本当に政治的と言えるのは、暴力と法権利の結びつきを断ち切るあの活動だけなのである。」Agamben, Stato di eccezione
■「制作することがこれこれの目的のための手段であり、行為することが手段のない目的であるとすると、身振りは、道徳を麻痺させている、目的と手段のなす誤った二者択一を打ち壊す。それは、手段性の領域を“手段であることで”免れ、それゆえに目的になってしまうわけでもないような諸手段を提示する」Agamben, Mezzi senza fine (1996)
《身振りとはこれこれの手段性を露呈させること、手段としての手段を見えるようにすることである》Agamben, Mezzi senza fine (1996)
「身振りへと向かうにあたって鍵となるのは、アイデンティティが示す偽の全体性からの控除、単一性としてのイメージの虚偽性からの控除という理念である。」Alex Murray
■「農夫の態度はすべて、門の閉鎖を獲得し、それによって意味のない効力を中断しようとする複雑な戦略に他ならなかったと私たちは想像することができる」Agamben, La potenza del pensiero (2005)
“この戦略は、彼の無為の政治の地平を構成するように思われるメシア的任務にとって、きわめて重要な要素である。”Alex Murray
“法は、私たちが法の存在を信ずるかぎりにおいて存在する——境界が機能し続けるのは、私たち(城の代務者)が境界を尊重し続けるからである。”Alex Murray
■「メシアはすでに到着している。メシア的出来事はすでに完了している。だが、その現前は自らの内部にそれとは別の時間を含んでいる。その時間はメシアの臨在を引き伸ばすが、それは臨在を遅らすためではない。それどころか、それは臨在を据えうるものとするためなのである。」Agamben 2000
「だが、この“かつて一度も存在しなかった”ということこそが、人類の故郷——歴史的な故郷にして、かつ全面的にアクチュアルな故郷——である。」Agamben 2005 a
「現代的であるとは、この意味では、これまで私たちの来たことがない現在へと回帰するということを意味する」Agamben 2009 a
■「そのようなインファンティアがあるという事実、つまり言語の超越論的限界としての経験があるという事実こそが、言語が言語自体を全体性や真理として提示できるという可能性を排除する」Agamben, 1978 [2001]
《インファンティアは、一方のラングと他方のディスクール・パロールとの分裂を基礎づけである。》Alex Murray
数少ないアガンベンの入門書ですが大変優れているように思いました。いきなり入るのが難しい方は、岡田温司『アガンベン読解』を先に読み、何冊かアガンベンの著作を読んだ後、整理や位置付けに使うといいかもしれません。
■「言語が生起しているという当のことを据えることを可能にしてくれる窮極のシフターとしての〈声〉は、あらゆる存在-論の休らう否定的基礎として、あらゆる否定の支えとなる原初的否定性として現れる」Agamben, 1982
“言語の核心において否定性に出会うということは、現代の政治生活の空虚な隠語を引き剥がすプロセスとなる。そのプロセスはまた、言語が生起しているという当のことを提示することによって、またという根本的否定性を超えた先の空間を見いだそうと企てることによって、そのような空虚な隠語を暴露するプロセスでもある。”Alex Murray
■「共同体は、ブランショが無為 désœuvrement と呼んだものにおいて必然的に生起する[……]。共同体は特異性が中断されることによってできている。もしくは、特異な存在たちが宙吊りであって、共同体は、その宙吊りによってできている。共同体はそれらの者たちの働きではないし、共同体がそれらの者たちを自らの働きとしているわけでもない。ましてや交流が一つの働きであるわけでもなく、交流は特異な存在たちのなす作用でさえない[……]。交流とは、社会的、経済的、技術的、制度的な働きの働かなくなることである。」Jean-Luc Nancy
「…けっして現勢力へと移行することなく内在を保持する無為というものが重要とされているという点には留意しておくべきである。」Alex Murray
《他の生きものに可能なのは種的潜勢力だけである。それらはたた、これこれやしかじかをなすことができるだけである。だが、人間は自らの非の潜勢力が可能な動物である。人間の潜勢力の偉大さは、その非の潜勢力の深淵によって計り知られる。》Agamben, 1999 b
*「アガンベンによれば、「だれかれの特異性」は、「言語活動のうちにある自体的な存在」という点においてのみ結びついているのであり、その他の「あらゆる帰属の同一性と条件を拒否する」。真に共有されるのは現勢力ではなくて潜勢力である。」——岡田温司『アガンベン読解』p118
〈アガンベンは、潜勢力は「到来する共同体」の核心にあると指摘している。彼の示唆している非アイデンティティという形式は、現代の諸逆説のなかから立ち現れうるものである。〉Alex Murray
■《最も価値ある政治的行動とは、支配的な権力言語をないものとすることにもとづいた政治的行動である。……支配的な権力言語を打ち破るこのプロセスは、到来する共同体へと向かう道を提示するにあたって決定的である。》Alex Murray
「聖性は、現代政治においてつねに現前している逃げ道であって、その逃げ道はますます広大で不明瞭になっていく地帯へと向かい、ついには市民の生物学的な生自体と一致しようとしている。」Agamben, Homo Sacer
「だが、本当に政治的と言えるのは、暴力と法権利の結びつきを断ち切るあの活動だけなのである。」Agamben, Stato di eccezione
■「制作することがこれこれの目的のための手段であり、行為することが手段のない目的であるとすると、身振りは、道徳を麻痺させている、目的と手段のなす誤った二者択一を打ち壊す。それは、手段性の領域を“手段であることで”免れ、それゆえに目的になってしまうわけでもないような諸手段を提示する」Agamben, Mezzi senza fine (1996)
《身振りとはこれこれの手段性を露呈させること、手段としての手段を見えるようにすることである》Agamben, Mezzi senza fine (1996)
「身振りへと向かうにあたって鍵となるのは、アイデンティティが示す偽の全体性からの控除、単一性としてのイメージの虚偽性からの控除という理念である。」Alex Murray
■「農夫の態度はすべて、門の閉鎖を獲得し、それによって意味のない効力を中断しようとする複雑な戦略に他ならなかったと私たちは想像することができる」Agamben, La potenza del pensiero (2005)
“この戦略は、彼の無為の政治の地平を構成するように思われるメシア的任務にとって、きわめて重要な要素である。”Alex Murray
“法は、私たちが法の存在を信ずるかぎりにおいて存在する——境界が機能し続けるのは、私たち(城の代務者)が境界を尊重し続けるからである。”Alex Murray
■「メシアはすでに到着している。メシア的出来事はすでに完了している。だが、その現前は自らの内部にそれとは別の時間を含んでいる。その時間はメシアの臨在を引き伸ばすが、それは臨在を遅らすためではない。それどころか、それは臨在を据えうるものとするためなのである。」Agamben 2000
「だが、この“かつて一度も存在しなかった”ということこそが、人類の故郷——歴史的な故郷にして、かつ全面的にアクチュアルな故郷——である。」Agamben 2005 a
「現代的であるとは、この意味では、これまで私たちの来たことがない現在へと回帰するということを意味する」Agamben 2009 a
■「そのようなインファンティアがあるという事実、つまり言語の超越論的限界としての経験があるという事実こそが、言語が言語自体を全体性や真理として提示できるという可能性を排除する」Agamben, 1978 [2001]
《インファンティアは、一方のラングと他方のディスクール・パロールとの分裂を基礎づけである。》Alex Murray