——パリ・フロイト学派へのオマージュ
□ギイ・ロゾラート「フェティシズムの構造」より引用
《要するに、否認はいまだ知覚と結びついたままで、言葉より“表象”に近いことが強調されているのである。》
《あるきまった快楽に意を集中する倒錯者が、そのことから欲望と苦痛を混同することはありうる。》
《倒錯者の自我の分裂は、ある一定の中心的な主題に加えられた否認のために、おそらくひとつの想起として、構成された複写として、主体の分割を証拠だてる機制として存在し、この切り傷は、崇拝対象を介して置き換えられ、比を与えられ、視覚化され、“客観化される”。》
《倒錯者にとって、快楽は、かれの掟がかれの欲望であることの表示である、といえよう。》
■考察
倒錯者は、自身の身体を《母》に見たてるが故に、それを構造化することから逃れようとする。
そして、自身の欲望を、“理想の父”に預けることにより全能性を投射し―その変わりに“現実の父”は抹殺される―、その位置から母たる身体に“ファルス的ナルシシズム”を付与し、この二重の操作により《去勢》を「否認」している。換言すれば、倒錯者は、自身の身体で理想の父の庇護の元に、近親相姦願望を満たす。
この倒錯者における父の二重性―理想の父と現実の父―が、彼らの軽躁病的興奮や周期的鬱病という形で、情動を支配しているとも言える。
もう一点特筆すべきこととして、倒錯者が、その「否認」を維持する上で必要な女性との曖昧な共犯関係が挙げられる。この女性は、倒錯者の保護者であり、友人であり、想像的な恋人のような役割を持つ者である。
倒錯者の眼差しは、フェティッシュによって必然的に捉えられている。フェティシストが理論や知識を好む性向があるのは、このフェティッシュに魅せられた〈換喩的な規則性〉においてである。そこから、倒錯者特有の経済への偏向性も導かれる。(マルクス風に言うなら、倒錯者は〈一般的等価形態〉を好むのだ)
■倒錯者における絆
倒錯者同士を結び付けているのは、愛というよりも〈情熱の絆〉です。その情熱において、精神分析的な正常な主体、つまり神経症的な主体が〈愚鈍な者〉として貶められる事実は指摘して然るべきでしょう。(これが、倒錯が投げかける問題の振幅です)
倒錯者にとっては、愛が挑戦として意識されているということです。彼らにおいて、精神分析が禁欲主義的な理想、つまり苦行のように捉えられている事実も、それを物語っています。倒錯者の語る愛とは、〈情熱の罠〉になるのです。
「…これはまた、彼らが義務とか同情とか呼んでいる感情、さらにずっと頻繁に《愛情》と呼んでいる感情を理由としてなされるのであるが、こうした感情があらゆる弱さ、さらにはあらゆる自由主義を正当化できると主張する。」(ジャン・クラヴルール)
つまり、倒錯者の弱さは、愛において、情熱を“克服しよう”と望むこと―それはナルシシズム的情熱です―にあるのです。そして、それ自体がまた別の情熱に囚われてしまうことに、倒錯者は気づいていません。倒錯とは、自らが仕掛ける罠に自らが嵌るような構造を示しています。
■神経症と倒錯の間~眼差しと目
「カップルの“不釣合い”という言葉はつねに注目されるべきである。私はここで、ラカンが彼の〈自覚的な不釣合い〉に関するセミネールのために一貫して『饗宴』の同性愛のカップルに準拠していたのを思い起こさないわけにはゆかない。」(ジャン・クラヴルール)
正常な神経症者が享楽に“耐える”ところを、倒錯者は“探求”しています。ここに、倒錯者特有の非礼や侮辱が表現されています。
ここで、知の問題を持ち出すと、倒錯者の知とは“否認の知”、あえて言うなら、知が“欺く”という事実を無視するような知ではないでしょうか。倒錯者は、真理と知が分裂する場所においてこそ、確実性―母のファルスへの確信―を呼び込むわけです。それはいかなる情動によってでしょうか?
「感嘆」という情動によってです。それによって彼らは〈非―知〉の領域に場所を明け渡すことを、不当なことのように幻惑されてしまうのです。このように言えるでしょう。“倒錯者の情熱は、〈眼差し〉の次元を〈目〉に担保することに向けられている”、と。
倒錯者の〈目〉は、“理想化”の刻印から“知性化”という防衛に到るような通路なのです。ここに彼らの持つ〈秘密〉が隠されているわけです。
■倒錯の精神分析~“知の欠如”と“騙されない知”という挑戦
「ところで、倒錯者の否認が向かうところはまさしくこの点なのである。いわく、欲望の原因は“欠如”ではなく、“現前”(フェティッシュ)である、と。」(ジャン・クラヴルール)
倒錯の精神分析は、“知の欠如”による欲望の原因についての再解釈の機会をもたらします。倒錯者の欠いているものはこの再解釈であり、この再解釈がある遡及する力を持っています。
「…したがって、見ること、知ることの欲望は構造的に性欲とは異なっているのである。」
「最後にそれは、事実の打ち消しに直面して訂正のきかない、頑固で執拗な一種の知であり、どうあっても他人から快楽が得られると確信しているエロティシズムの種々相に関する知である。」
倒錯者が“知ろうと欲すること”により、欲望の原因(欠如)を否認することから、倒錯者は男性においては概してメカ好きが多いんですね。パソコンを含めた機械類や車にも愛を感じてしまう、つまり“性愛化”しています。
もっと言うなら、神経症者が愛の対象を幻覚の次元から同一化するのに対し、倒錯者は幻覚や幻滅を経由していないが故に、生の現実で触れてしまうのです。倒錯者の危険は、ヘーゲル的〈絶対知〉への接近であり、その上にフェティッシュを厳密に構成することにあると言えるでしょう。
ある種の女性においても、“愛する”のではなしに、相手を“知ろうと欲する”女性がいます。ここに女性が男性を愛することと、母親のポジション―母親の目―から男性を貶めることの違いを指摘してもいいかも知れません。
これが、倒錯者が神経症者との間に繰り広げる愛の攻防と言ってもいいでしょう。倒錯者は男性にせよ女性にせよ、表現の仕方に違いは見られるとは言え、正常つまり神経症的な愛に“挑戦”せずにはいられないのです。(歴史的に見ればこれは、キリスト教の発生にまで遡ります)
ここにラカンの言う、〈騙されない彷徨う者たち〉の発生を見ることすら可能です。倒錯者の〈目〉に写るのは、“騙されている自分の姿”を認めるではなしに、延々と自分を“騙す者”として発見し、また発見するがままになるということなのです。まさに、〈彷徨う=間違う者たち〉なのです。
■倒錯者の〈大他者〉を巡る擬態~偶然なきエロティシズム
倒錯者が“装う”親みの情や礼儀の中には、既に「挑戦」が秘められています。そこで彼らは自らの倒錯行為の共犯者を得ようと目論むのです。その目論みの前に、彼らは欲望においては譲っています。
付け加えますと、倒錯者の〈知〉に示す態度は、擬態のようなものでありポーズです。彼らは興味があるような素振りを見せますが、“欠如の知”―元を辿れば、母親が去勢されていることの事実―については本心では知ろうとしないで、曖昧な態度をとります。
例えば、彼らが分からないことを辞書で調べるという事一つをとってみても、彼らがしていることは、欲望の原因=対象である“欠如”を〈大他者〉の目、つまり母親の目で埋めてしまうのです。
逆に、正常な神経症者なら、そこに愛の対象のために幻覚が占めることになる“欠如”を残します。つまり、“欺く知”に騙され、倒錯者のように、欠如を知で埋め尽くすようなこと、騙されないようなことはしないのです。
はっきり言いますと、彼らは”知らない”という態度―母親が去勢されているという事実、つまり“欠如の知”の承認―をとれないのです。
正常な神経症者なら、“欠如の知”の承認から、“知の欠如”へと向かうことを「学習」と言うでしょう。倒錯者の質問の仕方すら、根底には“欠如の知”に対する不信感や疑念、挑戦の調子を帯びています。その意味では、倒錯者の真の相手は、〈大他者〉の目―彼岸の目―です。
ギイ・ロゾラートはこう述べます。「倒錯者は言葉ではなく眼差しのなかに、そのいっさいの知を汲みとり、さらには汲みとろうとします(私は根源的な外傷の空想に関係づけています)」。そこから、倒錯者のエロティシズムが、偶然を排した必然に絡め取られている様子すら見えてくるでしょう。
□以下は理論的な布置として
正常な神経症者の〈知の欠如〉、つまり「分離の根源」に位置する“父の名”と、倒錯構造における〈否認的な知〉をラカンのマテームで表現してみると、次のようになる。
〈知の欠如〉→a/S1
〈否認的な知〉→S2/a
※前者は、“父の名”からの対象aの抽出の成功であり、後者は、対象aを知で埋めていることを意味している。
尚、〈否認的な知〉の方は、「無意識のディスクール」の右辺と一致していることから、倒錯のディスクールを「無意識のディスクールの半身」と呼ぶことも出来よう。
更に、両式を“欠如”を表す欲望の原因=対象aを介し合成することで得られる次のマテームを挙げておく。
S2/a/S1
これは、ジジェクの指摘している、現実界におけるS1(=主人のシニフィアン)とS2(=一連の通常のシニフィアン)との間のヘゲモニー闘争を意味している。
□ギイ・ロゾラート「フェティシズムの構造」より引用
《要するに、否認はいまだ知覚と結びついたままで、言葉より“表象”に近いことが強調されているのである。》
《あるきまった快楽に意を集中する倒錯者が、そのことから欲望と苦痛を混同することはありうる。》
《倒錯者の自我の分裂は、ある一定の中心的な主題に加えられた否認のために、おそらくひとつの想起として、構成された複写として、主体の分割を証拠だてる機制として存在し、この切り傷は、崇拝対象を介して置き換えられ、比を与えられ、視覚化され、“客観化される”。》
《倒錯者にとって、快楽は、かれの掟がかれの欲望であることの表示である、といえよう。》
■考察
倒錯者は、自身の身体を《母》に見たてるが故に、それを構造化することから逃れようとする。
そして、自身の欲望を、“理想の父”に預けることにより全能性を投射し―その変わりに“現実の父”は抹殺される―、その位置から母たる身体に“ファルス的ナルシシズム”を付与し、この二重の操作により《去勢》を「否認」している。換言すれば、倒錯者は、自身の身体で理想の父の庇護の元に、近親相姦願望を満たす。
この倒錯者における父の二重性―理想の父と現実の父―が、彼らの軽躁病的興奮や周期的鬱病という形で、情動を支配しているとも言える。
もう一点特筆すべきこととして、倒錯者が、その「否認」を維持する上で必要な女性との曖昧な共犯関係が挙げられる。この女性は、倒錯者の保護者であり、友人であり、想像的な恋人のような役割を持つ者である。
倒錯者の眼差しは、フェティッシュによって必然的に捉えられている。フェティシストが理論や知識を好む性向があるのは、このフェティッシュに魅せられた〈換喩的な規則性〉においてである。そこから、倒錯者特有の経済への偏向性も導かれる。(マルクス風に言うなら、倒錯者は〈一般的等価形態〉を好むのだ)
■倒錯者における絆
倒錯者同士を結び付けているのは、愛というよりも〈情熱の絆〉です。その情熱において、精神分析的な正常な主体、つまり神経症的な主体が〈愚鈍な者〉として貶められる事実は指摘して然るべきでしょう。(これが、倒錯が投げかける問題の振幅です)
倒錯者にとっては、愛が挑戦として意識されているということです。彼らにおいて、精神分析が禁欲主義的な理想、つまり苦行のように捉えられている事実も、それを物語っています。倒錯者の語る愛とは、〈情熱の罠〉になるのです。
「…これはまた、彼らが義務とか同情とか呼んでいる感情、さらにずっと頻繁に《愛情》と呼んでいる感情を理由としてなされるのであるが、こうした感情があらゆる弱さ、さらにはあらゆる自由主義を正当化できると主張する。」(ジャン・クラヴルール)
つまり、倒錯者の弱さは、愛において、情熱を“克服しよう”と望むこと―それはナルシシズム的情熱です―にあるのです。そして、それ自体がまた別の情熱に囚われてしまうことに、倒錯者は気づいていません。倒錯とは、自らが仕掛ける罠に自らが嵌るような構造を示しています。
■神経症と倒錯の間~眼差しと目
「カップルの“不釣合い”という言葉はつねに注目されるべきである。私はここで、ラカンが彼の〈自覚的な不釣合い〉に関するセミネールのために一貫して『饗宴』の同性愛のカップルに準拠していたのを思い起こさないわけにはゆかない。」(ジャン・クラヴルール)
正常な神経症者が享楽に“耐える”ところを、倒錯者は“探求”しています。ここに、倒錯者特有の非礼や侮辱が表現されています。
ここで、知の問題を持ち出すと、倒錯者の知とは“否認の知”、あえて言うなら、知が“欺く”という事実を無視するような知ではないでしょうか。倒錯者は、真理と知が分裂する場所においてこそ、確実性―母のファルスへの確信―を呼び込むわけです。それはいかなる情動によってでしょうか?
「感嘆」という情動によってです。それによって彼らは〈非―知〉の領域に場所を明け渡すことを、不当なことのように幻惑されてしまうのです。このように言えるでしょう。“倒錯者の情熱は、〈眼差し〉の次元を〈目〉に担保することに向けられている”、と。
倒錯者の〈目〉は、“理想化”の刻印から“知性化”という防衛に到るような通路なのです。ここに彼らの持つ〈秘密〉が隠されているわけです。
■倒錯の精神分析~“知の欠如”と“騙されない知”という挑戦
「ところで、倒錯者の否認が向かうところはまさしくこの点なのである。いわく、欲望の原因は“欠如”ではなく、“現前”(フェティッシュ)である、と。」(ジャン・クラヴルール)
倒錯の精神分析は、“知の欠如”による欲望の原因についての再解釈の機会をもたらします。倒錯者の欠いているものはこの再解釈であり、この再解釈がある遡及する力を持っています。
「…したがって、見ること、知ることの欲望は構造的に性欲とは異なっているのである。」
「最後にそれは、事実の打ち消しに直面して訂正のきかない、頑固で執拗な一種の知であり、どうあっても他人から快楽が得られると確信しているエロティシズムの種々相に関する知である。」
倒錯者が“知ろうと欲すること”により、欲望の原因(欠如)を否認することから、倒錯者は男性においては概してメカ好きが多いんですね。パソコンを含めた機械類や車にも愛を感じてしまう、つまり“性愛化”しています。
もっと言うなら、神経症者が愛の対象を幻覚の次元から同一化するのに対し、倒錯者は幻覚や幻滅を経由していないが故に、生の現実で触れてしまうのです。倒錯者の危険は、ヘーゲル的〈絶対知〉への接近であり、その上にフェティッシュを厳密に構成することにあると言えるでしょう。
ある種の女性においても、“愛する”のではなしに、相手を“知ろうと欲する”女性がいます。ここに女性が男性を愛することと、母親のポジション―母親の目―から男性を貶めることの違いを指摘してもいいかも知れません。
これが、倒錯者が神経症者との間に繰り広げる愛の攻防と言ってもいいでしょう。倒錯者は男性にせよ女性にせよ、表現の仕方に違いは見られるとは言え、正常つまり神経症的な愛に“挑戦”せずにはいられないのです。(歴史的に見ればこれは、キリスト教の発生にまで遡ります)
ここにラカンの言う、〈騙されない彷徨う者たち〉の発生を見ることすら可能です。倒錯者の〈目〉に写るのは、“騙されている自分の姿”を認めるではなしに、延々と自分を“騙す者”として発見し、また発見するがままになるということなのです。まさに、〈彷徨う=間違う者たち〉なのです。
■倒錯者の〈大他者〉を巡る擬態~偶然なきエロティシズム
倒錯者が“装う”親みの情や礼儀の中には、既に「挑戦」が秘められています。そこで彼らは自らの倒錯行為の共犯者を得ようと目論むのです。その目論みの前に、彼らは欲望においては譲っています。
付け加えますと、倒錯者の〈知〉に示す態度は、擬態のようなものでありポーズです。彼らは興味があるような素振りを見せますが、“欠如の知”―元を辿れば、母親が去勢されていることの事実―については本心では知ろうとしないで、曖昧な態度をとります。
例えば、彼らが分からないことを辞書で調べるという事一つをとってみても、彼らがしていることは、欲望の原因=対象である“欠如”を〈大他者〉の目、つまり母親の目で埋めてしまうのです。
逆に、正常な神経症者なら、そこに愛の対象のために幻覚が占めることになる“欠如”を残します。つまり、“欺く知”に騙され、倒錯者のように、欠如を知で埋め尽くすようなこと、騙されないようなことはしないのです。
はっきり言いますと、彼らは”知らない”という態度―母親が去勢されているという事実、つまり“欠如の知”の承認―をとれないのです。
正常な神経症者なら、“欠如の知”の承認から、“知の欠如”へと向かうことを「学習」と言うでしょう。倒錯者の質問の仕方すら、根底には“欠如の知”に対する不信感や疑念、挑戦の調子を帯びています。その意味では、倒錯者の真の相手は、〈大他者〉の目―彼岸の目―です。
ギイ・ロゾラートはこう述べます。「倒錯者は言葉ではなく眼差しのなかに、そのいっさいの知を汲みとり、さらには汲みとろうとします(私は根源的な外傷の空想に関係づけています)」。そこから、倒錯者のエロティシズムが、偶然を排した必然に絡め取られている様子すら見えてくるでしょう。
□以下は理論的な布置として
正常な神経症者の〈知の欠如〉、つまり「分離の根源」に位置する“父の名”と、倒錯構造における〈否認的な知〉をラカンのマテームで表現してみると、次のようになる。
〈知の欠如〉→a/S1
〈否認的な知〉→S2/a
※前者は、“父の名”からの対象aの抽出の成功であり、後者は、対象aを知で埋めていることを意味している。
尚、〈否認的な知〉の方は、「無意識のディスクール」の右辺と一致していることから、倒錯のディスクールを「無意識のディスクールの半身」と呼ぶことも出来よう。
更に、両式を“欠如”を表す欲望の原因=対象aを介し合成することで得られる次のマテームを挙げておく。
S2/a/S1
これは、ジジェクの指摘している、現実界におけるS1(=主人のシニフィアン)とS2(=一連の通常のシニフィアン)との間のヘゲモニー闘争を意味している。
以下、巡回読解係 (@descifrador_amb) さんより。
先日の学会質疑でのやりとりへの傍白。L'angoisse n'est pas sans objet. このobjet を認識の対象と同様に考える愚を犯してはならない。『不安』のセミネールでラカンが示唆しているように、これはファルスだ。しかしファルスがいかにして不安と関わるのか。去勢不安を考えればよいのか。身体的な完全性の毀損への恐れを、あるいは母との合一の保証の不在を考えればよいのか。そうではない。ここで重要なのは、それが持つ「対象なしではあらぬ」という二重否定の形だ(けっして「対象を持つ」ではない)。この二重否定は、ラカンが不安の開始する点に位置づけた「欠如の欠如」とパラレルである。このうち前者の「欠如」は、最初の大他者たる〈母〉が「何かを欠いており、その限りでその何かを欲望している」というときの欠如であって、「対象なしsans objet 」はこの水準に位置している。その欠如が欠如している、とはすなわち、大他者において「対象なし sans objet」が成立しておらず、したがって大他者を欲望する者として考えることができないという事態の謂いだ。このとき主体はもはや、大他者を前にしてどう振るまえばよいか分からなくなる。というのも最早そこでは、その振る舞いをその最外延で規定していた「規範」である投射的ないし想像的な理解の可能性が消失してしまうからだ。それを否定してしまえば他者に関するあらゆる知が不可能になるような「欲望の公準」。その公準が括弧に入れられ(-φ)となるという事態(ここでは括弧こそが重要だ)、ラカンが他でもないファルス期に想定した事態において主体が直面する、知の根本的な U+A0不可能性とのかかわりで「不安」は考えられる必要がある。(尚そのとき大他者は想像的な理解のとどかぬ何かとして、つまり対象aとして現れてくることになるだろう。これと「対象なし」というときの「対象」は従って、異なった契機に属するものであるということになる。)
“スターリニズムが関心をひくのは、私たちにとって、それが、政治における倒錯した位置の完璧な例だからです。倒錯というのは、別に人々を拷問にかけるとかいった通俗的な意味ではなくて、純粋に形式的なものです。ラカンが指摘しているように、倒錯者とは、自分の役割を他者の欲望の対象ないし道具へと切り縮めてしまう者のことです。真のスターリン主義者は、自分を社会の主体とはとらえていません。彼は、なんらかの歴史的な観念の自己実現過程のためのただの道具に、つねにとどまっています。それゆえ、これは、イデオロギーにおいて倒錯的な位置がどのように機能するかについての格好のケースなのです。”――ジジェク