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per l/a psicoanalisi

社会的距離化 Distanziamento sociale

2020-05-01 20:50:00 | Agamben アガンベン

《死が私たちをどこで待ち受けるか、私たちはどこにおいてもそれを待ち受ける故、私たちは知らない。死の省察は、自由の省察である。死を学ぶ者は、服従することを忘れる。死を知ることは、私たちをあらゆる隷属とあらゆる強制から自由にする。》ミシェル・ド・モンテーニュ

 

歴史があらゆる社会的現象がいくつかの政治的含意をもつ、あるいはもちうることを私たちに教えるゆえに、注意をもって今日政治的語彙の中の入口をなした新たな概念“社会的距離化 distanziamento sociale (social distancing)”を書き留めるよい機会である。この用語はこれまで使われた“境界化 confinamento”の用語の粗野さに関する婉曲語法として蓋然的に作り出されたにもかかわらず、何がそれの上に基づいた政治的秩序でありうるのだろうかが問われる必要がある。このことは、純粋に理論的な仮説としてだけ問題でないなら、より多くの方面から言われ始めたように、現行の公衆衛生上の緊急事態が、人間性を期待する政治的ならびに社会的な新たな諸局面がその中で準備される実験室として見なされうることがもし真実であるなら、尚更いっそう緊急である。

毎回起こるように、このような状況はもちろん肯定的であるように考えられることを、また新たな諸デジタルテクノロジーがしばらく前から、容易に遠隔コミュニケーションを可能にすることを示唆する愚かな人々がいるにせよ、“社会的距離化”の上に基づいた共同体は、人間的にもまた政治的にも生きうるものだとは私は信じない。いずれにしても、どのようなパースペクティヴが存在するのかということが、私たちが省察すべきこのテーマの上にあるように思われる。

最初の考察は、“社会的距離化”が産出した現象の全く特異な自然に関係する。カネッティは、その代表作である『群衆と権力』において、権力が触れられた存在の恐怖の転倒を通じてその上に設立される、群衆を定義する。人間たちは概して、見知らぬものから触れられることを恐れ、また人間たちが自身の周囲に設けるすべての距離は、この恐れから生まれる一方で、群衆はこのような恐怖においてその反対に向かい逆転される唯一の状況である。《群衆においてのみ、人間は触れられることの恐怖から解放されうる... その中で群衆へと身をゆだねる瞬間から触れられる存在になることを恐れない... 私たちに悩まされる者は誰も私たちと等しくあり、私たちが私たち自身を感じるように、私たちはその人を感じる。不意に、それはあたかも全てが唯一の身体の内部で生じるかのように... 触れられた存在の恐怖のこの逆転は群衆に特有なものである。まさに群衆が密であればあるほど、その中に拡散する苦悩の緩和はある顕著な水準に達する》。

カネッティが、ここで私たちが正面から遭遇する群衆の新たな現象学について何を考えたのだろうか私は知らない。社会的距離化の諸措置とパニックが作ったことが確かに群衆であり、しかし言うなれば、なんとしても一方が他方から距離を保つ個々人によって形成された、裏返った群衆である。密ではない、したがって、しかし疎であり、それでもやはり、もしこれがカネッティがすぐ後に明確にするように、その密集状態とその受動性により、《真に自由な運動はそれらにはないだろう... それは期待する、それらのことに示されるべきだろう指導者〔トップ〕を期待する》という意味において定義されるなら、まだ群衆である群衆。

何ページか後で、カネッティは禁止を通して形成された群衆を記述する。《その禁止において同じように統一された多くの人々は、ある瞬間まで単独として形成していたことをもはやなさないことを欲する。禁止は突然であり、単独者たちがもし独りでそれを負うなら... いずれにせよ、それ〔禁止〕は最大限の力でもって影響を与える。それはある秩序としてのカテゴリーであり、この〔禁止の〕ため否定的特徴は、やはり決定的である》。

社会的距離化の上に形成されたある共同体が、無邪気に考えられるように、行き過ぎた個人主義に関係しないことが見過ごされたままにならないことは重要である。それ〔共同体〕は、まさしく反対に、今日私たちの周囲で私たちが見るように、疎であり、そして禁止に基づいた、しかしまさにこのために、著しく密で受動的な群衆なのであろう。

2020年4月6日
ジョルジョ・アガンベン

原文サイト→https://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-distanziamento-sociale


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