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per l/a psicoanalisi

今日のホモ・ファーベル homo faber

2021-07-17 20:56:00 | Essay

何故、有用性の思考が社会では重宝がられるのでしょうか? 単純です。それは、労働における生物学的な循環運動、つまり代謝よりも堅く、長持ちするからです。

 
それがまさに、労働する動物にとっては主人であり、支配者の地位にあるからです。
 
昨今のホモ・ファーベルは科学的な知識やテクノロジーによるデータも駆使した科学の信者でもあるでしょう。外観だけみれば、それは生物的なプロセスよりも確実で信用ができますし、活動の儚さや脆さよりももっとかもしれません。
 
但し、それは先に述べたように、手段と目的のカテゴリーにおいてのみであり、その始まりには必ず自然に加えられた暴力があり、彼らはまた最終的な生産物を壊すことも可能です。
 
彼らは意のままに作り、また意のままに壊す。それ故に、〔自然にとっての〕マスターなのです。労働が身体により条件付けられているとすれば、仕事とは手によってです。(しかし、彼らの不安もまた、自らのコントロール・制御の不能性と結びついていることは十分に推測できるでしょうし、そこに身体から手への“置き換え”というメカニズムも認めることができます)
 
簡単に言ってしまえば、四つのディスクールの主要な位置関係や運動の図式は、“理論上は”それで切れてしまいます。
 
では、始まりの運動を指示する agent はどういうあり方なのでしょう?(この問題は特異的でもありますから、経験が必須です)
 
そして、agent は制作による支配でも、それへの逃亡でもなく、活動することもあり得たわけです。
 
 

(H. Arendt, Labor, Work, Action [1964]
 
つまり、ホモ・ファーベルの自由とは未だに“自由意志”的であり、活動による“人々の間にいることの自由”とは似て非なるものです。なので、アーレントはそのあり方を、反政治的ではないが、非政治的ともいったのです。(労働する動物は、反政治的です)
 
今日のホモ・ファーベルが支配・管理・制御する社会。それはますますコンピュータに近似していっていることは既に明白な事実です。(それは、手とコンピュータによる論理過程が、リズミカルに統合された社会です。今、あなたが目の前で触れているそれのように)そして、その目的が手段を“正当化”するような社会です。(end products のためなら、全てが許される社会)
 
そして、複数形で書きましたが、end products(それらは自然の増殖 proliferation とは区別される増大 multiplication ですし、後者は反復 repetition と混同されるべきでもありません)に幻惑されている昨今のホモ・ファーベルたちはどこに向かうのでしょうか? 彼らの苦境と敗北とは? おそらくは全き生の無意味さ、無残さに流れていくことでしょう。
 

(Ibid.)
 
一方で、活動と言論 action and speech における複数性 plurality や power はそのような数の専制・支配、こういってよければその strength とは無縁のところにあります。
 
ここで考えなければならないのは、ホモ・ファーベルが solitudine において制作する物の世界性(それは未だ、利害関心を拭い切れていません)と、公共性を兼ね備えた共通世界(それを我々は先に、美感的判断力として考察したばかりです)の差ではないでしょうか? いずれにせよ、その違いを巡って世界性のあり方が分割されていることは想像にも難くありません。前者は人と物の関係ですが、後者は人と人の関係です。アーレントにおける「世界」が複雑で錯綜としているのも、この分割線がなかなか分かりにくい描かれ方をしているからとも言えます。そして、人と人の関係が問題なところに(つまり、それが活動や言論の地平ですが)、人と物の有用性に根ざした関係を当て嵌めることは、人を物の地位に貶めていることにもなるでしょう。
 
奇しくも、資本主義社会では人は当然のように「人材」(正に材質 material としての人です)として扱われていて、その人材は有用かどうかで判断され、また自らも有用であることを欲するわけです。材質というのは既に、ホモ・ファーベルの力 strength により自然に対しある暴力 violence を振るうことで成り立つのは理解可能でしょう。(材料としての木、つまり木材は既に自然の木にある改変が加えられています)そして、今日その力は科学と手を結ぶことによって、無限の暴力を解放することにも成功し出したのですし、人間を材質としてのみ扱うことの壮大な実験すら、歴史上起き得たのです。
 
もちろん、我々は有用な道具なしの世界で生きることはできないでしょう。しかし、活動が忘れ去られ、それが政治化された時の結末は、当の人間性自体の破壊にしか行きつかないのは明白な事実です。
 
では、本来の意味での政治とは、一体何なのか? 支配でもなく正義でもない、自由と平等を“人々の間に”もたらす政治はどのようなあり方をするのか? それがある意味で、アーレントにおいて一貫して賭けられている、人間の活動力としての生の問題です。


(Ibid.)