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per l/a psicoanalisi

アガンベン『思考の潜勢力』(作成中)

2015-09-06 21:25:17 | Agamben アガンベン
——La potenza del pensiero: Saggi e conferenze, Giorgio Agamben, 2005


■「記憶の及ばないものの伝承」“Tradizione dell'immemorabile” (1985)

《今日もなお支配的な伝承による誤った規定によれば、真理とは、秘教的教義であれ公的教義であれ、通過儀礼的教義であれ科学的教義であれ、何らかの教義の伝承であるとされる。だが、そうではない。真理とはつまり、記憶自体の到来において忘却され差し向けられる当の記憶のこと、歴史的な開かれにして時間措定のことである。》

〈すなわち、ここで把握・伝達しなければならない当のものは、絶対的に非主体的なもの、忘却そのものである。〉

“真理は自ずから書かれる。つまり真理はそのつど前提されたものにとどまり、またそれと同時にその到来自体において差延化される。”

「じつのところ、前提という形式を完了させるということ、また表象の潜勢力から脱出するということには、詩的任務と倫理的決定が含意されている。」


■「se 絶対者と生起」“L'assoluto e l'Ereignis” (1982)

《生起 Ereignis は、生起自体においては“脱自体化 Enteignis”である。》


《それに対してハイデガーは、「言うこと (sage)」と「言葉 (Sprache)」の差異をそれ自体において考えようとする。つまりかれが探し求めているのは、「それ (Es)」を経験する言語活動の経験である。》


■「起源と忘却——ヴィクトール・セガレンについて」“L'origine e l'oblio: Su Victor Segalen” (1979)

《というのも、問題なのは原初のパロールに、不在によって君臨させるということだからである。》

〈つまり、パロールにその痕跡によって君臨させるということである……痕跡とは、起源の消滅が証されるまさにその瞬間に起源を喚び起こすもののことである。〉


■「ヴァルター・ベンヤミンと魔的なもの——ベンヤミンの思考における幸福と歴史的救済」“Walter Benjamin e il demonico: Felicità e redenzione storica nel pensiero di Benjamin”(1982)

“じつのところ、ベンヤミンの諸カテゴリーを歴史記述的実践の地平へと折りこんでしまいたいという誘惑はあまりに大きなものだった。


■「メシアと主権者——ベンヤミンにおける法の問題」“Il messia e il sovrano: Il problema della legge in W. Benjamin” (1992)

《それはいわば、法のもとでの時間の遅延・引き伸ばしという形で、つまり欠けている時間の歴史的効果として、現にそこにある。》


■「思考の潜勢力」“La potenza del pensiero” (1987)

《人間の潜勢力の偉大さは——それは悲惨さでもあるが——、それがなによりもまず、現勢力に移行しないことができる潜勢力、暗闇のための潜勢力でもあるということである。》

〈つまり、人間にとって行動することができるということはすべて構成的に言って行動しないことができるということであり、認識はすべて認識しないことができるということである。〉

《人間は、“自体的な非の潜勢力が可能な”動物である。人間の潜勢力の偉大さは、その非の潜勢力の深淵によって計り知られる。》


■「現事実性の情念」“La passione della fatticit�・: Heidegger e l'amore” (1978)

《この意味で、原抑圧の構造は、一種の「原フェティシズム Urfetischismus」ないし「原初的現事実性 Urfaktizit�・t」によってしるしづけられていると言うこともできるだろう。この原フェティシズムゆえに、現存在は存在者をけっして自体化することができないにもかかわらず存在者へと分かちがたく委ねられている。》

「だとすれば、自体化するというのはただ次のことのみを意味しうる。すなわち、自体的なしかたで非自体的であるということ、自体化できないものへと自らを遺棄するということである。」


■「人間の働き」“L'opera dell'uomo” (2004)

〈その結果、西洋の政治は近代においては、人民ないし国民がしかじかの歴史的任務(「働き」)を集団で引き受けることとして考えられている。この政治的任務はしかじかの形而上学的任務と一致していた。その形而上学的任務とは、理性的な生きものたる人間の実現である。〉

〈第一次世界大戦が終わると働きのパラダイムは危機に入りこみ、割り当てられうる歴史的任務などもはやないということがヨーロッパの国民国家にとって明白になってくる。〉

《一般的に言って今日、生政治的任務の引き受けへと単にあらためて堕してしまうことのないような、人間の働きのなさにふさわしい政治はありうるのだろうか? これらの問いは今のところ宙吊りにしておかなければならない。だが、労働や生産を誇張することは脇に除け、多数者 multitudo をある形象として考えようと試みなければならないだろう。その形象は無活動の形象であるとまでは言わずとも、少なくとも、あらゆる現勢力において自体的な安息日を実現する働きの形象、あらゆる働きにおいて自体的な無為・潜勢力を露呈することができる働きの形象である。》