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per l/a psicoanalisi

経験と新しさのあいだで

2018-10-17 17:32:58 | Essay

1. 私の言いたい「経験」とは、近代の権威的な人物が、あいつには「経験」が足りないと言ったりするような「経験」ではない。むしろ、そのような「経験」が全く成り立たなくなっていったのが、私の世代だったし「経験」が権威により保証されていた時代感覚は希薄だった。それでもやはり、「経験」という以外には自分には言いようがない何かが、私を捉える。

超越論的な経験を思い起こせばいいのか? あるいは、「経験の剥奪」に変わる“別の”あるいは“新しい”経験という問題に腐心しているだけなのか?

例えば、戦争から帰還した兵士がそこに何か“伝達しうるような経験”を携えていたのかと言えば、ベンヤミンの診断を待つまでもなく、彼らにはそのような「経験」が何もなかったことは新しくはない。そして、そのような「経験の貧困」が現代を覆っていることもまた、何も真に新しくはない。

現代とはもはや、経験などしなくても日常生活は送れるのだし、我々が日夜見ているニュースも SNS も寧ろ、経験をなくし、貧しくすることに役立っている。まるであたかも、経験などもはやどこにもなく、意識においてはノイズでしかないように思え、日々情報やデータだけが“新しさ”や“最新”を装い、繰り返されるに過ぎない。だが、そのような装われた“新しさ”や“最新”は、実は最も“陳腐”だった可能性はある。

これは、予見である——。多分、今日また「経験」なるものが見出されるのだとすれば、それは伝統的な経験概念の復権でもなければ、新しさの中にでもない。そして、幸運の女神は待ってはくれない。


2. 「科学的な主体」が見ようとしない「冒険的な主体」という問題がある。仮に、今日新たに“経験”概念を練り直すとすれば、この両者の間の拮抗や摩擦、そして距離やすれ違いを通してだろう。

そして何故、いわゆる“現代人”は自己を全開にすること(解放)を自由と履き違えだしたのか? これも、科学的な主体と未だ地続きにある障壁になっている。これはレトリックの問題かは分からない。科学が装い提供する“新しさ”は新しくはない。せいぜい、“アップデート”されたイノベーションを指すに過ぎない。この延長では、自由も考えることはできない。新奇さは自由というよりは、我々を別の牢獄に繋ぐだけだ。

科学が覆い隠している人間の生とは——?

アガンベンは「経験は人間の外で遂行されている。しかも、奇妙なことに、人間はそれらの経験を安堵の念とともに眺めようとしている」と、ある本の中で述べている。

何故、科学的な主体は自己を全開にし“前に”飛翔することを自由や進歩と見なしたがるのだろうか? 彼らの中にある「経験の拒絶」。彼らがもし、「経験」をするなら月へは行きはしない。科学の主体は、人間を外から眺めるだろう。月から眺められた人間は、未だ「貧困」に喘いでいる。そして今日、「貧困」とは「経験の貧困」としてのみ立ち現れていると彼が気づくなら、彼は自らがその「貧困」を招いた張本人であることに目を見開くかもしれない。あるいは、より深い盲目が彼を閉ざすかもしれない。より深い盲目が彼を閉ざす時、彼は多分自分が「新しい経験をした」と確信し、思い込むだろう。

コギトが疑念において生じることは否定しない。だが、コギトの主体は悩むのだろうか? コギトはまず(古典的な意味での)経験と認識を分離する。コギトはあらゆる経験を原理的には疑問に付するヌース〔知性〕の働きである。しかし、ヌースはプシュケー〔心=魂〕ではないし、プシュケーは悩むことで学ぶ。


3. ではここで、こう問いたい。近代以降の「経験の剥奪」——あるいは、「経験の貧困」でしかない「現実の貧困」——に対して、われわれはどう立ち向かうべきなのか? そして、そこでの「新しいもの」とは何なのか? 今尚、精神分析において問われる経験とは、何であったのか?

つまり、精神分析には近代以降の危機(経験の剥奪、経験の貧困、現実の貧困)に立ち向かうべく問題が、“予め”内属されていた。それが、“無意識の経験”に他ならない。

逆説的に、近代以降になり「新しさ」は経験の消失と停止として現れていることに注意がいるだろう。われわれが仮に、月に旅行することを「新しい」と考えるにせよ、これは経験にとってはその危機でしかない。これは、先に述べたフロイト的な“新しさ”とはまるで違う。

近代以降になり初めて、われわれは「新しさ」を逆に、経験の貧困を覆い隠すものとして体験するようになった。奇妙な言い方になるが、“新しさの体験”とは、もはや“経験しないことの裏返し”として立ち現れている。

この捻れこそが、まさにフロイト的な無意識の経験の問題を、逆照射する。それは、「無意識の主体の経験」とも区別されうる、「無意識の経験」と呼べる何かである。フロイトの名指した「それ Es」には、“言語活動の経験”というインファンティア〔幼児期〕に繋がる問題も内属されていた。

 

……我々は、新しさが単調であり、驚異や極端さが退屈をもたらすという、おおよそ奇妙なことを経験しているのである。》——ポール・ヴァレリー「知性について」(『精神の政治学』中公文庫版、p.114


精神分析と教育の諸問題

2018-10-08 10:47:58 | 精神分析について
これまで、精神分析の教育的な問題には幾度か触れた。


無知には大別して、“無知の無知”(知らないということを知らず、知ったつもりになっている状態)と“不調和の無知”(別名、“無知のきわみ”と呼ばれ、己自身に負けることや快楽に道を譲ることが挙げられた)の二つがあった。

では、それは何か魂=心に“足りないもの”や“欠けている知”を外部から与えることで為されるのかと言えば、そうではなかった。

特に、“無知の無知”を相手に知らしめる(論駁する)には、何らかの知を携えている必要はなく、自らが“知らないことを知っている”状態(無知の知)にあるだけでいい。

そして、そのことにより“魂=心の向き変え”が起きることに、何らかの精神分析的な治療効果や教育効果も帰せられることができると示唆しておいた。

それは、外部からの知識の教授によっては達することはできないので、エロスと美のあいだには“冒険”(魂の気概や性格的な問題に対応する)や“ミステリー”(魂の思慮や理知的な問題に対応する)という迂回路を経ることが重要というところまでも、哲学的な問いから概観した。

では、“不調和の無知”(無知のきわみ)にはどう対峙したらよいのか?

これは難しい。このような魂=心は、精神分析を望むことはできない。何故なら、根本的な善さ—利得的なものではなく、徳としての—を軽蔑し、快楽を満たすことを優先しているだろうからと言えなくもない。むしろ、精神分析に敵対すらするあり方をし、自らを忘却しきっているあり方をしている。

少なくとも、個人の中で憎しみや破壊に向かうのが優勢か、エロスや愛に向かうのが優勢かという闘いはある。

精神分析が賭ける必要があるのは後者においてということは言うまでもない。

愛は、因果律には収まらない、ある奇跡的な結合を可能にする。もし、それに賭けないなら?