《…強欲と野心とがありすぎて、長い間、主人なしではすませなかったのだ。だれもかれも自分の自由を確保するつもりで、自分の鉄鎖へむかって駆けつけた。》——ルソー『人間不平等起原論』岩波文庫版p.106
■ルソー的な動物と無意識(手段としての仮説 / 仮設)
何故、アーレントは社会的なものの背後に《自然なものの不自然な成長》を見据えたのか? また何故、ルソーは社会における理性的な能力が悪徳を生じさせることを見過ごさなかったのか? それらは未だに今日的な問題であり続ける。
あるいは、無意識を仮定しても、そこにはまだ知られていない意志があり、その意志は意識的な意志によっても克服はできない。だが、別のパッションをもってなら抗することができる。
ルソーの《自然状態》とフロイト的な《無意識》を仮設作業として〔別所にて〕提示したが、起原を観念による仮説的実験によって再構成することは、18世紀の思想家・学者の間で流行していたといわれる。この場合、この仮設作業あるいは仮説的実験はそれ自体としては既に、思考の目的というよりは手段として扱われるべき問題を構成している。ある観念を目的として扱わずに、あるいは実証的な性質を与えずに、そこから問題を提出する手段、あるいは主題を探求する方法。
しかも、ルソーが指摘するところによれば、「人類のあらゆる進歩が原始状態から人間をたえず遠ざけるために、われわれが新しい知識を蓄積すればするほど、ますますわれわれはあらゆる知識のなかでもっとも重要なものを獲得する手段をみずから棄てる」(ibid., p.26) ということである。つまり、このような仮設作業・仮説的実験に必要なのは、有用で新しいと思えるような知識を獲得することではない。それを放棄することで、その仮説作業・仮説的実験を手段として行使するということに向かうことだろう。
但し、ルソーが措定しているのは、理性に先立つ二つの原理である。それは、自己愛 amour de soi と哀れみの情 pitié を指す。これらは、自然人の「感性」や「動物」においても見られる原理だということに留意がいる。このルソー的な仮説 / 仮設においてもまた、われわれは「動物」(あるいは、動物としての人間)というテーマを見出す。
「実際、私が同胞に対してなんらの悪をもしてはならない義務があるとしたら、それは彼が理性的存在であるからというよりは、むしろ彼が感性的な存在であるからだと思われる。この特質は動物と人間とに共通であるから、これが少くとも前者が後者によって無用に虐待されないという権利を前者に与えているはずである。」ibid.,pp.31-32
裏を返せば、“人間は社会状態から生れる残酷な感情を動物に移し変えて、いたずらに動物に狂暴性を認めている”と言える。この事実は、理性的な無意識が感性的な無意識——感性的な側は、欲動や動物性にも関わるだろう——に自らの冷酷で残忍な側面を移し変えて“見ている”と言い換えても、恐らくは的外れではあるまい。
アーレントによるギリシャ・ポリスへの参照の限界は、そのロゴス〔理性〕への依拠の限界と言い換えていいかも知れない。そして、そこから政治的な領域に回帰する感性論—感覚的存在—の射程を浮き彫りにしたい。それは、不平等という尚も今日的な問題に一石を投じるはずだ。しかし、この感性的存在というテーマ設定は、自己保存から同胞への愛に向かうものだったとも言えまいか? もし、これがルソーの社会契約の限界なら、われわれは再びニーチェの〈約束することのできる動物〉を引き合いに出さなければなるまい。
■自尊心 amour propre の問題
自尊心こそが使用に結びついた感情なように思われる。自尊心とは本来は中立的なものであるが、良くもなれば悪くもなる。自尊心が悪く働けば、それは不正や不公平を生み出し、人も悪くなるだろうが、良く働くなら、それは徳や公正さも生み出し、人も好ましくなる。
では、それはアーレントの議論と何処が重なるのか? 「自尊心の最初の動き」が生じるのは、『不平等論』の「第二部」において、人類が原始的な道具や技術を持つようになり、人間が他の動物に対する優越性を感じるようになってからである。ここに、何らかの人間の支配性の確立を見るのは容易であろう。自然に対する技術的な支配であれ、また他人に対する優越性であれ。(アーレントにおいては、ホモ・ファーベルこそが世界性の主人たりえたし、彼女の政治モデルの依拠は、そもそも奴隷制を下敷きにしていた。)
つまり、何らかの自尊心の感情の問題が、中立的にか、あるいは良い方向にも悪い方向にも働き、それが公共性の問題、あるいは政治思想の問題にもなりうるということである。(ルソーにおいて当初、自己愛が徳と結びつき、自尊心が名誉と悪徳の源泉になってはいたが、むしろルソーの論述の揺れ動きから帰結するのは、自尊心の側は徳の“使用”に関わるのではないかという問いである。故に、公共性や政治の問題に変わりうる。)
あるいは、精神分析的には道徳的な感情の結び目に位置するのが、自尊心の問題といえる。つまり、自我理想や超自我の中間性や使用。
■アーレントが見取らなかったもの
では、ギリシャ的な主人は奴隷を差別していたのか? 自らを統治し得ない者たちの統治ないしは支配。己を訓育し得る者が、そうできない者を忌み嫌うのは、差別か区別か?
主人と奴隷の違いは、政治的不平等ではある。だが、これが差別とは一概には言い切れない。これを差別とし、ある種の平等ないし一様化を認めるなら、両者の“区別”が見失われる。では、主人とは何故にして主人であり、奴隷は何故にして奴隷なのか?
アーレントによるギリシャ・ポリスへの参照は、理性的という意味においてはまだ問題を残していた。なのでここでは、ルソーを参照にしてみよう。
彼が言うところによれば、動物たちは我々の家にいるときより、森にいるときの方が大抵は背が高く体格はより頑丈、いっそう元気で力も勇気もあるという。動物たちは家畜になると、これらの長所の半分を失ってしまう。(念の為、断っておくならアーレントの議論とは違い、動物=奴隷ではない。アーレントにおいて奴隷は、自らの動物的な生命過程や新陳代謝に従うこと、つまりは労働 labor を言うのだった。)
《そこでこれらの動物をたいせつに取り扱い、養おうとするわれわれのすべての心遣いが、かえって彼らを退化させる結果になっているといってもいいくらいである。人間の場合も同様である。社交的となり、奴隷になると、人間は弱く臆病で卑屈になる、そしてついに彼の柔弱で女性化した生活様式は彼の力をも勇気をもすっかり衰弱させてしまう。》ibid., p.49
つまり、ルソーの場合は動物が家畜になった状態を、人間が奴隷になった状態と対照している。自然状態においては、動物も人間もある意味では同等である。動物の家畜化と人間の奴隷化が対照され、両者の差異は、人間の奴隷化の方が大きいとされる。
《なぜなら、動物と人間とは自然によっては同等に取り扱われたのだから、人間がその飼い馴らす動物よりもよけいに自分に与える便宜は、そっくりそのまま人間をはっきりと堕落させる特殊な原因となっているからである。》ibid., p.49
ここで言わなければならないのは、アーレントはこのルソーのいう差異こそ見過ごしているという事態だろう。
動物の家畜化よりも人間の奴隷化の方が、その便宜からして堕落の程度が大きい。もし、これを真に受けるなら、われわれは理性の自由な行使の有無で主人と奴隷を分けるだけでなく、その自然状態—感性的存在—から鑑みた場合も、その堕落の程度を伺えるのかもしれない。その場合、人間の動物化ということで問題なのは、動物の家畜化以上のことになる。では、人間と動物の違いはどこに求められるのか?
おそらく、私は聴いたことはないが、動物は自ら家畜になるように意志することはあるまい。だが、人間は、自ら奴隷になることを意志することがある。この意志という意味では、動物と人間は区別できる。単なる感覚の機械的な過程に従うのみなら、それは本能と呼ばれる。だが、人間にはそれに従わないことも理性的には可能だろうし、従うことを選択する場合もある。妙なことをいうなら、アーレントは確かに言論と行為の側面を言ってはいる。だが、感覚の問題を低く見積もったのではないか?
アリストテレスが政治的動物という時に既に、このような自然の感性の側からのポリティクスという側面はあるように思われる。あるいは、端的にルソーの述べる自然人 l'homme naturel は、アリストテレスの政治的動物のアンチの可能性がある。そして、“知性的な”言語コードは、そもそもが戦争状態のように思われる。では如何にして、そうではない政治は可能なのか?
■ルソーの言語論と精神分析
ある観念が“感覚に”呼び起こされる時に、つまり想起される時に、それは知性による比較の概念を必ず経由しているのだろうか? むしろ、知性の働きこそが純粋な感覚における想起を遮断しているというのは、精神分析的にも言えるのではないか?
もちろん、この場合の知性は一般概念を語によって把握する。語表象と物表象の区別はここで重要になる。動物にはシニフィアン連鎖ということはあり得ない。あるいは、人間の動物的な側面、動物としての人間にはシニフィアン連鎖は見受けられない。(あくまでそれは、語による知性の比較と理性の改善能力を前提にする。つまり、知性の働きと精神の結び付きに限定される。その原動力としては、情動の働きがあるにせよ。)
つまり、ルソーは自然言語ないし人間の叫び声や身振りから、一般言語に向かう問題を問いかける。この移行は、連続してもいなければ滑らかでもない。
■ニーチェとの距離と神学への架橋
ルソーの場合、自己愛 amour de soi と憐れみ pitié の感情は、人間の意志に拠らない。(動物的な面であり、自然生成的で、おそらく神学で恩寵=恩恵と呼ばれるものはこの優しさのことである。故に、優美さにも結びつく。)
一方で、本来は中立的なものだが、悪にも傾きやすく、善に導く性質もある自尊心は、人間の意志の圏内にまだある。故に、ニーチェは力の意志から共感を禁じたはいいが、それは一面では正しいのだが、意志によらない自然な感情としての憐れみを捉え損ねている。彼の狂気は、それを物語る。確かに、悪に傾いた—それは社会的な美德や善を纏っている—自尊心の示す優しさは危険である。その意味でのニーチェの警戒は正しい。だからといって、自然な感情そのものが否定されてもなるまい。(力の意志はその両方に引き裂かれる)
精神分析においても自我理想と超自我のあいだの問題は、欲望と享楽—それらは未だに無意識の意志的な部分との繋がりが残されている—と呼んでもかまわないのだが、ルソー的な自己愛と自尊心のテーマにも変奏できる。
だが、自己愛による“憐れみの感情“とは、意識であれ無意識であれ、人間の意志には依らない=拠らない(依存もしなければ、根拠もない)。つまり、本来なら“憐れみの意志“ということは、他者に向けるのであれ、あり得ない。ニーチェはそれを問題化した。あるいは、ニーチェはキリスト教の道徳性—司牧権力的—を批判したのはいいのだが、恩寵と救済論の射程—時間論と経済論—までは、捉えることがなかった。
精神分析においても、自我理想と超自我を、無意識を含めた意志的なものとしてだけ捉えるなら、それらの「感情」としての側面は切り捨てることになり兼ねない。
(そう考えれば、アーレント的な政治学が、ギリシャのポリスに依拠した“徳性の政治学”と、既に初期の頃からテーマにある“キリスト教的な愛の概念”に源泉をもっていることが見えてくる。)