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per l/a psicoanalisi

模倣、経験の破壊、救済

2018-02-22 20:31:17 | Essay
神話的な起源に属する暴力の話をしよう。仮に、人類最初の暴力と言ってもいいかもしれない。それは、“同類たちに似る”こと、つまり「模倣の能力」に他ならない。何故なら、似ていれば彼らは良くはしてくれるだろう。だから、何らかの危機に瀕した人間は先ず、まっさきにこの同化を成し遂げる。

だが、この模倣の能力は、“自分自身に課せられた”「自分に似ることの強制」以外ではない。つまり、この能力の起源には、何らかの危機や破壊の刻印が記されている。ブルジョワの起源や記念碑の上には、“経験の破壊”があるのかもしれない。いや、近代科学成立の起源、デカルトの起源にも?

最初の印が、“生き延びるためだけに”課せられた“強制の刻印”を帯びている。つまり、それは「残酷な印」でもある。

親に似る、親類に似る、同級生に、会社や社会の同僚たちに……生き延びるために、それだけに尚一層過酷に課せられる強要と保存への要求。だが、ここからは「最初の経験」が排除される。

つまり、類似性の法則、模倣の能力とは、強制力による歪みでもある。その歪みによって私自身の「本来の場所」は“特異な仕方によって”追放されている。その“郷愁の感覚”がメランコリーである。恋は時々、ある郷愁の感覚を呼び醒す。忘却するとは、もはやそのような経験の可能性すら埋没しようとしていることに他ならない。

このような感覚や霊感によって呼び起こされる経験の喪失や破壊とブルジョワ的な豊かさの間で、ベンヤミンは思考を始めた。アガンベンの『スタンツェ』の中では、われわれの文化において認識が、二極(美的=霊感的な極と合理的な=意識的な極)の間で引き裂かれてしまったと述懐される行がある。


批評としての救済の身振り——。それは、初期ベンヤミンの感覚と美学批評としてスタートしたアガンベンに、共通の問題意識だったのかもしれない。

美の理念から陶酔の感覚

2018-02-15 18:51:47 | 精神分析について
1. 美的な理念においては、それが抽象による束縛は免れていないにせよ、恐怖や強制力が縮減されているということが重要だろう。その最初の形象が《アウラ》と名指された。仮に《一》の理念を措定するにせよ、それには既に大文字のファルスは効力を失っている。

ラカンを読む限りでは、その部分はどうも不明瞭に留まるし、はっきりと言明もされていない。ある識者も、《一》の享楽と《ファルス》享楽の区別については分からないと言っていた。

仮にだが、精神分析のプログラムのような構想をするなら、美の理念や領域に関する考察は絶対に外すことはできない。もちろん、神話的な美が無条件に称揚されてもいけない。だが、美の考察を抜きにしては、精神分析が何たる実践かは伝えることはできない。

神話の中で沈殿した暴力。『暴力批判論』における、“神話的な”暴力と“神的な”暴力の対立。精神分析の中では、最初から神話的な暴力装置を停止させるような神的暴力が問題になっていたとは言えないだろうか?

法概念に既に、人間の運命や罪、贖いという問題は含まれている。だが、精神分析はそれを終わらす。受け入れられがたい。それを抵抗と呼んでいいかは分からない。精神分析それ自体の抵抗とその彼岸。敷居という観点から見れば、贖いや贖罪、犠牲という問題も二重化している。

法の圏内でナルシスティックに犠牲を美化していること(残酷)と、法との闘争において自らを犠牲にすることは、贖罪や贖いという見方からも異なってくる。罪を存続させる為の美化に陥った者と、罪を終わらす者。


2. 精神分析のペスト性とは、その用語法と裏腹に神的暴力のことだと考える。

精神分析の(無)条件性についてだ。ここに、分析家が担っている問題と、分析主体(になる者)の問いの決定的な非対称性がある。

“無意識の”主体においては、決定的に何かが“終わっている”。だが、その主体はパッサージュに躓いている。精神分析は、それを転移において再び遂行する。


3. 書物が理性の調和に回収されるだけか、書物が一つの傷口なのか? アコギな著作をまた出しただけなのか?

古い法を再建し、復讐の等価交換を演じただけなのか? あるいは、新しい法の中に消える“最初の”英雄になったのか?

“現前していること”のペテンな法の装置の歯車に終わるのは何故か?

贖いとは、罪なき者が消え去るということだ。そのような意味での贖いは、“高次の”犠牲になる。彼・彼女は神話的な世界に回収されたのではない。ヒエラルキーという意味で“高次の”象徴秩序(名)の犠牲になった。罪なき人間が。

ここに一つ、崇高な震撼させる問題がないだろうか? ベンヤミンはゲーテの《結晶化》という概念に、革命の契機を見とる。崇高に“動的なもの”を見たカントとは対照的に、ベンヤミンにとって革命は水が氷に変化するが如く、瞬間の停止(“質的変化”)の契機なのだ。だから、彼は名において革命が進行していると言うことができた。

革命に熱狂を見てはいけない。革命とは本質的に、時間が停止する震撼という崇高な契機に他ならない。それは、名の中で静かに進行している。


4. 〔革命とは、熱狂とは無縁だ。それは醒めている。熱狂し浮かれている連中は、そんなことに思いも及ばない。だが、革命とは名の中で“密かに”進行している。熱狂を夢見るのは、その者“自身”が病んでいる証拠だ。〕


5. 神話的なものの時間形式は、反復だとベンヤミンは定義している。ここから、永遠回帰の問題点が浮かび上がるが、永遠回帰がそれ自体パッサージュの問題ということまでは、思い至らない論者が多い。つまり、永遠回帰は同一物の空間的布置の回帰である一方で、そのモーメントの亀裂までも予見する。

モーメントであるということは、その布置関係には、それ以前とそれ以後の問題が横たわっているということだ。だから、ニーチェのように永遠回帰は、敷居の“躓き”にもなり得た。神話的な強制力が衰退するのを“美”において見抜いたベンヤミンは、アウラの輝きを無自覚ながらかその同一物の“中に”見出していた。

神話的な強制力に服した秩序とは、むろん空間的な布置(それをシニフィアン的な布置と言い換えても間違いではない)を持っている。だが、その同一物の布置が揺らぐ契機もその中に潜伏している。精神分析の対象は、それが“一回性”を失った対象であると思い出してもらおう。

そう考えると、ここでもファルスの意味作用の支配下にある問題(シニフィアンの空間的布置関係)と、それを逃れ、転覆させる対象の問題(その一回性を失った対象)という二重化された構造が浮かび上がる。

つまり、分析空間(その移行を含めれば時間)は、両義的だ。かたや恐怖症的な対象(Φ)によって反復される問題点があり、かたや無意識の対象として、その布置関係を変化させ、最後には主体を転覆させるような情動のドラマがある。

ここまでの帰結として、美的な対象の側には既に、ファルスの強制力を宥和させるような力学(非の潜勢力)が用意されていると見なせないだろうか? 分析家が担うのは、対象のポジションでもあるが、そのような対象に既に働いている、−Φ 的な停止点でもある。

〔単なる“S1 の再生産”のような解法では、どうとでも言えてしまう。それに内在している問題までは、見えていない。永遠回帰は、歴史的出来事を再生産するというテーゼがある。〕


6. 享楽というだけなら、それが“熱狂的”なのか“陶酔的”なのか分からない。ベンヤミンはある著作で、“陶酔による自我の弛緩”ということを言っている。それとは対照的に自我が強化されるような享楽や熱狂もあり得る。

アウラとは、美的理念の宥和的形式でもあるのだから、この効果(陶酔)により自我が弛緩するというのは、私たちが美しいものについて抱く態度とも関係なくはない。

麻薬以上の麻薬とは、自我—とりわけ“強化された”自我—なのだとしたら? 事態は一転する。享楽は、毒にもなることを忘れてはなるまい。

自我の目覚め? その覚醒? 危うい。自我とは、それ自体が麻酔薬だ。確実な自我とは、麻薬の一変種だ。ベンヤミンの実験の逆説だろうか?

精神分析は何故、パロールから始めるのか? 人間が言葉を話す。あるいは、韻律を紡ぐ。そこに既に、音声による陶酔(自我の弛緩の効果)があるのかもしれない。それはエクリチュールにより確証を得る“手腕”とは全く違う。


7. 他者に色あせた自我のイマージュを見るための奮闘は、熱狂と徒労に終わる。陶酔とは、逆に醒めている。

本来的に麻酔薬、麻薬たる自我の覚醒ではない。自我の弛緩による陶酔は、目覚めを伴っている。恋愛も陶酔の経験を伴う。

根源経験(享楽体験ではない)とは何だろうか? それは、事物の名の“中に”参入することだ。その名と事物のイマージュの繋がりを通過—パス—することだ。つまり、偶像崇拝による熱狂とはまるでその経験は異なる。

夢のイマージュの中にも、物のイマージュの名残りが既に潜み、呼びかけいる。名の中に残ったイマージュの言語。それを、フロイトは“夢の思考”と呼んだ。それは、《象形文字》のように判読できるのではなかったか?

そう考えると、精神分析において名の問題は、そのイマージュと不可分であることが伺い知れる。その意味で、精神分析が夢を扱うことは、核心=革新的である。

そこには思考の根源経験が印されている。

名とイマージュの問題への布石(もしくは、敷居の躓き)

2018-02-13 18:32:06 | Note
ベンヤミンの感覚としての敷居——。これは単に空間的なのではない。時間が絡んだパッサージュの問題でもある。つまり、そのようなモーメントはそれ以前とそれ以後の二極を備えている。初期からベンヤミンを捕らえた問題は、その神話的でもあり魔術的なモティーフがパッサージュとしても負荷を帯びているということだった。

《事象世界の神話的な形象性格はその世界が次の事象世界によって分解されたときにはじめて現れる》——ヴィンフリート・メニングハウス『敷居学 ベンヤミンの神話のパッサージュ』p.99

つまり、こう言って差し支えない。現に事象として現れ出ている神話世界は、もはや既に、次の事象によって分解が進んでいる。事物のイマージュには、この時間の二極が極度に緊張を帯びた負荷として印されている。われわれが名前の“中に”持つイマージュ。これこそが、歴史的だ。

それは、神話や魔術との繋がりを保持しながらも、それ以後の事象世界との繋がりも保存している。しかし、それが現れ出る時には、次のものによって崩壊しているかのように。イマージュと名の問題。

名だけの人間、つまり死者は、生前と死後という二極を担っている。それは、われわれの記憶に名を持つ者として呼びかける。名の中で、密かに変転する事物の生。


アガンベンの『言語活動の秘蹟——宣誓の考古学』(2008) は、このベンヤミンの固有名に関する洞察を引き受け、ある形で名声や呪詛に纏わる政治神学的な議論として、展開させたものと言っていい。

秘蹟 sacramento というからには、これは言語活動の(仮に論理のとしてもよい)“秘密 segreto”の問題になる。言語活動の“奥義=謎 mistero”だとしたら、それは問いや知の形式があくまでも前提され、探究され得る。だが、言語活動の“秘蹟 sacramento”といった時には、それとは構えが異なってくる。

こう考えると、アガンベンの政治神学上の問題は、経済学としての奥義=謎 mistero と純粋に政治神学的な秘密 segreto として分裂していると、措定することができる。(『王国と栄光』(初版2007)ではこの亀裂が問題になったと読めるが、このような問題は最初期のアガンベンにも見受けられる)

神話的な美の仮象は確かに、そのエコノミーに捕らえられていると言えそうだ。だが、純粋に論理の仮象に至ってはどうだろうか? ベンヤミンにおいてもこの両者は錯綜している。だが、精神分析は幻想の論理を扱えるが故に、ここでは強みがある。

“象徴”とは魔術的な要素(名)があり、“アレゴリー”には神話的な要素(イマージュ)があると区分けすべきか? 両者は交錯しているが、この線で神学的なアガンベンと美学的なアガンベンの線引きはできないだろうか? 安易な要約は許さないが、ベンヤミンにおける錯綜が、アガンベンにも踏襲されている。

《ベンヤミンはすなわちカッシーラーと同じく…〔略〕…結局は魔術的象徴と神話的象徴の明確な意味論的区別を断念したのである。》(ibid., p.108)


〔仮象としての美の宥和的形式—アウラ—から救済論へ。そう考えると、幻想においては神話的な形式が強制力と恐怖を失い—つまり、大文字のファルス的なものは失墜し—、既に衰退している。〕


†ここで私が、かろうじて据えたのは、敷居に潜むヒエラルキーの秩序(閾の配置転換の構造)である。諸事物 le cose には、昼と夜のファザードがある。昼には見えていた事物のイマージュは、夜には声として囁く。‪〔古代人は、天上の星の囁きを聴いていたに違いない。〕

忘れられているのは、文字を“聴くように”読むということだ。つまり、“書かれていないこと”を読むということ。

過去とメシア的記憶〜根源の渦と名〜声の経験

2018-02-01 12:19:01 | Note
(無秩序な断片的な覚書きとして…)


“L'immemorare viene definito da Bloch anche come «esperienza massimamente integrale del soggetto morale-logico».”

“Immemorare [Eingedenken] はブロッホによって、《道徳-論理学的主体の主要に欠かせない経験》としても定義されるだろう。”

“Un simile atto di redenzione è in gioco nell'immemorare: quell'Eingedenken che deve avere profondamente colpito Benjamin, attento lettore dello Spirito dell'utopia all'epoca del suo esilio volontario in Svizzera nel 1919.”

“贖いのそのような行為は immemorare、1919年にスイスへ自ら亡命した時期に『ユートピアの精神』の注意深い読者であったベンヤミンが深く感銘を与えられただろう、この Eingedenken において賭かっている。”

(Stefano Marchesoni)



ベンヤミンのメシアニズムの問題の源流に、エルンスト・ブロッホがいる。つまり、そこには記憶の問題がある。メシア的記憶とも呼べる何か。君自身が君自身を救う。だが、どの場所でどこに向かい、どうやって?


“Indubbiamente la questione della memoria e del ricordo rappresenta uno dei fili conduttori del pensiero maturo di Benjamin.” (Stefano Marchesoni)

“疑いなく想起と記憶の問題は、ベンヤミンの成熟した思考の導きの糸の一つを表している。”


«Struttura dialettica del risveglio: ricordo [Erinnerung] e risveglio [Erwachen] sono strettamente affini. Il risveglio è cioè la svolta dialettica, copernicana dell'immemorare» Benjamin

《覚醒の弁証法的構造:記憶と覚醒は緊密に相似している。覚醒はつまり、弁証法的転換点、immemorare [Eingedenken] のコペルニクス的な転換点である》ベンヤミン


“È evidente come qui non si tratta di un semplice ricordo, di una mera presentificazione o rievocazione del passato.” (Stefano Marchesoni)

“ここでのように、単なる記憶(過去の純粋なある現前化ないし想起の)が問題ではないことは明らかである。”

つまり、精神分析も単に過去を思い出すということが問われているわけではない。現在との関係におかれた覚醒の問題としての記憶が問われていて、単なる想起とは違う問題があると指摘したい。

“La «svolta dialettica» consiste nel ripensare da cima a fondo il rapporto tra passato e presente, nonché lo statuto stesso del passato.” ibid.

“《弁証法的転換点》は、過去の同様の規定はもちろん、過去と現在の関係を徹頭徹尾再考することに根拠がある。”


君を覚醒するように促す過去の弁証法的イメージ群(と名?)、それらは現在を当に“呼びかけて”いると結論づけるのは早急だろうか? この問題は、更に検討する価値がある。また、アガンベンが過去こそが現在に繋がる唯一の道と述べるにあたり、ベンヤミンの考察がもちろん潜んでいることも忘れてはならない。


バロック的ドラマトゥルギーから渦の根源。

“Notoriamente Benjamin pensa questo scarto improvviso come un vortice nel flusso del tempo...” (Stefano Marchesoni)

“周知なようにベンヤミンはこの予期できない開き〔引用者注・過去と現在のあいだの差〕を時間の流れにおけるある渦巻として考える…”

これは、アガンベンの小論でも名との関連で論究されていた。そして、名とは渦の極北として、それ自体が方向を持ち示されていた。また、別の場所では、名は“呼びかける chiama”言語活動における声の問題を孕んでいた。


«L'origine sta nel flusso del divenire come un vortice [Strudel], e trascina dentro il suo ritmo il materiale della propria nascita» Benjamin, Il dramma barocco tedesco

《根源は一つの渦として生成の流れの中に存し、そのリズムの内部に固有の始まりの物質的なものを引きずる》ベンヤミン

つまり、ここでは名によって方向づけられたリズムと声の側〔広義のフォネーや詩的韻律〕が根源として、マテリアルな享楽をも引き入れると解する方が妥当だろう。

イタリア現代哲学の宗教的ともいえる問題は、フランス現代思想の躓きをある意味で凌駕する。そして、この根源と起源の配置転換 la dislocazione がイタリア的とも呼べる思考—イタリアン・セオリー—を特徴づける。


《要請は道徳的カテゴリーではないという事実からは、要請からはなんら命令も出てはこないということ、すなわち、それは当為となんの関係もないということが帰結する。》——アガンベン『哲学とはなにか』p.55

文頭で、ブロッホの“道徳-論理学的主体の主要に欠かせない経験”という言葉を紹介した。だが、逆説的にそのような主体が経験するのは、もはや道徳的カテゴリーには属さず、命じられることもない、ただ“呼びかけられる”経験なのだとしたらどうだろうか? ここに眼差しの問題から声の呼びかけへの転換点を見出せないだろうか?


†ここで、精神分析のパロールの実践における詩的韻律と言葉の問題を再定義するのも無駄ではないだろう。身体の出来事という時も、これは言語活動との遭遇という言葉のショックの側面が強調されているに過ぎない。では、パロールの詩的韻律と欲動ならびに身体は、どのように関わるのか?

それは、通常のロゴス(理性、比率)によっては掬えない欲動の問題や身体性を備えている。それをたんに身体 corpus と呼んでいいかは、私は分からない。むしろ、そのような問題は、肉感性に近い何かではないだろうか?

以前に別所でではあるが、メルロ=ポンティにまで迂回しながら、シニフィアンには既に肉の両義性が絡み合っていることを指摘した。仮に、シニフィアンにもセクシュアリティの問題を認めるなら、シニフィアンの感性論は避けては通れまい。それは、ロゴスとセンスのあいだに一つのパッサージュを描くことになる。

私がイタリア的な問題に向き合ったのは、その“あいだの”構造に何らかの配置転換の装置が働いているということを突き詰めるためでもあった。アガンベンならそれを、“閾の思考 il pensiero della soglia”と呼んだだろう。

もう一点、重要な問題は、“言語においても”眼差しと声の差異を明確にすることだった。エクリチュールとパロールのあいだに、“無限の距離”を測定することでもあった。

私が過程でぶつかった問題は、臨床実践においてもぶつかる抵抗点でもあろう。