ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

ヒステリーとエディプスを再び—歴史性のリミットの間隙

2017-06-15 20:00:23 | 精神分析について
セクシュアリティと文学的エクリチュールという問いを立てた時、既にそこに作動しているのは、法形式の問題だった。その場合、欲望とはその実現ではなく、法における消去と逸脱の迂回路を目的とするのであり、自己目的的ではない。それは、達成されない限りで、達成する。

しかし、もう一つの条件がある。法=掟の出現、あるいは法=掟の前への出来について、我々は何ら合目的性があるわけではなく、“不条理な仕方”で、あるいは“他者の呼びかけ”によって、差し止められているということだ。そこでは、明晰な知は、それ自体が起源との関連に置かれることで、疑念と懐疑を呼び起す。

欲望の起源//法の根源という問題を立てた時、それ自体がフィクションであることを精神分析は否定しないだろう。だが、それは裏を返せば、欲望それ自体がフィクションとしての問題を保存しているということでもある。そう考えると、精神分析における出来事とトラウマの問題は二重化される。それは、トラウマ的でもあるのに欲望との関連におかれること、そして、そのような出来事はフィクションとしての性格を拭い切れないにも関わらず主体を捉えること。

精神分析においても起源や根源は、亀裂や侵食に絶えず付き纏われている。それは、物質性や志向性によっても覆い隠すことはできない問いだろう。何故なら、物質や志向が出来事としての歴史的性格を獲得したとたんに、そのような歴史的出来事は、物質や志向にも亀裂をマークするからだ。

仮に、出来事が物質的であるとはいえ、その物質的出来事の現れや遭遇は、主体にとっては歴史性の問題なのだ。テクノロジー然り。それゆえ、テクノロジーは問題を解決するどころか、それとの出会いが受苦にもなる。

言葉を物質性とみなすにせよ、歴史においては、その主体は出来事によって籠絡され、追放さえされている。このような主体は、対象志向的ではない。能動-受動、サディズム-マゾヒズム以前のパトスを被っている。それは、主体の選択以前の問題ですらある。対象を志向するような主体を考えてはならない。むしろ、対象に絶対的受動性として捉えられ、取り憑かれている主体である。むしろ、主体が出来事の客人である。

その意味で、法=掟が保証しているのは、何も適法性や合法性なのではない。アウトロー、逸脱、法の倒錯性だとしたらどうだろう? 純粋な普遍的法とは、根本的に堕落するものではないか? そのような法が機能する与件としての、法の堕落と倒錯性があるのではないか?

ここにおいて、主体、対象、法、そして出来事の関係は錯綜としている。出来事の主体とは、そもそも客体の客体である。そのような無条件性の為に、法の倒錯性があり、その限りで法は機能する。生起とは、到来である。その度毎に、一度限りの不可能な生起=到来。



ヒステリーは衰退した。エディプスの主体は居なくなった——。

我々は、こういうあからさまな言説に馴らされ過ぎている。それが、どういう事態なのかを思考し、問い詰めることを止めている。

ヒステリーにせよエディプスにせよ、痕跡における亀裂とマークの問題として突き詰めることができる。ここでの考察では、欲望の起源と法の根源の亀裂を「ヒステリー」の問題として名指した。そしてその時、「エディプス」とは、欲望の起源の問いとその特異性、また、“不条理に”ないしは“他者からの呼びかけ”に応じて、絶対的受動性を被る形で、普遍性に差し止められている形式として考えた。

では、何故、それらは見失われ衰退するのだろうか? もしかしたら、それが記憶痕跡の「場」に由来する性-政治的な問題だとしたらどうだろうか?


《コーラとは、存在の二つのジャンル(不易にして叡智的な/滅びやすく生成状態にあり感性的な)に対する triton genos〔第三のジャンル〕であるのだが、それは同時に、性的なジャンル=ジェンダーに関しても限定を受けているようにみえる。》Jacques Derrida, Khôra (1993)

“……コーラは、父とはカップルを成さない。換言するなら、模範的なモデルとはカップルを成さないのである。” ibid.

Derrida による Foucault 批判—誇張と身振り

2017-06-09 20:40:11 | Essay
Derrida による Foucault 批判というのは、理性における狂気の可能性であり、理性の外部や排除という問題ではない。それは、構造やシステムにまで拡張可能な狂気である。

逆説的にも、これは神学的には摂理と呼ばる統治に近いのではないだろうか? 人間理性の狂気と神性の摂理が、統治性のもとで合致する。一人一人が決断を含めた狂気を担うことが、ある神的な救済の条件であるかのようだ。この狂気の決断とは、メタ修辞的である。〔Kierkegaard のアイロニー〕

Derrida の Descartes 解釈においては、まさに狂気において「我思う、故に我在り」なのだ。Derrida は、そのような理性と狂気の対話の点、歴史の諸形態の全体性からの逸脱を、「誇張的なものの切っ先」と表現する。このような誇張性が修辞的な問題により鈍らされているのが、昨今のディスクールだ。

つまり、このメタ修辞的な狂気の決断を、修辞的に還元し、深みにおいて反省や他者との対話を期待すること。これが、実のところ、理性のまどろみであり、魅惑的で欺瞞的でもある独善的安心の正体ではないだろうか?

こう考えるとどうだろう? エクリチュールにおけるステイルは、メタ修辞的な誇張法を身振りとして隠している。それは、決断しないでいることも含めた、行為性の水準も、消え去りとして表現している。


■後記:

この理性の境界としてのエクリチュールとステイルの問題は、後にシニフィアンの感覚〔方向〕=センスと肉(メルロー=ポンティ)のスタイル論としてより発展的に語られた。

introjection/incorporation における転移と同一化

2017-06-07 20:07:03 | 精神分析について
Freud においては、喪の作業の帰結として同一化が生じる。これは、Lacan とは違いがないだろうか?

Freud を真に受けないまでも、この辺りの Lacan や Derrida との比較検証はあっていい。分析の終結という問題にも繋がる。

例えば、Lacan 的な同一化は、体内化/取り込みの「線」で解釈することもできる。 では、体内化と取り込みは、どのように区別され、また境界を共にしているのだろうか?

Freud の場合、同一化とは体内化とほぼ同義である。その成功が、精神分析の喪の作業として、分析の終わりを含意する。
Lacan の場合、同一化は体内化/取り込みの両義性を保存していると見ていい。一方は、幻想の論理として、もう一方は、純粋な対象喪失として。
だが、Derrida の場合は複雑である。彼は、M. Torok に依拠しながらも、体内化/取り込みの境界線を脱構築しようとする。 単一の線を、“父には”帰属せず回帰しない散種へと、ある経済的な遅延を伴うエクリチュールへと仕立て上げることが、Derrida の狙いであるかのようだ。


取り込み(または取り入れ)introjection は、Ferenczi がもたらした概念だが、いわゆる正統派精神分析では、その十分な問題が汲み尽くされないで使用されたというのが、M. Torok の主張である。

これについては、同一化のみならず転移を考える重要な問題にもなる。 Ferenczi によれば取り込みとは、必ずしも愛の対象の現実的な喪失を必要としない。それは、「欲動とその変転の総体」を取り込み、対象はそのきっかけに過ぎない。

Derrida の指摘によれば、Ferenczi を参照にしている M. Torok は、「取り込みが単に対象ばかりでなく、それに関わる諸々の欲動を内包する(封入する)inclure と言い添えている」ということだ。

ここに何やら、転移と同一化が、既に欲動の運命を巻き込んでいることを読めないだろうか? それは必ずしも、現実的な喪失を必要とはしないまでも、“過程においては”そのような喪失が、問題化される。

幾つかの訴訟のような亡霊たちのざわめきとしての精神分析——?