それは、どこに求めればいいのだろうか? 例えば、革命論においては“始まりの暴力性”が指摘され、革命における“創設的な行為”においては「自由」がそこになければならない。(つまり、アーレントにおいて始まりは矛盾点でもあり、躓きの印でもある)
アーレントに足りなかったのは、おそらくは円環の運動(循環運動)の回帰の必然性と論理的な直線運動の必然性の区別だった。彼女のマルクス解釈において、それは「自然的強制力」として理解されるに至る。しかし、それは正確にいうなら自然の強制力 force と“過去の始まりの”暴力 violence との結合・結び目としてある。自然的強制力が常に暴力としてあるとは限らないことが、この全体主義批判を企図した文脈においては見えない故に、ルソーの自然状態に“始まりの暴力”を見てしまっている。
そして、それら二つの運動の必然性の区別がないということは、回帰的な時間性と直線的に進む時間性との弁別が失われていることに等しい。
そう考えると、アーレント的なパラドックスを解く方法というのは、ある種の時間論の導入だということになる。(あるいは、回帰的な時間と直線的な時間の“間”に留まるということ)
あるいは、精神分析の用語にパラフレーズしてみるとどうだろうか? エスには強制力があるとも言える。だがそれは決して、その回帰的な性格が暴力であるとは限らない。その僅かで微小な偏差。そこに、自由や新しさの「経験」がある。こういってよければ、ある意図 purpose における目的=終わり end と目標 goal の位相差。
★アーレントの全体主義主義批判の文脈は、政治的な領域を手段—目的のカテゴリーとして捉えてしまうことへの警戒と結びついている。つまり、そのレベルでの〔制作のカテゴリーの〕政治化への企図は、自由ではなく支配にたどり着く以外にない。始まりは“予め”特定の目的=終わり end に結びついている。(これが、〈工作人〉の仕事 work の領域のあり方であり、それは道具的理性としての性格を保持している。工作人の力 strength とは、自然にある種の改変を加える物理的強制力 force でもあるが、それは活動の権力 power ではない。そして、その力 strength が支配に利用されれば、暴力 violence になりうる)
一方で、アーレントが全体主義への批判から本来の政治的領域を描こうととしたのは、その活動 action—正確には、活動の権力 power—には、目標 goal はあるが目的=終わり end があるわけではないことを指示するためでもある。
始まり beginning において、仕事=制作 work の領域と活動 action の領域は力動的に相入れない。始まりが暴力でもあり、自由でもあるという事態は、アーレント的なパラドックスの一つとして挙げられるだろう。(暴力は支配の一形態であり、自由でも権力でもないのだから、アーレントの困難はそれらの隔たりや移行にあったといえる)
《始めに行為があった。始めに暴力があった。始まりの権力や暴力は権威になった。》
■第二のパラドックス—世界の始まりと現れ
アーレントにおいて政治的な場を構成する「世界」はどのように現れるのだろうか?(また、その「世界」は全体主義によってどのような危機を迎えていたのだろうか?)
アーレントにおいて「世界」は、人間の「活動」のみならず、政治的および公的な空間を構成する要素であることは認められる。また、別の言い方をすれば、人間の“活動なき”世界は、公的とは呼べず私的な欲望—貪欲さや傲慢—によって“消費”あるいは“破壊”されることは著作からも窺い知ることができる。
政治的自由とは先ず、世界への現れとして実現する。(なお、先に述べたアーレントにおける始まりの暴力性の問題を、その英雄主義的で闘技主義的な特性に求めるむきもあるが、私はそれには与しない。活動にも、活動により生じる権力自体にも暴力はない。というのも、暴力は権力とはそもそも相入れないだろうからだ。そして、暴力による支配が向かう先は、その道具的な手段—目的論の偏向性からいって、人間の活動というよりは、“活動なき世界”とそれに甘んじる“労働する動物”の方だろう。)
では、人間の活動の世界への現れ—それは「勇気」による暴露的特性を保持している—は、どのような状態にあるのか?
アーレント政治学におけるギリシャ的な特性は、政治的自由の「現実化」がそもそも共通世界に結びつき、そのような共通性を保持したまた世界に現れることにある。(そのような事実に立脚したあり方を、アーレントは「ユニークな存在の逆説的な複数性」と呼び、その事実性こそが、政治的自由の基本要素としてあることが認められる)
また、そこでの自由の現実化は、アリストテレスの定義に従えば共通善を目標 goal にした、エネルゲイアとして考えられるだろう。(一方で、活動によって生じる権力 power は、そのような現れに対して、ポテンシャルとしての状態にある)
世界におけるエネルゲイアとデュナミス。この両者を同義として、あるいは同時に論じるところに、アーレント的なパラドックスは潜伏している。言い換えるなら、アーレントにおける「世界」は、公的である限りでは、既に“複数の”人々の「間」にある。
《エネルゲイアに対し、その目標を指示するデュナミスは文字通りポテンシャルの状態にある。行為と権威の源泉の違いとして。》
古代からの主権権力 sovereignty の問題は、行為と権威の源泉を同一視することにより、人間の複数性の事実を傍に追いやり、自由意志を活動の中心に持ち込むことにある。これは後に、宗教的な葛藤としても浮上することになる。一方で、権威を構想力として、超越的な審級によらず構成するという問題もある。後者については、アーレントはカントの美感的判断力を参照にし、おそらくは約束や赦しの働きとして論述しているだろう。(我々はここでも、美の問題が人間同士の信頼や絆に結びつくことを確認する。全体主義における根源悪の問題が、この人間の繋がりを破壊し超え出てしまうことについては、また折を見て扱いたい。全体主義の罪とは、人間事象を超え出ており、人間の活動力としては扱えなくなることに注意が要る。おそらくは、メシアニズムが未だなお考察されなければならないのは、この根源悪の文脈においてだろう)
★アーレントにおいて、“共通感覚に根ざした”美感的構想力の政治的意図の問題は、自由や世界の/への「現れ」の一契機として、重要な側面を持っている。それは、活動に先立って、超越的な審級によらずに——故に、それは「生き生きとした経験」でもある——世界を判断する自由でもある。行為者 actor が世界に現れる以前に、世界は行為者の感性に潜在的に現れている。
■第三のパラドックス
カントの美感的判断力の政治性と物の世界の「間にある inter-est」こと(interest とは「利害-関心」の意でもある)、あるいは人間関係の「網の目 web」としての世界。
アーレントにおいて、活動と言論は人々の間で進行する。それは先ず、人々がその中を動く物の世界に関係し、物理的に人々の間にある。それは第一の介在 in-between であるともいわれ、利害関心 interest にも関係するのだった。しかし、この介在 in-between でさえ、全く異なる介在 in-between によって圧倒され、圧制されている。後者は、人間関係の網の目 web と呼ばれる。
そう考えると、アーレントにおける活動の暴露的なあり方は先ず、物の世界の客観的なリアリティの上で演じられ(故に、それは暴力とは異なる意味で危険なのである)、その活動と言論の過程は後者の触知できない網の目に影響を及ぼすということが理解される。(後者にももちろんリアリティがある)
最初のリアリティは物の世界の間にあるというそれであり、後者のは活動や言論が“既にある”人間関係に関わっているというそれである。
そして、言論による「正体=誰 who」(何 what ではない)の暴露と活動による新しい「始まり」は、常にこの“既に存在している”網の目の中で行なわれ、その直接的な結果も網の目の中で感じられるといわれる。そして、その活動の網の目への遡及効果には際限がない。(その際限なき遡及効果が、活動それ自体の“暴力とは異なる意味での”危険であり、その危険性故に活動にはある救済策 remedy が必要なのである)
ここに先ず、矛盾がある。アーレントは後にカントの美感的判断力に、カントは気づいてないかもしれないが極めて政治的な問題があるということを指摘していた。だが、カントにおける美感的判断力、その中でもとりわけ趣味判断における美の判定には“主観(主体)の利害関心の停止”という契機(カント自身の言葉では「関心なき満足」)が認められる。
私は先に、「行為者 actor が世界に現れる以前に、世界は行為者の感性に潜在的に現れている」と述べた。行為者が現れる世界性は人間関係の網の目の方であり、その現れ以前に行為者の感性に現れる世界は、“共通感覚や共通世界に繋がる”物の世界の客観的リアリティのことである。(しかしそれは、厳密にカントに従えば、“趣味判断においては”「主観的普遍妥当性」のことだともいえる)
つまり、『人間の条件』の頃のアーレントの活動と言論についての叙述は、二つのリアリティの間に連続性がまだあるとは言えないだろうか?
では、その両者を分離した意味で考える活動とその救済策は、如何なる関係があるのか? 活動以前の判断、それは物の世界のリアリティとして行為者の感性に現れているのだが、その判断こそが既に、活動に対して約束や赦しという救済策を“構成する”というあり方は考えられないだろうか?
私はここでアーレントの叙述に対し、あるアナクロニズムを導入している。通常、人間は過去に行ったことについて赦し、未来に約束する。そして、物の世界のリアリティを美の世界—しかし、美は対象の性質ではない—に置き換えてもいる。物の世界のリアリティが永続化され、記憶という意味で人間の生よりも長く残るためには、そのリアリティの変化が必須であるよう思われる。(美は有用性という尺度からは独立しており、物の手段—目的というカテゴリーからは離れた価値がある)
そして、活動が始める過程の不可逆性と予言不可能性に対する救済は、活動そのものの潜在能力の一つであるということは、アーレント自身が述べていることでもある。(『人間の条件』邦訳p.371)
★繰り返しになるが、仮にアーレント的な“活動の主体”という問題を構成するなら、それは美と自由の関わりにおいて考えられるだろうが、未だ理性に根拠を持っている“自由意志の主体”とは区別されるということに他ならない。また、このことは精神分析における「自由連想法」と関係があることも、別のところで示唆している。そして、アーレント的な活動の主体と自由連想を行う主体—分析主体—に共通なのは、理性的な伝達なのではなく、心情や感情の伝達なのである。ここで我々は、精神分析における自由連想の方法が、アーレント的な意味での活動に繋がるという奇妙な結論を得るに至る。分析主体になることは、既に“共通感覚 common sense に根を持った”活動の一環なのである。より踏み込んで言うなら、精神分析のもう一つの基本原則たる分析家の「平等に漂いわたる注意」こそが、カントのいう“共通感覚”の想定ないし効果—無規定の規範—でもある。(他方で、“自由意志の主体”によって論文作成術化に陥った精神分析のあり方は、その始まりから言って、支配や画一化といった問題と地続きなままであり続けるだろう)
ここまでの考察で、我々はアーレントが用いる「世界 world」という言葉、つまりはその「世界性 worldliness」に、様々な複合した形態があることを認めることができるだろう。その用いられ方は例えば、端的に「世界」という場合や、「世界への愛 amor mundi」、共通感覚の論点をも折り込んでいるだろう「共通世界 common world」、そしてその喪失である「世界疎外 world alienation」のように分節化が可能だろうし、アーレントはそれらを様々な文脈において、同時に(矛盾した形でも)使うこともある。つまり、アーレントにおいて「世界性」—そして、その「始まり」—とは様々なモードを持つ政治的な場のことでもあり、彼女の政治概念の根底にある問題だともいえる。またアーレントの政治思想は、その研究で名高いヴィラの表現を借りれば、皮肉交じりにも「ロールシャッハ・テスト」とも呼ばれる。「現れ appearance」の政治学と形容してもいいアーレントの思想を、私は世界の「物」の視点から移し替えて見ているとも言えるだろう。
しばしばその「活動」概念は人と人の間で行われることが重要視されるが、その舞台でもある「世界」は、物によっても成立している。世界の耐久性は、物が〔消費材ではなく〕使用対象物として存在することに由来したのだし、それは工作人が制作した世界でもあった。だが、活動においてその工作人の有用性の概念や手段—目的のカテゴリーを持ち込むことはできない(それは始まりの暴力にも転化しうる)。かといって、労働する動物のように消費することが、世界に安定性をもたらすわけでもない。そこで、美感的判断力が考察されたのだし、活動における永遠性のテーマが不死性とは異なる形で、美として、あるいは人間の記憶へと変換される形で保存-救済されるのだともいえる。
そう考えると、趣味判断は“現われの以前と以後”を架橋しているのではないかという疑問が浮かんでくる。美において、人間の活動力は世界に現われつつも、永遠として消え去る。だが、それは記憶として残り、その活動の物語や歴史として語られる。
『人間の条件 The Human Condition』のタイトルが当初、『世界への愛 Amor Mundi』になる予定だったことは知られている。ラテン語の mundus とは、ギリシャ語の κόσμος, cosmos の翻訳でもある。この含意を汲み取るなら、また我々はアーレントとアガンベンの思索における神学的なものの問題に出逢うことになる。
■第四のパラドックス—始めに愛があった?—公共性における赦し