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per l/a psicoanalisi

このコロナ禍にあって、我々の日本社会について再び考えたく思う候。

2022-01-24 17:38:00 | Essay

このタイトルは単なる冗談でしょうか? あるいは、ナショナリズムへの回帰現象を揶揄しているのでしょうか?(私の赤いマスクを見て、彼はコミュニズムを忘れてはいないと頷いた方もいるでしょう。これは冗談です。)

ここで我々と私が述べたのはなぜでしょう。私、僕、我々……、日本語の人称代名詞はそれ自体がある関係性を抜きにしては汲み取ることが困難な概念でもあります。

ここでいう「我々の日本社会」という時の我々。私のその用法。それに何らかの賭け金なり潜在的なもの、あるいは公的な現れに至るまで、何らかの含意を嗅ぎ取って頂ければ幸いです。

そもそも「日本」とは? この問いさえも多様な揺らぎを抱えた難しい問題です。我々の日本社会という時、それは「日本」という国家(近代法により措定された法治国家であれ、あるいはそれ以前にまで遡れるのであれ)とは別の、ヨーロッパ由来のプロブレマティックがあります。そのことについては私は、アーレントを紹介することにより書いてますので、ここでは繰り返すことはしません。

しかし、日本社会という言葉に、このヨーロッパ由来の社会概念が必然性へと転化すると同時に消失した、日本的コミュニティーを接続させたらいかがてしょう。(確かに厳密にいって、社会とコミュニティーには、それらの概念や用法に至るまで比較検証されうる余地が多大に残されています)

日本社会の成立や勃興、そして必然化以前に、我々は日本的な世間の構造というシステムを持っていたことは確かですし、もはや忘れ去られようともしています。字義的には世の間である世間、それに何らかの思考されるべきマージナルな問いが残っています。(国民国家を前提とした場合は、イマジナリーな問題にしか行き着かないでしょう)

そしてそれは、公共的なテーマや新たな、そして別のコミュニティーとして再び日本人に回帰します。あるいは、近代社会のオフィシャルな領域とそれ以前の日本的な公共概念(ただし、日本のオオヤケ概念はそのままパブリックと捉えることはできません)はいかなる癒着や癒合に囚われたままでいるのでしょう。行政や律法、しいては自治体の管轄ですら、それはオフィシャルではありえますがパブリックに開かれているとは言い難いの一目瞭然です。(パブリックなきオフィシャルという形骸化の惨劇)

官と民の区別を問わずに「ワタクシ」(そして、僕や自分)という領域が拡大し(その意味では、日本国家なるものは巨大な化け物のようです)、ただのエゴに転じた日本で、再び「我々」を問うことは可能でしょうか?

個人的な personal ことを書かせてもらえるなら、私は大学の知のコミュニケーションや交通とは、別の「道」を選んだ人間です。学際横断的と呼んでも、それは日本のシステムの内部ではパブリックを僭称したオフィシャルな制度のままだとも批判できてしまいます。そして、そのようなディスクールの手続きや配置、あるいは制度化や規制、警戒心に何らかの否定性 negativity を持ち込む人間です。

 

ここでは、イタリアの哲学者ロベルト・エスポジト——彼の述べる「免疫化」というパラダイムは、アーレントが固執した「出生」の秘密の一面を照らし出します——が指摘したことを再び取り上げれば十分でしょう。

《すなわち、しばらく前から我々がそうするのに慣らされてしまっているように、社会がリスクに対してたえず警戒心をつのらせるならば、かえって社会の発展は凍結してしまうことになり、ひいては、個人の自由という点でも、全体の利益という点でも、社会をその原始状態へと退行させてしまいかねないのである。》


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