水の典型的な運動は、スパイラルである。もし、河床の中を流れる水が、(支流や橋の支柱であろう)ある障害物に出遭えば、この地点に呼応して、ある渦巻の形態と実質を引き受けるスパイラルの運動を、(仮に安定していれば)生成する。もし、異なった温度または速度の水の二つの流れがぶつかり合えば、同様なことは起こりうる。ここでも私たちは、波または流れの流出において不動のままであるような渦が形成されるのを発見する。しかしまた、重力の影響の効果によって、泡の中で壊れるように、波の尾根の上に渦巻きも形成する。
渦巻は、太陽の周りの諸惑星の運動に比較された、固有の韻律学を持つ。その内部は、諸惑星が太陽からの距離によって、多かれ少なかれより速く回る通りに、外側の縁より大きい速度に向かい運動する。スパイラルへの向き変えにおいて、それは低い方に向かい長くなり、後ほど内部振動の一種で高い方へ再び上る。更には、ある対象が渦の中に落とされるままなら—例えば、針の形をした木の小片—、それは一定の回転の中で、言わば渦巻の北である点を指し示しながら、同じ方向を維持するだろう。渦巻が旋回することをそれに、そしてその方に止めない内部の中心は、しかし、ただの暗黒であり、その中で渦巻きの、または無限の吸引のある力が作用する。科学者たちによれば、そこにおいて半径がゼロに等しい渦巻の点の中で圧力は“無限大以下”に等しいと言うことで、このことは言い表される。
渦巻を定義する特異性の特殊な規則の上に省察されるそのことは、何らかの仕方で(固有であるよりも規則に従う、自律的でそれ自体の中に閉じた領域に)属していた、またはまだ属している水の流出から分離した一つの形態である。だがしかしそれは、その中に浸され、連続的にそれを取り囲む流体の塊により交換される同じ物質によって作られた、全てに厳密に繋がれている。しかしながら、それはそれ自体にある存在であり、独立してそれに所属する一滴があるのではない。その同一性 identità は絶対的に非物質的である。
ベンヤミンが根源をある渦巻に比較していたことは周知である。
《根源 L'origine [Ursprung] はある渦巻として、生成の流出の中にあり、固有のリズムの内部に発生 la provenienza [Entstehung] の物質的なものを連れて行く [...]。根源的なものは復古として、ある他からの、またこのため、ある未完なもの、ある閉じられていないものとして、固有な他からの回復として知られることを欲する。根源の各々の現象においてフィギュール〔その中で常に再び、あるイデアは歴史的世界と共に出会われる〕は、その歴史の全体性の中でそれが完成されたままになるまで、定義される。根源は諸事実の領域からは現れない故に、しかし、その前 pre- または後 post- 歴史へと参照される [...]。したがって、根源のカテゴリーは、コーエンが見做したように、ある純粋な論理的カテゴリーではなく、歴史的である。》
私たちは根源のイメージを渦として、真剣に受け取るように努めよう。まず最初に、根源は生成に先行する何かであることをやめ、年代順叙述におけるそれから分離された状態になる。河の流れにおける渦のように、(そこからその質料を引き出す)諸現象の生成と同時であり、しかしながら、何とかして自律的で確固たるままに留まる。また、それ〔根源〕は歴史的生成に随行するので、後者〔歴史的生成〕を理解することは、時間の中で分離されたある根源の後ろにそれを連れ戻すことではなく、(渦巻のように)それの中になお現前する何かによって対決させられ、維持されることを意味するだろう。
ある現象の理解は、もしそれを分離しないなら、時間において遠く隔たったある点の中の根源にたどり着く。考古学的探究が到達しようとする渦を巻く根源 L'arché は、(生成に内在的なままでありそれの中で作用し続ける)ある歴史的アプリオリである。私たちの生の経過〔流れ〕においても、根源の渦巻は現在の最後まで残り続け、あらゆる瞬間において静かに私たちの存在に随行する。ある時はより接近させられ、別の時は私たちがもはやそれを見分けられず、静かな噴出を知覚できないこうした点まで遠ざけらる。しかし、決定的な幾つかの瞬間において、私たちを捕らえそれ自体の内部へ引っ張り、その時突然私たちは、私たちの生が由来するこの渦巻き〔深淵〕の中で旋回し続け、—偶然がそれを外に吐き出すのでなければ—無限の負の圧力の点に到達せず消え去るまで私たちを振り回す、始源のある断片であること以外に私たちさえも存在しないことを納得する。
根源の渦巻の中で巻き込まれるがままになることのみを欲望する諸存在がある。ところが私たちは、メイルストロム il maelstrom に飲み込ませない可能性の程度において懸命になることで、口が重く用心深い関係をそれと維持する以外にしない。終いには、もっとおどおどし、あるいは気づかず、ある眼差しの中に私たちを思い切って投げ込ませることさえもない。
流体についての—存在についての—末端の二つの研究は、滴 la goccia と渦巻 il vortice である。滴は流体がそこで自らを分離する、エクスタシーに到る点である(水は落ちることで、あるいは飛び散ることで滴の極限において自らを分離する)。渦巻はそこで流体が自らについて中心化する点であり、自分自身の底まで回り、そして達する。滴-存在 esseri-goccia と渦巻-存在 esseri-vortice、あらゆる力で外部に分離しようとする被造物と、(常により内部に入り込む)執拗に自身の上に向き変える他のものがある。しかし、滴も、水の中に再び落ちながら、更にまた渦巻を産出し、深淵と渦巻きに自らなるのは奇妙である。
主体をある実体 una sostanza としてではなく、存在の流れにおけるある渦巻として概念化する必要がある。それは、単一の存在のそれ以外は実体を持たず、しかしこのことに関して、ある形象 una figura(独立してそれに属するある様式と運動)を持つ。そして、実体とそれらの諸様式のあいだの関係を概念化する必要があるのは、この意味でである。諸様式は、(それ自体において沈み、旋回しながら主体化し、自らの意識を占め、苦しみそして喜ぶ)実体の破壊された領域における渦である。
諸名 I nomi —そしてあらゆる名は一つの固有な名であるか、神聖な名である—は諸言語 le lingue の歴史的生成における渦巻、その中で言語活動の意味論的また伝達的な緊張がそれ自体においてゼロに等しく成るまで閉塞する渦である。私たちがただ名において言う時のみ、私たちはもはや何も言わない—あるいはまだ何も言わない。
言語活動の根源 l'origine del linguaggio の純真な代理において、最初に(ある辞書におけるように離散的で隔離された)諸名 i nomi が到来し、そしてその後に私たちが言説 il discorso を形成するためにそれらを組み合わせると想像するのは、恐らくこのためである。もし、実際に、名が言語活動の意味論的な流出に穴を開け、中断する一つの渦巻であり、そして単純にそれを廃棄するためにはないと私たちが了解するなら、更にまたこの子供らしい想像は明快になる。命名 la nominazione の渦巻において、言語学的意味は、それ自体において回転し沈みながら、極限まで増大し激化し、後ほどその中で純粋な名として再び現れるための印として消え去る無限の圧力の点の中に巻き込まれるがままになる。そして詩人は、(その中で全てが彼の名のために回復される)この渦巻において自らを想像する者のことである。彼は言説の流れから一つ一つ意味のある言葉 le parole significanti を回復させ、(諸名 nomi としての詩の著名な俗語においてそれら再び見出すため)渦巻〔深淵〕の中にそれらを投げかけなければならない。これら〔訳注:nomi のこと〕は、—もしそれら〔訳注:同様に nomi のこと〕に私たちが到達するなら—根源の渦巻における下降の終わりにおいてのみ私たちが到達する何かである。