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per l/a psicoanalisi

渦巻

2017-08-12 23:00:54 | Agamben アガンベン
〔以下の小論は、『火と物語』(2014年、ノッテテンポ社、未邦訳)に収められている。アガンベンのベンヤミンを引き継ぐイメージと言語観が凝縮されているものとして、重要と思ったので試訳しておいた。〕



水の典型的な運動は、スパイラルである。もし、河床の中を流れる水が、(支流や橋の支柱であろう)ある障害物に出遭えば、この地点に呼応して、ある渦巻の形態と実質を引き受けるスパイラルの運動を、(仮に安定していれば)生成する。もし、異なった温度または速度の水の二つの流れがぶつかり合えば、同様なことは起こりうる。ここでも私たちは、波または流れの流出において不動のままであるような渦が形成されるのを発見する。しかしまた、重力の影響の効果によって、泡の中で壊れるように、波の尾根の上に渦巻きも形成する。
渦巻は、太陽の周りの諸惑星の運動に比較された、固有の韻律学を持つ。その内部は、諸惑星が太陽からの距離によって、多かれ少なかれより速く回る通りに、外側の縁より大きい速度に向かい運動する。スパイラルへの向き変えにおいて、それは低い方に向かい長くなり、後ほど内部振動の一種で高い方へ再び上る。更には、ある対象が渦の中に落とされるままなら—例えば、針の形をした木の小片—、それは一定の回転の中で、言わば渦巻の北である点を指し示しながら、同じ方向を維持するだろう。渦巻が旋回することをそれに、そしてその方に止めない内部の中心は、しかし、ただの暗黒であり、その中で渦巻きの、または無限の吸引のある力が作用する。科学者たちによれば、そこにおいて半径がゼロに等しい渦巻の点の中で圧力は“無限大以下”に等しいと言うことで、このことは言い表される。

渦巻を定義する特異性の特殊な規則の上に省察されるそのことは、何らかの仕方で(固有であるよりも規則に従う、自律的でそれ自体の中に閉じた領域に)属していた、またはまだ属している水の流出から分離した一つの形態である。だがしかしそれは、その中に浸され、連続的にそれを取り囲む流体の塊により交換される同じ物質によって作られた、全てに厳密に繋がれている。しかしながら、それはそれ自体にある存在であり、独立してそれに所属する一滴があるのではない。その同一性 identità は絶対的に非物質的である。
ベンヤミンが根源をある渦巻に比較していたことは周知である。

《根源 L'origine [Ursprung] はある渦巻として、生成の流出の中にあり、固有のリズムの内部に発生 la provenienza [Entstehung] の物質的なものを連れて行く [...]。根源的なものは復古として、ある他からの、またこのため、ある未完なもの、ある閉じられていないものとして、固有な他からの回復として知られることを欲する。根源の各々の現象においてフィギュール〔その中で常に再び、あるイデアは歴史的世界と共に出会われる〕は、その歴史の全体性の中でそれが完成されたままになるまで、定義される。根源は諸事実の領域からは現れない故に、しかし、その前 pre- または後 post- 歴史へと参照される [...]。したがって、根源のカテゴリーは、コーエンが見做したように、ある純粋な論理的カテゴリーではなく、歴史的である。》

私たちは根源のイメージを渦として、真剣に受け取るように努めよう。まず最初に、根源は生成に先行する何かであることをやめ、年代順叙述におけるそれから分離された状態になる。河の流れにおける渦のように、(そこからその質料を引き出す)諸現象の生成と同時であり、しかしながら、何とかして自律的で確固たるままに留まる。また、それ〔根源〕は歴史的生成に随行するので、後者〔歴史的生成〕を理解することは、時間の中で分離されたある根源の後ろにそれを連れ戻すことではなく、(渦巻のように)それの中になお現前する何かによって対決させられ、維持されることを意味するだろう。

ある現象の理解は、もしそれを分離しないなら、時間において遠く隔たったある点の中の根源にたどり着く。考古学的探究が到達しようとする渦を巻く根源 L'arché は、(生成に内在的なままでありそれの中で作用し続ける)ある歴史的アプリオリである。私たちの生の経過〔流れ〕においても、根源の渦巻は現在の最後まで残り続け、あらゆる瞬間において静かに私たちの存在に随行する。ある時はより接近させられ、別の時は私たちがもはやそれを見分けられず、静かな噴出を知覚できないこうした点まで遠ざけらる。しかし、決定的な幾つかの瞬間において、私たちを捕らえそれ自体の内部へ引っ張り、その時突然私たちは、私たちの生が由来するこの渦巻き〔深淵〕の中で旋回し続け、—偶然がそれを外に吐き出すのでなければ—無限の負の圧力の点に到達せず消え去るまで私たちを振り回す、始源のある断片であること以外に私たちさえも存在しないことを納得する。

根源の渦巻の中で巻き込まれるがままになることのみを欲望する諸存在がある。ところが私たちは、メイルストロム il maelstrom に飲み込ませない可能性の程度において懸命になることで、口が重く用心深い関係をそれと維持する以外にしない。終いには、もっとおどおどし、あるいは気づかず、ある眼差しの中に私たちを思い切って投げ込ませることさえもない。

流体についての—存在についての—末端の二つの研究は、滴 la goccia と渦巻 il vortice である。滴は流体がそこで自らを分離する、エクスタシーに到る点である(水は落ちることで、あるいは飛び散ることで滴の極限において自らを分離する)。渦巻はそこで流体が自らについて中心化する点であり、自分自身の底まで回り、そして達する。滴-存在 esseri-goccia と渦巻-存在 esseri-vortice、あらゆる力で外部に分離しようとする被造物と、(常により内部に入り込む)執拗に自身の上に向き変える他のものがある。しかし、滴も、水の中に再び落ちながら、更にまた渦巻を産出し、深淵と渦巻きに自らなるのは奇妙である。

主体をある実体 una sostanza としてではなく、存在の流れにおけるある渦巻として概念化する必要がある。それは、単一の存在のそれ以外は実体を持たず、しかしこのことに関して、ある形象 una figura(独立してそれに属するある様式と運動)を持つ。そして、実体とそれらの諸様式のあいだの関係を概念化する必要があるのは、この意味でである。諸様式は、(それ自体において沈み、旋回しながら主体化し、自らの意識を占め、苦しみそして喜ぶ)実体の破壊された領域における渦である。

諸名 I nomi —そしてあらゆる名は一つの固有な名であるか、神聖な名である—は諸言語 le lingue の歴史的生成における渦巻、その中で言語活動の意味論的また伝達的な緊張がそれ自体においてゼロに等しく成るまで閉塞する渦である。私たちがただ名において言う時のみ、私たちはもはや何も言わない—あるいはまだ何も言わない。
言語活動の根源 l'origine del linguaggio の純真な代理において、最初に(ある辞書におけるように離散的で隔離された)諸名 i nomi が到来し、そしてその後に私たちが言説 il discorso を形成するためにそれらを組み合わせると想像するのは、恐らくこのためである。もし、実際に、名が言語活動の意味論的な流出に穴を開け、中断する一つの渦巻であり、そして単純にそれを廃棄するためにはないと私たちが了解するなら、更にまたこの子供らしい想像は明快になる。命名 la nominazione の渦巻において、言語学的意味は、それ自体において回転し沈みながら、極限まで増大し激化し、後ほどその中で純粋な名として再び現れるための印として消え去る無限の圧力の点の中に巻き込まれるがままになる。そして詩人は、(その中で全てが彼の名のために回復される)この渦巻において自らを想像する者のことである。彼は言説の流れから一つ一つ意味のある言葉 le parole significanti を回復させ、(諸名 nomi としての詩の著名な俗語においてそれら再び見出すため)渦巻〔深淵〕の中にそれらを投げかけなければならない。これら〔訳注:nomi のこと〕は、—もしそれら〔訳注:同様に nomi のこと〕に私たちが到達するなら—根源の渦巻における下降の終わりにおいてのみ私たちが到達する何かである。

学生たち Studenti

2017-05-22 02:08:06 | Agamben アガンベン

Studenti

ある記念すべき論文の中で、ベンヤミンがベルリン学生たちの生の窮乏を明らかにしていた時から百年が経ち、ストラスブールの中で流布したある匿名の本が『学生の環境における窮乏』—その経済的、政治的、心理学的、性的な諸アスペクトにおいて、また特殊なインテリたちの中で考案された—のタイトルでそのテーマを明らかにしていた時から、まさに半世紀が経った。それ以来、無情な診断はそのリアリティを失っただけでなくまた、(経済的なものと精神的なものを伴った)窮乏が抑制できない尺度で増大したと誇張する恐れなしで言われうるだろう。そして、企業の隠語と科学的研究所の用語法とのあいだにある語彙 ad hoc の推敲を通じてそれが隠されようとするほど、この下降化 degradazione は、賢い観察者にとっては、ますます明らかである。

この専門用語的な詐欺〔欺瞞〕の一つのしるしは、“研究 ricerca”という言葉の“学問 studio”という言葉(明らかに威信があるようにはより見えない)への、それぞれの領域における代用である。そして、もし(アカデミックな諸文書から実際に消失した)言葉が、“諸学問の大学 Università degli studi”を一つの歴史的残存物としてもはや告げる、公式からもまた取り消されるためになくなるであろうなら、代用はこのように私たちに要求されうるほどに完全なものである。学問 lo studio は研究 la ricerca より勝るそれぞれのアスペクトの下での認識的〔識別的〕パラダイムであることだけではなく、(人間科学の領域において)それに関連するエピステモロジー的制定は、弁証法かつ研究のそれにまったく矛盾しないことを示すように、私たちは努めよう。

自然科学の領域から人間科学の領域へのある概念の軽率な移転に由来する不都合が際立って明らかになるのは、“研究 ricerca”という用語にとって固有である。事実、同じ用語が二つの領域において、まったく異なった構造と方法論のパースペクティヴへ参照を送り返す。諸自然科学における研究 La ricerca はまず最初に、ある一人の研究者が自分自身でそれを現実化することが考えうることさえないほど複雑で代価の高い用具一式の使用を含み、その上、客観的必要性—例えば、腫瘍の拡散、新しい技術また軍事的要請の過程での発展—や、化学的、情報的、また戦争に関する諸産業における適合した諸利益の継ぎ目から帰結する諸管理〔運営〕、要綱、探究のプログラムを含む。人間科学において、匹敵することは何も発生しない。ここでは“研究者 ricercatore”—より本来的には“学者 studioso”と定義されうるかもしれない—は、蔵書とアーカイヴだけを必要とし、それらへのアクセスは概して容易で無償である(登録料金が適切で、それが取るに足りない時は)。この意味で、(実際に不足している)研究資金についての繰り返す抗議は基礎のかけらもない。問題の資金は事実、固有の意味での研究 la ricerca のためではなく、もともと諸自然科学の中では等しく共通するところが何もない、会議や対談〔話し合い〕に参加するために使われる。ところが一方、これら〔諸自然科学〕においては、最も緊急な新しい事柄を理論においてのみならず、まず最初に実験的照合においてもまた伝達することが問題であり、(その中ではプロティノス、あるいはレオパルディの一節の解釈は、いかなる特殊な緊急事項には結び付かない)人文学的領野では同様なことは何も起きえない。これら構造的相違からその上、自然科学においてより進んだ諸研究 le ricerche は概して、共に働く科学者たちのグループのためのパイプであるのに対して、人間科学においてより革新的な調査結果は常に、(図書館〔蔵書〕の中で彼らの時代を通過し、会議に参加することを愛さない)単独の学者たちから達成されることが帰結する。

もし既に、二つの領域のこの本質的な異種性が諸自然科学に研究 ricerca という用語を保存するよう勧めるのなら、他の諸議論もまた諸人間科学を返還するよう、数世紀のあいだそれらを特色付けたこの学問に示唆する。まだ固有の対象を発見したことがなく堂々巡りに送り返す (circare)、“研究 ricerca”という用語と違い、ある欲望の最高の度合 (studium) を語源学的に意味する学問 lo studio は常に既に、その対象を見出していた。諸人間科学において、研究 la ricerca は、(同定された一度でその対象を中断する)学問 lo studio のただの一時的なフェーズである。しかし、学問 Lo studio は、永続的な一つの条件である。むしろ、学問 studio は、その中で知識のある欲望がその最高の緊張に到達し、ある生の形式—学生の生、むしろ学者の生—になる点と定義されうる。このため—その中で学生 lo studente は研究者 ricercatore に関するより低い一つの身分である、アカデミックな専門用語において含意されることに反し—、学問 lo studio は研究 la ricerca よりヒエラルキー的に勝る、ある認識的パラダイムである。これ〔研究〕が、仮にある欲望によって活性化されず、その目的に到達できない、また、かつてそれに到達したがために、それと熱心に同居する以外できない(学問 studio において変形する)という意味において。

研究 la ricerca は常に具体的統一性を目標にするのに反し、ある永続的な条件を代理する限りで殆ど生の形式 forma di vita であるような、ある直接の統一性を強く要求しえがたい学問 lo studio について同様なことは言われえないと、これらの考察に反論されうる。ここで、その統一性から全ての人間的諸活動性が定義されるに応じる共通の場を裏返す必要がある。この原理に基づき、最も明らかに過剰〔余計〕な諸原因〔事物〕がある功利主義的なパラダイムの中に、常に純粋な法のためだけに為される人間的諸活動が必要であるかのように再コード化しながら、今日記入される。事実、統一性により支配されたある社会においては、使えない諸事物が保護〔防衛〕するための財になることが明らかに固有であるに違いない。学問 lo studio はこのカテゴリーの一員である。学生の状況はむしろ、多くの人にとって、今日常に最も希有な、統一的な諸目標から差し引かれたある生の経験をする唯一の機会である。このため、職業学校における人文学系の諸学部の変化は、学生たちにとって、同時に一つの欺瞞そして崩壊である。欺瞞、なぜなら学問 lo studio(またこのような最も絶えず希薄化され威信をなくした教育法も明らかにない)に相当するある職業は存在しないし、存在しえない。崩壊、なぜならそれらの状況の最も固有な意味を成立させていたところの学生たちは欠けているからであり、まだ労働市場において捕捉される以前に、学問 lo studio において結ばれた生と思考を放棄しながら、取り消しがたいほどにそれらから遠ざかっているからである。

Giorgio Agamben
2017年5月15日


信用への未来 Futuro a credito

2017-04-21 21:21:38 | Agamben アガンベン
[翻訳者より:以下のイタリア語から訳出したジョルジョ・アガンベンの記事の中には、「信」を表す言葉が幾つか出でくる。文脈に応じて訳し分け、元の語を記しておいた。]
→元の記事へのリンク


Giorgio Agamben


何を“未来 futuro”という言葉が意味するかを理解するため、もし宗教的領域にないなら、より使われることに馴染みのない他の言葉“信仰 fede”が何を意味するかを先ず理解する必要がある。信仰 fede あるいは信用 fiducia なくしては、未来は可能ではなく、何かを望み信じることができる限り、未来は存在する。そう、しかし信仰 la fede とは何だろうか? 宗教学の偉大な研究者の一人である David Flüssere は、—この奇妙な名を持つ教義もまた存在する— pistis という言葉について、まさに仕事をしていた。今日、アテネのある広場で目を上げるなら、ひょっとすればある地点で見られ、その前面に Trapeza tes pisteos とキュービット体で書かれたものを人は見つける。

偶然の一致に驚いたことに、よく見れば間もなく、ある銀行の前に飾り気なく、ギリシャ語で“信用銀行 banco di credito”を意味する trapeza tes pisteos を見つけることに気づく。数ヶ月のあいだ理解することに努めていた pistis の言葉の意味は、この時代はこうであり、“信仰 fede”は単に、神の元でわれわれが享受〔享楽〕し、われわれにて神の言葉が享受〔享楽〕する“クレジット=信用 credito”である。これらの理由で、パウロは“信仰 la fede は、汝らの望むことの実体=物質 sostanza である”という有名な定義において、言うことができるだろう。それは、まだ存在していないことに、だが、われわれが信じることと信頼 fiducia を持つこと、われわれの信用 credito と言葉を賭けたことに、リアリティを与えるだろうということであると。ある未来として何かが、われわれの信仰 fede が実体を、即ちわれわれの望みのリアリティを与えることができるようになる尺度において存在する。

しかし、周知のとおり、われわれの時代は、乏しい信 fede、または Nicola Chiaromonte が言っていたよう、不誠実の、即ち強制により維持され、確信のない信 fede の時代である。したがって、未来ないし望みなき時代、—または、空虚な未来、偽の望みのそれである。だが、真に信じるには老いすぎていて、真に絶望されるためには狡猾すぎるこの時代において、何がわれわれの信用 creditoに、何がわれわれの未来に属するのだろうか?

よく考えれば、何故だか、まだ信用 credito の支えの周囲へ全てが向かう領域、その中でこの領域は全てのわれわれの pistis 、全てのわれわれの信 fede が完遂するに至らされる領域が存在する。この領域は金であり、銀行 -trapeza tes pisteos- はその聖堂である。金はある信用 un credito 以外ではなく、多くの銀行紙幣について(ポンドについて、ドルについて、—はたして何故、一体これがわれわれに疑われるべきだったか—もし、ユーロについてでないなら、まだ中央銀行が何らかの方法でこの信用 credito を保証することを約束する文字 scritto がある。われわれが通り過ぎようとしている、いわゆる“危機 crisi”—しかし、“危機”と呼ばれることは(これはもはや明らかである)、われわれの時代の資本主義がその中で機能する、通常の状態であるが—は、信用 credito についての、現実化されうる前に何度も控除され、大量に転売される諸信用 crediti についての諸操作の無思慮な連なりによって始まった。このことは、言い換えれば、金融資本主義—と、それについてある主要な機関である銀行—は、人間たちの信用 credito について—即ち、信仰 fede について—投機しながら〔賭けをしながら〕機能する。

だが、このことはまた、Walter Benjamin の仮説を意味し、それによれば、資本主義は実際に、一つの宗教であり、これまで存在するだろう中で最も残忍で執拗である。贖いや休戦を知らないので、文字通り受け取られるべきである。銀行は—その灰色の役職員と専門家と共に—、信用 il credito を管理することで、教会と司祭の地位を手に入れ、われわれの時代がまだそれ自体に持つ信用 la fede—乏しい、不確かな信頼 fiducia—を取り扱い、経営する。そして、より責任がなく、良心の咎めのない方法で、人間の信頼 la fiducia と希望の金を儲け、誰でも享受〔享楽〕することができるだろう信用 il credito と、(その主権を従順に放棄した、諸国家の信用 il credito さえも)それのために支払うべき代価と定めることで、そうする。このやり方で、信用 il credito を管理しながら、世界だけでなく人間の未来、危機が常により短く期限付きにする、ある未来もまた統治する。そして、もし今日、政治がより可能であるように見えないなら、そのことは、財政上の権力が、全ての信仰 la fede と全ての未来、全ての時間と全ての期待を、事実上差し押さえられたことが理由である。

この状況が続く限り、世俗と信じられるわれわれの社会性が宗教の最も暗く、非理性的なものに隷属されたままであろう限り、各々がその信用 credito と未来を、この陰鬱な、威信をなくした偽聖職者、銀行家、レート rating の様々な仲介の専門家と役職者の手から回復するのは、適切だろう。そして恐らく、なすべき最初のことは、それらが勧めるような、未来のみを見ることを辞めることである。それよりも、過去へ眼差しを向け返すために。ただ、何が起きたのかを把握し、何にもまして、どのように起きえたのかを理解しようと努めることで、恐らく、各々の〔固有の〕自由は再発見されうるだろう。考古学—未来学ではない—は、現在への接近のただ唯一の道である。


この記事は、2012年2月16日付の La Repubblica 紙上にもまた、「もし金の残忍な宗教が未来を貪り食うなら」というタイトルで掲載された。


→他の関連記事へのリンク

アガンベン『裸性』

2016-01-07 17:27:10 | Agamben アガンベン
——Nudità, Giorgio Agamben (2009)


◆創造と救済

13「しかしながら、創造の行為を救済する権利ならびに義務を持った存在は、創造行為の結果として生じ、創造行為に由来する。序列や尊厳の面で優っているものは、それより劣ったものに源を持つのである。」

14「しかし、創造の行為と袂を分かった批評家は、創造行為にたいする執拗なまでの審判によって、創造行為にたいして仕返しをするのである。」

15「しかし、仕事=作品の序列を決める要因はまたしても、創造と才能の結果ではない。そうではなく、天分と救済によって仕事=作品の上に刻みこまれたしるしの結果こそが、序列を形成する決定的要因である。」

15“このしるしとは文体のことであり、それは創造のうちにあって創造に抵抗し、創造を破壊してしまう、ほとんど逆行的ともいえる力である。”

17《潜勢力が現勢力に先行し現勢力を超えるものであるのと同様、贖いの仕事は創造の仕事に先立つ。》

17〈あらゆる仕事=作品が忘れ去られ、あらゆるしるしと言葉とが判読不可能になるからこそ、救済の仕事のみは消しがたく残るであろうことが、この天使には理解できないのだ。〉

19「ひとつの創造から生まれたものは未決済のままにとどまり、もはや目的も持たずに、ひとつの不可解な救済へとたどりつく。」

◆同時代人とは何か?

23「知性ある人物は、しばしばみずからの時代を憎悪しますが、いずれにせよ自分は決定的にそこに属しており、自分はこの時間から逃れられないのだということをよく承知しています。」

23「特定の時代にあまりにも密着する人たち、あらゆる点において時代と完全に一致してしまう人たちは、同時代人ではありません。」

24「詩人は、同時代人であるがゆえに、この裂け目にほかならず、時間がつながることを阻止する存在であり、また同時に、その断然を縫合するべき血でもあるのです。」

27〈同時代人とは、世紀の光によって目を眩まされるままになるのではなく、影の部分を、その内奥の暗がりを、世紀のなかに識別することができる人物のみをいうのです。〉

36〈……同時代人はまた、時間を分割し内挿することによって、時間を変形させ、さらにほかの時間との関係を作りだし、歴史をいまだ知られざる方法で読むことができる人物でもあるのです。〉

◆K

41〈あらゆる人間は、自分自身にたいして中傷的な訴訟を提訴している。これこそがまさに、カフカの出発点である。〉

42《しかし、なぜKは、なぜあらゆる人間は、自己を誣告し、偽りの自白をするのだろうか。》

◆しないでいられることについて

79《今日の人間は、みずからの力ではなく、みずからの無力に盲目になっている。できることではなく、できないことにたいして、しないでいられることにたいして、盲目になっているのである。》

80《……いまやあらゆる人びとが、順応性という価値に無邪気にも服従しようとしているのだという認識である。市場が各人に、何よりも優先すべき今日の価値として、順応性を要請してくるのである。》

80《こうした無能力=非の潜勢力からの疎外は、何にも増して人間を貧しくし、自由を奪い去る。できることから引き離された人は、それでも抵抗することができるし、しないということができる。それに引き替え、みずからの無能力=非の潜勢力から引き離された人は、まず最初に、抵抗する力を失ってしまう。》

◆ペルソナなきアイデンティティ

90「新たなアイデンティティ、それはペルソナなきアイデンティティであり、その内面では、わたしたちがかつて肌で感じとっていた倫理的な空間が意味を失って、一から再考される必要が生じている。」

93「実際のところ、承認の対象がペルソナではなく数字からかるデータであるとしたら、承認されるとは何を意味しているか。ことによると、わたしを承認してくれているように見える機械の背後には、実にはわたしを承認する気などさらさらなく、わたしをコントロールし糾弾したいだけのほかの人間たちが、なおも潜んでいるのではないか。」

◆裸性

102「要するに、裸と衣服の関連という、表面上は副次的に見える問題が、人間本性と恩寵の関係という、神学的にあらゆる意味で根源的な問題と共鳴しているということである。」

102〈裸をめぐる問題とは、したがって、恩寵との関係における人間本性についての問題なのである。〉

109《つまり、裸にかんしてわたしたちが経験できることはつねに、裸にすることであり、裸にされることであり、それはけっして持続的な形式や所有ではないのである。いずれにせよ、それを把握することは困難であり、それをとめおくことは不可能である。》

111「それゆえ、裸の問題に真剣に取り組もうとするなら、その探求のためには何よりもまず、裸‐衣服、本性‐恩寵という神学的な対立が築き上げた峰を、考古学的にさかのぼっていく必要がある。しかしそれは、両者が分裂するより以前の、起源の状態へとたどりつくためではなく、その分裂を生じさせた装置を理解し、無効化するためである。」

112〈アウグスティヌスにとって欲情 libido とは、罪の帰結を定義づけるテクニカル・タームである。〉

130もはや恩寵の衣服によって

132《堕落とは肉の堕落ではなく、精神の堕落である。つまり、失われた無辜なる状態と裸は、なにがしかのセックスの仕方に関係しているのではなく、認識のヒエラルキーや様態と関係しているのである。》

133「中世の心理学において、認識の媒介を務めるのは、イメージ、ファンタズマ〔表象像〕、あるいはスペキエス〔形象〕である。それゆえ、完全なる認識へといたる過程は、この「ファンタズマ」を少しずつ裸にしていく営為として描写される。」

133《完成された認識とは、裸の状態での、裸にかんする観想なのである。》

134人間の肉体の裸は、人間のイメージであり、

◆天の栄光に浴した肉体

150《天国における同一性の範例とは、今日の警察機構が生体測定の装置をとおして同定しようと努めている物質的等価性ではなく、像=イメージであり、すなわち肉体の、肉体それ自体との類似なのである。》

158“ゾーン・レーテルによれば、ナポリ人にとって、物は利用できない状態に陥ってからはじめて機能しはじめる。”

159《人間が盲目的な自動作用に異議を唱え、機材に対立し、想定された領域や使用法から機械を配置転換することを学ぶやいなや、本当の技術がはじまる。》

160《地上の典礼の唯一の目的は、天上のそれと同様に、信仰の領域において絶えることなく無為をつかまえ、それをより偉大な神の栄光へと〔ad maiorem Dei gloriam〕配置転換することにある。》

162栄光とは、

163「肉体を使用することと、ある目的のために道具のように肉体を利用することとは、じつのところ同じではない。…〔略〕…愛欲や、いわゆる倒錯によってなされることこそが、その新しい使用法となる。」

◆牛のごとき空腹

175「それでは、安息日、仕事、そして無為のあいだの近接性、あるいは相互内在性と呼ぶことすらできそうな関係を、いかに理解すべきであろうか。」

178《「ゼロ度の象徴的価値」を持つこうしたシニフィアンは、祭日によって空っぽにされ無活動へと導かれる人間の活動や事物に相当するだろう。そこに宗教が介入してきて、それら活動や事物を、儀礼的な装置の内部へと分離し再編するのである。》

178-179祭日の無為が、

◆世界の歴史の最終章

181「したがって、うまく気づかないでいられる方法というものがあり、美はその一例である。いやむしろ、うまく気づかないでいられる方法こそまさに、わたしたちが認識できることのランクを決定づけるのであり、認識のない領域の分節こそが、わたしたちのあらゆる知にとって必須条件——そしてまた同時に、試金石——であるとさえいえるであろう。」

182「わたしたちにとってもっとも親密であり滋養に富んだものは、科学や教義の形式ではなく、優美さや証言の形式をとるようになる」

アガンベン『思考の潜勢力』(作成中)

2015-09-06 21:25:17 | Agamben アガンベン
——La potenza del pensiero: Saggi e conferenze, Giorgio Agamben, 2005


■「記憶の及ばないものの伝承」“Tradizione dell'immemorabile” (1985)

《今日もなお支配的な伝承による誤った規定によれば、真理とは、秘教的教義であれ公的教義であれ、通過儀礼的教義であれ科学的教義であれ、何らかの教義の伝承であるとされる。だが、そうではない。真理とはつまり、記憶自体の到来において忘却され差し向けられる当の記憶のこと、歴史的な開かれにして時間措定のことである。》

〈すなわち、ここで把握・伝達しなければならない当のものは、絶対的に非主体的なもの、忘却そのものである。〉

“真理は自ずから書かれる。つまり真理はそのつど前提されたものにとどまり、またそれと同時にその到来自体において差延化される。”

「じつのところ、前提という形式を完了させるということ、また表象の潜勢力から脱出するということには、詩的任務と倫理的決定が含意されている。」


■「se 絶対者と生起」“L'assoluto e l'Ereignis” (1982)

《生起 Ereignis は、生起自体においては“脱自体化 Enteignis”である。》


《それに対してハイデガーは、「言うこと (sage)」と「言葉 (Sprache)」の差異をそれ自体において考えようとする。つまりかれが探し求めているのは、「それ (Es)」を経験する言語活動の経験である。》


■「起源と忘却——ヴィクトール・セガレンについて」“L'origine e l'oblio: Su Victor Segalen” (1979)

《というのも、問題なのは原初のパロールに、不在によって君臨させるということだからである。》

〈つまり、パロールにその痕跡によって君臨させるということである……痕跡とは、起源の消滅が証されるまさにその瞬間に起源を喚び起こすもののことである。〉


■「ヴァルター・ベンヤミンと魔的なもの——ベンヤミンの思考における幸福と歴史的救済」“Walter Benjamin e il demonico: Felicità e redenzione storica nel pensiero di Benjamin”(1982)

“じつのところ、ベンヤミンの諸カテゴリーを歴史記述的実践の地平へと折りこんでしまいたいという誘惑はあまりに大きなものだった。


■「メシアと主権者——ベンヤミンにおける法の問題」“Il messia e il sovrano: Il problema della legge in W. Benjamin” (1992)

《それはいわば、法のもとでの時間の遅延・引き伸ばしという形で、つまり欠けている時間の歴史的効果として、現にそこにある。》


■「思考の潜勢力」“La potenza del pensiero” (1987)

《人間の潜勢力の偉大さは——それは悲惨さでもあるが——、それがなによりもまず、現勢力に移行しないことができる潜勢力、暗闇のための潜勢力でもあるということである。》

〈つまり、人間にとって行動することができるということはすべて構成的に言って行動しないことができるということであり、認識はすべて認識しないことができるということである。〉

《人間は、“自体的な非の潜勢力が可能な”動物である。人間の潜勢力の偉大さは、その非の潜勢力の深淵によって計り知られる。》


■「現事実性の情念」“La passione della fatticit�・: Heidegger e l'amore” (1978)

《この意味で、原抑圧の構造は、一種の「原フェティシズム Urfetischismus」ないし「原初的現事実性 Urfaktizit�・t」によってしるしづけられていると言うこともできるだろう。この原フェティシズムゆえに、現存在は存在者をけっして自体化することができないにもかかわらず存在者へと分かちがたく委ねられている。》

「だとすれば、自体化するというのはただ次のことのみを意味しうる。すなわち、自体的なしかたで非自体的であるということ、自体化できないものへと自らを遺棄するということである。」


■「人間の働き」“L'opera dell'uomo” (2004)

〈その結果、西洋の政治は近代においては、人民ないし国民がしかじかの歴史的任務(「働き」)を集団で引き受けることとして考えられている。この政治的任務はしかじかの形而上学的任務と一致していた。その形而上学的任務とは、理性的な生きものたる人間の実現である。〉

〈第一次世界大戦が終わると働きのパラダイムは危機に入りこみ、割り当てられうる歴史的任務などもはやないということがヨーロッパの国民国家にとって明白になってくる。〉

《一般的に言って今日、生政治的任務の引き受けへと単にあらためて堕してしまうことのないような、人間の働きのなさにふさわしい政治はありうるのだろうか? これらの問いは今のところ宙吊りにしておかなければならない。だが、労働や生産を誇張することは脇に除け、多数者 multitudo をある形象として考えようと試みなければならないだろう。その形象は無活動の形象であるとまでは言わずとも、少なくとも、あらゆる現勢力において自体的な安息日を実現する働きの形象、あらゆる働きにおいて自体的な無為・潜勢力を露呈することができる働きの形象である。》

アガンベン『残りの時 パウロ講義』

2015-07-23 23:00:37 | Agamben アガンベン
——IL TEMPO CHE RESTA: Un Commento alla Lettera ai Romani by Giorgio Agamben (2000)


第一日 PAULOS DOULOS CHRISTOU IESOU〔パウロ、僕=奴隷、救世主イエス〕

17-18「メシア的なものとは、本来の名前をその携帯者から切り離すのであり、それ以後は名前の携帯者は非本来的な名前、通り名しかもつことができない。パウロ以後、わたしたちの名前はすべてシグヌム〔渾名〕でしかないののだ。」

21”パウロの用法は、世俗の法律的状態を指し示すと同時に、それがメシア的出来事との関係をつうじてこうむる変容をも指し示しているのである。”

23“いずれにしても、メシア的召命こそは、人類の歴史においてと同様、パウロの個人史においての中心的な出来事なのだ。”

30「メシア的な生とはなにか。また、メシア的時間の構造とはいかなるものであるのか。パウロの問いであるこれらの問いは、わたしたちの問いでもあらねばならないのである。」


第二日 kl�・t�・s〔召された〕

38《“メシア的召命はおよそいっさいの召命の棄却である”》。

40あらゆるものを「でないもののように」の形式において自己自身へと向かわせつつ、メシア的なものはそれを単純に消し去るのではなく、それを過ぎ去らせ、それの終末を準備する。それは別の姿、別の世界ではない。それはこの世の姿の過ぎ去りゆくありさまなのだ。

41…メシア的召命はひとつの内在的な運動——あるいは、こういったほうがよければ、内在と超越とのあいだの、この世と来たるべき世とのあいだの識別が絶対に不可能な地帯なのである。…

42使用——これが「でないもののように」という形態において、パウロがメシア的生にあたえる定義である。メシア的に生きるとは、クレーシス〔召命〕を「使用する」ことを意味する。裏返していえば、メシア的なクレーシス〔召命〕は、ただ使用することができるだけで、所有することはできないものなのである。

43パウロはメシア的な「使用」(usus) を「所有」(dominium) に対置する。
………
43メシア的召命とは、ある法的な規定でもなければ、自己同一性を形成するものでもない。それの所有者としてあることなく、使用する一般的な能力なのである。

46-47メシア的召命のなかにあって、自分自身との関係に置かれた事実的なクレーシス〔召命〕は、別のものに置換されるのではなく、働かなくさせられる(あとで見るように、パウロは、まさに不活性化、無効化を意味するひとつの専門用語として、この語を用いている)。

56残るのは、パウロにとっては自己への適合ではなく、使用が問題であり、メシア的主体は所有によって定義されないばかりか、たとえ真正なる決定あるいは死にいたる存在という形態においてであろうとも、自己自身をひとつの全体として所有することすらできないということである。


61《むしろ、「かのように」は、哲学者がすでに自らによって科されている断罪なのである。》


64「要請は、偶然性を無視することもしなければ、なんとか悪魔祓いしようと試みることもない。逆に、それはこう語る。この生は事実上、完全に忘れ去られてしまっているけれども、忘れえぬものとしてとどまりつづけることを要請する、と。」

67パウロは、こうしたことのすべてとどんな関係にあるのか。メシア的なものは、かれにとってはまさに存在していたものの救済にかかわる、ひとつの要請の場所であった。それは、救済が達成されたかのようにこの世を見ることができるという「観点」の問題ではない。メシアの到来は、すべてのことがらが——そして、それらとともに、それらを見る主体が——「でないもののように」のうちに捕らえられ、召されると同時に棄却されることを意味している。そこにはもはや、いかなる見る主体もいない。そして、ある時点にいたって「かのように」行為することを決意できる主体もいない。メシア的召命は、なによりもまず、主体を転位させ無化する。


69メシア的な主体は、この世を救済されたかのように観想することをしない。むしろ——ベンヤミンの言葉を借りるならば——、救済が救済不可能なものへと失われていくところにおいてのみ、救済を観想する。クレーシスの経験とはかくも込み入ったものであり、召し出しのうちに住まうとはかくもむずかしいものなのだ。

71メシア的出来事——?


第三日 aph�・rism�・nos〔分かたれた〕

77〈じっさいにも、パウロは、律法がなによりもまず分割と分離を設けることによって機能することを確認するところから始めている。このようにして、かれは、ギリシア語のノモス (nomos) ——これはトーラーを、しかしまた法律一般を指すのに用いられる——が「分割する、いくつかの部分を割り当てる」を意味する動詞ネモー (nem�・) から派生したものである、というその語の語源学的意味を真面目に受けとっているようである。〉

78〈したがって、律法の原理は分割である。そして、ユダヤの律法の基本的区分は、ユダヤ人と非ユダヤ人——パウロの言葉によれば、「ユダヤ人」(Iouda�・oi) と「異邦人」(ethn�・) ——の区分である。〉

79〈いずれにしても、基本的な律法上の分割は、パウロが露骨に割礼/無割礼という対照句によって表現する、ユダヤ人と非ユダヤ人の分割にある。〉

80《さて、問題は以下のようである。この基本的分割を前にしてのパウロの戦略は、どのようなものか。どのようにしてかれは、メシア的展望のもとで律法上の分割を中立化することに成功するのか。》

82メシア的分離は、むしろ律法上の区分そのものの上で行使されるのであり、それらをひとつのさらなる切断によって分割するのである。この切断が「肉/霊」(sarx/pneuma) という切断である。…〔略〕…
この分割はユダヤ人/非ユダヤ人の分割と符合するものではないが、それの外にあるわけでもない。それは、その分割そのものを切断するのである。

83-84“すなわち、メシア的分割は、もろもろの民の律法上の一大分割に、ユダヤ人と非ユダヤ人とが構成上「すべてではない」ようなひとつの残余を導き入れるのである。”

84“メシア的律法のうちにありつづける者は、律法のうちにないのではない者なのである。”


88《パウロには、この意味においては、原理も目的もない。アペレスの切断、分割の分割があるにすぎない——そして、つぎには、残余が。》

89“神の業であるメシア的救済は、残りの者をその主体としている。”

90“決定的瞬間においては、選ばれた民——あらゆる民——は、必然的に残りの者として、すべてではないものとして、自らを立てるのである。”

91〈この預言的・メシア的な残りの者という観念こそ、パウロがすくいとり展開している当のものである。そして、これが、かれの分離の、かれの分割の分割の、最終的な意味でもある。かれにとっては、残りの者とはもはや預言者たちにおけるような未来に関する観念ではなく、かれがメシア的な「今」と定義する現在的な経験なのだ。「今の時にも、……残りの者が産み出されている (g�・gonen) のです」。〉


94《…メシア的な残りの者は、終末論的な全体を取り返しがたく乗り越えてしまっている。それは、救済を可能にする、救済しえないものなのである。》


第四日 ap�・stolos〔使徒〕

98パウロはなぜ自らを使徒と定義し、たとえば預言者とはいわないのか。使徒と預言者の差異はどこにあるのか。

98メシア的時間においては、使徒が預言者の場所を占め、それに取って代わるのだ。


101「いつまで」——?


101-102「しかし、使徒はまた、しばしば混同されているもうひとつの形姿からも区別されなければならない。厳密にいえば、メシア的時間と終末論的時間との混同が生じているのだ。未来に向けられた預言ではなく、時の終わりを観照する黙示は、メシア的告知についてのもっとも油断のならない誤解である。黙示者は、最後の日、怒りの日に自らを位置づける。かれは終末が完遂されるのを見て、自分が見ているものを記述するのである。これにたいして、使徒が生きる時間は終末 (�・schaton) ではない。」

102「あるいは、こう言ったほうがよければ、時間とその終末とのあいだに残っている時間なのである。」

102-103《……年代記的な時間でも、黙示録的な終末でもない。それは、ここでもまた、残りのものである。もしも、メシア的な区切り、あるいはアペレスの切断によって時間の分割そのものが分割されるのだとすれば、これら二つの時間のあいだに残っている時間なのである。》


104「このためには、アペレスの切断の理念に訴えて、メシア的な時間を、二つの時間のあいだの分割自体を分割することによって、それのなかに分割を越えたひとつの残りのものを導入する区切りとして表象するほうが、たぶん、いっそう厳格だろう。」

105「同様にして、メシア的時間を二つのアイオーンのあいだにおかれた線分として表象すれば、イメージとしては明快であるが、残っている時間、終わり始めた時間の経験については、なにも語ってくれない。表象と思考のあいだ、イメージと経験のあいだの、この断絶はどこに由来するのだろうか。そしてまた、この曖昧さを免れうるような別の時間表象は可能なのだろうか。」


114“ここでの誤りは操作時間をクロノロジカルな時間に付加されてその終わりを無限に順延するような補足的時間に変えてしまうことである。”

115《メシアはすでに到来している、メシア的出来事はすでに成就している、けれども、その臨在はその内側にもうひとつの時間を含んでいて、パルーシアを遅延させるためにではなく、逆にパルーシアを把捉できるものにするために、パルーシアを引き延ばすのである。》

116《安息日——メシア的時間——は、他の日々と均質なもうひとつの日なのではない。それはむしろ、時間のうちにあって、——肌一枚のところで——時間を把捉し、それを完成に導くことができる内的な断絶なのだ。》


122「すなわち、メシア的時間とは、過去の要約的な——この形容詞が「要約的裁決」という法律的表現に追いかけてもっている意味をも込めて——総括なのである。」

126《このようなわけで、メシア的時間をもっぱら未来へと向かうものであるかのようにみる通有の表象は偽りである。救済の瞬間には未来と永遠にこそ眼を向ける必要があると繰り返し語られるにわたしたちは聞き慣らされてきた。総括帰一は、パウロにとっては、逆に「今の時」が過去と現在の収縮であるということを意味しているのであって、決定的瞬間においては、まずなによりも過去とこそ決着をつけるべきなのだ。いうまでまもなく、それはなにも執着や懐旧を意味するのではない。そうではなくて、過去の総括帰一とは、過去にたいして宣告される要約的判決でもあるのである。》


第五日 エイス・エウアゲリオン・テウ〔神の福音のために〕 一

145使徒が預言者から区別されるように、使徒の福音のうちに含まれている時間構造は預言者の預言のもつ時間構造から区別される。福音がかかわるのは、未来に起こる出来事ではなく、現在する事実である。
……
エウアゲリオン〔福音〕—ピスティス〔信仰〕—パルーシア〔臨在〕の関連
……
145エウアゲリオンという語の意味の問題は、ピスティスおよびそれが含むパルーシアという語の意味の問題から分離することはできないのである。それに耳を傾け、臨在を信じる者に働きかける力のある言説(logos)とは、いかなるものであるのか。

147“信仰は、福音の現勢化、エネルゲイアなのだ。”

149“福音は約束がメシア的時間の収縮において取る形式なのだ。”

156「使徒が、律法の働きへのメシア的なものの効力を表現するのに用いている用語のなかに、安息日における作業の中断を意味する動詞が出てくというのは、たしかに偶然ではない。」


168わたしたちの伝統においては、形而上学的テーマ——こちらはとりわけ基礎づけと起源の瞬間に固執する——は、メシア的テーマ——こちらは成就の瞬間に固執する——と共存している。しかし、本来の意味でメシア的であり“歴史的”であるのは、成就は基礎づけを再開しては廃絶し、それとの清算を済ませることによってのみ可能となる、という考え方である。


179《世俗の権力は——ローマ帝国であれ、その他の権力であれ——、メシア的時間の実質的な律法不在の状態を覆っている見せかけなのだ。》


第六日 エイス・エウアゲリオン・テウ〔神の福音のために〕 二

192わたしたちの時代において格別の明瞭さをともなってあらわになっている、構成する権力と構成された権力の分離は、その神学的基礎を、信の次元と法の次元のあいだの、個人的な忠誠とそれから導き出される実際的な義務のあいだの、パウロによる分離のうちにもっているのである。このような展望のもとでは、メシアニズムは法の内部における闘争としてあらわれる。

195「パウロにおいては、じつのところ、もろもろの機能のあいだの葛藤といったようなものは存在しないのであって、それらの連結の欠如があるのみであり、そこから恵みが主権的=自己統治的なかたちであらわれ出るのである。」


197二つの「契約」は、どちらもアブラハムにまでさかのぼるとはいえ、二つの截然と区別された系譜を代表しているのである。モーセの律法はハガルに由来し、戒めと義務への隷属に対応する。そして、サラに由来する新しい契約は、律法からの自由に対応する。

197歴史的時間のうちにあって働くメシア的審級は、モーセの律法を働かなくさせつつ、系譜的にこれを超えて、約束に向かってかさのぼっていく。二つの契約のあいだに開かれた空間が、恵みの空間である。…〔略〕…
——すなわち、テクストではなく、メシア的共同体の生そのもの、“書字”ではなく、“生の形式”なのだ。


200《恵みは、社会的交換や義務の基礎ではない。それはむしろ、それらの中断なのだ。メシア的所作は基礎づけるのではなく、完遂するのである。》


☆219メシア的なものとは——

?221“カタルゲイン〔止揚〕とクレースタイ〔使用〕は、弱さのうちで成就される能力の行為なのだ。”


 閾(soglia)あるいはトルナダ(tornada)

234《ベンヤミン的な原理は、あらゆる作品、あらゆるテクストは、それらがある特定の時代に属するものであることを指すだけでなく、ある特定の歴史的瞬間においてのみ読解可能性に到達するという歴史的指標を含んでいる、との想定に立っている。》


「弁証法的なイメージ群のみが真正に歴史的なものである、すなわち、古さびたものではない。読まれるイメージ、すなわち認識可能性の今におけるイメージは、あらゆる読解の基底にあるこの危機的で危険な瞬間の刻印を最高度に帯びている。」(Benjamin 1974-89, V, 578)

アガンベン『事物のしるし——方法について』

2015-01-17 20:34:51 | Agamben アガンベン
——SIGNATURA RERUM by Giorgio Agamben (2008)


第一章 パラダイムとはなにか

“パラダイムの言説体制は論理ではなく、むしろアナロジーである。”29

「アナロジー的な第三項は、ここでなによりも、はじめの二項の脱同一化と中和を通して証明される。はじめの二項はいまや区別しえなくなるのである。第三項とは、この区別しえなさである。」30

《したがって、修道士それぞれの生活は、つまるところパラダイム的なものになり、〈生の形式〉として構築される傾向にある。》33

〈すなわち、パラダイムが含意する運動は、単独から単独へと進み、そこから出ることなく、けっしてア・プリオリとして定式化できない一般的な規則の“範例”へとどんな単独の事例であっても変形するのだ、と。〉33

「つまり、パラダイム的な関係は、たんに可感的な単独の対象間にあるのでも、単独の対象と一般的な規則とのあいだにあるのでもなく、なによりも単独性(そのようにしてパラダイムになるところの)とその展示(すなわちその可知性)とのあいだにあるのだ。」36

〈……その意味で、範例は例外と対称をなしている。例外が、除外されていることを通して包摂されている一方で、範例は、包摂されていることの提示を通して除外されているのである。〉37

“……すでに見たように、パラダイムの役割をはたすものは、通常の使用から引き離されると同時に、それ自体として提示される。”40

《アリストテレスの定義によれば、パラダイム的な身振りは、個別から全体へと進むのでも、全体から個別へと進むのでもなく、単独から単独へと進むのだった。現象は、その認識可能性のただなかに展示され、全体を示すことで、パラダイムとなる。パラダイムは、現象の前提(「仮定」)ではない。「前提されていない原理」として、パラダイムは過去にも現在にもなく、それらの範例的な布置のうちにあるのだ。》42


《その意味で、考古学はつねにパラダイム論である。アーカイヴの史料を検討する手腕だけてなく、パラダイムを認識し分節する能力こそが、研究者の序列を規定するだろう。》48


第二章 しるしの理論

「したがって、しるしによって表現される関係は、因果関係ではない。しるしの主 signator に逆作用するという、いっそう複雑ななにものかである。まさにこれを理解することが重要である。」54

「けれども、しるしの原型たる〈しるしの術〉(Kunst Signata) が言語なのだとすれば、この類似は、物理的ななにものかとしてではなく、アナロジー的で非物質的なモデルによるものとして理解すべきだろう。言語は、非物質的な類似のアーカイヴを保管しており、しるしの宝庫でもあるのだ。」56

「関連は、〈しるしづけるもの〉(signans) と〈しるしづけられたもの〉(signatum) とのあいだ、シニフィアンとシニフィエのあいだにあるのではない。……」57


「したがって霊印とは、零度のしるしである。この零度のしるしは、シニフィエなしに記号の出来事を表現し、この出来事のうちに中身のない純粋な同一性を打ち立てるのである。」76

“とはいえ、類似、共感、類比、照応の緊密な骨組みからなる世界は、それらを認識させてくれるマーク、しるしを必要とする。”89


〈バンヴェニストによれば、たんに記号体系としてのみ言語を考えようとするフェルディナン・ド・ソシュールの試みは不充分である。それではいかにして記号から発言へと移行するのかを説明できない。……死後出版されたノートのなかでソシュールも直観していたように、もし言語が記号体系であると想定してしまうなら、いかにして記号が言説に変形するのかを説明できなくなってしまうのである。〉94

「実のところ記号の世界は閉ざされている。記号から文への移行は、連辞によってもほかの仕方でもありえない。断絶がそれらを分け隔てているのだ」(Benveniste 1974) 95


《するとそのとき、存在論は存在の「言説」として、すなわち「存在の受動」として可能になるのである。〈いかなる存在者も一であり、真であり、善である〉(Quodlibet ens est unum, verum, bonum)、あらゆる存在者は一のしるし(存在者を数学ないし単独性の理論へと移動させる)、真のしるし(存在者を認識の教説へと向ける)、善のしるし(存在者を共有されうる望ましいものにする)を呈示するのである。》102


《その意味で、すでに見たように、第一哲学における超越論的なものは概念ではなく、しるしであり、「存在」概念の「受動」である。》119

“いずれにしても「世俗化」は概念なのではなくて、戦略的な操作子であるという事実”119

《この操作子によって、政治の諸概念がしるしづけられ、その神学的な起源に送り返されるのである。つまり世俗化は、近代の概念系にあってしるしとしてはたらき、この概念系を神学へと送り返すのである。……同様に「世俗化した」概念は、しるしとして、神学の領域にかつて所属していたことを提示する。》119-120

《それどころか、二十世紀の思想の無視しえない部分の根底には、しるしの絶対化とでも言うべきもの、つまり意味作用にたいするしるしの構成的優位の教説があると言っても過言ではないだろう。》120

「……事実、アリストテレスにしたがえば、欠如は、欠如している形相への参照をなおも含んでいるかぎりで、たんなる「不在」(apous?a) とは区別されるという(『形而上学』1004a, 16)。この形相は、まさにその欠乏によって確証されているのである。」121


第三章 哲学的考古学

《しかしこのアルケーは、ニーチェやフーコーにおけるように、過去のなかに通時的に追いやられることはなく、むしろ体系の共時的理解と一貫性を保証している。》143

「つまり歴史的ア・プリオリは、ア・プリオリな条件が、その条件にたいしてア・ポステリオリにしか構成されえないはずの歴史に刻み込まれているという、パラドクスを明らかにする。研究は——フーコーの場合なら考古学は——歴史のなかにア・プリオリな条件を見いださねばならないのである。」146


《ただ精神分析のみが、症状と強迫的な行動を超えて、抑圧された出来事にまで遡ることを可能にするだろう。》155

《考古学的退行は、意識と無意識の分水嶺の此方に遡る。そうして、思い出と忘却、体験されたものと体験されなかったものとが同時に交通し合いながら分離している断層線にまで辿りつく。》158

“むしろ問題は、系譜学研究による細部への配慮を通して、幻想を呼び覚まし、同時に幻想をはたらかせ、脱構築し、詳らかにし、ついには徐々に侵食していって、その起源の地位を失わせることである。つまり、考古学的退行とは回避的なのである。考古学的退行は、フロイトにおけるように先行状態の復元を狙うのではない。むしろ、その状態を解体し、遷移させ、最終的には迂回して、その内容にではなく、分裂の様相、状況、契機にまで遡ることを目指す。分裂は、そうした様相、状況、契機を遷移させ、起源として構成していたのである。その意味で、考古学的退行は永遠回帰の正反対である。つまり、過去を反復することでかつてあったものに同意しようとしたり、「そうだった」を「そうであることをわたしが欲した」に変えたりしようとはしない。逆に、過去をあるがままにし、解放して、その此方ないし彼方で、かつてなかったもの、かつて欲しなかったものに接近しようと望むのである。”158-159


「夢は解放の瞬間を先取りしているのだ。夢はトラウマ的な過去の強迫的反復である以上に、歴史の予兆なのである。」(Foucault 1994, I) 164

《考古学は歴史の流れを逆なでにして遡る。ちょうど想像力が個人の伝記の流れを遡るようにだ。これらはいずれも退行的な力を表象している。しかしこの退行的な力は、トラウマ性神経症のように、壊れることのなきまま起源へとあとずさりするのではない。逆に、歴史(個人のであれ集団のであれ)が先立未来の時制にしたがってはじめて接近可能になる点へと向かう。》165

アガンベン『言葉と死——否定性の場所にかんするゼミナール』(途中)

2014-12-03 19:18:31 | Agamben アガンベン
——Giorgio Agamben, Il linguaggio e la morte (1982)


序論

〈じっさい、西洋哲学の伝統のなかでは、人間は“死すべき存在”であると同時に“言葉を話す存在”として登場する。〉

《言語活動の「能力」も死の「能力」も、それは人間にもっとも本来的な住処を開くものであるかぎりで、この住処がつねにすでに否定的なものによって横断されており、否定的なものによって根拠づけられていることを明らかにするのである。》

〈そして、存在は——それが場所をもつのは根拠 Grund の非‐場所(つまりは無)においてであるかぎりで——根拠を欠いたもの das Grundlos なのである。〉


第一日目

〈この死へと向かう存在の純粋に否定的な仕方においてもっとも徹底した不可能性を経験することによってのみ、ダーザインは自らのもっとも真正な次元に接近することができるのであり、自分を一個の全体として把握すらことができるようになるのである。〉

“否定性はダーザインにそれ自身の〈ダー〉からやってくるのである。”

《森の中の明るい空き地 (Lichtung) でありつづけている者がまさにそのために「無の場所の保持者 (Platzhalter des Nichts)」(Heiddgger) であるなら、〈ダー〉はどこに存在するのだろうか。また、ダーザインを徹頭徹尾貫通している否定性は、どの点において、わたしたちが近代哲学史をつうじて見慣れている否定性とは相違しているのだろうか。」

“『存在と時間』におけるハイデガーの思想が〈ダー〉であること〈ダーザイン〉の分析でもって始まっているように、ヘーゲルの『精神現象学』の感覚的確信の「〈このもの〉をつかまえる (das Diese nehmen)」試みでもって開始されているのである。ことによると、『存在と時間』において、ダーザインに自らの〈ダー〉である真正な可能性を開いている死の経験と、『精神現象学』の冒頭において、ヘーゲルの言述が無から始まるのを保証している「〈このもの〉をつかまえる」ことの経験とのあいだには、アナロジー〔類比的関係〕が存在するのではないだろうか。”


第二日目

〈じじつ、感覚的確信が自分の対象を定義しようとして「〈このもの〉とはなんであるか」と問うとしよう。そのときには、感覚的確信はもっとも具体的な真理であるようにみえていたものがたんなる一般的な概念でしかないことを経験せざるをえなくなる。〉

「こうして、実際には、一般的なもの (Allgemeines) こそ感覚的確信の真理なのである。」Hegel

《…すなわち、絶対的なものとして最初に置かれたつもりの「自然的意識 (?)」なるものは実をいうすでにつねにすでに「歴史」(Geschichte) なのだということの経験をすることを意味しているにすぎない。》39★

“彼は、一方では、感覚的事物のうちにあって自らそれらの空しさを実現していながら、他方では、その空しさを実現するのはそれら自身であることを見てとるのである。”

“動物が感覚的事物の真理をたんにそれらを食いつくすことなよって、すなわち、それらを空無なものとして認めることによって保存するのと同じように、言語活動も、言葉で表現できないものを、言葉で表現できないと言い表すことによって、すなわち、それをその否定態において受けとることによって守護する。”

《「序論」のあるくだり——そのくだりについては注意深く反省してみるべきだろう——で述べておいたように、神秘的な脱自状態は、その混濁のなかにありながら、「事実上“純粋概念” (der reine Begriff) 以外のなにものでもない」(Hegel 2, p. 66) のだった。》

「無は、〈このもの〉の無として、直接性を守護しており、それ自体感覚的なものであるが、しかしまたそれは一般的な直接性なのである。」Hegel

“〈ダー〉であることと、〈このもの〉をつかまえること——これら二つの言い回しのあいだに認められる類似性、およびそれらがともに否定性と結びついているということはたんなる偶然なのだろうか、それとも、それらのうちにはなおも問われるべくして残っているさらに本質的な結びつきが隠されているのだろうか。〈ダー〉の場合であれ、〈このもの〉の場合であれ、人間を否定性へと導いていく力をもっているのはなんなのだろうか。そしてなによりも、これら二つの小詞はなにを意味しているのか。〈ダー〉であること、〈このもの〉をつかまえることとは、なにを意味しているのか。”


付記1(第二日目と第三日目のあいだで)

「あらゆる〔第一次的〕実体は〈このなにものか〉を意味する」
「不可分割で……数において一なるもの」
——アリストテレス『カテゴリー論』


《“こうして存在の問題——最高の形而上学的問題——はそもそもの初めから指示代名詞の意味の問題と不可分なものであったことがわかる。それゆえ、その問題はつねにすでに指示の領域と関連していたのだった”》

「〈この〉は指示行為を意味しており、〈なにものか〉は主体に応じた実体を意味している」——アンモニウス・ヘルメイオウ『カテゴリー論』

《すなわち、“存在の意味次元は、意味表現行為の限界の次元、意味表現行為が指示行為へと移行していく地点なのだ”》

“…ヘーゲルは『精神現象学』の第一章において、言語活動の限界はつねに言語活動の内部にあってもたらされるのであり、つねにすでに言語活動のうちに否定的なものとして含まれているのだと断言している”

“ヘーゲルは、「〈このもの〉をつかまえる」試みが必然的に否定性のうちに捕らわれたままであらざるをえないことを明らかにした。というのも、〈このもの〉は、厳密には、〈このものでないもの〉として、存在したもの (Gewesen) として露わになるのであり、「存在したもの (Gewesen) は存在するもの (Wesen) ではない」からである。”


「……それゆえ、この原因については二重の否定をつうじて (per duas negationes) 定義されるのがふさわしい。しかしまた、それらの否定は無限の否定ではない。というのも、それらは定義そのもののなかに設定されているこれらの限界によって拘束されているからである」——アルベルトゥス・マグヌス『トラクタトゥス』

《あらゆる存在論(あらゆる形而上学、しかしまたあらゆる科学もそうであって、科学も——意識していようが意識していまいが——形而上学がたどる領域の範囲内で動いているのである)は、或るものを直接的に指示することとそれの意味を言葉で表現することとの相違を前提にしている。それどころか、それはまさしく、両者のあいだの境界が位置している地点をつうじて定義されるのである。》


第三日目

61超越概念が対象を?

《このような歴史的見通しのなかではじめて、ここにいたってわたしたちは感覚的確信を弁証法的過程へと変容させていくことをヘーゲルにゆるしている代名詞——「このもの」——と指示行為とのあいだの緊密な絡まりあいに目を注ぐことができるのである。》

「指示作用の性質が複雑なものであって、必然的に言語活動の次元にかかわらざるをえないものであることを直感するなかで、中世の思想は代名詞において生じる“意味表現行為”から“指示行為”への移行が問題含みのものであることを意識するが、それをうまく処理することはできないままにとどまっている。……」

67この見通しの?

「……ヤーコブソンはシフターを二つの機能を再結合した特殊なクラスの記号、すなわち、“シンボル=インデックス”と定義する。」Agamben

68ここでは、?

「……代名詞の固有の意味は——それがシフターならびに言表の指示子であるかぎりで——現に進行中の言述行為への送付から切り離せない。代名詞が遂行する分節——シフティング (shifting) ——は、言語的でないもの(感覚的な指示行為)から言語的なものへの分節ではなくて、ラングからパロールへの分節なのだ。古代以来、代名詞に特有の性格がそこにあるとされてきたデイクシス=指示行為は、たんに名指されることのない対象を指示するだけでなく、なかんずく言述の現存そのもの、それの生起を指示している。……」

70Benveniste

《……代名詞やそれ以外の「言表の指示子」は、実在する個々の対象を表示する以前のところで、まさしく、“言語活動が生起している”という事実そのものを指示するのである。こうして、それらの指示子は、意味されるものの世界に指向するのに先立って、“言語活動という出来事”そのものに指向することを可能にしてくれるのであって、なにものかが意味されうるのはこの言語活動という出来事の内部においてでしかない。》

〈言語活動の科学はこの次元を言語活動が作動状態に置かれる次元、ラングのパロールへの転換がなされる次元としてつかまえる。〉

〈そして形而上学とはあらゆる言行為のうちにあってこの次元が開示されるのをつかみとる言語活動の経験のことなのであって、それはなによりもまず、言語活動が“存在する”という「驚き」を経験するのである。言語活動がもろもろのシフターをつうじて自己の現存へと指向することを可能にするからこそ、存在や世界といったようなものが思考へと開かれるのである。……〉


付記2(第三日目と第四日目のあいだで)

79☆無限定の「在る」までもが除去されて、~

81☆ここで存在の最高の神秘的経験ならびに神の完全な名として~


第四日目

“言語活動という出来事の経験において、わたしたちを否定性へと投げ入れるものはなんであるのか。もしその場所をつかまえようとする試みがこのようないっさいを空無化する力となっておわってしまうのであってみれば、そもそも言語活動はどこに位置しているのか。”

《“言表行為にしても現に進行中の言述行為にしても、それがそのようなものとして同定されるのは、それを発語する音声をつうじてでしかない”。》

92-93☆“音声の除去と
93-94☆じっさいにも、

〈したがって、〈声〉は、言語活動の生起をつかみとることを可能にする最高のシフターとして、すべての存在論ならびに論理学がその上に安らっている否定的な根拠、あらゆる否定作用がそれに支えられている本源的な否定性として立ち現れる。このため、存在の次元の開示はつねにすでに無の脅威にさらされている。…〔略〕…そして、さらには、この否定性こそが、わたしたちがさきに超越性の本源的構造を構成するのを見た、言語活動の分野の“意味表現行為”と“指示行為”への分裂を分節するのである。〉

《「〈このもの〉をつかまえる」とか「〈そこ〉である」といったことが可能になるのは、〈声〉の経験、すなわち、音声が奪われるなかで言語活動が生起するという経験をすることによってのみなのだ。》


付記3(第四日目と第五日目のあいだで)

《グランマ〔文字〕は音声の理解可能性を保証するこの第四番目の通訳者にほかならないのである。》

《“音声の符牒であると同時に構成要素でもあるものとして、グランマは自ら自身のインデックス (index sui) という特別の身分を引き受けることとなるのである”。》

「音声のうちにはなにも存在しない〔無が存在する〕、音声は否定的なものの場所であり、〈声〉、すなわち、純粋の“時間性”である、と。しかしまた、この否定的なものこそはグランマなのである。すなわちそれは音声と言語活動とを分節し、こうして存在と意味を開示するアルトロン〔分節態〕にほかならないのである。」

《形而上学というのはつねにすでにグラマトロジーなのだ。そしてグラマトロジーというのは、グランマには(〈声〉には)否定的な存在論的根拠としての機能が属しているという意味において、“根拠学” (fondamentologia) なのである。》


第五日目

109だが、なぜ動物の声の?

「声のなかでは意味は自らの内部へ立ち戻る。それは否定的な自己、欲求 (Begierde) である。それは欠乏、それ自身のうちにおける実体の喪失である。」Hegel

〈“死の”声(ならびに記憶)とはつぎのこと、すなわち、その声は死が生者を死者として保存し記憶しようとしたものであり、それと同時に、そのまま死の痕跡ならびに記憶でもある、つまりは純粋の否定性でもあるということを意味している。〉

〈人間の言葉は、この「消え失せていく痕跡」を分節したもの、すなわち、それを停止させ保存したものであるかぎりで、動物の声の墓場にほかならない。……〉

〈声が発せられる場所のうちに書きこまれているからこそ、言葉は死の声であると同時に死の記憶でもあるのだ。それは死を記憶し保存する死なのであり、死の痕跡の分節態にして文法なのである。〉

118Hegel


付記4(第五日目と第六日目のあいだで)

「しかしまた、満足の原理そのものは笑うべきでないと要求なさるのです。」——バタイユのコジェーヴ宛の書簡

125あるいは
現存というのは
~無なのです。

「こういうわけでわたしはあなたが潜勢力から現勢化されたものへ、哲学から知恵へ移行していかれることを願っています。しかし、このためには、あなたの本の天使的な部分をあくまでも無でしかない無へ還元なさってください。すなわち、沈黙へと還元なさってください。」——コジェーヴのバタイユ宛の書簡

126-127じつのところ、


第六日目

〈“言葉は生命体としての人間の声ではないのだ”。それゆえ、言語活動の本質はもはや形而上学の伝統にしたがって(動物の)音声の分節作用にあるとは規定しえない。……?〉132

《まさにダーザインがそれにもっとも本来的な開かれた場所に近づいた地点で、この開かれた場所は「無であり、どこにもない」ものとして露わにされる。すなわち、〈ダー〉、言語活動の場所は、ひとつの非-場所 (non-luogo) にほかならないのだ(リルケが〈開かれた場所〉を「ドゥイノの悲歌」第八歌において「〈ない〉をもたない、どこにもない場所」[Nirgends ohne nicht] というように特徴づけていることを想起されたい。》

「そして、ダーザインは〈ダー〉のなかに投げ入れられることによって、言葉の生起する場所を〈どこにもない場所〉(Nirgends) として経験するのである。」

137☆ここでは、不安のシュティムングがダーザインを~

138☆ダーザイン、〈ダー〉であるとは、シュティムングのうちにあって、あらゆるシュティンメよりもさらに本源的なこの無のなかにとどまりつづけるということ、すべてのシフターが消失し、~
意味いるのである。

138-139☆無化 (Nichtung) のなかで、~
考えているからである。

《“死の思考とは、単純にいって、〈声〉の思考なのだ”。ダーザインは、それが〈ダー〉のなかに投げ入れられている状態から、死に向かって、徹底的に後退していくことによって、実際には、おのれの無声状態を否定的なかたちで再現しているのである。…〔略〕…ヘーゲルの場合、動物は、暴力的な死に直面して声をもつ。同じように、ダーザインも、正真正銘の死に向かおうとするなかで、〈声〉を見いだす。そして、この〈声〉は、ヘーゲルの場合もそうであったように、「魔術的な力」を保持していて、否定的なものを存在へと反転させる。すなわち、無は存在の「覆い」にすぎないことを証明するのである。》

114Heidegger

「存在は言語活動の生起としての〈声〉の意味次元にほかならない。すなわち、言われることがないままに純粋に言いたいとおもうこと、良心をもつことがないままに純粋に良心をもとうと意志することの意味次元にほかならない。存在の思考とは〈声〉の思考のことなのだ。」


付記5(第六日目と第七日目のあいだで)

  わたしは到達しがたい
  沈黙
  そして多くの思い出が残っている
  エピノイア〔思念〕。
  わたしは多くの音に
  起源をあたえる声
  そして多くの像をもつ
  ロゴス〔ことば〕。
  わたしはわたしの名の発音者。

  (ナグ・ハマディ写本・第VI写本一四・一〇)


《そして、この深淵的なあり方については、三位一体神学は根底にまで突きつめて解決することはできないでいるのである。》


第七日目

《……そして、やがて記憶のテクニックへと堕落していった。「場所」を記憶のための像であると考えるテクニックであって、このテクニックを自在に操ることが弁論家に彼の演説を「論拠づける」可能性を保証していたのである。記憶の場所のテクニックとして、トピカはもはや言語活動という出来事を経験させるものではなくなり、これらの出来事をすでにつねにあたえられ起きてしまったものとしてそこに同定しておく人為的な住居(「備忘録」)を構築するだけのものになってしまった。……話者にとっては、このすでにあたえられているものを自由に使えるように固定し備忘録に記しておくことこそが重要なのであった。》

「この考え方によると、言葉がそこから生まれる愛の欲求のほうが、言葉がすでにあたえられてしまっている状態を想起しようとするものであるインウェンティオー inventio〔発見〕よりも本源的なのであった。」

《トロバドールたちはすでになんらかのトポス〔場所〕に保管されている論拠を想起しようと欲しているのではない。そうではなく、むしろ、あらゆるトポス中のトポス、すなわち、本源的な“論拠”としての言語活動の生起そのものを経験しようと欲しているのである。この本源的な論拠からのみ、古典的レトリックで言われる意味でのもろもろの論拠は湧き出てくるのである。だから、そのトポスはもはや記憶術の伝統において言われる意味での記憶の場所ではありえない。そうではなくて、それはいまや、アウグスティヌスの言うアッペティートゥスを踏襲して、愛の場所として提示されることとなる。アモール」(amor) というのが、トロバドールたちが詩的言葉の到来の経験にあたえた名前である。彼らにとっては、愛こそは卓越した意味でのラソ・デ・トロバール〔発見法〕なのであった。》


《…“そのトポスそのもの、言語活動の生起という出来事そのものを愛と詩の根本的な経験として生きようとする”試みこそが、重要なのである。》

「トロバドールたちにとってはラソ〔発見の方法〕を“生きる”こと——すなわち、言語活動という出来事を愛として体験すること——であったものが、いまや、“生きられたものを弁論する”こと、伝記上の個別的な出来事を言葉にすることへと変化してしまうのだ。」

「しかしまた、このような愛としての言語活動の生起の経験には、必然的に、困難と否定性とが含まれていた。そして、これをトロバドールのうちでもっとも急進的な人たちは——「無」(nihil) にかんする同時代の神学的思弁を踏襲して——無の経験というように考えるまでにいたっていた。」


171☆《“言語活動”は存在するが、

存在するものとして、無はさまざまなシフターの働きに内在しているのを見た〈声〉の否定的構造そのものをつかみとるのである。(じじつ、無の言語的表現形態はほとんどいつの場合にもあるシフターの、あるいは中世の論理学のトラーンスケンデンティア〔超越概念〕のうちのひとつの否定態として立ち現れている。……》


「“レオパルディの田園詩のなかでは、〈このもの〉は、すでにつねに垣根の向こう側、遠く離れた地平の彼方、言語活動が無限に生起していく方向を指示している”。すなわち、詩語は、それが到来した瞬間にすでにつねに未来と過去へと逃れ去っていくようなふうにして到来する。それゆえ、詩のやどる場所はつねに記憶と反復の場所なのである。……」

「また、その言述行為自体、記憶され無限に反復されるにすぎず、しかも、記憶され反復されたからといって、言葉で表現されうるもの、“トロバール〔発見〕しうるもの” (trovabile) に転化するわけではない。」


Sempre caro mi fu quest'ermo colle ...
〔この人里離れた丘はわたしにはいつも親しいものとしてあった〕
——レオパルディの田園詩「無限」より

〈「いつも」(sempre) は「一度起こったらその後もずっと」(una volta per tutue) を意味する。すなわち、単一なものが複数のものを通過し反復を繰り返しながらひとつに結集していくという考えを内包している。……〉

〈…習性は“思考”に席を譲る。そして、思考は当初の「いつも」(sempre)(sem-plice〔単純なもの〕)を尽きることのない多様なものとして「仮構してみる」、つまりは表象する。〉

〈その思考は、言語活動の場所のトロバール〔発見〕不可能性をとことん突きつめて経験しながら“思考”に努めている運動、すなわち、その不可能性を宙吊りにしたまま、それを構成している諸次元を比較しようとする運動にほかならないのである。〉

“思考が難破するのは、言語活動の——トロバール〔発見〕できない——生起という、それについての思考がしょうじたのと同じもののなかにおいてである。”

189思考は、自らの難破のなかで、~
それである。


付記6(第七日目と第八日目のあいだで)


第八日目

「〈声 Voce〉——言葉で表現することのできない沈黙の声——こそは、思考が言語活動の生起を経験し、このことによって存在の次元を存在者との差異のなかで根拠づけることを可能にしてくれる、最高のシフターにほかならないのである。」

「さらには、その二重の否定性をつうじてフォネーとロゴスの本源的分節を作動させるものであるかぎりで、〈声 Voce〉の次元は西洋文化が自らの抱える最高の問題のうちのひとつを思考するさいのモデルをも構成する。自然と文化、ピュシスとロゴスのあいだの関係と一方から他方への移行の問題がそれである。この移行はすでにつねにアルトロン、分節として考えられている。すなわち、断絶であると同時に連続であるようなもの、除去であると同時に保存でもあるようなものとして考えられている(略)。」


“死と〈声 Voce〉とは同じ否定的構造をもっており、形而上学的には不可分離の関係にあるのである。”

“論理と倫理の本源的な統一は、形而上学にとっては、あくまでもシゲー〔沈黙〕的なものなのだ。”

《形而上学は“存在の思考であると同時にに意志である”。すなわち、“〈声 Voce〉の(あるいは死の)思考である同時に意志である”。》


205言葉をもつ動物
立ち現れる。

「“存在 (essere)” (否定性をともなった存在論的・神学的なもの)が人間の“所有 (avere)”の、その“住処 (abitazione)”であるとともにその“慣習 (abitudine)”であるものの、単純な神秘の高みにいないということはありうることなのだろうか。また、わたしたちが存在を超えてそこへと立ち戻っていく住処が天上界を超えた場所でも〈声〉でもなくて、たんにわたしたちの“所有している使い古した”言葉にすぎないとしたら、どうなのか。」

222哲学は人間


付記7(最終日のあとで)

228☆〈声〉が時間としての

236☆ここでもまた、

236☆わたしたちはこう言ってもよいのかもしれない。〈性起〉において、~

“〈絶対的なもの〉というのは〈声〉の自己指示行為のことである。”

「かくて、〈性起〉の「もっとも真正な様態」をなすザーゲ (Sage)、本源的な言行為は、本質的に純粋の指示行為、指示する (Zeige) と同時に自己を指示する (sich zeigen) 行為のことである。」

《既在 Gewesen の思考(〈最初のもの〉の思考)は、必然的に〈最後のもの〉の思考、終末論であらざるをえないのだ。》

240「それどころか、〈性起 Ereignis〉はまさしくザーゲ (Sage) としての言語活動を人間の言葉にまで運んでいく運動のことにほかならない。……人間の言語活動は、ここではもはやいかなる自然にも縛られてはいないけれども、依然として送り先を指定されており、歴史的なものでありつづけている。


“絶対的な根拠の問題、つまりは根拠を欠いていること〔無底〕の問題”

242共同体から排除されたものは、
243あらゆる人間的実践の無底性は、
244そうではなくて、

“暴力の根拠は根拠の暴力である。”

246じっさいにも、


エピローグ

248「探究のなかに

248思考とは声が言語活動のなかで未決定の状態にあることの謂いにほかならない。

250しかし、声、
250思考すること

〈それゆえ、言語活動はあくまでもわたしたちの声、“わたしたち”の言語活動である。きみがいまどのように語るか、これが倫理というものなのだ。〉

アガンベン『開かれ 人間と動物』

2014-11-25 15:04:21 | Agamben アガンベン
——Giorgio Agamben, L'aperto: L’uomo e l'animale (2002)


第1章 動物人〔テロモルフォ〕

《…最後の審判の日、動物と人間の関係が新たなかたちへと和解され、人間そのものがその動物的な本性との宥和を遂げるだろう、ということだったというのは、あながちありえない話ではないのである。》

第2章 無頭人〔アセファル〕

「囚人が監獄から逃げるように、人間は頭から逃走した」Bataille

《…彼らの特権化された経験のなかにほんの一瞬だけ垣間見られる無頭の存在は、おそらく人間的存在でも神的存在でもありえなかった。しかしまた、この無頭の存在は、断じて動物的なるものでもあってはならなかったのである。》

「私の生こそが開いた傷口なのです」Bataille

第3章 スノッブ

「人間とは動物が患う道徳上の病なのである」コジェーヴ

《おそらく人間化した動物の身体(奴隷の身体)とは、観念論の遺産として思考に遺された解消しえない残余 resto なのであり、今日における哲学のさまざまなアポリアは、動物性と人間性とのあいだで還元されぬままに引き裂かれ張りつめているこの身体をめぐるアポリアと符号するのである。》

第4章 分接の秘儀

〈すなわち、われわれの文化において、“定義されえないにもかかわらず、だからこそなおさら、たえず分節化され分割されなければならないもの”こそが、まさしく生にほかならないかのようである。〉

〈換言するならば、分割され区別されたもの(この場合は、栄養の活動)こそ、まさしく——一種の“分割統治”〔divide et impera〕において——一連の能力や機能的対立からなるヒエラルキー的な分節化として、生の単一性を成立させうるものなのである。〉


〈…すなわち、どのようにして人間が間から、動物的なものが人間的なものから——人間のうちで——分割されてきたのかを自問してみることのほうが、いわゆる人間の価値や権利といったお題目について立場表明することよりもはるかに急務なのである。そして、おそらく聖なるものとの関係というもっとも光耀に充ちた領域もまた、動物的なものからわれわれを分割した——いっそう陰欝とした——領域になんらかの仕方で依存しているのである。〉

第5章 至福者たちの生理学

「復活とは——トマスはそう諭している——人間の自然的な生の完成のために設けられているものではなく、観想的な生という究極の完成のために定められているものなのである。」

「…復活した者たちの身体では、動物的な機能は「無為で空疎」なままなのである。すべての肉体が救済されるわけではなく、至福者の生理学においては、救済という神の配剤=経済〔オイコノミア〕は、贖いえない=買い戻すことのできない残余〔レスト〕をとどめている。」

第6章 経験的認識

〈歴史のメシア的終末、あるいは救済という神による配剤〔オイコノミア〕の実現は、ひとつの臨界の閾を明るみに出しているのであり、その閾においては、現代文化にとってはかくも決定的であるはずの動物と人間のあいだの差異は、抹消されかねない気配である。〉

〈だからこそ、歴史以後〔ポストストーリア〕に到達するということは、人間と動物の境界線が画定されていた、歴史以前〔プレイストリコ〕の閾をふたたびアクチュアルなものにする、ということを必然的に意味しているのである。天国によってエデンの園が疑問に付されることになる。〉

“人間と動物の差異が消え、この両極が——今日よく起こるように——ともに危機に瀕しているとするならば、存在と無、合法と非合法、神と悪魔といった差異もまた無効になり、その代わりとして、それを指し示すための名すら欠いているような何かが姿を現わしてくるのである。おそらく強制収容所や絶滅収容所もまた、この種の経験=実験、すなわち、人間か間かを決定しようとする極端かつ途轍もない企てといえるだろう。そして、この企ては、最後には、人間と間とを弁別する可能性そのものを破局へと巻き込んでいくのである。”

第7章 分類学

《ホモ・サピエンスは、それゆえ、明確に定義された実質でも種でもない。むしろそれは、ひとつの機械、あるいは人間認識を生み出すためのひとつの装置なのである。》

《リンネは人類〔ホモ〕を定義して「みずからを存在しないものとして認識したときにのみ存在する動物」と規定した。》

第8章 序列なし

《人文主義による人間の発見とは人間そのものの不在の発見なのであり、人間の尊厳=序列〔ディグニタース〕の取り返しようのない欠如の発見なのである。》

《人間の顔の輪郭は——まだほとんど——未確定で偶然なものであるために、束の間の存在が描き出す輪郭のように、たえず溶解し消え去りつつあるものなのである。》

第9章 人類学機械

《言語と自己同一化することによって、話す人間は、すでにして人間であるものであれ、いまだ人間ならざるものであれ、自己固有の沈黙を自己の埒外に置いたのである。》

“われわれはむしろ、言葉を話す人間を介して、つねに人間の動物化(ヘッケルの猿人のような動物人)か、動物の人間化(人猿)かのいずれか一方だけを抽出してくるのである。動物人と人獣は、それらのいずれによっても埋めることのできない同じ断絶の二つの顔なのである。”

p.69☆シュタインタール
~すのである。

《おそらくこれは、近代人の人類学機械だろう。人類学機械は——これまで見てきたように——すでに人間であるものを(いまだ)人間ならざるものとして自己から排除することによって作動している。つまり、人間を動物化し、人間のうちから非人間的なもの、すなわちホモ・アラルス〔言葉をもたない人〕、あるいは猿人を分離することによって作動しているのである。》


第10章 環世界

第11章 ダニ

第12章 世界の窮乏

〈このように、存在を、陰画〔ネガ〕として——存在の剥奪によって——動物の環境のなかに導き入れたのち、講義のなかでももっとも緻密な箇所においてハイデガーがいっそう際立たせようとしているのは、動物が放心状態のなかで自己を関係づけているものに特有の存在論的ステータスである。〉

「心を奪われることに特有の開示性のなかで、本能的な放心へと、なにがしかの方法で駆り立てられているものは、どのようにして特徴づけられるべきなのか。」Heidegger

「放心に開かれた存在とは、動物の本質的な所有なのである。この所有のおかげで動物は、なしですませたり[entbehren]、窮乏したりすることができるのであり、窮乏によってその存在のうちに規定されることも可能なのである。」Heidegger

第13章 開かれ

「途方もない動物の擬人化であり、……それに対応する人間の動物化」Heidegger

《神秘的な知が本質的に不可知の経験であり、不可知としての隠蔽〔ヴェラメント〕の経験であるのに対して、動物は開かれざるものに関わることができず、まさに露顕〔ズヴェラメント〕と隠蔽〔ヴェラメント〕が衝突する本質的な領域から締め出されたままなのである。》

“すなわち、人間世界の開かれは——それがまたとりもなおさず露顕〔ズヴェラメント〕と隠蔽〔ヴェラメント〕の本質的な衝突への開かれであるかぎりにおいて——開かれざる動物世界に対して行使されるひとつの操作を介してのみ成就されうるということである。そして、この——世界に対する人間の開かれと抑止解除するものに対する動物の開かれとがほんの束の間だけ踵を接し合う——操作の場こそ、倦怠にほかならないのである。”

第14章 深き倦怠

〈宙づりのままに保持され、不活性のまま滞留しているということは、いまや現存在に特有の可能性、現存在があれこれすることができる可能性なのである。〉

《……というのも、“できないこと”、人為による個々の特定の可能性を不活性化することから出発してのみ、この根源的な可能化は可能だからである。》

《開かれ aperto、存在の自由は、開かれても閉じられてもいない動物の環境と根源的に異なるようなものを名指すことはない。…略…つまり、開かれ Lichtung において賭けられている開示は、本質的に閉ざされへの開示であり、開かれをじっと見据える者は、閉ざされていること、見ないことしか見ていないのである。》

〈人間界を規定する露顕と隠蔽のあいだ、非隠匿性と隠匿性のあいだの解決しがたい闘争は、人間と動物のあいだの内部抗争なのである。〉


「現存在の意味とは、無のうちに宙づりにされたまま保持されてあることである」Heidegger

「人間の現存在は、無のうちに宙づりのままに保たれたときはじめて、存在者に対して行動する」Heidegger

《存在は、その根源以来、無に横切られており、開かれ Lichtung は元をただせば無化 Nichtung なのである。》

「現存在は、退屈することを習得した動物、自己の放心“から”自己の放心“へと”覚醒した動物にすぎない。生物がまさに自分が放心した状態へと覚醒すること、自己を開かれざるものへと——苦しくとも決然と——開くということこそが、人間にほかならないのである。」

第15章 世界と大地

《真理を規定する隠匿性と非隠匿性の弁証法のなかで賭けられているものが、ハイデガーにとって政治的なパラダイムかどうかということは問題外である(というより、むしろ政治的パラダイムと呼んでしかるべきなのだ〉。》

《隠匿性と非隠匿性との葛藤としての真理という存在論的パラダイムは、ハイデガーにおいては直接的かつ根源的に、政治的なパラダイムである。ポリスや政治学のようなものが可能であるのは、まさに本質的に人間が閉塞への開示において生起するからなのである。》

“……非隠匿性と隠匿性のあいだの根源にある政治的葛藤は、同時に、かつ同程度に、人間のもつ人間性と動物性のあいだの葛藤にもなる。動物とは、人間によって守られ、そういうものとして白日のもとに曝された〈露顕されえないもの〉なのである。”

“もし、人間性が動物性を宙づりにすることでしか獲得されず、それゆえ、動物性の閉塞に開かれたままに保持されなければならないとするならば、「人間の実存的本質」を把捉しようとするハイデガーの企図が、動物性〔アニマリタス〕がはらむ形而上学的な優位をとらえそこなってしまうのは、いったいなぜなのか。”

第16章 動物化

人間という動物には、自分の同類を家畜にする者もいる。——ペーター・スローターダイク

「およそ七〇年の距たりを経た今日、人々が引き受けるべき、あるいは、たんに課されるだけのものにせよ、いかなる歴史的使命ももはや存在しないことは、まったく誠意に欠けるといった人でないかぎり、誰にとっても、明白なことである。」

「ゲノム、グローバル経済、人道主義という名のイデオロギーは、歴史以後〔ポストストリコ〕の人類が、自分たち自身の生理学を最後の非政治的な委託として受け入れてゆくこのプロセスの、三つのたがいに連動する局面なのである。」

《動物の完全な人間化は、人間の完全な動物化に符号しているのだ。》

第17章 人類創生☆

3…開かれとは
4まさに、
5現代の文明
6人類学機械が

第18章 あいだ

世界のすべての謎は、性をめぐる細微な秘密にくらべれば、取るに足らないことのように思える。——ミシェル・フーコー

「したがって、〔芸術作品は、〕いかなる審判の日も待望することのない自然、歴史の表舞台でもなく人間の棲処でもないような自然のモデルとして定義されるのです。つまり、救出された夜[die gerettete Nacht]なのです。」Benjamin

〈「救出された夜」とは、このおのれ自身へと送り返された自然を指し示す名前なのである。……救済されるべきはむしろ、喪失と忘却そのもの——つまりは、救われえないものである。救出された夜は、救われえないものと関わっている。〉

「この生は、神秘を失うのとひきかえにしてはじめて、自然との関係から解放される。だが、人間を生に結びつけている秘密の絆を——ほどくのではなく——断ち切るのは、すっかり自然に属しているようにみえながら、むしろいたるところで自然をはみだしている要素、すなわち性的充足なのである。性的快楽の土壇場で、神秘から解き放たれ、いわば自然ならざるものを認識することになる生というこの逆説的なイメージのうちに、ベンヤミンは、もうひとつの新たな人間ならざるものの象形文字〔ヒエログリフ〕のようなものを読みとったのだ。」

145Benjamin?

第19章 無為

《恋人たちは、性の充足のうちに、みずからの神秘を失うことで、完全に無活動となった人間本性——救われざる生の至上の形象としての、人間と動物の無活動や無為——に思いを凝らすようになるのである。》

第20章 存在の外で

秘教主義とは、非 - 知の様態を分節化することである。——フリオ・イエージ

《ティツィアーノが描いた恋人同士が、たがいにみずからの神秘の不在を宥し合うように、救出された夜に、生——開かれているわけでもなく、露顕されえないものでもない——は、自己の隠匿性との関係を静かに保ち、これを存在の外に存在させる〔lasciar essere fuori dall'essere〕のである。》

「歴史的な使命を想定することもなく、人類学機械を起動させることもなく、生者が義人たちのメシア的な宴に腰を下ろすことのできる方法がおそらくまだあるだろう。人間を産出してきた接合の秘儀をもういちど解くには、分割をめぐる実践的かつ政治的な神秘の未曾有の深化を経なければならないのである。」

アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの——アルシーヴと証人』

2014-11-04 22:39:14 | Agamben アガンベン
——Giorgio Agamben, Quel che resta di Auschwitz : L’archivio e il testimone (Homo sacer III) (1998)


 序言

“これ以上に真実なものはないというくらいにリアルな事実。事実的諸要素を必然的に逸脱してしまっているほどのリアルさ。これがアウシュヴィッツのアポリアである。”

“じつのところ、アウシュヴィッツのアポリアは歴史認識のアポリアにほかならない。すなわち、事実と真実、確証と理解のあいだの不一致である。”

〈もっとも、証言にはその本質的な部分として欠落がともなっていること、すなわち、生き残って証言する者たちは証言しえないものについて証言しているのだということがある時点で明らかとなったので、かれらの証言について注釈することは、必然的に、その欠落について問うことを意味するようになった。あるいはむしろ、その欠落に耳を傾けようとすることを意味するようになった。欠落に耳を傾けることは、著者にはむだな労力とはおもわれなかった。〉

《語られていないことに耳を傾けるやり方、いやおそらくはその唯一可能なやり方である。》


第1章 証人

「責任を負うというふるまいは、純粋に法律的なものであって、倫理的なものではない。」

「しかし、倫理とは罪も責任も知らない世界である。……罪と責任を負うことは——ときにはそうする必要があるにしても——倫理の領域を出て法律の領域に入ることを意味する。……」


《証人は、ギリシア語では martys、すなわち受難者である。最初の教父たちは、迫害されたキリスト教徒の死を指すために、その語から martyrium〔殉教〕という後を得た。迫害されたキリスト教徒は、死ぬことによって自分の信仰について証言したのである。収容所で起こったことは、殉教とはほとんど関係がない。このことについて、生き残った者たちの意見は一致している。》

「ナチズムの犠牲者たちを殉教者と読んだなら、かれらの運命を神秘化することになる」(Bettelheim 1, p.93)

〈こうして、殉教の教義が、無意味な死という躓きの石、ばかげたことにしか見えない虐殺という躓きの石を正当化するために生まれる。〉

“しかし、なぜ言語を絶しているのだろう。なぜ大量虐殺に神秘主義の栄養を与えなければならないのだろう。”


《生き残って証言する者たちは、さも証人であるかのような顔をして、かれらの代わりに代理として語る。生き残りたちの供述する証言は欠落した証言なのだ。……》

《かれらのために証言する責務を引き受ける者は、自分が証言するのは証言することの不可能性のためでなければならないことを知っている。しかし、このことは証言の価値を決定的に変え、証言というものの意味を思いがけない領域に探しにいくことを強いる。》

《証言の言語とは、もはや意味作用をおこなわない言語である。》


第2章 「回教徒」der Muselmann

“しかも、回教徒が棲みかとした生と死、人間的なものと非人間的なものの極限的な閾が政治的な意味をもちうるということ、このこともまた明確に主張されていた。”

“こうして、ベッテルハイムにおいて、収容所は、典型的な極限状況として、なにが人間的で、なにが人間的ではないかを決定することを可能にし、回教徒を人間から分かつのを可能にしている。”

《アウシュヴィッツとは、まさしく、例外状態が正規のものとぴたりと一致していて、極限状況が日常的なもののパラダイムそのものとなっている場所のことである。》


“人間が忌み嫌うものは自分がそれに似ているのを知られたくないものでもあるという法則に従うなら、回教徒こそは、みながこぞって回避しようとするものでもある。というのも、収容所のだれもが、その抹消された顔のうちに自分を認めるからである。”

《死の収容所であるよりもまえに、アウシュヴィッツは、生と死を越えたところでユダヤ人が回教徒に変容し、人間が非‐人間に変容するという、これまで考えられたこともない実験場である。》

〈見ることの不可能性を表象したgorgoneion〔ゴルゴンの頭〕は、見ないではいられないものなのである。〉

《すなわち、見かけは人間のままでも、人間が人間であるのをやめる地点が存在するのである。その地点が回教徒であり、収容所は、かれらにうってつけの場所である。しかし、人間にとって、非‐人間になるとは、なにを意味するのだろうか。人間の生物学的な人間性から区別し分離することのできる人間性は存在するのだろうか。》


“したがって、回教徒とは、ベッテルハイムにとって、放棄することのできない自由の余地を放棄して、その結果、感情の働きと人間性のいかなる痕跡をも消し去ってしまった者のことである。”

《「考えてみる」必要があるのは、まさにこのことであり、ベッテルハイムが信じているように見えるのとはちがって、尊厳の問題ではない。》

《生物種として人類に帰属しているという「究極の」感情とは、どのようなものだろうか。そして、この感情のようなものは存在するのだろうか。回教徒のうちに、多くの者は、ただ単に、この問いに対する答えを探しているように思える。》

〈そこは、上品なままでいることが上品ではなくなる場所、尊厳と自尊心を保持しているとしんじていた者たちがあっという間にそれを失った者たちよりも恥ずかしさを感じる場所なのである。〉

「自分の尊厳がむなしい芝居であること」

《回教徒は、あるひとつの特定種の限界形象なのであり、そこでは、尊厳や自尊心のようなカテゴリーだけでなく、倫理の境界という観念そのものが意味を失ってしまうのである。》

《そして、「種に帰属しているという究極の感情」は、どうあっても尊厳ではありえない。》

“そのもっとも極端な定式化である回教徒は、尊厳が終わったところで始まる倫理もしくは生の形態の番人である。……”

《アウシュヴィッツでは、人が死んだのではなく、死体が生産されたのである。……》


〈いいかえれば、近代によって引き起こされた死の非本来化を目の前にして、詩人は、フロイト的な喪の図式にしたがって反応しているのである。失った対象を自分のうちに取りこもうとしているのだ。あるいは、メランコリーというそれと同種のケースがそうであるように、本来のものであるとか本来のものでないと語ることが単純に無意味であるような対象——死——を、奪われたものとして出現させている。〉

《……無数の、残酷な、死なない死 (ungestorbener Tode) という途方もなく悲惨な状況がいたるところに見られる。にもかかわらず、死の本質は、人間には阻まれている。》——ハイデガーの講演「危機」より

《しかしそれなら、収容所においては、“死ぬ”死、本来的な存在のうちで耐えられる死とは、なんでありえたのだろうか。そして、アウシュヴィッツでは、本来の死を本来のものでない死から区別することに本当に意味があるのだろうか。》


“じっさい、収容所は、自分本来のものと自分本来のものでないもの、可能なものと不可能なもののあらゆる区別がまったくなくなる場所である。”

《自分本来のものでないものの本来化は、もはや可能ではない。》

〈このことが意味するのは、人間は非人間的なものの刻印を担っているということであり、人間の精神は非‐精神という傷、すべてを受け入れられる人間の能力のもとへと残酷にも引き渡された非人間的なカオスという傷をみじからの中心に含みもっているということである。〉

《回教徒は、執拗に人間としてあらわれる非‐人間なのであり、非‐人間的なものと区別することのできない人間的なものなのである。》

〈いいかえれば、“人間は人間のあとも生き残ることのできる者である”ということである。〉


〈こうして、ナチスの生政治のシステムにおける収容所の決定的な役割が理解される。収容所は、死と大量殺戮の場であるだくでなく、なによりも、回教徒を生産する場、生物学的な連続体のうちで切り離されうる究極の生政治的実体を生産する場である。その向こうにはガス室しかない。〉

〈そして、それは、どれか特定の地理的空間にひとたび据えられたなら、その地理的空間を生政治の絶対空間、そこへと人間の生が定めることの可能ないかなる生政治的アイデンティティをも越えて移行していく生にして死の空間 (Lebens-und Todesraum) に変容させてしまう生政治の機械にほかならない。ここにいたっては、死は単なる付帯現象にすぎない。〉


第3章 恥ずかしさ、あるいは主体について

《あたかも、生き残った者は、他人の代わりに生きることしかできなくなるかのようである。》

《生き残った者の恥ずかしさのもつ別の顔は、ただ単純に生き残ったことそのものを讃えることである。》


「〔…〕まだ生きている者にたいするわたしたちの義務は、生存本能を強化することである」(Bettelheim 1, p.102)

《これら二つの像は、生者が無実と罪を分離しておくこと——自分の恥ずかしさになんとか決着をつけること——の不可能性の二つの顔である。》


「意外なことに、あらゆる年代のドイツ人がナチズムにまつわる集団的な罪を戦後になって進んで負ったということ、かれらの親やかれらの民族が犯したことに進んで罪を感じたということの裏には、同じくらい意外なことに、個々人の責任を確認し、個々の犯罪を処罰することにたいする消極的な気持ちがはたらいていたのだったということについて想起するよううながしたのは、ハナ・アーレントだった。」


「しかし、生き残り証人が恥ずかしさを感じているのは他人の代わりに生きているがゆえの罪の意識によるという説明が信用できない理由は、ほかにももうひとつある。」

〈悲劇的であるのは、わたしたちには無実に見える主体が客観的な罪を無条件に負うからなのである。〉

《アウシュヴィッツ以後、悲劇のモデルを倫理に利用することは不可能なのである。》


「恥ずかしさは、本当には罪の意識、すなわち他人よりも長生きしたがゆえの恥ずかしさではないこと」

「すなわち、人間は、死に臨んでも、その赤面、その恥ずかしさ以外のいかなる意味も自分の死に見いだすことができないということ」


《その“自己”とは、自己触発の——能動的にして受動的な——二重の運動において、残りのもの (resto) として生まれるものである。このために主体性は主体化であると同時に脱主体化でもあるという形態を構造的にもっているのであり、このためにそれはその本質において恥ずかしさなのである。赤面とは、あらゆる主体化において脱主体化をあらわにし、あらゆる脱主体化において主体について証言するところの、その残りのもの (resto) にほかならない。》


《あたかも、言葉を発することにともなう恥ずかしい脱主体化は秘密の美を吹くんでいて、詩人を休みなくみずからの疎外について証言するよう突き動かしてやまないかのようである。》


「記号の世界は閉じている。記号から文へは、連辞化によってであろうと、ほかのやり方によってであろうと、移行はない。ひとつの裂け目が両者を分け隔てている」(Benveniste 2, p.65)

「言表の主体は、完全にディスクールのうちに存在しており、完全にディスクールからなるのであるが、まさにこのために、ディスクールのうちにあって、かれは何も言うことができず、話すことができないのである。」

〈したがって、言葉を発する行為に含まれているこの内密の疎外に直面して、詩人たちが責任と恥ずかしさのようなものを感じたとしても不思議ではない。〉

〈こうして言葉をもたない者と話す者、非‐人間と人間は——証言において——、無差別の地帯に入りこむ。そして、その地帯では主体の位置を割り当てることは不可能なのであり、自我という「夢想された実体」、またそれとともに真の証人をつきとめることは不可能なのである。〉


《恥ずかしさがあらゆる主体性とあらゆる意識の隠れた構造のようなものであるのはどのような意味においてであるのかが、いまや明らかとなる。もっぱら言表の行為を本質とするかぎりで、意識は、構造的に、引き受けられないものへと引き渡されているという形をとっている。意識するということは、無意識にゆだねられていることを意味するのである。(ハイデガーにおける意識の構造としての罪も、フロイトにおける無意識の必然性も、ここに由来する。)》


《“人間とは非‐人間であり、人間性が完全に破壊された者こそは真に人間的である”ということである。》

《“証人とはその残りのもののことなのである”。》


第4章 アルシーヴと証言

《さまざまな学問の体系と多様な知が、意味をそなえたもろもろの文、もろもろの命題、多少なりともうまく作られたもろもろの言説を言語活動の内部にあって定義しているのだとすれば、考古学のほうはこれらの命題やこれらの言説の純粋な生起、すなわち言語活動の外部、言語活動が存在するという単純な事実そのものをみずからの領分として要求するのである。》

「それの空虚のなかで言語活動の果てしない溢出が休みなく追い求められる場所である非存在 (inexistence)」(Foucault 3, p.112)

「言表 (�・nonciation)」の主体は、意味内容によってではなく、言語活動のできごとによって支えられている。……」Agamben

「すなわち、アルシーヴとは意味をそなえたあらゆる言説のうちにそれの言表の機能として刻みこまれる非‐意味論的なもののかたまりであり、あらゆる具体的な発語を取り巻いてそれを限界づける暗い余白である。」


《偶然性 (contingenza) というのは、可能なもの、不可能なもの、必然的なものと並ぶ様相のひとつではない。》

《偶然性とは主体の試練にかけられた可能なもののことである。》


《つまり、証言というのはつねに「アウクトル (auctor)」の行為なのであって、不十分なところを補い、能力が欠如しているものに能力を授けるという、本質的な二元性をつねに秘めているのである。》

“単独で効力をもっているとうぬぼれているようなアウクトルの行為には、なんの意味もない。”

《証言が保証するのは、アルシーヴに保管されている言表されたものの即物的な真理についてではない。証言が保証するのは、自分の保管不可能性、自分がアルシーヴの外部にいること、すなわち——言語の存在として——自分が記憶からも忘却からも不可避的に逃れ出る存在であることについてである。》


〈根拠とは、ここでは目的〔テロス〕の関数であって、目的〔テロス〕とは人間の到達点もしくは根拠、間の人間への生成の到達点もしくは根拠のことである。徹底的に問題視しなければならないのは、この考え方である。〉

《未来に向かってではなく、単に過去に向かってでもなく、中間の剰余のなかで時を満たすものこそ、まさに歴史的である。メシアの王国は未来(至福千年)でも過去(黄金時代)でもない。それは“残っている時間” (tempo restante) なのである。》

アガンベン『ホモ・サケル——主権権力と剥き出しの生』(2)

2014-10-25 15:01:52 | Agamben アガンベン
第三部 近代的なものの生政治的範例としての収容所

 一 生の政治化

“政治がかつてないほど、全体主義的なものとして構成されえたのは、現代にあっては政治が生政治へと全面的に変容してしまっているからにほかならない。”

「政治の新たな主体は、特権や立場をもった自由人ではなく、単なる人間でもない。それは身体なのであり、近代民主主義はまさしく、この「身体」を要求することとして、またこれを露呈することとして生まれる。汝は身体をもち、それを見せるべし、というわけである。」

〈近代民主主義は、聖なる生を廃棄するのではなく、これを細かく分けてそれぞれの身体の内に播き散らし、政治的衝突の争点とする。ここにこそ、近代民主主義の秘かな生政治的使命の根がある。〉

“身体は二面的な存在であり、主権権力への隷従の保有者であると同時に、個人の自由の保有者でもある。”

〈その身体が諸個人のすべての身体によって形成される『リヴァイアサン』という大いなる隠喩は、この光に照らして読まなければならない。西洋の新たな政治的身体を形成するのは、臣民の、まったく殺害可能な身体である。〉

 二 人権と生政治

“例外化の純粋空間である収容所は、人道的なものが解決することのできない生政治の範例なのだ。”

p.186近代において
p.186サドの今日性

 三 生きるに値しない生

*シュミット『パルチザンの理論』

 四 「政治、すかわち人民の生に形を与えること」

《実のところ、近代の生政治の新しいところは、生物学的な所与がそのままでただちに政治的な所与であり、政治的な所与がそのままで生物学的な所与である、という点にある。》

“生と政治はもともとは、剥き出しの生が住みついている例外状態の中立地帯によって二分され区別されているが、この二つが一つになろうとするとき、あらゆる生は聖なるものとなり、あらゆる政治は例外化となる。”

“例外状態が規則となったところでは、かつては主権権力の相対物だったホモ・サケルの生が、もはや権力の据えることのできない一つの実存へと転倒する。”

 五 VP〔人間モルモット〕

 六 死を政治化する

*『バイオエシックス』

 七 近代的なもののノモスとしての収容所〔割愛〕

《例外状態はこのようにして、事実的な危険という外的かつ暫定的な状況に関連づけられなくなり、規範自体と見分けがつなかくなっていく。》

《収容所とは、例外状態が規則になりはじめるときに開かれる空間のことである。……》p.230

*コピーp.232-235

“いまや都市の内部に確固と据えられた収容所は、地球の新たな生政治的ノモスである。”

p.244-245エス(剥き出しの生)と自我(人民)の関係についての

p.250主権者の政治的身体と物理的身体のあいだの

“今日、ビオスはゾーエーの内に横たわっているが、これはハイデガーによる現存在の定義において本質が実存の内に横たわるのとちょうど同じである。”

アガンベン『ホモ・サケル——主権権力と剥き出しの生』(1)

2014-10-25 15:00:55 | Agamben アガンベン
――Giorgio AGAMBEN, HOMO SACER il potere sovrano e la nuda vita (1995)




《西洋の政治の基礎をなす範疇の対は友‐敵ではなく、剥き出しの生‐政治的存在、ゾーエー‐ビオス、排除‐包含である。政治が存在するのは、人間が、言語活動において自分の剥き出しの生を分離し自分に対立させ、同時に、その剥き出しの生との関係を包含的排除の内に維持する生きものだからだ。》

“我々の政治は今日、生以外の価値を知らない(したがってこれに反する他の価値も知らない)。”


第一部 主権の論理

 一 主権の逆説

《例外が規則にしたがうのではなく、規則が、自らを宙吊りにすることで例外に場を与える。》

〈主権による例外化において問題になっているのは実のところ、過剰を制御したり中和したりするということであるより、まずは、法的‐政治的な秩序が価値をもつことのできる空間を創造し定義づけるということである。〉

“例外とは、自らが所属している全体に包含されることのできないもの、自らがすでに包含されてある当の集合に所属できないもののことである。”

《法権利は、法権利が例外化の排他的包含によって自分の内に据えることのできる以外の生をもたない。法権利は例外によって養われるのであり、例外がなければ死文である。》

“その決定とは、ある決定不可能なものの措定である。”

“法が生とのあいだにもつ関連は、適用ではなく〈遺棄〉である。”

 二 主権者たるノモス

《つまり例外状態とは、空間的かつ時間的な宙吊りのことではなく、むしろ、例外と規則、自然状態と法権利、外と内、これらが互いの内を通過する、複雑な位相幾何学的形象のことなのである。》

“正義の目から隠しておかなければならなかった、この位相幾何学的な不分明地帯こそ、逆に我々はまなざしを向けようとしなければならない。”

《例外状態という「法的には空虚」な空間が(そこでは法は、法の解体という形象〔フィグーラ〕——つまり語源をたどれば“つくりもの”——においてこそ効果をもち、したがってそこでは主権者が事実上必要と思うあらゆることが起こりえた)、その空間的かつ時間的な境界を打ち砕き、その境界の外に溢れ出して、いまやいたるところで通常の秩序と一致しようとしている。そこではこのようにして、あらゆることが新たに可能になってしまうのだ。》

 三 潜勢力と法権利

“主権権力は、法治状態とのあいだに締め出し関係というしかたで維持される自然状態として自らを前提する。主権権力はそのようにして、構成する権力と構成される権力へと分裂し、その二つが不分明になる点に自らを位置づけることで、両者との関連を保つ。”

☆p.68 ネグりの本はむしろ、

《したがって、潜勢力がそのつど現勢力において消え失せずにそれ自体で整合性をもつためには、潜勢力は現勢力へと移行しないこともでき、構成上(おこなったり存在したり)“しないことのできる潜勢力”でもあり、あるいはまたアリストテレスの言うように、非潜勢力でもあるのでなければならない。》

“存在する潜勢力とはまさしく、現勢力に移行しないことができるというこの潜勢力のことである”

〈この潜勢力は、自らが宙吊りにされてあるという形式で現勢力との関係を維持するのであり、現勢力を実現しないことができるという現勢力でありえ、主権的なしかたで、それ自体が非潜勢力でありうる。〉

「潜勢力にあるものは、存在しないという自分の潜勢力(自分の非潜勢力)を棄却する点においてのみ、現勢力へと移行できる。非潜勢力のこの棄却は非潜勢力の破壊を意味するわけではない。これが意味するのはむしろ非潜勢力の完成であり、潜勢力が潜勢力自体に向き返って潜勢力自体に潜勢力を与えるということである。」

「主権的であるものとは、存在しないことができるという、それ自体としての潜勢力を単に断ち切り、自らが存在するにまかせ、自らが自らに与えることによって自らを実現する現勢力のことである。」

 四 法の形式

“「意味のない効力」という法の純粋形式が近代にはじめて現れるのはカントにおいてである。”

p.82“意味のない効力という経験は、現代の思考の一つの重要な潮流の基礎にある。……”

“……メシア的任務は、潜在的な例外状態をまさしく実効的なものにし、番人に対して法の門(イェルサレムの門)を閉めることを強制するのかもしれない”

「メシアは、自分の必要がなくなってはじめて到来するだろう。彼は自分の到着の一日後にならないと到来しないだろう。彼は最後の日には到来しないだろう。彼が到来するのは一番最後の日だろう。」カフカ

《したがって、政治的‐法的な視点からすると、メシア主義は例外状態の理論である。ただ、その例外状態を効力ある権威が布告するのではなく、権力を転覆するメシアが布告する、という点だけが異なっている。》

「法の純粋形式とは、関係の空虚な形式のことにほかならない。しかし、関係の空虚な形式はもはや法ではない。それは、法と生が見分けがつかなくなる地帯、つまり例外状態である。」

“だからハイデガーは、自分は生起において「存在者を考慮に入れない存在」を思考しようとする、と書くことができるのであり、このことは、存在論的差異をもはや関係としてではなく思考し、存在と存在者をありとあらゆる関連の彼方で思考しようとすることに等しい。”

《人間が自らに自らを与える諸形式[……]笑い、エロティシズム、戦闘、奢侈》バタイユ

  境界線

“ベンヤミンが神的な暴力として定義している暴力は、例外を規則から区別することがもはや不可能である地帯に位置している”

《生の聖性に関する教義は、調べてみるだけのことはあるだろう。この教義が最近の日付をもつものであり、聖なるものという失われたものを広大無辺の濃霧のなかで探す、弱体化した西洋的伝統の最後の踏み迷いだ、というのはありうることだし、本当にあありそうなことでもある》——ベンヤミン「暴力批判論」


第二部 ホモ・サケル

 一 ホモ・サケル

“殺害可能性と犠牲化不可能性の交点に位置し、人間の法からも神の法からも外に置かれているとすると、ホモ・サケルの生とは何なのか?”

 二 聖なるものの両義性

《締め出し——タブーと同じものとされている——の分析は、聖なるものの両義性の教義が生まれるにあたって、はじめから決定的なものとして働いている。包含することで排除するという締め出しの両義性が、聖なるものの両義性を含意している。》

「聖なるものには二種類ある。吉〔ファスト〕と不吉〔ネファスト〕である。この相対立する二つの力のあいだには明らかな断絶は存在しない。それどころか、ある同一の対象が、本性を変えずに一方から他方へと移行することもある。浄から不浄が作られ、不浄から浄が作られる。聖なるものの両義性はこの転換の可能性に存している。」——エミール・デュルケーム『宗教生活の原初形態』

“……いずれにせよ重要なのは、ホモ・サケルにおいて露出している原初的な法的‐政治的次元が、それ自体によって何も説明できないのみならず、それ自体が説明の必要があるような科学的神話素によってふたたび覆われてしまわないようにすることである。”

 三 聖なる生

「……聖化は二重の例外化をなしている。それは人間の法からの例外化であるとともに神の法からの例外化であり、宗教的領域からの例外化であるとともに世俗的領域からの例外化でもある。この二重の例外化が指し示す位相幾何学的構造は、二重の排除と二重の捕捉のなす構造であり、その構造と主権による例外化の構造のあいだに見られるのは単なる類似ではない。」

「主権による例外化において、法は自らを適用から外し、例外事項から身を退くことによって、例外事項への自らを適用するが、それと同様に、ホモ・サケルは、犠牲化不可能性という形で神に属し、殺害可能性という形で共同体に包含される。“犠牲化不可能であるにもかかわらず殺害可能である生、それが聖なる生である”。」

《主権的圏域とは、殺人罪を犯さず、供犠を執行せずに人を殺害することのできる圏域のことであり、この圏域に据えられた生こそが、聖なる生、すなわち殺害可能だが犠牲化不可能な生なのである。》

「主権による例外化と聖化のあいだに見られる構造的類似の意味が、ここで完全に示される。法的秩序の一方の極にある主権者とは、彼に対してはすべての人間が潜勢的にはホモ・サケルであるような者であり、他方の極にあるホモ・サケルは、彼に対してはすべての人間が主権者として振る舞うような者である。その意味で、主権者とホモ・サケルは、同一の構造をもち互いに相関関係にある正反対の二つの形象を提示するものである。」

“両者は、人間の法からも神の法からも、規範〔ノモス〕からも本性〔ピュシス〕からも自らを例外として排除しながら、本来の意味での最初の政治的空間をある意味で確定する、そのような運動の形象であるという点で同一である。この政治的空間は宗教的圏域とも世俗的圏域とも区別され、自然的秩序とも通常の法的秩序とも区別される空間である。”

“我々の仮説が正しいとすれば、聖性とはむしろ、剥き出しのが法的‐政治的次元に含みこまれる原初的形式のことであり、ホモ・サケルという連辞は、原初的な「政治的」関係のようなものを名指している。すなわちそれは、包含によってなされる排除において、主権的決定に対する参照対象となるかぎりでの生のことである。主権による例外化の内に据えられてはじめて、生は聖なるものとなる。……”

《「聖なるものであれ」は、これこれのものの不気味な性格を、つまり荘厳であるとともに唾棄されるべきものであるという性格を裁可する宗教的な呪いの定式などではない。これは、主権的な拘束を課すことの原初的な政治的定式化なのである。》

 四 生殺与奪権

“したがって、原初的な政治的要素とは単なる自然的な生ではなく、死へと露出されている生(剥き出しの生ないし聖なる生)なのである。”

“政治権力の第一の基礎が、自らが殺害可能であるということによって自らを政治化する端的に殺害可能な生であるということを、これほど明白に言うことはできないだろう。”

《聖なる生は、政治的なビオスでも自然的なゾーエーでもなく、ゾーエーとビオスとが包含しあい排除しあうことで互いを構成する不分明地帯なのだ。》

 五 主権的身体と聖なる身体

“王の政治的身体が、殺害可能で犠牲化不可能なホモ・サケルの身体と見間違うほど似通っていたように見える、その不明瞭な地帯をこそ、我々は探究したいと思う。”

“主権者の身体とホモ・サケルの身体が、互いに見分けのつかなくなるように見える不分明地帯”

《この「聖なる生」の形象においてはじめて、剥き出しの生といったものが西洋世界にはじめて現れた。だが決定的なのは、はじめからこの聖なる生がすぐれて政治的な性格をもったものであり、主権権力を基礎づける土台との本質的な結びつきを示している、ということである。》

 六 締め出しと狼

〈ホッブズのいう自然状態は、都市の法権利とまったく関係のない、法に先行する条件なのではなく、法権利を構成し法権利に住みついている例外であり境界線である。自然状態は、万人の万人に対する戦いであるというより、正確に言えば、誰もが他の者に対して剥き出しの生でありホモ・サケルであるという状況のことなのである。……〉151

“実は、主権的暴力は契約を基礎とするのではなく、剥き出しの生を国家の内に排除的に包含することを基礎としている。さて、主権権力がまず直接に参照対象とするのは、この意味では、殺害可能で犠牲化不可能な生であり、その範例となるのがホモ・サケルなのである。それと同様に、主権者の人格には、狼男が、すなわち人間に対して狼である人間があり、これが国家の内に安定したしかたで住みついているのだ。”

《ホッブズの神話素を“締め出し”としてではなく“契約”として読むという曲解によって、民主主義は、主権権力の問題に直面することが問題になるたびに無力さへと断罪されてきた。また、この曲解によって、民主主義は構成上、近代において国家によらない政治を本当の意味で思考することを妨げられてもきた。》

“締め出されたものは、自らの分離そのものへと置きなおされ、それとともに、自分を遺棄した者の意に委ねられる。すなわち、締め出されたものは、排除されるとともに包含され、解き放たれるとともに据えられる。”

※「締め出しにある、遺棄されてある (in bando, a bandono)」

《この締め出しの構造を、我々のいまだに生きている政治空間、公的空間の内にそれと看て取ることを学ばなければならない。“都市において、聖なる生の締め出される空間は、いかなる内部性よりも内密であり、いかなる外部性よりも外的である”。これは、他のあらゆる規範を条件づける主権的ノモスであり、あらゆる局所化、あらゆる領土化を可能にし、それを支配する原初的な空間化なのだ。……》157

  境界線

「私のいう主権は国家のそれとはほとんど関係がない」——バタイユ『至高性』

“バタイユによると、いずれの場合も、つまり儀礼的犠牲においても個人における過剰においても、主権的な生は殺害の禁止の瞬間的な侵犯によって定義づけられる。”

“…バタイユは、無自覚にではあれ、剥き出しの生と主権のあいだの結びつきを明るみに出すにいたったが、彼において生は、聖なるものの両義的な循環の内に全面的に呪縛されたままである。この道を通ると、主権的締め出しを、現実的であれ茶番であれ反復することにしかならない。”

《聖性は、今日の政治においてつねに現前している逃げ道であり、その逃げ道はさらに広大で不明瞭な地帯への向かい、市民の生物学的な生そのものと一致しようとしている。ホモ・サケルという形であらかじめ規定することのできる形象が今日もはや存在しないのは、我々が皆、潜在的にはホモ・サケルであるからかもしれない。》


第三部 近代的なものの生政治的範例としての収容所〔割愛〕

アガンベン『到来する共同体』

2014-10-23 15:36:03 | Agamben アガンベン
――Giorgio Agamben, La comunità che viene (1990 and 2001)


《愛が“何ものか”を欲するのは、それが“そのように”存在するままに存在するかぎりにおいてのことである。これが愛に特有のフェティシズムである。》Qualunque〔なんであれかまわないもの〕


〈じっさいにも、救済すべきものが何ひとつ存在しない生はまことに救済のしようがないのであって、そうした生にたいしてはキリスト教的オイコノミア〔統治〕の重厚な神学機械も難破せざるをえない。〉Dal Limbo〔リンボから〕


《これらの純粋な単独者は、あくまでも見本の空虚な空間のなかで、なんらの共通の特性、なんらの自己同一性によっても結びつけられることがないままに交信しあう。それらの単独者は所属そのもの、記号∈を自らのものにするためのあらゆる自己同一性を剥奪されてしまっている。トリックスターないし無為の徒、助手ないしカートゥーンとして、彼らは到来する共同体の見本にほかならない。》Esempio〔見本〕


〈善を獲得することは、こうして必然的に、排斥されてしまっていた悪の部分が成長することをも含意していた。そして天国の壁が固められるたびごとに地獄の底知れない深みもいっそう深まっていくのだった。〉Aver luogo〔生起〕


〈この代表=表象不可能な空間を名指す固有名詞がくつろぎ〔agio〕である。〉Agio〔くつろぎ〕


《“わたしたちを基礎づけたりするのではなくて、わたしたちを産み出す様式こそが倫理的なのだ”。そして、このようにして自分自身の様式から産み出されるものが、人間たちにとって真に可能な唯一の幸福なのである。》Maneries〔マネリエス〕

《わたしたちがわたしたちの本来的な存在として露呈させる非本来的なもの、わたしたちが“使用する”様式こそがわたしたちを産み出すのである。これこそはわたしたちの第二の自然、〔第一の自然よりも〕さらに幸福な自然なのだ。》


〈わたしたち自身の無力から逃走しながら、あるいはその無力を武器に役立てるようとこころみながら、わたしたちは邪悪な権力を構築し、この権力によってわたしたちに弱さを示す者たちを抑圧するのである。また、わたしたちの最も内奥に潜んでいる、存在しないでいることの可能性をつかみ損ねて、愛を可能にする唯一のものから転落してしまうのである。じっさいにも、創造——ないし現実存在——とは存在することの力が存在しないでいることの力と闘って勝利することではない。それはむしろ、神が神自身の無力を前にして無力であることなのだ。神が存在しないでいることができ“なく”なって、もろもろの事物がたまさかに発生するのをそのままにしていることなのである。あるいは神における愛の誕生なのである。〉Demonico〔悪魔的なもの〕


“存在しないでいることができる存在、自ら無能力であることができる存在こそ、本来、なんであれかまわない存在なのである。”Bartleby〔バートルビー〕

「…存在しないでいることの能力の場合には、行為はけっしてたんなる可能態〔potentia〕から現実態〔actum〕への移行のうちには存在しえない。すなわち、その能力はその能力そのものを対象にもつ能力、あるひとつの potentia potentiae〔能力の能力〕なのだ。」

「完全な書記行為は書くことの能力からやってくるのではなく、無能力が自分自身へと向かい、このようにして(アリストテレスが能動知性と呼んでいる)純粋の行為として自らに到来することからやってくる。」

「バートルビー、すなわち、ただ書くことを止めず、しかしまた《書かないでいることのほうを好む》筆生は、自らの書かないでいる能力以外のものは書かないこの天使の極端な像にほかならない。」


《取り返しがつかないというのは、事物が手の施しようもなくそれらがそんなふうに存在している状態に引き渡されてしまっていること、いやそれどころか、事物とはまさしくそれらが“そんなふうである”しかないことを意味している(…)。》Irreparabile〔取り返しがつかないもの〕

《しかしまたそれは、事物にとっては、文字どおり、どんな避難所もありえないということ、それらがそんなふうであるなかで、事物はいまや絶対的に表にさらけ出されており、絶対的に見捨てられているということをも意味している。》


〈倫理にかんするあらゆる言説の出発点に置いておくべき事実は、人間にはそうであったり実現しなければならなかったりするどんな本質、どんな歴史的ないし霊的召命、どんな生物学的運命も存在しないという事実である。唯一このためにこそ、なにか倫理のようなものが存在しうるのである。〉Etica〔倫理〕

“…人間は自分に欠如しているもののために、自分が犯さなかった罪のために、罪ある存在なのである。”

〈これにたいして、唯一の悪は現実存在の負債のうちにとどまりつづけようと決意すること、存在しないでいる能力を現実存在の外にある実体ないし根拠として自分のものにしようと決断することである。あるいは(そしてこれが道徳の運命なのだが)人間の現実存在の最も本来的な様態である可能態そのものをなんとしても抑えこむ必要のある罪であるかのように見なすことである。〉


《今日ほど、人間の肉体——とりわけ女性の肉体——が宣伝と商品生産のテクニックによって大規模に操作され、いわば頭のてっぺんから足の爪先まで形象〔イメージ〕化されてしまったことはかつてなかった。》Collants Dim〔ディム・ストッキング〕

《テクニック化されたのは、肉体ではなくて、その形象〔イメージ〕だったのだ。こうして宣伝広告のきらびやかな肉体は仮面に転化するのであり、その仮面の裏側では人間の脆くて繊細な肉体がその不安定な生存を続けているのである。》


“だが、いっさいが最終的に完結してしまったのちに、一体全体、どのようにして《別なふうに》は思考しうるのだろうか。”Aureole〔光背〕


“存在するもののいっさいをプチ・ブルジョワは仕草そのもののなかで無化し、頑固としてその無化された状態に執着しようとしているように見える。”Senza classi〔階級のない社会〕

“プチ・ブルジョワジーのなかでは、世界史の悲喜劇を特徴づけてきたもろもろの相違が露呈され、合体して、さながら走馬灯のように変幻自在で内容のない一篇の幻覚と化してしまっている。”


《この意味では敷居=閾は限界と別のものではない。それは、こう言ってよければ、限界そのものの経験、“外”の“内”にあるということである。このようなエク‐スタシス〔ek-stasis:脱我の状態に入りこむこと〕こそ、個々の単独者が人類の空っぽの手から受けとる贈り物にほかならない。》Fuori〔外〕


《「~と言われていること」、言語活動のうちにあることこそは、卓越した意味においての非述語的 non-predicative な特性であって、それはあるクラスのどのメンバーにも属する特性であると同時にその所属をアポリア的なものにしているのである。》Omonimi〔同名異義語〕

“なんであれかまわないものとは概念と(だけ)ではなくイデアと(も)関係しているかぎりでの個物のことなのだ。”

“名前は、それがある事物を名指すかぎりで、名前によって名指されるかぎりでの事物以外の何ものでもない”


〈コミュニケーションを妨害しているのは、コミュニケーション能力そのものである。人間たちは人間たちをひとつに結びつけているものから切り離されるのだ。ジャーナリストとメディクラットがこの人間の言語的本性からの疎外の新しい僧侶である。〉Schechina〔シェキナー〕


“なぜなら、到来する政治の新しい事実とは、それがもはや国家の獲得や管理のための闘争ではなく、国家と非国家(人類)のあいだの闘争、なんであれかまわない単独者たちと国家組織との埋めることのできない分離になるだろうということだからである。”Tienanmen〔天安門〕

〈所属そのもの、自らが言語活動のうちにあること自体を自分のものにしようとしており、このためにあらゆるアイデンティティ、所属の条件を拒否する、なんであれかまわない単独者こそは、国家の主要な敵である。これらの単独者たちが彼らの共通の存在を平和裡に示威するところではどこでも天安門が存在することだろう。そして遅かれ早かれ戦車が姿を現わすだろう。〉



“だからこそ、世界と生活をふたたび神聖なものにしようと努めている者たちは、生活が神聖でなくなってしまっていることに絶望している者たちと同じく、不敬虔なのだ。”
L'irreparabile〔取り返しがつかないもの〕

《世界は——絶対的に、取り返しがつかないほど神聖でなくなってしまっているかぎりにおいて——神である。》

“救済の最も奥深い性格をなしているのは、わたしたちが救済されるのはわたしたちがもはや救済されたいとは願っていないときである、ということである”

“驚かされるのは、何ものかが存在することができたということではなくて、存在しないのではないことができたということである”

《世界が取り返しのつきようもないことをきみが認識する瞬間、まさにその瞬間において世界は超越的である。

 世界はどのように存在しているのか——このことは世界の外にある。》

アガンベン『例外状態』

2014-08-18 12:28:51 | Agamben アガンベン
――Giorgio Agamben, Stato di eccezione (2003)


第1章 統治のパラダイムとしての例外状態

《他方で、もし例外というのが、法が生に関連させられ自らの一時停止をつうじて生を自らのうちに包摂するさいの独自の装置であるとするならば、例外状態についての理論は、生きているものを法に結びつけると同時に見捨ててしまうような関係を定義するための前提条件となる。》p.8

“法学的な観点からすれば、第三帝国は全体として十二年間にわたって継続した例外状態とみなすことができるのである”p.9

《例外状態というのは、なにか特殊な法(戦時法のような)ではないのであって、法秩序それ自体を停止させるものであるかぎりで、法秩序の閾あるいは限界概念を定義したものなのである。》p.14

“例外状態は、むしろ空虚な状態を、すなわち法の空白を構成している”p.16

“…例外状態は、もはや歴史的尺度としてではなく、ますます統治の技術として登場するようになっただけではなくて、法秩序を構成するパラダイムとしてその本質を明るみに出すようにもなっていることを告知する先導役を果たしている。”p.18

“すなわち、例外状態はいまや通常の状態になってしまったというのが実態なのだ。”p.22

“しかしながら、すべての西洋民主主義諸国において現に進行中の一傾向と歩調を合わせながら、例外状態の宣言は、通常の統治技術としての安全確保というパラダイムの先例なき全般化によって徐々に取って代わられつつある。”p.31

「しかしまた、その例外状態の宣言は、それと自覚されないアイロニーをともないつつ、制度史上初めて、たんに安全と公的秩序の保護のためにではなく、「自由民主主義的憲法」の擁護のために準備されたのだった。守護された民主主義がいまや通常の状態になってしまったのである。」p.34-35

“アメリカ合衆国大統領は、いまや例外状態にかんする主権的決定者となってしまっていたのだった。”p.45

《実際には、例外状態は法秩序の外部でも内部でもないのであって、その定義の問題は、まさにひとつの閾にかかわっているのである。言いかえれば、内部と外部が互いに排除しあうのではなく、互いに互いを決定しえないでいるような未分化の領域にかかわっているのである。》p.50

《のちに見るように、例外状態をめぐる抗争は、本質的には、例外状態が位置する場所〔ロクス〕をめぐる論争として提示されるのである。》p.51


第2章 法律× - の - 力
(注:「法律」の上に×印が掛かっている)

“例外状態を法秩序のうちに繋留することを可能にする操作をしているのは、この場合には、自らを憲法へと構成する権力と憲法へと構成された権力とのあいだの区別である。”p.68

“例外状態に関して決定することのできる主権者は、例外状態を法秩序に繋留することを保証するのである。”p.70

《“法秩序の外にあり、しかしまた法秩序に属している”。これこそは例外状態の位相幾何学的な構造である。そして、例外に関して決定する主権者は、本当を言えば、論理的にみて、自らの存在においてこの構造によって定義されているからこそ、主権者自身もまた、“脱却―所属”という撞着語法によって定義されうるのである。》p.70-71

「シュミットの主権概念の地位と逆説は、すでに見たように、例外状態に由来するのであり、その逆ではない。」p.71

「彼の主権理論が例外状態を法秩序にきっちりと繋留させようとする試みを代表していることは疑いない。」p.71

☆p.78 例外状態というのは、一方では、~

《この意味では、例外状態というのは、そこにおいて適用と規範が互いに分離を提示しあい、ある純粋な法律× - の - 力によって、その適用を停止されていたある規範を実現する――すなわち、適用を停止することによって適用する (applicare dis-applicando) ――ことがなされるようなひとつの空間が開かれている状態である。》p.82


第3章 ユースティティウム iustitium

「このようにもっぱら法的空白の生産を目的とする逆説に満ちた法制度の意味こそが、ここでは、公法体系学の観点からも政治哲学的な観点からも、検討される必要があるのである。」p.84

「戦争 (bellum) と動乱 (tumultus) とのあいだの関係は、一方では戦争と軍事的戒厳状態とのあいだに、他方では例外状態と政治的戒厳状態とのあいだに存在する関係に等しい。」p.86

〈一時的な「法の外にある」命令権があらゆる市民を覆い尽くすようにみえるこの必要状態指揮権の定義において、モムゼンは彼に可能であったかぎりで例外状態の理論を定式化に接近しながらも、その手前で立ち止まってしまったのだった。〉p.90


「というのも、ある国家においてその種の対策が存在しない場合には、法規を守っていたのでは滅びることが必定だからである。それとも、滅びたくないのであれば、法規を破壊することが必要となる」(Nissen, 1877, p. 138)

「公法の観点からすると、例外的な諸規則 (Ausnahmema�・regeln) の採用の可能性が現実のものとなるような、休止」(ibid., p. 76)

《この意味において、最終元老院決定とユースティティウムとはローマの国法秩序の限界を印づけているのである。》p.94

“ニセン Nissen のテーゼ(法の全面的な停止としてのユースティティウム)”p.94

《まず、ユースティティウムは法秩序全体の中断と停止を意味するものであるかぎりで、独裁のパラダイムによって解釈することはできない。》p.95

《このようなユースティティウムとの連関から展望した場合には、例外状態は、独裁のモデルにしたがって諸権限の十全さ、法が充溢した状態として定義されるのではなく、法が空っぽの状態、法の空白と停止として定義されるのである。》p.96

“必要状態というのは「法の状態」ではなく、法のない空間なのだ(たとえ例外状態は自然状態ではなくて、法の停止に由来するアノミーとして立ち現れるとしてもである)。”p.102

《理論の本質的な任務は、例外状態が法的な性質のものであるかいなかを明らかにすることだけではなく、むしろ例外状態と法との関係の意味、場所、様態を定義することなのである。》p.104


第4章 空白をめぐる巨人族の戦い

「この暴力に固有の特徴は、それが法を措定も維持もせず、法の廃止 (Entsetzung des Rechts [Benjamin, 1921]) を達成するということであり、こうしてそれはひとつの新しい歴史的時代の幕を開けるのである。」p.108

《例外状態というのは、彼が純粋暴力というベンヤミンの考えを捕捉し、アノミーをノモスの総体それ自体のうちに書きこもうとするさいに設定される空間なのである。シュミットに言わせれば、純粋暴力すなわち絶対的に法の外部にある暴力など存在しえない。というのも、例外状態においては、純粋暴力は自らが排除されること自体をつうじて法のうちに包摂されるからである。すなわち、例外状態というのは、全面的にアノミー的な人間の行動についてのベンヤミンの主張にシュミットが返答するために使う装置にほかならないのである。》p.109

「同様に、あらゆる法的問題の最終的な決定不能性というベンヤミンの考えへの返答として、シュミットは極限的な決定の場所としての主権を主張するのである。」p.110

“主権者は例外状態に関して決定することによって、それをいかなる仕方でも法秩序のうちに包摂してはならないのであって、反対に、それを法秩序から排除し、その外部に放り出したままにしておかなければならないのである。”p.111

「そのつど例外に関して決定しなければならない主権者とは、まさに法の総体を分割している断裂が埋め合わせ不可能なものになってしまう場にほかならない。権力 (Macht) と能力 (Verm�・gen) とのあいだには、いかなる決定も埋めることのできない裂け目が口を開けているのだ。」p.113

《こうした主権者の機能のドラスティックな再定義は、例外状態の別の状況を含意している。例外状態はもはや、その停止状態のうちにあって効力を発揮する法律の力によって内部と外部、アノミーと法的コンテクストとのあいだの接合を保証する閾としては立ち現れない。それはむしろ、被造物の領域と法秩序とが同じひとつの破壊のなかに巻きこまれるような、アノミーと法とも絶対的に決定しがたいひとつの地帯なのだ。》p.115

“しかしながら、シュミットがいかなる場合にも受け入れることができなかったのは、例外状態が全面的に通常の状態と融合してしまうことだった。” p.116


「すなわち、このアノミーの地帯において問題となっているのは、暴力と法との関係なのであり――究極的には人間の行動の暗号としての暴力の地位なのだ。暴力を法的コンテクストのうちに書きこみなおそうと事あるごとに努めているシュミットに対して、ベンヤミンは純粋暴力としての暴力に法の外部にあっての存在を保証しようと事あるごとに努めることによって応じているのである。」p.119

「究極の形而上学的掛け金としての純粋存在に、ここでは、極限的な政治学的対象、あるいは政治学の「もの自体」としての純粋暴力が対応している。純粋存在をロゴスの編み目のなかに捕捉しようとしてきた存在‐神‐学的戦略に、アノミー的な暴力と法とのあいだの関係を保証するはずの例外の戦略が対応している。」pp.119-120

《純粋暴力とは、むしろ、例外状態をめぐる抗争におけるゲームの掛け金であるにすぎず、その抗争から生じる結果である。そして、このようにしてのみ、法に先立つものとして前提されるものなのである。》p.121

“――言いかえれば、純粋暴力と神話的‐法的暴力とのあいだの差異は暴力それ自体のうちにあるのではなく、暴力とその外部にある何ものかとのあいだの関係のうちにあるということを意味している。”p.123

“純粋暴力によってなされる神話的‐法的暴力の仮面剥奪に、カフカ論においては、一種の残余として、もはや実地には用いられず、もっぱら勉学されるだけの法という謎めいたイメージが対応する。”p.126


第5章 祝祭・服喪・アノミー

「主権者は生きた法律であるということは、主権者は法律によって拘束されないということ、法律の生命は主権者のうちでは全面的なアノミーと合致するということでしかありえない。」p.140


第6章 権威 auctoritas と権限 potestas

「権威主義的パーソナリティ」(アドルノとエルス・フレンケル=ブルンシュヴィック)

「自由主義による権威と暴政との混同」(Arendt, 1961, p. 97)

「権威と自由、権威と民主主義を対立させ、そのあげく権威と独裁とを混同するにいたった現代の国家理論における伝統喪失」(Schmitt, 1931, p. 137)


《しかしながら、そもそも後見人=「増大させる者」の「力」はどこからやってくるのか。また、この「増大させる」力とは何なのか。》p.155

〈モムゼンは権威のこの特異な性格を表現しようとして、それは「命令以下であり助言以上である」(Mommsen, 1969, p. 1034) というように書いている。〉p.157

《権威と権限とは、互いにはっきりと区別されている。しかしまた、それと同時に両者は一体となって二項からなるひとつの体系を形成しているのである。》p.158

“法的効力というのは人間的行為の本源的な性格なのではなくて、「適法性を授与する潜勢力」(Magdelain, 1990, p. 686) をつうじてそれらの行為に伝達されなければならないものなのである。”p.159

《…権威は、“権限が生じているところではそれを停止させ、権限がもはや効力をもたなくなってしまったところではそれを復活させる力”として作用しているように思われる。それは法を停止したり復活させたりするが、形式的には法としての効力を発揮することがないひとつの力なのだ。》pp.159-160

《ここで権威は、一瞬の間だけ、その本質を明らかにする。「適法性を授与する」と同時に法を停止することのできる潜勢力は、その法的無効性が最大限に到達した時点で自らのもっとも本来的な性格を露呈するのである。これこそは、法が全面的に停止された場合にも法に残っているもの (ciò che resta del diritto)なのだ(この意味では、それはカフカの寓話のベンヤミンによる読解のなかで、法ではなくて生であると言われているもの、そのあらゆる点で生と判別不能になってしまった法にほかならない)。》pp.162-163


*権限 (potestas) [dynamis] p.165

「…権威は、人物から、その人物をつうじて構成されるものとして、湧き出てくるのであり、その人物のうちでのみ生き、その人物とともに消えてなくなるのである」(Heinze, 1925, p. 356)


「法とはある特別の視点から見られた生にほかならない」——サヴィニー (1779-1861)


《権力の「玉手箱」(arca) がその中心に内包しているものは何かといえば、それは例外状態である。しかし、例外状態というのは本質からして空虚な空間であって、そこでは法との関係をもたない人間の行動が生との関係をもたない規範に対峙しているのである。》p.175

《ところが、本当の意味で政治的なのは、暴力と法とのあいだのつながりを断ち切るような行動だけなのだ。そして、このようにして開かれた空間から出発することによってのみ、例外状態において法を生に結びつけていた装置を不活性化したあとで、法の使用の可能性についての質問を提出することが可能となるだろう。》p.178

アガンベン『人権の彼方に―政治哲学ノート』

2014-08-13 12:30:52 | Agamben アガンベン
――Giorgio AGAMBEN, MEZZI SENZA FINE (1996)


I

“つまり、人民 popolo はそれ自体のうちに常に既に、基礎的な生政治的亀裂を抱えこんでいる。人民は、自らが部分をなしている全体の中に包含されることができないもの、自らが以前から常に包含されている集合に所属することができないものである。”

“それは、存在するためには、自分の反対物によって自らを否定しなければならないものである(人民へと向かいながらその廃絶を目指すという労働運動に特有のアポリアの数々はここに起因する)。”

“この観点からすると、現代は、人民を分割している亀裂を埋め、排除された者たちという人民を根源的に消滅させる試み――容赦のない、方法的な試み――にほかならない。”

《エス Es と自我 Ich の関係についてのフロイトの公準を言い換えて、近代の生政治は「剥き出しの生のあるところに〈人民 Popolo〉がなければならない」という原則に支配されている、と言えるかもしれない。ただし、この原則は、逆の定式化をしても、つまり「〈人民 Popolo〉のあるところに剥き出しの生があることになる」としても、同じ価値をもつ、ということをすぐさま条件として付加すれば、である。》

《西洋の基礎的な生政治的亀裂を考慮に入れることのできた政治だけが、この振動を停止させ、人民とこの地上の都市とを分割している内戦に終わりをもたらすことができるだろう。》

《いまや都市の内部に自らを確固と据えた収容所は、この惑星の新たな、生政治的な規範〔ノモス〕である。》


II

《身振りを特徴づけるのは、そこにおいては人は生産も行動もせず、引き受け、負担する、ということである。》

〈制作することが、これこれの目的のための手段であり、行為することが、手段のない目的であるとすると、身振りは、目的と手段のなしている、道徳を麻痺させている誤った二者択一を打ち壊すのであり、それは、目的になってしまうことのないままに手段性の領域に“そのままで”従属する諸手段を提示する。〉

“身振りとは、ある手段性をさらしだすということであり、手段としての手段を目に見えるものにするということである。”

「このように、身振りにおいても、人間たちに交流するのは、それ自体が目的である目的の圏域ではなく、目的を欠いた、純粋な手段性の圏域なのである。」

☆p.64「目的のない目的性」


「というのも、いまやさらに明らかに、“人間の住みうる世界における人間の生き延び”を管理するのがその専制の任務となるからである。」

“到来する政治は、新たな主体にせよ古い主体にせよ、もはや社会的主体の数々によってなされる、国家の征服および制御のための闘争ではなく、国家と非国家(人間)との間の闘争、複数の何らかの特異性と国家組織との間の、埋めることのできない選言である。”


“真理を対象とするこの闘争は、〈歴史〉と呼ばれている。”――「顔」

〈というわけで、露出は、数々の像やメディアを通じて集約された一つの価値へと変容し、その価値の管理を、新たな官僚階級が嫉妬深く見張っている。〉

“顔とは、顔面が顔面の剥き出しの中に露出することであり、それは、性格に対する勝利――言葉――である。”

“人間の顔は、顔の構造そのものの中に、固有なものと非固有なもの、交流と交流可能性、潜勢力と現勢力、といった二重性を再生産しており、この二重性が人間の顔を構成している。人間の顔はある受動的な地から形成されており、その地から表現的な輪郭が浮き出している。”


III

“実のところ、主権者が、例外状態を布告して法の効力を中吊りにすることで暴力と法権利とが混同される点をしるしづける者であるとすると、警察は、いわばこうした「例外状態」において常に動きだす。”――「主権警察」

“この意味では今日、地上には、潜在的に犯罪者でないような国家の長は一人もいない。”


p.118 主権とは、暴力と法権利、生きものと言語活動との間に決定不可能な結びつきがあるという理念のこと……

“今日、社会的な潜勢力が存在するとすれば、それはそれ自体の無力さの果てまで行くのでなければならず、法権利を維持したり措定したりする意志の一切を忌避し、主権を構成している暴力と法権利の間、生ける者と言語活動の間の結びつきを至るところで粉砕するのでなければならない。”

“手段性を露呈すること、手段それ自体をそのまま目に見えるものにすることが、政治的なことである。”



“ところがいまやまさに、血と生物学的身体は、決定的な政治的判断基準の代わりとなっている。”

〈はっきりと見分けられないもののなすこの不透明感地帯を収容所と呼ぶとするなら、われわれは、収容所からふたたび始めなければならないのだ。〉

《だが、倫理的 ‐ 宗教的な諸範疇と法的諸概念との混同ほどに、あらゆる倫理的経験の取り返しのつかない荒廃の明白な指標であるものもない。この混同は今日、絶頂に達している。今日では、どこであれ道徳が語られているところで人が口にしているのは法権利の諸範疇であり、反対に、どこであれ法をなしたり訴訟をなしたりするところでは、倫理的な諸概念が警士〔リークトル〕の斧のように取り扱われている。》

「今日のいわゆる民主主義国家の中に、人間の悲惨のこの大々的な製造に首まで浸かっていないような国家はない。」

「愛から脱する者たちに対する処罰とは、〈審判〉の権力へと引き渡されてあるということである。彼らは互いに互いを裁かなければならなくなる。」


《確かなことが一つある。この政治家たちは、懸命に勝利しようとする自分の意志自体によって、結局は敗北するだろう、ということである。主流派〔エスタブリッシュメント〕であろうとする欲望は、先立つ者たちを敗北させたのと同じように、彼らをも敗北させるだろう。》


《政治とは、人間の本質的な働きのなさに対応するもの、人間の共同体の根源的に働きのない存在に対応するものである。そこに政治がある。というのも、人間とは働きのない argos 存在であり、どのような固有な働きによっても定義づけられないからである。すなわち、いかなる同一性によってもいかなる使命によっても汲み尽くされることのない、純粋な潜在性の存在だ、ということである》

《この働きのなさ argia、この本質的な働きのなさおよび潜在性が、どのように、歴史的な任務となることなく引き受けられうるのか、すなわち、政治が、どのように、人間の働きの不在の露出にほかならず、それぞれの任務に対する創造的な無関心の露出にほかならないものでありうるのか、そしてまさにその意味で政治が幸福へと全面的に割りふられてある、ということ――まさにこのことこそ、剥き出しの生に対するオイコノミアの惑星規模での支配を通じて、またその支配を超えて、到来する政治の主題を構成する。》


“われわれはすべての人民の破産の後に生きている。”