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per l/a psicoanalisi

日本社会成立の前史的な諸問題(公共性の概念を手がかりに)

2022-01-30 17:06:00 | Note
■公とオオヤケ——その言語的な翻訳推移と二つの欠落
 
まず初めに、日本に「公」の概念がもたらせられたのは中国からである。中国語の「公(コン)」はヤマト言葉の「オホヤケ」と近接関係に置かれ包含される。(言語推移的な“翻訳”としての包含)

古事記にはオオヤケという言葉は登場しないが、それは「大屋処」、つまり「大いなる屋のある所」の意味であり、この「大」は量的な大きさのことではなく偉大、尊貴、第一などを表し、「屋」は人間の住む俗なる住居としての「家」とは本質的に異なり、天つ神の住居である。この「屋」は「政(マツリゴト)」の場としても据えることができる。これを見ただけでも既に、日本における「公」の思想には古くから政治的な問題があることは肯首できる。また逆に、この「公」概念の変遷が日本の政治概念の変遷と何らかの相同性を描くことになることも予見可能だろう。

また、強調しておくなら“共同性としての”公は、古代日本においては血縁関係を“決して意味してはいなかった”ことも敷衍すべきだろう。最初の言語的な推移が引き金になり、後の「公」概念の変遷や異同となり、また政治的な場に何らかの影響を与えたことは、想像に難くはない。オオヤケと公を厳密に区別するなら、おそらくは中国から日本へと流入した公が多様な変化を被る一方で、日本語古来からオオヤケの原義は見失われたことも推論できる。(また、中国語の公には背私平分に基づく「利己を排すること、公平に処すること」という意味があるが、日本のオオヤケにはなかったと言われている)

つまり、公の中国語の原義と日本に元々あったオオヤケ概念のその翻訳的な推移には二つのある欠落が生じている。中国語の公からは背私平分の意義の伝達の欠如が、そして翻訳の推移に基づいてと仮定されるが、元来の日本語のオオヤケからは超越性の審級の忘却が。これら両方が今日に至るまで日本の政治的な思考にある影——それは、その聖俗の弁証法を決定づけてもいるだろうし、もちろん個人のレベルにも深く浸透している——をもたらしていると、ここでは想定していい。

 

■私と個人の様相——ワタクシとは何か・誰か・何処か? あるいは日本人は、ペルソナとプライベートの意味を理解できたか?

オオヤケはワタクシの対立概念ではなく、共同体の成員、すなわち「ヤカラ」と、屋の代りという意味の「ヤシロ(屋代=社)」との媒介概念であると、安永寿延 (1976) は説明している。そして、共同体の成員「ヤカラ」は、血族集団の「ウカラ」と異なり、血縁にかかわらず同一の「屋」に集結する集団——同一の神ないしシンボルのもと、ヤシロに集結していた集団——のことである。安永を引用しよう。

《古代では、オオヤケはヤカラ(同族)を統率する族長に代表される場合と、この族長に従う人びとの間の共同性を意味する場合とに、微妙に分岐する。むろん共同性としてのオオヤケは族長としてのオオヤケと接合していて、単独に自立することはない。このように、家から族長へという、オオヤケの観念の実体的な展開に媒介されて、オオヤケという言葉はシンボリックな意味あいをもつようになり、その中身が徐々にふくらんでいく。例えば、族長の発する言葉や、彼が触れる物や人、要するに彼となんらかのかかわりのあるものは、いずれもオオヤケ性をおびるようになる。》(1976: 34)

つまり、〔ヤシロとヤカラの媒介概念である〕オオヤケには族長と共同性という二つのコンテクストがあり、その超越性の審級が忘却されたが故に、その後の「公」概念にはワタクシが癒合・癒着的な関係として、また浸蝕するような形で縫合されている、つまりは《単独に自立することはない》という事態がうかがい知れる。また、この引用内に見られるオオヤケという言葉の《シンボリックな意味あい》はフェティシズムの要素を孕み、“超越性としてのシンボル”—— 先に挙げたオオヤケの原義に従えば、「屋」はこの地上の「家」のことではなく天つ神の住居である——と区別すべき現象である。

そのような、原初の忘却とシンボル性の遷移(超越性からフェティッシュへの)、そしてオオヤケ概念のトポスの異同(屋から家、そして族長への)は天皇制の構造や国家の機構にまで色濃く反映され、ワタクシを規定していく。(1)*

《したがって、「私」は、……上位者から賜ったもであり、したがってそれは「公」の影にすぎないが、……「公」に対するひそかな浸蝕である》(1976: 41)

我々、日本人が私という時。それは半ば無意識的に、あるいは自動的に複雑奇怪な複数のコンテキスト——公に対して、また対外的には英語圏やヨーロッパに対しても——を巻き込んでしまうのは、歴史言語論的な問題に属している。(おそらくそれは、インド・ヨーロッパ語族の言葉の一人称のようには扱えまい。そして、それらの言語の根底に影響を及ぼしているキリスト教思想の概念装置に無自覚であることは、大多数の日本人に当てはまることも否定できまい)

その事実は、「公-私」の縫合的な癒着関係が「官-民」の間にも持ち込まれるという事態を招くようになる。換言すれば、オフィシャルな問題に対して私情を挟み込むことになる。(その最後には、「天下り」という問題が待ち構え、当事者はその私情によって公務を維持することを半ば強要される)

ヨーロッパではキリスト教という伝統が根づき、その装置によって個人 persona がパブリック public なものとプライベート private なものを峻厳に区別することで分離し、その精神は市民社会 citizenship として受け継がれている。日本にはおそらく、マージナルで中性的な人びと people はいる。だが、中間性——ここでの中間性は、公私の区分というよりは、人々の間の共通 common という性質を含意している——としての citizenship を理解しそれを実行する人間性は育まれにくい実情がある。

また、日本的な公私の包含的かつ重層的な癒着の構造は、ヨーロッパ的パブリックとプライベートの区別を理解しないばかりか、コモンという公共の性質をも脇に追いやりがちなことは指摘すべきだろう(歴史や現代の日本社会でもごく僅かな人たちが、このコモンを重視していることまで私は否定するつもりはない)。現代の日本を覆っている問題は、私的領域の欠乏ではもはやない。むしろ、その過剰と未成熟に他ならない。

注: (1)*溝口雄三 (1996: 30-31) は「私」の文字の起源を甲骨・金文の中にまで探っているが、「私」の意味に解釈される文字は発見されていないという。また、大野晋 (1999: 152-153) によれば「私(ワタクシ)」は語源未群の訓読語のようである。両者を併せて考えるなら、おそらくは日本におけるワタクシの構造は独自の形成過程を保存している。また慣用表現においてワタクシをウチと呼ぶことは日本人にとってはほぼ当然のことでもある。

 

■「オオ(オ、ヲ)」から「ミ」への変換(御→宮→官→君)ともう一人のワタクシ、即ちキミへ

続けてまた語源的な話をする。オオヤケ概念に原初的な忘却とそれに伴うトポスの変容があったと省察したのは、先述の通りである。では、それらが如何にして日本特有の統治性の概念として、支配構造の文脈(土地や力関係に結びつく大小の関係)へと移行したのだろうか?

オオヤケとは、この地上の家のことではなく「屋」という言葉との関連に置かれていた。だが、それが支配構造へと転化する時、オオヤケは“大きい家”という地上的な、あるいは財力としては量的な意味を獲得し、ヲヤケ=“小さい家”を支配するようになる。ここに「大」が「小」を支配するという包摂的な入れ子の構図ができあがる。見方を変えて言うなら、大は更なる大から見れば小でもあり、小は更なる小から見れば大にもなる。(それは、日本的な曖昧な公私の縫合的区分ともパラレルであるし、家族内では大人と子供の序列的な関係にもなる)

また、オオヤケが大小の包摂的な相互癒着の関係へと変異するに伴い、かつてのその超越性の審級の問題は、ミヤケが請け負うようになる。つまり、日本語の「ミ」とは何らかの形でその超越性の問題を代理するようになる。(オフィシャルな領域への変換)

簡単にだが、整理してみよう。

1. 元の超越性の審級としてのオオヤケ

2. 原初の忘却と支配構造への転換

オオヤケ→(支配)→ヲヤケ

オオヤケ→(支配)→ワタクシ

3. ワタクシにとって上(つまり、公的なもの)を意味する事象や人称に対しての「ミ」への変換(請負と代理)、つまりはオフィシャルな領域としての官僚制への分化

ミヤケ、ミヤ、ミカド、キミ?(二人称の位格へ、もう一つの一人称)

御、宮、官、君?(君もまた、別の私である)

そして、「公」は訓読みでは「キミ」とも発音され、「君」も同様であり同列の立場にも置かれる。そして、「君」は音読みでは「クン」である。

この推論が正しければ日本語の二人称の関係は相互に道徳的責務(あるいは道義的責任)を負うことにも相当するだろうし、日本人の倫理観——より正確には、道徳観——としての「公-私・官-民」の複雑さを説明することもなる。だが、日本人はそのしがらみに深く従属するあまりに倫理的な“感性”が育まれる余地がないともいえるだろうし、儒教の影響によりそれらの関係性が「正-不正 just-unjust」としても意識されてもいる。(正義 justice としての「公」概念は無論、歴史的に捏造、そして正当化 justification されうるし、また日本人にとっての権威 authority の概念——いわゆる、上からのお墨付き——もその域を出ていないと断定できる(2)*

注: (2)*→ハンナ・アーレントは論文「権威とは何か?」の中で、《権威は常に服従を要求するので、それは一般に権力 power または暴力 violence の形態と間違えられている》と述べ、続いて《常にヒエラルキー的である権威主義者の秩序は、説得の平等主義者の秩序に対置している》と指摘している。〔ハンナ・アーレント『過去と未来の間』邦訳p.125参照。尚、引用箇所の訳は引用者が原著から改めてした〕


《オホヤケという地名は、コヤケ・ヲヤケではないオホヤケ=大きいヤケ=大きい建物のある領域の呼称として、地方各地に散在していた。そしてそれらは天皇・朝廷にかかわるミヤケとは別のものとみなされていた。このことは、オホヤケがミヤケ(天皇直轄地、機構)より前に、ヲヤケ・コヤケとともに日本に存在していたものではないか、と推量させる。》(溝口1996: 13)

そして、ヤケ(オホヤケ・ミヤケに共通している)はイヘ(イエ)に関連がある語で、イヘが人間の集団や家族と深い関わりを持つのに対し、一方ヤケの側はどちらかといえば施設や機構を指し示している(オホヤケの二つのコンテクスト)。このことは、オホヤケ・ミヤケの側が日本特有の官と公的なものを同一視する傾向と結びつき(事実、「官」という字はミヤケ・ツカサ・オホヤケと訓み分けられていた)、イヘの方は“官に対して”は家族の私的領域を形成しているのは、先に分析した〔原初的忘却以後の〕支配・管理構造の転換を物語る興味深い例証である。だが、ここではそのような「間柄」は依然として二人称的であることを覚えておきたい。(ヨーロッパ社会のペルソナという概念装置は、三人称に関わる問題であり、それはまた聖性の概念とも近くある)

 

ここまでの考察から、いわゆる日本人にとっての公的なもの(「お上」と呼び換えてもよい)は、アーレント的パブリックの領域とは全く趣きを異にしていると同定できる。それは、その平等主義と対置する権威主義的政治体制であるということもできただろう。

そして仮にだが、日本人的な主体=臣下——公僕や僕、国民と呼び換えてもそのあり方には変わりはない——を想定するなら、その一人称で呼ばれるところの「ワタクシ」は、家政の私的領域にも、また社会集団的な単位としての個においても、あるいはオフィシャルな領域でその実行性を代理する地位や身分、それらの関数=機能においても、曖昧なままで一括りにされているに違いあるまい。それは、「人格」の主体としてはありえず、絶えず公的なものから、あるいはその権威性から承った影としての「身分」を物語ってもいる。(この構造は、日本が近代社会をヨーロッパ社会を模倣することにより形成した際も無批判なままであり続けただろうし、当時の知識人階級ですら気づきえなかった事柄である)

そして、そのワタクシの構造の不分明な曖昧さは、いわゆる「空気」や当然の「約束事」(あるいは「道理」)として、共同体の結束を強化するものとして機能し、時に「滑稽さ」として笑いの対象—そこに自虐的な攻撃性の毒を見取るのは容易い—にもなっている。

歴史的に言い直すなら、このような「ワタクシ」という地位・身分の曖昧な概念規定の特異性 (3)* こそが、日本史の構造の根本的な問題として無自覚なままに受け継がれている事態に相違あるまい。それは、日本人の無知なのであり、その情熱でもある。そして、その特異性のシンボルは日本史的にも、一つの王族の身分——年代的には、公=官=天皇という図式が完成したのは律令制においてである——に“リフレクティブに”収斂するはずだろう。オオヤケのシンボル性が人格に推移することと、日本人がそれを実体論的に捉え、一つの人格にはなりえないことは興味深いパラドックスでもある。要点を先回りして述べておけば、日本人の公私概念がリフレクティブな投射=投影によって互いに入り組みあっている事実は、天皇制という極限の構造を保存し、また必要ともしている。(諸個人の行為性が世界を介在とし公私の分離を生じさせる事とは、まるで異なるあり方を余儀なくされている)

注: (3)*→「公」が“主人一般”を指し示すようになるのは戦国時代以降であり、室町時代辺りから「わたくし」という言葉が“目上の者に対した場合の”一人称に転用されるようになる。両者はほぼ対応しており、「奉公滅私」という言葉はその前身にあたるが、そのような「お上」に尽くし仕える精神性の風土は、近代以降の日本社会においても往々にして見られたことであるし、日本における公私概念がヒエラルキー的秩序として考えられていることの証左でもある。またそのことは日本人にとっての「個人」観が決して単独で独立した者ではありえずに、何らかの社会的コンテクストに従属した単位として以外は想像できない事実をも逆照射している。それはまた、ヨーロッパ由来の「個人 person」という概念がそのまま「わたくし」という言葉の外延的なイメージとしての、つまり日本人的な公私観としての「私」に転じてしまうという奇怪な事態を招くに至る。(両者を媒介したのは日本朱子学であり、日本近代の“伝統的な”個人観もその影響下から展開されるようになる。また日本近代文学の「私」小説の特異な地位は、その曖昧なまま地続きであった「私=個人」の内的な葛藤が表現される場でもあった)

 

■天皇制成立における歴史的起源の諸事情——力 force を正当化する為の諸制度、あるいは権力なき権威 authority without power の極北として

《最も強いものでも、自身の力 force を権利 droit に、服従 obéissance を義務 devour に転化させない限り、いつまでも主人であり得るほど、強いものではない。》——ルソー『社会契約論』第一編第三章

まずは、日本の「国家」形成の基礎を振り返ってみよう。それは、歴史的には二つの文明との外交や影響とは切り離すことはできない。一つは中国であり、もう一つは欧米である。両者は、日本史・制度上の「日本国家」なる政体のエポック——古代律令制と明治期の近代化、そして戦後——を画定してもいる。故に、そのような政治的な国家体制は、最初に法制学上の問題として立ち現れるはずだろうし、またそれは広義に正当性や適法性の概念——legitimacy ないし legality——に収斂する。(もちろん、それらには特有の経済システムもあるが、そのような管理経営も適法性によって保証ないしは保護された限りで取り仕切られる)

また、言い換えればそれは、日本史制度内における理性支配と正当化の概念史——あるいはその是非は置いとくとして、発達史——と呼ばれうる。(4)*

注: (4)*→水林彪 (2006; 70-71) は、中国の律令制において首尾一貫した論理性や合理的体系的思考の成熟が認められることを指摘している。《律令は、郡県中国において、皇帝の支配の及ぶところにあまねく妥当せしめられた普遍的な性質の刑法・行政法であった》。日本が近代化において引き継ぐ、19世紀ドイツに誕生した刑法・刑法学も同様の《精緻な論理的構築物》である。

話を見失わないよう述べておけば、ここでは日本国家と天皇制の“歴史的”関係に重点を置いている。先に我々は、「オオヤケ」の翻訳語としての中国語の「公」が採用された経緯を見てきた。ヤマト言葉の「オオヤケ」の原義には、人間の住む俗の家とは異なる「天つ神の住居」という意味があった。そして、古代の日本にはまだ、十全な意味における王権が存在していなかったことを考慮に入れれば、中国からの律令制の導入に伴い王権国家としての色彩を帯びてきたことは想像に難くはない。その時に必要になるのが、その支配を権威づける制度上の問題であり、日本は恐らくは、それすらも中国から借りてきている。それは、「天」という規範性を含意する言葉である。(オオヤケ—公—天の人物的な同一視ないしは権威化)(5)*

注: (5)*→この推論に異論が挟まれることは十分に承知している。ヤマト政権・前方後円墳体制が王権成立“以前の”政治秩序であるとは、それが支配者と服従者という質の異なるヒエラルキーを“意味してはいない”ということである。この前方後円墳時代に、既に中国からの影響により、「地」と「天」——「方」形と「円」形はそれらのシンボルである——の観念が出現しているが、単に上下の秩序が成立したのみでは、それが即ち王権であるということにはならない(もちろん、ヤマト時代においてもそれぞれの土地に結びついた盟主はいた)。もう一つの異論は、天皇の“血統上の問題”である。『古事記』においては、天神と天皇の間に血統上の系譜関係〔連続性〕が観念されることになるが、前方後円墳体制においては、歴代の盟主の間にさえ血統上の系譜関係は観念されていない(天皇制における支配構造の正当化と、その重要なファクターとして血統上の問題が担保されていることは、決して無視できない事柄である)。

つまり、ここまでの推論の要旨は、オオヤケが中国語の「公」と翻訳推移されたことを横糸とすれば、縦糸とし超越性としてのアメ——本来は、この概念には生成の原理はあったかもしれないが規範性はなかったであろう——が「天」として中国経由の規範的な性質を帯び、日本人にとっての言説的制度と規範を“同時に”体現するところの(それ故に、フィクションでもあり、天と王〔皇〕の間に連続性を想定するならそれは神話的な次元にも“起源において”接続される)、王権としての天皇制が成立したと読むこともできるだろう。(6)*

《中国皇帝による権威付けなしには、列島において、〈盟主〉が〈王〉に上昇・転化することは困難だったのであろう。前方後円墳に象徴される超世俗的な「天」の観念は、借り物の思考であり、それだけでは王権を創造することができなかったのだと思われる。》(水林2006; 94)

注: (6)*→想定として、王号が「大王」から「天皇」に変化した可能性はあるにはある。しかし、「天皇」号の成立時期についてはいまだ定説の確立をみない。仮にヤマト体制を「王権」として考えるにせよ、それは天皇制とは異質なステータスである。

また、中国語の「天」について言及するなら、それは壮大な自然宇宙論と倫理観が結合した概念であることは知られている。だが、それを「アメ」として考えた当時の日本人は、その独自の哲学については頭では理解できたかもしれないが、心として実感されるには及ばず、身近な自然としての「アメ=雨」として享受されたとも推察される。雨は天から降ってくるもの〔物象化〕であり、その観念が天孫降臨神話による天皇王権の正当化に一役買ったという見方も成り立つだろう(事実、日本の芸能にはその名残が今もなお影響力を保持している)。血統上の問題は、その正当化された観念〔=系譜の連続性〕を逆向きに投射することにより、血族や婚姻関係の正統性の問題として、改めて権威化する方策に転化する。つまり、律令国家における天皇制の legtimacy は、血統のそれとして制度化され、権威性を帯びる。(7)*

注: (7)*→事実、「天皇」号は日本帝国の君主を「高天原」(日本的な「天」)の権威を背負うものとして表現する称号であり、中国的な「天」はあくまでも借り物に留まり、その規範的な性質は見かけだけのものである。

そのことに伴い、以前の共同体のあり方も変革を遂げる。具体的に述べるなら、それは皇族の“ヤカラ”的編成からイエ(長の直系継承団体)への組み替えである。それ以前〔大化以前〕の共同体の仕組みはウヂと呼ばれていた。ウヂはイエとは異なり画一的に父子直系で相続されたのではなく、政治的経営体にふさわしい人物を求めて傍系の線でも相続された。(中世武士の「家」は、その訓が一般化され、イエとして概念化されるが、本質的にはウヂに近い組織である。ヤカラ的共同性は、古代首長の「氏(ウヂ)」から中世武士の「家」までをも包括する概念である)また、ヤカラ的共同性は緩やかな〈身分契約秩序〉であったが、イエへの組織の再編成は天皇による〈命令的秩序〉への移行でもある。律令制により成立した日本国家の幾つかの特徴は、郡県制、官僚制、君主制、主権的王権体制とも呼ぶことができるが、複雑なのはそれは主に中国との“外交上の関係”により“建前として、あるいは名目上”執行されたということだろう。そのような日本国家“内部における深部と外観の関係”は、いわゆる“内と外、本音と建前”といった二分法により複雑化され、またその後の日本史の運動としても繰り返されるところに、“内政”上の問題点があるといえる。また先に述べたように、オオヤケは〔ワタクシの対立概念ではなく〕ヤカラとヤシロ(屋代=社)とを繋ぐ媒介概念であった。そのことを鑑みるなら、日本の律令天皇制においてそのヤカラがイエへと制度的に変化し“正当化された”経緯は、ヤマト言葉の「オオヤケ」概念の原義が著しく毀損されたと同時に、支配の構造へと歪曲された事実を物語ってもいないだろうか? そしてそれが真実なら、それ以降の日本の共同性の相克は“失われたオオヤケ概念”を巡って生起したのではないかと考えられる。

また、その後の天皇の力 force は事実上、天皇・藤原“家”に移りその存在は単に〔その力を正当化する〕権威のみを意味することなる。ここに、我が国のヨーロッパ由来とは異なる生-政治 (8)* の重大なモーメント——正当性 legitimacy が血統上の正統性に還元されたこと——をみても強ち誇張ではないし、それが死-政治に反転するのはそのような正当性を介してであることも窺い知れる。

(8)*→生-政治という用語をここでは用いたが、実際上の政権について述べる際には、生-権力という用語でも間違いではない。ただ、ここではアーレントを意識して、政治や権力という用語を、通例の使用の仕方とは別の含意に導く狙いもある(例えば、支配とはアーレントにとっては政治の本質ではない)。本文では、煩雑になるので厳密には区別しなかった部分もあるが、各自考えて頂きたい。


このコロナ禍にあって、我々の日本社会について再び考えたく思う候。

2022-01-24 17:38:00 | Essay

このタイトルは単なる冗談でしょうか? あるいは、ナショナリズムへの回帰現象を揶揄しているのでしょうか?(私の赤いマスクを見て、彼はコミュニズムを忘れてはいないと頷いた方もいるでしょう。これは冗談です。)

ここで我々と私が述べたのはなぜでしょう。私、僕、我々……、日本語の人称代名詞はそれ自体がある関係性を抜きにしては汲み取ることが困難な概念でもあります。

ここでいう「我々の日本社会」という時の我々。私のその用法。それに何らかの賭け金なり潜在的なもの、あるいは公的な現れに至るまで、何らかの含意を嗅ぎ取って頂ければ幸いです。

そもそも「日本」とは? この問いさえも多様な揺らぎを抱えた難しい問題です。我々の日本社会という時、それは「日本」という国家(近代法により措定された法治国家であれ、あるいはそれ以前にまで遡れるのであれ)とは別の、ヨーロッパ由来のプロブレマティックがあります。そのことについては私は、アーレントを紹介することにより書いてますので、ここでは繰り返すことはしません。

しかし、日本社会という言葉に、このヨーロッパ由来の社会概念が必然性へと転化すると同時に消失した、日本的コミュニティーを接続させたらいかがてしょう。(確かに厳密にいって、社会とコミュニティーには、それらの概念や用法に至るまで比較検証されうる余地が多大に残されています)

日本社会の成立や勃興、そして必然化以前に、我々は日本的な世間の構造というシステムを持っていたことは確かですし、もはや忘れ去られようともしています。字義的には世の間である世間、それに何らかの思考されるべきマージナルな問いが残っています。(国民国家を前提とした場合は、イマジナリーな問題にしか行き着かないでしょう)

そしてそれは、公共的なテーマや新たな、そして別のコミュニティーとして再び日本人に回帰します。あるいは、近代社会のオフィシャルな領域とそれ以前の日本的な公共概念(ただし、日本のオオヤケ概念はそのままパブリックと捉えることはできません)はいかなる癒着や癒合に囚われたままでいるのでしょう。行政や律法、しいては自治体の管轄ですら、それはオフィシャルではありえますがパブリックに開かれているとは言い難いの一目瞭然です。(パブリックなきオフィシャルという形骸化の惨劇)

官と民の区別を問わずに「ワタクシ」(そして、僕や自分)という領域が拡大し(その意味では、日本国家なるものは巨大な化け物のようです)、ただのエゴに転じた日本で、再び「我々」を問うことは可能でしょうか?

個人的な personal ことを書かせてもらえるなら、私は大学の知のコミュニケーションや交通とは、別の「道」を選んだ人間です。学際横断的と呼んでも、それは日本のシステムの内部ではパブリックを僭称したオフィシャルな制度のままだとも批判できてしまいます。そして、そのようなディスクールの手続きや配置、あるいは制度化や規制、警戒心に何らかの否定性 negativity を持ち込む人間です。

 

ここでは、イタリアの哲学者ロベルト・エスポジト——彼の述べる「免疫化」というパラダイムは、アーレントが固執した「出生」の秘密の一面を照らし出します——が指摘したことを再び取り上げれば十分でしょう。

《すなわち、しばらく前から我々がそうするのに慣らされてしまっているように、社会がリスクに対してたえず警戒心をつのらせるならば、かえって社会の発展は凍結してしまうことになり、ひいては、個人の自由という点でも、全体の利益という点でも、社会をその原始状態へと退行させてしまいかねないのである。》