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per l/a psicoanalisi

主権の二極——支配から自由へ至るための中間報告

2022-03-07 19:18:00 | Note
《法学における非常事態は、神学における奇蹟に比すべき意味をもっている。》
——カール・シュミット
 
 

Sovereignty の訳語として、日本では「主権権力」という用いられ方が一般的に定着しつつある。だが、至高性 sovereignty としての主権には、そもそも過去からの伝統と今という時において、それ自体に分裂を持ち込む契機 (1)* を宿している。

注: (1)*→主権的 sovereign であることは、法 law の外側も内側も“同時に”示している。また、それは広義に“危機”という事態でもある。また、sovereignty を「主権権力」と訳すことは、主権そのもののプロブレマティックを一方に偏らせることになりかねない。また、近代のアカデミズムならびに政治的な省察と実践の「混同」を踏襲してしまうことにもなる。
 
Sovereignty に対する二つの態度、それらをポジティブ-ネガティブと呼ぶことを受け入れるにせよ、中間性に立ち停まるという第三のあり方が当初からアガンベンにはあった。〔soglia〕
 
しかし、この概念に二つの契機が、実際的にであれ潜在的にであれ、絡み合ったままだという認識は見過ごされいる。言い換えるならそれは、〔法の〕権威と権力の問題である。(2)*(故に、私はある種の還元主義には同意できない)
 
注: (2)*→事実、ジョルジョ・アガンベン『例外状態』の第6章はそれらの分析に捧げられている。
 
権威は既に、それに連なる過去と、あるいはラカン派の用語法を再び導入するなら〈父の名〉という正統性の問題(正当化)を前提とし、〔主体に〕服従を強いる、あるいは、〔主体の側が〕そのような服従の意志を持つ(どちらにせよ、そこでのファルスのシニフィアンは主体に対してはポジティブな作用としてある)。(3)*
 
注: (3)*→ここではまだ、そのような正当化が合法的なのか、伝統的なのか、カリスマ的なのかは問わないでおく。だが、それは唯ひとつの人格に結びつく時には、重大な帰結を伴うことは示唆しておいていい。
 
一方で、権力とはそもそもが潜在的なものであるが、そのような権威を介することで生に対して実定的な傾向を帯び、それは容易に否定的なものへと転じる。(生政治から死政治への反転)
 
ラカンが分離の根源に見た〈父の名〉、そして、コミュニティの紐帯にある正統性の問題。それは、アーレント的に翻訳するなら、前政治的な家族という領域〔必要性=必然性〕であり、系譜の連続性の問題である。
 
いずれにせよ、導きの糸となるのは、sovereignty における «auctoritas» (authority) と «potestas» (power) の分裂の様相——relegare から religio の派生、ラカンの破門、キリストの情熱——である。故に、政治的な身振りは宗教的なそれと不可分であり、その複雑さは宗教や信仰のテーマ(sacro や santo)として反覆される。〔サントーム〕
 
 
■アーレントにおける「権威 authority」の問題
 
《権威は常に服従を要求するので、それは一般に権力や暴力のある種の形態と間違えられる。権威は抑圧の外的手段の使用を排するが、強制力が使われるところでは権威は失敗し続ける。他方で権威は、平等を前提にし議論の過程を経る説得と両立しない。議論が用いられるところでは、権威は停止した状態にある。常にヒエラルキー的である権威主義的な秩序は、説得の平等主義的な秩序と対置している。仮にともかく、権威が定義されるなら、それは力による強制と議論を通じた説得の両方と矛盾しているはずである。》(4)*
 
注: (4)*→ハンナ・アーレント『過去と未来の間』邦訳p.125参照。尚、ここでの訳文は引用者が原著から改めてした。
 
これをどう考えるべきか? アーレントにおける権威は、服従と強制力、平等と議論のあいだでダブルバインドの状況に置かれている。些か早急な結論に思われるかもしれないが、この事態はアガンベンの例外状態の問題と相同性を描きながらも通底しないだろうか? つまり、主権における例外状態は、法の“権威を”宙吊りにすることで、その“無力”を明らかにするというそれである。〔iustitium〕(5)*
 
注: (5)*→《ユースティティウムは——すでに見てきたとおり——法秩序のまがうことなき停止を生み出す》『例外状態』邦訳p.159
 
例外状態を産出することでに主権が作動し続ける。この面のみを見て強調すると、法という観点のパラドックスが抜け落ちる。主権が法の内側と外側を“同時に”指示しているとするなら、法の観点(宙吊りや停止)はそこに時間的な差異を持ち込むであろうことに留意がいる。両者は叙述の複雑さに惑わされなければ、異なる操作子でもある。〔ここに、legitimacy と legality を区別する論拠をみてもいい。例えば、Homo Sacer 全著作においても、その両方が複雑に絡み合ったまま分析される場合もあれば、どちらかの観点から論述される場合もあるだろう〕
 
つまり、近代の主権の根本的なパラドックスはその混同によって、過去からの伝統と現在の強制力の行使が同時性の下に実定的に置かれるということに表れている。故に、そのような“権力と思われている強制力ないし暴力”は、過去の伝統を必要〔必然〕とし、それが法においてはある種の空白を導き入れると仮定できる。
 
先のアーレントの引用は、主権-権威-権力の区別を導入すれば、難なく受け入れることができるだろう。また、「抑圧の外的手段の使用」を為すのは、“主権的ではありうる”が権威の側ではない。そしておそらくは、アーレントにとっての権威は“近代の政治学”のアポリアを構成していた何かではあった。(そして当初、アーレントが近代における権威の喪失を嘆いたのは、他ならぬ“権威の輝き”についてであり、ローマに特有の権威という用語はギリシア語に翻訳する際には単一の意味に還元することは不可能にも関わらず、アーレントはそれを古代ギリシャの政治体に現れていたものとして認めていたのではないだろうか?)
 
 
■アガンベン『例外状態』における権威 auctoritas
 
《権威と権限とは、互いにはっきりと区別されている。しかしまた、それと同時に両者は一体となって二項からなるひとつの体系を形成しているのである。》ibid., p.158
 
《極限的な事例——すなわち、もし例外と極限的状況こそがつねにある法的制度のもっとも本来的な性格を定義するというのが本当であるとするならば、その本性をよりよく定義する事例——の場合には、権威は、“権限が生じているところではそれを停止させ、権限がもはや効力をもたなくなってしまったところではそれを復活させる力”として作用しているように思われる。それは法を停止したり復活させたりするが、形式的には法としての効力を発揮することがないひとつの力なのだ。》ibid., pp.159-160
 
《権威が法の停止というその特殊な機能を発揮する第三の制度は、……》ibid., p.161
 
《ここで権威は、一瞬の間だけ、その本質を明らかにする。「適法性を授与する」と同時に法を停止することのできる潜勢力は、その法的無効性が最大限に到達した時点でもっとも本来的な性格を露呈するのである。これこそは、法が全面的に停止された場合にも法に残っているもの(ciò che resta del diritto)なのだ(この意味では、それはカフカの寓話のベンヤミンによる読解のなかで、法ではなくて生であると言われているもの、あらゆる点で生と判別不能になってしまった法にほかならない)。》ibid., pp.162-163
 
ここで、特筆すべき問いは、アガンベンにおいて権威は、もはや法と区別がつかなくなった生を“構成する”ということである。これは、《生-の-形式 forma-di-vita》や『いと高き貧しさ』において展開されたそれに繋がる。いずれにせよ、『例外状態』における auctoritas の扱いは、アガンベンの著作を読み解く上で重要なキー概念であることは押さえておくべきだろう。
 
また、アーレントとの違いを述べておくなら、権威は権力がもはや効力をもたなくなってしまったところで、それを復活される力としても機能するということである。そのような権威の様態を法秩序の中でも潜勢力に留まる何かと言い添えておくことは無駄にはならない。(6)*
 
注: (6)*→このことについては、後の叙述で明らかになる。
 
 
■シュミットにおける「権威の介入 auctoritatis interpositio」pp.24-26
 
《従って、いっさいの変形には「権威の介入 auctoritatis interpositio」が存在する。そのような権威をどの個人や機関が主張しうるかは、その法規の法的実質のみからでは明らかとならない。》「政治神学——主権論四章——」(『カール・シュミット著作集I』p.25)
 
 
■ヴェーバーにおける「支配」と「権威」——正当性の信念と要求として
 
《この意味での支配(「権威 Autorität」)は、個々の場合についてみれば、従順性の種々さまざまのな動機——漠然とした慣れから始まって、純粋に目的合理的な考量にいたるまでの——にもとづいたものでありうる。一定最小限の服従“意欲”、すなわち服従することに対する(外的または内的な)“利害関心”があるということが、あらゆる真正な支配関係の要件である。》(マックス・ヴェーバー『支配の諸類型』p.3)
 
これは、マックス・ヴェーバー『経済と社会』第三章第一節からの引用 (7)* である。ここでは先ず最初に、“支配の側から”見れば服従を見出しうることがチャンスであると定義され、そのすぐ後に、“服従の側から”の意欲や利害関心が問題にされている。だが、それらの動機のみでは、支配の信頼しうる基礎を形成できない。通常はもう一つ別の要素、「正当性の信仰 Legitimitätsglaube」が付け加わっている。
 
注: (7)*→この引用に関しては邦訳『支配の諸類型』から為した。だが、ヴェーバーの『経済と社会』は旧稿と新稿の間で、権威や支配の概念の用い方において、ある相違が見受けられる。このことについては、「マックス・ヴェーバー『経済と社会』における旧稿から新稿への概念変更について 「支配」概念と「家父長制」概念」(三笘利幸, 2016年)を参照されたい。また、引用者はそのことを考慮に入れて、ここでの論述を解釈している。
 
《すべての支配は、その「正当性」に対する信仰を喚起し、それを育成しようと努めている。》(ibid., p.4)
 
ここで先に、ヴェーバーが支配を権威とも言い換えていた意味が明らかになる。ヴェーバーにおいて権威は、支配の“正当性の信仰ならびに要求”と繋がる。そして、どのような種類の正当性が要求されるのかに応じて支配の諸類型も変化する。支配の種類は、それぞれの支配に典型的な“正当性の要求 Legitimitätsanspruch”に基づいて区別されるのが目的に適うと述べられ、次によく知られる正当的支配の三つの純粋型が導出される。(この分類型は機能便宜的にも解釈され、ある特定の政体について言われる時は複合的でありうる)
 
1. 合理的な性格をもつ、合法的支配 legale Herrschaft
2. 伝統的な性格をもつ伝統的支配 traditionale Herrschaft
3. カリスマ的な性格をもつ、カリスマ的支配 charismatische Herrschaft
 
〔支配する側からの〕正当性の要求←→支配(権威)←→〔服従する側からの〕正当性の信念
 
それぞれの支配は、正当性の要求——つまりは、この要求こそが「正当化」の努力の賜でもある——に基づき区別されるのだから、合理的な性格、伝統的な性格、カリスマ的な性格のそれぞれに権威についての信念を喚起し、正当性の要求をする何かがあると断定できる。(8)*
 
注: (8)→それぞれの支配の形態の権威性を端的に言い表せば、形式的な合理性、時間観念の連続性、超自然性に求められよう。また、この中でもカリスマ的支配のみが“非日常的な”性格をもつことにも留意がいる。
 
 
再び主権の問題に戻ろう——。主権概念に付随する臆断 (9)* とその機能のあり方について、我々は最初に伝統との兼ね合いから推論を働かせてきた。だが、主権が限界において、非常事態についての決断を下すのだとすれば (10)*、それは“日常性において機能する伝統的な権威”に訴えるだけでは何かがまだ欠けている。主権それ自体の「源泉」において、元来は“非日常的であったカリスマティックな権威”が想定されている。つまり、主権に冠せられる神聖さの源泉は、カリスマ的であると同定していい。言い換えるなら、非常時に主権が法秩序の停止(例外状態)を産出するのは、それが通常時には包摂されていない“主権のカリスマ的な源泉”(カリスマの権威)を呼び覚ますからである。
 
注: (9)*→カール・シュミットの言葉を借りれば、その臆断とは、純粋な決断とは区別されるところの決断主義・決断の回避(決断しないことの決断)・独裁のことである。
 
注: (10)* →《主権者とは非常事態についての決断者である。》(Schmitt, op.cit., p.2)、《……私は伝統的歴史記述図式に反し、十七世紀の自然法論者たちも、主権の問題を非常事態の決断の問題と解していたことを示した。》(ibid., p.5)
 
 
■再びヴェーバーによるカリスマ理論の特異性へ——支配から自由への扉
 
《“カリスマ的な”性格のものであることがある。すなわち、ある人と彼によって啓示されあるいは作られた諸秩序との神聖性・または英雄的力・または模範性、に対する非日常的な帰依にもとづいたものでありうる(カリスマ的支配)。》(Weber, op.cit., p.10)
 
ここまでの考察から我々が得たことは、ヴェーバーの正当性支配の類型においてカリスマ——特に「純粋 rein」や「真正 genuin」という形容詞つきで呼ばれた形態のそれ——は、例外的な地位を持っているのではないかという問いである。カリスマは古代ギリシャ語のカリス Χάρις, Charis——それは、ギリシャ神話に登場する美や優雅さを司る女神たちを指示する——に由来し、“神の恩寵の賜(賜物)”という意味で用いられる。そして、ヴェーバーにおいてカリスマ的な権威性は、その信奉者たちによる自由な「承認」を必要とする。
 
《カリスマの妥当を決定するものは、“証し Bewährung”によって——始原的には、常に奇跡によって——保証された、啓示への帰依、英雄崇拝、指導者への信頼から生まれるところの、被支配者による自由な“承認 Anerkennung”である。しかし、この承認は、(真正カリスマにおいては)、正当性の“根拠”なのではなく、むしろ、それは、召命と証しとによってこの資質を承認すべく呼び迎えられた者たちの“義務”なのである。この「承認」は、心理学的には、熱狂〔法悦〕やあるいは苦悩と希望とから生まれた・敬虔な・全く人格的な帰依〔献身〕である。》(ibid., p.71)
 
《というのは、カリスマ的な権威の事実上の妥当は、一にかかって、「証し」にもとづく被支配者による“承認”に依存しているからである。この承認は、有資格者——“したがって”正当性をもつ者——に対しては、いうまでもなく“義務的”である。》(ibid., p.138)
 
このような見地に立って、我々はようやくアーレントによる活動論の評価を“正当に”下すことができる。アーレントにおいて、「始まり」を為すところの行為者は既にある人間関係の編み目、あるいは人々の間に依存していた。そして、ヴェーバーにおけるカリスマ的支配の正当性や権威は、その信奉者たちによって自由に“承認”されることに依存している。(また、両者は厳密には異なる様相にあるが、共通していることはどちらも脆く儚いあり方をしているということである)(11)*

注: (11)*→更に踏み込みで、両方の違いについて言及するなら、それは「奇跡」についての捉え方である。アーレントにとって奇跡は、日常性の中で経験されるものとしてある。詳しくは、→参照のこと。

 
それらの問題は、単に“非日常的なカリスマ的支配が日常化した形態”とは区別されるべき問題を叙述することになる。つまり、総じて述べておくならば、主権のパラダイムはその法との関わりの中で、日常性と非日常性の間の可変的な様態を構成しているという事態である。