ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

アガンベン『冒険』(2015, nottetempo)に関する投稿

2017-09-25 22:13:51 | Agamben アガンベン
◾️裏表紙の言葉

«Ogni uomo si trova preso nell'avventura, ogni uomo ha, per questo, a che fare con Demone, Eros, Necessità e Speranza. Essi sono i volti - o le maschere - che l'avventura ogni volta gli presenta.»

「それぞれの人間は冒険に心が奪われていることに気づき、このために、それぞれの人間はダイモーンとエロス、必然〔必要性〕と望みに関係がある。それらは、冒険がそれらを表す顔—あるいは、仮面—である。」


◾️1. Demone

«La vita di ogni uomo deve pagare il suo tributo a queste quattro divinità, senza cercare di eluderle o di imbrogliarle.»(p.6)

「それぞれの人間の生は、これらの四つの神性に、それらを誤魔化し避けようとすること、またはそれらを騙すことなく、捧げ物を支払うべきである。」

ここでアガンベンが挙げる四つの神性は、Daimon, Tyche, Eros, Ananche のことである。
ダイモーン=神霊、テュケー=運命、エロス=愛、アナンケー=必然〔必要性〕。

«Il modo in cui ciascuno si tiene in rapporto con queste potenze definisce la sua etica.»(p.6)

「各々がこれらの力能 potenze との関係を保つ様式が、その倫理を定義する。」


アガンベンはゲーテに依拠しながら、四つの神性の複雑な関係について描写している。

«Nelle "Parole orfiche" Goethe ha di fatto pagato il suo tributo a una sola divinità: il Daimon. Vita e scrittura, che il demone aveva congiunto in un destino, erano ciascuna per l'altra garanzia sufficiente della propria riuscita.»(p.16)

「ゲーテは事実、"Parole orfiche"の中で一つの神性さ、ダイモーンに捧げ物を支払っている。ダイモーンがある運命に連結した生と筆記は、他の固有な成果の十分な保証のための全てだった。」

つまり、君が作品に支払った才覚は、他の保証〔担保〕のための全て ciascuna per l'altra garanzia であって、それは固有の成果について十分である sufficiente della propria uscita と解釈しておく。それを主張していれば、その十分な成果が台無しになるばかりか、その他の保証〔担保〕からすら、君は遠のくことになる。勿体無いのは、一体どちらか? つまり、作品の運命については君の圏内にはない。それは、ダイモーンに任せておけ。そうすれば、君は見返りを求めなくても、固有の成果に満足いくだろう。わざわざ自らの手で、作品を破壊することもない。それが優れているなら、より一層。


アガンベンは、エディプス Edipo が自分自身を“テュケーの息子 figlio della Tyche”と定義していたことを見逃していない。テュケー〔運命〕は、人間たちのあいだで多くの名を受け取ったと、Dione Crisostomo は書いている。その公平さは Nemesis、その不可視性は Elpis、その不可避性は Moira、その正義は Themis—真には、多くの名と道を与える一人の女神であると。つまり、ここでは人間の業は、ダイモーン〔神霊〕を経由してテュケー〔運命〕へと委ねられているように思える。これは、一つの生の様式であり、倫理でもある。

«Tyche non é soltanto il caso: è, anche, per quanto questo possa apparirci contraddittorio, destino e necessità. Essa è veramente la potenza “dai molti nomi”, che governa in ogni ambito le vite e le sorti degli uomini.» (pp.15-16)

「テュケーはただ単に偶然ではない。それはまた、偶然が私たちに矛盾して見えうる限りで、運命と必然〔必要性〕である。それ〔テュケー〕は実のところ、人間たちの生と運命をそれぞれの領域で統治する、“多くの名にある”潜勢力である。」


◾️2. Aventure〔原著ではイタリック体〕

第2章の冒頭には、Chrétien de Troyes の騎士道詩 l'Yvain が掲げられている。
〔ここでは一部のみ抜粋しておく〕

“Et que voldroies tu trover?”
“Aventure, por esprover
ma proesce et mon bardement.
Or te pri et quier et demand,
se tu sez, que tu me consoille
ou d'aventure ou de mervoille”.

〔イタリア語訳〕
“Che cosa vorresti trovare?”
“Avventura, per mettere a prova
la mia prodezza e il mio coraggio.
Dunque ti prego e ti domando
se tu lo sai, che mi consigli
di avventure o di meraviglia”.


アガンベンは、直接的には明らかではないだろうと述べながらも、こう切り出している。

«Il termine - aventure - con cui il cavaliere definisce l'oggetto delle sue ricerche»(p.18)

「騎士が彼の諸探究の対象を定義するのに用いる aventure という用語」

そして、その用語が驚き la meraviglia (mervoille) と関わることは確実だと続ける。また、〔aventure の用語が〕 Yvain の勇気にとっての試練〔試み〕の役割を果たすに違いないだろうと。

ここでも勘のいい人たちは、宮廷愛や愛の対象と驚きの関係を思い起こすに違いない。

事実、アガンベンはフランス古語 trover とイタリア語の trovare の違いを指摘した上で、ロマンス詩学的語彙のテクニカル・タームの起源に aventure があることもまた明らかであると敷衍する。

«(per questo i poeti chiamavano se stessi trobadors, trouvères o “trovatori”)»(p.19)

「(このため詩人たちは自身を、trobadors、trouvères また“trovatori”と呼んでいた)」


アガンベンの語源学的な探究はこれには留まらないが、重要な点を述べておくと、彼は古代ラテン語からキリスト教の adventus (l'avvento di un principe o del messia=王またはメシアの到来)と eventus の繋がりを据えている。いずれにせよ、この eventus という用語は、肯定的であると同様に否定的でもありうる、神秘的で驚くべき何かに関するある人間の出現を指示する。

ラカンが欲望という時、このような問題の射程もあると思われる。それは、試練としての冒険と驚きに避けがたく巻き込まれている主体を含意している。いずれにせよ、ここでアガンベンがトゥルバドゥールを持ち出したのはたいへん興味深い。彼は、世界との出会いにおいて自分自身にも出会う、試練や冒険という文脈においても欲望や主体という語も使っている。

«Per questo, nei romanzi cavallereschi, "Aventure" sembra avere non meno significati di Tyche. Come questa, essa designa sia il caso che il destino, sia l'evento inaspettato che mette il cavaliere alla prova sia una catena di fatti che necessariamente si verificheranno.»(p.20)

「このため、騎士道小説において、"Aventure"は少なからずテュケー Tyche の意義を持っているように思われる。このように、それは運命であることも偶然であることも示し、騎士を試練にかける思いがけない出来事であり、必然的に彼を審査するだろう諸事件〔事実〕の一つ連鎖でもある。」


«E, tuttavia, tanto più strana e rischiosa è l'avventura, tanto più essa è desiderabile.»(p.22)

「また、しかしながら、冒険がより奇妙で危険であるほど、それはより欲望をそそる。」

必要なのは、このリスクを賭け、惜しまないことだ。安全に身を守るような生、これは免疫化の視点を通せば、冒険をすることに比べるなら、より致命的な破局を迎え兼ねない。そして、冒険を通して貴方が得た知識は、貴方を破局から身を守る抑止する力にかえってなるに違いない。

危険から身を守るだけの生が、破局に抗しえないのに対し、危険を賭して冒険する生は、かえって破局に対して身を守る。この逆説。


«Avventura e parola, vita e linguaggio si confondono e il metallo che risulta dalla loro fusione è quello del destino.»(p.25)

「冒険と言葉、生と言語活動は入り混じり、それらの融合から結果する合金は、運命のそれである。」

«...essa [l'avventura] non è un evento situato in un passato cronologico, ma è sempre già evento di parola.»(p.27)

「…それ〔冒険〕は年代順のある過去に位置する一つの出来事ではなく、常に既に言葉〔パロール〕の出来事である。」

«Avventura e verità sono indiscernibili, perché la verità avviene e l'avventura non è che l'avvenire della verità.»(p.28)

「冒険と真理は区別できなく、何故なら、真理は到来し、また冒険は真理の到来以外ではないからだ。」


«Non si tratta, come alcuni interpreti hanno creduto, di una dichiarazione di ignoranza, ma della consapevolezza che l'avventura non si situa né solo in un testo né soltanto in una serie di eventi, ma nel loro coincidere - cioè cadere insieme.» (p.30)

アガンベン曰く、冒険はテクストの中だけ、出来事の連続の中だけにあるのではなく、それらの同時生起 il loro coincidere、つまり共に落ちる cadere insieme〔倒れる、失敗する〕ことの中にあり、その自覚こそが問題なのだという。このことは、精神分析にも繋がる問題がある。失敗によって、逆説的に進む精神分析運動に。

«Anche ‘Saga’ designava l'evento in quanto era detto e non in quanto era avvenuto.» (p.33)

「‘サガ(中世の北欧英雄小説)’も語った限りでの出来事を明示していたのであり、起こった限りではない。」

ここでも、出来事が単なるその記述を含めた羅列ではなく、語りと共に示唆されている。これも、精神分析が語りの経験や、語られた限りでの出来事に関わる問題を扱い、単なる時系列順の記述にはその核心が抜き去られているということと同様の事態を示していまいか?


この節の最後は、冒険 l'avventura という用語の存在論的な固有な意義、言語活動の人類創生的な出来事の次元が示唆され、明らかに“存在の断固たる経験 una determinata esperienza dell'essere”に関わりがあることを、アガンベンは指摘して綴じている。


◾️3. Eros

«La fine del Medioevo e l'inizio dell'età moderna coincidono, infatti, con un'eclissi e una svalutazione dell'avventura.» (p.36)

「中世の終わりと近代的な時代の始まりは、事実、冒険の衰退と過小評価と共に起こる。」

«Anche nel nesso così stretto che sembra legare nella letteratura medievale l'avventura all'amore, si ritrovano la stessa accidentalità e la stessa esteriorità: ...» (p.37)

「中世の文学の中で冒険が愛に結び付くように見えるこうした緊密な繋がりにおいて、同様の偶然性と同様の外在性が見出される:…」


“L'unità in cui riuniamo in ogni momento l'attività e la passività nei confronti del mondo, quell'unità che è anzi in un certo senso la vita, conduce i suoi elementi alla piú estrema tensione, quasi non fossero altro che i due aspetti di una sola e medesima vita misteriosamente indivisa” (Simmel)

“我々があらゆる瞬間にその中で、世界の諸衝突において能動性と受動性を合一する統一性〔単位〕、むしろある意味において生であるこの統一性は、殆どあたかも、奇妙にも分割されていない単一で同じ生の二つのアスペクト以外ではないかのように、それらの諸エレメントを最も極限な緊張へ導く。”(ジンメル)

(アガンベンが引用しているジンメルの著作は、“Das Abenteuer”。本文ではイタリア語訳が挙げられている。)

«Ciò è evidente anche nel nesso costituivo che Simmel istituisce fra l'avventura e l'amore.» (p.42)

「ジンメルが冒険と愛のあいだに定める構成的な繋がりにおいても、このことは明らかである。」

このこと (Ciò) とは、前文の引用の内容を指している。つまり、“冒険としての”愛において出会われた出来事は、能動性と受動性を世界の諸衝突において統一している。ラカンが、“出来事としての”症状への同一化を説く時にも、この問題の射程はあるのではないか?


«La connessione fra l'esperienza amorosa e l'avventura è, tuttavia, ancora più profonda.» (p.43)

「愛の経験と冒険の繋がりは、しかしながら、依然としてより深い。」

«E se eros e avventura vi sono spesso intimamente intrecciati, ciò non è perché l'amore dia senso e legittimità all'avventura, ma, al contrario, perché solo una vita che ha la forma dell'avventura può incontrare veramente l'amore.» (pp.45-45)

「そしてもし、エロスと冒険にしばし親密な結びつきがあるなら、このことは愛が冒険に意味や正統性与えるからではなく、しかし反対に、冒険の形相 la forma dell'avventura をもつ生のみが愛に真に出会えるからである。」


◾️4. Evento

“L'evento non è quel che accade.” (Gilles Deleuze)

“出来事は、生じる何かではない。”(ジル・ドゥルーズ)

“Che piova, è qualcosa che accade, ma questo non basta a farne un evento: perché sia un evento è necessario che codesto accadere io lo senta come un accadere per me” (Carlo Diano, Forma ed evento)

“〔生じる何かである〕雨が降ること、しかしこれは、ある出来事をなすには十分ではない。何故ならその起こることが、私にとって起こることとしてそれを私が感じる必要があるのが、出来事であるから。”(カルロ・ディアナ『形態と出来事』)


冒険 l'avventura が出来事 l'evento の前提条件にあること。言い換えれば、冒険なき出来事とは、それ自体が一つの死、あるいは破壊に向かう姿でしかないということ。

“l'evento è sempre hic et nunc. Non vi è evento se non nel preciso luogo dove io sono e nell'istante in cui l'avverto” (Carlo Diana)

“出来事は常に、“今ここ hic te nunc”である。もし私がいる場が正確でなく、私がそれに注意を払う瞬間でないなら、出来事はない”(カルロ・ディアナ)

つまり、出来事とは、ただ単に起きることではない。それは当の主体の“自分自身との関連”に置かれた状態や態度を抜きにしては、成立すらしない問題だろう。だが、しかし…

«L'avventura, avvenendo, esige un “chi” a cui avvenire. Ciò non significa, però, che l'evento - l'avventura - dipenda dal soggetto» (p.56)

「〔到来する〕冒険は、それに到来する“誰か”を要請する。しかし、このことは出来事—冒険—が主体に依存することを意味しない。」

«Il “chi” non preesiste come un soggetto - si potrebbe dire, piuttosto, che l'avventura si soggettivizza, perché è parte costitutiva di essa l'avvenire a qualcuno in un certo luogo.» (p.56)

「“誰か”は主体のように前もって存在しない—むしろ、こう言いうるだろう。冒険は主体化される、何故なら、ある場における誰かへの到来は、冒険の構成的なパートであるから。」

ここで前もって私が、冒険が出来事の前提にあると言った意味が明かされる。鶏が先か、卵が先かみたいな議論に見えるが、そういうことではない。アガンベンが述べているのは端的に、“誰か chi”への到来という要請が、冒険を主体化し、その出来事の“場 luogo”の性質を定義づけるということではないか? そして、この“誰か chi”に“呼びかけ”の性質を読むのは、深読みではあるまい。

«Si comprende allora perché l'evento sia sempre anche evento di linguaggio e l'avventura indissociabile della parola che la dice.» (p.57)

「それでは何故、出来事は常に言語活動の出来事でもあり、それを表す言葉の分離不可能な冒険でもあると了解されるのか。」

«L'avventura, che lo [essere parlante] ha chiamato nella parola, è detta dalla parola di colui che ha chiamato e non esiste prima di questa.» (p.57)

「言葉においてそれ〔話す存在〕を呼んだ冒険は、呼んだところの人の、またそれ〔冒険〕の前には存在しない人の言葉から発せられる。」

したがって、先に示されたように、冒険 l'avventura の要請する“誰か chi”という性質は、呼びかけに通じる。それは、ある出来事の場 un luogo dell'evento を構成するパートになっている。そしてここまでの帰結として、単に起きる何か quel che accade (l'accidente) と出来事 l'evento のあいだに、精神分析的にも経験の問題があることも、位置づけできるだろう。

«In questo senso esso [l'evento] è qualcosa che, al di là della rassegnazione e del risentimento, deve essere voluto e amato da colui a cui accade, perché, in quel che accade , egli vede innanzitutto l'avventura che lo coinvolge e che deve saper riconoscere, per esserne all'altezza.» (p.58)

「この意味でそれ〔出来事〕は、服従とルサンチマンの彼岸で、生じるところの人により欲され、愛されるべき何かである。何故なら、生じる何かにおいて彼はまず最初に、それを巻き込み、またそれに比肩しうるために認めることができるであろう冒険を見るからである。」



«Fato e avventura, Ananche e Tyche non coincidono.» (p.59)

「運命と冒険、アナンケーとテュケーは同時ではない。」

«Chi si avventura nell'evento, certo ama, trema e si emoziona - ma, anche se potrà alla fine ritrovarsi, non può che perdersi in esso, con leggerezza e senza riserve.» (p.60)

«Ciò che avviene nell'evento è, cioè, l'essere ed ente e prima delle sue destinazioni epocali. Si tratta di pensare lo Es in Es gibt Sein, il “si” in “si dà l'essere”.» (p.62)

ここまでの考察で私たちは、発生 l'accadere と出来事 l'evento と冒険 l'avventura の分節化にまではどうにか辿り着いた。そして、これらの—“構造上の”と言っていいかは分からないが—区別が曖昧なままだったから、論点が不明瞭だということは言えるように思う。ある人たちは、ただの発生に過ぎないものを出来事と見誤り、勘違いしている。

転移を考えてみよう。転移はただの現象なのだろうか? 答えは多分、イエスでもありノーでもある。発生としての転移は、“存在の運命”に従属しているし、冒険としての転移は、“運命愛”に関わる。だが、この両者には、構造上の格差がある。この格差が、主体の“過去の存在の”出来事の問題が組織されるエレメントとなる。だから、この格差の問題は、空間的なのではなく、時間的でなくてはならない(アガンベンが「運命と冒険、アナンケーとテュケーは同時ではない」と書いたことの意味は、ここではこう据えよう)。


«Il vivente diventa umano - diventa un Dasein - nell'istante e nella misura in cui l'essere gli avviene: l'evento è, insieme, antropogenetico e ontogenetico, coincide col diventar parlante dell'uomo e con l'avvenire dell'essere alla parola e della parola all'essere. Per questo Heidegger può scrivere che il linguaggio è coessenziale all'evento.» (p.63)
「生ける者は瞬く間に、そして存在が彼に到来する尺度において人間になる—現存在 Dasein になる。出来事は同時に、人類創生的、また存在創生的であり、人間が話す者になることと共に、また存在が言葉に、そして言葉が存在に到来することと共に同時に起きる。このために、ハイデガーは言語活動は出来事と同じ本質であると書くことができる。」


«“Avventura” è, in questo senso, la traduzione più corretta di Ereignis.» (p.66)
「“冒険”はこの意味で、Ereignis のより正確な翻訳である。」

つまり、出来事は“冒険である限りにおいて”、自分自身との更なる出会いにもなるだろう。


◾️5. Elpis

«Quando l'avventura gli si rivela come demone, la vita gli appare meravigliosa, quasi che una forza estranea lo sorreggesse e guidasse in ogni situazione e in ogni nuovo incontro.» (p.69)
「冒険が彼〔人間〕にダイモーンとして現れる時、人生は彼に驚くべきように見え、まるで見知らぬ力があらゆる状況で、またあらゆる新しい出会いで彼を支え、導くようである。」

“il demone è la nuova creatura che le nostre opere e la nostra forma di vita sostituiscono all'individuo anagrafico che credevamo di essere” (p.70)
“ダイモーンは私たちの作品と私たちの生の形式が、私たちが存在すると信じる戸籍上の個人に代わる、新たな被造物である”

“il demone è qualcosa che incessantemente si perde e a cui dobbiamo cercare di restare a ogni costo fedeli” (p.71)
“ダイモーンは、不断に失われ、また私たちがなんとしても忠実に留まろうとすべき何かである”

«Il nome della potenza rigeneratrice che, al di là di noi stessi, dà vita al demone è Eros.» (p.71)
「私たち自身の彼岸で、ダイモーンに生を与えるだろう再生する潜勢力の名前は、エロスである。」

«Eros è la potenza che, nell'avventura, costitutivamente la eccede, così come eccede e scavalca colui a cui essa avviene.» (p.71)
「エロスは冒険において、それが到来する者を越え、凌駕するままに、構成的にそれを越える潜勢力である。」

デモーニッシュな力とエロスのあいだ。これこそが、まさに問うべきに値する——。

ある意味で私たちは、アガンベンの提出した『冒険』の様相から精神分析的な転移をもう一度考え直した。無意識の主体と区別する意味での、分析の主体はまさに冒険という観点からもそのあり方を問える。

仮に無意識の主体がかつての「出来事 l'evento」に捕らえられ、その苦しみを受動的に被るのだとすれば、分析の主体は「冒険 l'avventura」という形式から能動性と受動性を再統一してもいる。

だが、転移愛の核心にある「経験 l'esperienza」とは、その愛 l'amore が無能力 incapacità に到ることにあるのだとしたら?

愛の欲望の試金石とは、まさにデモーニッシュな力とその再生を司るエロスとのあいだの新たな関係であると言えないだろうか? そして、愛の無能力の「経験」とはその二つの力動の彼岸にあり、愛それ自体に再び向き変えていると言えるだろう。

そして、この「経験」を抜きにしている内は、私たちは精神分析に満足できないだろうし、精神分析の根本的な経験とは何であるかも知ることはできないだろう。

*****

«L'amore spera, perché immagina e immagina, perché spera. Spera che cosa? Di essere esaudito? [...] Non perché esse [la speranza e l'immaginazione] non desiderino ottenere il proprio oggetto, ma perché, in quanto immaginato e sperato, il loro desiderio è stato già sempre esaudito. [...] Se oggetto della speranza è l'inesaudibile, è solo in quanto insalvabili - già salvi - che abbiamo sperato nella salvezza. Così come supera il suo esaudimento, la speranza oltrepassa anche la salvezza - anche l'amore.» (pp.73-74)

「愛はイメージするが故に望み、また望むが故にイメージする。何を望むのか? 叶えられることを?…それら〔望みとイマジネーション〕は固有の対象を得ることを欲さないからではなく、しかし、イメージされ望まれる限りで、それらの欲望は既に常に叶えられているからである。…もし望みの対象が叶えることができぬものであるなら、私たちが救済において望んだことは、ただ救済不可能なものたち—既に救われた—としてのみである。その成就を越えるままに、望みは救済も—愛も—越えていく。」(了)