ラカンが〈一〉をプロティノス的な流出として捉えたのは、〈一〉の内在的な本質と、現象的な出現を区別しなかったからではないだろうか? 例えばだが、光を流出物と考えたギリシャ哲学者は、エンペドクレス、デモクリトス、ゴルギアス、プラトンといるようだが、アリストテレスはそのような考え方に異を唱えている。これはあくまで、アナロジカルな推理でしかない。だが、仮に個物が〈一〉なる本質をある仕方で持つにせよ、それがデュナミスとしてなのかエネルゲイアとしてなのかという問いは立てられる。
運動と媒介という様態(振動)があってこそ、〈一〉は〈一〉として感覚化されるだろう。もし、直接的に何の媒介もなく、〈一〉として充足しているものがあれば、それは〈一〉としてすら感じないだろうからだ。これが、ラカンにおいては“絶対的差異”という幾分奇妙な言い方で述べられる所以だ。実のところラカンは、ある中間領域を問題にしている。感覚において〈一〉は、無限との間のあるアクセントとして置かれるのだ。
《だから、身体は、生まれつきそなわった、触覚能力の中間媒体であり、それを通して複数存在する感覚が生じるのでなければならない。》——アリストテレス『心とは何か』, p.126
《…すべてのものの感覚は中間媒体を通して行われるが、味覚と触覚のばあいには、このことを見逃してしまうからである。…〔略〕…私たちはいま、それらのものに直接触れていて、中間のものをとおして触れているのではないと思うのである。》ibid., p.128
エクリチュールとその意味論的ないし書記素的な感覚も、ある中間項の媒介作用はあるだろう。つまり、エクリチュールによる直接充足の夢は、やはり夢でしかない。書き手というのは書く時、触覚的な感覚がある。これがある意味、触覚対象の媒介性やエクリチュールにおける中間性をも見えなくしているのだ。〔書く者の盲目性ないしは視野狭窄〕
《しかし、触覚の対象が視覚の対象や聴覚の対象と異なるのは、他の感覚では中間媒体が私たちに作用を及ぼすことによって、それらを感覚するのに対して、触覚対象の感覚では、中間媒体“によってではなく”、中間媒体“とともに”感覚するからである。》ibid., p.128〔“”による強調は引用者〕
《…触覚の感覚器官は内部にあるということである。なぜなら、そうなっているときに、他の感覚のばあいと同じことが起こるだろうからである。つまり、感覚器官にじかに置かれたものは感覚されないが、肉の上に置かれたものは感覚される。だから、肉が触覚の中間媒体である。》ibid., p.129
アリストテレスにおいては、感覚器官の“比例形式”がデュナミスである。つまり、感覚器官と能力は同じものであるが、それらの本質は異なっている。プシュケーは人間の場合は、中間項によって作用を受けるといえる。それは物質ではない。物質の“形相”が作用する。
そう考えると、ラカンの形式論理学化の試みもまた別の角度から検証できる。無意識の論理の“閾”が、プシュケーの中間領域を問題にしているとしたら? 無意識は物質の夢を見ない。むしろ、無意識の無〔の形式〕の創造性を考えるべきだろう。
«E il più difficile, in questa esperienza, non sono il nulla e la sua tenebra, in cui pure molti restano per sempre imprigionati - il più difficile è esser capaci di annientare questo nulla per far essere, da nulla, qualcosa.»--Giorgio Agamben, Bartleby o della contingenza, p.63
「そして、この経験において最も困難なのは、その中にただ人びとが常に囚われたままでいる、無やその謎ではない。—最も困難なのは、無から何かを存在させるために、この無を無化することができることである。」——ジョルジョ・アガンベン『バートルビー、あるいは偶然性について』(原著p.63)
運動と媒介という様態(振動)があってこそ、〈一〉は〈一〉として感覚化されるだろう。もし、直接的に何の媒介もなく、〈一〉として充足しているものがあれば、それは〈一〉としてすら感じないだろうからだ。これが、ラカンにおいては“絶対的差異”という幾分奇妙な言い方で述べられる所以だ。実のところラカンは、ある中間領域を問題にしている。感覚において〈一〉は、無限との間のあるアクセントとして置かれるのだ。
《だから、身体は、生まれつきそなわった、触覚能力の中間媒体であり、それを通して複数存在する感覚が生じるのでなければならない。》——アリストテレス『心とは何か』, p.126
《…すべてのものの感覚は中間媒体を通して行われるが、味覚と触覚のばあいには、このことを見逃してしまうからである。…〔略〕…私たちはいま、それらのものに直接触れていて、中間のものをとおして触れているのではないと思うのである。》ibid., p.128
エクリチュールとその意味論的ないし書記素的な感覚も、ある中間項の媒介作用はあるだろう。つまり、エクリチュールによる直接充足の夢は、やはり夢でしかない。書き手というのは書く時、触覚的な感覚がある。これがある意味、触覚対象の媒介性やエクリチュールにおける中間性をも見えなくしているのだ。〔書く者の盲目性ないしは視野狭窄〕
《しかし、触覚の対象が視覚の対象や聴覚の対象と異なるのは、他の感覚では中間媒体が私たちに作用を及ぼすことによって、それらを感覚するのに対して、触覚対象の感覚では、中間媒体“によってではなく”、中間媒体“とともに”感覚するからである。》ibid., p.128〔“”による強調は引用者〕
《…触覚の感覚器官は内部にあるということである。なぜなら、そうなっているときに、他の感覚のばあいと同じことが起こるだろうからである。つまり、感覚器官にじかに置かれたものは感覚されないが、肉の上に置かれたものは感覚される。だから、肉が触覚の中間媒体である。》ibid., p.129
アリストテレスにおいては、感覚器官の“比例形式”がデュナミスである。つまり、感覚器官と能力は同じものであるが、それらの本質は異なっている。プシュケーは人間の場合は、中間項によって作用を受けるといえる。それは物質ではない。物質の“形相”が作用する。
そう考えると、ラカンの形式論理学化の試みもまた別の角度から検証できる。無意識の論理の“閾”が、プシュケーの中間領域を問題にしているとしたら? 無意識は物質の夢を見ない。むしろ、無意識の無〔の形式〕の創造性を考えるべきだろう。
«E il più difficile, in questa esperienza, non sono il nulla e la sua tenebra, in cui pure molti restano per sempre imprigionati - il più difficile è esser capaci di annientare questo nulla per far essere, da nulla, qualcosa.»--Giorgio Agamben, Bartleby o della contingenza, p.63
「そして、この経験において最も困難なのは、その中にただ人びとが常に囚われたままでいる、無やその謎ではない。—最も困難なのは、無から何かを存在させるために、この無を無化することができることである。」——ジョルジョ・アガンベン『バートルビー、あるいは偶然性について』(原著p.63)