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メタファーと転移を巡る断片的考察 (5)

2017-03-20 20:35:58 | 精神分析について
先に、私は文体の良し悪しは“趣味”の問題だと言った。その文体が伝える像については、感覚の臆見であり認識ではないと、初期Nietzsche のレトリック問題に則して述べた。

このことは、Kant 的な“構想力”のテーマ、とりわけ『純粋理性批判』ではなく、『判断力批判』の側の構想力に関係しているようだ。 まず、構想力についての扱いが、『純粋理性批判』と『判断力批判』においては違うこと、そして、後者においては、認識判断ではなく、美的な趣味判断になることに注意しよう。

いみじくも、Lacan が『精神分析の倫理』のセミネールで欲望と美について言及した問題が思い起こされる。

Kant によれば、趣味判断は「単に観照的」であり、「この観照そのものは諸概念には向けられていない。というのは、趣味判断は(理論的にも実践的にも)認識判断ではないからである。したがって諸概念に“基づいておらず、また諸概念に達することを“目的としてもいない”」と述べている。

そう考えれば、精神分析における象形文字(図像-文字)とその解釈は、認識や悟性的な総合とも、切り離される問題と言えなくもない。 むしろ、このような美的な趣味判断の問題が、なぜ悟性的な認識判断と取り違えられるのかという問いは立てられるとはいえ。

この美的な趣味と悟性的な概念のあいだに、対象が占めるなら、それは不純な幻想ということにもなる。だが、この美的判断が観照する像と、悟性が総合的統一として包摂する概念とのあいだには、如何なる問題があるのか? そこに、空間と時間、直観と概念を位置づけできないだろうか?


転移の問題に則して言えば、この両者を、無意識における二段階仮説作業として、ここでは考察している。あるいは、視覚的に限定された像-メタファーが、如何にしてパロールの発話行為を通して、メタモルフォーゼするのか? ここに、精神分析的な“経験に固有な”時間性の問題もある。

Kant は、確かにこの問題を、“時間の観点”で考えている。 これは、美と崇高のあいだの問題になるわけだが、精神分析におけるメタモルフォーゼや昇華に伴う感情、主体的な時間にも変奏される。


言語上の転義に先立つ、「感官知覚の交換を示す転移」(Gustav Gerber) こそ、言語の出来事としての性格を語っている。

■Nietzsche の場合:
事物の表面→視覚形象(第一のメタファー〔転移〕)→語音(第二のメタファー)→概念

■Gerber の場合:
事物の表面→神経刺激→感覚→音声→表象→語根→語


Lacan の転移“概念”の形成は、その思想的な背景から鑑みても、Kant 的な悟性に侵食されている。確かに、Lacan もメタファーの重要性は見取ってはいる。 だが、“実際上の”転移とは先ず、「感官知覚の交換」を示す転移=愛だろう。転移における言語の「図像学的転回」が先ずある。

そう考えると、転移を“知の想定された主体”として定式化した Lacan の場合は、“概念上の”転移に限定されているという疑念も生じる。 概念も“色あせたメタファー”ではあるが、もっと言えばそれは“忘却における転移”だろう。


ここでの若干の考察においては、Nietzsche 的なパースペクティヴからの“仮象としての転移”という論点だけは、保存しておきたく思う。その否定的な役割が肯定的な役割に転換すること——その元にある経験が、“言うこと”の経験である——を含めて。


「眼からはわれわれは“決して”時間表象に到達することは“ない”だろうし、耳からは決して空間表象に到達することもないだろう。」Nietzsche

「というのは、始まりは或る限界であるが」Aristotélēs



□補遺(20170503)

ここでの一連の考察の中で、ある種の“偽装された論理性”を私は批判していた。これはこのような“論理への意志”がそもそものところ、“言語の情念”を切り捨てているように思えたからだ。同様に、真理についてもそれは言える。真理という時に、それは実践や行為の“パトスを伴う真理”なのか、それともこれを消去した上での、“形而上学的な態度”としての真理なのかでは、自ずと扱いは異なる。

例えば、星野太はロンギノスの『崇高論』を論じるにあたる際に、「崇高の五つの源泉」における「パトス」の位置づけに多大な留意をはらっている。「偉大な思考を形成する力」に続き「強く熱狂的なパトス」が生得的な要因として挙げられるが、パトスは単に崇高を形成する要素のひとつにすぎないの“ではない”。

ロンギノス自身、「時宜を得た真のパトス以上に崇高なものはない」と述べ、このようなパトスの重要性の示唆は、枚挙に暇がないという。 以下は、パトスとメタファーについてのロンギノスからの引用である。

《すでに比喩について述べてきたように、時宜を得た強いパトス、および真の崇高は、大胆な隠喩の多用に対する適切な解毒剤となる。というのもその本性上、それらはすべてを押し流してしまい、その必然的な効果として大胆な隠喩を求めるようになるからである。そのさい、聞き手は語り手の興奮を共有してしまっているがゆえに、そこでどれほどの隠喩が用いられたか、などと考える暇はもたないのである。》(ロンギノス)

つまり、パトスが、修辞学的な感染(転移の源泉)とも呼んでいい“メタファーの解毒剤”となるということ明言している。つまり、パトスは“メタファー的な転移の解毒剤”になる。

余談だが、星野は『崇高の修辞学』の中で、バークの『崇高と美の観念の起源』とロンギノスの『崇高論』のあいだに横たわる問題を、些か誇張気味ではあるが言い当てている。詳細は、星野の論述に譲るとして、結論だけここでは記しておこう。

「バークの言語論、およびそれと密接に関わる情念論において何よりも特筆すべきは、「音」のみを媒介とする「共感」の称揚であり、それに付随する「像」の排除なのである。」――星野太『崇高の修辞学』

ここでの考察は、精神分析的な文字と音声言語の問題を再考する一助になる。

メタファーと転移を巡る断片的考察 (4)

2017-03-20 20:19:58 | 精神分析について
言語という形象は、もはや図像学や修辞学的な転回と共に考えなくてはならない。 それらは元々、規則を侵犯するような問題さえをも含んでいる。

言語が隠喩形成への意志として考えられるなら、そもそも言語はレトリカルに、その形象を伝えるということを、働きとして持っているということになる。 Nietzsche と Aristotélēs を繋ぐ、“仮象のレトリック”というところまでは紹介した。

言語学的転回と図像学的転回は、アナロジーでもある。この観点は、近年の神経系人文学とも関係あるだろうし、Agamben も引き受けている問題でもある。

ここから、精神分析的な意味での「転移」を、もう一度考えてみよう。 その為に、転移という問題を、無意識の“二段階の仮説作業”として、そしてその間に働く力動性の問題として、問い直してみる。更に、解釈学的なアプローチや技法論の問題もあるだろうが、ここではあまり問題を限定しないで、問い直していこう。


そもそも、精神分析的な解釈は何を目指しているのか? 意味の生産-再生産ではないことは明らかだ。 それは図像-言語の“現れ”を目指している。それはまだ、視覚的な問題に限定されているとはいえ。

図像を見ることと文字を読むことは、同一視される事柄に属する。 ここには、依然として形而上学の欺瞞がある。

一点注意しなければならないのは、この図像を見ることと文字を読むことの同一視というのは、空間-視覚的な把握の仕方としてあるということだ。 ここに、転移において働いているメタファー的な像が、視覚において限定された問題に過ぎないことを指摘しよう。

だが、これを言葉として“言うこと”に結びつけた場合、この形而上学的な同一視の問題は、時間的な差異を伴った、音節の問題へとメタモルフォーゼする。 メタファーからメタモルフォーゼ。この変化に決定的な力を与えることが、言葉を“言うこと”に他ならない。

精神分析は、パロールにその力と効果を負っている。その言葉を話すこと、それは無意識の仮説作業の第一段階から、その次の段階への移行を準備する。 今まで知られていない、同一視のレベルの無意識を言う。そこに、転移的な力動の転回も存在している。

ここに、メタファーが感覚の臆見しか伝達しないことに意義がある。 メタファーにおける像は、ある微表しか際立たせない。それは、出来事の全体をも記憶してはいない。だが、それが時間的に音節化されるなら、問題は、生成の側に移行する。 ここから、第二の仮説作業が始まる。


[メタファーの形成衝動は、Kant 的な統制的概念として機能するのかという難問]


何れにしても、精神分析的な転移においても、主体の個人史における起源と発生の、両方が問われないとならない。 それは言語に起源を措定し、その内在する構想力の問題を問う仕方と、言語を発生の観点から問い、その出来事の経験と超越を問題化する仕方の、両面が必須ということだろう。

その両極が、正に転移の力動性を特徴付けている。そして、起源にある力は、愛やセクシュアリティと不可分である。

「過去の現前、それこそが転移の現実です」Lacan


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メタファーと転移を巡る断片的考察 (3)

2017-03-20 20:13:36 | 精神分析について
Lacan はある意味で、Saussure 的な記号論を、レトリック化した点で、評価できるのではないか? その結実が、学派のマテームだった。 だとしたら、それはロジックによらずに、パトロジックな伝達を仮象としているに違いない。その本義は、パトスとして伝達された文字を、再び“言うこと”に返還することにあるだろう。

こう考えてみよう。われわれは何故、ある文体を評価し、ある文体には心地悪さを感じたりするのだろう? もちろん、これは趣味の問題でもある。 だが、文体の良し悪しは、詩的韻律が最終的な判断の拠り所になる。 文体においては、論理的規則より、韻律的気息が優位だ。

そう考えるなら、文体(仮象として言語)は、音声の韻律的な響きや気息を、その最終的な拠り所として探し求めていると、言えないだろうか?

ここに精神分析の核心の問題がある。 “無意識の文字は、ある発話される韻律と沈黙のあいだにかかる仮象である”という問題が。



転移と無意識の問題を二段階仮設として考えよう。(Nietzsche がまた参照になる)

一つは「隠喩形成への衝動」、その次は「仮象による救済」。 一方が、無時間的なら、その次は、時間性が関係してくる。いずれにせよ、レトリックと音声を両輪で考えないことには、意味がない。 身体の出来事が、如何にして隠喩化され(転移し)、次に解消されるのか?

出来事としてあったもの(原因に位置する)が、結果のように錯覚されるのが、そもそもレトリカルな換喩による取り違えに起因するものだった。 (某ラカン派の記述=奇術とは、まさにこの、もっともらしい捏造に与するものだったと言える)

実は、Nietzsche が問題化する転移 Übertragung は、神経生理学と修辞学の両方に繋がる出典的な由来もある。ここから、Freud まではとても近い。

更に言うと、感覚というものは、もっともらしいこと(真実性)を論理として形成しようとする意志を内蔵しているということだ。ここに、語の転義(メタファー)の問題を見ていい。つまり、そのもっともらしいこと(真実性)のレベルの伝達というのは、誤謬に根ざすことになる。

これが、転移の第一段階。(※第二段階については、後ほど述べる)

しかし、Freud 的転移がそもそも、「原版の再版」だった。「隠喩形成の衝動」のみなら、別にロジック(とレトリック)だけでもよかったのかもしれない。だが、それでは精神分析を経験したとは言えない。

[理解したとしても、すべからく誤謬である]


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メタファーと転移を巡る断片的考察 (2)

2017-03-20 19:58:04 | 精神分析について
無意識というのは、言わば他のトポス—他の舞台—を捏造する。これが、人間の記憶の問題でもある。そして、その立役者的な語の転義が、メタファーだろう。

Nietzsche は、この記憶によって固定化される概念を“規則による虚構 regulative Fiktion”と呼び、論理的思惟と代数の公式について説明し、虚構、捏造された思惟、歪曲の技術という言葉を当てがっている。

これによるなら、メタファーにおいては、感覚の臆見が伝達されるということ、感覚的なものと知性的な精神の捏造や歪曲の技術のあいだに、虚構的な性格が存在していて、われわれの愚かさがあたかもそれらを、“現実”と認識〔錯覚〕し、経験している“気になっている”ということも、合点がいく。

ちなみにだが、Nietzsche が“規則による虚構”として具体的に挙げていることは、「自我、質量、もの、実体、個体、目的、数」である。

これらが、《つまりは“規則による虚構”にすぎず、この助けを借りて一種の恒常性、したがって「認識可能性」が生成の世界に置きいれられ、“捏造される”のである》(Nietzsche)。

そう考えると、精神分析について、捏造された概念でもって論文を作成する「技術」や、弁論における「記憶術」の問題が、“苦痛”や“良心のやましさ”という生理学と仮象の問題に変わり得る。


さて、ここから“欲望の原因”すら、ある種の誤謬推論によるものであることを導きたい。 何故、それは欠如で、出会い損ねるのか?

発生論的には、「原因と結果の取り違え」から欲望の原因が生じる。 だが、わたしたちは、欲望の原因がまずあるのではないかと夢想する。 欲望の原因と呼ばれるもの(欠如)は、本来は「原因と結果の取り違え」から、遡及的にしか見出せないものであるが。

ここに、プラトニズムの盲目性があることは、触れておきたい。 「欲望の原因」は、本来は、エイドスとイデアの取り違えからの“帰結”に比するべき問題なのだ。

このことは、後期Nietzsche においてはどう言われているか? 《「内的世界」の現象体制においては、わたしたちは原因と結果の時間関係を逆転させる》、《結果が生じたのちに、原因が想像されるということ》、《原因が結果よりもあとになって意識される》。

Freud 的な欲動 Trieb と外界の問題も、この地平ある。私たちの感覚刺激は、内部から生み出されたものであるのにも関わらず、それが外界からのものと、われわれは取り違える。 後からの帰結に過ぎない問題〔外界〕が、先〔時間的な原因〕にあるかのように錯覚される。

《中枢神経の興奮に対して、ひとつの原因が求められ、表象されるということ》、《それは過去の「内的経験」すなわち記憶にもとづいた手さぐりである。しかし記憶は古い解釈の習慣すなわち「内的経験」の誤った原因設定を保持しているのであって、……そのため「内的経験」はそれ自身の中に、すべての過去の誤った因果論的仮構の帰結を依然担い続けなければならないのである》。

Nietzsche はこの因果論的仮構の誤謬を“理性の本来の頽廃”と呼び、その誤謬は神聖化されていて、「宗教」「道徳」という名称を持っていると述べる。

「宗教と道徳とが定式化するあらゆる命題はこの誤謬をふくんでおり、僧侶と道徳の立法者とは理性のあの頽廃の張本人である」——ニーチェ『偶像の黄昏』


もはや、日本においては精神分析すらそうなりつつある。


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メタファーと転移を巡る断片的考察 (1)

2017-03-20 19:50:48 | 精神分析について
「しかるに、かの認識が究極目標として達成するものは、ただ、——破滅のみ、なのである。」Nietzsche


Lacan が Saussure から拝借したシニフィアンは、レトリックの問題と神経系の感覚的受容において惹起される微表なイメージを架橋しているとも、読めなくはないだろうか?

その中でも、語本来のレトリカルな在り方を示すのが、メタファーであり、転移の謎めいた性質も、これに帰せられる。それは認識の伝達ではなく、感覚の臆見の伝達である。

表音文字の文明においても、メタファーはそれよりも古い、象形文字としてみなされているということに留意がいる。


Agamben のニンファにも見られるが、哲学はなぜ概念を形象-イメージで伝達しようとするのか? あるいは、哲学とレトリック、転移 Übertragung の関係とは? 精神分析も、こういう問題を取り逃したらいけない。

Freud と Nietzsche を巡り、この転移 Übertragung による伝達が、メタファーやレトリック、神経刺激の量の問題、哲学で脇に追いやられがちな感性、イメージ、想像力のテーマをも含むことは、精神分析にとって示唆的だと言える。

つまり、古代的なレトリカルな問題が、無意識の象形文字と詩的な韻律を繋いでいるということでもある。 精神分析はやはり、文字とパロールの両輪を実践上のパラダイムとして保持していると言える。それは、理論的な認識の伝達ではない。

精神分析における転移は、語の転義である。 それは、感覚における刺激を、形象として移しているに過ぎない。

そう考えると、Lacan のシニフィアンの論理を、Nietzsche 的な記憶術の問題として、捉え返したくなる。この両者は、比較考察されてもいい問題を共有している。

シニフィアンは、“ロジックとしてのみ扱えば”精神の入墨と言いたい。 だが、シニフィアンを、“レトリックとして”感覚化すれば、身体の出来事になる。


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徳の活用と教育分析の問題

2017-03-09 12:00:03 | 精神分析について
アリストテレスの正義論(ここでは、『二コマコス倫理学』第五巻に限定する)で面白いのは、能力や学問においては、相互反対なことを結果することが可能という指摘だろう。 例えば、不正にそれらを用いれば、それらの有用性の反対の結果を生じさせる。 医学は健康も、病気をも生じさせることが可能である。

だが、「状態〔ヘクシス hexis〕」については相互反対なことが結果するというわけにはいかない。例えば、健康な「状態」からは、もっぱら健康なことが為されるに留まる。 これは、精神分析を考える上でも面白い。

※注:「ヘクシス hexis」は、ラテン語訳では habitus。邦訳は難しいが、アリストテレス倫理学の重要な概念。ここでは、岩波文庫版の訳に準じている。

精神分析を能力や学問の水準で考えるなら、その能力や知見を、名誉欲の“不正な”利用に歪め、全く反精神分析な帰結を生み出す。 まさに現在は、これが優勢である。だが、精神分析における教育分析の問題を、行為と徳、それらが生み出す「状態」に基礎を持たせるとしよう。

そうすれば、精神分析の伝達とは、倫理的徳の伝達であり(それは知識のようには伝達できない)、そのような徳の“活用〔クレーシス〕”に懸かっていることに同意できる。

つまりは、精神分析の知識の所有ではなく(それは、“不正に”用いるなら、反精神分析的な結果を生じさせる)、徳の“活用”において、教育分析の問題を考えればいい。

精神分析を学問上に限り、それで名誉を計るのだとすれば、精神分析は道を間違えるに違いない。そこからは、悪徳が栄えるだろう。

ちなみにだが、アリストテレスは「状態 hexis」についてはしばしば、その主体、それに関係ある基体〔ヒュポケイメノン=subjectum〕から知られるとも述べている。 この用語参照も、精神分析的主体を再考する上で重要な示唆になると思われる。

自らのパロールに従属した分析主体は、倫理的な「状態」の主体でもある。そのような「状態」を据えるようにさせるのが、精神分析的行為ではないだろうか?



†アルケー〔始原〕や、それを何らかの仕方で代理する政治は、エコノミーの問題にもなる。 事物の配置・配剤・分配に関わるのが、本来のエコノミーの語源(アリストテレスに由来する)であることは有名だ。

そう考えると、(症状のアナロジーとしての)無意識の政治経済学というのも、ある公平さが求められると言えまいか? 分析家は、それらをジャッジするわけではないが、少なくとも聴取においては、公平さを保持してはいる。

症状におけるリビドー量や疾病利得といった問題、セッションの料金の設定や時間に至るまで、何らかの「正」という観点は、あり得る。これらは、オイコノミア=エコノミーという包括的な概念でもって、測られる問題と言えるだろう。

※注:アリストテレスは、家政的な正〔オイコノミコン・ディカイオン〕と市民社会的な正〔ポリティコン・ディカイオン〕を別個に扱う。

初まりの経験

2017-03-08 09:41:28 | Essay
★Twitter に投稿したものの転載。


人間の有限性の経験こそ、認識論的な基礎なのだろうから、それを抜きにしては、精神分析も哲学も、科学さえあり得ないだろう。人間が生きている、それは無限でも無際限でもない。初まりがある時点で、人間は有限だ。

翻って、人間の初まりとは遡行的にしか原理的には見出し得ない。 初まりを見出して、はじめて人間は人間の有限性の経験をする。その意味で、人間の認識は、初まりから/の隔たりと遅れを伴う。

幼年期は遡行的にしか見出せないと言ってもいいかもしれない。それ自体としては既に存在しないものに捕えられているのが、人間なのだ。 存在欠如と言葉を話す人間、エクリチュールの問題とは、この人間的な経験において、認識可能なものとなる。

初まりに神をおくか、物語や神話をおくか、原理や質を保存した点をおくかで、人間のディスクールは多様な展開を辿る。 人間のディスクールというのはだから、幼年期の言葉を話さなかった頃の名残り、もどかしさを保存している。

欲望の躓きの極点とは、何よりも起源の問題ではなかったか? (幼年期の頃に、伝えたいことがあるのに、言葉を持たないがために伝えられないもどかしさを味わわなかった人はいるだろうか?)

だから、精神分析の核心的な問題は、起源や幼年期、それに捕えられているセクシュアリティ(つまりは、愛)の問題なのだ。 これを忘れてはいけない。精神分析だけが、それらを探究する方法を“知っている”。つまり、人間の“無知の知”を。

人間は人間の有限性を、忘れてしまいがちだ。



†主人のディスクール、無意識の根本的ディスクールの問題は、この意味で計られないといけない。

それは、フロイト的なエディプス・コンプレックスに限定されるものではない。起源への問いと謎、更には倫理的な行為といった、認識には属さない事柄をも含む、有限な人間の永遠性の問題なのだ。

徳と享楽、あるいは欲望

2017-03-06 15:00:43 | 精神分析について
勇敢〔アンドレイア〕とは苦痛に関する徳だが、節制〔ソーフロシュネー〕とは快楽に関する徳だ。 つまり、苦痛や快楽に対する態度でも、その人間の固有の徳が既に働き、問題にもなる。 なるほど、見せかけはそのような徳を装ってはいるが。

アリストテレスは快楽についても、魂に属するそれと肉体的なそれを区別している。例えば、名誉愛や学習愛の場合は、悦びを感じるのは知性=思考〔ディアノイア dianoia〕であるという。

アリストテレスにおいて、快楽は魂が感じると部位と肉体が感じる部位に分けられている。 われわれが、快楽について節制であるとか、放埒と判断するのは、快楽でも肉体に結び付いた部分に特定される。 ラカンの言葉ではまさに享楽、性感帯や特定の身体に固有な快楽だろう。

つまり、アリストテレスに則すなら、特定の情欲を催す快楽—精神分析的には、幼児のセクシュアリティや性感帯に結び付いた身体的な快楽—即ち、享楽に対する態度としての徳が問題なことにもなる。 断じて、安易に享楽を称揚し、享楽していればいい、享楽が解決というわけではない。


「節制は、だから、肉体的な快楽にかかわるのでなくてはならぬ。」
「節制ならびに放埒のかかわるところの快楽は、[…]人間以外のもろもろの動物にひろく共通する快楽であり、さればこそそれは、奴隷的な、獣的な快楽であると見られるのである。」
(『二コマコス倫理学』第三巻・第十章)


アリストテレスは、そのような奴隷的、獣的な快楽の源泉を、肉体の感覚の中でも、触覚と味覚に特定している。

(また以前に、ラ・ボエシの隷従論に則して、“享楽への隷従”というマゾヒズム的な問題を提出したことも強調していい。そこから、オイコノミア=エコノミーの問題にも伏線を引いた。)

味覚と触覚でも、味覚は殆どないしは全然問題にならなく触覚によって生じる享楽がすべて、と付け加えてもいる。 これは、精神分析的も興味深い。事実、精神分析において、分析家と患者の触覚的な接触は、何らかの仕方で禁止され、それは特定の情欲を刺激するからだろう。

そう考えると、そのような享楽の称揚が、理論的にも実践的にも、如何に間違った解放(*) の導き方であるかは、述べるまでもない。 何故、問題になっている事柄を解決であるかのように取り違えるかは、“精神分析の性目標倒錯化”として指摘しておいた。

(“解法”を“解放”と誤変換したが、あながち間違いでもないので、そのままにする。“制御なき解放”は危険であることも留意されたい。)


われわれは、精神分析を(目的や所有ではなく)手段と使用として導き、考え、実践する。


◆付記:

アリストテレスは肉体的な快楽についても、欲求(オレクシス)と欲情(エピテュミア)に分節している。この観点から、ラカンの欲望概念を照らし、享楽との関連を問うのも面白いだろう。

欲情は欲求の非ロゴス的なものである。ただ、この用語法は、アリストテレスにおいて厳密ではない。

だから、ラカンが欲望(とその原因)という用語に託した問題は、フロイトとアリストテレスを架橋するような射程を持つ。



†ギリシア哲学における、徳=卓越性〔アレテー〕の問題は、精神分析のもう一つの“実践倫理上の原則”、禁欲原則との関連があると結論していいだろう。

われわれは、この“禁欲”という用語法に、欲望の消極性や否定というよりは、欲望の積極性やその彼岸としての“愛の情念”(情動でも情欲でもない)を見ていいのかもしれない。その時、われわれはわれわれの享楽を上手く“治める”ことを学ぶだろう。