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per l/a psicoanalisi

ラカン派の問題点

2015-08-23 18:38:05 | Essay
★20150823のTwitterへの投稿

ラカンの教えを理論的にしか考えない連中には、フーコーのこの一節をお見舞いしたい。

《認識は世界の真理へと開かれているというより、むしろ生の誤りに根ざすものである。だとすれば、主体に関する理論は全て定式化しなおされるべきではないか?》Foucault, La vie: L'exp�・rience et la science


ラカン派、とりわけ現代のラカン派は句読法は意味を産出し、解釈妄想に結び付くらしい。しかし、パロールとエクリチュールを〔マテームにおいて〕区別しない学派がいうことだ。ここは慎重に扱うべきだろう。

しかし、エクリチュールにおいても既に、句読法が宙吊りの機能、統辞上のあらゆる結びつきを置き去りにする機能を帯びることを、ドゥルーズは指摘していた。


(Un point, c'est tout ; trois points, ce n'est pas tout)


ここで私は、ラカン派のサントームの臨床が如何に間違っているか、誤謬に根ざしているかの論拠を、ドゥルーズから得てしまった。

《人は内在的なものの内部で超越を考えたがっている。期待されているのは内在の断絶である。》——Deleuze & Guattari, Qu'est-ce que la philosophie

また、アガンベンの論文「絶対的内在」からも一説引いておく。

《宙吊り符はまた、この潜在的な領野にこの用語を連れこみ、「一つの」という冠詞が(新プラトン主義におけるように)冠詞に続く存在を超越するなどという可能性を排除してしまう。》——Agamben, L'immanenza assoluta


■追記(20150827のTwitterへの投稿):

「S1 の Aporia/Euporia」

マテームにもそもそも、認識上の問題があるが、S1→S2 を解釈妄想とするミレールの見方は、主体に“自律的意志”や“中心”という問題を再び引き込んでいるだろう。ミレールはある意味で、無意識を「超越」の身分にし、その上で“逆向きの解釈”という操作を施してしまう。

“症状の意味”を脱意味化するのはいい。だがそれでも、主体にシニフィアンの至上権を保存させる試みには問題が残る。

アガンベンは「パルデス:潜勢力のエクリチュール」という論文において、用語法の自己参照的構造について論及している。

《このように、自己参照は単語の聴覚的ないし書記的な一貫性を参照する。つまり、対象としての用語(中世の論理学者たちの言う「物質的前提 suppositio materialis」)の同一性を参照する。だとすれば、自体的には自己参照など一つもない。というのは、用語は世界の一切片を意味しているのであって、志向性を意味しているのではないからである。記号が指しているのは自体的には「志向 intentio」ではなく一事物、つまり「志向対象 intentum」である。》Agamben, Pardes: La scrittura della potenza (1990)


ここで問題なのは、ラカンの用語法それ自体の問題と、実際のシニフィアンは、単純に同列には扱えないというアポリアではないだろうか?

シニフィアンは連鎖することで始めて意味を得て、単独では無意味である。だが、そのシニフィアンを“論理記号として”マテーム化する試みは、そもそも用語の自己参照関係に置かれる。この両者を混同してしまうのが、誤謬であることは誰も指摘していない。

〈外示するという機能をもたず、一対象への一義的参照をもたない用語は、それでもやはり“何らかのしかたで”用語自体を自ずから意味している。〉Agamben, Pardes

フレーゲを真似てこう言っていいかもしれない。「シニフィアン概念はシニフィアンではない」。また、ジャン - クロード・ミルネール曰く「言語的用語は固有名をもたない (le terme linguistique n'a pas de nom propre)」。

《いずれのばあいにも本質的なのは、私がこれこれの「志向 intentio」を言わんとし、名を名づけようとすると、もはや私には言葉と物、概念と対象、用語とその外示の区別がつけられなくなるということである。》Agamben, Pardes

だとしたら、ラカンのシニフィアン・ユネール signifiant unaire の問題点とは最初から最後まで、その“思弁的な”「限界」ないし「制限」として、また読む者によっては外部性に向けて開かれた“境界線”として据えられないとならないだろう。

それは「痕跡」とは違うだろうが、ラカンの“到達点”ではなく、常に“限界点”に位置している境界概念と呼んでいいもののように思える。

フェティシズムと剥き出しの生

2015-08-23 17:07:21 | Essay
★20150823のTwitterへの投稿

ある意味で、汎フェティシズムの主体は快原理の主体なんだよね。ラカンが〈もの das Ding〉を語り始めた辺りから、主体の位相は変化したのだけど、それを“進歩”と受けとると馬鹿を見るだろう。また、後期ラカンを更に“進歩”したものと見てしまうのも単なる誤謬でしかない。

当然ながら、ラカンを完成者として見立ててしまうのも、全くラカンの意には反するだろう。

一番やってはいけないのは、ラカンをフロイト抜きで考えて、“理解の対象”にする読み方。むしろ、フロイトと付き合わせて読み、それが如何にして用語法もだが、問題の位相にズレが生じているかを、透視図法的に読み解くこと。まあでも、実際に精神分析の経験に繋がらないなら意味はないと思うけど。

意外かもしれないが、まあ当然と言えば当然なのだが、フェティシズムの主体を問うと“死の欲動”の問題がある時に前景化される。ラカンの“欲望”はシニフィアンの快原理の彼岸までをも射程に入れた問題だし、ドゥルーズの“欲望する機械”も、根底には“死の欲動”が裏打ちされている。

“一次ナルシシズム”の主体と“死の欲動”という問題は、ドゥルーズとラカン共に共通している。ただ、ドゥルーズにせよラカンにせよ、〈ナルシシズムの栄光〉の肯定=享楽〔創造や発明という倫理と結びつく〕に向かったことは、批判的な考察を要するだろう。

あらゆる主体がフェティシズムの主体、自我分裂の主体であるとは、どういうことか? フランスにおいてこれは、〈人格 persona〉の問題が、“剥き出しの生 la nuda vita”を産出しているという事情も絡んでいると読んでいる。

その意味では、ラカンのディスクール論は〈装置 il dispositivo〉であり、サントームは“剥き出しの生 la nuda vita”に他ならない。

エスポジトに関するノート(途中)

2015-08-12 17:00:32 | Note
——Roberto ESPOSITO : "TERZA PERSONA. Politica della vita e filosofia dell'impersonale"


◇序論

7《こうして、人格の観念は、分析哲学の伝統と大陸の伝統とを関連づける一方で、世俗の概念とカトリックの概念をも結び合わせているのである。》

8「…そうした人格そのものが有する、存在論的に絶対的な優位に関しては、疑問視されることもなければ、根本から問い直されることもなかったのではないだろうか。」

23〈……ペルソナの生政治的な肉体化と、肉体の精神主義的なペルソナ化とは、一見したところそう見えるのとは裏腹に、同じ理論的な圏域にくみこまれることになるのである。〉

31《なぜなら主体性 soggettività は、つねに服従 assoggettamento と主体化 soggettivazione という二重にして同時のプロセスのもとにあるからである。それは、権力が介入しても、けっしてすべてを制服することはできないどころか、つねに新たな抵抗の形が生み出されている領域である。いまだ不確かであるとはいえ、肯定的な生政治の輪郭が浮かび上がってくるのは、このような側面からである。この生政治は、近代の知/権力の装置にたいして、ネガで(否定的に)切り取られるものではなくて、その装置を横切り配置転換させるような、緊張の方向のうえに据えられる。》


◇第1章 二重の生(人間科学機械)

69《人間存在は、ある一定の言語を自覚的に話すどころか、主観的=主体的同一性に断絶を穿つようなかたちで、無意識のうちに言語から「話しかけられている」。人間は主体であるどころか、人間のあらゆる自覚的な活動において人間に先行し人間を規定する、言語という客観的なしがらみに生まれつき従属されている。》


◇第2章 ペルソナ、ヒト、モノ

108「法が人類と個人を統合することもできなければ、個人が法の装置のなかに本来の人間存在を認めることもできないのだ。」

113“ひと‐ペルソナは、キリスト教的な語彙の起源以来、三位一体を含意しているカテゴリーであるが、それとともに、理性をもった意志の担い手としての権利の主体である。”

123“結局のところ、法‐権利がそこ起源以来もっている独自の役割とは、包摂と排除の連続的な閾に従いながら、一様とは言えないひとつの連続体の内部にカテゴリーの区切りをあたえるという点に認められるものである。”

125“したがって、ここで重要なのは、そこから帰結するペルソナ化、ないし非ペルソナ化の効果だけではなく、ひと‐ペルソナとモノとのあいだに存在しる無限の中間段階であり、それはけっして完結することなく、たえず反転可能な移行をかたちづくっているのである。”


127“……その証拠に、ひと‐ペルソナという動的装置のなかでは、モノの世界から生へとたどり着いた人間は、つねに新たにモノの世界に突き落とされることがありえたのである。”


144〈もしくは、ペルソナの古い王朝は自分自身の政体に、その政体を覆しかねない生政治的装置をもかかえこんでいる、と。〉

146《……ペルソナの言語は、身体を超えた核を人間の内部に同定し、それを意志や理性といった用語で定義づけようとしたために、必然的に身体は——動物的であれ、植物的であれ、ある次元において、モノの領域と直接の接点をもつことになったのである。》


149「モノは、ペルソナの生の有限な切片にたいして先立っていたのか、それとも事後的にくるものなのか。存在はモノの状態から生じ、モノの状態へと還る、と言いうるのか。それとも、ペルソナとしての存在に先行したり、後に続いたりするものはけっして単純なモノではなく、むしろ、モノからペルソナ、ペルソナからモノへの道程の途中に位置した、いまだ‐ペルソナ‐でないもの non-ancora-persona や、もはや‐ペルソナ‐ではない non-più-persona ものではないのだろうか。」

152「この新しいあいまいな領域において、ローマ古代の“分割 divisio”は、それ自体にたいする反証とそれ自体から帰結する結論とを同時に見いだす、とも言えるだろう。もしペルソナのアイデンティティがモノの陰画のなかで、非‐モノとしての存在によって得られるとすれば、モノはペルソナが自分自身から区別し遠ざけようとするすべてが絶え間なく膨張する空間となるべく定められているのである。」

154「分類上の純粋さによって採用された二つのカテゴリー——一方には単なる“ゾーエー zoé”、他方に最大限の価値を詰め込まれた“ビオス bíos”——のあいだには当然、数珠つなぎになった中間段階があり、観察する視座に応じて上昇したり下降したりする人間性の閾を行ったり来たりしている。」

158「人格化 personalizzazione も非人格化 depersonalizzaione も、結局のところ、同じ一つの過程から枝分かれした流れであり、その生成に関しては古代にさかのぼるが、その影響力に関してはなおも減退からは程遠いものなのである。」


159《権利の概念は、それ自身の凡庸な性格のために、当然ながらペルソナの概念を背後にともなっている。というのも、権利はペルソナの問題にかかわるからである。権利の概念はこの次元に属しているのだ。権利という語にペルソナという語を付け加え、ペルソナの権利を含んでいるものを真の現実化と呼ばれるものへと繋ぎ合わせれば、いっそう重篤な悪を犯すことになるだろう。》S. VEIL, La personne et le sacré

160「ペルソナの独占的な装置と深く関連付けながらヴェイユがとらえているのは、権利がもともともっている排他主義的な性格、つまり同時に私的 privato でもあり占有的でもある性格である。」

161「聖なるものとは、人格であるどころか、一人の人間存在にあって、非人格的なものである。人間の内部にある非人格的なものはすべて聖なるものであり、それのみが聖なるものである」S. VEIL, La personne et le sacré

161《完全なるものは非人格的である。われわれの内なる人格とは、われわれの内にある誤謬と罪との部分である。神秘主義者たちのすべての努力は、みずからの魂のなかに「私は」という部分はもはや残っていないという境地に達することを、ただひたすらめざしてきた。しかし魂のなかで「われわれは」という言葉を発する部分は、さらに計り知れないほど危険である。》S. VEIL, La personne et le sacré


◇第3章 三人称

168「したがって、エゴがいかにこの他性の自律性を尊重し、その超越性を守ろうとしても、エゴはそれに覇権的な効果を及ばさざるをえない。というのもこの他性は、論理的にはエゴと同じ定義に従うものだからだからである。」

187このトラウマ的な出来事、
187三人称とは、それ自体としては、

189〈他者〉とは、

190あらゆる系譜は

195彼性はその二者間の弁証法を

199他者を前にした

205実際、「非人称的な」項が、
205中性的なものに関して

206それはいかなる
207「ある 」[il y a]
210こうした非人称化のプロセスは、

216そこでは、匿名的なつぶやき

219外は固定した限界ではなく、

226鏡の向こう側から、

229要するに、まさに
331よく知られるように、

240?ここから出発して

ヴァッティモに関するノート(途中)

2015-08-12 17:00:23 | Note
——Gianni Vattimo, La società trasparente (1989, 2000)


16-17《事実、ニーチェは、現実が一つの土台に基づいて合理的に秩序づけられているというイメージ(形而上学がつねに築き上げてきた世界像)が、未開でいまだに野蛮な人類特有の「気休め」の神話にすぎないことを暴き出した。すなわち、形而上学とは、危険や暴力に充ちた状況に対処するための、なおも暴力的な方法なのである。》

60《……つまり、夢を見ていると知ることと、夢を見続けること、である。近代のヨーロッパ精神の世俗化は、理性が犯した誤謬の発見と客観視というだけではなく、むしろ、さまざまなかたちでの、ある意味では、堕落したかたちでの、こうした「誤謬」の温存でもあった。世俗化した文化とは、宗教的伝統の内容をただたんに追放しただけの文化ではなく、むしろ、そうした内容を、歪められてはいるが奥深くに通底する隠れたモデルや痕跡として、活かしつづける文化なのである。》

79《とはいえ存在は、(ハイデガーが「物」に関するその論文で述べているように)その出来事の本質を「世界という鏡のいたずら」で歪められ「剥奪された」存在のうちにもっている。》