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per l/a psicoanalisi

アーレント vs. アガンベン

2021-05-30 21:24:00 | Note
《不正の極地とは、実際には正しい人間ではないのに、正しい人間だと思われることなのです。》——プラトン『国家』第二巻631A
 
《すべての人は善人か悪人かではなく、正しいか正しくないかではなく、その中間である。》——アリストテレス『形而上学』第五巻 22(1023a5)
 
 

アーレントとアガンベンを分つもの。それは、法概念に対する依拠と理解、そして絶対的なものに関わる。

しかし、哲学者の系譜でいうなら、それはプラトンやアリストテレスによって用意された。それは、「活動」の領域を「制作」のカテゴリーによって置き換えるという「始まり」の転倒であった。(その問題の発見によって、アーレントがプラトンからマルクスに至る「伝統」を批判したことは既に紹介した)
 
では、活動を制作に置き換えることの何が問題なのだろうか?(それは、人間事象の偶然性をあたかも必然であるかのように見せかけ取り扱い始めるだろうし、そのことに付随して「労働」が人間の活動的生 vita activa の上位に置かれるというヒエラルキーの転倒をも招き、それが近代社会——つまりは、労働者たちの大衆社会——の特色となり、公的な領域の消失や破壊に至る。そのイデオロギー化が全体主義なのだった)
 
そして、アーレントにとって私的領域はというと、支配-被支配の関係——家長、家族、奴隷の関係——であり、“前政治的な場”なのだった。もう一方で、“善”は公にされるのなら腐敗を撒き散らし、それは公的な領域からは隠されなければならなかった。(ここに我々は、政治的な“行為のパラドックス”という問題を先に見た)
 
では、アーレントが依拠した古代ポリスにおける政治的参加への自由と平等——両者を潜在的に印付け、死すべき運命の人間に永続性を与えるものこそ、アーレントが理解したギリシア的な法である——と、ローマ法を参照にもつアガンベンの何が違うのだろうか?(アーレントにおいても、古代ローマ法の参照はないわけではないが、それはアガンベンとは趣きを異にしている)
 
確かに、両者とも法における“絶対的なもの”の問題は保持している。アーレントにおいて、絶対的なものの掛け金は「卓越性 excellence」のそれであり、その活動力が公的な領域に自由と平等をもたらすのだった。(このようなアーレントのスタンスが理想論的すぎるという批判は数多くある)
 
一方で、アガンベンにおける古代ローマ法は「例外状態 stato d’eccezione」としても分析されたし、それはおそらくは至高の絶対者の声や命令を前提としていた。そして、この当初にアガンベンが“暗黙に”前提とする垂直方向の絶対性(アーレントのそれは水平方向だといえる)が依拠している哲学的な問題は、始まりと終わりをもつアリストテレス的なカテゴリーと交差するのだった(それは、世界性 worldliness というよりはコスモス kosmos, κόσμος と呼ばれ、神の被造物の領域でもある)。そして、アーレントにとって“始まりと終わり”を持つのは活動ではなく制作の方なのであるから(活動は始まりがあるが予見できる終わりはない)、アガンベンとアーレントを分かつののは、神的な問題と人間的な問題を巡っての「制作」というカテゴリーの問題でもある。ただし、アーレントによる“人間の政治的活動の制作化”への批判は、それが用意する支配-被支配関係に向けられただろうし(その意味では、その批判は否定的である)、アガンベンの場合は、有限であり偶然性により絶えずおびやかされている人間的事象(そこにはコスモスのみならず世界性も含まれる)やそれらの破壊に対する神的な「秩序」と毀損の回復—つまり、摂理や救済—という意味合いを持っている。(もちろん、アーレントにも救済—許しや約束—というテーマはあるが、それは人間的な活動の一環として考えられている)
 
人間の活動の場(公共性とも言い換えられる)を用意する世界が、人間の手によるものなのか、あるいはそこに神によって造られたという被造物の問題や神的な秩序を見るのか?
 
おそらくは、アーレントがおかした過ちは、自らが活動の問題を制作に置き換えるというプラトンからマルクスに至る伝統批判をしたものの、その公共性を用意する世界性の樹立が、人間の手によるものという循環論法を免れていない点にある。アガンベンは、そこに人間の無為の能力(非の潜勢力)や神学的な思考を挿入する。(確かに、アーレントが批判するプラトンの政治性—哲人王支配—は、その転倒によって vita activa から vita contemplativa に優越性が移ったという見方は一面の真理を言い当ててはいるし、それによって革命がまた新たな支配-被支配の関係を必要としていまう事態も生じている。だが、アリストテレスによるプラトン批判は、それとは別の領域に vita contemplativa の優位性を見取ったのではないか?)
 
政治をも含めた公共性の領域は、人間のみの活動の領域なのか? あるいは、そこに神的なものを認めなければならないのか? そこでの始まりと終わり(だが、活動には予見できるような明確な終わり=目的はない)は、どのような時の問題を孕んでいるのか? このような難問はまた、政治的なものの掛け金や善悪の問題でもあるし、それぞれの真理観にも影響を及ぼしている。一つ言えるのは、「現れ appearance」とは常に善であるとは限らないという事実の真理 factual truth—イデアの真理ではなく—である。そして、事実の真理とは、理性による信仰や信念では最早なく、“感覚の基盤”という共有されうる現実—中間領域—である。

《私たちはここで、プラトンとプロタゴラスのどちらかを選択する必要もないし、万物の尺度が人間であるのか神であるのか決定する必要もない。確かなことは、その尺度は、生物学的生命と労働の強制的な必然でもありえないし、製作と使用の功利主義的な手段主義でもありえないということである。》——アーレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫版p.273)
 
 
★この覚書は、言うまでもなく精神分析について私がした批判(論文作成術化と労働運動化)と繋がっているし、語の十全な意味において、理論と実践の問題点が考察されていなかったことも指示している。また、別のところで人間の“最初の”道具の使用が自尊心の問題と結びつくことも、ルソーを通じて既に指摘していた。
 
尚、アーレントは行為から支配への逃亡をギリシア語とラテン語の二種類の「行為する」という動詞の用法の変遷としても分析する。第一に、一人の人物が行う「始まり」を表す archein, agere があり(これらは、アルケーと語源を同じにし、エージェントという動因を表す用語も示唆している)、第二に、複数者からなる、行為の企図とその達成までを表す prattein, gerere である。今出敏彦 (2013, pp.122-123) によれば、第二のものが行為一般を指すものとなり、第一のものが政治的用語として「始まり」から「導く」、「支配する」へと意味が特殊化された経緯がある。
 
以下は、今出からの引用である。《行為の持つ意味が分離して後者の政治的用語としての意味〔引用者注:「導く」、「支配する」のことだと思われる〕が強調されると、さらに第二の意味がその内部において、一方では支配者の命令と、他方では服従者の命令実行へと機能分化を遂げて、行為の重要な側面である、複数者からなる生きた行為の流れの過程的性格が脱落する。こうして、行為を放棄して制作を採用することで生じる変形により、行為の概念は支配の概念に置換される。》(ibid., pp.122-123)
 
アガンベンもまた、違った文脈からラテン語の agere, facere, gerere の区別を分析しているが、このことについてはまた別所にて確認したい。そして、アーレントとアガンベンを別つ決定的な差異は、「始まり」や「起源」を巡った“制作(製作)のカテゴリーの”問題系でもあるが、両者はまた、行為や活動というアリストテレス的政治学——それは、演劇モデルを採用している——において、補完し合っているとも見ることができるだろう。(余談になるが、アウグスティヌスにとって根本的だったのは、人間の始まりを示す initium であり、世界の始まりを示す principium の方ではなかったということは敷衍すべきだろう)

解釈—知—解釈妄想ということについて

2021-05-20 21:08:00 | 精神分析について

おそらく、このロジックの導き方の問題は、言語の目的論—それが構造的なものであれ、ある種の時間の考えを内包しているのであれ—という枠組みに既にある。

 
だが、精神分析は言語を手段化しているとしよう。この手段とは、患者のパロールでも分析家の解釈でもどちらでも構わない。(実際に、厳密に理論上は、言語を目的論としているのは、患者のパロールから演繹している構造の方にある。そして、構造による意味-作用の産出が線型的な時間を既に前提としている。つまり、ランガージュの何らかの効果としての主体。)
 
言葉をその目的論的な因果性として理論上で前提として扱うことは確かにできる。だか、言葉それ自体を手段として考えれば、別に分析家の言葉ないし沈黙は、意味-作用やその分節化を前提にはしない。(臨床的には、奇をてらう“必要”—これも分析家の側の特殊な欲望と不可分である—もない)
 
では、ここでの言葉は何を導いているのか?(おそらくは、その理論が忘却している事態は、言葉による想起の経験と言葉それ自体の経験論の次元—どちらも、同じだとは言えるが—だろう。この二つの経験は、ランガージュによる真理の効果の経験とはまた異なるといえる)
 
 
無意識。ここでの意味は、フロイトが後に修正したように前意識のことである。
 
それが、翻訳というメタファーであったり、解釈が無意識を存在させるという事実性の水準であったり、無意識が解釈するという力点の変化—移動〔遷移〕—として言われている。
 
だが、ここに潜む暴論は、理論の枠組みが既に言語の目的論を抜きにしては成立しないというある種の限定である。(これに対し、言語の“目的なき”手段化、つまりは言語の行為や実践の側面をここでは提起している)
 
ちなみに、この目的論から考えられる(真理の効果としての)主体と、言語それ自体の経験やエスの経験のあいだには、無限という断絶が横たわる。想起の経験は、仮初にだが両者を架橋する。(美のイメージとしての想起、あるいは最初の愛)故に、その経験はまた、文字通り“試練”でもある。