ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

★自己紹介★

2019-06-01 00:00:02 | Weblog
1978年生まれ。埼玉県在住。精神分析家。


☆Twitterは→「@acephale315」まで。
※現在、運用しているSNSはこれのみです。



■□■お知らせ■□■

「アテネ人の amnēstia は単なる過去の忘却または抑圧ではない。記憶の悪用をしないことへの勧告である。」——アガンベン『スタシス』

«L'amnēstia ateniese non è semplicemente un oblio o una rimozione del passato: è un invito a non fare un cattivo uso della memoria.»--Agamben, Stasis, p.29

「といいますのも、だれかが悪い意図をもち、多くのひとたちをうまく説得すれば、それは町にとっては大きな災いですから。」——エウリピデスの悲劇『オレステス』より

☆セッションについての概要☆

2019-06-01 00:00:01 | Weblog
【精神分析セッション】を行っております。

【精神分析セッション】とは、精神分析技法を用いた、対話形式セッションです。

無意識に由来するトラウマやコンプレックスに、現実に向き合うことで、症状を含めた幅広い問題の根本的な解消を目指します。精神分析は、単なる一治療法に留まらず、幅広いあなたの悩みや問題に光を投げかけることでしょう。



【セッション概要】

■方法:

『電話セッション』もしくは『対面相談』

☆電話セッションは通常、skype・一般電話で対応しております。

☆対面の場合は、埼玉県近郊の喫茶店などを利用しています。(他の場所も可、ご相談下さい)


■料金と時間:

料金は固定では決まっていません。分析を行う者(分析主体、患者)の条件や状況により、個別で対応・設定をしております。お気軽にお申し出下さい。

*週一回ペースのセッションの場合は一回最低5000円ぐらいになっています。

尚、毎回のセッションの時間も、固定では決まっていません。それは、精神分析は無意識という領域を扱うという特殊な要請からくるものです。可変時間制を採用しています。


■契約形態:

月数回(最低でも週一回以上を推奨)のセッションを継続して行い、互いの同意の上に成り立つものです。

☆最初に、契約の大まかな取り決め等を行います。尚、どのようなものか知りたい方の為に、質問等もお受け致しております。お気軽にご相談下さい。


■ご予約・お問合せ:

【完全予約制】です。

ご質問などはメールでも承ります。こちらのアドレスまで。
gnosiseden★gmail☆com
(★をアット、☆をドットに変えて下さい)



■注意事項:

※セッションの内容等は、許可なしに外部に公表致しませんので、ご安心下さい。
※契約の際には、こちらの本名・住所・連絡先等を開示致します。
※近隣の方は契約の前に、お会いすることも可能です。(有料・約セッション一回分になります)

☆精神分析を実際に経験したい人の為に☆

2019-06-01 00:00:00 | Weblog
精神分析がどのようなものか?
精神分析には興味があるけど…。

実際に分析を経験したいけど、まだ踏ん切りや気持ちの整理がつかない人の為に、精神分析についての相談や話しは、Skype かお電話で無料で受け付けています。

その場で決める必要は全くありませんが、どういうものか興味がある人は是非、以下のメールなどからご連絡下さい。


gnosiseden★gmail☆com
(★をアット、☆をドットに変えて下さい)


«Senza associazionelibera non c'è psicoanalisi» Antonio Di Ciaccia
「自由連想なしで、精神分析はない」

規則と例外—知の盲目さと判断を巡って

2019-05-30 05:07:09 | Essay
1. 規則の知と例外の関係は、規則の知という「慣習」からは否定的なものとして導けないだろうか?

「我々の意見の一致」において、それはイエスだ。だが、例外を挟めば、それはノーだという具合に。「我々の意見の一致」、「慣習」、「自然史」という立場からは、それはイエスなのだ。根拠なしに。(緑は緑であり、それを赤というのは“間違い”だ。もし、緑を赤という者がいれば、「違う、それは緑だ」と教え、あるいは矯正=強制しようとするだろう。それに従わない場合は、そのゲームからは“排除”される)

規則の知において「正しい適応」を示さない者は、「我々のやり方」に準じさせるか、もしくは排除される。例外とは、規則の知においては何らかの否定性の符牒を帯びていて、排除の対象にもなり得る。

だが、そこからアガンベンの共同体論は考えられているといえまいか?

我々の「自然史」(自我理想的)から排除される、宗教的なもの(超自我的)の共同性とその規則。ここでは「規範」の意味合いが異なる。方や、盲目的に反応し、方や……?

盲目的に従うことには根拠が“ない”。まさに、規則の知からは排除される“例外の規則”は、この否定性の元に何か積極的なものを持っているように思える。否定性は、正誤の判断とは同列のレベルには置けない、別の判断ではないか?(イロニーの例、あるいはフロイトの判断論の例)

こうともいえる。もし、「我々の意見の一致」に則り事が進んでいる場合、我々はそれを判断しないで済んでいる。ゲームが円滑に進んでいる場合、我々はそれをいちいち疑問にかけないだろうし、それについて判断をなくしても従うこと(=盲目的反応)ができる。

だが、判断の必要性が生じる時は?

もし、そのゲームの決められたやり方に従わない者がいれば、それは判断の必要性を呼び起こす。つまり、規則の知(盲目的)についての判断は、その否定的な例外により為される。

盲目的な規則の知(意見の一致)があり、その判断がある。だが、判断の必要性はその規則の根拠のなさに由来する、否定性を原理として為される。ここに我々は、フロイトの判断論、否定性、例外、排除の問題を再び見出す。

規則の知とは、判断という意味では例外の規則のことでもある。だが、規則の知における“正誤”と例外の規則による“判断”は、対称的ではない。排除されるのは規則の知にとっては“間違い=誤”だし、だが判断が可能になるのは排除された“例外の規則”からである。

そして、実践という言葉は、そのような盲目的な反応(=繰り返し)についても言われるのだった。その場合の実践は、カントの言葉に即して考えれば「自然概念」への適応ということになる。(この場合、自然の原因と人間の意志は同一レベルに置かれているといえる)


2. つまり、自然史(自然概念)における規則の知とは、例えるなら「赤は赤である」といった類いものでこの規則に従うことが実践とも呼べる。

最初の赤は感覚的であり、二番目の赤は概念でもある。つまり、感覚の個別性(確信)が普遍的な概念(言葉)に包摂されている。(概念の赤は、赤くはないだろう)

概念としての赤は、赤くはない。(もし、炎という言葉を書いて、それで暖を取ろうと思えば、なかなかその人は滑稽ではある)

いずれにせよ、規則の知は“規定的”である。

だが、問題となっているのが、感覚的な確信として赤の微妙なニュアンスだとしたらどうだろうか? その微妙なニュアンスが問題なのに、我々は赤という言葉でその固有性(≒個別性)を“規定的に”包摂し、理解した気になる。

同一性を介して結びつく規定的な判断における自然原因と“実行する”意志。感覚的確信と概念。この知には、盲目的なところがある。その自明性が既に。


3. 美において自然と倫理が“絶対的に”隔てられる。その隔てられた超感性的な領域が、宗教的なものでもある。

だが、その分節化は元は感覚から発したものであって、理知的なものからではない。(理知的なものが行為に結びつくのが、つまり盲目なのだ)

自然概念と自由概念の裂け目。分離の根源はそこに位置する。両者の立法的なアプリオリに対する「超過」。また、これは理性による「乗り越え」や「克服」、あるいは「超克」でもない。

分離とは、元々は宗教的な問題であった——。それは、自然概念と自由概念からのある超過を含んでいる。


4. ウィトゲンシュタインの問題は、言語と世界が対応する写像の論理とその彼岸(事実ではなく価値、即ち倫理的なものや宗教的なもの)に向けられている。

そこに、“語ること sagen”から“示すこと zeigen”への向き変えがある。

命題とは像を持っている。言い換えればそれは、意義があるということに他ならない。つまり、それは語りうる論理である。だとすれば、倫理的な意図とは世界を変化させないだろう。そのような意図は、価値の問題なのであり事実の世界とは対応しないのだから。

だが、逆に倫理的な意図とは世界ではなく、“世界の限界”を変える。倫理的なものの意図や意志。それは世界ではなく、世界の限界への働きかけ(行為)だと見ていい。

意図/意志は語られうるか? それは示されるしかない。だとするなら、私の意図とは私の世界(言語や論理の)の限界を語りえぬものとして示している。だが、これは独我論の一面ではある。そこで問題なのは、ある限界に位置する関連づけられた意図に他ならない。

では、倫理的なものと宗教的なものとは、如何にして峻別されるのか? それはどちらも、自然の領域からはある「超過」を持っている。何故ならそれらは、事実の問題ではなく価値の問題になりうるからだ。ここに人間の「両義性」を見ることはできる。人間は自然にも属するが精神でもある。

自然である人間がある倫理的な意図ないし意志を持ち、世界の限界に働きかける。ここには自然にはない「超過」が働いている。だが同時にそれは、“私の”世界の限界にも位置している。このような“私”が“神”と向き合うところに宗教的なもの(即ち、人間の精神)がある。そう考えれば、ウィトゲンシュタインはキルケゴールに近い立場にいることが分かる。倫理的なものと宗教的なもののあいだにある葛藤、あるいは両義性。

沈黙により示されるしかない神秘。そこでは理性はもう役には立たない。理性の要求に従いそれを解釈し、理解する試みは頓挫する。キルケゴールの場合は、そのような信仰(の葛藤)は、「倫理的なものの目的論的停止」といわれる。それは、理性では到底理解はできないので、神秘として(理性の沈黙として)示される以外にない。


5. 我々は今、カントの判断力の問題からキルケゴールやウィトゲンシュタインに至る倫理的なものと宗教的なものの領域を見ている。だが、それは理性の眼によっては見えることはない。

語りえぬものについては、語りえない(不可能)・語ることができない(不能)だけではない。沈黙“せねばならない”のだ。ここに宗教や神秘を巡る萌芽が既にある。理性の饒舌なお喋り。それを慎むこと。それを知る者は、信仰の何たるかを確信している。


6. 先に、概念としての赤は赤くはないと述べた。

概念としての赤は、「赤」という意味の総体としてあり、それはその言葉の意味作用と意義の両方を持つ。それを、「赤」と呼ぶのは恣意的であり、別に「共産党」という言葉でその色を指してもいい。これは、言語の“述定作用=定義 definition”の側面でもある。

つまり、それは赤以外との連関において赤なのだ。言葉の述定作用においては、その言葉はそれ以外の言葉に依存しているし、それ以外の言葉との関係において初めて意味を持ちうる。

だが、「これを赤と名指す」と言った時の「赤」とは何か? こういう問いの中に既に、語ることと示すことの違いがある。

「これは赤い。」(述定作用=定義)
「これを赤と呼ぶ。」(名辞化=指名)

後者は、名辞化と呼んでいいのかもしれない。これは、象徴化にもある方向があることを示している。仮にこう呼んでおくが、「名辞化=指名 nomination」とは解釈でも説明でもない。語をある概念に包摂しているとも言えない。

君を太郎と呼ぶことは、太郎という概念に君を包摂することとは違うだろう。


7. では次にこう考えてみよう。

ある人が君に、太郎を呼んでこいと命じた(もちろん、そこには君が太郎というある特定の人物を知っているという前提がある)。君はまず太郎を思い浮かべ、その人物を探すだろう。太郎という言葉を聞いて、その言葉を(他の言葉との連関で)解釈するとは考えにくい。

仮に、太郎には瓜二つの兄弟がいたとする(太郎には左の口元にホクロがあるので、その瓜二つの兄弟・二郎と見分けるには、そのホクロが手がかりになる)。その場合、太郎の“現実の”識別には、太郎と二郎という言葉(名)の近接性(概念)には寄らずに、ホクロの有無ということが鍵になる。

もちろん、ここで言いたいのは名にも概念の近接性があるということの他に、名辞化(太郎と呼び名指されていること)はイメージと現実を繋いでいるということでもある。

もし、君が太郎を呼んでこいと言われ、名の概念の近接性に頼るだけなら、君は現実の太郎と二郎(ホクロの有無)は見分けがつかないだろう。論理としてのみ記号や命題を考えてしまえば、君はある現実の識別を見失う。

では、君が無事太郎を見つけ、太郎を連れてきた。その時君は何をしたのか?

太郎には左の口元にホクロがあり、二郎にはない。君は太郎と二郎という言葉(名)を述定化しないで、記号として扱うことができたということではないか?

ある与えられた概念を他の概念に連携しなければいらないとは、奇妙な誘惑に思える。確かに、我々はある言葉を聞くと、それが他の概念と必ず連結すると考えてしまいがちだ。それも「思考」と呼ばれる。そこでは、思考は常に「心的過程」として考えられている。

確かに、媒介項としては「太郎には左の口元にホクロがあり、二郎にはそれがない」ということを解釈しているとも言えなくもない。だが、君は太郎と二郎という名を、概念の連携として扱わず、記号として使用したということはできるだろう。


《思考を「心の働き mental activity」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。》——ウィトゲンシュタイン『青色本』(訳書p.20)

《我々は、意識された心の働きを述べることと、心の機構とでも呼べるものについての仮説を述べることの区別をたやすく見過ごしてしまうのである。》ibid., p.95

イロニーへの緒言

2019-05-04 02:21:17 | Note
1. 『イロニーの精神』(ウラディミール・ジャンケレヴィッチ)

■gramma と pneuma

《思考が媒介による遅れをも承認するのは、遠慮しているからではなく、思考自身の命題が良質になるためである。》

gramma が知らないことは、否定の否定が元の肯定とは全く質の異なるような肯定であり、直裁であることよりも迂回を経る方がより大きな効力を持つことの表現の妙味だ。それは、pneuma の身振りですらある。

《……苦悩と不幸とを混同してしまう人たちは、神聖なイロニーの擬装を理解できない人と同じである。》


■美における停止と知性の病気(知性の目標それ自体がその障害物であること)

掴む掴まないのはやはり、当人の問題だろう。掴まない者を助けることは誰もできない。天使すら。

ましてや、他人に余計なお世話をする馬鹿者は尚更。人を助ける必要はなく、自分が助からなければならないのに。掴まない者については、どうしようもならない。天使 l'angolo とは、必要なイロニー l'ironia bisognosa の謂い。

そして、救済とは厳密には、人助けとは無縁だが、現実に対する時間との関わり方においてその都度要請される何かだ。

イロニーは、それが惑わす者を同時に助けようともする。だが、掴む掴まないは惑わされた者の圏内で、イロニカーの側ではない。

だが、惑う者は文字 gramma から霊 pneuma に跳躍するからこそ助かるのであり、再び意味に戻るなら、それは元の木阿弥でしかない。書くことが「目的」にある人は、やはり見せかけに留まらずを得ない。


■分析家がイロニカーなのか、分析家の運命がイロニーなのか?

(運命の十字架があたかもイロニーのように振る舞うこともある。)

あるいは、ソクラテスとキリストの違い。ソクラテスはイロニカーであり、キリストはそうではない。

ソクラテスがエゾテリックであるなら、キリストはミステリックである。それらは、広義にはスキャンダラスでもある。

(こう言うべきかも知れない。片や、理性のイロニーである。片や、運命のイロニーであると。理性のイロニーはペルソナのマスクであり、運命のイロニーはペルソナの十字架のミステリーであると。)

「好ましく、しかも偉大なものは、すべて逆説的である、とフリードリッヒ・シュレーゲルは書いている」という。

いずれにせよ、gramma が pneuma に跳躍するとは、エゾテリックかミステリックかではあり得る。その道は分析家すら分からない。だが、道は目標ではない。道を渡ることそれ自体(つまり、行為)が目標である。

《イロニーは唐草模様である。イロニーのおかげで、同じものはすでに同じではなく、別のものとなり、意識はみずからの伝統に背をむける。》


■レゾン v.s. 身振り

レゾンに対しノンを示すのは、イロニーの身振りなのか? その時、意志はパラドックスとして転倒される。

ある種の才能は、自分の才能を決して見せはしない。それは、最大限の能力を発揮させる為の配慮でもある。だが、見せかけの才能を弄ぶような輩は、半ばでいつも折れてしまう。これも、イロニカルな身振りではある。示さないことにより、かえって示し、また逆もありうる。だが、イロニーは欺瞞(虚偽意識)ではない。欺瞞をやり過ごす術すら、イロニーにはある。

一方で、見せかけの才能が弄ぶのは、虚偽意識においてである。確かに、それにもレゾンは働く。

つまり、イロニーは一段上手でもある。欺瞞の論理を逆手にとり(パラドックスとして呈示し)、その論理をかえって自らの意志として手段化する。

だが、それが何故、犠牲や死としてのドラマを伴うのか?

それが、犠牲のための犠牲ではなく(それは計らずしてより大きな利益を得る)、死のための死ではない(それは、復活する)にも関わらず。

あるいは、この上なく器用な不器用さ。

《キルケゴールによれば、偽善者とは自分を善人にみせようとする悪人であるとすれば、他方イロニストとは自分を悪人にみせかける善人のことであろう。》

「きわめて明白にあらわれた弱さは、すべて力である」——パスカル

《ひとり強者のみが、弱くなる権利をもっている。》

《否定は、判断に対する判断であり、したがって肯定の遠回しな言い方、あるいは迂言法であるゆえに、間接的で副次的なのではないだろうか。否定は肯定することへの羞恥であり、それは、常に突進しようとまちかまえており、絶対的になろうとしているわれわれの生来の独我論的傾向をおさえるエポケー〔判断中止〕である。》

つまり、「ではないかのように」とは、遠回しの「イエス」なのだ。これ見よがしに知者ぶる連中には、注意しよう。

ここでも、虚偽(意識)の連続性に対し、イロニー(的な身振り)の不連続性という問題を、我々は見出す。


2. 精神分析におけるイロニー

「感じる能力のない者に、わからせるなど出来るものではないのである。」——カフカ「断食芸人」

■無意識のイロニーと偶像崇拝

精神分析の概念は、頭で理解するものではないし、それが頭で理解しても全く役には立たない。それは、イロニーを通じて教え導く以外に方策はない。

だから、情熱のない人間、知識で教えようとする人間は実際は教師にはなれない。彼らは不甲斐なさという在り方しか示さない。

例えば、精神分析の解釈はある意味を狙っているわけではないということを承知しつつも、自らの論文作成においては充実した意味を目指している輩もいる。——この不甲斐なさとは一体?

解釈が目指すのは、意味の空虚のはずである。これを別名、「否定性」と呼んでもいい。だが、自らの論文作成術において「享楽の肯定」(あるいは、物質性)のような詭弁に堕する人間がいる。——この不甲斐なさは一体?


■師と弟子

例えば、師が示すものは何か? 弟子は、師に対し、自らの願望や空想により、ある肯定的な概念を付け加え、身勝手な物語をでっち上げ、それに安心し胡座をかく。だが、師が示すのは、自らの「否定性」の根拠以外ではないのだとしたら?

だが、否定性は忘却されるか穴埋めされるかして、様々な偶像とその崇拝が捻出される。

翻って、こう問うこともできる。我々は、仮に師と称する者の教えと導きを「直接的な確実性」の下に把握し、理解することができるのかと。だが、それはただの誘惑でしかなく、その教えや導きを歪めることにならないのかと。

仮に、無意識の「概念」を措定してもいい。それは、主体の内で「イロニー」として再現される以外ではないのだとすれば? そう考えれば、師の教えはある意味では、そのような無意識のあり方に忠実だということにもなる。だが、早急な連中はそれを実体化し、肯定的な外観を与える努力をする。

そう、それも努力ではある。我々は、根拠なきものの根拠のために、努力すらするのだ。それが見る者からすれば、虚しいにも関わらず。

キルケゴールは「イロニーは愛における否定的なもの」という見解を述べている。それは、エロスにとっては“抽象的な規定”と呼べる何かだろう。


■分析におけるイロニーの二重分節

解釈が、言語として構造化されている無意識をイロニー化し、同時に分析家の空虚の場としてもイロニーを導くというべきか? その場合、イロニーは二重化される。方や、反語としての記号的なイロニー。方や、その場として否定性としてしか顕現できないイロニー。〔言葉の身振りとしてのイロニーとソクラテス的な立場としてのイロニー〕

前者の記号的なイロニー、レトリックは無意識における複数のコンテクストを認める立場に主体を置く。だが、後者の否定性のイロニーは、それらコンテクストの成立が実際は根拠がないことを明かす。この揺れ動きこそ、実際の分析の場面において主体を反復的にドラマ化してもいる。

分析における解釈と沈黙。これを二つのイロニー的な分節化と呼んでもいい。(ここではまだ、フモールについては触れない。)

それは、アルカイックなものの符牒でもある。外部から見るなら神秘的にも写る秘密の蝶番。レトリック的なものとソクラテス的なもの。——アルカイック、欲動の太古性。

(結局、論文作成術化—その目的論化—という道はある種のコードに逃げ込んでいる姿なのではないか?

もちろん、イロニーと冷笑は区別されなければならない。イロニーは、単なる皮肉屋の冷笑—その袋小路における躓き—とは全く違う相貌がある。また、イロニーは嘘でもない。イロニーが真に敵にするものこそが、生真面目な連中の嘘である。)


■ラカン的主体の主体化

主体とは、何らかの根拠や理由があって主体になるのではない。もはや根拠や理由がない地平で「決断」することにより主体になる。

その意味では、ラカン的主体こそが主体にならなければならない。こういう逆説は“論理の弄び”とは違う。それは「行為」である。

では、ラカン的主体は如何にして主体になるか? 決断だと先に言った。以前までの考察で、私は既にヒントは出している。宗教的には「向き変え」や「回心」、精神分析的には「退行の作業」、あるいは両者に共通しそうな言葉で言うなら「断続的な覚醒」(連続的な蒙昧化ではない)。

真理とは、客観的な真理のことではない。客観的な真理が“説明”される時、人は主体的な真理が何たるかを忘れ去り、「内面化」がどういう事態であるかも気づかなくなる。実は、フロイトにおいてもこの問題は残されていた。死の欲動が思弁のままなのか、あるいは主体化の真理として(超自我として)内面化されるのかというテーマとして……

ここから、悟性的な認識—理論の問題—と信仰—実践や行為の問題—の関係を問うことは有益だろう。両者は連続などしてはいない。それは、キルケゴールの言葉においては「パラドックス」と呼ばれ、「客観的に不確かなものを無限の情熱をもって選びとる冒険」とも言い換えられる。

(ヘーゲルにおいては、有限精神と無限精神の関係は連続的であり、同質的であるが故に、「直接的」である。キルケゴールの場合は、有限者と無限者との間には“質的差異”がある。)


「信仰のくだす結論は、推論 Schluß ではなくて決断 Entschluß である」——キルケゴール『哲学的断片』


悟性的推論の力では最早把握できないパラドックスを主体的に選び取るところに真理があり、信仰が存在する。それを、ラカン的な“真理のパトス”と呼んでもいい。つまり、ラカンにおける“真理のパトス”は、その「イロニー」や「パラドックス(という冒険や選択)」と不可分である。


3. 実定性と装置

実定性 la positività と装置 il dispositivo は、イロニーの関係にある。

実定性とは、自然現象の有限な〈一〉への外在的な措定(肯定)としてある。それは、未だ内面化されていないという意味においては、根源現象であろうと同じである。

だが、装置 il dis-positivo(否-肯定的なもの)において、それはどのような様態に置かれるのか?(ラテン語の接頭辞 dis- には、「分離」の意もある)

これが、アガンベンにおいては神学的救済論の射程になることは言うまでもない。だが、実定性と装置の問題は、広義には有限のものと無限のものの間のある関係を問いに付してもいる。方や、始まりと終わりがあるもの。方や、永遠に属するもの。(永遠においては、始まりも終わりもないのは明白だろう)

つまり、享楽の肯定性あるいは物質性といってみたところで、それは有限の“人間の”享楽—その現象的な制限—なのだ。だが、それが“神的なもの”と真に向き合った時に、我々は実存の問題に真に導かれ、主体的な立場を再び選び取る。

ここにおいて、我々は現象と本質が、ある差異を伴ったものとして“経験”され、単なる自動的で同一的な反復としての“愚かさ”から自由になる。あるいは、両者のオイコノミア oikonomia の“質的な”差異としての、経験=試練 experimentum の道を通る。

(その意味では、終わりある分析と終わりなき分析の問題は、実存的な要請を絶えず神的なものとの関係において、開いておくことになるだろう。)

「イロニーは否定的なものとしてある道である。真理ではなく道である」——キルケゴール『イロニーの概念』


4. “キルケゴールにとっての”イロニーの道

キルケゴールにおけるイロニーは、彼の実存思想とキリスト教的な問題の両面に渡ってもいる。この二面性を我々は「例外」(聖なるものの犠牲≒死)と「救済」(イメージの理念性)として、アガンベン的テーマに引き寄せて考えることができるかもしれない。

絶対的無限否定としてのイロニーは、主体を例外の立場におき、倫理的段階に導くことを許す。だが、このような倫理的な主体は、法の「犠牲」にもなる。しかし、倫理的な問題の犠牲になる主体は、如何にして贖われ、救済されるのか? イロニーを通じて、倫理的なものと宗教的なものの極限が予見される。ここに我々は、ソクラテスとイエスを顧慮しなければならない。

(イロニーはキルケゴールの位置付けでは正確には、審美的なものと倫理的なものの矛盾を明かすのだった。しかし、“イロニカー=ソクラテス“の立場にとっては、極限では法の犠牲という問題が付き纏う。)

審美的段階、倫理的段階、宗教的段階。——これらも、直線運動のように進展・進歩すると考えてはならないだろう。これらは、ボロメオの結び目のような入り組み方をしているに違いない。


キルケゴールによれば、ソクラテスはイロニーにその身を捧げ、犠牲になった最初の哲学者である。その師のあり方は、審美的な段階にあるエロスの魂に、倫理的なものの覚醒を導くのだった。

だが、ソクラテスは法の犠牲になる。

“絶対的な“無限否定の道。その意味では、ソクラテスとドイツ・ロマン派は、“批判的な”立場としては共通のテーマがある。ソクラテスにおいては、“主体性の運動”が前景にあり、ロマン派においては“理念の客観性”が主体を滅却させることに重要性が置かれる。

犠牲という意味では、このようなイロニーの主体性の運動—ソクラテスの立場—と客観性の優位—ロマン派的にはそれはイデーである—は矛盾していない。実は、キルケゴールはこの両者を“内的に” 折衷させる必要性があったのではないだろうか? それがあたかも、ヘーゲルを論敵にするという外観を呈してはいても。


5. 美のイメージの二極性と信仰上の闘い

美のイメージにおいて既に、倫理的なものと宗教的なものは交叉している。それは、只のイメージではなく、根源のイメージである。分離の根源として機能するイメージは約束、つまり名である。

だから、論理や議論ばかりで名を自らの体系に包摂させることに腐心する連中は、救いようがない。名の機能は本来、言語活動の論理とは別の地平—本来の歴史性、現実の歴史—を開く。

君の名に賭けてとは、神(の名)への誓約に等しい。そういうイメージは、絶対的に否定的である以外にない。そう、歴史は頭の中のイメージ—言うなれば、ポジティヴなイメージ—ではないということに、錯覚の世界の住人は気づかない。そして、その論理で歴史をでっち上げる。

イロニカーの敵は、論理でいつも身の潔白を証明しようとしている。(だが、そのような腐心の裏には既に嘘がある。意図的な嘘が。)

「信仰は証明を必要としない。否、証明を自らの敵とすらみなさなければならない。」——キルケゴール『後書』

経験と救済—フロイトの心的装置のメカニズムとアガンベンのメシアニズム的身振り

2019-02-07 04:24:29 | Essay
救済とは何か——?(あるいは、経験とは何か——?)

それを記憶との関連で考えられないだろうか?

記憶には、無限の受け入れ作用とそれを再現するような力が備わっている。記憶における無限の受け入れ作用。それが、物質的な「表面」であることはいいだろう。だが、この表面——知覚-意識 W-Bw システム——に徴された記録は、“知覚の内容”を保存はするが“持続的な痕跡”は保存しない。

厳密に言うなら、心的な装置の表面-物質(知覚-意識 W-Bw システム)は、“記憶の内容”を保存する役割を担っており、“記憶痕跡”ではない。この知覚-意識システムのシステムの下にある「記憶システム」は、受け入れた興奮の持続的な痕跡を保存する。

フロイトが述べるところによれば、知覚システムにおいて発生する意識という現象は、(記憶システムの)持続的な痕跡の“代わりに”発生するのだという。

フロイトはこのメカニズムを説明するために、「マジック・メモ」という市販のボードを採用する。マジック・メモは二層になっており、その度に記載内容は消滅するが、刺激を受け取るセルロイドと、刻印された内容を保存しているパラフィン紙に分かれ - 接触している仕組みになっているのだという。外部からの刺激を受け取るセルロイドは、その下の痕跡を保存するパラフィン紙の〈刺激保護〉にもなっている。だが、本来の刺激を受け入れる層は、パラフィン紙である。

つまり、記憶の“登記のメカニズム”において、心的システムの表面は外界からの刺激を保護し、実際の持続的な痕跡を保存するのは、その下に記憶システムに存している。そして、意識はその記憶システムの痕跡の“代わりに”発生するのだった。


ここに、端的に言うなら、経験と救済の問題を見ることができるかもしれない。

経験とは知覚の無限の受け入れの表面を構成し(それが、無意識の経験やエスの経験であれ)、一方で、救済とはそれが記憶システムに痕跡として保存されることに由来している問題である。

だが、保存 con-serva〔共に-救済〕された痕跡は、時宜を得てまた再び意識に現れてくる。

《この装置は、“分離されているものの、互いに結びついた二つの構成要素——システム——に分割されているため”に、この両方の機能を結合するという問題を解決できるのである。》(Freud, 1925)

《人間の心的装置では、刺激を受け入れる層である知覚-意識 (W-Bw) システムは、持続的な痕跡は形成せず、記憶の基礎はこれに接触する他のシステムが担当している。》(ibid.)

つまり、前者に「経験」を、後者に「救済」を重ね合わせている。だが、経験とは実際は、外界からの〈刺激保護〉の役割も得ている。

確かに、マジック・メモでは一旦表面に記載された文字が消去されてしまえば、その下の痕跡は“再現”はできない。だが、人間の記憶のメカニズムにおいては、「再生」の力が備わる。つまり、経験は、その都度一度限りの儚く消え去るような性質をもつ経験でしかないが、それが痕跡として記憶に保存される限りにおいては、再生する。

その意味では、経験と救済は相互排他的な性質を持っている。意識と記憶が相互排他的な性質を持つように。


‪ここに私は、アガンベンの「身振り il gesto」の問題さえも見ないではいられない。‬

«Questa tensione carica di motilità, questa speciale temporalità messianica e non lineare del gesto, si può esprimere anche attraverso la sua incessante ripetizione.» (Agamben, Per un'antologia e una politica del gesto)
「この運動性を帯びた緊張(この特殊なメシア的で非線形的な身振りの時間性)は、絶え間ない反復を通じても表せられうる。」(アガンベン「身振りの存在論と政治学のために」)

«Questo fragile equilibrio non è una negazione - è, piuttosto, una scambievole esposizione, non una stasi, ma un reciproco tremare della potenza nell'atto e dell'atto nella potenza.» (ibid.)
「この儚い〔脆い〕バランスは否定性ではない。むしろ、相互的な呈示であり、静止ではなく、しかし、現勢力における潜勢力の、また潜勢力における現勢力の相互的な点滅〔揺れ動き〕である。」(同)


《マジック・メモの場合には、外部からの接触が断たれるが、心的装置についてのこの仮説では、刺激伝達の流れの不連続性によって接触が断たれる。そしてマジック・メモでは物理的に接触が断たれるのであるが、わたしの仮説は知覚システムが定期的に励起されなくなることによって、外部との接触が断たれると考えている。さらに、知覚-意識 (W-Bw) システムにおけるこの不連続性が、時間概念の根本ではないかと考えられる。》(Freud, 1925)


フロイトとアガンベン——。両者が時間性の根本的な性格の内に不連続性や非線形性を見とっている事実は、奇妙な一致と言わざるをえない。

アガンベン『グスト Gusto』(2015, Quodlibet) の紹介と注釈

2019-01-07 21:32:19 | Agamben アガンベン
〔タイトルの Gusto は、イタリア語で“味覚”の意以外に、“美的な様式や好み、楽しみ”といった含意もある〕


1. 知識と快楽 Scienza e piacere

未だ知恵の実を食べ、楽園失墜に追いやられた君たちに、どのような情熱があるだろうか? 知恵が情熱の在り処を隠すなら、それこそが我々の探求の狙いだろう。君たちの生の情熱。一体いかほどか? 君たちの知らない知とは、味覚としての知だとしたら? あるいは、未だ快原理に属している(盲目の)知と、“別の知 altro sapere”のあり方の識別。

(党派性に根ざした闘争心。これは、限界にしかなっていないという証拠だろう。やがて、君たちは知識によって、知識故に苛まれる。)

あるいは、別の?

«L'estetica moderna, a partire da Baumgarten, si è costruita come un tentativo di indagare la specialità di questo «altro sapere» e di fondare l'autonomia accento alla conoscenza intellettuale (...).» p.12
「バウムガルテンから始まる近代美学は、この“別の知 altro sapere”の特殊性を探求し、また知的意識の横に自律性を創設する試みとして構築された。」

つまり、ここでは君たちの“知的意識 la conoscenza intellettuale”(論理的意識や概念でもある)から隠れた「情熱」の問題を、味覚という感覚機能(感覚的認識や直感でもある)を通して接近しようとしている。

«Solo perché verità bellezza sono originalmente scisse, solo perché il pensiero non può possedere integralmente il proprio oggetto, esso deve diventare amore della sapienza, cioè filosofia.» p.13
「ただ真理と美が根源的に分裂しているときのみ、ただ思考が完全に固有の対象を所持できないときのみ、それは知について愛すること amore della sapienza、即ち哲学になるだろう。」

このことは精神分析的に見ても面白い。哲学、つまり知を愛することが根源的に真理と美の分裂、固有の対象の非所持により成り立つのだとすれば、それは精神分析が実際には哲学に近い立場にあるということではないだろうか? つまり、ここでは意識が快原理(の主体)の固有の対象—それが、“新しい”知識であれ—保持することが重要なのではない。それが、真理と美のあいだで根源的に“失われている”ことが重要なのだ。それ故に、人は(未だ快原理に囚われたままでいる)利害関心からの出口を見いだすに違いない。


2. 真理と美 Verità e bellezza

美しい花と花の美しさの違い。無知でも美しい花に目は止まり、時には心も奪われるだろう。だが、「花」の美しさとは? 知識を通じて見た場合の美とは?

《君は美しい。》——この場合、美は形容詞だ。
《君には美しさがある(ように私には見える)。》——この場合、美は抽象名詞であり、存在と所属の問題に遷移されている。

花の美しさ。あるいは、美しさがある(ように思える)。いずれにせよ、盲目ではある。無知ではないかもしれないが、盲目ではある。だが、どうしてか? 何か混乱してはいまいか?

イデアとしての美。これは、プラトンの弁証法の根源的なパラ-ドクサだろう。恋する者の葛藤。知識故の盲目と、実際上の問題。あるいは、プラトンの美的弁証法とソクラテスのアイロニカルな弁証法の根本的な位相差?

果たして、美しさ / あるいは美は目に見えるのか?

«Il paradosso della definizione platonica della bellezza è la visibilità dell'invisibilità.» p.14
「美のプラトン的定義のパラドックスは、不可視性の可視性である。」

«La visibilità dell'idea nella bellezza è, infatti, l'origine della mania amorosa, che il Fedro descrive costantemente in termini di sguardo, e del processo conoscitivo che essa pone in essere, il cui itinerario è fissato da Platone nel Simposio.» pp.14-15
「実際、美におけるイデアの可視性は、『ファイドロス』が忠実に眼差しという表現で描写する愛の妄想〔熱中、固定観念、強迫観念〕と、それが『饗宴』におけるプラトンから囚われた行程である、存在に据える認識の過程の起源である。」

つまり、アガンベンは美におけるイデアの可視性を、プラトンが囚われたままでいる愛の熱病 la mania amorosa として、また、それを存在に据える認識的過程の起源として問題視している。その場合、その熱病と認識的過程の固有の対象は、プラトン哲学においては“失われている”と見なせるだろう。そして、それが眼差し sguardo として表現され、同定されていることにも留意がいる。

繰り返す——。美におけるイデアの可視性とは、愛の熱病 la mania amorosa と、それが存在 essere へと据える認識的過程 il processo conoscitivo の起源にある問題である。そして、そのような(不可視性の)可視性が、美のプラトン的定義のパラドックス il paradosso でもある。

ここで、我々のテーマに戻ろう。美が、存在において見出される(そのように見える、つまり見せかけや眼差しの位相)とは、一体どういう事態なのか? 我々はそうプラトンから遠くはない。

«Nello stesso Simposio lo statuto di Eros nell'ambito della conoscenza è caratterizzato come medio fra sapienza e ignoranza e, in tale senso, paragonato all'opinione vera, cioè a un sapere che giudica con giustezza è coglie il vero senza poterne, però, dar ragione.» p.15
「当に『饗宴』の中で、意識の領域におけるエロスの身分は知識と無知のあいだの中間として特徴づけられており、この意味において、真の判断、つまり的確に評価する知に比せられており、またしかし、それについて根拠〔理由〕を与える能力なしに真理を掴む。」

«Ed è proprio questo suo carattere mediale che giustifica la sua identificazione con la filosofia» p.15
「そして、哲学によってその同一性を認めるこの中間的な〔媒介的な〕特性こそが、固有である。」

この二文は、解釈が難しいだろう。エロスにおける知識と無知の中間性の身分の特性が問題であり、それは的確に判断するある知 un sapere に比せられる。それに根拠を与える能力なし senza poterne dar ragione に、それは真理を掴む。これは、完全な根拠を与えるような知恵=学識=賢明さ sapienza なのではなく、ある無知 ignoranza とのあいだの中間性の知 sapere であると言えるかもしれない。そして、哲学が同一性を認めるのは、この中間的な〔媒介的な〕特性であり、それこそが固有である。この固有性は、対象の“失われた”固有性(の非所持)とは、“別の”あり方をしているに違いない。

«Sempre nel Simposio, l'itinerario amoroso è descritto come un processo che va dalla visione della bellezza corporea alla scienza del bello (toû kaloû máthēma) e, finalmente, al bello in sé, che non è più né corpo né scienza» p.16
「『饗宴』において常に、恋〔愛〕の行程は肉体的美のヴィジョンから美の知識 (toû kaloû máthēma) に向かい、また最終的に、もはや肉体〔身体〕でも知識でもない、それ自体における美に向かう。」

«Il compito paradossale che Platone assegna alla teoria dell'amore è, dunque, quello di garantire il nesso (L'unità e, insieme, la differenza) fra bellezza e verità, fra ciò che vi è di più visibile e l'invisibile evidenza dell'idea.» p.17
「プラトンが愛の理論に委ねるパラドクシカルな役割は、要するに、 美と真理のあいだの(つまり、より可視的であることとイデアの不可視の明白さのあいだの)結びつき(統一性と、同時に差異性)を保証するそれである。」


例えば、天上を見上げ星座を美しいと思う。このような星座は、科学 la scienza としてあるわけではない。つまり、可視性の美以上のものとして天の星座を見るが故に、それは心に美しく思える。

«La bella varietà delle costellazioni celesti non può essere, come tale, oggetto di scienza» p.17
「天の諸星座の美しい多様性は、このように、科学の対象ではありえない。」

«Ma solo se si potesse fondare un sapere delle apparenze in quanto tali (cioè, una scienza del bello visibile), sarebbe allora possibile affermare di aver veramente «salvato i fenomeni».» p.18
「しかし、ただもしこのようなこと(つまり、可視的な美の科学=知識)に関して、現れの知 un sapere delle apparenze を基づかせることができれば、真に《諸現象を救済した salvato i fenomeni》ことを認めることができるだろう。」

«L'epistēmē, di per sé, non può che «salvare le apparenze» nei rapporti matematici, senza pretendere di esaurire il fenomeno visibile nella sa bellezza.» p.18
「エピステーメーは(それ自体としては)数学的な諸関係の中で、その美において可視的な現象を消尽することを要求しないで、《現れを救済すること salvare le apparenze》以外しえない。」

我々は教義のリーズニング(イタリア語では ragionamento)やその知恵、または学知=知識 la sapienza, o la scienza に依ることではなく、現れの知 un sapere delle apparenze に向き変えることを学ぶ方がいいだろう。

«Per questo il nesso verità-bellezza è il centro della teoria platonica delle idee.» p.18
「このため、真理-美の結びつきは諸イデアのプラトン的理論の中心である。」

«La bellezza non può essere conosciuta, la verità non può essere vista: ma proprio questo intrecciarsi di una duplice impossibilità definisce l'idea e l'autentica salvazione delle apparenze che essa attua nell'«altro sapere» di Eros.» pp.18-19
「美は知られえず、真理は見られえない。しかしこの二重の不可能性の絡まり合いが、エロスの《別の知 altro sapere》においてそれが実現する、現れのイデアと確かな救済を定義するそのものである。」


† ここまでで我々は、我々の問題を見失わないために、以下のようなこれまでの足取りを振り返っておくことが有効かもしれない。

経験における、「古い-同じ-別の-新しい」という問題を我々は巡っていた。ここでは、根本的な新しさは、知識の側ではなく経験に位置しているのだった。だが、この経験における同一性の変容を、我々はどのように考えることができるのだろうか? 変容を、眼差しの深さに見出すのは、未だ知識の深さという微睡みや錯覚からは逃れていないことを意味するだけであった。

つまり、我々は新しい経験とそれによる変容の可能性について、「別の知 altro sapere」(Agamben) という様態の基に再発見しなければならない。根拠を理性の側ではなく、「美の現れ l'apparenza del bello」(Carchia) の方に置かなければならない。

論理の見せかけ sembiante から美の現れ apparenza ——。そこに、諸現象の救済 la salvazione dei fenomeni のテーマがあった。そして、それはある種の経験主義を持っている。
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«La teoria platonica dell'amore non è, però, soltanto la teoria di un sapere altro, ma, anche e nella stessa misura, la teoria di un «altro piacere».» p.20
「愛のプラトン的な理論は、だが、ただ別の知の理論なだけではなく、しかし、また同じ尺度において、《別の快楽 altro piacere》の理論でもある。」

«La frattura della conoscenza che Platone lasciava in eredità alla cultura occidentale è, dunque, anche una frattura del piacere» p.21
「プラトンが西洋文化の遺産の中に残していた意識の割れ目は、したがって、快楽の割れ目でもある」

“il problema estetico del gusto, che è, insieme, un problema di conoscenza e di piacere, anzi, nelle parole di Kant, il problema dell'«enigmatica» relazione del conoscere del piacere” p.22
“趣味=味覚〔美的センス、テイスト、好み、楽しみ〕の美学的問題(同様に、意識と快楽の問題でもある)は、むしろ、カントの言葉において、意識と快楽の《謎めいた》関係の問題である”


3. 享楽する知と認識する快楽 Un sapere che gode e un piacere che conosce

この gusto というイタリア語は多義的であり、快楽 piacere と享楽 godimento の両方を含み、その両者のあいだの問題の繋がりと亀裂をも呈示している。もちろん、この用語は恐らくヨーロッパの美学的テーマの転回点を指し示してもいる。

«Il gusto appare infatti fin dall'inizio come un «sapere che non sa, ma gode» e come un «piacere che conosce».» p.22
「趣味 gusto は事実、最初から《知らずに、しかし楽しむ知 sapere che non sa, ma gode》として、また《知る快楽 piacere che conosce》として現れる。」

享楽とは、逆説的には意識と快楽の間の“無意識の謎”だとしたら? だとすれば、享楽を意識において知ることはナンセンスであるばかりか、無駄にしかならない。何故なら、それは“知らずに non sa”楽しむような知 sapere だからだ。ここでも、享楽の“理論を知る者”は、実際には頓挫してしまう。

美と享楽の結節点としての趣味——。この主体の亀裂が明かすのは、知られない享楽=知 godimento-sapere と享楽されない快楽=意識 piacere-conoscenza の問題である。美と真理のパラドックスは、イデアの可視性と不可視性の問題として、先に措定された。次は、美と享楽である。これら二重のパラドックスと亀裂。我々はこの両者の移行と断絶に、ミステリーの構造を読み解いたばかりである。

さしずめ、piacere-sapere を巡る美学的判断の“謎めいた関係”(Kant) とは、主体においては美と真理のパラドックス、そして快楽と享楽の亀裂としてミステリー化されているとでも言うべきだろう。このテーマは、エコノミー(オイコノミア)の問題と通底する。そしてまた、ここで我々が思い出すのは、フロイトによる意識と記憶の相互排他性という無意識の痕跡—つまり、それこそがミステリーである—に由来する分裂である。

† 無意識には、救済(経験論)と神秘(エコノミー)の問題がある。とりわけ、記憶痕跡における相互排他性—意識のパラドックスと快楽と享楽のあいだの亀裂。
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«In questa prospettiva, il gusto appare come un senso soprannumerario, che non può trovare posto nella partizione metafisica fra sensibile e intellegibile, ma il cui eccesso definisce lo statuto particolare della conoscenza umana.» p.27
「この見方において、趣味 gusto はある定数以上の感覚として出現する。それは可感的なものと叡知的なもののあいだの形而上学的な分割における場を見出すことはできず、しかしその超過は人間的意識の特殊な規則を定義する。」

p.28??? «Un tale senso,

«In questa prospettiva, il bello, come oggetto del gusto, finisce con l'assomigliare sempre più all'oggetto della sorpresa, che Descartes, con espressione significativa, definiva appunto come “cause libre”: un oggetto vuoto, un puro significante che nessun significato ha ancora riempito.» p.30
「この見方において、(趣味の対象としての)美は、意義深い表現でデカルトがまさに“自由の原因 cause libre”—未だいかなる意味内容も孕まないある純粋な意味作用である、空虚な対象—として定義していた、驚きの対象により常に類似するに至る。」

«Nella sua formulazione più radicale, la riflessione settecentesca sul bello e sul gusto culmina così nel rimando a un “sapere”, di cui non si può rendere ragione perché si sostiene su un puro significante (Unbezeichnung, «assenza di significato», definirà Winckelmann la bellezza), e a un “piacere” che permette di giudicare, perché si sostiene non su una realtà sostanziale, ma su ciò che nell'oggetto è pura significazione.» pp.33-34
「より根本的な公式化において、美と趣味についての18世紀の省察は、こうして“sapere” —それについてはある純粋な意味作用(Winckelmann が美を定義するだろう、Unbezeichnung《意味内容の不在》)の上に支えられるので根拠〔理由〕は与えられない—と、ある実体的な現実性の上にではなく、対象において純粋な意味作用化=表示 significazione であることの上に支えられるので、判断することを可能にする“piacere”への参照において頂点に達する。」

端的に述べれば、趣味としての il gusto は、“sapere” と “piacere” という用語参照の上に、その問題の射程を持っている。


4. 超過する意識 La conoscenza eccedente

«Il giudizio di gusto è, in altre parole, un'eccedenza del sapere, che non conosce (un «giudizio con cui non si conosce nulla»), ma si presenta come piacere, e un'eccedenza del piacere che non gode [...], ma si presenta come sapere.» p.36
「趣味判断は、他の言葉の中で、知らない(《それによって何も知られない判断》)知のある超過であるが、しかし快楽として現れ、また、享楽しない快楽のある超過であるが[…]、しかし知として現れる。」

«In queste parole di Kant è ancora presente in tutta la sua enigmaticità l'originale fondazione platonica dell'idea attraverso la differenza-unità di bellezza e verità. Come l'idea platonica, così anche l'idea estetica kantiana è tutta contenuta nel gioco fra una possibilità e impossibilità di vedere (di immaginare), fra una possibilità e un'impossibilità di conoscere. L'idea è un concetto che non si può esibire o un'immagine che non si può esporre. L'eccedenza dell'immaginazione sull'intelletto fonda la bellezza (l'idea estetica), così come l'eccedenza del concetto sull'immagine fonda il dominio del sovrasensibile (l'idea della ragione).» p.39

「カントのこの言葉においてまた、全きその不可解さの中に、美と真理の差異-統一性を通じたイデアのプラトン的な根源の基礎が現れている。プラトン的なイデアとして、このようにまたカント的美学のイデアも、見ることの(イメージすることの)可能性と不可能性のあいだの、知ることの可能性と不可能性のあいだの戯れの中に全て含まれている。イデアは提示されえない概念であるか、または、掲示されえないイメージである。知性〔悟性〕についてのイマジネーションの超過は美(美学的理念)を設立し、このようなイメージについての概念の超過として、超感覚的なもの(理性の理念)の領域を基礎づける。」

アガンベンによるプラトン=カントの美学的理念の解釈。この事こそが、フロイトにおける自我理想とそれを引き継ぐ超自我の問題系を接ぎ木している。


5. 知の主体の彼岸へ Al di là del soggetto del sapere

サイエンスの規定 lo statuto della scienza とは何か?——それは、知られている知 sapere che si sa に他ならない。これについては論証〔根拠〕が与えられうる di cui si può dar ragione 。(また、アリストテレスにおける学=エピステーメーの定義を思い起こしてもいい)

一方、快楽の規定 lo statuto del piacere とは何か?——ある知を所有に根拠づけることができないということだ。(その意味では、ラカン的な主体は快原理の主体としては正しい。その主体は真理と知のあいだで分裂している)

だが、そのような主体は科学的な主体であるのか? 意識においては然りだろう。理論上はそうも読めるし、そう踏襲する人間もいる。だが、その分裂は無意識においてであり、意識はそれについて不能と不可能という様相に置かれている。

一方で、意識と快楽の関係があり、他方で無意識と快楽の規定がある。意識—知—快楽について、我々は論証を与えることができるだろう。理論においてもそれは可能である。だが、無意識と快楽という規定を考えた時に、主体はその知を所有することはできない。ここに、再び経験の問題を見ることは容易い。

«L'oggetto e il fondamento di questo sapere che il soggetto non sa è designato come bellezza, cioè come qualcosa che, secondo la concezione platonica, si dà a vedere (tò kállos, «il bello», è la cosa più apparente, ekphanéstaton), ma di cui non è possibile la scienza, ma solo l'amore; ed era anzi proprio l'esperienza di questo impossibilità di afferrare l'oggetto della visione come tale (di «salvare il fenomeno») che aveva spinto Platone a configurare l'ideale della conoscenza non come un «sapere» in senso etimologico (una sophía), ma come un desiderio di sapere (una philo-sophía).» p.42

「主体が知らないこの知の対象と根拠は美として、即ち、プラトン的着想によって、見られはじめるだろう何か(tò kàllos 美)—それはより人目を引く ekphanéstaton 事物である—として規定される。しかし、それについて科学は可能ではなく、ただ愛のみが可能である。そして、それは寧ろ正に、このような(《現象を救済すること salvare il fenomeno》の)、プラトンが語源的な意味における《知 sapere》(sophía) としてでなく、知の欲望 (philo-sophía) として意識の理想を形作ることに至らしめたヴィジョンの対象を掴むことの、その不可能性の経験であった。」

〔続く〕

経験と新しさのあいだで

2018-10-17 17:32:58 | Essay
1. 私の言いたい「経験」とは、近代の権威的な人物が、あいつには「経験」が足りないと言ったりするような「経験」ではない。むしろ、そのような「経験」が全く成り立たなくなっていったのが、私の世代だったし「経験」が権威により保証されていた時代感覚は希薄だった。それでもやはり、「経験」という以外には自分には言いようがない何かが、私を捉える。

超越論的な経験を思い起こせばいいのか? あるいは、「経験の剥奪」に変わる“別の”あるいは“新しい”経験という問題に腐心しているだけなのか?

例えば、戦争から帰還した兵士がそこに何か“伝達しうるような経験”を携えていたのかと言えば、ベンヤミンの診断を待つまでもなく、彼らにはそのような「経験」が何もなかったことは新しくはない。そして、そのような「経験の貧困」が現代を覆っていることもまた、何も真に新しくはない。

現代とはもはや、経験などしなくても日常生活は送れるのだし、我々が日夜見ているニュースも SNS も寧ろ、経験をなくし、貧しくすることに役立っている。まるであたかも、経験などもはやどこにもなく、意識においてはノイズでしかないように思え、日々情報やデータだけが“新しさ”や“最新”を装い、繰り返されるに過ぎない。だが、そのような装われた“新しさ”や“最新”は、実は最も“陳腐”だった可能性はある。

これは、予見である——。多分、今日また「経験」なるものが見出されるのだとすれば、それは伝統的な経験概念の復権でもなければ、新しさの中にでもない。そして、幸運の女神は待ってはくれない。


2. 「科学的な主体」が見ようとしない「冒険的な主体」という問題がある。仮に、今日新たに“経験”概念を練り直すとすれば、この両者の間の拮抗や摩擦、そして距離やすれ違いを通してだろう。

そして何故、いわゆる“現代人”は自己を全開にすることを自由と履き違えだしたのか? これも、科学的な主体と未だ地続きにある障壁になっている。これはレトリックの問題かは分からない。科学が装い提供する“新しさ”は新しくはない。せいぜい、“アップデート”されたイノベーションを指すに過ぎない。この延長では、自由も考えることはできない。新奇さは自由というよりは、我々を別の牢獄に繋ぐだけだ。

科学が覆い隠している人間の生とは——?

アガンベンは「経験は人間の外で遂行されている。しかも、奇妙なことに、人間はそれらの経験を安堵の念とともに眺めようとしている」と、ある本の中で述べている。

何故、科学的な主体は自己を全開にし“前に”飛翔することを自由や進歩と見なしたがるのだろうか? 彼らの中にある「経験の拒絶」。彼らがもし、「経験」をするなら月へは行きはしない。科学の主体は、人間を外から眺めるだろう。月から眺められた人間は、未だ「貧困」に喘いでいる。そして今日、「貧困」とは「経験の貧困」としてのみ立ち現れていると彼が気づくなら、彼は自らがその「貧困」を招いた張本人であることに目を見開くかもしれない。あるいは、より深い盲目が彼を閉ざすかもしれない。より深い盲目が彼を閉ざす時、彼は多分自分が「新しい経験をした」と確信し、思い込むだろう。

コギトが疑念において生じることは否定しない。だが、コギトの主体は悩むのだろうか? コギトはまず(古典的な意味での)経験と認識を分離する。コギトはあらゆる経験を原理的には疑問に付するヌース〔知性〕の働きである。しかし、ヌースはプシュケー〔心=魂〕ではないし、プシュケーは悩むことで学ぶ。


3. ではここで、こう問いたい。近代以降の「経験の剥奪」——あるいは、「経験の貧困」でしかない「現実の貧困」——に対して、われわれはどう立ち向かうべきなのか? そして、そこでの「新しいもの」とは何なのか? 今尚、精神分析において問われる経験とは、何であったのか?

つまり、精神分析には近代以降の危機(経験の剥奪、経験の貧困、現実の貧困)に立ち向かうべく問題が、“予め”内属されていた。それが、“無意識の経験”に他ならない。

逆説的に、近代以降になり「新しさ」は経験の消失と停止として現れていることに注意がいるだろう。われわれが仮に、月に旅行することを「新しい」と考えるにせよ、これは経験にとってはその危機でしかない。これは、先に述べたフロイト的な“新しさ”とはまるで違う。

近代以降になり初めて、われわれは「新しさ」を逆に、経験の貧困を覆い隠すものとして体験するようになった。奇妙な言い方になるが、“新しさの体験”とは、もはや“経験しないことの裏返し”として立ち現れている。

この捻れこそが、まさにフロイト的な無意識の経験の問題を、逆照射する。それは、「無意識の主体の経験」とも区別されうる、「無意識の経験」と呼べる何かである。フロイトの名指した「それ Es」には、“言語活動の経験”というインファンティア〔幼児期〕に繋がる問題も内属されていた。

精神分析と教育の諸問題

2018-10-08 10:47:58 | 精神分析について
これまで、精神分析の教育的な問題には幾度か触れた。


無知には大別して、“無知の無知”(知らないということを知らず、知ったつもりになっている状態)と“不調和の無知”(別名、“無知のきわみ”と呼ばれ、己自身に負けることや快楽に道を譲ることが挙げられた)の二つがあった。

では、それは何か魂=心に“足りないもの”や“欠けている知”を外部から与えることで為されるのかと言えば、そうではなかった。

特に、“無知の無知”を相手に知らしめる(論駁する)には、何らかの知を携えている必要はなく、自らが“知らないことを知っている”状態(無知の知)にあるだけでいい。

そして、そのことにより“魂=心の向き変え”が起きることに、何らかの精神分析的な治療効果や教育効果も帰せられることができると示唆しておいた。

それは、外部からの知識の教授によっては達することはできないので、エロスと美のあいだには“冒険”(魂の気概や性格的な問題に対応する)や“ミステリー”(魂の思慮や理知的な問題に対応する)という迂回路を経ることが重要というところまでも、哲学的な問いから概観した。

では、“不調和の無知”(無知のきわみ)にはどう対峙したらよいのか?

これは難しい。このような魂=心は、精神分析を望むことはできない。何故なら、根本的な善さ—利得的なものではなく、徳としての—を軽蔑し、快楽を満たすことを優先しているだろうからと言えなくもない。むしろ、精神分析に敵対すらするあり方をし、自らを忘却しきっているあり方をしている。

少なくとも、個人の中で憎しみや破壊に向かうのが優勢か、エロスや愛に向かうのが優勢かという闘いはある。

精神分析が賭ける必要があるのは後者においてということは言うまでもない。

愛は、因果律には収まらない、ある奇跡的な結合を可能にする。もし、それに賭けないなら?

Mysterium iniquitatis - La storia come mistero

2018-09-28 17:00:32 | Agamben アガンベン
〔翻訳者注記:以下の一節は、2013年にイタリアで出版された『悪の神秘—ベネディクト16世と時の終わり』の中に収められている「Mysterium iniquitatis—神秘としての歴史」から訳出した。これは、2012年11月13日にスイス・フライブルクの会合にて発表された未刊のテクストの掲載である。〕


4.
Odo Casel—そして、彼の信奉者において、二十世紀の“典礼的運動 movimento liturgico”と呼ばれた事柄—が、典礼の聖霊からの教会の復興のそのプロジェクトを基礎づけたのは、この語の正確な翻訳においてである。既に彼の学位論文 De philosophorum graecorum silentio mystico(ギリシア諸哲学の神秘的沈黙について、1919年)の中で、Casel はギリシア語において mysterion は、ある言説の中で公式化されるだろうが、しかし明らかにすることを禁止された、秘密の教義 una dottrina segreta を規定しないことを示す。mysterion の語彙はむしろ、ある実践、行為、もしくは語の演劇的でもある意味におけるドラマ(すなわち身振りの一致、ある行為もしくは、ある神性な情熱がそれらを共有する人々の救済のための世界や時間の中で、これらを通じて効果的に実現化する行為と言葉の)を示す。このため、アレクサンドリアのクレメンスは、エレウシス的なミステリーを drama mysticon(“ミステリー的ドラマ dramma mistico” (Clemente, p. 30))と呼び、その結果としてキリスト教的告示 il messaggio cristiano を“ロゴスのミステリー mistero del logos” (ivi, p. 254) として定義する。
教会学的な論争において、典礼的運動を考慮に入れつつ、ピウス7世が回勅 Mediator Dei〔神々の仲介者〕によって解決しようとした、教義 dogma についての典礼の優位か、典礼についての教義の優位かをここで決めることは私の意図ではない。むしろ、Casel が典礼についての彼の論文にて、mysrerium の語に関して成し遂げた“神学的文献学”の並外れた課題を遠ざけることが妥当だと私は思うし、教義 dottrina についての典礼の優位に関する彼の諸理念を、彼がヘレニズムのミステリーの語彙からの用語の派生について書くことが如何に本質的に正確かを説明するために共有する必要はないと思う。Casel は、それでもやはり、Isaac Casaubon(近代語源学の創始者の一人)の Exercitationes de rebus sacris (1655) へ遡らせられうる、ある古代的伝統以外に再開しない。