ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

★自己紹介★

2018-11-01 00:00:02 | Weblog
1978年生まれ。埼玉県在住。精神分析家。


☆Twitterは→「@acephale315」まで。
※現在、運用しているSNSはこれのみです。



■□■お知らせ■□■

“自己分析はその好奇心を満足させることはできないし、個人的困難において彼を助けることさえない”(ムスタファ・サーファン)

“l'autoanalisi non è in grado di soddisfare la sua curiosità, e nemmeno
di aiutarlo nelle sue difficoltà personali” (Moustapha Safouan)


「といいますのも、だれかが悪い意図をもち、多くのひとたちをうまく説得すれば、それは町にとっては大きな災いですから。」——エウリピデスの悲劇『オレステス』より

☆セッションについての概要☆

2018-11-01 00:00:01 | Weblog
【精神分析セッション】を行っております。

【精神分析セッション】とは、精神分析技法を用いた、対話形式セッションです。

無意識に由来するトラウマやコンプレックスに、現実に向き合うことで、症状を含めた幅広い問題の根本的な解消を目指します。精神分析は、単なる一治療法に留まらず、幅広いあなたの悩みや問題に光を投げかけることでしょう。



【セッション概要】

■方法:

『電話セッション』もしくは『対面相談』

☆電話セッションは通常、skype・一般電話で対応しております。

☆対面の場合は、埼玉県近郊の喫茶店などを利用しています。(他の場所も可、ご相談下さい)


■料金と時間:

料金は固定では決まっていません。分析を行う者(分析主体、患者)の条件や状況により、個別で対応・設定をしております。お気軽にお申し出下さい。

*週一回ペースのセッションの場合は一回最低5000円ぐらいになっています。

尚、毎回のセッションの時間も、固定では決まっていません。それは、精神分析は無意識という領域を扱うという特殊な要請からくるものです。可変時間制を採用しています。


■契約形態:

月数回(最低でも週一回以上を推奨)のセッションを継続して行い、互いの同意の上に成り立つものです。

☆最初に、契約の大まかな取り決め等を行います。尚、どのようなものか知りたい方の為に、質問等もお受け致しております。お気軽にご相談下さい。


■ご予約・お問合せ:

【完全予約制】です。

ご質問などはメールでも承ります。こちらのアドレスまで。
gnosiseden★gmail☆com
(★をアット、☆をドットに変えて下さい)



■注意事項:

※セッションの内容等は、許可なしに外部に公表致しませんので、ご安心下さい。
※契約の際には、こちらの本名・住所・連絡先等を開示致します。
※近隣の方は契約の前に、お会いすることも可能です。(有料・約セッション一回分になります)

☆精神分析を実際に経験したい人の為に☆

2018-11-01 00:00:00 | Weblog
精神分析がどのようなものか?
精神分析には興味があるけど…。

実際に分析を経験したいけど、まだ踏ん切りや気持ちの整理がつかない人の為に、精神分析についての相談や話しは、Skype かお電話で無料で受け付けています。

その場で決める必要は全くありませんが、どういうものか興味がある人は是非、以下のメールなどからご連絡下さい。


gnosiseden★gmail☆com
(★をアット、☆をドットに変えて下さい)


«Senza associazionelibera non c'è psicoanalisi» Antonio Di Ciaccia
「自由連想なしで、精神分析はない」

経験と新しさのあいだで

2018-10-17 17:32:58 | Essay
1. 私の言いたい「経験」とは、近代の権威的な人物が、あいつには「経験」が足りないと言ったりするような「経験」ではない。むしろ、そのような「経験」が全く成り立たなくなっていったのが、私の世代だったし「経験」が権威により保証されていた時代感覚は希薄だった。それでもやはり、「経験」という以外には自分には言いようがない何かが、私を捉える。

超越論的な経験を思い起こせばいいのか? あるいは、「経験の剥奪」に変わる“別の”あるいは“新しい”経験という問題に腐心しているだけなのか?

例えば、戦争から帰還した兵士がそこに何か“伝達しうるような経験”を携えていたのかと言えば、ベンヤミンの診断を待つまでもなく、彼らにはそのような「経験」が何もなかったことは新しくはない。そして、そのような「経験の貧困」が現代を覆っていることもまた、何も真に新しくはない。

現代とはもはや、経験などしなくても日常生活は送れるのだし、我々が日夜見ているニュースも SNS も寧ろ、経験をなくし、貧しくすることに役立っている。まるであたかも、経験などもはやどこにもなく、意識においてはノイズでしかないように思え、日々情報やデータだけが“新しさ”や“最新”を装い、繰り返されるに過ぎない。だが、そのような装われた“新しさ”や“最新”は、実は最も“陳腐”だった可能性はある。

これは、予見である——。多分、今日また「経験」なるものが見出されるのだとすれば、それは伝統的な経験概念の復権でもなければ、新しさの中にでもない。そして、幸運の女神は待ってはくれない。


2. 「科学的な主体」が見ようとしない「冒険的な主体」という問題がある。仮に、今日新たに“経験”概念を練り直すとすれば、この両者の間の拮抗や摩擦、そして距離やすれ違いを通してだろう。

そして何故、いわゆる“現代人”は自己を全開にすることを自由と履き違えだしたのか? これも、科学的な主体と未だ地続きにある障壁になっている。これはレトリックの問題かは分からない。科学が装い提供する“新しさ”は新しくはない。せいぜい、“アップデート”されたイノベーションを指すに過ぎない。この延長では、自由も考えることはできない。新奇さは自由というよりは、我々を別の牢獄に繋ぐだけだ。

科学が覆い隠している人間の生とは——?

アガンベンは「経験は人間の外で遂行されている。しかも、奇妙なことに、人間はそれらの経験を安堵の念とともに眺めようとしている」と、ある本の中で述べている。

何故、科学的な主体は自己を全開にし“前に”飛翔することを自由や進歩と見なしたがるのだろうか? 彼らの中にある「経験の拒絶」。彼らがもし、「経験」をするなら月へは行きはしない。科学の主体は、人間を外から眺めるだろう。月から眺められた人間は、未だ「貧困」に喘いでいる。そして今日、「貧困」とは「経験の貧困」としてのみ立ち現れていると彼が気づくなら、彼は自らがその「貧困」を招いた張本人であることに目を見開くかもしれない。あるいは、より深い盲目が彼を閉ざすかもしれない。より深い盲目が彼を閉ざす時、彼は多分自分が「新しい経験をした」と確信し、思い込むだろう。

コギトが疑念において生じることは否定しない。だが、コギトの主体は悩むのだろうか? コギトはまず(古典的な意味での)経験と認識を分離する。コギトはあらゆる経験を原理的には疑問に付するヌース〔知性〕の働きである。しかし、ヌースはプシュケー〔心=魂〕ではないし、プシュケーは悩むことで学ぶ。


3. ではここで、こう問いたい。近代以降の「経験の剥奪」——あるいは、「経験の貧困」でしかない「現実の貧困」——に対して、われわれはどう立ち向かうべきなのか? そして、そこでの「新しいもの」とは何なのか? 今尚、精神分析において問われる経験とは、何であったのか?

つまり、精神分析には近代以降の危機(経験の剥奪、経験の貧困、現実の貧困)に立ち向かうべく問題が、“予め”内属されていた。それが、“無意識の経験”に他ならない。

逆説的に、近代以降になり「新しさ」は経験の消失と停止として現れていることに注意がいるだろう。われわれが仮に、月に旅行することを「新しい」と考えるにせよ、これは経験にとってはその危機でしかない。これは、先に述べたフロイト的な“新しさ”とはまるで違う。

近代以降になり初めて、われわれは「新しさ」を逆に、経験の貧困を覆い隠すものとして体験するようになった。奇妙な言い方になるが、“新しさの体験”とは、もはや“経験しないことの裏返し”として立ち現れている。

この捻れこそが、まさにフロイト的な無意識の経験の問題を、逆照射する。それは、「無意識の主体の経験」とも区別されうる、「無意識の経験」と呼べる何かである。フロイトの名指した「それ Es」には、“言語活動の経験”というインファンティア〔幼児期〕に繋がる問題も内属されていた。

精神分析と教育の諸問題

2018-10-08 10:47:58 | 精神分析について
これまで、精神分析の教育的な問題には幾度か触れた。


無知には大別して、“無知の無知”(知らないということを知らず、知ったつもりになっている状態)と“不調和の無知”(別名、“無知のきわみ”と呼ばれ、己自身に負けることや快楽に道を譲ることが挙げられた)の二つがあった。

では、それは何か魂=心に“足りないもの”や“欠けている知”を外部から与えることで為されるのかと言えば、そうではなかった。

特に、“無知の無知”を相手に知らしめる(論駁する)には、何らかの知を携えている必要はなく、自らが“知らないことを知っている”状態(無知の知)にあるだけでいい。

そして、そのことにより“魂=心の向き変え”が起きることに、何らかの精神分析的な治療効果や教育効果も帰せられることができると示唆しておいた。

それは、外部からの知識の教授によっては達することはできないので、エロスと美のあいだには“冒険”(魂の気概や性格的な問題に対応する)や“ミステリー”(魂の思慮や理知的な問題に対応する)という迂回路を経ることが重要というところまでも、哲学的な問いから概観した。

では、“不調和の無知”(無知のきわみ)にはどう対峙したらよいのか?

これは難しい。このような魂=心は、精神分析を望むことはできない。何故なら、根本的な善さ—利得的なものではなく、徳としての—を軽蔑し、快楽を満たすことを優先しているだろうからと言えなくもない。むしろ、精神分析に敵対すらするあり方をし、自らを忘却しきっているあり方をしている。

少なくとも、個人の中で憎しみや破壊に向かうのが優勢か、エロスや愛に向かうのが優勢かという闘いはある。

精神分析が賭ける必要があるのは後者においてということは言うまでもない。

愛は、因果律には収まらない、ある奇跡的な結合を可能にする。もし、それに賭けないなら?

Mysterium iniquitatis - La storia come mistero

2018-09-28 17:00:32 | Agamben アガンベン
〔翻訳者注記:以下の一節は、2013年にイタリアで出版された『悪の神秘—ベネディクト16世と時の終わり』の中に収められている「Mysterium iniquitatis—神秘としての歴史」から訳出した。これは、2012年11月13日にスイス・フライブルクの会合にて発表された未刊のテクストの掲載である。〕


4.
Odo Casel—そして、彼の信奉者において、二十世紀の“典礼的運動 movimento liturgico”と呼ばれた事柄—が、典礼の聖霊からの教会の復興のそのプロジェクトを基礎づけたのは、この語の正確な翻訳においてである。既に彼の学位論文 De philosophorum graecorum silentio mystico(ギリシア諸哲学の神秘的沈黙について、1919年)の中で、Casel はギリシア語において mysterion は、ある言説の中で公式化されるだろうが、しかし明らかにすることを禁止された、秘密の教義 una dottrina segreta を規定しないことを示す。mysterion の語彙はむしろ、ある実践、行為、もしくは語の演劇的でもある意味におけるドラマ(すなわち身振りの一致、ある行為もしくは、ある神性な情熱がそれらを共有する人々の救済のための世界や時間の中で、これらを通じて効果的に実現化する行為と言葉の)を示す。このため、アレクサンドリアのクレメンスは、エレウシス的なミステリーを drama mysticon(“ミステリー的ドラマ dramma mistico” (Clemente, p. 30))と呼び、その結果としてキリスト教的告示 il messaggio cristiano を“ロゴスのミステリー mistero del logos” (ivi, p. 254) として定義する。
教会学的な論争において、典礼的運動を考慮に入れつつ、ピウス7世が回勅 Mediator Dei〔神々の仲介者〕によって解決しようとした、教義 dogma についての典礼の優位か、典礼についての教義の優位かをここで決めることは私の意図ではない。むしろ、Casel が典礼についての彼の論文にて、mysrerium の語に関して成し遂げた“神学的文献学”の並外れた課題を遠ざけることが妥当だと私は思うし、教義 dottrina についての典礼の優位に関する彼の諸理念を、彼がヘレニズムのミステリーの語彙からの用語の派生について書くことが如何に本質的に正確かを説明するために共有する必要はないと思う。Casel は、それでもやはり、Isaac Casaubon(近代語源学の創始者の一人)の Exercitationes de rebus sacris (1655) へ遡らせられうる、ある古代的伝統以外に再開しない。

La ragazza indicibile - Mito e mistero di Kore (2010)

2018-09-03 08:44:30 | Agamben アガンベン
IV
1921年に、ラインラントにある Maria Laach の修道院において、Odo Casel というベネディクト修道会の無名のある修道士が、もっと後に“典礼の運動 Movimento liturgico”と定義され、またその名の下に、カトリック教会の中で巨大な影響を行使すべくだった事柄の宣言の一種である、『神秘的祝典としての典礼』(Die Liturgie als Mysterienfeier) を公表する。Casel によれば、もしそれが、その本質において、教義ではなく神秘であり、このように、それが異教的であり、エレシウス的、魅惑的で謎めいた神秘との創世的な関係を引きずり込むことが理解されないなら、キリスト教の典礼の真の本性は了解されない。すでに1918年の彼の論考(『De philosophorum graecorum silentio mystico』というタイトルで刊行された)において、若き修道士は異教の神秘は、言葉の中で表明されうるだろうが明らかにすることは禁止されていた、隠された教義を含まないことを示していた。起源において“神秘 mistero”はただ、それらを通じて神の行いが人間の救済のための時間と世界において有効に現実化される、実践、身振り、行為、言葉を意味する。
同様に、キリスト教の典礼も、その中でキリストの贖いの御業が教会において、またそれを介して現在化する、ある“神秘的祝祭 festa mistica”である。Casel によれば、“神秘的な実在 presenza misterica”という表現はトートロジーであり、何故なら、実在は典礼的神秘と同様の本性に属するからである。神秘において実在していることは、歴史的個人としてのキリストと同じではなく、しかし、秘跡において間違いなく成就される、その“救済的行為 azione salvifica” (Heilstat) と同じである。“カトリック的典礼のより固有な力は、対象となる神秘が存在するそれであり、またキリストの救済的行為の実現性 (Wirklchkeiterfülltes) で満ちていることである”と、Casel は書く。

Casel が語る“実現性 effettualità”は、神学的な伝統が典礼的行為の ex opere operato〔為された業から〕の効力の教説の中で定めたそれである。それは仮に、ある女性に秘跡を与える聖職者が彼女に性的に乱用するつもりでそれ〔典礼的行為〕を為すのかどうか、または酔っているのか、あるいは罪深い〔邪な〕思考から逸らされているかどうかもまた意味し、秘跡の救済的行為はいずれにせよ、それが司教に依存しているのではなく、キリストに(つまり、その“神秘的な実在”に)依存しているが故に実現化されるのである。キリスト教的神秘の効力はどのみち、またあらゆる可能な状況において、それが人間の業ではなく、神の業であるから保証されている。

異教的神秘の典礼のこの縮小できない効果からより遠いものはない。『黄金のロバ』の最後で、ルキウスがイシスの神秘への彼のイニシエーションを描く時、彼はそこに発見した救済は“不安定である precaria”と定義する (ad instar voluntariae mortis et praecariae salutis)。いかなる確実性もそこにはなく、しかし闇に向かい、あるいは冥界の神々と天上の神々の間で宙吊りにされた小道の上にある、薄明かりの中で存在している一つの進行がある。これらはとりわけ夢の中で対になり、それらがもたらす救済は本質的に不安定であり、何故なら、識別できなく、また高きものと低きもの、光と闇、眠りと目覚めの間の当惑の地帯において、それ〔救済〕は生起するからである。

ラテン語において、praecarius は、ただ praex(quaestio からは区別された、ある言葉の要求)を通じてのみ達成されることである。quaestio は達成されるのを欲することの成就を確実にする適正を備えたあらゆる手段によって為されたある要求である(このため quaestio の用語は終いには、それが常に欲されたことに達せられる拷問を示すようになるだろう)。
もし、この意味において、キリスト教の神秘が常に有効であるなら、不安定性〔不確実性〕precarietà は、その中で異教の入信者が動く—冒険的で夜の—次元である。

アプレイウスの小説は、神秘的イニシエーションについての闊達な描写を私たちに提供する古典古代の比類なき文書である。しかし、これは小説に含まれていたので、学者たちがそれについて然るべき評価を行なったのは常ではない。だが、ジャンニ・カルキアの見事な洞察によれば、本質的な繋がりがあるのは小説と神秘の間のみならず、むしろ、私たちに神秘の感覚を了解させるようにするのに相応しい小説の形態である。従って、小説において多分初めて、冒険と主人公の曖昧さが詳細に、イニシエーションの行程の不安や良心のとがめに、希望や絶望に対応する仕方で、人間的で現世的な要素が神性のできごとの媒介物に(おそらくパロディ的にであろう)なるのである。小説の主人公の周りに織り込む状況や出来事、関係や境遇のもつれ合いは、同時に、(説明しないことが問題であり、しかし、あるイニシエーションの内部として注視することが問題な)神秘としてその生を構成することである。
そしてもし何処からか、古代的神秘の反響音をとらえることが今日私たちに課せられるなら、このことは小説の形態 la forma-romanzo の中の生の枯渇したもつれが解かれることにおいてであり、典礼の効果的な〔説得的な〕豪華さにおいてではない。生それ自体が、同時に、それについての伝授者であり唯一の内容である、mysterion の前に私たちを置く小説、『黄金のロバ』におけるルキウスやジェームズの『ある婦人の肖像』におけるイザベル・アーチャーは何が問題なのか。

Karman

2018-05-12 06:51:19 | Agamben アガンベン
1. 訴訟〔原因〕と罪 La causa e la colpa

«In ogni caso, l'implicazione del protagonista - di ogni uomo - nella sfera del processo - cioè della legge - è così ineludibile e, insieme, impenetrabile, che quando egli pone la domanda decisiva: «come può un uomo essere colpevole?», ...» p.18
「いずれにせよ、訴訟の—即ち法の—領域における中心人物の—人間の—巻き込みは、彼が決定的な問い《どのように一人の人間は有罪になりうるのか》を据える時ほど、逃れられなく、同時に、不可解である……」

«La colpa viene, cioè, spostata dall'azione al soggetto, che, se ha agito "sciente e volente", ne porta l'intera responsabilità.» p.22
「つまり、もし“意識あることと欲していること”が作用したなら、罪は行動から、それを内的責任にもたらす主体へと移されるようになる。」

«La fondazione della colpa nella volontà del soggetto e la stessa elaborazione del concetto di volontà sono, infatti, come vediamo, opera della teologia cristiano.» p.24
「主体の意志における罪の基盤と意志の概念の同様の練り上げは事実、私たちが見るように、キリスト教神学の仕事である。」


«Ma "sancire” significa propriamente «rendere "sanctus"».» pp.28-29
「“sancire=認可・批准すること”はまさに《“sanctus”を付与すること》を意味する。」

«Occorre qui non confondere il sacro e il santo, che Ulpiano distingue risolutamente.» p.29
「Ulpiano が決然と区別する、神聖なること il sacro と聖なること il santo を混同しないことがここで必要である。」

«La distinzione tra il "sacre" e il "sanctus", che Benveniste cerca a questo punto di precisare, non è, però, così agevole» pp.30-31
「バンヴェニストがこの点で特定しようとする、sacre と sanctus の間の区別は、しかし、このように容易ではない。」



«La legge non è sempre stata circondata di una simile aura dì santità.» p.36
「法は聖性の同種のオーラにいつも取り囲まれてはいない。」

«Che la legge si definisca come un'articolazione di violenza e giustizia è un'evidenza a cui un'analisi filologicamente attenta della formulazione originaria dei testi legali rende difficile sottrarsi.» pp.37-38

«Che il delitto non sia un'infrazione della legge a cui consegue, come difesa dell'ordine legale, la sanzione, ma che sia piuttosto la sanzione a determinare il delitto è il nucleo essenziale della teoria pura del diritto di Hans Kelsen.» p.39

“Non ci sono mala in se, ma solo mala proibita.” (Kelsen)
「それ自体には悪はなく、しかしただ、禁止された悪がある。」


2.

«Un concetto che viene spesso associato a quelli di "colpa" e "causa"è "crimen".» p.44
「colpa や causa のそれにしばしば結びつけられる概念は、crimen である。」

«Come gli altri due, esso significa, secondo i dizionari, tanto l'accusa che il delitto.» p.44
「他の二つのように、辞書によれば、それ [crimen] は犯罪〔違反、反則〕と同様に非難〔告発、告訴〕を意味する。」

«Crimen è, cioè, la forma che l'azione umana assume quando è imputata e chiamata in causa nell'ordine della responsabilità e del diritto.» p.46

«Ogni accusa è, in qualche modo, una calunnia e "criminator", l'accusatore per eccellenza, è il demonio.» p.46

«La nostra ipotesi è, infatti, come dovrebbe essere ormai evidente, che il concetto di "crimen", di un'azione sanzionata, cioè imputabile e produttrice di conseguenze, stia a fondamento non soltanto del diritto, ma anche dell'etica e della morale religiosa dell'Occidente.» p.52
「私たちの仮説は実際、もはや明らかであろうように、〔認可・批准された行動についての、つまり責めを負い帰結を産出する〕crimenの概念が、法についてのみならず、西洋の宗教的な倫理ならびに道徳の根本に位置するということである。」

«Se lo [l'agire] si giudica solo secondo la misura della sue azioni, se l'azione sanzionata diventa per lui l'elemento in ogni senso decisivo, l'uomo è allora sempre tragicamente scisso, è sempre, insieme, colpevole e innocente, e il dissidio diventa tanto più insanabile, quanto più egli cerca di venire responsabilmente a capo dei propri atti.» p.60


«Il carattere è l'ombra enigmatica che l'etica dell'azione proietta sul soggetto.» p.68
「性格は、行動の倫理が主体の上に投げかける謎めいた影である。」

〔第2章の後半は、主にアリストテレスの『ニコマコス倫理学』が問題になっている。悲劇や喜劇の中での行為と性格が俎上に載せられる。〕

«L'etica, che rifiuta l'azione come suo elemento proprio, non può essere, nella prospettiva di Aristotele, che un'etica comica.» p.69
「その固有のエレメントとしての行動を拒否する倫理は、アリストテレスのパースペクティヴにおいて、ある喜劇的倫理以外にはない。」

«Come tra il carattere comico e l'eroe tragico, così anche tra l'essere e l'agire, tra l'azione e il carattere intelligibile occorre aprire lo spazio "tertium", che non ha più nulla di misterioso, perché restituisce il "mysterium" alla sua originaria vocazione teatrale.» p.71
「喜劇的性格と悲劇的英雄のあいだとして、同様にまた存在と行為のあいだに、行動と叡智的な性格のあいだに、"tertium=第三のもの"(それはもはや神秘的なもの=謎について何も持たない)の空間を開く必要がある。何故なら、それはその演劇の根源的な召命に"mysterium"を返還するのだから。」


«Non basta, infatti, come è avvenuto nel pensiero francese contemporaneo, sostituire al concetto di azione quello di evento.» p.72
「実際、同時代のフランス的な思考において起こったように、行動の概念に出来事のそれを代理することは十分ではない。」

〔ここでは、アガンベンは具体的にアラン・バディウを批判している。バディウにおいては、倫理学と政治学の根底に位置するカテゴリーの対は、存在と行動ではなく、存在と出来事である。以下は勿論、批判的な文脈で述べられている。〕

「そして行動がそれについて責任を引き受けるエージェントの倫理的な規約を定める時に、バディウにおいては、出来事はそれを信用するままでいる人々の倫理的な地位を定める。存在/出来事の二分法はつまり完全に、それらについてのアポリアと矛盾を私たちが示そうとした存在/行為の二分法に対応する。それが内包する主体の亀裂を伴う、西洋の倫理-政治学的な機械はこの方法で機能し続ける。」(p.72)


3. 意志のアポリア Le aporie della volontà

“ogni potenza è costitutivamente impotenza rispetto alla stessa cosa di cui è potenza”(Aristotele, Met., 1046 a, 30-31)
「あらゆる潜勢力は構成的に、潜勢力が属する同様の事柄に関して無能力である」(アリストテレス『形而上学』)

«L'intento di rendere l'uomo padrone delle sue azione e di garantirgli la paternità dei suoi atti dei suoi saperi ha, cioè, come conseguenza una fattura della sua capacità di agire, che è ora costitutivamente scissa in potenza e impotenza, poter fare e poter non fare.» p.76
「人間にそれら諸行動の支配を付与し、それら諸行為と諸能力の主人性を彼に保証する意図は、即ち結果として、今や構成的に潜勢力と無能力(することができることとしないことができること)において分裂し、彼の行為することの能力のひび割れを所持している。」


«volere è alla mia portata, ma mettere in atto il bene no» (Paolo, Rom., 7, 18)
「望む(欲する)ことは私の圏内にあるが、善を実行に移すことは違う」(パウロ『ローマの使徒への手紙』)


«Il senso e la funzione strategica del dispositivo sono perspicui: si tratta di limitare la potenza e l'anarchia divina, stabilendo un confine senza il quale il mondo precipiterebbe nel caos e non potrebbe più essere governato. Lo strumento che rende possibile questa limitazione è la volontà.» pp.96-97
「装置の戦略的な意味と機能は明快である。世界がカオスの中に落ち、より統治されえないことがない、ある境界を定めることで、権力と神性なアナーキーを限定することが問題である。この制限が可能になる手段は、意志である。」

«Il disipitivo teologico della volontà è qui rovesciato: la volontà che costituiva l'attributo essenziale di Dio si riduce a una pura potenza ineffettuale, che si realizza in atto soltanto nell'uomo, a cui, tuttavia, non appartiene in alcun modo. La volontà è, cioè, sempre impropria, e la sua appropriazione da parte dell'uomo coincide con la caduta e con il peccato» p.98
「意志の神学的装置はここで裏返される。神の本質的な属性を構成する意志は(しかしながら、いかなる方法においてもそれが属さない人間においてのみ実現される)ある純粋な実行できない潜勢力に縮減される。つまり、意志は常に非固有的であり、また人間の方からのその横領は転落と罪に一致する」

«E la volontà propria coincide con la creazione dell'inferno, è l'inferno» p.98
「そして、固有の意志は地獄の創造と一致し、それは地獄である。」


4. 行動の彼岸へ Al di là dell'azione

父の名(問題)について——経験の後に残るもの

2018-03-19 20:41:40 | 精神分析について
「神の名を言うことは即ち、そこにおいて名と存在、言葉と物が分かつことが不可能である、その言語活動の経験としてそれ〔神の名〕を了解することを意味する。」——アガンベン『言語活動の秘蹟』(原著p.71)

«Pronunciare il nome di Dio significa, cioè, comprenderlo come quell'esperienza di linguaggio in cui è impossibile separare il nome e l'essere, le parole e la cosa.» Agamben, Il sacramento del linguaggio, p.71


“起源のパロール”は、呼びかけや間投詞の問題であり、他者に向かわないというのは、アガンベンにおいても言われている。但し、アガンベンの場合は、如実に「神の名 il nome di Dio」や「冒瀆 la bestemmia」である。つまり、それは論理的な伝達〔コミュニケーション〕を目指してはいない。

確かに、そのような名前や間投詞が、結び目や身体の器官に関わるというのは、別段否定はしない。だが、それと言語活動の関係や、言語活動そのものを拒否してしまうというのは、行き過ぎではないだろうか? 複数の言語活動のセリーとその結び目。


例えを挙げれば、われわれは普通、驚きや驚愕に出会った時に“思わず”、「ああ」や「うう」、「クソッ」や「チッ」、また宗教的背景がある人は「神の名」、また実の父に助けを乞う意味で「父の名」を呼びかける。思わず、それは“論理的判断”の文脈からは切り離され、“感情”や“感覚”のままに、あるいは感嘆符のように発せられる。

そう考えれば、そのような間投詞的なパロールは、道徳的な判断から発せられるわけでもないし、論理的な推論からでもない。では、そのようなロゴスのセリーから外れた語は、意識の通常の思考とどのように抵触し、躓きとなりうるのか?

これが、ラカンにおいては享楽の問題としても提出されているというのは否定しない。だが、問題であって解決ではないことは指摘できるかもしれない。


この論点も、経験から析出される見方もありうる。仮に意識的な思考から始めるにしても、そのような間投詞や名の発話は、そもそもが感覚的な発話だった可能性がある。そう考えれば、理性の推論を働かせながらこれを“理論的に”考えることは、そもそもが矛盾に陥る。

その矛盾が、論理的な真理と美的な真理として、最近取り組んでいた問題でもある。だとすれば、そのままこれを“無意識の論理”に移し替えるだけではナンセンスだ。少なくとも、“無意識の感性“の問題を射程に入れなければならない。それを、私は「経験」と呼んでいる。

いずれにせよ、意識的な推論でも、無意識的な論理でも、感覚の問題にアプローチしないことには、この父の名、神の名、間投詞には向き合えない。その転換点として、私は精神分析的な経験や自身のディスクールなりパロールを経由させる必要性を言っている。もちろん、「パス」する必要性(正確には要請)とも言えるかもしれない。


感覚の両義的な問題(つまり、肉)として、意識的であれ無意識的であれ、ロゴスないしはグランマがそこで頓挫する地平。これにアプローチできるのは、声=フォネーだ。つまり、言語活動の「経験」。身体なら享楽といっていいが、肉の場合は官能性が関係してくる。

ディスクールにおいて名の機能とは、そもそも分離の支えになる。但し、支えそれ自体は、“経験としては”そこから分離しえずに残る。アガンベンは驚くべきことに、起源の間投詞の名残り(遺物、遺品)が、意味論的 semanico ではなく、むしろ記号論的 semiotico なものであることを指摘している。そして、言語活動の流れがそれら遺品を自身の後ろに引きずり、歴史的になると述べている。

精神分析の経験とは何より、われわれの声を歴史化するような実践でもあると言えないだろうか?(とは言っても、このような歴史は、出来事を時系列順に整理し記述する営みとは全く関係がないとは、もう言わなくてもいいだろう)


“言われたことは、了解され思考されるべき同様の事実として、必然的に存在することを試される”——聖アンセルムス

“ciò che è detto [hoc ipsum quod dictur], per il fatto stesso che viene inteso e pensato [eo ipso quod intelligitur vel cogitatur] è provato esistere necessariamente” (Anselmo d'Aosta; 1033 o 1034 - 1109)



■問題の余白に……

宣誓—パフォーマティヴなパロールの起源的経験—こそが、宗教や魔術に先行しているというのが、アガンベンによる帰結である。ここから翻って、宗教-法学的な名の禁止と刑罰(つまりは、偽誓への措置)が派生したのであり、その逆ではないという要約が『言語活動の秘蹟』の結論部でなされている。

その意味で、父の名と禁止の関係は、“パフォーマティヴなパロールの起源的経験”として前者の側が先行しているということに同意できる。つまり、この先後関係を“ヒエラルキー”ないしは“順序構造”と名指した。

この部分が、広義のロゴスとして、パロールとエクリチュールの“起源的な問題”としては不明瞭だったというのが、ラカンが残していた問題であり、デリダとの確執も原始的口唇性として表面化されたというのが、私からの指摘だった。

ロゴスと“フォネーの経験”の分節化として、言語活動を思考し直したアガンベンを通して見た結果ではあるが、結び目と真理の問題を解くには、この順序の構造は無視できない。

つまり、精神分析の“根本的な経験”は、エクリチュールではなくパロールの方であることが、ここから導ける。書くことの側を精神分析の経験に近づける論者も見受けるがこれは間違いで、まだ思考の根源には向き合えてはいない証左だといえる。

もし、精神分析を“書くために”実践するのだとしても、それは本末転倒である。(あえて指摘しておけば、“書くことを目的に”しているから、忘却が重要になってしまうという本末転倒な観念が生じる)

ジャンニ・カルキア『名とイメージ』

2018-03-02 16:15:01 | 試訳
--Gianni Carchia, Nome e immagine: Saggio su Walter Benjamin (Quodlibet, 2009)


◼︎アガンベンによる裏表紙への寄せ書(原文はコチラの出版社のサイトにも掲載されている)

ジャンニ・カルキアの最初の作品と最後の作品同様に、存在の特異な運命がこの本において触れられている。1999年の春に(彼を死に導くだろう病いが重くなる少し前)カルキアは、力強くも明白でもある文体において既に模範の熟練した諸論文を表しており、ある仕方でそれについて彼の証言をなす、24歳の学生の“若きベンヤミンにおける真理と言語 Verità e linguaggio nel giovane Benjamin”というタイトルでもってトリノ大学で1971年に議論されていた、学位のテーゼを手に取り改編する。“名とイメージ Nome e immagine”というタイトルで資格を与えながら。始まりと終わりはここで、事実、確かに哲学的な身振りによって、あたかも、ある驚くべき倒置法でもって、カルキアの最後の思考の諸動機(出来事と証言としての哲学の概念、方法の批判、終末のメシア的練り上げ)を結び付けることが、初めて若き日のテーゼにおけるそれらの反響音 eco に出会うだろうと正に見受けられる。本書でもって開くベンヤミンの容貌は、この意味で、19世紀のイタリア哲学における最も適切な声 voci の一つとしても私たちに開いている著者の一つの肖像でもある。

ジョルジョ・アガンベン


〔訳者による付言:アガンベンがイタリアにおけるベンヤミンの著作の編纂に携わっていたのは有名だが、ジャンニ・カルキアの名もその仕事にはもちろん記されている。〕



◼︎本文からの抜粋と試訳

◻︎第一章「批評と真理 Critica e verità」

«L'assoluto romantico si determina a questa stregua come un «medio» della riflessione.» p. 28
《ロマン主義的な絶対はこの尺度で、反省のある“媒介=中間”として定義される。》

«In questo medio, ogni semplice riflessione sorge assolutamente da un punto di indifferenza che si tratta di determinare.» p.28
《この媒介=中間において、それぞれの素朴な反省は絶対的に、定義することが問題である無差異のある点から発生する。》

«Dal dispiegamento del concetto di riflessione, risulta che tutto ciò che è nell'assoluto pensa ma, poiché questo pensiero è quello della riflessione, può pensare solo se stesso.» p. 29
《反省の概念の表明から、絶対においてあること全ては思考し、だかこの思考は反省のそれであるので、ただそれ自体を思考しうることが帰結する。》

“Per i romantici non si dà dal punto di vista dell'assoluto alcun Non-Io, alcuna natura nel senso di una essenza che non diviene sé” (Benjamin)


«La libertà delle dottrine estetiche eteronome è ottenuta fissando un criterio dell'opera d'arte diverso dalla regola, e cioè il criterio di una struttura determinata immanente all'opera stessa.» p. 32
《他律の美学的諸教義の自由は、規則とは異なった芸術作品のある基準を定めることで達成される。即ち、作品それ自体に内在する所定のある構造の基準である。》

“La teoria romantica fonda la validità delle forme indipendentemente dal l'ideale delle creazioni” (Benjamin)

“È elemento caratterizzante del concetto romantico di critica non conoscere una particolare soggettiva valutazione dell'opera nel giudizio di gusto. La valutazione è immanente alla ricerca positiva ed alla conoscenza dell'opera.” (Benjamin)


«Dove l'ironia della materia è negativa e soggettiva, quella della forma è positiva ed obiettiva.» p. 35
《物質のアイロニーが否定的で主体的である処で、形態のそれは肯定的で客観的である。》

«Dove la critica, nell'interesse di una superiore unità di arte e filosofia, non esita a sacrifare l'opera singola, l'ironia formale è capace di mantenerla integra ed, al stesso tempo, si riferirla all'idea dell'arte.» p. 35
《批評が(芸術と哲学のある高次な統一の関心において)単一の作品を犠牲にすることを躊躇わない地平で、形態のアイロニーはそれを完全に保つことができ、同時に、それを芸術の理念に参照させる。》


«Benjamin nell'Ursprung illustra la verità quale «contenuto essenziale della bellezza».» p. 43
《『根源』におけるベンヤミンは、“美の本質的な内容”であるところの真理を注釈する。》

“In tutto che, a ragione viene definito bello agisce paradossalmente la circostanza che esso appare” (Benjamin)

«L'esistenza della verità è, in definitiva, identica coll'apparenza del bello.» p. 44
《真理の存在は、最終的には、美の現れと同じである。》

«La verità come contenuto del bello non viene «in luce nell'esplicazione».» p. 44
《美の内容としての真理は“説明の光の下に”生じない。》


«Il bello infatti può sussistere solo nella misura in cui è consapevole che unicamente nell'attimo, nel momento della suprema fugacità, la verità può giungere all'esistenza in esso» pp. 47-48
《美は実際ただ、瞬間において、最期の儚さのモーメントにおいて、真理はそれ〔美〕における存在に到達しうると自覚する尺度においてのみ、現存する。》

«La verità appare nella bellezza solo nella misura in cui quest'ultima non è epifenomeno superfluo.» p. 48
《真理は、美が余分な付帯現象ではないという尺度においてのみ、美において現れる。》

«Compito della bellezza non è di rendere visibile l'idea della verità, ma il suo segreto.» pp. 48-49
《美の役割は真理のイデアを見えるようにする為ではなく、その秘密を見えるようにする為にある。》

“Non apparenza, né involucro di qualcos'altro è la belezza. Essa stessa non è fenomeno, ma essenza... né l'involucro, né l'oggetto velato è il bello, ma l'oggetto nel suo involucro...” (Benjamin)

«Solo del bello vale il paradosso che l'essenziale è l'apparenza e ciò sembra potere rimandare ad un più vasto discorso di filosofia della storia, fondato sulla visione del mondo nelle dimensioni contrapposte del mistero e della rivelazione.» p. 49
《美のみが、本質的なものが現象〔見かけ〕であり、このことが神秘と啓示の対立した諸次元における世界のヴィジョンの上に基礎づけられた、歴史哲学のより広大な言説に送り返しうるように見えるというパラドックスをもたらす。》

MEMO:
rivelazione (potenza del nome)
tragedia (silenzio)


«L'inespresso non è per Benjamin un esteriore artificio tecnico proprio di una singola opera o genere artistico ma una vera e propria categoria del linguaggio e dell'arte.» p. 51
《表現されぬものはベンヤミンにとって、単独の作品または芸術的ジャンルの固有の技巧・技術的な外面ではなく、言語と芸術の正真正銘のカテゴリーである。》


«La costruzione di queste due serie parallele e contrapposte: mito-creazione-conoscenza da un lato; natura-arte-verità dall'altro, deve ora confrontarsi col concetto di bellezza che é qui il punto in discussione.» p. 53
《パラレルで対立するこの二つの系列の制定[一方は、神話-創造-意識、他方は、自然-芸術-真理]は今や、当該の問題である美の概念によって出会われるだろう。》

«Non più a lungo che per un attimo la verità giunge all'esistenza.» p. 53
《長々とではなく、瞬く間において、真理が存在に達する。》


«Che la bellezza prenda il posto della speranza non può essere, dunque, l'ultima parola di Benjamin in proposito.» p. 55
《美が望みを得ることは、従って、この点に関するベンヤミンの最後の言葉になりえない。》

«Se nessuna opera a tesi potrà mai comunicare l'essenza della speranza, essa non può però nemmeno irradiarsi dall'apparenza di conciliazione che offre la bellezza dell'opera gelidamente compiuta.» p. 56
《もし、問題の作品が望みの本質を伝えるに決して至らないなら、しかし、冷たく完成した作品の美をもたらす調停の現れからそれが放射状に広がる〔四方に広がる〕ことは決してありえない。》


«A questa sfera si è rivolto Goethe con la sua teoria dei fenomeni originari (Urphänomene) che ha avuto come punto di partenza la teoria dell'Urpflanze, concepita a Palermo, durante il viaggio in Italia, nel 1787.» p. 57
《1787年のイタリア旅行の間に、パレルモにて概念化された Urpflanze の理論を出発の点として持った、彼の根源的現象 Urphänomene の理論によって、ゲーテが専念したのはこの領域である。》

«Lo sforzo di Goethe, nell'accertamento degli Urphänomene, era volto a cogliere l'idea della natura al fine di presentarla come archetipo dell'arte, contenuto puro.» p. 57
《Urphänomene の検証においてのゲーテの尽力は、純粋な内容物である芸術のアーキタイプとしてイデアを示す目的で、自然のイデアを集めることに向けられた。》

«La natura cioè rimpiazza le Muse ma non muta il carattere causale del rapporto che si stabilisce fra la singola opera e l'ideale dell'arte.» p. 58
《自然はつまり、ムーサ〔ミューズ〕たちの後を引き継ぐが、単一の作品と芸術の理念的なものの間に居を構える関係の原因的特性を変更しない。》


«Infatti, se l'ideale della natura che si costituisce a contenuto puro dell'arte diventa intuibile nei fenomeni originari, ciò che viene meno è proprio quell'elemento di rottura che sembrava inerente all'opera d'arte e si ricade fatalmente in una teoria del rispecchiamento. L'archetipo non per caso diviene modello.» p. 59
《実際、もし芸術の純粋な内容物に構成される自然の理念が根源的諸現象において直観できるものになるなら、欠けていることは正に、芸術作品に本来備わっているように見えていて、避け難く反映の理論に落ちる〔関係の〕断絶のこのモーメントである。》

«La mancata distinzione, nell'ambito della natura, della sfera che più propriamente compete all'arte, la confusione tra archetipo e fenomeno originario, come conduce ad una banale concezione dell'arte come imitazione, tradisce al contempo le pur corrette esigenze che sono contenute nel concetto dell'Urphänomenon.» pp. 60-61
《(自然の領野における)芸術により固有に関わる領域の不十分な区別、アーキタイプと根源的現象の混同は、模造としての芸術のある凡庸な概念に帰結するように、同時に原現象の概念に含まれている全き正当な諸要請を裏切る。》


«L'assolutismo idealistico ha per risvolto l'empiricismo nell'osservazione dei fenomeni. Gli sfugge, secondo Benjamin, la forma peculiare di «idea» che il genere artistico assume una volta che sia configurato come fenomeno d'origine.» p. 66
《イデア論的な絶対主義は向き変えられたものとして、諸現象の観察の中に経験主義を持つ。ベンヤミンによれば、それは根源の現象として一旦形成されるなら、芸術的ジャンルが呈する《イデア》の特殊な形態を避ける。》

«Al concetto di origine di Benjamin è, invece, inscindibilmente connessa la nozione dì discontinuità, la consapevolezza che l'idea di una forma d'arte non è l'etichetta del catalogo, perché le opere che vi si comprendono aprono costellazioni storiche della verità.» p. 67
《むしろ、ベンヤミンの根源の概念に分かち難く繋がるのは、私たちに理解される諸作品は真理の歴史的な諸星座を開く故に、不連続性の教え—ある芸術形態の理念はカタログの分類ではないという自覚—である》


“... la storia appare soltanto come la frangia colorata di una simultaneità cristallina.” (Benjamin)
“…歴史は、ある結晶化した同時性の着色された粉飾としてのみ現れる。”(ベンヤミン)


«La virtualità del discorso storico impedisce alla dialettica degli estremi di broccarsi attorno al momento della sintesi. Gli estremi non si rapportano reciprocamente in modo antitetico quasi dal loro reciproco cozzare avesse da scaturire il momento superiore della totalità.» p. 71
《歴史的言説の潜在性は、諸極限の弁証法が総合の瞬間の周辺に突然停止することを妨げる。諸極限は、ちょうど相互にそれらがぶつかる状況で全体性の上位の瞬間が発生するようには、対立的な仕方では相互に関連しない。》

«Nel corso virtuale della storia, l'unità dell'idea si apre a rivelare sempre di nuovo altre valenze estreme. Si potrebbe definire questo procedere di Benjamin come il più paradossale rovesciamento della dialettica hegeliana.» p. 72
《歴史の潜在的な過程において、イデアの統一性はその都度常に、他の極限の諸価値を明らかにし始める。ベンヤミンのこの手続きはヘーゲル的弁証法の最もパラドキシカルな逆転として定義されうるだろう。》


〔第一章の最後は、イデア、静止した弁証法、モナドに繋がる論述で締められる。ここまでから導ける帰結は、特異性“概念”と特異性の“理念”との差異化だろう。〕


◻︎第二章「ある言語活動の哲学の方へ Verso una filosofia del linguaggio」

«Se la totalità non è data in un "continuum" mediale, ma si sprigiona dai singoli estremi, all'idea-monade compete il carattere dell'immagine.» pp. 77-78
《もし全体性が媒介=中間的な "continuum" において与えられないなら、しかしイメージの特性に関わるイデア-モナドにおける諸極限的単独性からそれは迸り出る。》

«Il punto di indifferenza tra nominalismo e realismo si qualifica così concretamente come la sfera del «medio» linguistico.» pp. 84-85
《唯名論と実在論のあいだの無差異の点は、このように具体的に言語学的な《中間》の領域として特徴づけられる。》

“Il nome è l'analogon della coscienza dell'oggetto nell'oggetto stesso. L'oggetto si scompone in nome ed essenza. Il nome è sovraessenziale, esso designa il rapporto fra l'oggetto e la sua essenza” (Heidegger, Der Gegenstand: Dreieck, VL, p. 14)
“名は対象自体における対象の意識のアナロゴンである。対象は名と本質において解体される。名は超本質的であり、それは対象と本質のあいだの関係を規定する”(ハイデガー)

«All'idea deve venire sottratto ogni carattere di sostanzialità.» p. 87
《物質性のあらゆる特性が取り去られるのは、イデアからであろう。》