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per l/a psicoanalisi

肯定的な哲学のために Per una filosofia affermativa

2024-04-19 02:02:51 | 試訳

★以下の小記事は、イタリアの著名な文化批評サイト Doppiozero〔ドッピオゼーロ〕に掲載されたものからの訳出である。

Michele Pavan

2019年8月23日

 

Roberto Esposito が『政治と否定——肯定的な哲学のために Politica e negazione. Per una filosofia affermativa』において展開する省察は、無活動 inoperosità、非の潜勢力 potenza-di-non、非構成化する力 potenza destituente (否定の倫理-政治的含意についての Paolo Virno のそれや、聖パウロにおける抑止する力 potere che frena の否定的カテゴリーについての Massimo Cacciari のそれ)の概念の周囲の Giorgio Agamben の省察を包含する、現代のイタリア的思考の内部に位置する。しかしながら Esposito は“免疫化 immunizzazione”(それは排除することよりも“対立の力を無効化するため、排除を意図することの部分を含む”否定性のエンブレムである)の概念における彼の提言についての特殊性と重要性に合流しつつ、否定性のパラダイムの排除的な特性を緩和する試み—そして、壊滅的な限界—への更なる貢献を付加する。

『政治と否定』の理論的成果は、初めの二つの章の中で Esposito により導かれた歴史-批判的作業なしでは、いずれにしても思考可能ではないだろう。古代ギリシャから十九世紀初めまでの哲学と政治学の内的な絡み合いは、密かにそれを通る否定的登記から再読される。特に、何か—ある存在、ある対象、あるカテゴリー—を、同時にその反対を否定することなしに定義する、典型的に西洋的な不能性が明るみに出される。この不能性はいくつかの近代的な政治カテゴリーの形成を条件づけた固有のものであった。不-必要や非-強制としての“自由”、善それ自体の所有へのあらゆる他の要求の不在としての“固有性”、国家の法からの非-依存の状態としての“主権”、固有な内部へと位置づけられた他の実体—大衆、群衆、多数者—とのコントラストの効果としての“人民”。この同様の不能性は、すでに別の世紀の当初に、政治的カテゴリー、別名ポリス polis の否定的価値—排除する以上の—を印づけた。アリストテレス的意義においては実際、このことは“一方では現前のモデルのアスペクトを引き受け”(たんに“生きること”と対比された“よく生きること”のモデルももちろん)、他方では(またそのことの徳において)“それに合致した行動をとらないすべての人々を締め出す”。

政治と否定の共属 coappartenenza はこのように二つのモードで歴史的に表出される装置 dispositivo の特徴〔外観〕を定義する。一つは政治的なものの否定的な傾斜において、もう一つは否定性の政治化のプロセスにおいて。もし最初の分析が政治的なものの諸カテゴリーの中で否定性を明確にすることを含意するなら、第二の分析は、それが(否定されるところのものの締め出しに向かう)“言語学的規則から論理学的規則へ、そして存在論的、最後には遂行的な規則へと”完遂する移行を示す。

分析のこの最後の斜面の上で、用語上の異なった諸領域によって十九世紀最初の哲学は Esposito にとって、特に寓意的な歴史に関する通路を表象する。否定性の政治化は Saussure の言語学的構造主義—言語 linguaggio を構成する諸要素の否定的、相対的、そして対立的特性に基礎づけられた—同様に、Freud の精神分析的理論(そこでは否定性は主体が肯定〔断定〕的な形では表現できないことの抑圧の媒介であるだろう)に根をおろす。それはあらゆる様式で、一連の過程〔訴訟〕のメタ政治学的諸効果がより明らかな手法により追跡される Carl Schmitt の思考の中においてである。ドイツの哲学と法学にとって、“omnis determinatio est negatio” の論理は政治的主体の規則を定義する。ここから、現行の秩序の存続を否定できることとしてだけかくある“主権者 sovrano”の理念が立ち上がる。政治的主体は排除(“内部の敵”の追放の布石)と壊滅(他の国家に対する戦争)の明白な形態において否定性を行使する。

Aristotele から Schmitt に至る、理論的観点からの否定的なものの強化は、自動的に(行為)遂行的観点からの排除する諸慣例の作動を招く。Esposito のアイデアはそこでこのような〔排除的な〕結びつきを、それらの解釈の多くの手から逃れたある否定性の繋がりを、排除的ではない意味で再び結びつけることにより断ち切ることである。Macchiaveli、Spinoza、Kant、Nietzsche、Deleuze、そして Foucault を繋ぐ原初的な赤い糸 l’originale “fil rouge” に戻ることで、イタリアの哲学者は否定性の概念のあるオルタナティブなアプローチの可能性を垣間見させる。これらの思想家たちの議論にしたがうなら、否定することは単に何かを排除することをもはや意味しないだろう、がしかし相互的な交換と混交をなしたある関連的な力学において差異を肯定〔断言〕することである。差異がそれ自体の上で肯定的な affermativa.または“肯定〔断定〕 l’affermazione”と両立可能な方向において排除的な姿勢を転換するまで自らを曲げることで、限定 determinazione と反対 opposizione は否定のカテゴリーを再考することにより、また、ポジティブな地平においてそれを含むことを証明することにより、根本的な座標に変わる。

ドゥルーズ的差異はここで分散が包含の原則として作用する視点において、差異が分離するというよりむしろ諸差異を交通させる瞬間に、決定的な役割を演じる。自体性は要するに限定 determinazione のカテゴリーとして重要である。この場合、Esposito の哲学の歴史への回帰は Spinoza を経由する。オランダの哲学者によれば、ある事物の限定は、実体を構成する無限の他の諸事物の限定に取りつかれた存在を含むことで、その存在論的地平からそれら〔諸事物〕が排除されないようにする。要するに反対 l’opposizione に関しては、このようなカテゴリーの肯定的な affermativa 価値は、接頭辞 obの前に davanti a”に相対して a fronte di”)の原則的な意味作用の中に全てある。ob 対照 contrapposizione”の動力学に生じることとは反対に、全てのその他について排除または無に帰することができる op-poste の極性がないことを当然含む。この点で、Macchiavelli における貴族と庶民のあいだの政治的コントラスト、カントにおける引力と斥力のあいだの実在的拮抗、Nietzsche における作用と反作用のあいだの力の戯れ、そして Foucault における権力と抵抗のあいだの力学は寓意的になる。

まさしくこの点で、『政治と否定』の最終的な提言が描かれる。(かかる二極性に共同体と免疫のあいだの弁証法が、それらの凝縮した、またありうるヴァリアントとして付加されうると Esposito は断言する。)特に、免疫化のカテゴリーはこのような弁証法の内部に決定的な役割を引き受ける。(“たんなる排除というよりはむしろ、ワクチン接種の実施が患者の身体にそれを防ぐ目的でウイルスの一部を注入するのと同様のやり方で、それはある種の排除的包含—衝突の力を無効にするために排除を意図することの部分を含む—を実行する”。)Immunis は、部分的にそれを引き受けながら、その限界(その引き受けが有害な諸効果—基準適合の認可、依存、搾取—の産出しかしえないこと以上の限界)を受け入れることを学ぶ方策で生きる、コミュニティーの結束で自分自身を保護することである。こうすることで、更には、普遍的なモデルに固有な異種性が基準に適合している、と認定することにしむける衝突の力を無効化しながら、それ〔immunis〕はコミュニティーそれ自体を全体(主義)的な横滑りから保護する。

免疫化はこのように、新しいパラダイムに合流することで、否定の排除的性格を和らげる。否定されることは、今や、肯定されることの反対ではなく、むしろ相互に排除し、また無にする反対のポジション(この場合、共同性と免疫性)の同等の可能性である。この可能性は、これら両極が保存する(取り扱い、また内包する)反対される可能性の一部と共に、全面的な肯定的傾向によって否定される。

同じパラダイムの下—しかるべき区別を考慮にしつつ—、Esposito の否定的なものの問題へのアプローチは最初に記されたイタリア哲学的な展望の思想家たちのそれと重ねることができるようになる。アリストテレス的潜勢力の否定的機能の周辺の Agamben の仕事を考えれば十分である。(否定されるのは—潜勢力と現勢力のあいだの力学において—潜勢力でも現勢力それ自体でもなく、むしろ第二のものにおける第一のものの統合的解決だろう。)同様のアプローチのトレースは Massimo Cacciari の『抑止する力』についての試論においても見つけられ、その中で“katechon ”のパウロ的カテゴリーを通じて、“遇する che trattiene”否定性の政治神学的勾配が探究される。しかし Paolo Virno の『否定についての試論』も二重否定(あなたを愛していないわけではない)の言語学的価値を主張する。二重否定は元の肯定〔断定〕(あなたを愛している)を復元する可能性への返送ではなく、言うなれば、その反対(あなたを愛していない)をも否定されるや否や、“(未だ表されていないニュアンスで満たされた)変形を通した情感”の複雑さをかかる様態で再構築することで、何かを保存することに関わるだろう。


☆セッションについての概要☆

2024-01-01 00:00:00 | Weblog

【精神分析セッション】を行っております。

【精神分析セッション】とは、精神分析技法を用いた、対話形式セッションです。

無意識に由来するトラウマやコンプレックスに、現実に向き合うことで、症状を含めた幅広い問題の根本的な解消を目指します。精神分析は、単なる一治療法に留まらず、幅広いあなたの悩みや問題に光を投げかけることでしょう。



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■方法:

『電話セッション』もしくは『対面相談』

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■料金と時間:

料金は固定では決まっていません。分析を行う者(分析主体、患者)の条件や状況により、個別で対応・設定をしております。お気軽にお申し出下さい。

*週一回ペースのセッションの場合は一回10000円ぐらいになっています。(おおまかな割合になります。経済状況も考慮に入れますので、ご相談ください)

尚、毎回のセッションの時間も、固定では決まっていません。それは、精神分析は無意識という領域を扱うという特殊な要請からくるものです。可変時間制を採用しています。


■契約形態:

月数回(最低でも週一回以上を推奨)のセッションを継続して行い、互いの同意の上に成り立つものです。

☆最初に、契約の大まかな取り決め等を行います。尚、どのようなものか知りたい方の為に、質問等もお受け致しております。ご相談下さい。


■ご予約・お問合せ:

【完全予約制】です。

ご質問などはメールでも承ります。こちらのアドレスまで。
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■注意事項:

※セッションの内容等は、外部に公表致しませんので、ご安心下さい。
※契約の際には、こちらの本名・住所・連絡先等を開示致します。
※近隣の方は契約の前に、お会いすることも可能です。(有料・約セッション一回分になります)


☆精神分析を実際に経験したい人の為に☆

2024-01-01 00:00:00 | Weblog

精神分析がどのようなものか?
精神分析には興味があるけど…。

実際に分析を経験したいけど、まだ踏ん切りや気持ちの整理がつかない人の為に、精神分析についての相談や話しは、Skype かお電話で無料で受け付けています。

その場で決める必要は全くありませんが、どういうものか興味がある人は是非、以下のメールなどからご連絡下さい。


gnosiseden★gmail☆com
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«Senza associazionelibera non c'è psicoanalisi» Antonio Di Ciaccia
「自由連想なしで、精神分析はない」


★自己紹介★

2024-01-01 00:00:00 | Weblog

1978年生まれ。埼玉県在住。精神分析家。


☆Twitterの前アカウントは完全なるに消去しました。現在は「@acephale319」まで。

※但し、見ていても意味はないです。 精神分析に関心がある人はぜひ精神分析を経験してください。


アーレント試訳3

2022-04-07 21:50:00 | 試訳
«Between Past and Future»所収、“WHAT IS FREEDOM?”の最後の節から。


全ての行為 act は、行為者 agent の観点からではなく、それが生じるフレームワークと中断するオートマティズムの過程の観点から見れば、何らかの予期されえない“奇跡”である。もし、行為 action と始まり beginning が本質的に同じであることが真実なら、奇跡を為すことの能力は、同様に人間能力の一つに加わるべきだろう。そのことは実際上よりも奇妙に聞こえる。“無限に〔おおよそ〕起こりそうにないこと infinite improbability”として世界へ割って入ることは、あらゆる新しい始まりの本性であり、しかも、私たちが現実と呼ぶあらゆることの真のテクスチャーを実際に構成しているのは、まさにこの無限に起こりえないことなのである。つまり、私たちの全存在は一連の奇跡に基づいてあり、それらは、地球の存在者への生誕、そこでの有機的生命の発達、動物種からの人類の進化である。宇宙と自然における過程の観点、そしてそれらの圧倒的な蓋然性の観点から、宇宙的過程からの地球の生起、非有機的過程からの有機的生命の形成、最終的には、有機的生命からの人間の進化は“無限の起こりそうにないこと”であり、それらは日常語における“奇跡”である。どんなに恐怖あるいは希望の中で予期されていたとしても、ひとたび出来事が起きるなら、私たちに驚異の衝撃が走るのは、全てのリアリティーにおいて現前する“奇跡的なもの”のこの要素のためである。ある出来事の衝撃は決して完全に説明できない。その事実性は原理的に全ての予期を超えている。出来事が奇跡であることを私たちに告げる経験は恣意的なものでもなければ、殊更に複雑なことでもない。それは、反対に、最も自然的であり、実に、殆どありふれた日常の生活の中にある。このありふれた経験がなければ、宗教がこの超自然的な奇跡に割り当てた部分は、殆ど理解不能であっただろう。

私が何らかの“無限に起こりそうもないこと”の到来によって妨げられる自然的過程の実例を選んだのは、私たちが日常的な経験の中で現実と呼ぶことの殆どが、フィクションよりも奇なる(偶然の)一致を通じて存在するに至ったことを例示するためである。もちろんこの例には限界があり、単純に人間事象の領域に適応されえない。歴史的または政治的過程が自動的となっているコンテクストで、奇跡、つまり“無限に起こりそうもない”ことを望むのは、完全には排斥されえないにせよ、まったくの迷信であるだろう。自然と対をなすように、歴史は出来事に満ちている。この領域では偶然の出来事と無限の起こりそうにないことの奇跡は頻繁に起きるため、奇跡を口にすることがそもそも奇妙なことに思える。しかし、このような奇跡が頻繁に起きる理由はただ、歴史の過程が人間のイニシアティヴ——彼が行為する存在者である限り、人間が持つ始まり initium——によって創造され、絶えず中断されるからである。したがって、政治的な領域において、予見不可能で予言不可能なものを考慮し、“奇跡”に備え、そしてそれを見込むことは、迷信であるどころか、リアリズムの勧告でさえある。そして天秤が凶事の方に重く傾けば傾くほど、自由に為された行いはそれだけ奇跡的なものとして現れる。なぜなら常に自動的に生じ、それゆえに常に抵抗しがたいものとして必ず現れるのは、救済ではなく、凶事だからである。

客観的に、すなわち外側から、そして人間は始まりであり始める者であることを度外視して眺めるなら、明日が昨日と同じだろう〔偶然の〕確率は圧倒的である。確かに、地球が宇宙的発生から決して出現し“なかった”確率、非有機的過程から生命が発展し“なかった”確率、動物的生命の進化から人間が現れ“なかった”確率としては、それほど圧倒的ではないが、殆ど圧倒的に等しい。私たちの地球上の生命のリアリティーが基づく“無限に起こりそうにないこと”と、歴史的リアリティーを樹立するそれら出来事に固有の奇跡的な特徴のあいだにある決定的な相違は、人間事象の領域において、私たちが“奇跡”の作者を知っているということである。それは、奇跡を実演する人々 men——自由 freedom と行為 action の二重の天分を受け取っているが故に、彼らに固有なリアリティーを樹立することのできる人々——である。


主権の二極——支配から自由へ至るための中間報告

2022-03-07 19:18:00 | Note
《法学における非常事態は、神学における奇蹟に比すべき意味をもっている。》
——カール・シュミット
 
 

Sovereignty の訳語として、日本では「主権権力」という用いられ方が一般的に定着しつつある。だが、至高性 sovereignty としての主権には、そもそも過去からの伝統と今という時において、それ自体に分裂を持ち込む契機 (1)* を宿している。

注: (1)*→主権的 sovereign であることは、法 law の外側も内側も“同時に”示している。また、それは広義に“危機”という事態でもある。また、sovereignty を「主権権力」と訳すことは、主権そのもののプロブレマティックを一方に偏らせることになりかねない。また、近代のアカデミズムならびに政治的な省察と実践の「混同」を踏襲してしまうことにもなる。
 
Sovereignty に対する二つの態度、それらをポジティブ-ネガティブと呼ぶことを受け入れるにせよ、中間性に立ち停まるという第三のあり方が当初からアガンベンにはあった。〔soglia〕
 
しかし、この概念に二つの契機が、実際的にであれ潜在的にであれ、絡み合ったままだという認識は見過ごされいる。言い換えるならそれは、〔法の〕権威と権力の問題である。(2)*(故に、私はある種の還元主義には同意できない)
 
注: (2)*→事実、ジョルジョ・アガンベン『例外状態』の第6章はそれらの分析に捧げられている。
 
権威は既に、それに連なる過去と、あるいはラカン派の用語法を再び導入するなら〈父の名〉という正統性の問題(正当化)を前提とし、〔主体に〕服従を強いる、あるいは、〔主体の側が〕そのような服従の意志を持つ(どちらにせよ、そこでのファルスのシニフィアンは主体に対してはポジティブな作用としてある)。(3)*
 
注: (3)*→ここではまだ、そのような正当化が合法的なのか、伝統的なのか、カリスマ的なのかは問わないでおく。だが、それは唯ひとつの人格に結びつく時には、重大な帰結を伴うことは示唆しておいていい。
 
一方で、権力とはそもそもが潜在的なものであるが、そのような権威を介することで生に対して実定的な傾向を帯び、それは容易に否定的なものへと転じる。(生政治から死政治への反転)
 
ラカンが分離の根源に見た〈父の名〉、そして、コミュニティの紐帯にある正統性の問題。それは、アーレント的に翻訳するなら、前政治的な家族という領域〔必要性=必然性〕であり、系譜の連続性の問題である。
 
いずれにせよ、導きの糸となるのは、sovereignty における «auctoritas» (authority) と «potestas» (power) の分裂の様相——relegare から religio の派生、ラカンの破門、キリストの情熱——である。故に、政治的な身振りは宗教的なそれと不可分であり、その複雑さは宗教や信仰のテーマ(sacro や santo)として反覆される。〔サントーム〕
 
 
■アーレントにおける「権威 authority」の問題
 
《権威は常に服従を要求するので、それは一般に権力や暴力のある種の形態と間違えられる。権威は抑圧の外的手段の使用を排するが、強制力が使われるところでは権威は失敗し続ける。他方で権威は、平等を前提にし議論の過程を経る説得と両立しない。議論が用いられるところでは、権威は停止した状態にある。常にヒエラルキー的である権威主義的な秩序は、説得の平等主義的な秩序と対置している。仮にともかく、権威が定義されるなら、それは力による強制と議論を通じた説得の両方と矛盾しているはずである。》(4)*
 
注: (4)*→ハンナ・アーレント『過去と未来の間』邦訳p.125参照。尚、ここでの訳文は引用者が原著から改めてした。
 
これをどう考えるべきか? アーレントにおける権威は、服従と強制力、平等と議論のあいだでダブルバインドの状況に置かれている。些か早急な結論に思われるかもしれないが、この事態はアガンベンの例外状態の問題と相同性を描きながらも通底しないだろうか? つまり、主権における例外状態は、法の“権威を”宙吊りにすることで、その“無力”を明らかにするというそれである。〔iustitium〕(5)*
 
注: (5)*→《ユースティティウムは——すでに見てきたとおり——法秩序のまがうことなき停止を生み出す》『例外状態』邦訳p.159
 
例外状態を産出することでに主権が作動し続ける。この面のみを見て強調すると、法という観点のパラドックスが抜け落ちる。主権が法の内側と外側を“同時に”指示しているとするなら、法の観点(宙吊りや停止)はそこに時間的な差異を持ち込むであろうことに留意がいる。両者は叙述の複雑さに惑わされなければ、異なる操作子でもある。〔ここに、legitimacy と legality を区別する論拠をみてもいい。例えば、Homo Sacer 全著作においても、その両方が複雑に絡み合ったまま分析される場合もあれば、どちらかの観点から論述される場合もあるだろう〕
 
つまり、近代の主権の根本的なパラドックスはその混同によって、過去からの伝統と現在の強制力の行使が同時性の下に実定的に置かれるということに表れている。故に、そのような“権力と思われている強制力ないし暴力”は、過去の伝統を必要〔必然〕とし、それが法においてはある種の空白を導き入れると仮定できる。
 
先のアーレントの引用は、主権-権威-権力の区別を導入すれば、難なく受け入れることができるだろう。また、「抑圧の外的手段の使用」を為すのは、“主権的ではありうる”が権威の側ではない。そしておそらくは、アーレントにとっての権威は“近代の政治学”のアポリアを構成していた何かではあった。(そして当初、アーレントが近代における権威の喪失を嘆いたのは、他ならぬ“権威の輝き”についてであり、ローマに特有の権威という用語はギリシア語に翻訳する際には単一の意味に還元することは不可能にも関わらず、アーレントはそれを古代ギリシャの政治体に現れていたものとして認めていたのではないだろうか?)
 
 
■アガンベン『例外状態』における権威 auctoritas
 
《権威と権限とは、互いにはっきりと区別されている。しかしまた、それと同時に両者は一体となって二項からなるひとつの体系を形成しているのである。》ibid., p.158
 
《極限的な事例——すなわち、もし例外と極限的状況こそがつねにある法的制度のもっとも本来的な性格を定義するというのが本当であるとするならば、その本性をよりよく定義する事例——の場合には、権威は、“権限が生じているところではそれを停止させ、権限がもはや効力をもたなくなってしまったところではそれを復活させる力”として作用しているように思われる。それは法を停止したり復活させたりするが、形式的には法としての効力を発揮することがないひとつの力なのだ。》ibid., pp.159-160
 
《権威が法の停止というその特殊な機能を発揮する第三の制度は、……》ibid., p.161
 
《ここで権威は、一瞬の間だけ、その本質を明らかにする。「適法性を授与する」と同時に法を停止することのできる潜勢力は、その法的無効性が最大限に到達した時点でもっとも本来的な性格を露呈するのである。これこそは、法が全面的に停止された場合にも法に残っているもの(ciò che resta del diritto)なのだ(この意味では、それはカフカの寓話のベンヤミンによる読解のなかで、法ではなくて生であると言われているもの、あらゆる点で生と判別不能になってしまった法にほかならない)。》ibid., pp.162-163
 
ここで、特筆すべき問いは、アガンベンにおいて権威は、もはや法と区別がつかなくなった生を“構成する”ということである。これは、《生-の-形式 forma-di-vita》や『いと高き貧しさ』において展開されたそれに繋がる。いずれにせよ、『例外状態』における auctoritas の扱いは、アガンベンの著作を読み解く上で重要なキー概念であることは押さえておくべきだろう。
 
また、アーレントとの違いを述べておくなら、権威は権力がもはや効力をもたなくなってしまったところで、それを復活される力としても機能するということである。そのような権威の様態を法秩序の中でも潜勢力に留まる何かと言い添えておくことは無駄にはならない。(6)*
 
注: (6)*→このことについては、後の叙述で明らかになる。
 
 
■シュミットにおける「権威の介入 auctoritatis interpositio」pp.24-26
 
《従って、いっさいの変形には「権威の介入 auctoritatis interpositio」が存在する。そのような権威をどの個人や機関が主張しうるかは、その法規の法的実質のみからでは明らかとならない。》「政治神学——主権論四章——」(『カール・シュミット著作集I』p.25)
 
 
■ヴェーバーにおける「支配」と「権威」——正当性の信念と要求として
 
《この意味での支配(「権威 Autorität」)は、個々の場合についてみれば、従順性の種々さまざまのな動機——漠然とした慣れから始まって、純粋に目的合理的な考量にいたるまでの——にもとづいたものでありうる。一定最小限の服従“意欲”、すなわち服従することに対する(外的または内的な)“利害関心”があるということが、あらゆる真正な支配関係の要件である。》(マックス・ヴェーバー『支配の諸類型』p.3)
 
これは、マックス・ヴェーバー『経済と社会』第三章第一節からの引用 (7)* である。ここでは先ず最初に、“支配の側から”見れば服従を見出しうることがチャンスであると定義され、そのすぐ後に、“服従の側から”の意欲や利害関心が問題にされている。だが、それらの動機のみでは、支配の信頼しうる基礎を形成できない。通常はもう一つ別の要素、「正当性の信仰 Legitimitätsglaube」が付け加わっている。
 
注: (7)*→この引用に関しては邦訳『支配の諸類型』から為した。だが、ヴェーバーの『経済と社会』は旧稿と新稿の間で、権威や支配の概念の用い方において、ある相違が見受けられる。このことについては、「マックス・ヴェーバー『経済と社会』における旧稿から新稿への概念変更について 「支配」概念と「家父長制」概念」(三笘利幸, 2016年)を参照されたい。また、引用者はそのことを考慮に入れて、ここでの論述を解釈している。
 
《すべての支配は、その「正当性」に対する信仰を喚起し、それを育成しようと努めている。》(ibid., p.4)
 
ここで先に、ヴェーバーが支配を権威とも言い換えていた意味が明らかになる。ヴェーバーにおいて権威は、支配の“正当性の信仰ならびに要求”と繋がる。そして、どのような種類の正当性が要求されるのかに応じて支配の諸類型も変化する。支配の種類は、それぞれの支配に典型的な“正当性の要求 Legitimitätsanspruch”に基づいて区別されるのが目的に適うと述べられ、次によく知られる正当的支配の三つの純粋型が導出される。(この分類型は機能便宜的にも解釈され、ある特定の政体について言われる時は複合的でありうる)
 
1. 合理的な性格をもつ、合法的支配 legale Herrschaft
2. 伝統的な性格をもつ伝統的支配 traditionale Herrschaft
3. カリスマ的な性格をもつ、カリスマ的支配 charismatische Herrschaft
 
〔支配する側からの〕正当性の要求←→支配(権威)←→〔服従する側からの〕正当性の信念
 
それぞれの支配は、正当性の要求——つまりは、この要求こそが「正当化」の努力の賜でもある——に基づき区別されるのだから、合理的な性格、伝統的な性格、カリスマ的な性格のそれぞれに権威についての信念を喚起し、正当性の要求をする何かがあると断定できる。(8)*
 
注: (8)→それぞれの支配の形態の権威性を端的に言い表せば、形式的な合理性、時間観念の連続性、超自然性に求められよう。また、この中でもカリスマ的支配のみが“非日常的な”性格をもつことにも留意がいる。
 
 
再び主権の問題に戻ろう——。主権概念に付随する臆断 (9)* とその機能のあり方について、我々は最初に伝統との兼ね合いから推論を働かせてきた。だが、主権が限界において、非常事態についての決断を下すのだとすれば (10)*、それは“日常性において機能する伝統的な権威”に訴えるだけでは何かがまだ欠けている。主権それ自体の「源泉」において、元来は“非日常的であったカリスマティックな権威”が想定されている。つまり、主権に冠せられる神聖さの源泉は、カリスマ的であると同定していい。言い換えるなら、非常時に主権が法秩序の停止(例外状態)を産出するのは、それが通常時には包摂されていない“主権のカリスマ的な源泉”(カリスマの権威)を呼び覚ますからである。
 
注: (9)*→カール・シュミットの言葉を借りれば、その臆断とは、純粋な決断とは区別されるところの決断主義・決断の回避(決断しないことの決断)・独裁のことである。
 
注: (10)* →《主権者とは非常事態についての決断者である。》(Schmitt, op.cit., p.2)、《……私は伝統的歴史記述図式に反し、十七世紀の自然法論者たちも、主権の問題を非常事態の決断の問題と解していたことを示した。》(ibid., p.5)
 
 
■再びヴェーバーによるカリスマ理論の特異性へ——支配から自由への扉
 
《“カリスマ的な”性格のものであることがある。すなわち、ある人と彼によって啓示されあるいは作られた諸秩序との神聖性・または英雄的力・または模範性、に対する非日常的な帰依にもとづいたものでありうる(カリスマ的支配)。》(Weber, op.cit., p.10)
 
ここまでの考察から我々が得たことは、ヴェーバーの正当性支配の類型においてカリスマ——特に「純粋 rein」や「真正 genuin」という形容詞つきで呼ばれた形態のそれ——は、例外的な地位を持っているのではないかという問いである。カリスマは古代ギリシャ語のカリス Χάρις, Charis——それは、ギリシャ神話に登場する美や優雅さを司る女神たちを指示する——に由来し、“神の恩寵の賜(賜物)”という意味で用いられる。そして、ヴェーバーにおいてカリスマ的な権威性は、その信奉者たちによる自由な「承認」を必要とする。
 
《カリスマの妥当を決定するものは、“証し Bewährung”によって——始原的には、常に奇跡によって——保証された、啓示への帰依、英雄崇拝、指導者への信頼から生まれるところの、被支配者による自由な“承認 Anerkennung”である。しかし、この承認は、(真正カリスマにおいては)、正当性の“根拠”なのではなく、むしろ、それは、召命と証しとによってこの資質を承認すべく呼び迎えられた者たちの“義務”なのである。この「承認」は、心理学的には、熱狂〔法悦〕やあるいは苦悩と希望とから生まれた・敬虔な・全く人格的な帰依〔献身〕である。》(ibid., p.71)
 
《というのは、カリスマ的な権威の事実上の妥当は、一にかかって、「証し」にもとづく被支配者による“承認”に依存しているからである。この承認は、有資格者——“したがって”正当性をもつ者——に対しては、いうまでもなく“義務的”である。》(ibid., p.138)
 
このような見地に立って、我々はようやくアーレントによる活動論の評価を“正当に”下すことができる。アーレントにおいて、「始まり」を為すところの行為者は既にある人間関係の編み目、あるいは人々の間に依存していた。そして、ヴェーバーにおけるカリスマ的支配の正当性や権威は、その信奉者たちによって自由に“承認”されることに依存している。(また、両者は厳密には異なる様相にあるが、共通していることはどちらも脆く儚いあり方をしているということである)(11)*

注: (11)*→更に踏み込みで、両方の違いについて言及するなら、それは「奇跡」についての捉え方である。アーレントにとって奇跡は、日常性の中で経験されるものとしてある。詳しくは、→参照のこと。

 
それらの問題は、単に“非日常的なカリスマ的支配が日常化した形態”とは区別されるべき問題を叙述することになる。つまり、総じて述べておくならば、主権のパラダイムはその法との関わりの中で、日常性と非日常性の間の可変的な様態を構成しているという事態である。

日本社会成立の前史的な諸問題(公共性の概念を手がかりに)

2022-01-30 17:06:00 | Note
■公とオオヤケ——その言語的な翻訳推移と二つの欠落
 
まず初めに、日本に「公」の概念がもたらせられたのは中国からである。中国語の「公(コン)」はヤマト言葉の「オホヤケ」と近接関係に置かれ包含される。(言語推移的な“翻訳”としての包含)

古事記にはオオヤケという言葉は登場しないが、それは「大屋処」、つまり「大いなる屋のある所」の意味であり、この「大」は量的な大きさのことではなく偉大、尊貴、第一などを表し、「屋」は人間の住む俗なる住居としての「家」とは本質的に異なり、天つ神の住居である。この「屋」は「政(マツリゴト)」の場としても据えることができる。これを見ただけでも既に、日本における「公」の思想には古くから政治的な問題があることは肯首できる。また逆に、この「公」概念の変遷が日本の政治概念の変遷と何らかの相同性を描くことになることも予見可能だろう。

また、強調しておくなら“共同性としての”公は、古代日本においては血縁関係を“決して意味してはいなかった”ことも敷衍すべきだろう。最初の言語的な推移が引き金になり、後の「公」概念の変遷や異同となり、また政治的な場に何らかの影響を与えたことは、想像に難くはない。オオヤケと公を厳密に区別するなら、おそらくは中国から日本へと流入した公が多様な変化を被る一方で、日本語古来からオオヤケの原義は見失われたことも推論できる。(また、中国語の公には背私平分に基づく「利己を排すること、公平に処すること」という意味があるが、日本のオオヤケにはなかったと言われている)

つまり、公の中国語の原義と日本に元々あったオオヤケ概念のその翻訳的な推移には二つのある欠落が生じている。中国語の公からは背私平分の意義の伝達の欠如が、そして翻訳の推移に基づいてと仮定されるが、元来の日本語のオオヤケからは超越性の審級の忘却が。これら両方が今日に至るまで日本の政治的な思考にある影——それは、その聖俗の弁証法を決定づけてもいるだろうし、もちろん個人のレベルにも深く浸透している——をもたらしていると、ここでは想定していい。

 

■私と個人の様相——ワタクシとは何か・誰か・何処か? あるいは日本人は、ペルソナとプライベートの意味を理解できたか?

オオヤケはワタクシの対立概念ではなく、共同体の成員、すなわち「ヤカラ」と、屋の代りという意味の「ヤシロ(屋代=社)」との媒介概念であると、安永寿延 (1976) は説明している。そして、共同体の成員「ヤカラ」は、血族集団の「ウカラ」と異なり、血縁にかかわらず同一の「屋」に集結する集団——同一の神ないしシンボルのもと、ヤシロに集結していた集団——のことである。安永を引用しよう。

《古代では、オオヤケはヤカラ(同族)を統率する族長に代表される場合と、この族長に従う人びとの間の共同性を意味する場合とに、微妙に分岐する。むろん共同性としてのオオヤケは族長としてのオオヤケと接合していて、単独に自立することはない。このように、家から族長へという、オオヤケの観念の実体的な展開に媒介されて、オオヤケという言葉はシンボリックな意味あいをもつようになり、その中身が徐々にふくらんでいく。例えば、族長の発する言葉や、彼が触れる物や人、要するに彼となんらかのかかわりのあるものは、いずれもオオヤケ性をおびるようになる。》(1976: 34)

つまり、〔ヤシロとヤカラの媒介概念である〕オオヤケには族長と共同性という二つのコンテクストがあり、その超越性の審級が忘却されたが故に、その後の「公」概念にはワタクシが癒合・癒着的な関係として、また浸蝕するような形で縫合されている、つまりは《単独に自立することはない》という事態がうかがい知れる。また、この引用内に見られるオオヤケという言葉の《シンボリックな意味あい》はフェティシズムの要素を孕み、“超越性としてのシンボル”—— 先に挙げたオオヤケの原義に従えば、「屋」はこの地上の「家」のことではなく天つ神の住居である——と区別すべき現象である。

そのような、原初の忘却とシンボル性の遷移(超越性からフェティッシュへの)、そしてオオヤケ概念のトポスの異同(屋から家、そして族長への)は天皇制の構造や国家の機構にまで色濃く反映され、ワタクシを規定していく。(1)*

《したがって、「私」は、……上位者から賜ったもであり、したがってそれは「公」の影にすぎないが、……「公」に対するひそかな浸蝕である》(1976: 41)

我々、日本人が私という時。それは半ば無意識的に、あるいは自動的に複雑奇怪な複数のコンテキスト——公に対して、また対外的には英語圏やヨーロッパに対しても——を巻き込んでしまうのは、歴史言語論的な問題に属している。(おそらくそれは、インド・ヨーロッパ語族の言葉の一人称のようには扱えまい。そして、それらの言語の根底に影響を及ぼしているキリスト教思想の概念装置に無自覚であることは、大多数の日本人に当てはまることも否定できまい)

その事実は、「公-私」の縫合的な癒着関係が「官-民」の間にも持ち込まれるという事態を招くようになる。換言すれば、オフィシャルな問題に対して私情を挟み込むことになる。(その最後には、「天下り」という問題が待ち構え、当事者はその私情によって公務を維持することを半ば強要される)

ヨーロッパではキリスト教という伝統が根づき、その装置によって個人 persona がパブリック public なものとプライベート private なものを峻厳に区別することで分離し、その精神は市民社会 citizenship として受け継がれている。日本にはおそらく、マージナルで中性的な人びと people はいる。だが、中間性——ここでの中間性は、公私の区分というよりは、人々の間の共通 common という性質を含意している——としての citizenship を理解しそれを実行する人間性は育まれにくい実情がある。

また、日本的な公私の包含的かつ重層的な癒着の構造は、ヨーロッパ的パブリックとプライベートの区別を理解しないばかりか、コモンという公共の性質をも脇に追いやりがちなことは指摘すべきだろう(歴史や現代の日本社会でもごく僅かな人たちが、このコモンを重視していることまで私は否定するつもりはない)。現代の日本を覆っている問題は、私的領域の欠乏ではもはやない。むしろ、その過剰と未成熟に他ならない。

注: (1)*溝口雄三 (1996: 30-31) は「私」の文字の起源を甲骨・金文の中にまで探っているが、「私」の意味に解釈される文字は発見されていないという。また、大野晋 (1999: 152-153) によれば「私(ワタクシ)」は語源未群の訓読語のようである。両者を併せて考えるなら、おそらくは日本におけるワタクシの構造は独自の形成過程を保存している。また慣用表現においてワタクシをウチと呼ぶことは日本人にとってはほぼ当然のことでもある。

 

■「オオ(オ、ヲ)」から「ミ」への変換(御→宮→官→君)ともう一人のワタクシ、即ちキミへ

続けてまた語源的な話をする。オオヤケ概念に原初的な忘却とそれに伴うトポスの変容があったと省察したのは、先述の通りである。では、それらが如何にして日本特有の統治性の概念として、支配構造の文脈(土地や力関係に結びつく大小の関係)へと移行したのだろうか?

オオヤケとは、この地上の家のことではなく「屋」という言葉との関連に置かれていた。だが、それが支配構造へと転化する時、オオヤケは“大きい家”という地上的な、あるいは財力としては量的な意味を獲得し、ヲヤケ=“小さい家”を支配するようになる。ここに「大」が「小」を支配するという包摂的な入れ子の構図ができあがる。見方を変えて言うなら、大は更なる大から見れば小でもあり、小は更なる小から見れば大にもなる。(それは、日本的な曖昧な公私の縫合的区分ともパラレルであるし、家族内では大人と子供の序列的な関係にもなる)

また、オオヤケが大小の包摂的な相互癒着の関係へと変異するに伴い、かつてのその超越性の審級の問題は、ミヤケが請け負うようになる。つまり、日本語の「ミ」とは何らかの形でその超越性の問題を代理するようになる。(オフィシャルな領域への変換)

簡単にだが、整理してみよう。

1. 元の超越性の審級としてのオオヤケ

2. 原初の忘却と支配構造への転換

オオヤケ→(支配)→ヲヤケ

オオヤケ→(支配)→ワタクシ

3. ワタクシにとって上(つまり、公的なもの)を意味する事象や人称に対しての「ミ」への変換(請負と代理)、つまりはオフィシャルな領域としての官僚制への分化

ミヤケ、ミヤ、ミカド、キミ?(二人称の位格へ、もう一つの一人称)

御、宮、官、君?(君もまた、別の私である)

そして、「公」は訓読みでは「キミ」とも発音され、「君」も同様であり同列の立場にも置かれる。そして、「君」は音読みでは「クン」である。

この推論が正しければ日本語の二人称の関係は相互に道徳的責務(あるいは道義的責任)を負うことにも相当するだろうし、日本人の倫理観——より正確には、道徳観——としての「公-私・官-民」の複雑さを説明することもなる。だが、日本人はそのしがらみに深く従属するあまりに倫理的な“感性”が育まれる余地がないともいえるだろうし、儒教の影響によりそれらの関係性が「正-不正 just-unjust」としても意識されてもいる。(正義 justice としての「公」概念は無論、歴史的に捏造、そして正当化 justification されうるし、また日本人にとっての権威 authority の概念——いわゆる、上からのお墨付き——もその域を出ていないと断定できる(2)*

注: (2)*→ハンナ・アーレントは論文「権威とは何か?」の中で、《権威は常に服従を要求するので、それは一般に権力 power または暴力 violence の形態と間違えられている》と述べ、続いて《常にヒエラルキー的である権威主義者の秩序は、説得の平等主義者の秩序に対置している》と指摘している。〔ハンナ・アーレント『過去と未来の間』邦訳p.125参照。尚、引用箇所の訳は引用者が原著から改めてした〕


《オホヤケという地名は、コヤケ・ヲヤケではないオホヤケ=大きいヤケ=大きい建物のある領域の呼称として、地方各地に散在していた。そしてそれらは天皇・朝廷にかかわるミヤケとは別のものとみなされていた。このことは、オホヤケがミヤケ(天皇直轄地、機構)より前に、ヲヤケ・コヤケとともに日本に存在していたものではないか、と推量させる。》(溝口1996: 13)

そして、ヤケ(オホヤケ・ミヤケに共通している)はイヘ(イエ)に関連がある語で、イヘが人間の集団や家族と深い関わりを持つのに対し、一方ヤケの側はどちらかといえば施設や機構を指し示している(オホヤケの二つのコンテクスト)。このことは、オホヤケ・ミヤケの側が日本特有の官と公的なものを同一視する傾向と結びつき(事実、「官」という字はミヤケ・ツカサ・オホヤケと訓み分けられていた)、イヘの方は“官に対して”は家族の私的領域を形成しているのは、先に分析した〔原初的忘却以後の〕支配・管理構造の転換を物語る興味深い例証である。だが、ここではそのような「間柄」は依然として二人称的であることを覚えておきたい。(ヨーロッパ社会のペルソナという概念装置は、三人称に関わる問題であり、それはまた聖性の概念とも近くある)

 

ここまでの考察から、いわゆる日本人にとっての公的なもの(「お上」と呼び換えてもよい)は、アーレント的パブリックの領域とは全く趣きを異にしていると同定できる。それは、その平等主義と対置する権威主義的政治体制であるということもできただろう。

そして仮にだが、日本人的な主体=臣下——公僕や僕、国民と呼び換えてもそのあり方には変わりはない——を想定するなら、その一人称で呼ばれるところの「ワタクシ」は、家政の私的領域にも、また社会集団的な単位としての個においても、あるいはオフィシャルな領域でその実行性を代理する地位や身分、それらの関数=機能においても、曖昧なままで一括りにされているに違いあるまい。それは、「人格」の主体としてはありえず、絶えず公的なものから、あるいはその権威性から承った影としての「身分」を物語ってもいる。(この構造は、日本が近代社会をヨーロッパ社会を模倣することにより形成した際も無批判なままであり続けただろうし、当時の知識人階級ですら気づきえなかった事柄である)

そして、そのワタクシの構造の不分明な曖昧さは、いわゆる「空気」や当然の「約束事」(あるいは「道理」)として、共同体の結束を強化するものとして機能し、時に「滑稽さ」として笑いの対象—そこに自虐的な攻撃性の毒を見取るのは容易い—にもなっている。

歴史的に言い直すなら、このような「ワタクシ」という地位・身分の曖昧な概念規定の特異性 (3)* こそが、日本史の構造の根本的な問題として無自覚なままに受け継がれている事態に相違あるまい。それは、日本人の無知なのであり、その情熱でもある。そして、その特異性のシンボルは日本史的にも、一つの王族の身分——年代的には、公=官=天皇という図式が完成したのは律令制においてである——に“リフレクティブに”収斂するはずだろう。オオヤケのシンボル性が人格に推移することと、日本人がそれを実体論的に捉え、一つの人格にはなりえないことは興味深いパラドックスでもある。要点を先回りして述べておけば、日本人の公私概念がリフレクティブな投射=投影によって互いに入り組みあっている事実は、天皇制という極限の構造を保存し、また必要ともしている。(諸個人の行為性が世界を介在とし公私の分離を生じさせる事とは、まるで異なるあり方を余儀なくされている)

注: (3)*→「公」が“主人一般”を指し示すようになるのは戦国時代以降であり、室町時代辺りから「わたくし」という言葉が“目上の者に対した場合の”一人称に転用されるようになる。両者はほぼ対応しており、「奉公滅私」という言葉はその前身にあたるが、そのような「お上」に尽くし仕える精神性の風土は、近代以降の日本社会においても往々にして見られたことであるし、日本における公私概念がヒエラルキー的秩序として考えられていることの証左でもある。またそのことは日本人にとっての「個人」観が決して単独で独立した者ではありえずに、何らかの社会的コンテクストに従属した単位として以外は想像できない事実をも逆照射している。それはまた、ヨーロッパ由来の「個人 person」という概念がそのまま「わたくし」という言葉の外延的なイメージとしての、つまり日本人的な公私観としての「私」に転じてしまうという奇怪な事態を招くに至る。(両者を媒介したのは日本朱子学であり、日本近代の“伝統的な”個人観もその影響下から展開されるようになる。また日本近代文学の「私」小説の特異な地位は、その曖昧なまま地続きであった「私=個人」の内的な葛藤が表現される場でもあった)

 

■天皇制成立における歴史的起源の諸事情——力 force を正当化する為の諸制度、あるいは権力なき権威 authority without power の極北として

《最も強いものでも、自身の力 force を権利 droit に、服従 obéissance を義務 devour に転化させない限り、いつまでも主人であり得るほど、強いものではない。》——ルソー『社会契約論』第一編第三章

まずは、日本の「国家」形成の基礎を振り返ってみよう。それは、歴史的には二つの文明との外交や影響とは切り離すことはできない。一つは中国であり、もう一つは欧米である。両者は、日本史・制度上の「日本国家」なる政体のエポック——古代律令制と明治期の近代化、そして戦後——を画定してもいる。故に、そのような政治的な国家体制は、最初に法制学上の問題として立ち現れるはずだろうし、またそれは広義に正当性や適法性の概念——legitimacy ないし legality——に収斂する。(もちろん、それらには特有の経済システムもあるが、そのような管理経営も適法性によって保証ないしは保護された限りで取り仕切られる)

また、言い換えればそれは、日本史制度内における理性支配と正当化の概念史——あるいはその是非は置いとくとして、発達史——と呼ばれうる。(4)*

注: (4)*→水林彪 (2006; 70-71) は、中国の律令制において首尾一貫した論理性や合理的体系的思考の成熟が認められることを指摘している。《律令は、郡県中国において、皇帝の支配の及ぶところにあまねく妥当せしめられた普遍的な性質の刑法・行政法であった》。日本が近代化において引き継ぐ、19世紀ドイツに誕生した刑法・刑法学も同様の《精緻な論理的構築物》である。

話を見失わないよう述べておけば、ここでは日本国家と天皇制の“歴史的”関係に重点を置いている。先に我々は、「オオヤケ」の翻訳語としての中国語の「公」が採用された経緯を見てきた。ヤマト言葉の「オオヤケ」の原義には、人間の住む俗の家とは異なる「天つ神の住居」という意味があった。そして、古代の日本にはまだ、十全な意味における王権が存在していなかったことを考慮に入れれば、中国からの律令制の導入に伴い王権国家としての色彩を帯びてきたことは想像に難くはない。その時に必要になるのが、その支配を権威づける制度上の問題であり、日本は恐らくは、それすらも中国から借りてきている。それは、「天」という規範性を含意する言葉である。(オオヤケ—公—天の人物的な同一視ないしは権威化)(5)*

注: (5)*→この推論に異論が挟まれることは十分に承知している。ヤマト政権・前方後円墳体制が王権成立“以前の”政治秩序であるとは、それが支配者と服従者という質の異なるヒエラルキーを“意味してはいない”ということである。この前方後円墳時代に、既に中国からの影響により、「地」と「天」——「方」形と「円」形はそれらのシンボルである——の観念が出現しているが、単に上下の秩序が成立したのみでは、それが即ち王権であるということにはならない(もちろん、ヤマト時代においてもそれぞれの土地に結びついた盟主はいた)。もう一つの異論は、天皇の“血統上の問題”である。『古事記』においては、天神と天皇の間に血統上の系譜関係〔連続性〕が観念されることになるが、前方後円墳体制においては、歴代の盟主の間にさえ血統上の系譜関係は観念されていない(天皇制における支配構造の正当化と、その重要なファクターとして血統上の問題が担保されていることは、決して無視できない事柄である)。

つまり、ここまでの推論の要旨は、オオヤケが中国語の「公」と翻訳推移されたことを横糸とすれば、縦糸とし超越性としてのアメ——本来は、この概念には生成の原理はあったかもしれないが規範性はなかったであろう——が「天」として中国経由の規範的な性質を帯び、日本人にとっての言説的制度と規範を“同時に”体現するところの(それ故に、フィクションでもあり、天と王〔皇〕の間に連続性を想定するならそれは神話的な次元にも“起源において”接続される)、王権としての天皇制が成立したと読むこともできるだろう。(6)*

《中国皇帝による権威付けなしには、列島において、〈盟主〉が〈王〉に上昇・転化することは困難だったのであろう。前方後円墳に象徴される超世俗的な「天」の観念は、借り物の思考であり、それだけでは王権を創造することができなかったのだと思われる。》(水林2006; 94)

注: (6)*→想定として、王号が「大王」から「天皇」に変化した可能性はあるにはある。しかし、「天皇」号の成立時期についてはいまだ定説の確立をみない。仮にヤマト体制を「王権」として考えるにせよ、それは天皇制とは異質なステータスである。

また、中国語の「天」について言及するなら、それは壮大な自然宇宙論と倫理観が結合した概念であることは知られている。だが、それを「アメ」として考えた当時の日本人は、その独自の哲学については頭では理解できたかもしれないが、心として実感されるには及ばず、身近な自然としての「アメ=雨」として享受されたとも推察される。雨は天から降ってくるもの〔物象化〕であり、その観念が天孫降臨神話による天皇王権の正当化に一役買ったという見方も成り立つだろう(事実、日本の芸能にはその名残が今もなお影響力を保持している)。血統上の問題は、その正当化された観念〔=系譜の連続性〕を逆向きに投射することにより、血族や婚姻関係の正統性の問題として、改めて権威化する方策に転化する。つまり、律令国家における天皇制の legtimacy は、血統のそれとして制度化され、権威性を帯びる。(7)*

注: (7)*→事実、「天皇」号は日本帝国の君主を「高天原」(日本的な「天」)の権威を背負うものとして表現する称号であり、中国的な「天」はあくまでも借り物に留まり、その規範的な性質は見かけだけのものである。

そのことに伴い、以前の共同体のあり方も変革を遂げる。具体的に述べるなら、それは皇族の“ヤカラ”的編成からイエ(長の直系継承団体)への組み替えである。それ以前〔大化以前〕の共同体の仕組みはウヂと呼ばれていた。ウヂはイエとは異なり画一的に父子直系で相続されたのではなく、政治的経営体にふさわしい人物を求めて傍系の線でも相続された。(中世武士の「家」は、その訓が一般化され、イエとして概念化されるが、本質的にはウヂに近い組織である。ヤカラ的共同性は、古代首長の「氏(ウヂ)」から中世武士の「家」までをも包括する概念である)また、ヤカラ的共同性は緩やかな〈身分契約秩序〉であったが、イエへの組織の再編成は天皇による〈命令的秩序〉への移行でもある。律令制により成立した日本国家の幾つかの特徴は、郡県制、官僚制、君主制、主権的王権体制とも呼ぶことができるが、複雑なのはそれは主に中国との“外交上の関係”により“建前として、あるいは名目上”執行されたということだろう。そのような日本国家“内部における深部と外観の関係”は、いわゆる“内と外、本音と建前”といった二分法により複雑化され、またその後の日本史の運動としても繰り返されるところに、“内政”上の問題点があるといえる。また先に述べたように、オオヤケは〔ワタクシの対立概念ではなく〕ヤカラとヤシロ(屋代=社)とを繋ぐ媒介概念であった。そのことを鑑みるなら、日本の律令天皇制においてそのヤカラがイエへと制度的に変化し“正当化された”経緯は、ヤマト言葉の「オオヤケ」概念の原義が著しく毀損されたと同時に、支配の構造へと歪曲された事実を物語ってもいないだろうか? そしてそれが真実なら、それ以降の日本の共同性の相克は“失われたオオヤケ概念”を巡って生起したのではないかと考えられる。

また、その後の天皇の力 force は事実上、天皇・藤原“家”に移りその存在は単に〔その力を正当化する〕権威のみを意味することなる。ここに、我が国のヨーロッパ由来とは異なる生-政治 (8)* の重大なモーメント——正当性 legitimacy が血統上の正統性に還元されたこと——をみても強ち誇張ではないし、それが死-政治に反転するのはそのような正当性を介してであることも窺い知れる。

(8)*→生-政治という用語をここでは用いたが、実際上の政権について述べる際には、生-権力という用語でも間違いではない。ただ、ここではアーレントを意識して、政治や権力という用語を、通例の使用の仕方とは別の含意に導く狙いもある(例えば、支配とはアーレントにとっては政治の本質ではない)。本文では、煩雑になるので厳密には区別しなかった部分もあるが、各自考えて頂きたい。


このコロナ禍にあって、我々の日本社会について再び考えたく思う候。

2022-01-24 17:38:00 | Essay

このタイトルは単なる冗談でしょうか? あるいは、ナショナリズムへの回帰現象を揶揄しているのでしょうか?(私の赤いマスクを見て、彼はコミュニズムを忘れてはいないと頷いた方もいるでしょう。これは冗談です。)

ここで我々と私が述べたのはなぜでしょう。私、僕、我々……、日本語の人称代名詞はそれ自体がある関係性を抜きにしては汲み取ることが困難な概念でもあります。

ここでいう「我々の日本社会」という時の我々。私のその用法。それに何らかの賭け金なり潜在的なもの、あるいは公的な現れに至るまで、何らかの含意を嗅ぎ取って頂ければ幸いです。

そもそも「日本」とは? この問いさえも多様な揺らぎを抱えた難しい問題です。我々の日本社会という時、それは「日本」という国家(近代法により措定された法治国家であれ、あるいはそれ以前にまで遡れるのであれ)とは別の、ヨーロッパ由来のプロブレマティックがあります。そのことについては私は、アーレントを紹介することにより書いてますので、ここでは繰り返すことはしません。

しかし、日本社会という言葉に、このヨーロッパ由来の社会概念が必然性へと転化すると同時に消失した、日本的コミュニティーを接続させたらいかがてしょう。(確かに厳密にいって、社会とコミュニティーには、それらの概念や用法に至るまで比較検証されうる余地が多大に残されています)

日本社会の成立や勃興、そして必然化以前に、我々は日本的な世間の構造というシステムを持っていたことは確かですし、もはや忘れ去られようともしています。字義的には世の間である世間、それに何らかの思考されるべきマージナルな問いが残っています。(国民国家を前提とした場合は、イマジナリーな問題にしか行き着かないでしょう)

そしてそれは、公共的なテーマや新たな、そして別のコミュニティーとして再び日本人に回帰します。あるいは、近代社会のオフィシャルな領域とそれ以前の日本的な公共概念(ただし、日本のオオヤケ概念はそのままパブリックと捉えることはできません)はいかなる癒着や癒合に囚われたままでいるのでしょう。行政や律法、しいては自治体の管轄ですら、それはオフィシャルではありえますがパブリックに開かれているとは言い難いの一目瞭然です。(パブリックなきオフィシャルという形骸化の惨劇)

官と民の区別を問わずに「ワタクシ」(そして、僕や自分)という領域が拡大し(その意味では、日本国家なるものは巨大な化け物のようです)、ただのエゴに転じた日本で、再び「我々」を問うことは可能でしょうか?

個人的な personal ことを書かせてもらえるなら、私は大学の知のコミュニケーションや交通とは、別の「道」を選んだ人間です。学際横断的と呼んでも、それは日本のシステムの内部ではパブリックを僭称したオフィシャルな制度のままだとも批判できてしまいます。そして、そのようなディスクールの手続きや配置、あるいは制度化や規制、警戒心に何らかの否定性 negativity を持ち込む人間です。

 

ここでは、イタリアの哲学者ロベルト・エスポジト——彼の述べる「免疫化」というパラダイムは、アーレントが固執した「出生」の秘密の一面を照らし出します——が指摘したことを再び取り上げれば十分でしょう。

《すなわち、しばらく前から我々がそうするのに慣らされてしまっているように、社会がリスクに対してたえず警戒心をつのらせるならば、かえって社会の発展は凍結してしまうことになり、ひいては、個人の自由という点でも、全体の利益という点でも、社会をその原始状態へと退行させてしまいかねないのである。》


ルソー引用

2021-11-09 00:44:20 | Twitterから

「ひとたび服従に慣れた人民は、もはや主君がなくてはやってゆけません。束縛をふるい落そうと試みれば、彼らはますます自由から遠ざかります。それは自由とは反対の勝手気ままを自由ととりちがえるので、彼らの企だてる革命は、ほとんど常に、彼らの鎖を重くするにすぎない扇動家たちの手に自分の身をまかせることになるからです。」——ルソー『人間不平等起原論』岩波文庫版pp.11-12

「…目的である行為よりもしばしばもっと危険な動機をかくしている陰険な解釈や毒をふくんだ演説に決して耳を傾けないように注意して下さい。」ibid., p.18

 

 
《……一人の人間が他の人間の援助を必要とするやいなや、またただひとりのために二人分の貯えをもつことが有効であると気づくやいなや、平等は消えうせ、私有が導入され、労働が必要となった。》——ルソー『不平等論』岩波文庫版p.95
すぐにこう続く。
《そして広大な森林は美しい原野と変って、その原野を人々の汗でうるおさなければならなかったし、やがてそこには収穫とともに奴隷制と貧困とが芽ばえ、成長するのが見られるようになった。》ibid., p.95

《このようにして、自然の不平等が〔新しい原因の〕組み合わせによる不平等とともに知らず知らずのあいだに発展し、状況の相違によって発展した人々の間の相違は、その成果の点でいっそう著しくにり、いっそう永続的になり、そしてそれと同じ割合で個々の人間の運命に影響しはじめる。》p.100

《……自分の利益のためには、実際の自分とはちがったふうに見せることが必要だったのである。……いかめしい威儀と欺瞞的な策略とそのお供をうけたまわるあらゆる悪徳とが出てきた。》p.101

《要するに、一方では競争と対抗意識と、他方では利害の対立と、つねに他人を犠牲にして自分の利益を得ようとするひそかな欲望。これらすべての悪が私有の最初の効果であり、生れたばかりの不平等と切り離すことのできない結果なのである。》p.102


《……強欲と野心とがありすぎて、長い間、主人なしではすませなかったのだ。だれもかれも自分の自由を確保するつもりで、自分の鉄鎖へむかって駆けつけた。》———ルソー『人間不平等起原論』岩波文庫版p.106

《…奴隷制度を樹立するためには、自然にそむかなければならなかったように、この権利を永続させるためには自然を変えなければならなかった。》p.116
 
《…この第三の時期が不平等の最後の段階であり、他のすべての時期が結局は帰着する限界であって、ついには、新しい諸変革が政府をすっかり解体させるか、またはこれを合法的な制度に近づけるにいたるのである。》p.121
 
《また多数の人々が、外から自分を脅かしていたものに対して行なった警戒のためにかえって内部で圧迫されるのが見られるだろう。》p.125
 
《祖国の防衛者が晩かれ早かれ祖国の敵となり、同胞の市民たちの上に短剣を振りかざしているさまが見られるだろう。》p.125
 
《……世の中の人々が自分をどう見ているかということを相当に重んじ、自分自身よりもむしろ他人の立証に基づいて幸福になり、……社会に生きる人は、常に自分の外にあり、他人の意見のなかでしか生きられない。そしていわば他人の判断だけから、彼は自分の感情を引き出しているのである。》p.129
 
《…不平等は、われわれの能力の発達と人間精神の進歩によって、その力をもつようになり、また増大してきたのであり、そして最後に、所有権と法律との制定によって安定し正当なものとなる、ということになる。》p.130


外界—意図—自由意志(脳と自由意志の隠れた繋がりへの推論から)

2021-10-26 19:44:00 | Essay
問題の系列を分けて考えてみよう。
 
まず、物は純粋に我々の“外部”にある。そして、我々の外部にある物とは、我々の認識の把握する論理形式の外部にも“可能性”としてはあり得るということである。
 
目の前に、ある物が運動しているとする。我々はそれを仮に掴もうとする。ある実験によれば、我々はその物を掴もうとする“以前”に脳の電位変化が生じ、物の運動とは“別の”意志の運動(この場合は、手を伸ばす行為と連動するだろう)が生じるとされる。ここから、我々の行動の過程は、脳の命令に支配されているという主張もなされるが、ここではまず順序の問題を考えたい。
 
1. まず、最初にあるのは外界にある、我々の意志とは独立した運動のセリーである。(自然界、他者、ウイルス、天体運動といったように様々であるし、場合によっては身体内部の不随意の運動もこれに含まれうる。故に、身体は両義的な場にもなる)
 
2.次に、その外界の運動に“付随して”生じる、我々の意志≠意図の運動である。(これは、認識の主観=主体の原理と言い換えていい)
 
1と2の間に、ある連続性が想定されれば、我々は我々の思い通りに現実(外界)をコントロールできるという、精神分析の用語でいうところの「思考の万能」という問題が出てくる。
 
そして、厄介なのは、それを命ずるのは「脳」だという主張である。というのも、そもそも外界の運動とそれを掴もうとする(あるいは、反応すると言い換えてもいい)運動の間には時間差があり、後者が始まる以前に、脳の電位変化は起きているからである。
 
つまり、外界の運動—脳の電位変化—意志の運動という時系列の偏差があるのに、我々の意志はそれを区別しないという錯誤がある。そして、抑制ということを考慮すれば、我々は“意志しない”(意志するにせよ、その行動には従属もしないし、反応もしない)ということを選択することもできる。その場合も、推測するなら脳の電位変化は生じているだろうし、恐らくは、それは自由意志の論拠にもなっていた。
 
しかし、脳の電位変化であるにせよ、自由意志であるにせよ問題なのは、それは〔ある意志に従属された〕認識の主体性原理によって把握されるなら、〔実験の条件によっても措定されている〕三つの時間差は混同されるという事態である。
 
そう考えるなら、脳か自由意志かという二者択一はある意味では重要ではないし、時間差が導入されているのだから、認識の無限退行も必須ではなくなる(無限退行の論法は大概が時間を考慮してはいない)。つまり、主体性の原理が、認識において時間差を見失っているという事態が重要なのである。(しかしながら、ここでは聴覚の機能は捨象している)
 
 
ここから、ある帰結を導くことは可能だろうか? カントが自然原因と自由原因の間にある亀裂を指摘していることは知られている。しかし、先に挙げた実験によれば、時間の位相差は三つに分解されてもいる。自由であるという事態は、〔意志が〕線形的なものであれ循環的なもであれ自然原因に従うことではないということには肯首できるにせよ(それらはせいぜい惰性か解放と呼ばれるに留まる)、ここで自由と名指されているものはまた、意志あるいは意図と行為の間の差にも、その問題の射程を保存しているといえるだろう。
 
厳密に用語を区別するなら、意図 purpose はある目的を持っており、その行為も目的に従属しているのだから、意図よりも意志 will の方がより根源的であるという違いはある。意志という用語は、意図の方にも、自由の方にも分岐した繋がりを保持しているし、欲望と欲動の問題ともパラレルである。そして、自由意志は、ラテン語では liberum arbitrium、フランス語ではそれに近く libre arbitre、英語では free will と呼ばれてもいる。(問題を整理したにも関わらず、これら自由と意志を巡る用語参照を加味するなら、我々はまたこのテーマがいかに複雑であったかについて思いを巡らすだろう)
 
そして、この複雑さは物に対する人の利害関心 interest の複雑さでもある。アーレントにおいてそれは、第一の介在 in-between と呼ばれ、物の客観的リアリティを示すのであった。(しかし、美と政治的判断力を考慮するなら、世界は利害関心から離れた公正さを付与されるだろう)
 
 
■二つの自由:古代人の自由の実践と近代人の自由の享受(享楽?)、あるいは公的自由と私的自由の様相を巡って
 
近代自由主義の源流に位置するだろう思想家バンジャマン・コンスタンは、1819年の講演の冒頭で、次のように切り出している。
 
《これから二種類の自由にまつわるいまだ耳慣れぬ区別について、皆さんにお考えいただこうと思っております。これらの自由の違いは今日にいたるまで見過ごされてきたか、少なくとも十分な注目を受けぬままでありました。一つは古代人のあいだでその実践が非常に重視されていた自由、またいま一つはそれを享受することが近代の諸国民にとって特別な価値を持っているような自由です。》
 
この二つの自由を、イギリスの哲学者アイザィア・バーリンは「積極的自由 positive liberty」と「消極的自由 negative liberty」という概念に読み替えて提示することで、コンスタンを「消極的自由」の代表的論客として紹介し、そのイメージの流布に一役買っている。バーリンはそもそも freedom と liberty を同じ意味でも用い、積極的自由を「〜への自由 freedom to」、消極的自由を「〜からの自由 freedom from」と言い換えてもいる。バーリンにおいて自由 freedom or liberty は、その定義からして既に目的論の視点を無批判に抱え込んでいるし、我々が先に区別した論点でいうなら、意図 purpose と意志 will を分けてはいない。そして恐らくは、彼が想定した積極的自由は、古代人のそれというよりは、カントの「目的の王国」を基礎にし、アーレントが古代ギリシャ・ポリスに見ている自由——それは、理性的支配ないし理性による自己支配〔統治〕の自由ではないことは明らかであるし、また理性による自己統治の問題は、自己を支配する程度に応じて他者を支配するようにも向かうと言い換えられる——とも厳密には異なるだろう。
 
断っておくなら、ある特定の政治的なコンテクストにおいて、バーリンの議論が有益であることまで私は否定するつもりはない。もしかしたら、彼の消極的自由の評価は、アーレントにおける「自由であるための自由 freedom to be free」(ここでの自由は、自由がある目的からは解放され、自由それ自体に向き変わることが言葉の上からは見てとれる)に近いのかもしれないという示唆に留めたい。
 
ここでは、コンスタンやバーリンの議論に深く立ち入る時間はない。ただ一つ言えるのは、アーレントが古代ポリスに見ていた自由とは、理想というよりは実践的なそれであり、それは「善く生きる」というアクチュアルな問題と不可分ではなかったか? しかし、近代人の自由は、自由それ自体の行為性というよりは、自由の「価値」の享受に力点が移っている。アーレントにとっての自由は支配—被支配とは関係がない領域を動くことであったが(無論、奴隷制はあったが、奴隷には政治参加の自由は許されていなかったし、家族の私的な領域も前政治的な場として据えられていた)、コンスタンにせよバーリンにせよ、自由の問題が支配ないしそのコンテクストを前提にしている。「積極的自由」が産み出そうとするものとは、自由の価値に向かってであり(故にそれは、全体化や絶対化に流れ込む危険がある)、それ自体自由故に行為するわけではない。したがって、「消極的自由」の方に自由の「価値の縮減」を見取り、評価したのがバーリンだったともいえる。そして、精神分析でいうところの「対象の優位」こそ、まさに「消極的自由」のことでもあり、先に私はこのバーリン流の二つの自由の問題を、「性目標倒錯」と「性対象倒錯」の違いとしても提示していた(分析家は、対象の優位〔性対象倒錯〕というポジションのあり方を、現実的に代理している)。また、キリスト教の文脈においてもこれら両者の対立は、自由意志と恩寵という言葉によって分け隔てられ、救済論の問題を投げかけていた。
 
 
■potentiality としての意志、あるいは appearance ではないものとして?