ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

★自己紹介★

2021-11-29 21:32:00 | Weblog

1978年生まれ。埼玉県在住。精神分析家。


☆Twitterは→「@acephale315」まで。
※現在、アカウント凍結しています。(再開の予定なし)



■□■お知らせ■□■ 

白々しい賞賛と敬意の区別がなかったのは、致命的でしょう。前者からは引き継ぐべきものはありません。(そして、日本社会のレールに乗ることが、正しい道だったなどという保証もないように思えます)

白々しい賞賛の方へ向かうとは、既に破壊への流れに屈服したということであり、形而上学的な点とその連続性を断ち切る勇気がなかったということです。

 


—Zygmunt Bauman, Work, consumerism and the new poor (2nd Edition)
 
 
科学信仰やらナショナリズムに陥る連中が沢山いるみたいで、相変わらずヤバイ国だと思います。

政治的自由は一体いつ頃に変形されたのでしょうか? セキュリティやその保証が主要な関心事として現れる度に、おそらくは政治的自由なるものは公的領域からは姿を消しています。(仮に大文字の他者の衰退を認めるにしても、原因はあります。あるいは、活動が自己保身や処世術に取って代わるといえばいいのでしょうか?)

政治的なものが安全をとれば、そこに自由はないでしょう。(あるいは、自分自身を気遣う連中は自由だといえるのでしょうか?)

今日、政治的な領域や世界に対立しているのは、社会それ自体という可能性は考えないのでしょうか?


論理的なものであれ、自然や科学のプロセスにおいてであれ、人間が何かを新しく始めるということはあり得ません。では、自然原因に対して“意志 will による”自由原因を対比してみればいいのでしょうか?(事はそう単純ではないことは、先に考察しました)

アーレントは自由意志については批判的ですが(彼女は哲学の領域に現れた自由については懐疑的です)、キリスト教の文脈における信仰 faith の自由を評価しているところがあります(それは端的に奇跡 miracle と呼ばれます)。その意味では、アガンベンと通じるところは確実にあります。(それは、キリストというフィギュールの両義的な位置です



アーレントの活動概念において既に宗教的な問いが含まれていること。そのことは、指摘しておいていいでしょう。それは、主権権力とは別の、自由な行為性による政治です。イエスは政治的だったのでしょうか? パウロは? パウロにせよアウグスティヌスにせよ意志が問題でした。故に私は、意志には拠らない経験を考える必要がありました。

自由の経験、あるいは自由になるための自由の経験。(人間を政治的なものから遠ざけるのは、人間自身のヒュブリスです。人間は、外部の敵には翻弄されっ放しですが、内部の傲慢という最大の敵には気づきません)

ちなみにですが、奇跡とは統計学に包摂されることはありません。あるいは、そのような理性支配に。

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ルソー引用

2021-11-09 00:44:20 | Weblog

「ひとたび服従に慣れた人民は、もはや主君がなくてはやってゆけません。束縛をふるい落そうと試みれば、彼らはますます自由から遠ざかります。それは自由とは反対の勝手気ままを自由ととりちがえるので、彼らの企だてる革命は、ほとんど常に、彼らの鎖を重くするにすぎない扇動家たちの手に自分の身をまかせることになるからです。」——ルソー『人間不平等起原論』岩波文庫版pp.11-12

「…目的である行為よりもしばしばもっと危険な動機をかくしている陰険な解釈や毒をふくんだ演説に決して耳を傾けないように注意して下さい。」ibid., p.18

 

 
《……一人の人間が他の人間の援助を必要とするやいなや、またただひとりのために二人分の貯えをもつことが有効であると気づくやいなや、平等は消えうせ、私有が導入され、労働が必要となった。》——ルソー『不平等論』岩波文庫版p.95
すぐにこう続く。
《そして広大な森林は美しい原野と変って、その原野を人々の汗でうるおさなければならなかったし、やがてそこには収穫とともに奴隷制と貧困とが芽ばえ、成長するのが見られるようになった。》ibid., p.95

《このようにして、自然の不平等が〔新しい原因の〕組み合わせによる不平等とともに知らず知らずのあいだに発展し、状況の相違によって発展した人々の間の相違は、その成果の点でいっそう著しくにり、いっそう永続的になり、そしてそれと同じ割合で個々の人間の運命に影響しはじめる。》p.100

《……自分の利益のためには、実際の自分とはちがったふうに見せることが必要だったのである。……いかめしい威儀と欺瞞的な策略とそのお供をうけたまわるあらゆる悪徳とが出てきた。》p.101

《要するに、一方では競争と対抗意識と、他方では利害の対立と、つねに他人を犠牲にして自分の利益を得ようとするひそかな欲望。これらすべての悪が私有の最初の効果であり、生れたばかりの不平等と切り離すことのできない結果なのである。》p.102


《……強欲と野心とがありすぎて、長い間、主人なしではすませなかったのだ。だれもかれも自分の自由を確保するつもりで、自分の鉄鎖へむかって駆けつけた。》———ルソー『人間不平等起原論』岩波文庫版p.106

《…奴隷制度を樹立するためには、自然にそむかなければならなかったように、この権利を永続させるためには自然を変えなければならなかった。》p.116
 
《…この第三の時期が不平等の最後の段階であり、他のすべての時期が結局は帰着する限界であって、ついには、新しい諸変革が政府をすっかり解体させるか、またはこれを合法的な制度に近づけるにいたるのである。》p.121
 
《また多数の人々が、外から自分を脅かしていたものに対して行なった警戒のためにかえって内部で圧迫されるのが見られるだろう。》p.125
 
《祖国の防衛者が晩かれ早かれ祖国の敵となり、同胞の市民たちの上に短剣を振りかざしているさまが見られるだろう。》p.125
 
《……世の中の人々が自分をどう見ているかということを相当に重んじ、自分自身よりもむしろ他人の立証に基づいて幸福になり、……社会に生きる人は、常に自分の外にあり、他人の意見のなかでしか生きられない。そしていわば他人の判断だけから、彼は自分の感情を引き出しているのである。》p.129
 
《…不平等は、われわれの能力の発達と人間精神の進歩によって、その力をもつようになり、また増大してきたのであり、そして最後に、所有権と法律との制定によって安定し正当なものとなる、ということになる。》p.130


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☆セッションについての概要☆

2021-11-01 00:00:00 | Weblog

【精神分析セッション】を行っております。

【精神分析セッション】とは、精神分析技法を用いた、対話形式セッションです。

無意識に由来するトラウマやコンプレックスに、現実に向き合うことで、症状を含めた幅広い問題の根本的な解消を目指します。精神分析は、単なる一治療法に留まらず、幅広いあなたの悩みや問題に光を投げかけることでしょう。



【セッション概要】

■方法:

『電話セッション』もしくは『対面相談』

☆電話セッションは通常は、skypeで対応しております。(他の方法はご相談ください)

☆対面によるセッション・相談は現在状況を鑑みて休止しております。(場合によっては受付可能です)


■料金と時間:

料金は固定では決まっていません。分析を行う者(分析主体、患者)の条件や状況により、個別で対応・設定をしております。お気軽にお申し出下さい。

*週一回ペースのセッションの場合は一回最低10000円ぐらいになっています。(おおまかな割合です)

尚、毎回のセッションの時間も、固定では決まっていません。それは、精神分析は無意識という領域を扱うという特殊な要請からくるものです。可変時間制を採用しています。


■契約形態:

月数回(最低でも週一回以上を推奨)のセッションを継続して行い、互いの同意の上に成り立つものです。

☆最初に、契約の大まかな取り決め等を行います。尚、どのようなものか知りたい方の為に、質問等もお受け致しております。ご相談下さい。


■ご予約・お問合せ:

【完全予約制】です。

ご質問などはメールでも承ります。こちらのアドレスまで。
gnosiseden★gmail☆com
(★をアット、☆をドットに変えて下さい)



■注意事項:

※セッションの内容等は、許可なしに外部に公表致しませんので、ご安心下さい。
※契約の際には、こちらの本名・住所・連絡先等を開示致します。
※近隣の方は契約の前に、お会いすることも可能です。(有料・約セッション一回分になります)


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☆精神分析を実際に経験したい人の為に☆

2021-11-01 00:00:00 | Weblog

精神分析がどのようなものか?
精神分析には興味があるけど…。

実際に分析を経験したいけど、まだ踏ん切りや気持ちの整理がつかない人の為に、精神分析についての相談や話しは、Skype かお電話で無料で受け付けています。

その場で決める必要は全くありませんが、どういうものか興味がある人は是非、以下のメールなどからご連絡下さい。


gnosiseden★gmail☆com
(★をアット、☆をドットに変えて下さい)


«Senza associazionelibera non c'è psicoanalisi» Antonio Di Ciaccia
「自由連想なしで、精神分析はない」


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外界—意図—自由意志(脳と自由意志の隠れた繋がりへの推論から)

2021-10-26 19:44:00 | Essay
問題の系列を分けて考えてみよう。
 
まず、物は純粋に我々の“外部”にある。そして、我々の外部にある物とは、我々の認識の把握する論理形式の外部にも“可能性”としてはあり得るということである。
 
目の前に、ある物が運動しているとする。我々はそれを仮に掴もうとする。ある実験によれば、我々はその物を掴もうとする“以前”に脳の電位変化が生じ、物の運動とは“別の”意志の運動(この場合は、手を伸ばす行為と連動するだろう)が生じるとされる。ここから、我々の行動の過程は、脳の命令に支配されているという主張もなされるが、ここではまず順序の問題を考えたい。
 
1. まず、最初にあるのは外界にある、我々の意志とは独立した運動のセリーである。(自然界、他者、ウイルス、天体運動といったように様々であるし、場合によっては身体内部の不随意の運動もこれに含まれうる。故に、身体は両義的な場にもなる)
 
2.次に、その外界の運動に“付随して”生じる、我々の意志≠意図の運動である。(これは、認識の主観=主体の原理と言い換えていい)
 
1と2の間に、ある連続性が想定されれば、我々は我々の思い通りに現実(外界)をコントロールできるという、精神分析の用語でいうところの「思考の万能」という問題が出てくる。
 
そして、厄介なのは、それを命ずるのは「脳」だという主張である。というのも、そもそも外界の運動とそれを掴もうとする(あるいは、反応すると言い換えてもいい)運動の間には時間差があり、後者が始まる以前に、脳の電位変化は起きているからである。
 
つまり、外界の運動—脳の電位変化—意志の運動という時系列の偏差があるのに、我々の意志はそれを区別しないという錯誤がある。そして、抑制ということを考慮すれば、我々は“意志しない”(意志するにせよ、その行動には従属もしないし、反応もしない)ということを選択することもできる。その場合も、推測するなら脳の電位変化は生じているだろうし、恐らくは、それは自由意志の論拠にもなっていた。
 
しかし、脳の電位変化であるにせよ、自由意志であるにせよ問題なのは、それは〔ある意志に従属された〕認識の主体性原理によって把握されるなら、〔実験の条件によっても措定されている〕三つの時間差は混同されるという事態である。
 
そう考えるなら、脳か自由意志かという二者択一はある意味では重要ではないし、時間差が導入されているのだから、認識の無限退行も必須ではなくなる(無限退行の論法は大概が時間を考慮してはいない)。つまり、主体性の原理が、認識において時間差を見失っているという事態が重要なのである。(しかしながら、ここでは聴覚の機能は捨象している)
 
 
ここから、ある帰結を導くことは可能だろうか? カントが自然原因と自由原因の間にある亀裂を指摘していることは知られている。しかし、先に挙げた実験によれば、時間の位相差は三つに分解されてもいる。自由であるという事態は、〔意志が〕線形的なものであれ循環的なもであれ自然原因に従うことではないということには肯首できるにせよ(それらはせいぜい惰性か解放と呼ばれるに留まる)、ここで自由と名指されているものはまた、意志あるいは意図と行為の間の差にも、その問題の射程を保存しているといえるだろう。
 
厳密に用語を区別するなら、意図 purpose はある目的を持っており、その行為も目的に従属しているのだから、意図よりも意志 will の方がより根源的であるという違いはある。意志という用語は、意図の方にも、自由の方にも分岐した繋がりを保持しているし、欲望と欲動の問題ともパラレルである。そして、自由意志は、ラテン語では liberum arbitrium、フランス語ではそれに近く libre arbitre、英語では free will と呼ばれてもいる。(問題を整理したにも関わらず、これら自由と意志を巡る用語参照を加味するなら、我々はまたこのテーマがいかに複雑であったかについて思いを巡らすだろう)
 
そして、この複雑さは物に対する人の利害関心 interest の複雑さでもある。アーレントにおいてそれは、第一の介在 in-between と呼ばれ、物の客観的リアリティを示すのであった。(しかし、美と政治的判断力を考慮するなら、世界は利害関心から離れた公正さを付与されるだろう)
 
 
■二つの自由:古代人の自由の実践と近代人の自由の享受(享楽?)、あるいは公的自由と私的自由の様相を巡って
 
近代自由主義の源流に位置するだろう思想家バンジャマン・コンスタンは、1819年の講演の冒頭で、次のように切り出している。
 
《これから二種類の自由にまつわるいまだ耳慣れぬ区別について、皆さんにお考えいただこうと思っております。これらの自由の違いは今日にいたるまで見過ごされてきたか、少なくとも十分な注目を受けぬままでありました。一つは古代人のあいだでその実践が非常に重視されていた自由、またいま一つはそれを享受することが近代の諸国民にとって特別な価値を持っているような自由です。》
 
この二つの自由を、イギリスの哲学者アイザィア・バーリンは「積極的自由 positive liberty」と「消極的自由 negative liberty」という概念に読み替えて提示することで、コンスタンを「消極的自由」の代表的論客として紹介し、そのイメージの流布に一役買っている。バーリンはそもそも freedom と liberty を同じ意味でも用い、積極的自由を「〜への自由 freedom to」、消極的自由を「〜からの自由 freedom from」と言い換えてもいる。バーリンにおいて自由 freedom or liberty は、その定義からして既に目的論の視点を無批判に抱え込んでいるし、我々が先に区別した論点でいうなら、意図 purpose と意志 will を分けてはいない。そして恐らくは、彼が想定した積極的自由は、古代人のそれというよりは、カントの「目的の王国」を基礎にし、アーレントが古代ギリシャ・ポリスに見ている自由——それは、理性的支配ないし理性による自己支配〔統治〕の自由ではないことは明らかであるし、また理性による自己統治の問題は、自己を支配する程度に応じて他者を支配するようにも向かうと言い換えられる——とも厳密には異なるだろう。
 
断っておくなら、ある特定の政治的なコンテクストにおいて、バーリンの議論が有益であることまで私は否定するつもりはない。もしかしたら、彼の消極的自由の評価は、アーレントにおける「自由であるための自由 freedom to be free」(ここでの自由は、自由がある目的からは解放され、自由それ自体に向き変わることが言葉の上からは見てとれる)に近いのかもしれないという示唆に留めたい。
 
ここでは、コンスタンやバーリンの議論に深く立ち入る時間はない。ただ一つ言えるのは、アーレントが古代ポリスに見ていた自由とは、理想というよりは実践的なそれであり、それは「善く生きる」というアクチュアルな問題と不可分ではなかったか? しかし、近代人の自由は、自由それ自体の行為性というよりは、自由の「価値」の享受に力点が移っている。アーレントにとっての自由は支配—被支配とは関係がない領域を動くことであったが(無論、奴隷制はあったが、奴隷には政治参加の自由は許されていなかったし、家族の私的な領域も前政治的な場として据えられていた)、コンスタンにせよバーリンにせよ、自由の問題が支配ないしそのコンテクストを前提にしている。「積極的自由」が産み出そうとするものとは、自由の価値に向かってであり(故にそれは、全体化や絶対化に流れ込む危険がある)、それ自体自由故に行為するわけではない。したがって、「消極的自由」の方に自由の「価値の縮減」を見取り、評価したのがバーリンだったともいえる。そして、精神分析でいうところの「対象の優位」こそ、まさに「消極的自由」のことでもあり、先に私はこのバーリン流の二つの自由の問題を、「性目標倒錯」と「性対象倒錯」の違いとしても提示していた(分析家は、対象の優位〔性対象倒錯〕というポジションのあり方を、現実的に代理している)。また、キリスト教の文脈においてもこれら両者の対立は、自由意志と恩寵という言葉によって分け隔てられ、救済論の問題を投げかけていた。
 
 
■potentiality としての意志、あるいは appearance ではないものとして?

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アーレント試訳2

2021-09-20 19:00:03 | 試訳
«Between Past and Future»所収、“TRADITION AND MODERN AGE”の最後の節から。

《近代科学(その精神は疑念と不信のデカルト哲学において表現される)の発生以来、伝統の概念的枠組みは確実ではなくなっている。観照と活動の二分法(真理は究極的には、無言で活動の伴わない見ることにおいてのみ把握されることを規定する伝統的ヒエラルキー)は、その中で科学=知が活動的になり、また知るためになした条件の下では支持されえなかった。事物が真にあるものとして現れるという信頼が消えた時、啓示=暴露としての真理の概念そして、それに伴う啓示された神への無条件の信仰は疑わしくなっていった。理論=学説 theory”の概念はその意味を変えた。それはもはや、〔それ自体〕作られなかったものとして、しかし理性と諸感覚に与えられたものとしての、推論にかなうように連結された諸真理のシステムを意味しなかった。むしろそれは、それが産出する結果に応じて変わり、また、それが明らかにする reveals”ことではなく、それが作動する works”かどうかについての有効性に依拠することで、近代科学理論それは、基礎となる=実用的な仮説 working hypothesis であるとなった。同様のプロセスによって、プラトンの諸イデアは世界と宇宙を照らす自律的な力を失った。最初に、それらはプラトンにとって政治的領域(標準と測定法)、あるいは調整(それらがカントにおいて出現するように、人間特有の推論する精神の強制力の制限)への関係性においてのみ何であったのかということになった。それから、為すこと doing に対する推論 reason の(人間-人々 men の諸活動に規則を課す精神の規定の)優位の後から、産業革命による全世界のトランスフォーメーション(人間 man の為すこと doings と製作 fabrications がそれらの規則に推論することを命じるのを示すように思われた成功へのトランスフォーメーション)においてそれらイデアは失われ、最終的にそれらは、それらの有効性が一人または多数の人間たちにより決定されるのではなく、それらの絶え間なく変化する機能的な必要=要求 needs における全体としての社会により決定される、単なる価値に変化した。

それらの外部そして内部の可変性における価値は、社会化された人間-人々 socialized men”に任された(そして、理解された)だけのイデア ideas”である。それらの人々は、プラトンにとって日常の人間事象の洞窟 the cave”であることから決して離れないことを決めた人々であり、また、おそらくは、近代社会の至る所にある機能化が、その最も基本の諸特徴の一つ——あるがままのものに対し驚きをもって触れること——を奪いとった世界、そして生へ単独で冒険しないことを決めた人々である。この極めて現実的な発展はマルクスの政治的思考の中で反響され、予示されている。その独特の枠組みの中で伝統を転倒させることで、彼は実際にプラトンのイデアを取り除いたのではなく、しかしながら彼は、それらのイデアが(他の存在の多くと同様に)人々の目に一度見えるようになったその場所、つまり透明な空が徐々に暗くなることを記録したのである。》


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アーレント試訳

2021-08-08 21:41:00 | 試訳

以下は、“The Freedom To Be Free”(1966-1967) からの抄訳である。このタイトルは、単なる活動 action やアーレント的な政治性の基本要素である自由 freedom とは区別された意味合いを読むことができる概念でもあり、重要性が見逃されてもいるので、その示唆も含めて訳出を試みた。


《…相違は、アメリカ革命は奴隷制の設立と奴隷たちがある異なった人種に属していたという信念のため惨めな人々 the miserable の存在を、またそれに伴い、生活の純粋な必要性としての政治的抑圧によりそれほど拘束されていない人たちを解放する厄介な課題を、見過ごしていたことでした。フランス革命の過程でたいへん甚大な役割を果たす悲惨な人々 les malheureux, the wretched (フランス革命は彼らを人民 le peuple と区別していました)は、アメリカでは存在していないか、もしくは完全に暗がりに留まったままでした。》

《フランスにおける革命の主要な帰結の一つは、歴史においてはじめて、人民を路上に連れ出し、彼らを目に見えるようにすることでありました。これが生じた時、ただの自由ではなく、自由であるための自由  the freedom to be free はいつも少数者の特権であったということが判明しました。しかしながら同様に、失敗を鳴り響かせることで終わったフランス革命が、私たちが現在革命的伝統と呼ぶことを決定した、また未だ決定している一方で、アメリカ革命が革命の歴史的理解のための多くの帰結がないままであったことです。》

→これと似たような事態が、精神分析についても言えるのではないでしょうか?(後ほどまた、この文章の前後を訳出しようと思います)
 
大多数は、自由よりも必要と支配に縛られたままでいることを望み、よしとしているのです。大学という場でさえ、そうなります。(また、それが困難でもあります)
 

《それから1789年にパリでなにが起きたのでしょうか? はじめに、恐怖 fear からの自由は、少数者たちが歴史の比較的短い期間においてだけ享受していた特権でさえあり、また、必要〔欠乏〕want からの自由は数世紀を通じて人類のごく僅かなパーセンテージを識別していた偉大な特権でもありました。》

→大多数とは、家庭に縛られ、仕事に追われ、金や必要事に困窮しあくせくしているのが良いと感じているのです。自由より。

《私たちが人類の記録された歴史と呼ぶ傾向があるものは、大部分が、それらの特権的な少数者たちの歴史です。必要〔欠乏〕と自由を区別する人たちのみが、恐怖からの自由の意味を完全に評価でき、また必要と恐怖両方から自由である人たちのみが公的自由への情熱を抱く(自由 liberté のための嗜好 goût or taste と自由がそれにもたらす平等 égalité or equality への独特な趣き teste が彼ら自身の中で発展する)立場にいます。》

→ここでも我々はまた、自由(とそれがもたらす平等)と、趣味の問題、あるいはそれへの冒険的なあり方というアガンベン的なテーマに行き着く。(あるいは、そのような公的自由へと向かう情熱があるのかどうか?)

《概略的に述べれば、それぞれの革命が自由 freedom〔統治の新しい形態と政体の設立の第二の、そして決定的な段階〕に達する前に、それらが解放 liberation の段階をはじめに通り抜けると言われうるでしょう。アメリカ革命の過程において、解放の段階は政治的拘束力からの(独裁者もしくは君主からの、また使われていただろう言葉が何であれ)解放を意味しました。最初の段階は暴力により特徴付けられ、しかし第二の段階は、審議、議論、説得、つまりは創設者たちが理解したタームとして政治的知識を適応することが問題でした。しかし、フランスにおいては何か完全に違うことが起きました。革命の最初の段階は暴力よりも崩壊によってよりよく特徴付けられ、そして第二の段階が達せられ、国民公会がフランスは共和国になると宣言した時、権力は既に街頭へと移っていました。人民よりも国家を代表するためにパリに集まった人々(彼らの主要な関心それらの名前がミラボーあるいはロペスピエールであろうと、ダントンもしくはサン=ジェストであろうとは統治、君主制の改変、後に共和制の設立でした)は突然、解放の未だ他の課題(それは一般の民衆を惨めさから解放すること、自由になるために彼らを自由することです to free them to be free)に、彼ら自身が直面するのを目撃しました。…》

 

《二つの最初の革命(それらの始まりはとても似ていて、また終わりはたいへん甚だしく異なっています)の比較は、貧困の克服は自由の樹立のための前提条件であるだけでなく、貧困からの解放は政治的抑圧からの解放と同じやり方によっては扱われえない、と私が考えることを明確に示します。》

《暴力に対抗する暴力は(対外もしくは市民)戦争を導くので、社会的条件に対抗する暴力はいつも恐怖を導きました。単なる(古い体制が解体されて、新しい体制が導入された後に恐怖が緩める)暴力よりも恐怖は、革命をそれらの破滅へ送ることであり、もしくは、それらが専制や暴政に陥るほど決定的に変形させることです。》


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今日のホモ・ファーベル homo faber

2021-07-17 20:56:00 | Essay

何故、有用性の思考が社会では重宝がられるのでしょうか? 単純です。それは、労働における生物学的な循環運動、つまり代謝よりも堅く、長持ちするからです。

 
それがまさに、労働する動物にとっては主人であり、支配者の地位にあるからです。
 
昨今のホモ・ファーベルは科学的な知識やテクノロジーによるデータも駆使した科学の信者でもあるでしょう。外観だけみれば、それは生物的なプロセスよりも確実で信用ができますし、活動の儚さや脆さよりももっとかもしれません。
 
但し、それは先に述べたように、手段と目的のカテゴリーにおいてのみであり、その始まりには必ず自然に加えられた暴力があり、彼らはまた最終的な生産物を壊すことも可能です。
 
彼らは意のままに作り、また意のままに壊す。それ故に、〔自然にとっての〕マスターなのです。労働が身体により条件付けられているとすれば、仕事とは手によってです。(しかし、彼らの不安もまた、自らのコントロール・制御の不能性と結びついていることは十分に推測できるでしょうし、そこに身体から手への“置き換え”というメカニズムも認めることができます)
 
簡単に言ってしまえば、四つのディスクールの主要な位置関係や運動の図式は、“理論上は”それで切れてしまいます。
 
では、始まりの運動を指示する agent はどういうあり方なのでしょう?(この問題は特異的でもありますから、経験が必須です)
 
そして、agent は制作による支配でも、それへの逃亡でもなく、活動することもあり得たわけです。
 
 

(H. Arendt, Labor, Work, Action [1964]
 
つまり、ホモ・ファーベルの自由とは未だに“自由意志”的であり、活動による“人々の間にいることの自由”とは似て非なるものです。なので、アーレントはそのあり方を、反政治的ではないが、非政治的ともいったのです。(労働する動物は、反政治的です)
 
今日のホモ・ファーベルが支配・管理・制御する社会。それはますますコンピュータに近似していっていることは既に明白な事実です。(それは、手とコンピュータによる論理過程が、リズミカルに統合された社会です。今、あなたが目の前で触れているそれのように)そして、その目的が手段を“正当化”するような社会です。(end products のためなら、全てが許される社会)
 
そして、複数形で書きましたが、end products(それらは自然の増殖 proliferation とは区別される増大 multiplication ですし、後者は反復 repetition と混同されるべきでもありません)に幻惑されている昨今のホモ・ファーベルたちはどこに向かうのでしょうか? 彼らの苦境と敗北とは? おそらくは全き生の無意味さ、無残さに流れていくことでしょう。
 

(Ibid.)
 
一方で、活動と言論 action and speech における複数性 plurality や power はそのような数の専制・支配、こういってよければその strength とは無縁のところにあります。
 
ここで考えなければならないのは、ホモ・ファーベルが solitudine において制作する物の世界性(それは未だ、利害関心を拭い切れていません)と、公共性を兼ね備えた共通世界(それを我々は先に、美感的判断力として考察したばかりです)の差ではないでしょうか? いずれにせよ、その違いを巡って世界性のあり方が分割されていることは想像にも難くありません。前者は人と物の関係ですが、後者は人と人の関係です。アーレントにおける「世界」が複雑で錯綜としているのも、この分割線がなかなか分かりにくい描かれ方をしているからとも言えます。そして、人と人の関係が問題なところに(つまり、それが活動や言論の地平ですが)、人と物の有用性に根ざした関係を当て嵌めることは、人を物の地位に貶めていることにもなるでしょう。
 
奇しくも、資本主義社会では人は当然のように「人材」(正に材質 material としての人です)として扱われていて、その人材は有用かどうかで判断され、また自らも有用であることを欲するわけです。材質というのは既に、ホモ・ファーベルの力 strength により自然に対しある暴力 violence を振るうことで成り立つのは理解可能でしょう。(材料としての木、つまり木材は既に自然の木にある改変が加えられています)そして、今日その力は科学と手を結ぶことによって、無限の暴力を解放することにも成功し出したのですし、人間を材質としてのみ扱うことの壮大な実験すら、歴史上起き得たのです。
 
もちろん、我々は有用な道具なしの世界で生きることはできないでしょう。しかし、活動が忘れ去られ、それが政治化された時の結末は、当の人間性自体の破壊にしか行きつかないのは明白な事実です。
 
では、本来の意味での政治とは、一体何なのか? 支配でもなく正義でもない、自由と平等を“人々の間に”もたらす政治はどのようなあり方をするのか? それがある意味で、アーレントにおいて一貫して賭けられている、人間の活動力としての生の問題です。


(Ibid.)


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アーレント的パラドックスの根源について

2021-06-29 18:45:00 | Note
それは、どこに求めればいいのだろうか? 例えば、革命論においては“始まりの暴力性”が指摘され、革命における“創設的な行為”においては「自由」がそこになければならない。(つまり、アーレントにおいて始まりは矛盾点でもあり、躓きの印でもある)
 
アーレントに足りなかったのは、おそらくは円環の運動(循環運動)の回帰の必然性と論理的な直線運動の必然性の区別だった。彼女のマルクス解釈において、それは「自然的強制力」として理解されるに至る。しかし、それは正解にいうなら自然の強制力 force と“過去の始まりの”暴力 violence との結合・結び目としてある。自然的強制力が常に暴力としてあるとは限らないことが、この全体主義批判を企図した文脈においては見えない故に、ルソーの自然状態に“始まりの暴力”を見てしまっている。
 
そして、それら二つの運動の必然性の区別がないということは、回帰的な時間性と直線的に進む時間性との弁別が失われていることに等しい。
 
そう考えると、アーレント的なパラドックスを解く方法というのは、ある種の時間論の導入だということになる。(あるいは、回帰的な時間と直線的な時間の“間”に留まるということ)
 
あるいは、精神分析の用語にパラフレーズしてみるとどうだろうか? エスには強制力があるとも言える。だがそれは決して、その回帰的な性格が暴力であるとは限らない。その僅かで微小な偏差。そこに、自由や新しさの「経験」がある。こういってよければ、ある意図 purpose における目的=終わり end と目標 goal の位相差。
 
 
★アーレントの全体主義主義批判の文脈は、政治的な領域を手段—目的のカテゴリーとして捉えてしまうことへの警戒と結びついている。つまり、そのレベルでの〔制作のカテゴリーの〕政治化への企図は、自由ではなく支配にたどり着く以外にない。始まりは“予め”特定の目的=終わり end に結びついている。(これが、〈工作人〉の仕事 work の領域のあり方であり、それは道具的理性としての性格を保持している。工作人の力 strength とは、自然にある種の改変を加える物理的強制力 force でもあるが、それは活動の権力 power ではない。そして、その力 strength が支配に利用されれば、暴力 violence になりうる)
 
一方で、アーレントが全体主義への批判から本来の政治的領域を描こうととしたのは、その活動 action—正確には、活動の権力 power—には、目標 goal はあるが目的=終わり end があるわけではないことを指示するためでもある。
 
始まり beginning において、仕事=制作 work の領域と活動 action の領域は力動的に相入れない。始まりが暴力でもあり、自由でもあるという事態は、アーレント的なパラドックスの一つとして挙げられるだろう。(暴力は支配の一形態であり、自由でも権力でもないのだから、アーレントの困難はそれらの隔たりや移行にあったといえる)
 
《始めに行為があった。始めに暴力があった。始まりの権力や暴力は権威になった。》
 
 
■第二のパラドックス—世界の始まりと現れ
 
アーレントにおいて政治的な場を構成する「世界」はどのように現れるのだろうか?(また、その「世界」は全体主義によってどのような危機を迎えていたのだろうか?)
 
アーレントにおいて「世界」は、人間の「活動」のみならず、政治的および公的な空間を構成する要素であることは認められる。また、別の言い方をすれば、人間の“活動なき”世界は、公的とは呼べず私的な欲望—貪欲さや傲慢—によって“消費”あるいは“破壊”されることは著作からも窺い知ることができる。
 
政治的自由とは先ず、世界への現れとして実現する。(なお、先に述べたアーレントにおける始まりの暴力性の問題を、その英雄主義的で闘技主義的な特性に求めるむきもあるが、私はそれには与しない。活動にも、活動により生じる権力自体にも暴力はない。というのも、暴力は権力とはそもそも相入れないだろうからだ。そして、暴力による支配が向かう先は、その道具的な手段—目的論の偏向性からいって、人間の活動というよりは、“活動なき世界”とそれに甘んじる“労働する動物”の方だろう。)
 
では、人間の活動の世界への現れ—それは「勇気」による暴露的特性を保持している—は、どのような状態にあるのか?
 
アーレント政治学におけるギリシャ的な特性は、政治的自由の「現実化」がそもそも共通世界に結びつき、そのような共通性を保持したまた世界に現れることにある。(そのような事実に立脚したあり方を、アーレントは「ユニークな存在の逆説的な複数性」と呼び、その事実性こそが、政治的自由の基本要素としてあることが認められる)
 
また、そこでの自由の現実化は、アリストテレスの定義に従えば共通善を目標 goal にした、エネルゲイアとして考えられるだろう。(一方で、活動によって生じる権力 power は、そのような現れに対して、ポテンシャルとしての状態にある)
 
世界におけるエネルゲイアとデュナミス。この両者を同義として、あるいは同時に論じるところに、アーレント的なパラドックスは潜伏している。言い換えるなら、アーレントにおける「世界」は、公的である限りでは、既に“複数の”人々の「間」にある。
 
《エネルゲイアに対し、その目標を指示するデュナミスは文字通りポテンシャルの状態にある。行為と権威の源泉の違いとして。
 
古代からの主権権力 sovereignty の問題は、行為と権威の源泉を同一視することにより、人間の複数性の事実を傍に追いやり、自由意志を活動の中心に持ち込むことにある。これは後に、宗教的な葛藤としても浮上することになる。一方で、権威を構想力として、超越的な審級によらず構成するという問題もある。後者については、アーレントはカントの美感的判断力を参照にし、おそらくは約束や赦しの働きとして論述しているだろう。(我々はここでも、美の問題が人間同士の信頼や絆に結びつくことを確認する。全体主義における根源悪の問題が、この人間の繋がりを破壊し超え出てしまうことについては、また折を見て扱いたい。全体主義の罪とは、人間事象を超え出ており、人間の活動力としては扱えなくなることに注意が要る。おそらくは、メシアニズムが未だなお考察されなければならないのは、この根源悪の文脈においてだろう)
 
★アーレントにおいて、“共通感覚に根ざした”美感的構想力の政治的意図の問題は、自由や世界の/への「現れ」の一契機として、重要な側面を持っている。それは、活動に先立って、超越的な審級によらずに——故に、それは「生き生きとした経験」でもある——世界を判断する自由でもある。行為者 actor が世界に現れる以前に、世界は行為者の感性に潜在的に現れている。
 
 
■第三のパラドックス
 
カントの美感的判断力の政治性と物の世界の「間にある inter-est」こと(interest とは「利害-関心」の意でもある)、あるいは人間関係の「網の目 web」としての世界。
 
アーレントにおいて、活動と言論は人々の間で進行する。それは先ず、人々がその中を動く物の世界に関係し、物理的に人々の間にある。それは第一の介在 in-between であるともいわれ、利害関心 interest にも関係するのだった。しかし、この介在 in-between でさえ、全く異なる介在 in-between によって圧倒され、圧制されている。後者は、人間関係の網の目 web と呼ばれる。
 
そう考えると、アーレントにおける活動の暴露的なあり方は先ず、物の世界の客観的なリアリティの上で演じられ(故に、それは暴力とは異なる意味で危険なのである)、その活動と言論の過程は後者の触知できない網の目に影響を及ぼすということが理解される。(後者にももちろんリアリティがある)
 
最初のリアリティは物の世界の間にあるというそれであり、後者のは活動や言論が“既にある”人間関係に関わっているというそれである。
 
そして、言論による「正体=誰 who」(何 what ではない)の暴露と活動による新しい「始まり」は、常にこの“既に存在している”網の目の中で行なわれ、その直接的な結果も網の目の中で感じられるといわれる。そして、その活動の網の目への遡及効果には際限がない。(その際限なき遡及効果が、活動それ自体の“暴力とは異なる意味での”危険であり、その危険性故に活動にはある救済策 remedy が必要なのである)
 
 
ここに先ず、矛盾がある。アーレントは後にカントの美感的判断力に、カントは気づいてないかもしれないが極めて政治的な問題があるということを指摘していた。だが、カントにおける美感的判断力、その中でもとりわけ趣味判断における美の判定には“主観(主体)の利害関心の停止”という契機(カント自身の言葉では「関心なき満足」)が認められる。
 
私は先に、「行為者 actor が世界に現れる以前に、世界は行為者の感性に潜在的に現れている」と述べた。行為者が現れる世界性は人間関係の網の目の方であり、その現れ以前に行為者の感性に現れる世界は、“共通感覚や共通世界に繋がる”物の世界の客観的リアリティのことである。(しかしそれは、厳密にカントに従えば、“趣味判断においては”「主観的普遍妥当性」のことだともいえる)
 
つまり、『人間の条件』の頃のアーレントの活動と言論についての叙述は、二つのリアリティの間に連続性がまだあるとは言えないだろうか?
 
では、その両者を分離した意味で考える活動とその救済策は、如何なる関係があるのか? 活動以前の判断、それは物の世界のリアリティとして行為者の感性に現れているのだが、その判断こそが既に、活動に対して約束や赦しという救済策を“構成する”というあり方は考えられないだろうか?
 
私はここでアーレントの叙述に対し、あるアナクロニズムを導入している。通常、人間は過去に行ったことについて赦し、未来に約束する。そして、物の世界のリアリティを美の世界—しかし、美は対象の性質ではない—に置き換えてもいる。物の世界のリアリティが永続化され、記憶という意味で人間の生よりも長く残るためには、そのリアリティの変化が必須であるよう思われる。(美は有用性という尺度からは独立しており、物の手段—目的というカテゴリーからは離れた価値がある)

そして、活動が始める過程の不可逆性と予言不可能性に対する救済は、活動そのものの潜在能力の一つであるということは、アーレント自身が述べていることでもある。(『人間の条件』邦訳p.371)

★繰り返しになるが、仮にアーレント的な“活動の主体”という問題を構成するなら、それは美と自由の関わりにおいて考えられるだろうが、未だ理性に根拠を持っている“自由意志の主体”とは区別されるということに他ならない。また、このことは精神分析における「自由連想法」と関係があることも、別のところで示唆している。そして、アーレント的な活動の主体と自由連想を行う主体—分析主体—に共通なのは、理性的な伝達なのではなく、心情や感情の伝達なのである。ここで我々は、精神分析における自由連想の方法が、アーレント的な意味での活動に繋がるという奇妙な結論を得るに至る。分析主体になることは、既に“共通感覚 common sense に根を持った”活動の一環なのである。より踏み込んで言うなら、精神分析のもう一つの基本原則たる分析家の「平等に漂いわたる注意」こそが、カントのいう“共通感覚”の想定ないし効果—無規定の規範—でもある。(他方で、“自由意志の主体”によって論文作成術化に陥った精神分析のあり方は、その始まりから言って、支配や画一化といった問題と地続きなままであり続けるだろう)
 
 
ここまでの考察で、我々はアーレントが用いる「世界 world」という言葉、つまりはその「世界性 worldliness」に、様々な複合した形態があることを認めることができるだろう。その用いられ方は例えば、端的に「世界」という場合や、「世界への愛 amor mundi」、共通感覚の論点をも折り込んでいるだろう「共通世界 common world」、そしてその喪失である「世界疎外 world alienation」のように分節化が可能だろうし、アーレントはそれらを様々な文脈において、同時に(矛盾した形でも)使うこともある。つまり、アーレントにおいて「世界性」—そして、その「始まり」—とは様々なモードを持つ政治的な場のことでもあり、彼女の政治概念の根底にある問題だともいえる。またアーレントの政治思想は、その研究で名高いヴィラの表現を借りれば、皮肉交じりにも「ロールシャッハ・テスト」とも呼ばれる。「現れ appearance」の政治学と形容してもいいアーレントの思想を、私は世界の「物」の視点から移し替えて見ているとも言えるだろう。
 
しばしばその「活動」概念は人と人の間で行われることが重要視されるが、その舞台でもある「世界」は、物によっても成立している。世界の耐久性は、物が〔消費材ではなく〕使用対象物として存在することに由来したのだし、それは工作人が制作した世界でもあった。だが、活動においてその工作人の有用性の概念や手段—目的のカテゴリーを持ち込むことはできない(それは始まりの暴力にも転化しうる)。かといって、労働する動物のように消費することが、世界に安定性をもたらすわけでもない。そこで、美感的判断力が考察されたのだし、活動における永遠性のテーマが不死性とは異なる形で、美として、あるいは人間の記憶へと変換される形で保存-救済されるのだともいえる。
 
そう考えると、趣味判断は“現われの以前と以後”を架橋しているのではないかという疑問が浮かんでくる。美において、人間の活動力は世界に現われつつも、永遠として消え去る。だが、それは記憶として残り、その活動の物語や歴史として語られる。
 
『人間の条件 The Human Condition』のタイトルが当初、『世界への愛 Amor Mundi』になる予定だったことは知られている。ラテン語の mundus とは、ギリシャ語の κόσμος, cosmos の翻訳でもある。この含意を汲み取るなら、また我々はアーレントとアガンベンの思索における神学的なものの問題に出逢うことになる。
 
 
■第四のパラドックス—始めに愛があった?—公共性における赦し

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アーレント vs. アガンベン

2021-05-30 21:24:00 | Note
《不正の極地とは、実際には正しい人間ではないのに、正しい人間だと思われることなのです。》——プラトン『国家』第二巻631A
 
《すべての人は善人か悪人かではなく、正しいか正しくないかではなく、その中間である。》——アリストテレス『形而上学』第五巻 22(1023a5)
 
 

アーレントとアガンベンを分つもの。それは、法概念に対する依拠と理解、そして絶対的なものに関わる。

しかし、哲学者の系譜でいうなら、それはプラトンやアリストテレスによって用意された。それは、「活動」の領域を「制作」のカテゴリーによって置き換えるという「始まり」の転倒であった。(その問題の発見によって、アーレントがプラトンからマルクスに至る「伝統」を批判したことは既に紹介した)
 
では、活動を制作に置き換えることの何が問題なのだろうか?(それは、人間事象の偶然性をあたかも必然であるかのように見せかけ取り扱い始めるだろうし、そのことに付随して「労働」が人間の活動的生 vita activa の上位に置かれるというヒエラルキーの転倒をも招き、それが近代社会——つまりは、労働者たちの大衆社会——の特色となり、公的な領域の消失や破壊に至る。そのイデオロギー化が全体主義なのだった)
 
そして、アーレントにとって私的領域はというと、支配-被支配の関係——家長、家族、奴隷の関係——であり、“前政治的な場”なのだった。もう一方で、“善”は公にされるのなら腐敗を撒き散らし、それは公的な領域からは隠されなければならなかった。(ここに我々は、政治的な“行為のパラドックス”という問題を先に見た)
 
では、アーレントが依拠した古代ポリスにおける政治的参加への自由と平等——両者を潜在的に印付け、死すべき運命の人間に永続性を与えるものこそ、アーレントが理解したギリシア的な法である——と、ローマ法を参照にもつアガンベンの何が違うのだろうか?(アーレントにおいても、古代ローマ法の参照はないわけではないが、それはアガンベンとは趣きを異にしている)
 
確かに、両者とも法における“絶対的なもの”の問題は保持している。アーレントにおいて、絶対的なものの掛け金は「卓越性 excellence」のそれであり、その活動力が公的な領域に自由と平等をもたらすのだった。(このようなアーレントのスタンスが理想論的すぎるという批判は数多くある)
 
一方で、アガンベンにおける古代ローマ法は「例外状態 stato d’eccezione」としても分析されたし、それはおそらくは至高の絶対者の声や命令を前提としていた。そして、この当初にアガンベンが“暗黙に”前提とする垂直方向の絶対性(アーレントのそれは水平方向だといえる)が依拠している哲学的な問題は、始まりと終わりをもつアリストテレス的なカテゴリーと交差するのだった(それは、世界性 worldliness というよりはコスモス kosmos, κόσμος と呼ばれ、神の被造物の領域でもある)。そして、アーレントにとって“始まりと終わり”を持つのは活動ではなく制作の方なのであるから(活動は始まりがあるが予見できる終わりはない)、アガンベンとアーレントを分かつののは、神的な問題と人間的な問題を巡っての「制作」というカテゴリーの問題でもある。ただし、アーレントによる“人間の政治的活動の制作化”への批判は、それが用意する支配-被支配関係に向けられただろうし(その意味では、その批判は否定的である)、アガンベンの場合は、有限であり偶然性により絶えずおびやかされている人間的事象(そこにはコスモスのみならず世界性も含まれる)やそれらの破壊に対する神的な「秩序」と毀損の回復—つまり、摂理や救済—という意味合いを持っている。(もちろん、アーレントにも救済—許しや約束—というテーマはあるが、それは人間的な活動の一環として考えられている)
 
人間の活動の場(公共性とも言い換えられる)を用意する世界が、人間の手によるものなのか、あるいはそこに神によって造られたという被造物の問題や神的な秩序を見るのか?
 
おそらくは、アーレントがおかした過ちは、自らが活動の問題を制作に置き換えるというプラトンからマルクスに至る伝統批判をしたものの、その公共性を用意する世界性の樹立が、人間の手によるものという循環論法を免れていない点にある。アガンベンは、そこに人間の無為の能力(非の潜勢力)や神学的な思考を挿入する。(確かに、アーレントが批判するプラトンの政治性—哲人王支配—は、その転倒によって vita activa から vita contemplativa に優越性が移ったという見方は一面の真理を言い当ててはいるし、それによって革命がまた新たな支配-被支配の関係を必要としていまう事態も生じている。だが、アリストテレスによるプラトン批判は、それとは別の領域に vita contemplativa の優位性を見取ったのではないか?)
 
政治をも含めた公共性の領域は、人間のみの活動の領域なのか? あるいは、そこに神的なものを認めなければならないのか? そこでの始まりと終わり(だが、活動には予見できるような明確な終わり=目的はない)は、どのような時の問題を孕んでいるのか? このような難問はまた、政治的なものの掛け金や善悪の問題でもあるし、それぞれの真理観にも影響を及ぼしている。一つ言えるのは、「現れ appearance」とは常に善であるとは限らないという事実の真理 factual truth—イデアの真理ではなく—である。そして、事実の真理とは、理性による信仰や信念では最早なく、“感覚の基盤”という共有されうる現実—中間領域—である。

《私たちはここで、プラトンとプロタゴラスのどちらかを選択する必要もないし、万物の尺度が人間であるのか神であるのか決定する必要もない。確かなことは、その尺度は、生物学的生命と労働の強制的な必然でもありえないし、製作と使用の功利主義的な手段主義でもありえないということである。》——アーレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫版p.273)
 
 
★この覚書は、言うまでもなく精神分析について私がした批判(論文作成術化と労働運動化)と繋がっているし、語の十全な意味において、理論と実践の問題点が考察されていなかったことも指示している。また、別のところで人間の“最初の”道具の使用が自尊心の問題と結びつくことも、ルソーを通じて既に指摘していた。
 
尚、アーレントは行為から支配への逃亡をギリシア語とラテン語の二種類の「行為する」という動詞の用法の変遷としても分析する。第一に、一人の人物が行う「始まり」を表す archein, agere があり(これらは、アルケーと語源を同じにし、エージェントという動因を表す用語も示唆している)、第二に、複数者からなる、行為の企図とその達成までを表す prattein, gerere である。今出敏彦 (2013, pp.122-123) によれば、第二のものが行為一般を指すものとなり、第一のものが政治的用語として「始まり」から「導く」、「支配する」へと意味が特殊化された経緯がある。
 
以下は、今出からの引用である。《行為の持つ意味が分離して後者の政治的用語としての意味〔引用者注:「導く」、「支配する」のことだと思われる〕が強調されると、さらに第二の意味がその内部において、一方では支配者の命令と、他方では服従者の命令実行へと機能分化を遂げて、行為の重要な側面である、複数者からなる生きた行為の流れの過程的性格が脱落する。こうして、行為を放棄して制作を採用することで生じる変形により、行為の概念は支配の概念に置換される。》(ibid., pp.122-123)
 
アガンベンもまた、違った文脈からラテン語の agere, facere, gerere の区別を分析しているが、このことについてはまた別所にて確認したい。そして、アーレントとアガンベンを別つ決定的な差異は、「始まり」や「起源」を巡った“制作(製作)のカテゴリーの”問題系でもあるが、両者はまた、行為や活動というアリストテレス的政治学——それは、演劇モデルを採用している——において、補完し合っているとも見ることができるだろう。(余談になるが、アウグスティヌスにとって根本的だったのは、人間の始まりを示す initium であり、世界の始まりを示す principium の方ではなかったということは敷衍すべきだろう)

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