ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

ラテン帝国 L’impero latino

2020-06-22 19:00:00 | Agamben アガンベン
★以下に訳出を試みたものは、イタリアの新聞『ラ・レプッブリカ』に2013年3月13日に、フランスの新聞『リベラシオン』に2013年3月24日に掲載された、ジョルジョ・アガンベンの文章である。(原文サイト→https://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-l-impero-latino
 
 
1947年、フランス政府の高官でもあった哲学者アレクサンドル・コジェーヴは、それについてのアクチュアリティが今日省察し直すに適する、『ラテン帝国 L’impero latino』というタイトルのテクストを発表する。特異な先見の明でもって著者は留保なく、結果としてフランスをヨーロッパ大陸内の第二の勢力の地位に引き下げることで、ドイツは僅か数年内にヨーロッパ経済の主要国家になるだろうと断言していた。コジェーヴは、今日国民国家 gli stati-nazione が抑えがたく国家の諸境界を乗り越え、また“帝国 imperi”の名でもって規定していた政治的諸形態への段階に落ち込んだだろう同様、近代が国民国家の有利になるよう連邦的政治形態の没落を意味したように、その時までヨーロッパの歴史を意味した国民国家の終焉を明晰に見ていた。しかし、コジェーヴによれば、これら帝国から成る、文化の、言語の、生の諸様式の、そして宗教の現実的親近性を捨象する抽象化された統一体は存在することができなかった。諸帝国——彼がすでに彼の眼前に形成されたのを見ていたもの、アングロサクソンの帝国(アメリカとイギリス)とソヴィエトのそれのような——は、“超国家的な政治的統一体であるだろうが、しかし姻戚関係を結んだ諸国家により形成された”だろう。このため、彼は、それについて伝統を纏めたと同時に、地中海に開いているカトリック教会の協定によって経済的また政治的に三つのラテン大国(フランス、スペイン、そしてイタリア)を統一しただろう、ただ一つの“ラテン帝国”を念頭に置くことをフランスに提案していた。プロテスタントのドイツは、事実そうなったように、すぐにヨーロッパ内で最も裕福で有力な国に変わっただろう(アングロサクソンの帝国の諸形態あたりのヨーロッパ外の召命により情け容赦なく引き寄せられるだろう)と彼は論じていた。しかし、フランスとラテン的諸国はこの観点において、必然的に衛星国の周辺的役割に縮減されることで、多かれ少なかれ関係のない政体に留まるだろう。今日に特有なことは、ヨーロッパ連合 l’Unione europea〔EU〕は、文化的な具体的親戚関係がコジェーヴの提案を省察することに有益で緊急であることを無視したままに、形成されたということである。彼が予想していたことは詳細に確証された。生の形式の、文化の、また宗教の現実的な諸類縁性を放置したままでいることで、専ら経済的な基盤において存在することを強要する一つのヨーロッパは、(当に反対に経済的平面において)全てのその脆弱性を今日示す。ここに仮定された統一性は反対に諸差異を強く際立たせたし、また各々は、より豊かな少数の諸利益をより貧しい大多数に負わせる状態に落ちぶれることと関係がありうるだろう。そして、それら〔少数と大多数〕はよく、その最近の歴史の上に模範を考察することについて何も示唆しない、ある一つの国家の諸利益と同時に起きる。一人のギリシャ人、または一人のイタリア人が一人のドイツ人のように生きることを強く求めるのは、役に立たない唯一のことではない。しかし、このこともありうると仮定した時、これは、まず初めに生の形式によって作られたその文化的遺産の喪失を意味するだろう。そして、生の諸形式を無視することを要求するある政治的な統一性は、とどまることを運命づけられないだけではなく、また、ヨーロッパが雄弁に示すように、このように構成することすらできない。多くの兆候が予見させるように、もしヨーロッパが非情にも解体されることが望まれないなら、ある政治的現実性をコジェーヴがラテン的帝国と呼んでいたことに似た何かに返還することを試みることで、ヨーロッパ的な構成(それは、公法的な観点からそのことを覚えておくことがよいが、ある構成ではなく、しかし、このような、人民の投票に委ねられていない、また、フランスやオランダにおけるように、そこではそれがあったが、センセーショナルに拒否された、諸国家間の合意〔協定〕である)が違うように再び分節化されうるだろうといったように今や考え始めることは、配慮すべきである。

世界の終末について Sulla fine del mondo

2020-06-10 17:29:00 | Agamben アガンベン

世界の終末のテーマはキリスト教の歴史の中で何度も姿を現し、またいつの時も最後の日はとても近いと告げる預言者たちは現れた。今日、(教会は凋落するがままになる)この終末論的な任務は、絶対的な確実さでもって地上の生命の終わりをもたらす気候に関するカタストロフィーを予告し記述する、預言者として常により頻繁に引き合いに出される科学者たちによって引き受けられたことが特異的である。もし、現代において科学は信仰を代理し、ある実際的な宗教的役割を引き受けたことが考慮に入れられるなら、特異的なのは(しかし驚くことではない)、むしろあらゆる意味において(そこにおいて人類が信じる、あるいは少なくとも、信じていると信じる)私たちの時代の宗教だろう。

あらゆる宗教のように、また科学の宗教も終末論(即ち、恐怖の中で信者たちを維持しつつ、信仰を強化し、また同時に、聖職者の階級の支配を保証する装置 dispositivo)を欠くことはできなかった。この意味でGreta (1*) のような人の出現は兆候的である。Greta は盲目的に科学者たちが予言することや、2030年に世界の終わりを期待することにおいて信じ、まさに中世における千年至福説信者たちとして、世界を審判することへのメシアの差し迫った回帰において信じていた。少なからず兆候的なのは、(唯一の要因—大気中のCO2のパーセンテージ—についての黙示録的諸診断に集中しつつ)驚くべき無垢さでもって人間性の救済は原子核エネルギーにあると表明する科学である、Gaia理論の考案者のそれとしてフィギュールである。両方のケースにおいて、賭け金が宗教的であり科学的でない性格を持っていることは、歴史のキリスト教的哲学によって扱われる用語—救済 la salvezza—をそこに敷衍する、中心的な機能の中で変形される。

現象は、科学が決してその固有の諸任務のあいだで終末論を枚挙せず、また予言的な新たな任務の引き受けが、そこで出現 l’avvento を産出するカタストロフィーにおいて固有の否定できない責任の自覚を表すことが可能である限り、より不安を誘う。当然、あらゆる宗教におけるように、科学の宗教もその不信心者たちと反対者たち、つまり現代の他の広大な宗教—金銭の宗教—のシンパたちを保持する。しかし、分割された見かけの中で、二つの宗教は秘密裡に連帯している。科学(科学者たちが今日告発する破局的状況を定めた技術と資本)のあいだの常により緊密な同盟は確かにあったのだから。

これらの考察は、産業革命が生けるものたちの物質的かつ霊的な諸状況の中で生産する汚染ならびに有害な変化の問題の現実性に関して明確な態度をとることを意図しないのは、明白であるだろう。反対に、宗教と科学的真理のあいだの、また預言と明晰さのあいだの混乱に対し、利害関心〔私利私欲〕のある側面から無批判に、(最後の分析の中で政治的である以外にありえない)固有の選択と固有の判断を人々に命じさせることは問題ではないことを告げる。

2019年11月18日
ジョルジョ・アガンベン

原文サイト→https://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-sulla-fine-del-mondo

訳注(1*) Greta Thunberg(グレタ・トゥーンベリ):スウェーデンの女性気候変動問題活動家。