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per l/a psicoanalisi

Mysterium iniquitatis - La storia come mistero

2018-09-28 17:00:32 | Agamben アガンベン
〔翻訳者注記:以下の一節は、2013年にイタリアで出版された『悪の神秘—ベネディクト16世と時の終わり』の中に収められている「Mysterium iniquitatis—神秘としての歴史」から訳出した。これは、2012年11月13日にスイス・フライブルクの会合にて発表された未刊のテクストの掲載である。〕


4.
Odo Casel—そして、彼の信奉者において、二十世紀の“典礼的運動 movimento liturgico”と呼ばれた事柄—が、典礼の聖霊からの教会の復興のそのプロジェクトを基礎づけたのは、この語の正確な翻訳においてである。既に彼の学位論文 De philosophorum graecorum silentio mystico(ギリシア諸哲学の神秘的沈黙について、1919年)の中で、Casel はギリシア語において mysterion は、ある言説の中で公式化されるだろうが、しかし明らかにすることを禁止された、秘密の教義 una dottrina segreta を規定しないことを示す。mysterion の語彙はむしろ、ある実践、行為、もしくは語の演劇的でもある意味におけるドラマ(すなわち身振りの一致、ある行為もしくは、ある神性な情熱がそれらを共有する人々の救済のための世界や時間の中で、これらを通じて効果的に実現化する行為と言葉の)を示す。このため、アレクサンドリアのクレメンスは、エレウシス的なミステリーを drama mysticon(“ミステリー的ドラマ dramma mistico” (Clemente, p. 30))と呼び、その結果としてキリスト教的告示 il messaggio cristiano を“ロゴスのミステリー mistero del logos” (ivi, p. 254) として定義する。
教会学的な論争において、典礼的運動を考慮に入れつつ、ピウス7世が回勅 Mediator Dei〔神々の仲介者〕によって解決しようとした、教義 dogma についての典礼の優位か、典礼についての教義の優位かをここで決めることは私の意図ではない。むしろ、Casel が典礼についての彼の論文にて、mysrerium の語に関して成し遂げた“神学的文献学”の並外れた課題を遠ざけることが妥当だと私は思うし、教義 dottrina についての典礼の優位に関する彼の諸理念を、彼がヘレニズムのミステリーの語彙からの用語の派生について書くことが如何に本質的に正確かを説明するために共有する必要はないと思う。Casel は、それでもやはり、Isaac Casaubon(近代語源学の創始者の一人)の Exercitationes de rebus sacris (1655) へ遡らせられうる、ある古代的伝統以外に再開しない。

La ragazza indicibile - Mito e mistero di Kore (2010)

2018-09-03 08:44:30 | Agamben アガンベン
IV
1921年に、ラインラントにある Maria Laach の修道院において、Odo Casel というベネディクト修道会の無名のある修道士が、もっと後に“典礼の運動 Movimento liturgico”と定義され、またその名の下に、カトリック教会の中で巨大な影響を行使すべくだった事柄の宣言の一種である、『神秘的祝典としての典礼』(Die Liturgie als Mysterienfeier) を公表する。Casel によれば、もしそれが、その本質において、教義ではなく神秘であり、このように、それが異教的であり、エレシウス的、魅惑的で謎めいた神秘との創世的な関係を引きずり込むことが理解されないなら、キリスト教の典礼の真の本性は了解されない。すでに1918年の彼の論考(『De philosophorum graecorum silentio mystico』というタイトルで刊行された)において、若き修道士は異教の神秘は、言葉の中で表明されうるだろうが明らかにすることは禁止されていた、隠された教義を含まないことを示していた。起源において“神秘 mistero”はただ、それらを通じて神の行いが人間の救済のための時間と世界において有効に現実化される、実践、身振り、行為、言葉を意味する。
同様に、キリスト教の典礼も、その中でキリストの贖いの御業が教会において、またそれを介して現在化する、ある“神秘的祝祭 festa mistica”である。Casel によれば、“神秘的な実在 presenza misterica”という表現はトートロジーであり、何故なら、実在は典礼的神秘と同様の本性に属するからである。神秘において実在していることは、歴史的個人としてのキリストと同じではなく、しかし、秘跡において間違いなく成就される、その“救済的行為 azione salvifica” (Heilstat) と同じである。“カトリック的典礼のより固有な力は、対象となる神秘が存在するそれであり、またキリストの救済的行為の実現性 (Wirklchkeiterfülltes) で満ちていることである”と、Casel は書く。

Casel が語る“実現性 effettualità”は、神学的な伝統が典礼的行為の ex opere operato〔為された業から〕の効力の教説の中で定めたそれである。それは仮に、ある女性に秘跡を与える聖職者が彼女に性的に乱用するつもりでそれ〔典礼的行為〕を為すのかどうか、または酔っているのか、あるいは罪深い〔邪な〕思考から逸らされているかどうかもまた意味し、秘跡の救済的行為はいずれにせよ、それが司教に依存しているのではなく、キリストに(つまり、その“神秘的な実在”に)依存しているが故に実現化されるのである。キリスト教的神秘の効力はどのみち、またあらゆる可能な状況において、それが人間の業ではなく、神の業であるから保証されている。

異教的神秘の典礼のこの縮小できない効果からより遠いものはない。『黄金のロバ』の最後で、ルキウスがイシスの神秘への彼のイニシエーションを描く時、彼はそこに発見した救済は“不安定である precaria”と定義する (ad instar voluntariae mortis et praecariae salutis)。いかなる確実性もそこにはなく、しかし闇に向かい、あるいは冥界の神々と天上の神々の間で宙吊りにされた小道の上にある、薄明かりの中で存在している一つの進行がある。これらはとりわけ夢の中で対になり、それらがもたらす救済は本質的に不安定であり、何故なら、識別できなく、また高きものと低きもの、光と闇、眠りと目覚めの間の当惑の地帯において、それ〔救済〕は生起するからである。

ラテン語において、praecarius は、ただ praex(quaestio からは区別された、ある言葉の要求)を通じてのみ達成されることである。quaestio は達成されるのを欲することの成就を確実にする適正を備えたあらゆる手段によって為されたある要求である(このため quaestio の用語は終いには、それが常に欲されたことに達せられる拷問を示すようになるだろう)。
もし、この意味において、キリスト教の神秘が常に有効であるなら、不安定性〔不確実性〕precarietà は、その中で異教の入信者が動く—冒険的で夜の—次元である。

アプレイウスの小説は、神秘的イニシエーションについての闊達な描写を私たちに提供する古典古代の比類なき文書である。しかし、これは小説に含まれていたので、学者たちがそれについて然るべき評価を行なったのは常ではない。だが、ジャンニ・カルキアの見事な洞察によれば、本質的な繋がりがあるのは小説と神秘の間のみならず、むしろ、私たちに神秘の感覚を了解させるようにするのに相応しい小説の形態である。従って、小説において多分初めて、冒険と主人公の曖昧さが詳細に、イニシエーションの行程の不安や良心のとがめに、希望や絶望に対応する仕方で、人間的で現世的な要素が神性のできごとの媒介物に(おそらくパロディ的にであろう)なるのである。小説の主人公の周りに織り込む状況や出来事、関係や境遇のもつれ合いは、同時に、(説明しないことが問題であり、しかし、あるイニシエーションの内部として注視することが問題な)神秘としてその生を構成することである。
そしてもし何処からか、古代的神秘の反響音をとらえることが今日私たちに課せられるなら、このことは小説の形態 la forma-romanzo の中の生の枯渇したもつれが解かれることにおいてであり、典礼の効果的な〔説得的な〕豪華さにおいてではない。生それ自体が、同時に、それについての伝授者であり唯一の内容である、mysterion の前に私たちを置く小説、『黄金のロバ』におけるルキウスやジェームズの『ある婦人の肖像』におけるイザベル・アーチャーは何が問題なのか。